2016年の投稿詩 第241作は芙蓉漢詩会の 洋景 さんの作品です。
 2016年5月28日に「芙蓉漢詩集第18集」の合評会が静岡市で開かれ、桐山人も参加しました。
 感想はその折のものをベースにしています。

作品番号 2016-241

  牡丹        

植藝三年待望情   植芸三年 待望の情

早晨庭上眩紅英   早晨庭上 紅英眩ゆし

婷婷凄艷芳香郁   婷婷凄艶 芳香郁たり

急雨蒼皇一傘フ   急雨 蒼皇 一傘フぐ

          (下平声「八庚」の押韻)


「婷婷凄艶」: 抜きん出て艶やかで美しい


<感想>

 承句の下三字はやや苦しいですが、まあ読み取れる範囲ですね。
   結句の「蒼皇」は「あわてて落ち着かない」という意味の重韻語ですが、この場面によく合っていると思います。



2016. 8.15                  by 桐山人
























 2016年の投稿詩 第242作は 緑風 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-242

  懐終戦記念日        

玉音放送惑青春   玉音放送に 惑ひし青春

高度成長励四旬   高度成長に 励みし四旬

激変余生予想内   激変の余生 予想の内

健康長命喜心伸   健康長命 喜心伸ぶ

          (上平声「十一真」の押韻)



<感想>

 戦争体験を語り継ぐ企画が全国各地で行われているようです。
 終戦記念日への思いは人それぞれ、どんな状況で「玉音放送」を聞いたかが関わってくると思います。そして、戦後をどう生きたか。
 緑風さんの転句「激変余生予想内」は、沢山の経験を積み上げてきたんだから、これからの世の中の激変も乗り越えられるという自信ですね。

 起句の「玉音放送に惑ひし青春」は「玉音放送 惑ひし青春」と上四字で切る、承句も「高度成長に励みし四旬」は「高度成長 励みし四旬」とした方がリズムが良いでしょう。



2016. 8.16                  by 桐山人
























 2016年の投稿詩 第243作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-243

  八月十五日        

劫後余事七十時   劫後 余す事 七十の時

軍営在我尚堪為   軍営に我在りて 尚為すに堪へたり

孤忠独抱君休笑   孤忠 独り抱くを 君笑ふを休めよ

南海憶朋涙竝垂   南海の朋を憶へば 涙竝び垂る

          (上平声「四支」の押韻)


「劫後余事七十時」: 戦後七十余年



<解説>

 烈日のあの日八月十五日が脳裏を去来する。
 我生を得て八十八齢米寿を迎えたり。

 四年前車を駆って懸案であった曽祖父の筑紫遊学の軌跡を辿るとともに、十五歳五ヶ月で入隊、鹿児島・国分・出水・鹿屋を巡り、慰霊の旅を敢行せり。

 終戦は東海空藤枝海軍航空隊。

<感想>

 深渓さんからは、15日の終戦記念日にこの詩を送っていただきました。
 米寿をお迎えになり、ますますお元気な深渓さん、本当に私にとって人生の先輩です。
 先日調布の「漢詩を楽しむ会」に伺った折には、深渓さんのお宅に泊まらせていただき、お世話になりました。
 深渓さんの書斎も拝見し、ご先祖の南部五竹氏の遺墨なども見せていただきました。

 終戦時のお話もうかがいましたが、詩中の「南海憶朋涙竝垂」の言葉に万感を籠めた重さを感じます。
 ここの読み下しは「南海に朋を憶へば」とした方が良いでしょうね。



2016. 8.16                  by 桐山人
























 2016年の投稿詩 第244作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-244

  又八月十五日        

残炎未去残月傾   残炎未だ去らず 残月傾き

晨蝉何処空聞鳴   晨蝉 何れの処にか 空しく鳴くを聞く

曽半学徒顧出陣   曽て学徒半にして 出陣せしを顧る

海欲荒鷲屯軍営   海の荒鷲ならんと欲し 軍営に屯す

練磨錬磨勉精錬   練磨 錬磨 精錬に勉む

心耳猶聴呼喝声   心耳 猶聴く 呼喝の声

已乎干戈至終局   已乎 干戈 終局に至り

劫余再復無用兵   劫余 再び復た兵を用ふること無し

難忘万千慮泉骨   忘れ難き 万千の泉骨を慮れば

如悼雲白垂天横   悼むが如き 雲白く天に垂て横たふ

          (下平声「八庚」の押韻)



<解説>

 戦後既に七十一年、学徒半ばに死を賭して「練磨錬磨勉精錬」せし紅顔も白髪米寿の爺となれり。
 嗚呼。

<感想>

 こちらは十句からの七言古詩になります。

 句の流れが自然で、作者の気持ちが率直に出ていますね。
 近体詩の規則に縛られない分、古詩の良さが出ていると思います。



2016. 8.16                  by 桐山人
























 2016年の投稿詩 第245作は 芳原 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-245

  夏日即事 一        

緑陰宜裸袒   緑陰 裸袒に宜し

颯颯至涼風   颯颯 涼風の至る

隠几華顛懶   几に隠れば華顛懶し

鳴蝉噪夢中   鳴蝉 夢中に噪し

          (上平声「一東」の押韻)



<感想>

 起句の「裸袒」は李白の「夏日山中」にある「嬾搖白羽扇 裸袒青林中」で知られる言葉ですね。
 「服を脱いで肌を露わにする」という意味ですが、李白の「青林中」に対して「緑陰」を配置しましたね。

 転句の「隠几」は「依机」と同じ意味で、「机に寄りかかる」こと。「華顛」は白髪交じりの頭のことで「年老いた」ことを表します。
 作者自身を表したのでしょうが、緑の木陰でテーブルに置いていますので、もうそれだけで隠逸の雰囲気は出ています。更に「老年」を加える必要があるかどうか、やや疑問です。

 また、前半でせっかく緑陰の爽やかさを描いているのに、後半で「慵」とか「蝉が眠っていても騒がしい」と否定的な言葉が重なると、結局は「夏日」を楽しんでいるのか、嫌がっているのか分からなくなります。
 「噪」を「聞」くらいにして、感情を抑えると、「慵」も否定的なニュアンスが薄らぐと思います。



2016. 8.19                  by 桐山人



芳原さんからお返事をいただきました。

 先の五言絶句3首、懇切なご指導ご助言頂きありがとうございました。
 下記のように改定致しました。

   夏日即事 一(推敲作)
 緑陰宜裸袒   緑陰 裸袒に宜し
 颯颯至涼風   颯颯 涼風の至る
 隠几安懐樂   几に隠れば安懐の楽
 鳴蝉聞夢中   鳴蝉夢中に聞く


