2015年の新年漢詩 第91作は 桐山人 の作品です。
 

作品番号 2015-91

  迎立春        

庭際南枝數蕾梅   庭際の南枝 数蕾の梅

寒中紅點告春來   寒中に紅点し 春の来たるを告ぐ

輕風柔軟滿茅屋   軽風 柔軟 茅屋に満ち

雅士陶然感興偕   雅士は陶然 感興を偕にせん

          (上平声「十灰」の押韻)

























 2015年の新年漢詩 第92作は 桐山人 の作品です。
 

作品番号 2015-92

  迎立春 其二        

滿地衰枯萬草頽   満地衰枯 万草頽れ

飢鴉凍雀絶鳴哀   飢鴉 凍雀 鳴くを絶えて哀れ

曉郊新踏凝霜路   暁郊 新たに踏む 凝霜の路

遶樹幽香一點梅   樹を遶りて幽香 一点の梅

          (上平声「十灰」の押韻)

























 2015年の投稿詩 第93作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-93

  庚寅信州諏訪大社御柱祭        

丈夫汗血解羅襦   丈夫 汗血 羅襦を解く

十里曳行人耳輸   十里曳行 人耳(のみ)で輸(はこ)ぶ

渡川降坂祠堂到   川を渡り坂を降(くだ)り祠堂に到らば

直立大樅~祜紆   直立す大樅 神祜(しんこ)を紆(まと)ふ

          (上平声「七虞」の押韻)



<解説>

 鈴木桐山先生はじめ、当サイト門下の皆様には、大変に御無沙汰してしまいました。
四国のサラリーマン金太郎です。

 まずは平成27年、明けましておめでとうございます。

 昨春3年を慣れ親しんだ職場から、定期人事異動で非常に繁忙を極める部署へと異動になり、旧年中作詩活動や、投稿など全くできませんでした。趣味の一つである、月3回の書道教室も休会している現状です。

 先立つ平成26年3月には、我が国漢詩界の巨星であり、恩師でもあった伊藤竹外老儒(全日本漢詩連盟副会長)が薬石功なくご逝去され、無常観にさいなまれるなか、これを機に平成26年度4月から愛媛県漢詩連盟も退会いたしました。
 もちろん漢詩創作は一生のライフワークに変わりはなく、当サイトへの投稿や雅兄との交流を励みに、創作を開始もしたいですし、定期的な投稿も現部署で今春異動がなければ再開させていきたいと考えています。

 私は、今年の誕生日で満48歳になります。年男です。
飛躍充実の年となるよう、努力精進をお誓い申し上げて、御無沙汰を謝し、年頭のご挨拶といたします。

 さて、今回の作詩の背景ですが、七年に一度の天下の大祭 平成二十二(2010)庚寅年 諏訪大社式年造営御柱大祭 (長野県無形民俗文化財 )を当時詠んだものです。
 次回は来年平成28年春に斎行されます。

 毎回春祭りですので、年度初めで仕事柄多忙につき、一度も拝見したことのない祭りですので、TV等を視聴して作詩しました。
 定年退職したら必ず行ってみたい日本を代表する大祭の一つです。

 祭礼の様子は、「信州諏訪 御柱祭ホームページ」にて。

<感想>

 サラリーマン金太郎さんの投稿が近ごろ無くて寂しい、とお感じの方もいらっしゃったでしょうね。
 解説に書かれていらっしゃるように師である伊藤竹外先生がお亡くなりになり、私も心配していましたが、やはりその悲しみが大きかったようですね。
 お仕事の面でも、48歳となると一番力を発揮する年齢でもありますから、なかなか詩作の時間が取れないかも知れませんが、「金太郎ファン」は結構いるんですよ。
 是非、若々しい詩を見せて下さい。

 今回の詩は諏訪大社の御柱祭(おんばしらさい)を詠まれたものですが、私も諏訪には何度も行きましたが、この祭り自体は見たことがありません。
 「坂道を人を載せた御柱が滑り落ちて行く」という「木落し坂」も、祭りの後に見た記憶はありますが。
 金太郎さんが定年退職したら、是非、日程を合わせて一緒に行きましょう。(でも、まだ10年以上はありますね)

 承句の「耳」の限定用法は文末に置くのが決まりですので、この位置ですと「人の耳」と読んでしまいます。
 「十里の距離を人力だけで運ぶ」ということですが、限定をつける必要はなく、「人が運ぶ」と書くだけでも十分伝わると思いますので、ここは「綱衆」「男衆」とか、中二字も変更して「十里山途人曳輸」など、色々考えられるでしょうね。



2015. 2.18                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第94作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-94

  藝州宮島        

弥山靈境錦楓丹   弥山(みせん)霊境 錦楓丹し

金碧回廊拜社壇   金碧回廊 社壇に拝す

平氏栄枯華表峙   平氏の栄枯 華表峙ち

潮盈階下撲朱欄   潮は階下に盈(みち)て朱欄を撲つ

          (上平声「十四寒」の押韻)



<解説>

 新年ですので、前作の「諏訪大社」、今回の「厳島神社」、当サイトのますますのご隆盛と桐山堂門下の皆様にとりまして、よい一年となりますように初詣めぐりで投稿してみました。

 起句と結句に赤色を表す字重なりが気になります。よい措辞があれば御教示ください。
もうリアルにこんな相談をする師(竹外翁)はこの世にいなくなりました。

「弥山霊境」: 広島県宮島にある神体山。頂上には巨石、磐座などがある霊域。

★関連サイト

宮島観光協会|観光スポット|嚴島神社

宮島・弥山の歴史探訪:宮島ロープウエー



<感想>

 2014年の一般投稿詩の掲載が遅くなり、本当にすみません。
 送っていただいたのは大晦日ですので、金太郎さんはきっと、「まあ、松の内、遅くても一月中には掲載されるだろう」と考えていらっしゃったのでしょうね。

 新年漢詩、交流詩、漢詩講座の文集作りと慌ただしくて、一般投稿がついつい後回しになってしまいました。
 「今年こそは掲載を早く!」といつも決心するのですが・・・。
 まあ、過ぎたことは仕方ないと気を取り直して(?)、頑張りましょう(??)。

 諏訪から宮島までの初詣、新年からスケールの大きな旅ができ、ありがとうございました。

 金太郎さんが仰る通り、全体に色を表す言葉(「錦」「丹」「金碧」「華」「朱」)が多く、華やかな色彩で良いとも言えますが、同じ色は避けたいですね。
 結句の「朱欄」は要のところで替えにくいですので、起句の韻字を検討ですね。
「錦楓」の字もありますので色は使わないように、ということで行けば「漫」が良いでしょうか。「完」「冠」「闌」も適うと思いますので、その辺りの選択かと思います。



