作品番号 2020-211
端午
涼風清爽夕陽汀 涼風 清爽 夕陽の汀
端午遊行宿旅亭 端午の遊行 旅亭に宿す
粽供屈魂傷志習 粽 屈魂に供し 志を傷む習ひあり
遠雷獨坐掲杯銘 遠雷 独坐し 杯を掲げて銘す
<解説>
昨年五月、木曽駒高原に家族旅行をした。残雪は山陰にあったが、コブシは開花していた。
二〇〇四年九月中国旅行の時、長沙よりバスで洞庭湖畔を経て岳陽に行った。屈原縁故の汨羅は車窓より眺めた事を回想する。
端午は屈原の命日と言われる。
<感想>
前半は言葉が滑らかに紡がれています。
転句は「端午」に絡んだ故事を入れたものですので、屈原を思う気持ちが伝わるかどうかですが、よく出来ていると思います。
ただ、承句で「宿」にしましたので場面としては夕方から夜ですので、どうして屈原のことを思い出したのかが疑問になります。
となると、承句で「渓水」の近くに佇んでいるようにしたいですね。
下三字だけの変更で、起句を「遠峰青」、承句を「立碧汀」のようにしてはどうでしょうね。
結句は承句との関わりで行くと、「獨坐」は要らないので「獨聞」、そして最後を「宿山亭」とすると、時間の流れも落ち着くと思います。
2020. 7. 6 by 桐山人
作品番号 2020-212
孟夏
新葉萋萋孟夏園 新葉 萋萋と 孟夏の園
爽風C籟滿柴門 爽風 清籟 柴門を満たす
透簾碧落望飛燕 透簾の碧落 飛燕を望む
閑適詩箋坐小軒 閑適 詩箋 小軒に坐す
<解説>
新型コロナで世の中騒然の折、独り草庵に坐す。
<感想>
初夏の趣がよく出ていますね。
起句の「萋萋」は草が茂ることを表しますので、できれば「新草」が良いでしょう。
樹木が繁った景色ということでしたら、「鬱鬱緑陰初夏園」という感じでしょう。
承句は工夫があって良いですね。
転句は「簾」越しになりますので、「碧落」と更に「飛燕」まで「望」むのはやや苦しいか。
「碧空窓外望飛燕」と「窓」にすると視界が広くなると思います。
結句は「閑適」と「詩」と両方を一度に入れようとしましたが、「詩箋」では唐突で浮いていますね。
「求詩」として下三字に繋げるようにしてはいかがでしょう。
2020. 7. 6 by 桐山人
作品番号 2020-213
正陽即事
晴和風爽放情游 清和 風爽にて 情を放って游す
灌水潺潺遶野流 灌水 潺潺と 野を遶りて流る
秧稲麥波生氣滿 秧稲 麦波 生気満つ
拷A芳草勝花秋 緑陰 芳草 花秋に勝る
<感想>
「正陽」は陰暦四月ですが、起句は「晴和」か読み下しの「C和」なのか、どちらでも意味が通じるところが悩ましいですね。
広がりがあり、奥行きも感じられる内容になっていると思います。
転句は「麦波」と合わせるならば「禾役」(植えた稲の列)が良いでしょうね。
結句は「勝花秋」ものとして「緑陰」「芳草」では弱く、このままですと「春よりも草や葉が多く繁っている」という勝負のようになりますね。
こちらに転句から「緑陰生気勝花秋」と持ってきてはどうでしょうね。
2020. 7. 5 by 桐山人
作品番号 2020-214
郊村萬花無看人
東風一路及芳春 東風一路 芳春に及び
山野郊村萬物新 山野 郊村 万物新たなるも
疫病渡瀛侵世界 疫病 瀛を渡り 世界を侵し
出遊自肅内憂頻 出遊 自粛 内憂頻りなり
<感想>
前半の春の好景から一転、コロナの災厄へと移るところは明瞭ですね。
若干、前後が別々の詩のようにも感じますのが、「出遊」でうまくまとめたというところでしょうね。
一番望ましいのは「春遊」でしょうが、韻字でもありますので、「C遊」などもあるでしょう。
2020. 7. 5 by 桐山人
作品番号 2020-215
初夏偶吟
花園C晝拷A稠 花園 清昼 緑陰稠し
新樹陽光鳥語柔 新樹 陽光 鳥語柔らかなり
躑躅紅霞詩景好 躑躅 紅霞 詩景好し
薫風閑坐意悠悠 薫風 閑坐 意悠悠たり
<解説>
近所の公園を散歩すると、季節が初夏へと移り、新緑やつつじに癒やされました。
<感想>
起句ですが、「花」園に「緑陰稠」となるのは違和感がありますね。
「庭園」「小園」としておきましょうか。
同様に、「緑陰稠」と言った直後に「新樹」となるのもしつこいです。あまり新緑のことを出してしまうと、次の「躑躅」が弱まってしまいます。 溢れるような初夏の日差しという感じで「滿目」「燦燦」などとしておきましょう。
転句はツツジの垣根が続いている光景でしょうね。「霞」が適するかどうか、「紫牆」「紅垣」などです。
結句の「閑坐」は、どこに坐っているのか。ベンチとか芝地にでも座ったということでしょうが、いつの間にか家に戻ったような印象です。
風を表す言葉で「薫風爽爽」「薫風颯颯」として下の「悠悠」と対応させてはどうですか。
後は「闊歩」と収めても良いですね。
2020. 7. 5 by 桐山人