2016. 8.29            by 芳原
























 2016年の投稿詩 第246作は 芳原 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-246

  夏日即事 二        

細雨殘螢滅   細雨 残蛍滅す

不知秋色催   知らず秋色の催すを

人生何處是   人生何れの処ぞ是なる

只有轉蓬哀   只転蓬の哀しき有るのみ

          (上平声「十灰」の押韻)



<感想>

 こちらも「夏日即事」の題ですが、「晩夏即事」とした方が、季節の移ろいと人生を重ねる意図に合うでしょうね。

 後半は、人生はどの道を選ぶのが良かったのか、と尋ねるわけですが、「轉蓬」はそもそも根無し草、選ぶこともできずに風に吹かれて飛んでいくわけですので、この取り合わせが良いかどうか、もう一工夫があっても良いと思いますよ。



2016. 8.19                  by 桐山人





芳原さんからお返事をいただきました。

   夏日即事 二(推敲作)
 細雨残螢滅   細雨 残蛍滅す
 不知秋色催   知らず秋色の催すを
 人生何處是   人生何れの処ぞ是なる
 流轉只為哀   流転只哀しみを為すのみ


2016. 8.29          by 芳原





















 2016年の投稿詩 第247作は 芳原 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-247

  聞鹿鳴        

老大嘆衰志   老大 衰志を嘆き

立秋聞鹿鳴   立秋 鹿の鳴くを聞く

幽襟同学影   幽襟 同学の影

畢事以何生   事畢わり以って何くにか生きん

          (下平声「八庚」の押韻)



<感想>

 「鹿鳴」は俳句では「鹿の声」として秋の季語になります。
 雄鹿が雌鹿を呼ぶ声で、「秋のもの寂しい気持ち」を象徴する言葉になっています。

 この詩の場合、「寂しさ」は何にあるのかと言うと、起句の「老大嘆衰志」になり、若い頃の情熱が無くなってしまったという嘆きを語っています。
 そうすると、この起句と直接響き合うのは転句の「かつての友人を思い返す」であり、そして結句の「さて、これからどう生きて行こうか」という言葉になります。
 この三句で読むと分かりやすい詩になりますが、そうすると承句の役割が何なのかということになってきます。
 「鹿鳴を聞く」ことと「年老いる」ことは直接関わりは無く、そもそも「老大を嘆いていた」時にたまたま鹿の声を聞いて「秋の寂しさ」が加わったところでしょうか。
 それにしても、承句が浮いている印象はぬぐえませんので、逆にして、「秋の寂しさ」で沈んだ気分の中で「老大」へと心が流れていったという形にした方が収まると思いますが、いかがでしょうか。



2016. 8.19                  by 桐山人




芳原さんからお返事をいただきました。

   聞麇聲
 風立麇聲至   風立ちて麇声至る
 老來衰志情   老来たる 衰志の情
 幽襟同學影   幽襟 同學の影
 畢事以何生   事畢わり以って何くにか生きん


2016. 8.29           by 芳原
























 2016年の投稿詩 第248作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-248

  山如笑        

日照山如笑,   日は照りて山は笑ふがごとく,

天高詩客小。   天高く詩客小さし。

無言茅店傾,   言なく茅店に傾けたる,

酒洗風懷老。   酒は洗ふ 風懷の老いたるを。

          (中華新韻六豪仄声の押韻)



<解説>

 漢詩を始めたのが50歳、この4月で20年目に突入しました。
 小生、最近は、詩材に乏しい貧しい人生を送っており、詩に詠むべきことがない、そういう思うこと頻りです。

 そこで、詩材は、言葉の世界を散策することで見つけてきます。
 この五絶の発端は、季語の「山笑う」
 これをもとに、まず七言の漢語俳句を詠みました。

      七言俳句・山 笑

  山笑天高詩客小。
  ○仄○平○●仄(中華新韻六豪平仄両用の押韻)

  山笑ふ天高く詩客小さしと

 これをもとに五言絶句に展開して、詩一首としました。
 なお、季語の「山笑う」は、郭熙の「春山淡冶而如笑,夏山蒼翠而如滴,秋山明淨而如妝,冬山慘淡而如睡。」が典故です。


<感想>

 「山笑う」という季語をはじめて見た時は、思わず感動しました。それが実は中国の宋代の画譜からのものだと知ったのは随分後で、とにかく、春の山が身体を揺すって笑っているようなイメージで、そのスケールの大きさ、明るさ、楽しさを味わっていました。
 「春山淡冶」となると、実際は穏やかで柔和なイメージ、つまり「笑」は「ほほえむ」方なのでしょうが、一旦染みついたイメージは抜けず、私はどうしても豪快な方に読みがちになります。

 鮟鱇さんの俳句では「山」が「天高く詩客小さし」と「笑ふ」という構図ですが、起句が「如笑」と比喩になっている分、漢詩ではここで句が完結します。
 そうなると、「日照」「山笑」「天高」と明るい風景が続いた後で、一気に「詩客小」と来て、この対比で、沈鬱な後半への序章という形で読むことになりますね。

 転句はそのまま結句に流れていく形ですが、最初は「茅店」「傾」と読みましたので、よっぽど古い建物なのかと思いました。
 無言獨傾杯/茅屋風懷老という形でも良いかと思いました。



2016. 8.25                  by 桐山人
























 2016年の投稿詩 第249作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-249

  山櫻花底待將來        

臥遊鶴歩向瑤臺,   臥遊 鶴のごと歩んで瑤台へ向かへば,

已到龜年忘老骸。   已に亀年に到るも老骸を忘る。

筆路日暄霞洞近,   筆路に日は暄にして霞洞に近く,

硯池風軟墨花開。   硯池は風軟らかくして墨花開く。

偶逢故我逞鴻志,   たまたま逢ふ 故(ふる)き我の鴻志を逞しくし,

對講新生協鳳才。   對し講(はな)す 新生の鳳才に協(かな)ふを。

意氣相投共傾酒,   意気 相ひ投じて共に酒を傾け,

山櫻花底待將來。   山櫻の花の底にて將來を待つ。

          (中華新韻四開の押韻)



<解説>

 臥遊:実際にはその地へ行かず想像で旅すること。
 瑤臺、霞洞:いずれも仙人の居所。したがって、拙作は同義重複しています。

 見たことを詩にするのではなく、心にあって見えざるものを見えるようにする、つまりは観念を視覚化することを試みてみた詩です。



<感想>

 こちらの詩は、初句からすぐに「瑤臺」に入っていくわけで、「向瑤臺」と比喩にしないのは最初に「臥遊」だと断っているからですね。
 この書き出しをすれば、後はもう自由な世界に入っていける、ただ、いつもの鮟鱇さんですとそうした注釈も無用に、いつでも人間仙界を行き来していたように思います。
 逆に、今回は説明が丁寧と言うか、何か遠慮がちに感じますね。