2015. 2.18                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第95作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-95

  曾孫生誕        

甲午高嘶四代孫   甲午 高く嘶け 四代の孫

呱声如聴喜満軒   呱声 聴く如に 喜び軒に満つ

若是和予不恒有   若の是く 和予恒には有らじ

願健兼祈一族蕃   健を願ひ 兼て祈らん 一族の蕃るを

          (上平声「十三元」の押韻)



<解説>

 甲午11月28日嫡孫に長男出生の報あり、3900余瓦にして帝王の御厄介になるも母子健やかなりと。

<感想>

 ご誕生おめでとうございます。

 承句の「呱」は赤ん坊が泣いている声を模した形成字、「呱呱」と重ねると「おぎゃーおぎゃー」と声が聞こえそうですね。

 この承句は平仄が乱れているのと、「如」が気になります。
 この「如」は「聴くごとに」と読むのでしょうか。それならば、「毎」「度」でないといけませんね。

 平仄では六字目を平声にしますので、ひとまず「盈」として合わせておきましょう。

 転句の「和予」は「打ち解け合って楽しい」こと。
深渓さんは「ヒゲのおおじいちゃん」として、楽しい輪の中心にどっかと坐っていらっしゃるのでしょうね。



2015. 2.19                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第96作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-96

  御題 詠本 呈山本和義先生        

鴻孺上梓喜心多   鴻孺上梓しては 喜心多く

開巻低吟興趣和   巻を開き低吟すれば 興趣和らぐ

能使詩人爲益友   能く詩人をして 益友爲らんとするも

韋編三絶可如何   韋編三絶 如何とすべし

          (下平声「五歌」の押韻)



<感想>

 山本和義先生は喜寿をお迎えになったくらいでしょうか。
 蘇軾や江戸期の日本漢詩に関連した書籍でお名前を拝見することが多いですね。

 謝斧さんの今回の詩は、その山本先生の近著に寄せた詩になりますが、起句で出版を喜び、承句で内容の素晴らしさを出していますね。

 後半の「益友」は「自分に利益になる友」ということですが、金銭的なことでなく、「心を豊かにしてくれる大切な友」という意味合いです。
 ここは、先生と詩を通してお付き合いをしたいということですが、読書や研究にお忙しいでしょうからどうしたものか、という配慮の籠もった結びになっていますね。



2015. 2.20                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第97作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-97

  秋夕漫歩        

停歩郊歧曾水漘   歩ヲ停ム郊歧 曾水漘

遠聞蘆岸雁声頻   遠ク聞ク 蘆岸 雁声ノ頻リナルヲ

香餘野菊凋蓬隖   香ハ餘ス 野菊 凋蓬ノ隖

影淡江楓古社垠   影ハ淡シ 江楓 古社ノ垠

屡望老来為逸隠   屡シバ 老来 逸隠為ルヲ望ムモ

卻恥生計染浮塵   卻ッテ 生計 浮塵ニ染マルヲ恥ズ

寺鐘近報秋天暮   寺鐘 近ク報ズ 秋天ノ暮ルルヲ

切切寥寥迫此身   切切 寥寥 此身ニ迫ル

          (上平声「十一真」の押韻)



<感想>

 真瑞庵さんのこの詩は昨年にいただいたのですが、お手紙に文字化けがあり、確認で遅くなりました。
 何の調子なのか、最近、文字化けが結構あって、皆さんにご迷惑をお掛けしています。

 木曽川沿いの風景、真瑞庵さんが日頃歩きながら見つける季節のしるし、新しい発見がある度に新しい詩が生まれるのだと思います。
 「いつも同じ内容で・・・」と真瑞庵さんはお会いすると謙遜されていますが、私は楽しみに拝見させていただいていますよ。

 今回の詩は、頸聯の心情がその前の叙景からつながりにくい印象ですが、雁の声が「遠聞」だったり、「凋蓬」「江楓」も真っ赤っかと派手にするのでなく、「影淡」と持ってきて、しみじみとした雰囲気を前半から持ってきていますね。
 こうした素材の配置が真瑞庵さんの詩の工夫されたところで、いつも感心します。

 最後は一気に感情を高めて終るのも、効果が出ていると思います。



2015. 2.20                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第98作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-98

  小寒即事        

百八聞鐘既小寒   百八ノ鐘ヲ聞キ既ニ小寒

傾杯鼓舌盡春盤   杯ヲ傾ケ 舌ヲ鼓シテ 春盤尽ク

老來殊覺恥遲学   老イ来タリ 殊ニ覚ユ 遅学ヲ恥ヅヲ

几上惜時開筆端   几上 時ヲ惜ミテ 筆端ヲ開カン

          (上平声「十四寒」の押韻)



<感想>

 こちらは1月になっていただいた詩ですが、暦では今年の「小寒」は1月6日、「百八聞鐘」はどうしても大晦日と考えますので、どうしましょうね。

 「小寒」はどうしても節気だと感じますので「破歳寒」として、承句ですぐに新年のことに行かないで、「傾杯正旦盡春盤」とするとずれは解消されるでしょう。

 転句からの感懐は、「尽春盤」という正月の楽しい姿からは飛躍しています。
 逆に言えば、ちょっと厳しいですが、転句以降は正月でなくても良いことで、なぜここでわざわざ出さねばならないのかが浮かんできません。
 転句の上四字を検討されてはいかがでしょうか。



2015. 2.21                  by 桐山人



真瑞庵さんからお返事をいただきました。

感想、御意見ありがとうございます。
起句の[既]の文字、結句の[惜時]の文字に注目して頂ければと思います。

2015. 2.26        by 真瑞庵






















 2015年の投稿詩 第99作は 凌雲 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-99

  弔父        

三年街路遠   三年 街路遠く

銀杏尽枯枝   銀杏 枯れ枝に尽く

転居遺魂筆   転居 遺魂の筆

壇上短冊詞   壇上 短冊の詞

春嵐余命短   春嵐 余命短く

危篤電文知   危篤 電文知らせる

作句生前足   作句 生前足りしや

仙遊恐対机   仙遊 恐らくは机に対せん

          (上平声「四支」の押韻)



