2015年の投稿詩 第271作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-271

  曼珠沙華        

金風颯颯轉蒼涼,   金風颯颯として轉(うた)た蒼涼,

白首懸崖望碧江。   白首 懸崖にありて碧江を望む。

彼岸帶煙山色淡,   彼岸 煙を帶びて山色淡く,

此間隔界野情長。   此間(この地) 界を隔てて野情長し。

追思塵路無功譽,   追思(回想)す 塵路に功譽なきを,

期待天階通玉堂。   期待す 天階の玉堂に通ずるを。

目下紅花滿秋野,   目下に紅き花の秋の野に滿ちをれば,

殘魂蝶翅正堪張。   殘魂の蝶翅 まさに張るに堪ふ。

          (中華新韻十唐平声の押韻)



<解説>

 [語釈]
 此間:この地。
 野情:自然の情趣。
 玉堂:仙人の居処。
 殘魂:かろうじて生きている生命。孤独な魂。

 この律詩は、「NHK俳句」へ投稿した私の漢語俳句を、律詩に作りかえたものです。

  投句: 曼珠沙華下馬仰紅崖
      (中華新韵一麻平仄両用の押韻。華、馬、崖)

  読み: まんじゅしゃげうまおりあおぐあかきがけ

 落選でした。
 ほんとうは、「仰(あおぐ)紅崖」ではなく「瞰(みおろす)紅崖」にしたかったのですが、それでは読み下しが五七五にならなかったので「仰ぐ」にしました。
 しかし、そうしたところで入選はしなかった、と思います。

 投句して落選した作品はいわば死んだ子です。
 時を得ず場所を得ずに死んだ言霊です。
 私の漢語俳句の投句は、上掲作に限らずなべて落選、私の漢語俳句の苑は、墓石林立です。

 しかし、漢詩人である私は、死んだ子のために涙は流しません。
 漢詩人である私は、その骨を拾って漢詩のなかで生き返らせることができるからです。
 俳人石田波郷は、多作多捨を唱えましたが、それは彼が俳句しか詠まなかったからで、  漢詩も詠む私は、死んだ子の骨を拾って、それを漢詩に生き返らせることができます。

 ただ、死んだ漢語俳句を漢詩にして生き返らせること、大抵はうまくいきますが、時折り無理があります。
 「曼珠沙華」、この語の平仄は仄平平平で平仄があっておらず、詩のなかにうまく詠みこめません。
 固有名詞は平仄を考慮しなくてもよいのですが、私には気色が悪く、平仄のあわない語句を詩の中に置くことは、したくないからです。
 そこで一計を案じ、曼珠沙華の四字を絶句四句の句頭に配置し、鶴頭格とすることで、死んだ子を生き返らせました。

     五絶・曼珠沙華 鶴頭格

 曼辭滴筆尖,珠玉轉詩箋。沙上雲樓聳,華池舞女仙。
 ●○○●平,○●●○平。○●○○●,○○●●平。
    ○:平声。●:仄声。平:中華新韵八寒平声の押韻

  辭滴筆尖, 曼辭(美辞)筆のさきに滴り
  玉轉詩箋。 珠玉 詩箋に転がる。
  上雲樓聳, 砂上に雲樓(蜃気楼)聳へ,
  池舞女仙。 華(はな)さく池に女仙舞ふ。

 しかし、この作を詠んだあとで。あれこれ策を弄さずとも、題を「曼珠沙華」とすればよい、そのことに気がついたのです。
 題は詩の一部だ、ということに気付いたのです。
 そこで、最初が絶句なら次は律詩で、ということで詠んだのが上掲の作です。

 あれやこれやの回り道、お笑いください。


<感想>

 曼珠沙華と言えば、私の住む半田市では、童話「ごんぎつね」の作者新美南吉の生まれた地ということで、川沿いに二百万本の「ヒガンバナ」を植えています。秋になると真っ赤な絨毯を敷き詰めたように、一面美しく彩られ、観光客で賑わう場所になっています。
 「仰」と「瞰」の選択については、俳句としての見方は私にはわかりませんが、もし実景として「仰紅崖」があったなら、それは素晴らしい景色で、まさに天にまで続いていく感覚になるのだろうと思いますね。
 花自体も葉が無く、すっと伸びていて不思議な姿、「曼珠沙華」という名も天上に咲く花のことですから、鮟鱇さんが鶴頭格で書かれた絶句の「華池舞仙女」というイメージも納得できます。
 ただ、この五絶は、そのイメージを広げた形で、あまり実感が無く、美しい言葉がサラサラと流れていって、その分印象が薄くなります。

 律詩の方は逆に、作者が「オレはここにいる」と宣言しているようで、同じテーマの詩として並べて読むのも面白いですね。
 色を表す言葉を前半に多く出しているのは、最後の「紅花」を印象づける伏線でしょうか。

「野」の字が重複だけが気になります。「野情」は残したいので、「秋野」を変更でしょうか。



2015.12. 7                  by 桐山人





















 2015年の投稿詩 第272作は 鮟鱇 さんからの作品です。

作品番号 2015-272

  天香・留念第八届世界俳句協会大会        

四海俳人,         四海の俳人,

五洲騷客,         五洲の騷客(詩人),

張翼飛來蓬島。      翼を張って飛び来たる蓬島(日本)。

蒙古詩豪,         蒙古(モンゴル)の詩豪,

越南才士,         越南(ベトナム)の才士,

飲酒忘年歡笑。      酒を飲み年を忘れて歓笑す。

東西花貌,         東西の花貌,

競佳作、飛聲美妙。   佳作を競ひ、飛ばしたる聲は美妙。

馥郁滿堂香氣,      馥郁たる滿堂の香氣,

風流藝林芳草。      風は藝林の芳草に流る。

     ○              ○

句短情長麗藻,      句は短かくも情は長き麗藻,

地天通、全球瑰寶。   地天に通じ、全球の瑰寶(世界の宝)なり

上口阿拉伯語,      上口(なめらか)なる阿拉伯(アラビア)語,

正如聽教。         正に教へを聴くがごとし。

鬼斧神工技巧,      鬼斧神工(人間技ならぬ)の技巧,

過國境、吟魂作鵬鳥。 國境を過(こ)え、吟魂 鵬鳥となる。

萬丈凌虚,         萬丈に虚を凌ぎ(凌虚=高翔),

千年樂道。         千年 道を樂しまん と。

 

          (中華新韻六豪仄声の押韻)



<解説>

 今年の9月4日から6日まで東京の御茶ノ水で第8回世界俳句協会大会が開かれ,私は実行委員のひとりとして参加しました。
 大会では自作の漢語俳句を朗読するなどの機会を得ました。
 私が朗読した漢語俳句は

  理性   理性あり       Rationality:
  迷宮   迷宮に貘      labyrinth tapirs
  貘食夢  夢を食ふ      eat dreams

  羊性   羊のさが      Sheep's nature:
  共鳴   共に鳴いて     to follow the peaple
  從聚衆  大衆に従ふ    crying together