 後半の場面、昔の自分に出会って共に酒を飲む(と私は解釈しましたが)という設定がシュールで、一言入れたのでしょうか。



2016. 8.25                  by 桐山人
























 2016年の投稿詩 第250作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-250

  時乖運蹇有詩人        

時乖運蹇作詩人,   時に乖(よむ)かれ運は蹇(とどこ)ほり詩人となり,

磨墨十年遊醉魂。   墨を磨いて十年 醉魂を遊ばす。

夢筆生花爲畫餅,   夢筆の生じし花は画にかいた餅なるも,

堪餐毎日興津津。   餐(く)ふに堪へて毎日 興は津津たり。

          (中華新韻九文の押韻)



<解説>

 時乖運蹇:時運に恵まれず、乗れないこと。

 才能に恵まれず時運に乗り損なっただけなのですが、時に乖(そむ)かれ運から見離されて生きている、そう思うことがあります。
 そう思うと私には実は才があって、ただ、生まれてきた時代と場所が悪かったのだと自分を慰めることができます。
 漢詩、いまどきそのようなものに血道をあげてどうするのか、そう言われることがあるし、そう思うこともありますが、
 漢詩作りは面白く、
 時乖運蹇、されど我ゆかん という気概で毎日、自分の才を鼓舞し、筆を揮うことにしています。


<感想>

 漢詩のことに限って見れば、私も、生まれた時が遅すぎたと感じることがありました。
 もっと漢詩の盛んな頃に生まれていれば、同じ志の仲間と切磋琢磨できただろうに、と作詩を始めた頃には思っていました。
 でも、この桐山堂で詩友と呼ぶべき仲間に沢山出会うことができ、逆に昔だったら出会えなかっただろう広い地域の方々と交流できることを思うと、恵まれた時代に生まれたのだなと今は思っています。

 鮟鱇さんの初期からの変わらぬ「気概」、詩才に刺激を受けて、私も楽しみにどっぷりと安住しています。



2016. 8.25                  by 桐山人
























 2016年の投稿詩 第251作は 地球人 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-251

  余熱        

奔雷驟雨噪残蝉   奔雷 驟雨 残蝉噪ぐ

簾動涼生入睡眠   簾動いて 涼を生じ 睡眠に入る

午枕醒来三伏熱   午枕 醒め来る 三伏の熱

炎炎溽暑火雲天   炎々たる 溽暑 火雲の天

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

 夕立ちが去ったらまた暑くなったというイメージです。

<感想>

 今年の夏は本当に暑かったですね。
 私の地域では夕立も少なく、鉢植えの花が夕方になると見るも哀れな姿になっていて、これは人間(つまり私自身ですが)も同じように暑さに枯れかけているのだろうなと思ったものです。

 にわか雨で少し涼しくなっても、またすぐに暑さが戻ってくる、というのが今回の詩の主題でしょうね。

 前半、後半を分けて見ると、それぞれ臨場感があり、よくまとまっていると思います。特に、起句は「噪残蝉」が、蝉の声も途切れるような暑さの中で、一雨の後、生き返ったように蝉が鳴き始めたという描写が、実感があって良いですね。

 後半も良いのですが、つなげてみると、「雨が降って涼しくなったから昼寝をした。目覚めたらまた暑さが戻った」ということで、話があっさりと過ぎてしまいます。
 「入睡眠」から「午枕」、そして「醒来」と続くのが、饒舌さを生んでいるのだと思います。
 また、「三伏熱」と結句も重複している感じで、読者の一歩先に先に説明が入るので、転句をばっさり変更するのが良いと思います。
 そうやって、「涼しく眠った」の前半と「すごい暑さだ」という結句の逆転、ここが面白いところですので、転句で少し話題を変えるような方向で考えてはどうでしょう。



2016. 8.31                  by 桐山人



地球人さんからお返事をいただきました。

 ご指導ありがとうございました。
 ご指摘をもとに転句を入れ替えて推敲しましたので、報告いたします。


  奔雷驟雨噪残蝉
  簾動涼生入睡眠
  風鐸丁東眠正醒
  炎炎溽暑火雲天

2016. 9.14            by 地球人


 転句を直されましたが、「眠」が重複していますね。
 内容的には転句らしい構成になっていると思いますので、また作者を登場させないで、周りの風景を描くのが良いと思います。

 結句はやはり、承句の「涼」との流れから見ると、ちぐはぐな印象が残りますね。
 「涼しい中にも、暑さがまだ残る」という程度にしておくと良いと思います。


2016. 9.15              by 桐山人
























 2016年の投稿詩 第252作は 凌雲 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-252

  冥界扉 其一        

秋都閑散夜   秋都 閑散たる夜、

乾気響追靴   乾気 追靴を響かす。

結界喧騒路   結界 喧噪の路、

街灯乱舞蛾   街灯 乱舞の蛾。

何難臨半月   何ぞ半月に臨み難く、

宜莫収悲歌   宜しく悲歌を収る莫れ。

不値人傾聴   人の傾聴するに値はず、

陰陰鬼哭多   陰陰 鬼の哭すること多し。

          (下平声「五歌」の押韻)



<感想>

 凌雲さんは「作風が変わった」とご自身で仰っていますが、一句一句積み上げながら、作品の世界に徐々に引き込んでいくという点でストーリー性が深まったように思いますね。

 李賀の詩を彷彿とさせるような舞台設定、小道具の配置、最後の「不値人傾聴」は謙遜ではなく、逆に「鬼」、つまり霊魂が詩を聞きに来てくれるだろうという自負なのでしょうね。



2016. 9. 4                  by 桐山人
























 2016年の投稿詩 第253作は 凌雲 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-253

  冥界扉 其二        

時時雖不在   時時 不在と雖も、

視線顧枝梢   視線 枝梢に顧みる。

飾照商窓静   飾照 商窓静かに、

人形笑語交   人形 笑語交ふ。

路傍開別界   路傍 別界開き、

翠燭集同胞   翠燭 同胞集ふ。

冷冷乾都会   冷冷 乾いた都会、

喧騒怪化巣   喧騒 怪化巣くふ。

          (下平声「三肴」の押韻)



<解説>

 霊魂の存在を肯定するにしても、否定するにしても、暑いですから・・・個人的には存在するような気がするんです。

 鑑賞に堪えるかどうかは別にして投稿します。
 いつものようにご意見を賜りたくお願いします。

<感想>

 そうですね、お化けとか霊魂の存在はいつも意識できるわけではありませんが、確かに、夜の人の少なくなった通りでショーウィンドウのマネキン人形などを見ると、ドキッとすることが多いですね。
 我が家の孫たちは、悪戯をしては「お化けが来てるよ」とか「なまはげが飛んでくるよ」と脅され、こわがっています。しかし、五歳のお兄ちゃんの方は、最近は「じいちゃん、なまはげと友達だって言ってたけど、本当なの?」と疑問の目を向けるようになってきました。
 そろそろ、新しい友達を作らないといけないでしょうかね。