作品番号 2020-216
驟雨
白日雲奔殷殷雷 白日 雲は奔り 殷殷たる雷
狂風飛雨入窗來 狂風 雨を飛ばし 窓に入りて来たる
炎威一洗天如水 炎威 一洗す 天は水の如し
草木萋萋生氣回 草木 萋萋 生気回る
<解説>
雷が鳴り、風雨激しく、土砂降りになりました。夕立の後は涼しくなり、草木も蘇ったようでした。
<感想>
起句の「白日」は「輝く太陽・真っ昼間」と両方の意味がありますが、どちらにしても輝く日光を表します。
そこから「雲奔」、そして「殷殷雷」と天候の急激な変化を示した後、「狂風飛雨」とする展開は良いですね。
ただ、「入窗來」の主語は「風」でやや離れていること、中二字が「飛ぶ雨」としてこちらも主語と取れることもあり、ここは「帶雨」とすると誤解が無くなります。
転句は良いですね。
結句の「萋萋」は草が茂ること、雰囲気は分かりますが、雷雨と直接の関係があるわけではないですね。ここは「鮮鮮」「青青」くらい、下三字を変えるなら「生生」も良いでしょう。
2020. 7. 5 by 桐山人
作品番号 2020-217
春日即事
庭院樹木甑メ差 庭院の樹木 緑参差たり
村落圃畦春雨滋 村落の圃畦 春雨滋し
安座茅庵聞杜宇 安座する茅庵 杜宇を聞く
樂天心緒獨敲詩 楽天の心緒 独り詩を敲く
<解説>
今年の春は庭でウグイスの鳴き声を多く耳にしました。
<感想>
起句の「院」は仄字ですので、ここは直す必要があります。「庭」を二字目に持ってくれば解消します。
ただ、場面の流れを見ると、起句で単に「庭」と書かれていれば通常は自宅の庭と考えます。
承句は「村落圃畦」ですので、流れから行くと庭の向こうに見えた様子かな、と思うと、下三字で「春雨滋」、これでは遠くは見えませんから村に出かけたのか、となり、転換がきつく感じます。
更に転句で「茅庵」ですので、これは散歩途中に立ち寄った「庵」かもしれませんが、最初の「庭」が響いて「自宅」という線も捨てきれません。
「庭」をやめて最初から外を歩いていたという形にするか、「春雨」をやめるか、どちらかでしょうね。
転句の「杜宇」はホトトギスですので、季節が合いませんね。「聞鳥語」か、挟み平で「聽鶯韻」としましょう。
結句は良い句になっていると思います。
2020. 7. 5 by 桐山人
作品番号 2020-218
初夏感懷
秧風輕燕有鳴蛙 秧風 軽燕 鳴蛙有り
村落良田景色嘉 村落の良田 景色嘉なり
塵境沈思閑日月 塵境に沈思 閑日月
千憂鎭靜煮清茶 千憂 鎮静 清茶を煮る
<解説>
コロナ生活で家の周りの生活が多くなり、季節の変化を感じる時間が増えました。
<感想>
起句の「秧風」「燕」「蛙」と初夏を表す「物」を並べ、それを承句で「景色」とまとめるところはとても良く出来ています。
承句は「良」が感情を出して「嘉」とぶつかりますので、叙景に徹し「田」、季節を言うなら「初夏郊村」などが良いですね。
この詩では、周りの環境を佳しとしているわけですので、転句で「塵境」と言う必要があるか疑問です。
「C境」と逆にした方が良いですが、結句の「清」とぶつかりますので、「閑境沈思寧日月」(閑境 沈思 寧たる日月)とするとか、結句の方を「新茶」とするのもありますね。
語を入れ替えるなら、「日日閑安對C節」なども。
結句も「千」だと多過ぎますので、「百」くらいで、極端にするなら「些憂」でも良いと思います。
2020. 7. 5 by 桐山人
作品番号 2020-219
初夏即事 一
林中和鳴拷A遮 林中 和鳴 緑陰遮る
碧宇薫風蕎麦花 碧宇 薫風 蕎麦の花
閑話閑佇游子意 閑話 閑佇 游子の意
笑談佳宴信休嘉 笑談 佳宴 信に休嘉
<解説>
この時期に、仲間と歩いていた事を思い出して作りました。
<感想>
起句の「鳴」は『大漢和辞典』には平韻・仄韻の両方が載っていますが、漢詩ではまず使われません。
そうなると、読者にいちいち説明することはできないわけで、「平仄間違い」と解される可能性が高いので、避けるならば「和韻」「和響」としておくと良いでしょう。
承句は、先ほどまで林の緑陰の中に居ましたので、「蕎麦花」を見るのに「碧宇」ではおかしく、「碧野」の方が良いでしょう。
転句は「游子」よりも「游歩」でどうですか。
2020. 7. 5 by 桐山人
作品番号 2020-220
初夏即事 二
雨餘竹徑好風迎 雨余 竹径 好風迎ふ
拂地萋萋半夏生 地を払ひ 萋萋 半夏生
幽意喫茶茅屋下 幽意 喫茶 茅屋の下
素懷拈筆一詩成 素懐 筆を拈る 一詩成る
<感想>
前半は「半夏生」を登場させて、きれいにまとまっていますね。
後半も丁寧に書いていますが、前半との繋がりが切れていて、「半夏生」が出てきただけで終ってしまうのが残念です。
「白葉穂花幽院下」「緑葉白斑花穂下」など、半夏生の描写を入れる形。