<解説>

 三年前急に他界した父を思いながら詩にしました。
 思えば暇さえあれば俳句を作ることに没頭してました。
 其夜は春の嵐が吹きすさぶ中だったと、記憶してます。

<感想>

 お父様が俳句を愛されていたことを、尾聯で比喩的に表されている点は、作者の詩に対する感覚がよく表れていますね。

 まだ推敲途中とのことでしたので、平仄の面も含めて若干気になる部分があります。
 推敲の参考にしていただくということで、今回は語句を中心に読ませていただきました。

 詩の中で特に唐突感があるのは、首聯の「三年街路遠」、また、頷聯の「転居遺魂筆」です。
 「三年」については、前作「離郷」で凌雲さんが六年前に離郷したと書かれていましたので、「故郷を離れて3年経った時」のことだと推測できます。
 しかし、前作を読んでないと「三年街路って何のこと?」となるでしょうね。
 個人として記録する詩ならば良いですが、自分以外の人が読むことを考えると「三年故里遠」「三年異客地」としておくところでしょうか。

 頷聯の方は、作者なのかお父様なのか、誰が「転居」したのかはっきりしませんが、どちらにしても、「遺魂筆」とのつながりが浮かびませんね。
 ここももう少し丁寧な描写が欲しいところで、特に対句の聯ですので、この上句がはっきりしないと下句も生きてきません。

 頸聯は「春嵐」「危篤」も、どちらも和語としての用法でしょうね。
 特に「春嵐」は、対句としても「危篤」とは合いませんし、意味的にも詩全体の中でも浮いていますので、使わない方が良いでしょうね。




2015. 2.21                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第100作は 越粒庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-100

  探梅        

十里春色浅   十里 春色浅し

停筇酒旆前   筇を停むる 酒旆の前

聊応此自適   聊か応に 此に自適すべし

何日達梅辺   何れの日にか 梅辺に達せん

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

 地植えの梅は雪にくるまっています。一足早く、梅見を想像してみました。
「何日」のニュアンスについてご教示いただければ幸いです。私は「まあ、そのうちに」のつもりなのですが。



<感想>

「何日」は通常は「いつになったら」という形で解釈しますが、越粒庵さんはもう少し軽い感じでとらえたいということでしょうね。

 これは詩の中のニュアンスの問題かも知れませんが、例えば有名な李白の「子夜呉歌」の「何日平胡虜 良人罷遠征」を「まあ、そのうちに」と解釈したら全然詩の内容が変わってしまいますよね。
 杜甫の「絶句」の「何日是帰年」も笑い話みたいになってしまうし、パラパラと『唐詩選』やら『三体詩』で見ても、悲嘆の思いを籠めて使っているのがほとんどです。
 王安石の「示長安君」の詩で、これは妹に送った詩ですが、その最後に「欲問後期何日是 寄書応見鴈南征」という句がありますが、これは無理すれば「いつかそのうちに」と読めないこともないかなとは思いましたが。

 越粒庵さんの気持ちをだすならば、「何日」を「他日」とするなど、別の表現が良いでしょうね。

 結句の「辺」は「前」の方が場面がはっきりすると思いました。



2015. 2.27                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第101作は 莫亢 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-101

  与幼駆雪橇        

捷疾降坵気爽然   捷疾として 坵を降れば 気 爽然たり

面皮頸領冷風穿   面皮 頸領 冷風穿つ

跳梁幾度無人管   跳梁 幾度か 人の管する無く

顛覆呵呵仰日辺   顛覆 呵呵として 日辺を仰ぐ

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

 スキー場で子どもとそりで遊んだ際のことを表現してみました。

<感想>

 雪の中でのご家族の楽しそうな雰囲気が感じられます。

 ただ、印象としては、スキー場でのことがバラバラと並んでいる印象がします。
 起句で「気爽然」、これは「気持ちよい」ということですが、承句で「冷風穿」が来ると「いやだなぁ」ということになり、流れとしては起句から逆接でつながり、結論としては承句の方を後半に引きずっていくことになります。
 起句と承句を入れ替えるだけでも、詩の趣が随分変わると思いますが、いかがでしょう。
 粘法と破った拗体として見れば成り立ちますし、正格にするならば平起式として転句と結句の平仄を合わせる形の推敲になりますね。



2015. 2.27                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第102作は 雨晴 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-102

  雪朝早起        

六花埋屋景観新   六花屋を埋め 景観新たなり

払暁推窓無一塵   払暁窓を推せば一塵無し

呵手喫茶炉火畔   手を呵し茶を喫す炉火の畔

蕪詩低唱快哉頻   蕪詩を低唱し快哉頻りなり

          (上平声「十一真」の押韻)



<解説>

 先日、珍しく雪が降り、早朝、窓を開け外を見たら、風景が一変していましたので、・・・・

<感想>

 雨晴さんからの投稿、四年ぶりですね。
 また詩を拝見でき、とても懐かしく、嬉しく思います。

 今年は東京での雪のニュースもよく聞きました。雪の時は本当に、一夜明けたら景色が一変、ということが多いですね。

 詩は丁寧に一つ一つのことを描かれていて、「雪朝早起」のお姿が映像を見ているように分かります。

 起句の描写がやや説明的で、「払暁押窓」の瞬間の感動が弱く感じます。
 語句を入れ替えて、例えば「推窓払暁景観新 埋屋六花無一塵」としてみると、また印象が変わるかと思いました。



2015. 2.28                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第103作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-103

  寓居雪日        

草庵竹畔隔煙塵   草庵 竹畔 煙塵ヲ隔テ

日日閑閑不厭貧   日日閑閑 貧ヲ厭ハズ

冠雪開花庭上景   雪ヲ冠シ 花開ク 庭上ノ景

坐簷酌酒酔中人   簷ニ坐シ 酒ヲ酌ム 酔中ノ人

応求荘子一場夢   応ニ求ムベシ 荘子 一場ノ夢

豈望士衡千里蓴   豈ニ望マンヤ 士衡 千里ノ蓴

唯惜非才且遅学   唯ダ惜シム 非才 且ツ遅学ナルヲ

几前荷捶歳寒身   几前 捶ヲ荷サン 歳寒ノ身ニ

          (上平声「十一真」の押韻)



<感想>

 頸聯の「士衡」は三国時代の呉の陸機のことですね。『世説新語』に「千里蓴羹」についての話が載っています。

 陸機詣王武子。武子前置数斛羊酪、指以示陸曰、「卿江東何以敵此。」
 陸云、「有千里蓴羹、但未下鹽豉。」(言語第二)