 など。この二首はそれぞれフランスと中国の聽視者に好評だったものです。
 作り方としては、

 1 全体で七言に詠み平仄を調える。
 2 二・二・三に句読し各句末で仄平仄(平仄平でもよい)の中華新韻の平仄通用の三箇所押韻をする。
 3 詩友金中さんの日本の俳句の漢訳理論のひとつ「一詞と一句」を作句に応用し、上二は一語とし、中二下三は五字句とする。
 4 日本語の読み下しをできるだけ五七五にする。
 私の漢語俳句は、他にもいろいろ試みていますが、今回は上記を作句の方針としました。

   さて、世界俳句協会大会は、大成功でした。
 俳句は芭蕉によって大きく変貌しましたが、世界俳句の発展は、俳句にとってそれに継ぐ大変革です。
 鎖国から開国へ 俳句維新と呼んでもよい変革が世界を舞台に展開しているのです。
 今回の大会では、世界の16の国と地域から詩人・俳人が集いましたが、モンゴルの俳句、ベトナムの俳句、アラビア語圏の俳句について新しい知見が得られました。

 俳句はもはや日本だけのものではなく、世界の詩人たちの国境を超える詩、いわば「詩人の共通語」として機能しています。
 世界の散文の共通語は英語ですが、詩文の共通語は、何語で詠んでもよい俳句・Haikuなのです。
 私の詩詞はデンマークやポルトガルの詩人には読んでもらえませんでしたが、私の漢語俳句は聴いてもらえ、読んでもらえました。
 それが、俳句・Haiku。
 上掲拙作はそういう思いに駆られながら、大会参加の記念に詠みました。

   天香 詞譜・雙調96字,前段十句五仄韻,後段八句六仄韻 賀鑄ほか
  △●○○,△○▲●,△▲△△○仄。▲●○○,△○△●,●●△○○仄。▲○△仄,△▲●、▲○△仄。△●△○▲●,○△▲△○仄。
  △△▲○▲仄,●○○、▲△○仄。△●△○▲●,●○○仄。△●○○●仄,●△●、○○▲△仄。▲●○○,○○●仄。
   ○:平声。●:仄声。仄:仄声の押韻。
   △:平声が望ましいが仄声でもよい。▲:仄声が望ましいが平声でもよい。

<感想>

 大会の成功、おめでとうございます。

 世界俳句大会という名にふさわしく、鮟鱇さんの今回の詞からは、沢山の国の沢山の言語が集まったものだということが伝わってきます。
 鮟鱇さんの気概、意欲が感じられる内容ですね。

 俳句の五七五のリズムは私たちにはあまりに染み込みすぎていて、「詩の韻律」というようなあらたまった感覚が出てこないくらいですが、「(世界の)詩人の共通語」ということですと、嬉しくなりますね。





2015.12. 7                  by 桐山人


























 2015年の投稿詩 第273作は 徠山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-273

  祝日本國球隊破南非共和国於橄欖球世界杯英格蘭大会     橄欖球(ラグビー)世界杯(ワールドカップ)英格蘭(イングランド)大会に於いて
       日本国球隊(チーム)が南非共和国(南アフリカ)を破るを祝す   

豈期捷報到吾郷   豈に期せんや 捷報 吾が郷に到らんとは

連敗三旬雌伏長   連敗 三旬 雌伏長し

名將率夫探務本   名将 夫を率ゐて 務本を探り

圖南成就姓名揚   図南 成就して 姓名揚る

          (下平声「七陽」の押韻)


「名将」: 日本チームを率いるオーストラリア人ヘッドコーチ エディー・ジョーンズ氏。
「務本」: 道の根本に力を尽す [論語、学而]。
     身体の小さい日本チームが外国の大男に対応するために、身体能力を鍛え直してスクラムなどのセットプレーを究めて
     相手を圧倒したことをいう。
「図南」: 大事業をはかる [荘子、逍遥遊]。これまで勝てなかった世界の強豪国に勝利したこと。



<感想>

 ラグビーのワールドカップは日本チームの頑張りで、国内がとても盛り上がりましたね。五郎丸ポーズは、私の五歳の孫も保育園で覚えてきたようで、いまだに真似しています。

 徠山さんはラグビーファンとのこと、胸がすく思いをしていらっしゃったでしょうね。
 承句の「連敗三旬雌伏長」という言葉は、ファンならではの言葉だと思います。

 転句の「務本」は『論語』につなげるなら「本を務むる」と読んだ方が良く、そうすると「探」があまり働いていない、と言うか、もっと強い言葉も有りそうな気がしますね。

 



2015.12. 8                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第274作は 徠山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-274

  橄欖球        

知否男兒雄壯遊   知るや否や 男児 雄壮の遊を

相爭互奪楕圓球   相争ひ 互ひに奪ふ 楕円の球

選良十五謀知略   選良 十五(フィフティーン) 知略を謀り

贏得扶桑第一流   贏(あま)し得たり 扶桑 第一流

          (下平声「十一尤」の押韻)



<解説>

 結句は、ワールドカップで世界の強豪国の仲間入りを果たしたことを指す。

<感想>

 こちらの詩も、「橄欖球」(ラグビー)の詩ですね。

 承句の「相爭互奪」は互文で、「相互に争奪」を分解し、対句にして並べたものです。「相互に争奪」ですと、単に説明しただけという印象ですが、「相争ひ互ひに奪ふ」と分けて読むと、対句の効果でリズムも迫力も生まれてきます。

 転句の「十五」はこれだけでは「十五人」と人数を表すわけではありませんが、「フィフティーン」と読むと、「ラグビーの選手」という意味が出てきます。
 その特有の読み方に頼った表現だ、という批判もあるかもしれませんが、時期が時期ですから、それほど無理な表現では無いと思います。

 決勝トーナメントに進めなかったのは残念でしたが、それは順位がどうというより、好調な日本のプレーをもっと見たいという気持ちからのものだと私は思います。



2015.12. 8                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第275作は 觀水 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-275

  萬聖夜(一)        

幽鬼女巫從北邙   幽鬼 女巫 北邙よりす

南瓜燈裏怪風光   南瓜灯裏 怪風光

市頭翁媼誰驚怖   市頭の翁媼 誰か驚怖す

却愛兒童妙扮裝   却って愛す 児童の扮装妙なるを

          (下平声「七陽」の押韻)


「萬聖夜」: ハロウィン。
「女巫」: 魔女。
「北邙」: 墓場。洛陽の北、邙山が墓地として知られることによる。


<解説>

 魔法使いやらオバケやら お墓のほうから来ましたか
 ジャック・オ・ランタンに照らされて あやしい姿が見え隠れ
 町のおじさんおばさんは 驚かないし怖がらない
 ちびっ子たちの仮装ぶり とても気に入ったのでした

クリスマスやバレンタイン並に日本風に定着しつつあるようなハロウィン。
個人的には、夏休みとクリスマス商戦の間にピッタリ収まるというタイミングが大きな要因なのだろうかと思っています。
子どもの通う保育園でも、地元商店街を仮想して練り歩くイベントを行っています。