 舞台を「都会」に置いたことも、詩としての面白さを生んでいると思います。
 以前「漢詩印象派」の宣言をされていましたが、納得の二作です。

 ただ、こちらの詩(「其二」)は、題名に寄りかかる部分が強く、詩だけを眺めた時には、冒頭の「時時雖不在」から何の話なのかわかりにくいですね。
 その不安定感が狙いだと仰るかもしれませんが、読者のことを考えると、首聯でもう少しヒントが欲しいところ。

 「枝梢」「喧騒怪化巣」とかみ合うか、その辺りも突っつけばありますが、作品としては独自の世界を描いて面白いと思いますよ。



2016. 9. 4                  by 桐山人
























 2016年の投稿詩 第254作は 岳城 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-254

  七月偶感        

梅雨愈違首歌天   梅雨 愈 違つて首歌の天

白雲忽上碧山巓   白雲 忽ち上る碧山の巓

軽風高枕華胥夢   軽風 高枕 華胥の夢

遠近雷声驚午眠   遠近の雷声 午眠を驚かす

          (下平声「一先」の押韻)



<感想>

 起句の「首歌天」は「首夏天」の入力違いでしょうか。
 ただ、「首夏」は初夏、感覚的には七月から暑さが厳しくなり夏本番という感じですが、陰暦ではもう秋、現在の暦でも八月には立秋を迎えますので、「七月」と「首夏」は合わないですね。
 「愈違」というのは、「梅雨らしくない(晴れが多い)」ということでしょう。

 承句は「白雲」「碧山」の色の対比で、それ自体は目新しいものではありませんが、遠景を立体的にすっきりと画面を切り取っていて、室内に目が移る転句の前触れとして効果を出していますね。

 転句は「華胥夢」自体が理想郷を夢見た楽しい昼寝を意味しますので、「高枕」がやや重複感があります。「午枕」とすればすっきりしますが、転句の「午眠」とぶつかったのでしょうか。
 どちらかと言えば、結句の「驚午眠」の方がくどいので、韻字も含めてこちらを検討してはどうでしょうね。



2016. 9. 6                  by 桐山人



岳城さんからお返事をいただきました。

 何時もお世話になっております。
七月偶感 推敲いたしました。
宜しくお願いします。

  七月偶感(推敲作)
 朝雨俄違餘月天   朝雨 俄に違って余月の天
 白雲忽上碧山巓   白雲 忽ち上る碧山の巓
 軽風午枕華胥夢   軽風 午枕 華胥の夢
 甃砌空庭竹影連   甃砌の空庭 竹影 連なる
          (下平声一先韻)


2016. 9.14             by 岳城
























 2016年の投稿詩 第255作は 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-255

  忍古城        

要害山城一片愁   要害山城 一片の愁ひ

無端独歩秋已近   端無くも独り歩む 秋已に近し

誰憐石壁苔痕探   誰か憐れまむ 石壁 苔痕を探す

兵夢岩窟散積憂   兵の夢 岩窟 積憂を散ず

仰望天空眉月上   仰仰ぎ見れば 天空 眉月上り

下方草野水長流   下方 草野 水長しへに流る

武田勇士帰心切   武田の勇士 帰心切なり

昔憶松風万感稠   昔を憶ふ 松風 万感稠し

          (下平声「十一尤」の押韻)



<解説>

 初めて律詩なるものに挑戦いたしました。さまになっていないと思いますが、よろしくお願いいたします。

<感想>

 律詩に挑戦、ということですが、仲泉さんは作詩の経験が豊富なのですから、あまり気張らずに、同じ韻で絶句を二首作るつもりで、どんな内容を描こうかと考えるのが良いですね。

 律詩は二句ずつをひとまとまりとして、首聯、頷聯、頸聯、尾聯と呼び、それぞれで起承転結、頷聯と頸聯は原則として対句にするということで、平仄は「二四不同・二六対」は勿論、反法と粘法を繰り返します。

 首聯の下句(第二句)は「已」が仄声で「二六対」が崩れています。また、ここは押韻しなくてはいけませんので、「已深秋」となるところでしょうね。
 もう一ヶ所、頷聯の下句(第四句)の「窟」が仄声ですので、ここも直さなくてはいけませんね。

 内容を見ていきますと、第二句の「無端」は「特に理由も無く」「ひょっこりと」という意味ですが、ブラブラと歩いていたくらいの意図でしょうか。
 全体の調子と不釣り合いな印象です。

 頷聯は「石壁苔痕探」の主語は作者でしょうか、「苔痕を探す」は歴史が深いということでしょうが、それを「憐」む人は居ないという「誰憐」の反語形が悩ましいですね。
 同じく下句の「兵夢」がどうして「岩窟」「積憂」を散ずるのか、疑問が続きます。
 ここは作者の言いたいことを少し整理する必要があると思います。

 頸聯は、先ほど言いましたように二句単位で起承転結を考えた時に、ここで情景描写を入れる意図が不明ですね。
 それぞれの句自体はわかりますので、構成という点で考えてみましょう。

 最後の句の「万感稠」は第一句の「一片愁」との対応で違和感があります。

 さて、対句の話になりますが、対句では七言の二字・二字・三字が上句と下句で構造が同じになるようにします。例えば「主語と述語」と上句がなっていれば、下句も同じ場所を「主語と述語」になるようにします。
 この詩で見ると頷聯は

 二字目の「憐」の動詞と「夢」の名詞が合いませんから、「夢」を「夢む」と動詞で読めば何とかつながりでしょう。
 しかし、下三字の「苔痕深」と「散積憂」は文の構造が違いますし、内容的にも叙景と叙情で合いません。

 頸聯も、「仰望」の動詞と「下方」の方向指示語、「眉月」の名詞と「水長流」の「名詞・副詞・動詞」は合わず、ここは対句とは見えません。

 対句は難しいですが、分かりやすく考えるには、@「読み下し文が似ている」こと、A「返り点を点けてみると同じようになる」こと、この二つで考えてみると、初めはとっかかりやすいと思いますよ。



2016. 9. 7                  by 桐山人



仲泉さんからお返事をいただきました。

ご指導の下に、いささか手直しをしたつもりですが、まだまだあちらこちら不十分なところがあろうかと思います。
自分の思いが平仄の制限などで崩れてしまい、文字合わせになっていくジレンマに自分で腹が立っている始末です。

   忍古城  要害山城坐惹愁  要害山城 坐に愁ひを惹く
 黄昏独歩己深秋  黄昏 独歩 己に秋深し
 堤塘崩落鳴幽鳥  堤塘崩落 幽鳥鳴く
 砌井傾頽草莽稠  砌井傾頽 草莽稠し
 戦陣馬蹄千里夢  戦陣馬蹄 千里の夢
 攻防雄叫復悠悠  攻防雄叫び 復た悠悠
 武田勇士帰心切  武田の勇士帰心切なり
 昔憶松風抱百憂  昔憶ひ松風に百憂を抱く