 陸機が洛陽の王武子(王済)を訪ねた。王武子は目の前に数斗の羊酪(羊の乳のヨーグルト)を置き、陸機に示して言うには、「あなたの故郷の江東では、何が此に匹敵するかね。」
 陸機が答えて言うには、「千里湖(昔、上海の辺りにあった大きな湖)の蓴菜(じゅんさい)の羹がある。ただ、まだ塩や味噌で味付けがしてないだけだ」と。
 陸機の言葉はやや難しく、「千里」は「干裏」、「未下」は「末下」(地名?)ではないか、とか言われますが、何にしろ都人の王武子に対して、自分の故郷の蓴菜のスープを自慢したことは間違いないようです。

 蓴菜については、更に西晋の張翰が故郷を偲んだ「蓴羹鱸膾(じゅんこうろかい)」という四字熟語も生まれているほどに、美味の代表だったものですね。

 ちなみに、陸機に出てきた「王武子」は「王済」の方がよく知られていますが、「漱石枕流」が生まれた故事の登場人物です。言い間違いをしたのは「孫楚」ですが、それを聞きとがめたのが「王済」、その指摘を更に負けず嫌いで強弁したから「強情で負け惜しみが強い」という成語になりました。

 説明が長くなってしまいましたが、真瑞庵さんの詩については、頷聯は対応を考えると上句の末字は「景」よりも「樹」でいかがでしょう。
 また、同じく頷聯ですが、下句は「酔中人」とありますので、「酌酒」は冗長に感じます。
 何か別の行為が入ると、この聯の対句が面白くなると思います。

 尾聯の「非才」は「才能が少ししか無い」ということで「菲才」の方が柔らかく感じますね。



2015. 3. 1                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第104作は 南芳 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-104

  叙勲        

穏和或日瑞雲披   穏和な或日瑞雲披く

降下叙勲歓無涯   降下す叙勲歓び涯り無し

生業工夫吾意適   生業の工夫 吾意適す

我家至宝感懐慈   我家の至宝感懐慈し

          (上平声「四支」の押韻)



<感想>

 南芳さんは、昨年の秋の叙勲で瑞宝双光章を受けられたそうです。
 以前に、大病になられた折の詩や手術を終えられた直後の詩をいただき、心配していました。
 受賞とご回復、本当におめでとうございます。

 起句は「或日」では具体性がぼやけてしまいます。
 叙勲の記念の詩ですので、「秋日」と季節を示すと良いでしょう。ついでに上二字も直して「清和秋日」、「秋天一日」でも良いかと思います。

 他の句はお気持ちがよく感じられる内容になっていますね。



2015. 3. 1                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第105作は 南芳 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-105

  謝辞        

結褵双鳳共敲鐘   双鳳褵を結び共に鐘を敲く

賀宴祝辞興更濃   賀宴の祝辞 興更に濃なり

感慨無量吾意足   感慨無量 吾意足る

高堂賓客好風重   高堂の賓客 好風重る

          (上平声「二冬」の押韻)



<感想>

 こちらの詩は、どんな場面で詠まれたものか、解説がありませんでしたが、「結褵」とありますので、どなたかの結婚式での謝辞だったのでしょうね。

 転句の「吾意足」は、承句で「興更濃」、直前の「感慨無量」と続くと重複感が出てきます。
 まあ、お祝い事の場合には重複もめでたいとされるので良いですが、詩としてはこの辺りで、感謝の言葉が入ると良いでしょうね。



2015. 3. 5                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第106作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-106

  偶成        

如身孤鶴在群鶏   身は孤鶴の群鶏に在るが如く

時服塩車何必凄   時に塩車に服するも何ぞ必ずしも凄たらん

不学弾冠貢公輩   学ばず弾冠の貢公の輩に

閑居酔夢武陵迷   閑居に酔夢して武陵に迷はん

          (上平声「八斉」の押韻)



<感想>

 謝斧さんの気概が表れた詩ですね。

 どの句も典故が入れられていますが、承句の「塩車」は「驥服塩車」、「驥が塩を積んだ車を引っぱている」ところから、能力に相応しくない(下級の)仕事についていることで、承句の「群鶏一鶴」と併せて、自分の力が十分に発揮できていないことを表します。

 転句の「王貢弾冠」は漢代の王吉と貢禹の故事ですが、友人同士でお互いに推挙することで、遅れた方は冠の塵を払って任官を待つということ、それを作者は「不学」ですので、仕官しようという気持ちがなかったことを示していますね。
 結句の「武陵迷」は武陵の猟師が山中を迷っていたらたどり着いたという「桃源郷」、そこに憧れていることを出していますが、暗に、陶潜のような生活を送りたいという願望も含まれているのでしょうね。

 前半に出たような気持ちをストレートに書くと、何となく偉ぶっているような印象になりますが、故事を絡ませて表現することで作者本人と一歩離れる感じで、穏やかな趣になりますね。



2015. 3. 7                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第107作は 松庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-107

  雨晴海岸        

天寒潮打怒濤聲   天寒し潮は打つ 怒涛の声

連嶂立山雪嶺清   連嶂立山 雪嶺清し

六十年前同學友   六十年前 同学の友

客窗眺望酒盃傾   客窓の眺望 酒盃傾く

          (下平声「八庚」の押韻)



<解説>

 先日、八十を過ぎた友、数人と富山氷見の海岸に一泊した時の思い出を詩にしました。

<感想>

 雨晴(あまはらし)海岸は、昔、源義経が奥州に逃れる際に通った所で、弁慶が岩を持ち上げて雨をしのいだという伝説から生まれた地名だそうですね。
 富山湾を隔てて見える立山連峰はすばらしい美しさだそうです。

 六十年前の同窓生と一泊旅行、楽しい旅でしょうね。
 私も大学の仲間と四十年来の付き合いで、年に一度は会うようにしているのですが、現役で働いている友もいれば親の介護で忙しい友も居て、日程調整がいつも難しい状態です。
 皆教職に就いていましたから、現役時代の方が「夏休み」を使うと一泊旅行などもしやすかったくらいです。
 でも、会えばやはり気心の知れた仲、話は尽きないのが常です。

 詩の前半は雨晴海岸を歩かれた折の景色、後半は宴会の場面ということで、屋外と室内という仕分けを松庵さんはしているのだと思いますが、読者からすると、「客窗眺望」と前半の景の区別がつきません。
 また、仮に両方とも同じ景色が見えたとしても、その後の「酒盃傾」との直接のつながりがありませんので、「眺望」がどうしたのかという疑問が残ります。