<感想>

 ハロウィンについては、正直に言ってほんの数年前まで、私自身は日本に定着するとは思っていませんでした。
 墓場からの死者やらゾンビ、魔女などの仮装は、都会ならともかく、地方ではあまり好まれないと思ったからです。
 それは間違いではなく、超奇怪な仮装は(テレビカメラが入るような)繁華街くらいのようでしたが、行事としての存在は確立されたように感じますね。

 孫にかまけている私にとっては、プレゼントを用意するわけでもなく、お金も使わなくてありがたいイベントではありますが。



2015.12. 8                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第276作も 觀水 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-276

  萬聖夜(二)        

奇粧怪服鬧通宵   奇粧 怪服 通宵鬧(さわ)ぐ

飽盡交歡散市朝   飽くまで交歓を尽くして市朝に散ず

日出初知苦狼藉   日出でて初めて知る 苦だ狼藉たるを

晩秋詩興自枯凋   晩秋の詩興 自ら枯凋す

          (下平声「二蕭」の押韻)


「市朝」: 町なか。



<解説>

 奇々怪々の装いの 騒ぎは続く一晩中
 心ゆくまで楽しんで 帰りは散りぢり町のなか
 お日さま出てからわかったが 何ともひどい荒らしよう
 秋の終わりを詠う気も 自然にしぼんでしまいます

こちらはテレビ等で報じられている渋谷あたりの様子をご想像いただければと思います。
定着・成熟するまでの一過性の事象なのか、それとも翌日の残念なニュースも含めて風物詩となってしまうのか、前者であってほしいものですね。

<感想>

 こちらはハロウィンの翌日、宴の後の報道で話題になったことですね。
 ゴミが散らかって汚れていたこと、それをボランティアの人達が拾って掃除をしていたこと、どちらもニュースになっていましたね。

 基本的には「祭り」と言うか、人が多く集まればゴミは出るものです。
 祭りの会場に大きなゴミ箱を用意したり、集積場をあらかじめ設けるようになったのは、それほど昔からのことではないわけで、祭りに来てくれたお客(ゲスト)の出したゴミは、迎える主催側の係(ホスト)が片付けるのは当然のような気持ちがあったと思います。
 マナーが向上したからか、後から集めるのが大変だから先に用意したのか、ともあれ、経験を重ねていくことが大切でしょうね。
 私は、来年はきっとそれほど「狼藉」の状態にはならないだろうと楽観しています。
 別に渋谷だから私には関係ないということではなく、若者を信頼したいし、信頼できると思っているからです。



2015.12. 8                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第277作は 地球人 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-277

  紅葉        

晴空遠処望飛鴻   晴空 遠処 飛鴻を望む

極目遥山千住紅   極目 遥山 千住紅なり

蟋蟀声高雨信蚤   蟋蟀 声高く 雨信蚤し

清渓似鏡映江楓   清渓 鏡の似く 江楓を映す

          (上平声「一東」の押韻)



<解説>

 秋が深まり青空と紅葉で綺麗な風景を描こうとしました。

<感想>

 起句は良いですね。

 承句の「千住」はどういう意味でしょうか。「辺り一面」という感じでしょうか。
 実はここで「紅」を出してしまうと、結句の「江楓」が生きてきません。
 承句では我慢して紅い色を出さないようにするか、結句に別の色を出すか、どちらかにしたいですね。
 私の感じでは、秋の風を入れてはどうかと思います。

 転句はどうして「雨信蚤」を出したのか、現在降っていないとしても「蚤(はやし)」ですから雨雲が近づいてきているのでしょう。そうなると、前半や結句の景が全く生きて来ないわけで、景としては矛盾したものになってしまいます。
 ここは別のものを描く、例えば作者自身が何をしているのか、という観点で考えてはどうでしょうか。

 結句は言葉が重複している感がありますので、「似鏡」と「映」も重複感がありますが、(承句の「紅」を取ったとして、ですが)ひとまず「映紅楓」くらいでどうでしょうね。


2015.12.10                  by 桐山人



地球人さんからお返事をいただきました。

ご指導有難うございました。
頂いたアドバイスをもとに手直ししてみましたが、如何でしょうか。

  紅葉(推敲作)
 晴空遠処望飛鴻   晴空 遠処 飛鴻を望む
 涼潤秋風喜歳豊   涼潤 秋風 歳豊を喜ぶ
 水閣看君留小飲   水閣 君に看い 小飲を留む
 河流清徹映紅楓   河流 清徹にして 紅楓を映す


2015.12.13             by 地球人


 転句に「水」を出しては、結句の「河流」が生きてきません。
 「蟋蟀声高」のままでも良いですが、「野径逍遙留小飲」などが考えられますね。

                  by 桐山人

























 2015年の投稿詩 第278作は 南芳 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-278

  公園風景        

清掃走者玉操人   清掃 走者 玉操る人

晩夏情趣日日新   晩夏の情趣 日々新たなり

耳静無蝉風物改   耳静かにして蝉無く風物改まる

公園樹木及芳辰   公園の樹木にも芳辰及ぶ

          (上平声「十一真」の押韻)



<感想>

 起句は公園に居る人達の群像で、掃除をする人、ランニングの人、ジャグリングをする人、こんな感じでしょうか。
 二字目の「掃」は仄声ですので、ここは平声にする必要もあります。「掃清」とひっくり返せば合いますが、公園の掃除とはちょっとニュアンスが違うような気もしますので、「掃除」でどうですか。
 下三字の「玉操人」は平仄は良いですが、「玉操る人」と読むのは助詞を省いた日本語読みで、漢文では「玉が人を操る」です。
 目的語(この場合は「玉」)が述語の下に来ないといけませんので「操玉人」が本来の語順、平仄を合わせて「戯球人」でしょうか。
 「掃除走駆戯球人」でワンショットというところでしょう。

 承句も「趣」は仄声ですので、ここに「風」を持ってきて「風情」、転句は「景物」としておきましょうか。

 結句は「晩夏情趣」「風物改」と大きな視点でまとめてきたことを、ここで「樹木」と狭くしていくのか疑問ですね。
 樹木のことを言いたいなら転句の「耳静」の代わりに入れた方が収まりが良くなります。
 ここは大きい視野のままで「公園早暁」として、下三字の「芳辰」も春のようなイメージですので「清辰」でしょうか。
 ひとまずこれで良しとして、下三字を見てみると「日日新」「景物改」「及清辰」と季節の変化を表す言葉が並びます。
 同じ趣旨の語を繰り返すのは、定型詩ではよほどの強調でなくては避けたいところ、そういう観点で推敲を進められると良いかと思います。



2015.12.10                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第279作は 酔竹 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-279

  払曉浴浩気        

露華霑草樹   露華 草樹を霑し

太白射晴空   太白 晴空を射る

鳥雀傳生氣   鳥雀 生気を伝へ

鐘聲起好風   鐘声 好風を起こす

          (上平声「一東」の押韻)



<解説>

 一月ほど前、夜明けに庭に出てみたところ清々しく大変気持ちのよい朝でした。
 空には雲一つ無く明星だけが強い光をはなっておりました。
 小鳥たちの元気な鳴き声を聞いていると、どこかの寺の鐘の音が風に乗って伝わって来ました。

 第四句を『遠寺鐘声起好風』として七言で作り始めましたが、他の句の主語に修飾語をつけると煩くなり過ぎるので五言としました。

 質問ですが、
 第一句の『霑』は『潤』としたかったのですが、平仄が合わず最初『滋』としました。しかし、漢和辞典には『滋』も『潤』と同じ様な意味が書いてあるのですが。中日辞典(講談社)には@増える、繁殖するA(揉め事を)引き起こすB美味とあり『うるおす』の意味しか有りません。この場合『うるおす』という意味で漢詩には使えないのでしょうか?