少しだけでも「幽意賞花茅屋下」として花との繋がりを入れるとか、結句で半夏生の描写を入れると、全体がまとまりますね。
2020. 7. 5 by 桐山人
作品番号 2020-221
梅天偶成
絲絲細雨灑清池 絲絲たる 細雨 清池に灑ぐ
陌畔紫花含露垂 陌畔の紫花 露を含み垂る
廣大秧田蛙市噪 広大な秧田 蛙市噪ぐ
天空隠映眖村祠 天空 隠映 村祠眖(かす)む
<感想>
今年は梅雨が長く、各地で雨の被害が出ています。
「線状降水帯」という目新しい言葉も聞き慣れてしまったようで、梅雨明けはまだ今週は無理なようです。
雨に煙る田や村の景色は私たちに馴染みのもの、緑水さんの詩で穏やかな気持ちが蘇りました。
丁寧に画面を描かれていると思いますので、二点だけ、気になった点を。
起句の「清池」は、ここで「清」と出してしまうと、全体の色調が早く出過ぎに感じます。
この後の景色を色々と眺めながら、「清々しいなぁ」と読者が感じてくれることが大切で、初めに言われるとそういう目で見なくてはいけないような気になります。
「古池」くらいが手頃ですが、平仄が合わないので、「幽池」とか、探してみてはいかがでしょう。
結句の「天空」ですが、「絲絲細雨」と実際に雨が降っている状況ですので、あまり遠くまで眺めるのは違和感があります。
「陌畔紫花」からの流れで転句の「廣大秧田」までは分かりますが、そのまま遠景を続けるのはどうでしょう。
一旦視線を戻した上で、「村祠」で収束するのが良いと思います。
2020. 7.18 by 桐山人
2020. 7.21 by 桐山人
作品番号 2020-222
紫陽花
懶出梅霖野老家 出に懶し 梅霖 野老の家
麗粧沾雨紫陽花 麗粧 雨に沾る紫陽花
青青白白色相和 青青 白白 色相和む
鬱鬱日中間忘季 鬱鬱たる日中 間(しば)し季を忘れる
<感想>
こちらは韻字で悩むところがありますね。
まず、結句の「季」は去声で、全く韻が違いますが、何と間違えたのでしょうか。下平声六麻韻では似たような意味の字は見当たらないのですが。
また、転句の「和」ですが、これは「わす」と読んで「調和する」の意味で理解しないと、「なごむ」では下平声五歌韻で平声になってしまいます。
送り仮名の「む」を「す」にすれば解消します。
内容的には、起句の「懶出」と結句の「鬱鬱」は同じようなことを言っています。結句でまた気分が重くなる必要はないでしょうから、「鬱鬱」は起句の頭に置いて、結句は別の言葉を探してはどうでしょう。
その結句ですが、紫陽花の美しさに「時を忘れる」のは分かりますが、「季節を忘れる」というのはおかしく、紫陽花も梅雨の時期を代表する植物ですので、そういう点でも結句は再考が良いでしょうね。
2020. 7.18 by 桐山人
2020. 7.21 by 桐山人
作品番号 2020-223
紫陽花
玲瓏少女画図同 玲瓏なる少女 画図に同じ
和楽吟詩楽未終 和楽して詩を吟ず 楽しく未だ終わらず
日暮雨声夢醒後 日暮雨声 夢醒めて後
午閑雨沐紫陽紅 午閑にして雨沐する 紫陽紅し
<解説>
絵画のように美しい少女に出会う。
少女に導かれるがままに進むと、人々と楽しく歌いあっていた。
自分も輪に入り、楽しく過ごしていると遠くから雨音が聞こえてくる。
目を覚ますと、雨に濡れた紫陽花が鮮やかに咲いていた。
<感想>
題名から紫陽花の話かなと思って入っていくと、いきなり幻想的な世界に引き込まれますね。
美しい少女の登場、作者のロマンティズムが感じられますね。
せっかく登場したわけですので、承句はもう少し「少女」の姿を描いても良いかなと思います。
承句は「楽」が重複していますが、「やわらぎ楽しんで詩を吟じ、その楽しみはいつまでも終らない」という形で意図を持った「強調表現」と解することができますね。
しかしながら、転句の「雨」と結句の「雨」は強調とは取れません。
また、「日暮」と「午閑」のずれも気になります。
「日暮」は夢の中だということかもしれませんが、時間が経ったということを言うなら他にも表現はあるわけで、違和感を与える表現は不用意ですね。
ここは転句の上四字を直す方向で考えましょう。
2020. 7.18 by 桐山人
この度はご指導いただき、誠にありがとうございました。
転句の上四字を、なるべく簡潔な描写になるよう手を加えました。
まだまだ思うように描けないところがあるのですが、まずは丁寧に目に映るものを描写してみたいと存じます。
作品番号 2020-224
初夏偶成
混沌世情窮苦時 混沌たる世情 窮苦の時
脅威疫病未知衰 脅威の疫病 未だ衰えを知らず
晴天五月經深緑 晴天の五月 経に深緑
何日拾収山野嬉 何れの日か拾収して山野を嬉しまん
「窮苦」: 苦しむ
<感想>