2016. 9.20             by 仲泉


 順に拝見していきますと、首聯は良いですね。「己」は「已」の入力間違いですので、直しておいてください。

 頷聯では、上の四字は対句としては形は整っていますが、内容としては同じような場面の繰り返しなので、あまり面白みがありません。
 少し視点の違うものを並べると対句は広がりが生まれます。
 下三字は読み下しは対になっていますが、詩の方は語順が合わず、対句としては不合格です。「幽鳥鳴/草莽稠」で対になりますが、平仄が合わなかったのでしょう。
 韻字の「幽」がありますので、これを下句の韻字に置くように考えても良いですね。
例えば、「古堤崩落石苔老/細徑傾頽虫韻幽」のような組み合わせにすると遠近感が生まれます。

 頸聯は、「悠悠」のような畳語を用いた時には、対にも畳語や畳韻、双声をなどを用いるのが一般です。
 「復」という副詞にも副詞で対応させる必要があります。
 ここは色々と考えられるところですが、ついでに「雄叫」は和語ですので、例えば「戦陣馬蹄猶隠隠/攻城戎鼓復悠悠」のような形が考えられますね。
 ご参考にしてください。

2016. 9.29               by 桐山人






















 2016年の投稿詩 第256作は 東山 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-256

  達卡悲悼     ダッカ悲悼   

素志崇高行跡尊   素志崇高 行跡尊し

挺身窮國勉支援   窮国に挺身して 支援に勉む

怨憎慟哭天涯禍   怨憎慟哭 天涯の禍

永久旌褒七士魂   永久(とは)に旌褒せん 七士の魂(こころ)

          (上平声「十三元」の押韻)

扨て、

<解説>

 先般のダッカ事件や相模原の事件等等、世界は混沌として、近来の世相を憂慮しております。
 日本も、この辺で一度立ち止まり、來し方・将来を考える時だと思いますが。

 やはり、国の宝たる子供達の、知・徳・体のバランスの取れた教育が喫緊の課題だと感じています。
 学校の先生方(地域の方々も)も一所懸命に頑張っておられるものと拝察しますが。

<感想>

 今年の7月1日、バングラデシュのダッカで起きた襲撃事件は、国際協力機構(JICA)で滞在していた日本人七名が犠牲になるという痛ましいものでした。

 起句の「素志」からの二句は、犠牲になった方々の行いを的確に表していると思います。
「崇高」「尊」は似たような言葉ですが、この繰り返しが作者の気持ちを象徴しているとも言えますね。

 結句の「七士」も犠牲になった方々のこと、バングラデシュのために働きたいというお気持ちが途切れてしまった悲しみ、悔しさは、日本に居る私達にも伝わります。
 「永久」という言葉には、この事件のせいで支援活動が停滞しないように、彼等の志が引き継がれることを祈る気持からのものでしょう。



2016. 9. 7                  by 桐山人
























 2016年の投稿詩 第257作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-257

  夏日(一)遊花亂瀧     夏日(一) 花乱の滝に遊ぶ   

筑前第一瀑花瀾   筑前第一の瀑 花瀾

四圍山中夏日寒   四囲 山中 夏日も寒し

落下飛流如火亂   落下の飛流 火乱るが如し

行人終日縱遊觀   行人 終日 遊観を縱にす

          (上平声「十四寒」の押韻)



<解説>

 過日、福岡郊外の名滝「花乱の滝」及び「坊主ヶ滝」に遊びました。

   花乱てふ名を遺しけり修行僧

「花乱の滝」:別名、花蘭滝、火乱滝。
名称のいわれは、花弁の乱れ落ちるような滝の姿であるが、その昔、花乱という妖術使いの山伏が修行をした滝という伝説もある。

「火乱瀑布 石竃村の境内にあり。大岩の上より落下る。中の側に岩角あり。夫に當り、水激して下る。瀧の高六間許。佳景なり」
《貝原益軒『筑前國続風土記』》

<感想>

 ネットで「花乱滝」を拝見しました。
 福岡を代表する名滝ということで、すみません、知りませんでした。

 「花弁の落ちるような」というのは動画でも何となく感じられましたが、やはり水しぶきのかかるような間近の方が印象が強いでしょうね。写真では、「火乱」の名称も納得できる姿でした。
 途中に岩があるので、そこでが乱れと言うか躍動感を生んでいるのでしょうね。

 兼山さんは夏にお身体の調子が悪かったそうですが、この時は良かったのでしょうか。
 「夏日寒」は日常的には「寒」まで行かずに「涼」くらいですが、このギャップが非現実な世界に入ったことを感じさせ、「火乱」の幻想的な言葉も素直に受け入れられますね。



2016. 9.10                  by 桐山人
























 2016年の投稿詩 第258作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-258

  夏日(二)遊坊主瀧     夏日(二) 坊主ヶ滝に遊ぶ   

筑前第二瀑通天   筑前第二の瀑 通天

卿邑山阿百尺泉   郷邑 山阿 百尺の泉

夏季道場今尚在   夏季 道場 今尚在り

諸行無常有誰傳   諸行無常 誰有りてか傳へん

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

   古りにけり坊主ヶ滝の篭り堂

「坊主ケ滝」: 別名、通天滝、不動滝、紅葉滝。

 九州の脊振山系は、仏教との所縁が深く、この坊主ケ滝も、嘗ては修験僧たちの修行の場であった。
 高さ十五米、幅三米、勢いよく落ちる水を湛えた滝壺は深い淵となっている。

 金山登山道の入口に当たるこの滝の清流は、坊主川を下って室見川に注ぎ、夫婦石浄水場を経て、福岡市民の大切な飲料水となっている。

<感想>

 こちらの滝も動画で拝見しました(ありがたい時代ですね)。

 起句の「筑前第二瀑」は、「花乱滝」の詩の「筑前第一瀑」と対応するわけですが、こうして読むと、名所歌のような趣ですね。
 三味線の伴奏が聞こえてきそうな、おしゃれな印象ですよ。

 結句の平仄が苦しいところでしたね。「無常諸行」ならば良いのでしょうが、耳に馴染んだ「諸行無常」の方がどうしても浮かんできますので、語順を逆にするといっぺんに説明調、散文的になってしまいます。
 ぐっと我慢しての結句でしょうね。



2016. 9.10                  by 桐山人
























 2016年の投稿詩 第259作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-259

  偶作(葡萄園)        

果樹農園萬緑時   果樹 農園 万緑の時

紫房飛玉賞心奇   紫房の飛玉 賞心奇なり

葡萄美酒觴詠興   葡萄の美酒 觴詠の興

今古西東不可疑   今古西東 疑ふべからず

          (上平声「四支」の押韻)