 また同様に、第3句『傳』は最初『回(めぐらす)』としましたが、中日辞典には『回』にその意味が有りません。
使えないと言うことであれば、詩語集に無い字を使う時は中日辞典で確認する必要があるのでしょうか?



<感想>

 まず、質問についてですが、漢詩を作る時に拠るべきは、漢和辞典であり、中日辞典ではありません。中日辞典は現代中国語を調べるもの、漢詩は現代中国語で作るわけではなく、古代(唐代)中国語で作るからです。
 現代中国語と古代中国語では、文法も語彙も意味も、時代で変化した部分が大きいので、逆に言えば、中日辞典に書いてあっても漢詩では使えない言葉も多くあります。

 起句の「滋」は「滋雨」と使うと「草木を濡らす雨」となりますように、「うるおす」という意味がありますので、使えます。ただ、「霑」はそれほど悪いとは思いませんが。

 転句の「伝」は「回」でも問題ありません。「回首」「回頭」という用法がありますから、大丈夫です。

 では、中日辞典はどういう時に使うか、と言えば、唐代には存在していなかった物や考えを、自分勝手な和製造語ではなく、本家中国ではどう言うかを知りたい時のためです。
 腕時計、鉛筆、自動車、テレビ、現代では当たり前の物も漢和辞典では調べようがありません。そういう素材は最初から漢詩には使わないという考えもありますが、漢詩という「古い器」に現代の人の心である「新しい酒」を汲むのも必要なことだと私は思っています。

 さて、詩の方ですが、平仄も整い、各句の描写も五言らしく、簡潔にまとめていると思います。
 残念なのは、それぞれの句の構成が、「二・一・二」(主語・述語・目的語)という形になっていて、読み下しを見てもわかりますが、下三字が同じリズムで、これは句の構成が単調になっていて、良くありません。
 五言の詩ですので、上二字は変化させにくいでしょうが、下三字を工夫して、どこかの句のリズムを変える必要があります。
 例えば転句を、鳥たちの鳴き声が元気だという雰囲気で「鳥囀浩然気」「鳥雀浩然囀」(鳥雀 浩然と囀り)とすると「二・一・二」となり、全体の中で変化が出ますね。

 表現としては、承句の「射」が明星の光の強さを表したのでしょうが、「射」は矢のように何かを貫く意味がありますので、金星の輝きが空を射ると言う程強いか、についてはどうでしょうか。
 星そのものの輝きを言うなら、「燦」が良いでしょう。

 結句は「起」が疑問です。鐘の音が風を起こす、というのは感覚的に伝わりにくいですね。
「伴」「伝」「催」など、ここは平仄は大丈夫ですから、色々な言葉を当てはめてみるのが良いでしょう。

 私の感じでは、承句の「晴空」が昼間の雰囲気があって、やや気になるところ。ここを朝の空ということで「東天」としてはどうでしょうね。そうすると、韻目が変わりますので

  露華霑草樹  露華 草樹を霑し
  太白燦東天  太白 晴空を射る
  鳥囀浩然気  鳥囀 浩然たるの気
  清風鐘韻伝  清風 鐘韻を伝ふ

 という感じでしょうか。

 五言と七言では情報量が違いますので、当然、表現が煩わしい印象になることもあります。しかし、必要なことを言うための二字だと考えれば、深みが増しますね。
 五言はどうしても、表現しきれない部分を読者に頼るところがありますし、気持ちを伝えるために無理な言葉を使ってしまいがちです。
 今回の詩で言えば、承句の「射」が無理をした言葉ですし、転句で「鳥雀」がどうして「伝生気」なのかについても、鳥が鳴いている声を表すことができれば随分作者の感情が明確になります。
 どちらが良いかということではありませんが、「煩くなり過ぎる」のを避けるような表現を探すことも、作詩の愉しみですね。



2015.12.10                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第280作は 越粒庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-280

  銀杏郷        

黄葉趁風堕   黄葉 風を趁うて堕ち

郊畦臭気留   郊畦 臭気留まる

公孫炮烙促   公孫 炮烙を促せば

肴膳賑高楼   肴膳 高楼を賑はさん

          (下平声「十一尤」の押韻)



<解説>

 近くに「銀杏の里」と売り出し中の村落があります。時季になれば黄葉見物の人で賑わいます。
 銀杏を踏みつぶして歩くので、車に乗り込んだ時は大変です。

 「コウ」の発音字が並んでしまいました。

<感想>

 一面の黄葉、散り敷いた落葉の枯れた音、晩秋の風景としては美しいのですが、銀杏(ギンナン)を踏んだ時の、あの臭気には確かに閉口しますね。
 随分以前に、部活動の引率で生徒を連れて行った時、その学校は県内有数の伝統校で、広い敷地の中に沢山の銀杏の木が大きく育っていました。
 一日練習試合を終えて帰る時に、相手の顧問の先生が「学校で採れたものです」と言って、袋にいっぱいギンナンをお土産に下さったことがありました。
 確かに、よく見ると、駐車場の辺りにも銀杏の実があちらこちらに落ちていて、はっと気付いた時にはもう踏んづけていました。
 帰り道、車の中はあの独特の臭いに包まれて、同行の教員と一緒に息を詰めるような感じで、いつもは試合の感想などを話しながら帰るのですが、その時は互いに無言で、苦笑しながら運転してきたことを思い出します。

 お土産の袋のギンナンは、町で売っているように汚れも無くきれいになっていました。学校の中のギンナンを拾って、きっと丁寧に洗ってくださったのでしょう、これも学校を愛する気持ちだなぁと思うとおそろかには食べられないという思いで、その夜に、特に味わって食べたことを思い出します。

 詩の方ですが、起句の「堕」は「墜」の方が用例は多いようですが、同じ意味で用いますね。

 転句の「公孫」は銀杏の別名「公孫樹」、これは「公(祖父)が植えてもギンナンが食べられるのは孫の代になってから」ということからの名前だそうですね。
 「炮烙」はどちらの字も「焼く・あぶる」、「ホウロク」と素焼きの鍋を表す(和語ですが)場合もありますが、ここは字義のまま、「あぶり焼き」ということでしょう。

 結句はどうして「高楼」なのでしょう、身分の高い人だけがギンナンを食べられるということなのか、と考えてしまいます。
 「酒楼」が適当でしょうが平仄が合わず、何か故事があるのかと考えましたが、分かりませんでした。「千楼」では意図が違ってしまうでしょうか。

 「コウ」の発音が並んだということですが、韻目も異なっていますし、現代中国語で読めば「黄 huang2」「郊 jiao1」「公 gong1」「肴 yao2」ですので、日本語で読んだときに同じ音になるということでしょう。
 それはそれで狙いとしては日本人には面白いかもしれませんが、漢詩的には逆に、四句とも頭が平声である方が逆に単調さを招くとも言えますね。
 もし気になるなら、承句を「歩畦」としてはどうでしょうか。