前半でコロナウイルス蔓延に苦しむ状況、転句では初夏を迎え、野山も深い緑に包まれたという描写で展開させ、結句でコロナを終息させ野山を楽しみたい、という形でまとめ上げていますね。
起承転結のお手本になるような構成で、納得できる内容になっていると思います。
承句の「未知衰」は「未知の衰え」かと思いました。
分かりにくい(私だけかな?)ので、「未消衰」ではどうでしょうね。
2020. 7.18 by 桐山人
作品番号 2020-225
悠悠自適
嬌鶯杜宇競鳴朝 嬌鶯 杜宇 競鳴の朝
度野薫風顫稲苗 野を度る薫風 稲苗を顫(ゆら)す
世俗昏迷天外事 世俗の昏迷 天外の事
調和萬象自逍遙 万象に調和して自ら逍遙す
「嬌鶯」: 鳴き声の良いウグイス
「杜宇」: ホトトギス
「世俗昏迷」: ここは新型コロナウイルスに翻弄される世間
「逍遙」: 物事のあるがままに任せてこだわらないこと
<感想>
起句で二つの鳥を出して、声を楽しむというのは、季節の動きを捉えて面白いですね。
こちらの詩は、前作と逆に、前半で初夏の景、転句から人事へと転換しています。
結句の結びに前半の景との繋がりがもう一言くらいあると良いかな、という感じはしますが、前半の描写が印象深く、それが引きずられていて気持ちは伝わります。
ただ、「調和」は、この場合の「和」は仄声になりますので、例えば「悠然佳景(節)」のように、前半をひとまとめにする形で検討してはいかがでしょう。
2020. 7.19 by 桐山人
作品番号 2020-226
春江舟遊
一日賜公暇 一日 公暇を賜り
春江泛畫舟 春江 畫舟を泛ぶ
青山臨柳岸 青山 柳岸に臨み
白鳥下芳洲 白鳥 芳洲に下る
胡蝶宿蘋睡 胡蝶 蘋に宿りて睡り
小魚吹浪遊 小魚 浪を吹きて遊ぶ
悠然望此景 悠然として此景を望めば
不覺忘官愁 覚えず 官愁を忘る
<感想>
春燕さんは二十代後半、落ち着いた内容の五律で、詩作を楽しんでいらっしゃることが伝わります。
首聯と尾聯の四句で、詩の言うべきことはまとまっています。
簡単に言えば、「春の休日に船で景色をのんびりと眺めて、日頃の疲れを癒やした」ということですが、四句とも内容がよく伝わる表現になっていますね。
七句目の「此景」を「好景」にすれば、これだけで五言絶句として十分通じます。律詩の基本というところですね。
その上で、では「此景」はどんな風景だったのでしょうか、ということが中二聯で具体的に描かれるわけで、絶句ではなかなか描ききれない立体感、奥行き感など、律詩という形式を選んだ効果と意図が伝わります。
順に表現に気を付けて見ていきますと、
第二句の「畫舟」はきれいに彩られた舟ですので「遊覧船」でしょう。
自分で舟に乗ることが少ない現代ですし、事実の通りで悪いわけでは無いですが、結びの心情から考えると周りに人が居ない方が良い感じ。また、「畫」は「畫樓」「畫舫」のように宴のイメージもありますので、多少の脚色を入れて、「獨泛舟」も有りかと思います。
対句も工夫されていると思いますが、「白鳥」がここで出てしまうと、頸聯からの「胡蝶」「小魚」と同じ生き物繋がりが生まれてしまい、三四五句がひとまとまりのような印象になります。
生き物以外、つまり叙景で頷聯をまとめておくと、頸聯の生き生きとした春の生命感が引き立てられると思います。
尾聯の最後ですが、「不覺」と「忘」は同じですので、ひとまず「忘」を「去」としてみると、違いが分かると思います。
細かい所を言いましたが、最初に書きましたように、作品としては良くまとまった律詩になっています。
次回作を楽しみにしています。
2020. 7.19 by 桐山人
作品番号 2020-227
憶疫病
武漢宿痾氾四溟 武漢の宿痾 四溟に氾がる
断腸破夢不堪聴 断腸 夢を破つて 聴くに堪へず
杏林湯薬安心法 杏林の湯薬 安心の法
今夜治人夢忽醒 今夜 人を治す 夢忽ち醒む
「宿痾」: 流行病。
「氾四溟」:四方の海に氾、世界に広がる。
「杏林」: 名医。
<感想>
起句の「宿痾」は「以前からの病・持病」を指します。
また、「氾」は仄声で使いますので、この句は「四字目の孤平」になっていますので、ここを「妖痾」としておきましょう。
結句の「治」は「おさめる(政治)」の意味で仄声、「なおす(治療)」では平声、ここはバッチリですね。
コロナは東京でも全国でも感染者が過去最多の日が続いています。
深渓さんも、当分は海外旅行に行けなくて残念ですね。
感染にお気をつけてお過ごしください。
再会を楽しみにしています。
2020. 7.19 by 桐山人
作品番号 2020-228
途
世途苦境衆多呻 世途 苦境で 衆多が呻く
減悩説教救済人 悩を減じる 説教は 人を救済する
望宙萬花生共感 宙を望む 萬花に 共感を生み
体心捨煩従天倫 体と心の煩を捨て 天倫に従ふ
<感想>