<解説>

 自宅のテラスの葡萄棚は、今年、葡萄が豊作です。

   飛び玉や美酒献杯の遠からず

「飛び玉」: 熟す前の、緑色の房の中で一粒だけポッと薄赤紫色に色づいた葡萄の粒を「飛び玉」と言う。

<感想>

 私の家の庭にも葡萄が一本、何年も前に義父が植えておいたものですが、毎年葉だけはよく茂って、一応座敷への日差しの強さを和らげてくれる効果だけは持っています。
 昨年から実がなるようになりまして、孫に自慢げに食べさせましたら、「じいちゃん、これ、酸っぱいし種がある」と散々な評判。
 今年はやや気合いが抜けて目を放していたところ、あっという間に葉が虫に食われてしまい、無残な姿になってしまいました。実がなるどころの話ではありませんでした。
 育てるのは簡単でも収穫は難しいことを実感しました。

 後半の、葡萄酒が「今古西東」愛され続けている酒だということ、全くその通りで異論はありませんが、飲み過ぎないように注意しなくてはいけませんね。
 私は体質かもしれませんが、葡萄酒を飲み過ぎると、翌朝、後悔することが多いです。

 転句の「詠」は仄字ですので、「詠觴」とひっくり返すか、別の言葉にするか、ここだけ直した方が良いですね。




2016. 9.15                  by 桐山人
























 2016年の投稿詩 第260作は 岳城 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-260

  夏雨        

風起油然白雨來   風起り油然 白雨来たる

電光閃閃一声雷   電光 閃閃 一声の雷

旱災消滅天然力   旱災消滅 天然の力

人畜稲粱生気回   人畜稲粱 生気回る

          (上平声「十灰」の押韻)



<解説>

 日照り続きの後の一雨は生き返った様な心地です。
 改めて自然の力には感服します。


<感想>

 岳城さんから七月の終わりにいただいた詩ですが、雨が少なく、関東地方ではダム底が見えるくらいに干上がったというニュースが流れていた頃ですね。

 現在では、東北や北海道では水害の心配が深刻になっている状況ですので、まことに「天然力」を感じます。
 (もっと早く掲載すれば良いのだ、とお叱りの言葉があちこちから聞こえてきそうですが)

 起句の「油然」は「雲が次々とわき起こる」という意味で、「風起」と並んで、緊迫感を漂わせる言葉ですね。

 承句で一気に雷の鳴り響く世界に入り込んでいきますが、この承句で雷の話を完結させたのが、転句からの変化を自然にしていますね。

 結句の「人畜稲粱」は、農村を意識したものを選んで並べましたが、視野を広げて「万物」と一言で済ませても良いかと思います。
「万物清新」で「生気回」と重なるかもしれませんが、感動が強いという意味で許されるかなという感じもしますが、どうでしょうね。



2016. 9.15                  by 桐山人
























 2016年の投稿詩 第261作は 緑風 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-261

  夏日即事        

炎威欲避古堂辺   炎威 避けんと欲し 古堂の辺(ほと)り

緑樹鬱蒼包乱蝉   緑樹 鬱蒼 乱蝉を包む

遠望夏雲似奇嶺   遠望すれば 夏雲 奇嶺に似る

俄而白雨変青天   俄而(がじ)の 白雨 晴天を変える

          (下平声「一先」の押韻)



<感想>

 緑風さんのこちらの詩も、前の岳城さんと同じく、夏のにわか雨を持ってきたものですが、前半の「古堂」が情景を細かくしていますね。
 その分、雨の描写が慌ただしくなった感はありますが、それぞれの特徴が出ていると思います。

 結句は、本文が「青天」、読み下しは「晴天」ですので、どちらに統一するかですが、「白雨」との対比で考えて「青天」としたのかと思います。

 転句までは丁寧な描写で、これだけ描けていれば、題名も「即事」では寂しく、もう少し詳しくして「夏日遇雨」「郊村遇雨」のようにしてはどうでしょうね。

 結句は「白雨」「俄而」ではありきたりで、転句までの句の勢いが一気にしぼんでしまいます。「白雨」にどういう形容をつけるかが、詩人の勝負所です。
 この詩は、ここでもう一工夫も二工夫もする価値のある作品ですので、頑張って推敲してみてください。

 「変」は「改」の方が良いでしょうね。



2016. 9.15                  by 桐山人



緑風さんからお返事をいただきました。

鈴木先生
京都ではご指導有難うございました。

「夏日即事」を推敲しましたのでよろしくお願いします。
  夏日遇雨 (推敲)   夏日雨に遇ふ

炎威欲避古堂辺   炎威 避けんと欲し 古堂の辺り
緑樹鬱蒼包乱蝉   緑樹 鬱蒼 乱蝉を包む
遠望夏雲似奇嶺   遠望すれば 夏雲 奇嶺に似たり
雷神白雨改青天   雷神の白雨 青天をかえる

2016. 9.27             by 緑風


 結句の「雷神の白雨」というのはしっくり来ませんね。
 「雷神急雨」として「雨を急がす」とした方が良いでしょう。

 私の予想では、「沛然」「紛紛」、あるいは「急雷」などが来るかと思っていましたので、やや近かったかなという感じですね。

2016. 9.27               by 桐山人






















 2016年の投稿詩 第262作は 哲山 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-262

  老境        

曠日弥長老   日を曠(むな)しくして長きに弥(わた)る老

身衰困苦多   身衰え 困苦多し

何悠悠自適   何ぞ悠悠自適や

鬱鬱残生過   鬱鬱として 残生過ぐ

          (下平声「五歌」の押韻)



<解説>

 「曠日弥久」という熟語があったのでそれを使いたいと思ったのですが、「久」が仄韻なので「長」を持ってきました。

<感想>

 「曠日弥久」は『戦国策』の「燕卷」の終盤、燕の太子丹が荊軻と共に秦王暗殺を決意する場面に出てきます。
 太子丹のもとに秦を亡命した将軍が逃げてきた時、太子はかくまおうとしました。それに対して、お守り役の太傅は、秦に戦の口実を与えるだけだと反対しました。更に、近隣諸国と同盟し、遠方の国とは連合し、北の匈奴とは講和をはかるべきだと進言します。
 太傅のこの穏当な方策に対して答えたのが、次の言葉です。

 太子丹曰く、
「太傅の計、日を曠しうし久しきに弥る。心、&324829;然として須臾すること能はざるを恐る」


 つまり、太子は「太傅の策は無駄に日が過ぎるだけで、(そんな悠長なことには)私の心は一瞬も持ちこたえられない」と答えたわけです。

 太傅は太子丹の秦への恨みが深いことを悟り、燕の智者である田光を紹介し、更に田光は自身が老いたことを理由に荊軻を推薦します。
 やがて、太子丹と荊軻は亡命将軍の首をみやげに、秦王に面会し、その場で暗殺するという計画を立てることになります。
 中国戦国時代で最もドラマチックな場面とされる「秦王暗殺」のプロローグですね。
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 人生を振り返って、長い間曠しい日々を送って来たことを憂うというのが起句の意味ですが、故事成語にこだわらずに、読み下しの方は「曠しき日長きに弥るの老」とした方が理解しやすいですね。