2015.12.20                  by 桐山人



越粒庵さんからお返事をいただきました。

鈴木先生:  錚々たる諸兄にまじって、小生の稚拙な作品が掲載されるのも度胸試しと思って、投稿させていただいております。

 先日は小生の「銀杏郷」をご掲載、ご指導の言葉をいただき、まことにありがとうございました。
先生の適切な評と思いやりある言葉使いに、いつも感心し、励まされております。

 さて、拙作「銀杏郷」で、”高楼”とは少し?というお話でしたが、実は「公孫樹」を辞書で引いた際、「公孫」なることばを隣に見つけ、貴族の子弟をも指すということでしたので、その関連で「高楼」と使ってみました。
 気持ちとしては、金持ちの旦那連がイチョウでも拾って調理してもらえば、料亭の立派な一品となろう、そんな感じです。
 今見なおして、なんと内容のない、まことに浅はかな表現であったと思いました。

 田舎暮らしの季節詠が主でありますので、なんとか機軸を改めんと頑張りますと、馬脚露見です。
素直で風趣ある詩境を求めていきたいと念願しております。























 2015年の投稿詩 第281作は 雨晴 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-281

  山行        

楓林石徑晩秋天   楓林 石徑 晩秋の天

霜葉真紅帯素烟   霜葉 真紅 素烟を帯ぶ

朋輩尋来塵外境   朋輩尋ね来れば塵外の境

兩三村舎正幽妍   兩三の村舎 正に幽妍

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

 杜牧の「山行」を意識して創りました。

 転句の「塵外境」と結句の「正幽妍」は平凡過ぎるかと思いますが・・・・・・。
 何かもっと良い「詩語」はありませんか?

<感想>

 杜牧を意識したということで、「楓林」「石徑」「霜葉」と言葉を借りましたが、「石徑」はどうでしょう。
 作者が実際に見て、「ああ、杜牧の詩と同じ景色だ」というのなら納得できます(そのように起句を解釈します)が、語句をただ借りたということでしたら、使わない方が良いです。
 「山行」の詩はどの句も生きています。この「石徑斜」は先例が無いわけではありませんが、まさに杜牧の絵画的な視点が表れたところ、「楓林」「霜葉」のような一般的な言葉と異なり、この言葉があるからこその杜牧だけの世界です。
 そこに入り込んでいくためには、実体験と敬意が必要で、そうでないとパロディで終ってしまいます。

 承句は「帯素烟」「真紅」の色合いを消しているように思います。「霜葉」が「素烟」を「帯」ぶ、という形で主述が対しているなら、「紅くなった葉がもやに包まれた」と解釈できますが、ここは「霜葉が真に紅く、かつ白いもやに包まれた」となり、紅い色は見えているのか見えないのか、真に紅いは本当はどのくらい紅いのか、疑わしくなってしまいます。
 「真」や「素」という字がやや不警戒だったように感じます。

 転句は読み下しですと「朋輩」が「尋ね来た」から「塵外境」になったということになります。
 句自体は「朋が(私の居る)塵外の境に尋ねて来た」と読む方が自然ですが、そうなると題が「山居」になってしまいますね。
 ひとまず朋輩は隠れてもらって、「此地尋来塵外境」という形で、訪れた山が「塵外境」だったとするのでしょうね。

 結句は「正幽妍」は「平凡すぎる」とのことですが、「塵外境」とありますので、陶潜から借りて「正悠然」と収めてはどうでしょう。

 言葉を入れ替えて少し整理しますと、こんな感じでしょうか。
 ご参考に。

  楓林蕭瑟晩秋天
  村舎両三迷素烟
  霜葉滿山塵外境
  旧朋与望正悠然




2015.12.20                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第282作は茨城県の 酪釜 さん、三十代の男性の方からの初めての投稿作品です。
 

作品番号 2015-282

  旅人仰星        

清遊徹夜履黄砂   清遊 夜を徹し 黄砂を履み

遥旅離春忘赤花   遥旅 春を離れ 赤花を忘る

描画九天君朗咲   九天に描画す 君の朗咲

宵明於昼泛星槎   宵は昼よりも明らかにして星槎を泛かぶ

          (下平声「六麻」の押韻)



<解説>

 徹夜して清けく歩く砂の上、
 春も遠く遥かな旅に賑やかさは無縁、
 その夜空に、君の笑顔を咲かせよう、
 この宵は、昼よりも明るく、夢見心地に。



<感想>

 三十代という若い方からの投稿、嬉しいですね。
 作詩経験が十五年、ということですので、大学生の頃から始められたのでしょうね。

 起句と承句で対句にした前対格で、対応もしっかりしていますね。
 「遥旅」は分かりますが、起句の「清遊」は徹夜で詩歌管弦を楽しんでいるような印象です。
 「長征徹夜」とし、そうすると「遥」と意味が重なりますので、承句は「独旅離春」で対応させてはどうでしょう。

 転句は「朗咲」が「清らかに澄んだ笑い」ということで、「朗」に思いがこもっているようですね。起句で削った「清」をここに入れて「君清貌」、あるいは「君笑臉」とした方が分かりやすいと思います。

 結句の「星槎」は空に浮かぶ「いかだ」、遥か遠く、天の川までも人を乗せて行くと言われますが、この句は幻想的な「宵明於昼」という場面を経て、遠く離れた故郷へ魂が飛んでいったという話ですね。
 まるで神秘体験をしたような趣で、大きなスケールで望郷の心が伝わってきます。

 漢詩文をよく勉強していらっしゃることが伝わって来る詩ですね。
 味わいも深いと思います。



2015.12.21                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第283作は Y.T さんからの作品です。
 

作品番号 2015-283

  迎八十一度秋有感        

老残閑臥舊茅廬   老残 閑臥す 旧茅廬

二萬九千三百餘   二万九千三百 餘

八十一年胡蝶夢   八十一年 胡蝶の夢

如今応覚壮心虚   如今 応に覚ゆ 壮心 虚しと

          (上平声「六魚」の押韻)


「二万九千三百餘」: “29300日あまり”の意味


<解説>

 鈴木先生 私も竟に八十歳を越え、今年八十一回目の秋を迎えました。
 生まれてから先月末迄の日数を、閏年も交えて数えてみますと、二万九千三百十三日になります。
 今回、これを使って詩を書いてみようと試みました。


<感想>

 Y.Tさんに直接お会いしたのは七年ほど前ですか、桐山堂の懇親会を名古屋で開いた時でしたね。
 桐山堂に投稿いただいてからはもう十五年を超えますが、近くに居ながらなかなかお会いできませんね。

 さて、八十一歳をお迎えになり、生まれてからの日数が二万九千三百余。
 日頃、一年の三百六十五日という日数でさえ覚束ない状態ですので、単位を改めてみると、それは見方を変えることでもありますので、長〜〜い人生を歩いていることが実感できますね。