こちらの詩は、向岳さんの「悟」を再敲されたものですが、題名も内容も大きく変わっていましたので、新たに投稿という形で載せさせていただきます。
前半は具体的な描写になっていると思います。
承句は平仄が合いません。「教」は使役で「しむ」と読む時以外は仄声ですので、この句は上六字が全て仄声となります。
内容的には起句と繋がっていますので、うまく収めたいところ。
「減悩法輪周救人」「悩みを減ぜんと法輪周(あまね)く人を救ふ」でしょうか。
転句は言いたいことがよく伝わりませんが、何となく幸せそうな雰囲気だけは分かりますので、良しとしましょう。
結句は、ここも平仄が違いますね。
「煩」は平声、「従」は平仄両用ですが「したがう」の意味では平声、結局、「二四不同」「下三平の禁」を破っています。
平仄両韻字は意識をして、辞書で確認をするようにしましょう。
「厭離」とか「解脱」とか仏教語を使う形で、「六根清浄」などもそのまま入りそうですね。
2020. 7.19 by 桐山人
作品番号 2020-229
哲
花命期間短 花の命は 期間短し
人名終古長 人名は 終古長し
限生眞可励 生ある限り 眞(しんに)励むべ(可)し
罩意慎応強 意(こころ)罩(こ)めて 慎を応強
<感想>
起句は「花命短」の三文字で済み、「期間」は余分な言葉。そういうことで言えば、承句も「人名長」で十分ですね。
余分な言葉を省いて、では何を入れるかと考える、例えば、どんな花にするのか、「人」はどんな人、「名」はどんなことを指すのか、そういう所で具体性を加えることが「絵を描く」ことでもあります。
例えば、「倏忽桜花落 精誠名節長」(倏忽として桜花は落つるも 精誠たる名節は長し)
転句と結句は同じことを言い換えているだけですので、どちらかにすべきですね。
「限生」は語順も逆ですし、「生ある限り」は日本語のままです。「人生」としたかったところでしょうが、承句で「人」を使ってしまって苦しくなりましたか。
先ほどの私の例を使うなら、「人生眞可励」と書くことができますね。
最後の一句は要のものですので、再考をお願いします。
今回の主題である「人生をしっかり生きよう」ということを、作者はどのような具体的なことから導き出したのか、そこが描けると説得力が出ます。
この主題自体は誰もが分かっていることで、「言い古された」とも言えること、ですからどうしても作者自身の気持ちを伝えてほしいわけです。
そうでないと、ただ洒落たことを言っているだけという印象で、読者の心に響く作品にはなり難いでしょう。
「自己主張」でも良いですが、それが言いっぱなしにならないように、共感を得るためには表現に細心の気配りが求められるわけです。
向岳さんは私と同じ愛知県にお住まい、先日、半田桐山堂の勉強会のご案内をしたら、遠路から参加くださり、その後も少しの時間ですが、お茶を飲みながら直接お話をさせていただきました。
ありがとうございました。
来月の勉強会にもおいでくださるとのこと、コロナが拡がらないことを祈ります。
2020. 7.19 by 桐山人
作品番号 2020-230
揚州薫風
暁看長橋連白霧、 暁に看る 長橋 白霧を連ぬるを
湖深水静柳煙濃。 湖深く 水静まり 柳煙は濃やか
前行欲覓軽舟渡、 前に行(すす)み 覓めんと欲す 軽舟の渡り
隔岸遥聞古寺鐘。 岸を隔てて遥(はる)かに聞く 古寺の鐘
<解説>
己亥年(2019年)の末、上海博物館にて唐招提寺宝物の展覧がありました。
中に画家の東山魁夷先生の障子絵が展示され、絵に透かした生き生きな自然と静かな心に感動しました。
その記憶を何とか残そうと以下絶句を作りました。
[訳文]
(揚州の痩西湖の秋、)明け方に外を眺めると 長橋が白い霧を連ねている、
痩西湖は(秋雨で)深さを増し、水は静かで、堤の柳を包み隠す靄が濃い。
前に進み 小船で湖を渡る桟橋を見つけようとした時、
岸を隔たって遠くの古寺の鐘が聞こえて来た。
<感想>
于義石さんから、読み下しと訳文が日本語として妥当かどうか見て欲しい、というご依頼がありましたので、掲載したものは私の方で若干の修正をしたものです。
詩の表記につきましても、普段は旧漢字(本字)を使うようにしていますが、于義石さんの日本語の勉強になるように、日本での現行漢字(新字)で表記しました。
読み下し文は、現代日本語ではなく文語文法で施すことになりますが、よく勉強されていて、大きな齟齬はありませんね。
ただ、読み下し文には日本語としてのリズム感や詠みやすさを考慮して、特有のものがありますが、これはその人の個性や好みも影響します。
例えば、起句について于義石さんは「暁 長橋 白霧に連ねるを看て」と読んでいますが、「看」の内容(目的語)が長いと「・・・・・を看る」と返る距離が大きくなりますので、倒置法の形で先に「看る」と読んでから内容を示すことが多いのです。