 全体を見渡すと、「何の功もなく老い、体も不自由になった、どこが悠々自適だ、鬱鬱と生きるばかりだ」ということで、詩としてはまとまっていますが、私の個人的な感想としては、四句全てがマイナスで、特に、鬱鬱とした日々がこの後ずーと続く、というのは重すぎて、どこかプラスと言うか、明るい方向が欲しいところです。
 詩を創る、このことだけでも私は人生の意義が深まると思っています。

 尚、結句は下三平ですので、ここは直さなくてはいけません。    

2016. 9.16                  by 桐山人



哲山さんからお返事をいただきました。

   老境(再敲)
  曠日弥長老   日を曠(むな)しくして長きに弥(わた)る老
  身心困憊深   身心 困憊 深し
  閑居懷故旧   閑居して故旧を懷へば
  山月仲秋吟   山月 仲秋の吟


2016. 9.30               by 哲山























 2016年の投稿詩 第263作は 秀涯 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-263

  初父子訪詩仙堂        

詩仙堂六月   詩仙堂の六月

雨過緑陰深   雨過ぎて 拷A深し

清室古情極   清室 古情極まり

行人都洗心   行人は都て心を洗ふ

          (下平声「十二侵」の押韻)



<感想>

 題名は「携子初訪詩仙堂」というところでしょう。

 すっきりとした仕上がりで、印象が深い詩です。

 結句の「洗心」という感情形容語で結ぶのはあまり好まれませんが、「都」という言葉に、第三者的な視点が感じられ、これは作者自身の心情を述べた句だとしても、客観的な叙景の趣が出ているように感じます。

 親子の旅の記念ということでしたら、逆に、「都」を「相」とすると良いでしょう。



2016. 9.16                  by 桐山人
























 2016年の投稿詩 第264作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-264

  神工鬼斧作才筆        

妙想天開見雷帝,   妙想 天に開けば雷帝見え,

神工鬼斧落山家。   神工の鬼斧 山家に落つ。

幸哉靈感使詩筆,   幸いなる哉 霊感 詩筆をして,

自走紅箋描墨花。   自走し紅箋に墨花を描かしむ。

          (中華新韻一麻平声の押韻)



<解説>

 私は、平仄と押韻の要求に沿って言葉を置き、その言葉からの連想を自由に詠むことを心がけています。
 この作は「妙想天開」という四字成語の字面からの連想ですが、
 私個人の退屈な経験をなぞってみても楽しいはずがないので、私は作詩に、詩の言葉によって初めて可能となる超個人的な経験を求めることにしています。
 言葉は本来超個人的なもので、多くの先人の魂がそこにこめられているといえ、その声を聞こうとすることで、 一個人の退屈な経験からは期待すべくもない言葉の活力、言葉のelan vital(生命の飛躍,生の躍動)を詩に持ち込むことができると思っています。
 なお、拙作、起句は韻を踏んでいません。


<感想>

 「妙想天開」はあまり知られている四字成語ではありませんが、「妙想」の意味は「奇抜な発想」、それが「新しい世界を開く」ということでしょうね。

 鮟鱇さんは、この「妙想」が生まれるのは制約がある漢詩だからこそというお考えですね。

 「平仄や押韻があるので自分の思った言葉が使えない」とは良く聞く言葉で、確かにそれも否定はできない感情でしょうが、「思い通りに行かない」ということは「思ってもいなかったものが生まれる」ことで、そこに「霊感」「インスピレーション」「神が降りる」という個々人の日常を超越した発想の可能性があるということですね。
 平仄を合わせるために言葉を探しているうちに、詩がどんどん別の世界に行く、新しい光景が生まれてくるということは、漢詩創作の経験がある方は誰でも経験することで、それが鮟鱇さんのように楽しく面白いと思えるのは、柔軟な心、自由な心を持っているからでしょうね。

 そういうことで考えていくと、「妙想天開」は「妙想は天開く」と理解しても良いかもしれませんね。

 前半は「雷帝」の意図が分かりませんでしたが、稲光のようにピカー、ドカーンと脳みそに電撃を受けたというイメージでしょうかね。

 漢詩の句読点は句の切れ目を表す「符号」として日本以外の国では用いられているわけですが、日本語では句読点、特に読点は文意に影響を与えるため、単なる区切り符号ではなく、表現手段の一つになっている面もあります。
 例えば、この詩の転句結句は「霊感使詩筆自走紅箋描墨花」でひとまとりの文なので、「詩筆」の後に読点があると何となく違和感が避けられない。
 その辺りが、「日本人の漢詩」の一面かな、とふと思いました。



2016. 9.22                  by 桐山人






















 2016年の投稿詩 第265作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-265

  餐風沐雨        

老作俳人買笠蓑,   老いて俳人となり笠と蓑を買ひ,

餐風沐雨探山河。   餐風沐雨 山河を探る。

四時好景迎遊客,   四時の好き景 迎へたる遊客,

借宿坤輿得句多。   坤輿(大地)に宿を借りて句を得たること多し。

          (中華新韻二波平声の押韻)



<解説>

 題の「餐風沐雨」は四字成語で、風を喰らって飢えを充たし、雨水で頭を洗ふこと、旅行あるいは野外生活の艱辛を形容する言葉です。
 この作はその「餐風沐雨」からの連想で、芭蕉に倣って旅をする俳人を空想したものです。


<感想>

 「餐風沐雨」はひっくり返して「雨沐風餐」とも言うようですね。平仄は同じですので、どちらでも使えますね。

 「漂泊の詩人」と言うと、私達は芭蕉や山頭火を連想し、俳人を表すイメージが多いですが、「旅に病み旅に死す」の本家は杜甫ですね。それを裏切って、「俳人」と置いたのが味の出ているところですね。
 転句で「四時好景」と出したので結句を「得句」とさっぱりとした表現にしたのでしょうが、収まりが弱いようで、何となくムズムズとします。
 それこそ「妙想多」とか、天工の恵みのような言葉が欲しいと思いますが、いかがでしょう。



2016. 9.22                  by 桐山人






















 2016年の投稿詩 第266作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-266

  嘲風咏月        

嘲風上蜃樓,   風を嘲って蜃樓(蜃気楼)に上り,

咏月醉金秋。   月を咏んで金秋に醉ふ。

目下星星耀,   目下に星星として耀き,

天河耿耿流。   天河 耿耿と流る。

          (中華新韻七尤の押韻)