 結句は「若い頃の気負った心も、今考えると大した物では無かったなぁ」という意味ですが、そこから行くと、転句の「胡蝶夢」は比喩としては合わないと思います。
 承句の「二万九千三百餘」という時の長さ、若かった頃の思い、ということでは「如逝水」の方が適するように思いますが、いかがでしょう。



2015.12.26                  by 桐山人



Y.Tさんからお返事をいただきました。

鈴木先生 Y.T. です。

「迎八十一度秋」に対して、 懇切なご教示、有難う御座います。
 無知をさらけ出して、恥ずかしいです。

 転句を次の様に改めます。

   「八十一年如一夢」(八十一年一夢の如し)

 今後とも宜しくご指導の程、お願いします。




Y.Tさんから再度のお返事をいただきました。

「迎八十一度之秋有感」の詩ですが、転句"八十一年如一夢”では「一」と「如」がダブります。
 転句と承句を次の様に改めます。

  八十一年如夢幻   八十一年 夢幻の如く
  祇今応覚壮心虚   祇今 応に覚ゆ 壮心 虚しと



私の差し上げた返事です。

 推敲案の「八十一年如一夢」は、「八十一」と「一」が対比されていることと、一句の中ですので強調の効果があり、重複についてはそれほど違和感がありません。

 「如夢幻」を「夢 幻の如く」と読んでいらっしゃるようですが、その読み方では「夢如幻」でないといけません。「挟み平」として考えればそれでも良いのですが、率直に言うとありきたりで、面白みがありません。
 「八十一年」という言葉がかなり重いので、そこを「一年」と受けるのは独自の発想ですので、推敲案のままで良いと思いますが、いかがでしょう。

2016. 2. 6           by 桐山人



Y.Tさんからのお返事です。

 懇切なご教示、有難う御座います。

 転句はそのまま、「八十一年 如一夢」とし、結句のみ「如今」を「祇今」とします。
 尚、「夢幻」の語、私のつもりは幸若舞の
「人生五十年 下天のうちを比ぶれば、夢 幻の如くなり」
の意味で使いました。


2016. 2. 6           by Y.T






















 2015年の投稿詩 第284作は 茜峰 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-284

  晩秋書懐(愛児童)        

虐待貧窮報道紛   虐待 貧窮 報道紛れ

児童煩悶耐埃氛   児童は 煩悶し 埃氛に耐ふ

欲孚温潤愛縁念   孚まんと欲す 温潤 愛縁の念ひ

願復近親年始欣   願はくは 近親に復りて 年始の欣びを

          (上平声「十二文」の押韻)



<解説>

 児童の虐待貧困について、たびたび報道される。

 私は児童福祉施設でささやかであるがボランティア活動をしている。
 児童は一見一般家庭の子供と変わりなく見えるが、小さい体に世の中の矛盾を背負って生きているのがわかる。
 正月も近親者のところへ帰れない子が多い。
 またそんな子が年々増えているようだ。
 せめて正月は肉親と過ごし、温かさ潤いを感じ、愛情と信頼の心が育まれるようにと思う。

 子供は未来の宝である。

<感想>

 今年は本当に、こうした子どもに対する虐待の悲しいニュースが幾度も報道されました。
 家庭内の虐待、公的施設での虐待、子どもの愛情を踏みにじる行為に何度も胸を痛めました。

 子どもは大人が守り、育てる存在であることを忘れている、あるいは知らない人たちは、自らも愛情を感じずに育ってきたのでしょうか。
 茜峰さんは直接、子ども達に接していらっしゃるので、切実な思いが深いでしょうね。

 転句の「孚」は「手で子どもを包む」の会意文字で、卵を抱きかかえて孵化させるように「大切に育てる」という意味を持っています。
 「はぐくむ」と訓読みしますが、この言葉も「羽+くくむ(包む)」で、親鳥が卵や雛を羽で包むようにすること。
 遠い昔から、子どもは大切に大切に育てられてきていたことが分かる言葉(字)ですね。

 まもなく正月を迎えますが、是非、温かさを感じて欲しいと私も願っています。



2015.12.1                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第285作は 哲山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-285

  五輪祭典        

群旗初戰歡呼聲   群旗 初戦 歓呼の聲

盛典終知憂愀情   盛典終って知る憂愀の情

古奠神祇今世祭   古は神祇を奠り今は世の祭

天河花炮夢魂驚   天河の花炮 夢魂驚く

          (下平声「八庚」の押韻)



<解説>

 オリンピックの漢語がわからないまま「五輪祭典」としました。

 古代オリンピックは神々の祭典であったはずですが、近代オリンピック以降は神々はどこかへ消えて人間の祭典となり、今や個人の記録祭典の感があります。
 それに皮肉を込めたつもりですが、漢詩になっているかどうか・・・

<感想>

 オリンピックは現代中国語では「奥林匹克(国際運動會)」と書き、省略して「奥運會」とも表記しますが、これは発音を当てたものです。哲山さんが書かれた「五輪祭典」の方が意味的には分かりやすいですね。

 起句は下三平になっていますので、ここは直す必要がありますね。
 前半を対句にしているようですから、そうすると起句は「初まりて戦ふ」と読むのでしょうか。「初めて戦う」「終に知る」と読む方が通常ですが、それでも意味が分かりにくいですね。
 「群旗聚戦喜呼声」「盛典閉知憂愀情」のような形でどうでしょうか。

 結句は「花炮」(炮はこの場合仄声)で、花火ということですが、この句自体は華やかな印象ですので、仰るような「皮肉」という感じはあまりしませんね。
 でも、それで良い、というか、詩としてはまとまっていると思います。



2015.12.27                  by 桐山人





哲山さんからお返事をいただきました。

 「五輪祭典」を以下のように改訂しました。

 群旗聚戦喜呼声
 盛典閉知憂愀情
 古奠神祇今世祭
 天河花炮夢魂驚

 皮肉の漢詩にはなっていないと自分でも思います。
「夢魂驚」の三字に神々の当惑を気持ちだけこめたつもりです。


2016. 1. 3            by 哲山




















 2015年の投稿詩 第286作は 哲山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-286

  田園辺     田園の辺り   

栄枯生死古今同   栄枯 生死 古今同じ

何以争心不朽功   何を以ってか不朽の功に争心する

一望田園甘雨近   一望の田園 甘雨近し

且為亀曳尾塗中   且に亀と為って尾を塗中に曳かんか

          (上平声「一東」の押韻)



<解説>

 「為亀曳尾塗中」は無論、『荘子』からの引用です。
 できれば人気の少ない山里あたりに隠れ住みたい願望があるのですが、すぐ近くにコンビニが一軒は無いと生きていけない自己矛盾に陥っています。

<感想>

 そうですね、近くにコンビニがあるという安心感は、自宅での生活だけでなく、旅に出た時も同じです。
 私も、ちょっとビールでも、とか、コーヒーとサンドイッチで軽く食事を、とか、この手軽さに慣れてしまうと、逆にコンビニが近くに無い場所などでは不安定な気持ちになります。
 中国や東南アジアに旅行に行くと、街でセブンイレブンやらファミリーマートの模様を見るだけで、ほっとしますからね。