同じことは転句の場合にも該当し、「軽舟の渡しを覓めんと欲す」が于義石さんのお示しになった形でしたが、やはり倒置法にしました。
ここでの「読みやすさ」は感覚的なことですが、読み下し文自体も詩(韻文)として楽しんだ日本の伝統による「慣れ」の部分もありますので、先述しましたように読み手の好みも影響します。
日本語の文構造に従って読んだ于義石さんの読み下し文も、間違いということでは決してありませんので、誤解の無いようにしてください。
内容的には画面のはっきり見える詩で、趣が深い詩ですね。
転句の「前行」は「歩き続けて」か「舟を進めて」かどちらか分かりませんが、あまり意味の無い言葉に感じます。
また、「欲」は「覓」自体に既に意志が含まれているので、この組み合わせは重複感がありますね。
「停舟欲歩晩秋渡」(舟を停めて歩かんと欲す 晩秋の渡)として、後半を対句に持って行ってはどうでしょうか。
「晩秋獨歩痩西渡」と季節、場所をここで示すのも良いかもしれませんね。
2020. 7.21 by 桐山人
作品番号 2020-231
桂林月宵
迭柱懸峰秋水岸、 迭柱 懸峰 秋水の岸
雲稀夜透月波明。 雲稀に 夜透けて 月波明し
浮光片色融山影、 浮光 片色 山影に融け
野渡寒鷗競逸声。 野渡の寒鴎 逸声を競ふ
<解説>
[訳文]
重なる峰が聳える秋の(桂林の漓江の)岸辺、
雲は少なく 夜は澄んで 月を映す波が明るい。
水面の月光は一片の色 山影に融けて行き、
人の居ない渡し場では 寒さの中で鴎の群が高い声で競い合っている。
(注)「逸声」とは高い声のことです。晋の陸善の「長鳴鶏賦」に「抗長音之逸声」との句があります。
<感想>
起句の「迭」は日本語では動詞として単独で使うことはあまり無いですね。
于義石さんは「迭む」と訓じていらっしゃったので、「疊」の俗字用法でしょうか。
そういうことでしたら、「疊柱」の方が分かりやすいかと思います。
承句の「月波」と転句の「波光」は同じものを出しています。
承句の「月波」を「月天」として、また、転句の「片色」は何のことか通じにくいので、「波光」を形容する色で「金色」とか、キラキラという感じで「瀲灔」とか、考えてはどうでしょうね。
2020. 7.21 by 桐山人
作品番号 2020-232
山雲
煙晨冷霧横斜嶺、 煙晨 冷霧は斜嶺に横たひ
遍漫霜山樹影寒。 遍く霜山に漫(ひろ)がりて 樹影寒し
雲浪無声飛岸処、 雲浪 声無く 岸に飛ぶ処
老松独立対風嵐。 老松 独り立ち 風嵐に対す
<解説>
[訳文]
靄深い朝、冷たい霧が斜めの峰に横たわり、
霜の降りた山一面に(霧は)拡がり 樹の姿は寒そうだ。
波のような雲が 音も無く 岸のような岩に打ち寄せた所に、
老いた松が独り立ち、強い風に向き合っている。
<感想>
起句の「煙」は次の「霧」と同じものでしょうから、書き出しは「早晨」くらいにしておくのが良いと思います。
転句は、訳文の方も直しましたが、「浪」ではなく「雲」が主語ですので、本来は「浪雲」となるところ、平仄を合わせて「雲影」かと思いますがどうでしょう。
2020. 7.21 by 桐山人
作品番号 2020-233
桃花
満眼紅霞満樹煙、 眼に満つる紅霞 樹に満つる煙
花団影暗碧雲天。 花団の影 碧雲の天を暗くす
芳顔夢寐曾相見、 芳顔 夢寐で曾て相見ぬ
不識春風幾度縁。 春風の幾度の縁かを識らず
<解説>
[訳文]
眼に満ちる一面の桃の花 どの木も花で霞むほど
花々の群れの影が、青空をも暗くみせる
美しい方にかつて夢で確かに会ったのに
春風の時が幾たび経たか分からない
<感想>
起句の「紅霞」は桃を表し、「満樹煙」と句中対で満開の様を描いたもの。
ただ、「霞」と「煙」では同じ言葉を繰り返したことになります。
作者としては面白みを狙ったと思いますが、満目の花なのに煙では句意が伝わりにくいので、「紅霞」は「紅桃」としてはどうでしょうか。
2020. 7.21 by 桐山人
作品番号 2020-234
海濱晩景
波光萬里半灣湄 波光 万里 半湾の湄
碧落雲霞奪目時 碧落 雲霞 目を奪ふ時
何處暮鐘餘韻盡 何処の暮鐘か 余韻尽き
亭窗白紵尚支頤 亭窓の白紵 尚ほ 頤を支ふ
「半湾」: 緩やかに曲がる海岸線。
「雲霞」: 夕焼雲。
<解説>
真っ赤な夕陽も良いですが、青空に夕焼雲が漂っているシーンを表現したかったのですが。
<感想>
起句の「半灣」は注を添えていただきましたが、何か出典がありましたか。
そのまま読んで「湾の半ば辺り」と解釈をしましたが。
承句は「青空に夕焼け雲」ということで「碧」の字を使いたかったわけですね。
青い空と夕焼け雲の赤によるコントラストを描きたいということですね。