 楽しく昔話に花を咲かせた、というくらいの内容が良いでしょうね。「歓談懐旧酒盃傾」のような流れにすると、すっきりしてくるのではないでしょうか。



2015. 3. 8                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第108作は 哲山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-108

  春一番        

池陽魚影止如眠   池陽の魚影 止まって眠るが如く

梅枝花芳窗閣前   梅枝の花芳し 窗閣の前

吹断俄興塵芥舞   吹断俄に興って塵芥舞ひ

春風裳乱婦声嫣   春風の裳乱 婦声 嫣なり

          (下平声「一先」の押韻)



<感想>

 前半はのどかな春景色、それが転句で一転、突然の風に乱れていくという構成は、題名によく合っていますね。

 ただ、転句の平仄が「〇〇〇〇〇●◎」となっていて、せっかくの句が生きてきません。
「梅枝」と「梅樹」とするだけで解消することですので、気をつけましょう。

 転句と結句は、どちらも「春風」を表していますが、対象を「塵芥」から「婦声」に持って行くことで、変化が表れていますね。
 春一番もそんなに悪くない、という感じでしょうか。



2015. 3.16                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第109作は 東山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-109

  立冬偶成        

暮林楓葉落   暮林 楓葉落ち

村水柳枝垂   村水 柳枝垂る

散歩C光道   散歩 清光の道

白頭冬立時   白頭 冬立つの時

          (上平声「四支」の押韻)



<感想>

 前半を対句で組み立て、描かれる場面を視覚的なイメージで出していると思います。
 承句の「柳枝垂」をもう少し冬らしくすると、結句の「冬立」に繋がりやすくなるでしょう。

 転句はこのままでも良いですが、四句とも上二字が名詞ですとリズムが単調に感じます。
 前半の対句からの流れを切る意味で、「散歩」を「歩往」(歩き往けば)としてはどうでしょう。

 結句は「白頭」がやや浮いている感じで、この語と転句の「清光」を入れ替えてみると面白いのではないでしょうか。



2015. 3.23                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第110作は 東山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-110

  偶感        

春日花開宴集隆   春日花開いて 宴集隆んに

秋聲客散醉歌空   秋声客散じて 酔歌空し

人忘信義専重利   人は信義を忘れ 専ら利を重んじ

覆雨翻雲古今同   覆雨翻雲 古今同じ

          (上平声「一東」の押韻)



<感想>

 春には「花が開き」、秋には「客が散る」という対応にやや違和感を覚えます。
 起句は「花開」「宴集」として自然物と人を対しているのに対し、承句は「客散」「醉歌」も人のことになるからでしょうが、内容的にも「春からずっと宴が続いていた」ように感じるのは私だけでしょうか。
 「客散」を自然物にすると落ち着くように思います。その場合には「醉歌」では弱いでしょうが。

 結句は杜甫の「貧交行」から。この詩は杜甫が進士の試験に落ちた時に旧友に冷たくされたために作った詩で、人情の軽薄なことを詠ったものです。
 後半だけに限って見れば、転句の「人忘信義専重利」」とも良く対応して、これはこれで良いと思います。

 ただ、前半の記述から転句の「人情の軽薄さ」へと発展させるのは、どうでしょうか。
 私の近所の公園も、桜の時期には屋台も出て大賑わいになりますが、それ以外の時には閑散として寂れた感じになります。花が有れば来るくせに、花が無くなれば見向きもしない、という点で見れば確かに人の心は変わりやすいと言えるでしょうが、花見客にそれを指摘しても納得はしてもらえないでしょう。
 花が咲いているからこそ人は見に行くわけで、花が終れば見に行くことはない、それも自然な「人情」のように思います。
 冬の、人気の無い桜樹の下での、東山さんの実感なのかもしれませんが、理知が先行して、読者の共感は得られにくいように思います。

 転句の「重」は仄用ですので「貪」などに、結句は「古今」をひっくり返して「今古」にしておくと良いでしょう。



2015. 3.26                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第111作は 越粒庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-111

  江南春        

江南迎啓蟄   江南 啓蟄を迎ふ

田畝水温春   田畝 水温むの春

人語相聞少   人語 相聞ゆる少に

鶯声独寄頻   鶯声 独り寄する頻りなり

          (上平声「十一真」の押韻)



<解説>

 三月初旬、平地の雪が見えなくなりました。ようやく春実感です。

「江南」は三方を川に囲まれている当地にとって親しみのある詩語です。私はよく使い、困った時の「江南」と一人笑っております。
 四月になれば桃、杏、梨の花が斉放し、本当の江南になります。

<感想>

 越粒庵さんの仰る「江南」はどこのことなのか知りませんでしたので、「新潟 江南」でネットで検索しましたら、新潟市江南区が見つかりました。
 地図で見ますと、なるほど、信濃川と阿賀野川と小阿賀野川の三つの川に囲まれたところにあるのですね。
 ただ、実際の土地にこだわらずに、一般名詞として「江南」の場所と考えると楽しめる詩ですね。

 後半を対句で仕立てた形ですが、どちらも音であることと、「少」に対して「独」が余分な感じがしますので、結局、対の後半(結句)だけで良いように思いますね。
 「人語」でなく、何か人の行動にすると収まりが良くなるのではないでしょうか。



2015. 3.28                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第112作は 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-112

  冬夜偶成        

寒灯濁酒待春風   寒灯 濁酒 春風を待つ

白屋耽吟未成功   白屋 吟に耽るも未だ功成らず

餞歳光陰窮達外   餞歳 光陰 窮達の外

雄心如夢志将空   雄心 夢の如く 志将に空しからんとす

          (上平声「一東」の押韻)



<解説>

 昨年春から体調を崩し、勝手に休んでしまいました。
 どうやら娑婆にもどって来たようですので、改めてよろしくお願いします。

<感想>

 仲泉さんの投稿、お久しぶりですね。
 体調を崩されていたとのこと、お身体を大切になさってください。

 その関係でしょうか、内容的には重い感じで、余韻も重いですね。
 「未成功」「窮達外」「志将空」と下三字にマイナスの気持ちが続き、畳みかけるように沈み込んでいく印象です。