 隠棲は、そうした手軽な便利さを捨ててこそのものという気がしますので、確かに哲山さんの仰る「自己矛盾」なることは納得できますね。

 題名の「田園辺」は「田園居」が良いと思います。

 転句がポツンと叙景として浮いていますが、他の心情を吐露した部分が結構ドロドロとして重たそうなので、それを洗い流してくれるような句として味わいが出ていますね。

 結句の荘子からの引用は長過ぎで、「曳塗中」の下三字だけでも良いくらいだと思います。



2015.12.27                  by 桐山人



哲山さんからお返事をいただきました。

 「田園辺」を次のように改訂しました。

  田園居
 栄枯生死古今同   栄枯 生死 古今同じ
 何以争心不朽功   何を以ってか不朽の功に争心する
 一望田園甘雨近   一望の田園 甘雨近し
 風狂襤褸曳塗中   風狂の襤褸 塗中に曳かんか

 題名の「田園辺」は「田園居」が良い・・・
 居とした場合すでに田園に居るとか住むということなら、町中に住む自分の思いでは田園を目の前にして初めてその中にとけ込みたいという感懐がわくと思うのですが・・・。
 居とすれば起承の二句はもっと淡々とした句か、不要になるように思います。
 題名を考えていたとき、田園も園田も辞書では同じ意味なので<園田の東>とすれば<エデンの東>に通じるのではと洒落 たつもりでした。ですが、ふざけ過ぎではと思ってやめました。

 結句の荘子からの引用は長過ぎで、「曳塗中」の下三字だけでも良い・・・

 言われてみればその通りでした。
 荘子のこの句が好きだったので省略は考えられませんでした。


2016. 1. 3             by 哲山























 2015年の投稿詩 第287作は 春空 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-287

  游師與朋作州     師と朋と作州に遊ぶ   

角磐雄大蒜山妍   角磐は雄大 蒜山は妍

黄葉丹楓五色氈   黄葉 丹楓 五色の氈

緩歩空吟時照相   緩歩 空吟 時に照相す

深秋得賞夕陽天   深秋 賞し得たり 夕陽の天

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

 10月の末に蒜山高原方面へ詩吟のバス旅行がありました。

 転句は最初は「時浅酌」としていたのですが、「行儀が悪い、歩きながら酒を飲むのは」と友に指摘されました。
「時憩息」「時止息」を考えました。また、「揺落径」もいいかなと思いましたが、ピンときません。
それで、中国語辞典に「写真を撮る」が「照相」とありましたので、使いました。

 結句もあれこれ考えました。
「清遊一日落暉圓」「暮雲曳彩落暉圓」よりは、「深秋得賞夕陽天」がいいかなと思いました。

 表現したかったのは、素晴らしい秋景色の中、一日皆と楽しく過ごせた満ち足りた気持ちです。


<感想>

 まず、題名ですが、「與師朋游作州」とした方が分かりやすいですね。

 起句はこれで悪くありませんが、「妍」は美しさを表しますので、せっかくの色鮮やかな承句がやや印象が薄くなります。できれば「円」と形状を表すのが良いですが、実像と異なってはいけませんので、ひとまず「妍」のままにしておきます。

 承句も細かいことを言えば、「黄」「丹」「五色」が数が合わないので、「黄葉丹楓錦繡氈」「霜葉黄紅」とするのが良いですね。

 悩まれた転句ですが、「時照相」は何が何やら、とにかく三文字入れたという感じですね。
 写真を撮ることも旅行の楽しみの一つですが、「師」「朋」との旅行ですので、やはり詩にからませたいところ、、「緩歩談詩時数詠」「緩歩行吟時案句」「倶歩清談吟数詠」でどうですか。

 結句は、私は「素晴らしい秋景色の中、一日皆と楽しく過ごせた満ち足りた気持ち」を言うならば、「清遊」の語が欲しいと思います。
 代案で出された「清遊一日」は良い語です。
 下三字は「晩秋天」で収まると思います。




2015.12.27                  by 桐山人



推敲作もいただきました。

 ご指摘をいただきました起句の「円」、目から鱗です。
 承句は「五色」を使いたいので「霜葉」に、転句、結句も変え、次のようになりました。

 まだまだ、語彙が少なく稚拙だと認識いたしました。

 いろいろご指導いただきありがとうございます。

   與師朋游作州   師と朋と作州に遊ぶ
角磐雄大蒜山圓   角磐は雄大 蒜山は円(まどか)なり
霜葉丹楓五色氈   霜葉 丹楓 五色の氈
緩歩歓談時数吟   緩歩 歓談 時に数吟
清游一日晩秋天   清遊一日 晩秋の天

※起句の読みですが、円(まどか)で体言止めにしたほうが全体のまとまりがいいでしょうか?

※転句は「談詩」にかえて「歓談」は使えますでしょうか?
 おしゃべりも楽しかったものですから。

2015.12.27             by 春空


 ご質問についてですが、「円」は体言止めで読むのが良いでしょう。

 「歓談」は良いですね。お示ししたものでは、「談詩」と「数吟」が重なっているような気がしていました。
 「おしゃべりが主で、時々吟詠する」という内容も、お茶目な感じがして良いですね。 2015.12.27             by 桐山人























 2015年の投稿詩 第288作は 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-288

  秋宵景        

緩歩桂香坐惹愁   緩歩 桂香 坐に愁を惹く

西郊丹柿入双眸   西郊 丹柿 双眸に入る

昏鴉幽賞金波湧   昏鴉 幽賞 金波湧く

清絶天空夕照収   清絶 天空 夕照収る

          (下平声「十一尤」の押韻)



<感想>

 落ち着いた秋の夕暮れ、金木犀の香りと赤くなった柿、鴉が鳴くので見上げると空には金色の月、夕暮れの空は澄んで夕日が沈んでいく。

 月が東の空に出て来て夕日が西に沈んでいく、この時間の微妙な移ろいが「秋宵景」という詩題にぴったりですね。

 「桂香」「丹柿」は季節として一緒かな?とも思いますが、あり得ないわけではないし、仲泉さんの見た実景かもしれませんので、良いですかね。

 起句が四字目の孤平になっていますので、ここだけ直せば趣のある良い詩になりますね。



2015.12.28                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第289作は 哲山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-289

  借問        

肯将活食也   あえて活くるをもって食べんや

応為飯生乎   まさに飯らわんが為に生くるか

孤往炎天下   孤り往く 炎天の下

垂頭唯影趨   頭を垂れ 唯だ影の趨るのみ

          (上平声「七虞」の押韻)



<解説>

 私の、「暑さにただうなだれて影が歩く」という俳句?を漢詩に試みたのですが、うなだれて影が歩くという日本語の感覚がうまく引き出せません。

<感想>

 後半は分かりやすいのですが、前半はまず、読み方が難しいですね。
 本来は「将活肯食也(活を将て肯へて食べんや)」「為飯応生乎(飯の為に応に生くるか)」となるのでしょうが、平仄の関係でしょうか。
 こうした対句での問答形式はシンプルな表現でないと、そもそもが哲学的な内容ですので、文意を理解することが困難になります。
 起句は二字目の孤平、下三仄になっていますので、ついでに合わせる形で、