「霞」は日本語の「春にたなびくもの」と原義では異なりますが、基本的に水蒸気が作るもので「ぼうっと見える」の要素を持っていますので、「碧落」「雲霞」はどちらも広がりがあって、画面が不統一になります。
そのまま「紅雲」とした方がお気持ちが伝わると思います。更に強調したかったら下三字で「競綵時」などと繰り返すのも考えられますね。
転句は「何處」と「餘韻盡」が時間の流れ、空間の広がりを出していて、味わいのある佳句ですね。
結句は「白紵」、浴衣姿で窓辺でボンヤリ、私は浮世絵美人のもの憂げな姿がどうしても浮かんでしまいますが、ご自身のことでしたね。
起句と承句で「光」が重なることもありますので、いっそのこと、起句と結句を入れ替えてみると、作者の姿がはっきり出るかと思いますがいかがでしょうね。
2020. 7.24 by 桐山人
いつもながら、丁寧な感想をありがとうございます。2020. 7.26 by 桐山人「白紵」は読者の方々を悩ましそうですし、結句と起句を入れ替えて隣に「碧」と「紅」が来ましたので、色のない「故衣」に変更いたしました。また、この入れ替えで、人は作者で、かつ点景になり、流れがはっきりしたと思います。ありがとうございました。
ご照会の「半湾」は、菅茶山の「病中暑甚憶旧事」の結句「半湾蒲葉戦軽波」からとりました。
解説に「湾の屈曲が鮮やか」とあり、また、何かで「一湾」だと「カーブが急」、その半分だと「カーブが緩やか」と私のメモにあり、緩やかに続く海岸線の表現に良いかなと思った次第です。
ただ、今思うと「湾のなかば」ですね。
「月彎」では「月」が時間帯と合わないので、一応「曲彎」としておき、宿題といたします。なお、佳句と言っていただいた「餘韻盡」は、かなり昔、先生がどなたかの「感想」でお奨めになった句を、そのままを使いましたので、恥ずかしい限りです。
作品番号 2020-235
重訪萬葉里
林泉朝徑穀r瀕 林泉の朝径 緑池の瀕
先杖麥魚行列巡 杖に先んじ 麦魚の行列巡る
去夏睡蓮纔破蕾 去夏の睡蓮 纔かに蕾を破る
帰耕安臥復耽春 帰耕安臥 復た春に耽る
「麦魚」: めだか。
<解説>
万葉の里 味真野苑は、継体天皇や万葉集ゆかりの公園で、福井県越前市にあります。
四季折々の花があり、管理も十分、作詩によいところです。
<感想>
前半の二句を拝見するだけでも、訪れてみたくなる幽趣が感じられますね。
コロナが終息したら、是非行きたいですね。
石華さんは昨夏にも行かれたということで、題名にも「重訪」と書かれていますね。
この「重」はご本人の記録みたいなもので、詩の内容に前回のことも書かねばならないわけではありません。
つまり、転句の「去夏」が要るかどうか、ということです。
そのためには「蓮」が昨年の夏と今年の春で違っていることが大切ですが、「睡蓮」というだけでは弱いですね。
簡単に書けば「水上睡蓮」でも通じるわけで、逆に「昨夏」があると考えすぎて内容が分かりにくくなります。
結句は結論を急ぎ過ぎで、公園から自宅へと画面が変わる、それを「帰」一字で済ますのは気になります。
なお、承句の「麥魚」のメダカは、これも和語でしょうね。「小魚」でも十分通じると思います。
2020. 7.24 by 桐山人
作品番号 2020-236
七夕即事
牽牛織女草盧穹 牽牛織女 草盧の穹に
一掬侵窗河漢風 一掬窓を侵すは 河漢の風か
秋在庭陰露深處 秋は在り 庭陰の露深き処
新蛩聲裡曲肱翁 新蛩の声裡 肱を曲ぐる翁
<解説>
前半はスケール大。後半はちんまりしたわが家。
書斎の窓から、小さくぼんやりした天の川を見て、コオロギを楽しんでいます。
<感想>
画面がよく描かれていると思います。
「河漢風」は天の川から吹いて来る、つまり高空の風、秋の夜に窓から外を眺め、涼しさを感じたというところまで分かります。
と言うことになると、転句の「秋在」と改めて「庭陰」から「秋」を感じる必要は無いことになります。
この二字だけ、庭の雰囲気を表す言葉にすれば、前半との流れもそれほど無理なく生まれると思います。
2020. 7.25 by 桐山人
作品番号 2020-237
吉田松陰
藩論問一刀 藩論 一刀に問ふ、
村塾至誠操 村塾 至誠の操。
講孟青雲遠 孟を講じ 青雲遠く、
開扉紫暮高 扉を開いて 紫暮高し。
生涯如烈火 生涯は烈火の如く、
疾走似波濤 怒気は波濤に似たり。
貫志無慮死 志を貫き死を慮る無し、
留魂不恐牢 留魂 牢を恐れず。
<解説>
二三注がないと通じにくいので、「孟を講じ」は「孟子を講し」の意味。
「紫暮」は「群青色の空」の意味。
「留魂」は彼が獄中に書いた「留魂録」から取りました。
<感想>
吉田松陰の生涯を四十字でまとめるのは大変でしたが、印象的な内容を描き出していて、「吉田松陰」像を語っていますね。
その分、凌雲さんの感覚による表現が多く、具体的な記述が無いところがやや寂しいですね。