 承句の「白屋」は「茅葺きの粗末な家」で、杜甫の詩によく出てきます。
 この句は平仄(「二六対」)が崩れていますので、六字目を直す必要がありますね。

 転句の「窮達」は「貧困と栄達」、つまりは俗世の生活を表し、そうしたものから離れた生活をのんびりとして良いと思うこともあれば、良くも悪くも輝くことが無くなったと寂しく思うこともあるわけで、仲泉さんのこの詩は後者の方を出していますね。

 冬の夜の思いですので確かにそう明るくはならないでしょうが、どこかに気持ちの転換が欲しいところ。読者も暗いままで読後を引きずると辛いので、何か救いを入れると良いでしょう。
 そういう意味では、起句の「待春風」を結句に持ってくると良いかもしれませんね。





2015. 4. 3                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第113作は 松庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-113

  見雪梅        

未到東風寒又加   東風未だ到らず 寒また加わる

初鶯期待老翁家   初鶯期待 老翁の家

炉辺煎茗催詩興   炉辺茗を煎じて 詩興を催す

籬畔雪梅放数花   籬畔雪梅 数花放つを

          (下平声「六麻」の押韻)



<解説>

 一昨日の雪で、前日裏山で初鳴きした鶯もピタッと鳴かなくなってしまいました。

 3月11日前夜からの北風に名古屋は3センチ以上の雪。28年ぶりの三月の雪といいます。
 名古屋の少し北、犬山の我が家の庭にも十センチほど積もり、春を感じていた庭の紅梅にも雪が積もり、詩情をうながし、作詩しました。

<感想>

 三月になってからの雪は、さすがにびっくりでしたね。
 その頃はとても温かい日ととても寒い日が繰り返されて、体調が狂いがちでした。風邪を引かれた方も多かったのではないでしょうか。

 さて、詩の方ですが、前半を見ると「(春の)東風もまだだし、鶯も来ていない」ということですから、見るべきものはあまり無いということですね。
 ところが、転句で「催詩興」と来て、一体何が作者の心を動かしたのかと思うと、結句でようやく「雪梅」が登場して「種明かし」、という狙いでしょう。

 ただ、そんなに勿体をつける必要があるかどうか、疑問です。
 「籬畔」の梅が「数花」開いていれば、それだけでも十分な「詩興」になるわけで、更に加えて「鶯」や「東風」が欲しいと言っているように感じます。
 南宋の方岳に「雪梅」という詩がありますが、「梅と雪と詩」が揃えば申し分のない春だと言っていますからね。

 意図としては解説にお書きになったように、梅に積もった雪、つまり雪に焦点を当てたいのでしょうね。しかし、ただ梅に雪というだけでは、立春の時候でも通じること、結句の描写では伝わりませんね。(結句は「四字目の孤平」です)
 「天雪紅梅放数花」として雪を独立させると多少は存在が強くなるかもしれませんが、やはり主役は梅ですね。
 「籬畔紅梅帯雪花」も考えられますが、それよりも、転句に「紅梅籬畔催詩興」と梅を持って行き、結句に「春雪がまだ降っている」とすると、転句の働きが良くなるでしょうね。

 大きく変えるなら、起句と結句を入れ替えるという方向もあり、詩のイメージが随分変わると思います。
 また、検討してみてください。



2015. 4. 3                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第114作は 青眼居士 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-114

  繍眼鳥(めじろ)     繍眼鳥(めじろ)   

茅舎無梅樹   茅舎梅樹無し、

頽垣叢竹隣   頽垣叢竹隣る。

早鶯稀隠見   早鶯は隠見すること稀なるも、

小鳥屢駢臻   小鳥は屢(しばしば)駢臻す。

翆緑眉堆雪   翆緑 眉雪を堆し、

剽輕躬轉筠   剽軽 躬筠を転る。

聞嘗多罔是   聞く 嘗て是を罔すること多しと、

何若笯中賓   何若ぞ 笯中の賓。

          (上平声「十一真」の押韻)



<感想>

 青眼居士さんもお久しぶりですね。四年ぶりくらいでしょうか。
 お元気でいらっしゃったようで、再会が嬉しいですね。

 「茅舎」「頽垣」と最初に出して、自分の家であることを示し、梅と竹を配置することで次の「鶯」を連想させる伏線としていますね。

 題名になっている「繍眼鳥」は鶯とよく間違えられることで知られていますので、「小鳥」とあるのは「メジロ」のことだと分かります。
 「駢臻」は「並んでやって来る」ことで、鶯の姿は見られないがメジロがつがいで飛んで来たという場面でしょう。
 警戒心の強い鶯の「隠見」と対比されて、メジロの様子をよく出していますね。

 頸聯はそのメジロの姿を表したもので、「翠緑」は羽の色、「眉堆雪」は目の周りが白くなっている特徴を示しています。
 下句の「筠」は「竹」ですので、竹やぶのあたりをチョンチョンと身軽に飛び回っている様子でしょう。
 「躬」は「身」と同じ、「轉」は「まわる」と訓じているのだと思います。

 尾聯の「笯」は「竹かご」、現在は捕獲禁止になっていますが、以前は捕まえられることが多かったことを表していますが、「賓」で結ぶことで、メジロに対しての作者の愛情が出ていますね。

 一つ一つの言葉に配慮が施されていて、知らず知らず作者と同じ視点に立って行くという構成になっていると思います。



2015. 4. 4                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第115作は 雨晴 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-115

  春日閑居        

麗日山居隔世塵   麗日の山居 世塵を隔つ

南窓曝背有閑身   南窓に背を曝す 有閑の身

半眠半醒盧生夢   半眠半醒盧生の夢

覺得野翁沈思頻   覺得て野翁沈思すること頻りなり

          (上平声「十一真」の押韻)



<解説>

 大分、暖かくなりました。小生の現在の生活と重ね合わせた思いで作りました.