<解説>

 題の「嘲風咏月」は、風雲月露などの景象を描写し思想内容に乏しい作詩を意味する四字成語です。
 前衛的な詩人や厳しい現実を詠むべきだとする社会派の詩人からみれば、漢詩は多くの場合、「嘲風咏月」であるでしょう。
 しかし、そのどこが悪いのか、と私は思います。いろいろあってもよいではないか、と思います。
 そこで、私なりの「嘲風咏月」を詠んでみました。


<感想>

 「思想内容に乏しい」というのは、「思想」に乏しいのか「内容」に乏しいのか、どちらにせよ、詩に対して他人が批評する言葉ではないと私は思います。
 表現が適切かどうか、という話は耳を傾けるべきものだと思いますが、感動の量とか質は詩を書く本質であり、それを否定することは「これは詩ではない」と言うに等しく、そんな権限は誰にも無いと思います。
 と大上段に構える必要も実は無く、詩を書こうと思うこと、特に漢詩を書こうと思っただけでも素晴らしいというのが私の気持ですね。

 実景から離れ、花鳥風月で詩語集から言葉を並べただけ、という批判があるのかもしれませんが、詩題や詩語からイメージを広げ、平仄や押韻を合わせて言葉を選ぶ、この選ぶという行為は個人的な営みで、詩人の感性が表れるところです。
 同じ詩語を選んでも、「清風江月」とするか「江月清風」とするか、下三字に何を配するかで千差万別な世界が生まれるわけで、そういう楽しみを知っていれば、「嘲風咏月」をまさに「嘲」るという気持になります。

 そういうことで見ると、鮟鱇さんの今回の五絶は痛快ですね。



2016. 9.22                  by 桐山人






















 2016年の投稿詩 第267作は 芳原 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-267

  盛夏坐薄明        

薄明霄半杳   薄明 霄半ば杳し

倦枕氣蕭然   枕に倦みて 気蕭然たり

梢動誘簷馬   梢動いて簷馬を誘へば

流鶯促座禅   流鶯 座禅を促す

          (下平声「一先」の押韻)


「薄明」: 日出前、日没後に起きる現象。太陽の中心高度が−6度から−18度に在る時間帯を言う。


<感想>

 芳原さんと、先日の京都での桐山堂懇親会で初めてお会いしました。

 初めて投稿いただいたのが2006年でしたので、もう十年以上お付き合いをいただきながら、なかなかお会いできませんでしたのでとても嬉しく、楽しい歓談の時間を過ごしました。

 今回の詩は、時刻がよく分からない点があります。
 朝まだき薄明りの中、という書き出しですが、朝に「倦枕」、しかも「気蕭然」ということは眠れなかったのでしょうか。
 また、「簷馬」「流鶯」(これは「老鶯」の方が良いですが)も、午睡までは言いませんが外は明るい時の方が合いそうです。
 昼間と考えると、「促座禅」もすんなり入りますが、朝方に鶯の声で座禅というのはどんな状況なのか、読者をモヤモヤとした気持にさせます。

 全体として、「薄明」の時刻を大事にするかどうか、ですので、夜明け前の空気感が伝わるような形で統一して行くのが良いでしょうね。



2016. 9.23                  by 桐山人
























 2016年の投稿詩 第268作は 芳原 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-268

  老境賦        

晨鐘眠不足   晨鐘 眠り足りずして

半覺寂寥中   半ば覚む寂寥の中

鏡裏須臾夢   鏡裏 須臾の夢

歳華自問空   歳華 自ら空しきを問ふ

          (上平声「一東」の押韻)



<感想>

 先日、哲山さんからも老境の詩をいただきましたね。

 朝早くに目が覚めてしまう、ふと人生を振り返るのは、何となく眠りが足りずに気分がすっきりしないからかもしれませんね。

 過ぎた年月(「歳華」)をあっという間(「須臾」)と感じるのは、私も共感します。
 最近は、一日一日の過ぎるのが本当に速くなってきました。

 結句の下三字は、「自ら問ふに空し」と訓じた方が自然でしょう。



2016. 9.29                  by 桐山人
























 2016年の投稿詩 第269作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-269

  人生雑感        

偸生踰越迓米年   生を偸み 踰越して 米年を迓ふ

劫後幾多経変遷   劫後 幾多 変遷を経たり

老識雅懐詩亦拙   老いて識る 雅懐 詩亦た拙なり

独貪客意自漂然   独り客意を貪り 自から漂然たり

          (下平声「一先」の押韻)


「偸生」: 何もしないで長生きする。
「踰越」: 乗り越える。
「迓米年」: 米寿を迎える。
「劫後」: 戦後。
「客意」: 旅心。
「漂然」: ふらりと来たり去る。



<解説>

 何の取り得もなく米寿をむかえた。
 戦前戦後幾多世上の移り変わりに振り回され、
 老いて知る遊道も中途半端、
 漂白の癖が沸々と自ずから漂然の爺あり。

<感想>

 深渓さんには今年になってお会いする機会が多かったのですが、米寿とは思えない活動力に感服します。

 特に結句にお書きになったように、海外を一人で旅するのは体力的に大変だと思いますが、帰った後の旅行記を仕上げ、すぐに次の旅行の準備を始めるというエネルギーはすごいですね。
 シルクロードに行かれる前にお話したら、旅行記は現地の下調べも兼ねて、事前にほぼ出来上がっており、写真を入れれば完成するくらいだとのことでした。

 ますますお元気で、旅のお話が聞けるのを楽しみにしています。



2016. 9.29                  by 桐山人
























 2016年の投稿詩 第270作は 緑風 さんからの作品です。
 

作品番号 2016-270

  懐同級生     同級生を懐かしむ   

少時国破困窮憐   少時 国破れ 困窮憐れ

事後交情七十年   事後の交情 七十年

激変生涯懐旧夢   激変の生涯 懐旧の夢

悠悠八秩幾人全   悠悠 八秩 幾人か全うせん

          (下平声「一先」の押韻)



<感想>

 緑風さんのこちらの詩も、「老境」と言えるでしょうね。

 戦後七十年を過ぎ、まさに「激変生涯」というお気持ちは多くの方の共通の思いでしょうね。

 結句は「八秩」と年数を表す言葉がまた出てきて、気になるところです。
 「幾人全」も、「悠悠」たる「八秩」を全うするとなると条件が厳しく、妙に現実的になってしまう感があります。
 下三字を変えると、「悠悠八秩」で切れ目が生まれるのでそんな方向でどうでしょうね。
 あるいは、「悠悠老境静心全」としても良いでしょう。



2016. 9.29                  by 桐山人



緑風さんからお返事をいただきました。

   懐同級生 (推敲)
  少時国破緑困憐   少時 国破れ困窮憐れ
  事後交情七十年   事後 交情 七十年
  激変生涯懐旧夢   激変の生涯 懐旧の夢
  悠悠老境静心全   悠悠老境 静心全う


2016. 9.30           by 緑風