例えば、頸聯のの比喩などは、通常ならばどういう行動が「如烈火」なのか、あるいはどんな姿が「似波濤」なのか、を語るところです。
しかし、凌雲さんのこの詩ではそうした記述は省いて、と言うよりも「皆さん、お分かりですよね」という感じで読者に根拠を委ねているわけです。
それだけ、吉田松陰という人物については多くの人に知られているわけで、吉田松陰のどんなイメージを拾い上げるか、という点に作者の個性を出そうということでしょうかね。
2020. 7.25 by 桐山人
作品番号 2020-238
勝負綾
求涼掬水小流凝 涼を求めて掬ひし水 小流凝る
四季周旋日解冰 四季周旋し 日 冰を解く
得失機宜分勝負 得失 機宜 勝負を分く
陰陽比換巧為綾 陰陽比りに換り 巧みに綾を為す
<解説>
暑い夏の日、涼を求めて両手ですくった水が、冬になり氷を張った。
四季はめぐり、日差しが氷を溶かす春になった。
機会をものにするかどうかが勝負の分かれ目。
耐え忍んで流れの変わるのを待つ女時、積極的に攻めるべき男時、それが四季と同様にぐるぐると巡り、巧みに勝負の綾を為す。
<感想>
四季の運行を「水」を用いて表すという前半は、面白く出来ていると思います。
起句の「小流」は上と対応させて、「到寒凝」とし、承句の「周旋」は出来れば「更旋」と一文字加えておくと、「日解氷」がすっきり出てくると思います。
後半もそつなく句をまとめていると思いますが、肝心の「勝負の綾」と「四季の運行」の関わりで、共通項が「周旋」というだけですと、分かりにくいかな?
「勝負なんて季節の巡りみたいなものだ」と言われて、スッと腹に落ちる人がどのくらい居るか、ですね。
「ずーと陰のままだ」というのが私などの実感ですので、もう少し、希望が持てるような説得が欲しいかな、と思います。
2020. 7.26 by 桐山人
作品番号 2020-239
孤独在人間
除夜吏貪頻促租 除夜 吏貪り 頻りに租を促す
笑談紅燭合歓娯 笑談 紅燭 歓娯を合はす
佛燈般若世情尽 佛燈 般若 世情尽く
孀在市中分瑞符 孀は市中に在り 瑞符を分く
<解説>
除夜、役人は年末の徴税に躍起になっている。
一方で、あかりを灯し、家族だんらん、楽しげな声が聞こえてくる家もある。
仏の教えや悟りの知恵があるといっても、世間のありさまは、まことに多様である。
夫に先立たれたやもめが、町中でお守りを配っている。
<感想>
起句の「吏貪」は「貪吏」となると分かりやすいところ、読み下しを「吏は貪にして」と読み下した方が動詞が一つになって句の流れが良くなるように思います。
大晦日の暗い部分を起句と結句で描き、承句は明るい部分、転句で全部をまとめるような形をお考えになったのでしょう。
しかし、承句は「あこぎな役人どもが花街の紅燭の下に集まって、楽しく騒いでいる」と読まれてしまう可能性が高いと思います。
それとも、「役人の目を盗んで、家の中で楽しんでいる」でしょうか。
どちらにしろ、起句で出てきた「吏」を読者はどうしても忘れ難い、それだけ「起承」でひとまとまりという意識は強いわけですので、一旦他に目を転じないと、恕水さんの狙った解釈には持って行き難いですね。
例えば、結句のお守り売りの寡婦の姿を承句に持ってきて、「暗い部分」で前半を揃えて、転句から発展させるような構成にすると、丁寧な除夜の描写になると思います。
転句は「佛燈」「般若」が「世情」、つまり「世の中」から見えなくなった、ということでしょうか。
そうだとすると、承句の明るい部分は違和感が出て来ますね。
構成として、起句、次に結句で暗い部分、そして転句に明るい部分を置き、結句に「佛燈般若」のまとめの句を持ってくるような流れが良いでしょうね。
2020. 7.26 by 桐山人
作品番号 2020-240
文月天
窓昏七月草堂辺 窓は昏し 七月 草堂の辺り
小暑歴如大暑天 小暑 歴の如く 大暑の天
涼動村居山下路 涼は動く 村居 山下の路
幽窓静坐絶塵縁 幽窓 静かに坐し 塵縁を絶す
「文月」: 七月。
「草堂辺」: 作者の家の辺り。
「小暑歴如大暑天」: 七月の暦の如く。
「絶塵縁」: 世間の煩い関係・俗縁を断つ。
<感想>
「文月」は「陰暦七月」を表す言葉ですので、もう秋の季節、「小暑」「大暑」が合いません。
現代の詩で「七月」ということで考えれば落ち着くわけですので、「七月」を「六月」とするか、題名を換えるかが良いですね。
「文月」という表現自体が日本での呼称ですので、題名を直した方が良いかと思います。
転句は良いのですが、「山下路」を歩いていた筈が、結句ではもう「幽窓静坐」していますので、話が動き過ぎですね。
結句は「窓」の字も重複していますので、ここは「山下路」で出会うもの、目に入るものを描きたいですね。
2020. 7.26 by 桐山人