<感想>

 「山居」「曝背(ひなたぼっこ)」「有閑」などの常套句を重ねて、のんびりとした生活が感じられますね。

 その生活に安住しているのかと思うと、結句に「沈思頻」となって悩みがある様子が出てきます。「あれ?」と思うのですが、そのつながりを示してくれるのが転句の「盧生夢」、「黄梁一炊の夢」「邯鄲の夢」とも言われますが、「一生の栄華は一瞬の夢のようにはかない」という意味です。
 「隔世塵」という心境になっているのだが、「栄華の夢」をうたた寝で見てしまったので、つい昔を思い出して沈み込んだ気持ちになってしまった、という流れでしょうか。

 主題がこのようであるとすれば、転句の「盧生夢」が生きているわけで、よく構成されていると言えます。
 転句の処理にお悩みのようですが、この詩で見る限りは、工夫が見られ、効果がよく出ていると思いますよ。



2015. 4. 4                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第116作は 凌雲 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-116

  逢後送恋人実家        

復路残陽坂   復路 残陽の坂、

実家在近湾   実家 近湾に在り。

相期三日後   相期す三日の後、

暫隔二人間   暫し隔たる二人の間。

惜別寄添影   別れを惜しむ寄り添う影、

停輪恋慕顔   輪を停める恋慕の顔。

尾灯連五度   尾灯 五度連ねる、

佇送我車還   佇み送る我車の還るを。

          (上平声「十五刪」の押韻)



<解説>

 西暦も2000年も15年も過ぎ、生意気にも詩の世界に新しい風を吹きいれようと、新しい試みを詩にしてみました。
 蛮勇とお笑い下さればさいわいです。

 固より浅学の私は詩想の深い荘厳な重々しいものは無理だと悟ったのです。
 これも作風と言えなくもなし、と言った処でしょうか。生意気ですが。強引で乱暴になる言い訳に過ぎないですが。

 デートの後恋人を送るの意味で書いたのですが、デートの適当な訳語が分かりません。
「輪」はハンドルでもホイールでもいいです。
「尾灯」自家用車のテールランプのブレーキ灯、「車」自家用の軽自動車。
 女房との青春の思い出を詩にしてみました。ご意見を賜りたく投稿しました。

<感想>

 若い恋人たちがデートをして、別れがたい気持ちが募るという青年期の心情を素直な言葉で表したいということでしょうね。
 そうした恋愛の熱情を詠んだものは、このサイトの投稿詩でも無いわけではありませんが、何と言っても、若い方が詠むということは、当事者であったり、あるいはまだあまり年月が経っていない分だけ、現実感とか実感が籠もっている感じがしますね。

 措辞も、本来ならば適当な古典詩語に置き換える部分も、そのまま口語的な表現が残って、それがまた効果を出しているとも言えます。
 ただ、日本語の口語の表現を多用すると、通常の古典詩を読み慣れた読者は違和感を感じるでしょうし、極端に言えば、詩語に直すのを敬遠したと言われてしまうかもしれません。
 その辺りを考えながら、詩として共感を得られるような方向で検討してみましょう。

 デートは「約会」という言葉がありますので、題名なり、どこかに入れると良いでしょうね。

 首聯は「復路」がおかしく、車でデートして同じ道を往復するわけではないでしょうから、ここは通常の「帰路」でよいと思います。
 次の句の「実家在近湾」はお二人の思い出なのだろうと思いますが、詩の中では、「実家は海の近くだった」という説明は他の句とつながりがないので、読んでいても途中で放り出される感じがします。
 叙景として、この時の海の様子とか潮風などを出しておく方が無難に思いますが、「或る日或る時の出来事」ではなく「デートの時はいつものこと」という意味で、季節感や具体的な景をぼかしたのかもしれません。
 二字目の孤平も避けたいですので、「実家」だけは「当家」にしておくと良いでしょう。

 頷聯は、離れがたい二人の気持ちが出ていますが、下句の「二人間」、「二人の間」というのはストレートな若々しい表現ですが、「人間」という熟語が先に立ちますので、ちょっと読みづらいですかね。
 『長恨歌』から借りて「二人」を「両心」にすると、多少は変わるかと思います。

 頸聯の「寄添」は口語の面白いところですが、「婀嬌」とか女性の形容を置いても良いでしょうね。

 尾聯はドリカムの名曲を思い出させますね。「連」は「点」の方が合いますが、下三連を避けたのでしょう。



2015. 4.13                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第117作は 玄齋 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-117

  三月十一日偶成        

三月悼詞懷病牀   三月の悼詞 病牀に懐ふ

家家流失尚荒涼   家家 流失して尚 荒涼たるを

萬人窮困多嘆慨   万人の窮困 嘆慨すること多く

幾度妖災奈夭殤   幾度の妖災 夭殤するを奈んせん

路險市民祈坦道   路 険なる市民の坦道を祈り

波平海岸眺斜陽   波 平らかなる海岸 斜陽を眺む

四年經歳心無變   四年の経歳 心 変ること無し

一國鍾情拜墓堂   一国 情を鍾めて墓堂に拝す

          (下平声「七陽」の押韻)



<解説>

三月に死者を悼んで弔う言葉を、病床の中で考えていました。
多くの家が流失してまだ荒れ果てて寂しくなったことを考えていました。

多くの人が困窮していることに嘆くことが多く、
幾度もの天変地異で、若くして人が死んでいくのをどうするのだろうと考えていました。

険しい道のりの市民の人たちが平らな道を進むように祈り、
波の穏やかな海岸で、夕日を眺めていました。

四年の月日が経ったけれども、気持ちが変わることはありません。
国中の気持ちを一つに集めて、お墓の前のお堂を参拝していました。

毎年のように震災のことを思い出しては、まだ多くの問題が現在進行形であるのに気づかされます。
今の自分に何ができるかをしっかりと考えていきながら、引き続き過ごしていきます。



<感想>

 玄齋さんからは、毎年東日本大震災の詩をいただきます。
 私たちももちろん震災を忘れるわけではありませんが、こうして詩を拝見して、気持ちを新たにしたいですね。

 第一句は、「三月の悼詞を病牀で考えた」とこの句で完結させるか、次の句につなげるならば「三月の悼詞 病牀でまだ東北の地が被災の中であることを考えていた」と「悼詞」でひとくぎりにするかですが、どちらにしてもすっきりしませんね。
 「病牀」に居られたことは題名に入れた方が良く、「三月十一日病牀偶成」として、この句は「還想悼詞三月牀」としてはどうでしょうね。

 頸聯は、下句は「海岸」で(私が)「眺」となるのに対し、上句は「市民」「祈」となります。
 文の構造が異なりますので、対句として読もうとすると、「市民で祈る」か「海岸が眺める」となり、どちらにしても聯として何が言いたいのかがすっきりしません。
 どちらも被災地の方々の目線が良いでしょうから、そういう形で推敲が良いでしょうね。

 尾聯はお気持ちがよく表れていると思います。




2015. 4.14                  by 桐山人



玄齋さんからお返事をいただきました。
ありがとうございます。
先ほどのご指導を参考に、次のように推敲しました。

   三月十一日病牀偶成  玄齋
  還想悼詞三月牀  還りて悼詞を想ふ三月の牀
  家家流失尚荒涼  家家 流失して尚 荒涼たり
  萬人窮困多嘆慨  万人の窮困 嘆慨すること多く
  幾度妖災奈夭殤  幾度の妖災 夭殤するを奈んせん
  波穩道平開險路  波 穏やかに道 平らかにして險路を開き
  身安心靜慰愁腸  身 安らかに心 静かにして愁腸を慰めん
  四年經歳思無變  四年の経歳 思ひ変はること無し
  一國鍾情拜墓堂  一国 情を鍾めて墓堂に拝す

[現代語訳]
家に帰って死者を悼んで弔う言葉を、三月に病床の中で考えていました。
多くの家が流失してまだ荒れ果てて寂しくなったことを考えていました。
多くの人が困窮していることに嘆くことが多く、
幾度もの天変地異で、若くして人々が死んでいくのをどうするのだろうと考えていました。
人々は波が穏やかになって道を平らにして険しい道のりを開いていき、
身を安らかにして心を暖かくして悲しい気持ちを慰めようとしています。
四年の月日が経ったけれども、気持ちが変わることはありませんでした。
国中の気持ちを一つに集めて、お墓の前のお堂を参拝していました。

引き続きしっかりと頑張っていきます。
宜しくお願いいたします。

2015. 4.24             by 玄齋






















 2015年の投稿詩 第118作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-118

  立春之夜迎客        

寒気却來温酒瓶   寒気却來しては 酒瓶を温め

炉邉迎客小茅亭   炉邉に客を迎ふる 小茅亭

酔呶向我無相話   酔呶しては我に向って 相話する無かれ

井底賀監眠未醒   井底の賀監 眠り未だ醒めず

          (下平声「九青」の押韻)


「酔呶」: 酔って喧しく喋る
「賀監」: 賀秘書監 知章



<感想>

 結句は杜甫の「飲中八仙歌」の冒頭、賀知章についての記述からのものですね。

  知章騎馬似乗船   知章が馬に騎るは船に乗るに似たり
  眼花落井水底眠   眼花 井に落ちて水底に眠る

 賀知章は南国の出身だったので騎馬があまり巧みでなかったとして、酔ってユラユラと馬上で揺れている姿を「似乗船」と表したのですが、酔って井戸に落ちてもそのまま水底で眠っていたというエピソードは楽しいですね。

 その話を持ってきて、「賀知章ではないけれど、私も酔っ払って眠りの世界に入っているのだから、大声で話しかけないでくれよ」と作者は語るわけですが、よく見ると、これは「迎客」の詩ですから、客人を迎えた主人の方が先に酔って寝てしまったという場面。
 私も何度か、客よりも先に酔って居眠りしてしまい、後で妻に「お客様に失礼だ」と叱られたことがありましたが、言い訳をすれば、これは実は客人との宴がとても楽しくて、ついついピッチが速くなってしまったというわけで、決して客人をほったらかして自分だけが良い気分になったということではありません。
 謝斧さんも、前半の記述から見ても、とても楽しいひと時を過ごされたからのことだろうと思います。
 あるいは、李白の「山中対酌(山中与幽人対酌)」の「我酔欲眠卿且去 明朝有意抱琴来」も意識されているのかもしれませんね。



2015. 4.20                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第119作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-119

  次韻東山先生玉詩        

初會交歡樽酒前   

兼珍之膳便成縁   

海山邸待師朋宴   

盟誓再逢詩一篇   

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

 先日、福岡天神三越「ライオン像」の前で、佐賀の東山さんと初めてお会いしました。
 10月の桐山堂の懇親会の準備を進めるということで、会場第一候補の「海山邸」で御一緒に晝御膳を食しながら、若干の打ち合わせを致しました。

 東山さんからいただいた玉作に次韻をさせていただきました。

  謝兼山先生     東山
初会大人獅子前
微醺美膳漢詩縁
桐山堂裡同心慶
一謝高懐繙玉篇

<感想>

 福岡太宰府での漢詩全国大会の漢詩の応募締め切りが迫っていますが、皆さん、もうお出しになりましたか。
 4月30日消印有効ですので、「まだ間に合います!」と先日全日本漢詩連盟からもご案内がありました。

 当日の大会と懇親会が終わった後、桐山堂の懇親会を開催したいと福岡の兼山さんと佐賀の東山さんにお願いしましたところ、お二人で準備を進めてくださっているようです。
 福岡に戻って懇親会も考えましたが、翌日の吟行会に参加される方も多いようですので、桐山堂の懇親会も太宰府近辺の方が良いかなと思っています。
 詳しいことを出来るだけ早く相談しようと思っていましたが、私がこの4月からまた現場に戻りましたので、日々慌ただしく、ついつい遅くなってしまってすみません。
 桐山堂の仲間の皆さんとまたお会いできることをとても楽しみにしていますので、よろしく。




2015. 4.20                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第120作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-120

  八十三歳有感     八十三歳感有り   

餘生幾許神知已   餘生 幾許 神ぞ知るのみ

魂魄無涯我識哉   魂魄 無涯 我は識らんや

八十三年一炊夢   八十三年 一炊の夢

須臾現世是蓬萊   須臾 現世 是れ蓬萊

          (上平声「十灰」の押韻)

   あの世にも咲くや現世の彼岸花




<解説>

 彼岸の中日に、お陰様で満八十二歳の誕生日を迎えましたので、拙詩「八十三歳有感」を創りました。

<感想>

 昨年末にご病気になられたそうで心配をしておりますが、まずはお誕生日のお祝いを申し上げます。
 秋の懇親会の手配もお願いしておりますので申し訳ない気持ちと、準備で元気を出していただきたいという希望と、その両方で、甘えさせていただいています。

 八十三歳というと、私はまだ二十年ありますが、その時に兼山さんのようにエネルギーを持っていられるか、と自問すると、とても自信がありません。
 自信はありませんが、後を追っかけて行く気概だけはありますので、人生の大先輩として私の前に君臨し続けてくださいね。

 転句は、私ならば「八」を「六」に換えるだけでそのまま使えるので、拝借しようかと思いましたが、つらつらと考えてみると、これまでの人生を「一炊夢」と言い切ることができず、まだこの先に波瀾万丈が待っているような気がして来て、なかなか兼山さんの心境に到達していないことを思いました。
 ということで、この句は二十年後にお借りすることにして、楽しみにしておきます。



2015. 4.22                  by 桐山人