  将生応食也   生くるをもって応に食らふか
  為食敢生乎   食らふが為に敢へて生くるか

 とし、同字重出ですが対句ならば良いですので(もちろん、他の言葉にしても良いですが)、主題ではない前半は分かりやすくした方が良いですね。

 後半の「うなだれて影が歩く」というのは、どこを指して「日本語の感覚」と言われているのか悩みますが、自分の影を第三者的に見るという点では、李白の「月下獨酌」にも、月と影と我と三人(?)で飲み、歌い、舞いを楽しむという場面がありますね。
 「うなだれて」が暑さにぐったりして、ということなら、「孤往炎天下」で伝わりますがわざわざ「往」と言う必要も無いので、「俯首炎天下」とすれば、結句の二字分がゆとりが出ますね。
 そこに、影がどのように歩くのか、という形容などが入ると、随分伝わり方が違ってくると思います。



2015.12.28                  by 桐山人



哲山さんからお返事をいただきました。

 以下のように「借問」の詩を改訂しました。

 将生応食也   生くるをもって応に食らふか
 為食敢生乎   食らふが為に敢へて生くるか
 俯首炎天下   首を俯(うなだ)れる炎天の下
 道唯地影趨   道は唯だ 地影 趨るのみ

どこを指して「日本語の感覚」と・・・

「暑さにただうなだれて影が歩く」の句、最初は<影と歩く>でしたが、その自分を消して<影が歩く>にしました。そのニュア ンスです。

前半はまず、読み方が難しい・・・

 対句の問答形式を漢文に構成するにも知識が乏しくて苦労し、ほんとに参考書やら辞書をひっくり返す有様でした。肯・将(あえて・もって)も初めて知った読み方です。
 そこにあった読み方や語句を何とかひっつけて作ったので、これ以外に直しようがありませんでした。

「俯首炎天下」とすれば、結句の二字分がゆとりが出ます・・・
「孤往」が不要とは指摘されて気がつきました。
 草稿の中に「垂首炎天下」の句もありましたが迷っているうちにやめました。
 結句はそのニュアンスに捕らわれてうまくいかず、「唯凝地影趨」ともしたのですが、凝する目がつきまとうのでやめました。
「道唯地影趨」で果たしてこれでいいかどうかわかりません。


 漢詩連盟から応募要項や会報が届きました。先生の「インターネットで国際交流」も拝読しました。
 ホームページ開設が平成10年とのことですが、もっと早く知っていたらと思います。
 お忙しい中、いろいろとありがとうございました。


2016. 1. 3            by 哲山






















 2015年の投稿詩 第290作は 酔竹 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-290

  願田夫安康     田夫の安康を願ふ   

秋時已過甫田涼   秋時已に過ぎ甫田涼たり

細径柿子残日光   細径の柿子残日に光る

一画禾頭希刈穫   一画の禾頭刈穫を希う

田夫消息願安康   田夫の消息安康たれと願う

          (下平声「七陽」の押韻)



<解説>

 一月半ほど前、地元の田園地帯を歩いた折の情景です。

 秋も深まり収穫時期もとうに過ぎ綺麗に刈り取られた田地は殺風景で、柿も大方葉を落とし夕日に照らされた真っ赤な実が光って見えます。
 一角の放置された田があり、畦は草ぼうぼうで、稲は頭を下げて、早く刈ってくださいとお願いしているようでした。

 此の稲を植えた農人は病気や事故で畑仕事ができなくなってしまったのだろうか?と案じた次第を詩にしました。

<感想>

 酔竹さんからは、初稿、再敲、再再槁と三通いただき、ご本人から「自身が十分に納得するまで推敲して、提出すべきでしょうが、それでは何時までたっても、出来上がらないので提出してしまいました。」とコメントもありました。

 推敲は勿論、平仄などの間違いが無いかを確認することから始まりますが、推敲を重ねて行くと、どこまで行っても表現に満足できないところに行きます。
 でも、それは仕方の無いことで、写真と違って詩は、自分の心という目に見えないものを文字や言葉を用いて表すわけですし、更にその心も時間を経ると変化してきます。

 作った時は完璧だと喜んだ詩も、時間が経つと色あせて見えてくることもあります。
 詩はそうした変化する物事や心を切り取って、記録するものだと私は思います。
 どこかで句切る、どこかで一旦終りにする、ということも、作詩では大事なことかもしれません。

 さて、詩の方ですが、「秋」は穀物を収穫する季節のことですので、「秋時」も「収穫の時」、それが「已に過ぎた」となると、単に季節の推移ではなく、もう一面収穫は終ったということになります。
 転句への導入にするつもりかもしれませんが、それは説明過剰で、転句の「一画だけ稲が刈って欲しいと願っている」という描写だけで、周りは刈り終えたことが十分に伝わります。
 晩秋を表す風物はいっぱいありますので、わざわざひっかかりそうな物を出す必要はありません。
例えば、「秋風□□甫田涼」だけでも、晩秋の感じは出ますので、中二字を調整すれば良いですね。

 承句の「柿子」は初稿では「菊花」でしたので、晩秋に合わせて変更したものでしょうが、「子」は仄声ですので、二四不同が崩れています。
 また、「残日光」は「残日の光」「残日光る」「日光を残す」という読みくらいで、読み下しのようには行かないでしょう。柿の実が夕陽に照らされていたというなら「映」の字を使う方向が良いですね。
「残柿殷紅映夕陽」「細径無人紅柿煌」などでしょうか。

 転句の発想は良く、擬人法も問題ありません。ただ、「希」は意思が出てやや強く感じますし、結句の「願」とも重なるので、「須(まつ)」の方が穏やかでしょう。
 その後の田夫への心配は、作者だけでなく、稲の気持ちでもあるという形で発展させるにも、動かないで待つ、の形が良いと思います。

 結句の「田夫」ですが、「田」が重出していますので、直さなくてはいけません。
 転句を素直にしましたので、ちょっとひねって、「彼翁」(あのおじいさん)くらいで以前見たことのある人、「老公」と敬意を含めて親愛を表すなど、工夫できるところですね。



2015.12.28                  by 桐山人



酔竹さんからお返事をいただきました。

『願田夫安康』の詩、ご指摘頂いた点を修正し、自分なりに検討をし、創り直しました。

   願農夫安康 (農夫の安康を願う)
  秋雲迅急甫田涼   秋雲 迅急 甫田涼たり   熟柿堪風映夕陽   熟柿 風に耐え 夕日に映える   一画禾頭須刈穫   一画の禾頭 刈穫を須つ   農夫消息願安康   農夫の消息 安康たれと願ふ






















 2015年の投稿詩 第291作は 莫亢 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-291

  秋思        

風急山陰墜葉稠   風急に 山陰 墜葉稠(しげ)し

枝間碧落断雲流   枝間の碧落 断雲流る

蕭条草屋無人到   蕭条たる草屋 人の到る無く

独愛残蛩万里秋   独り 残蛩(ざんきょう)を愛す 万里の秋

          (下平声「十一尤」の押韻)



<感想>

 莫亢さんはお仕事の関係で、長野県の大町に移られたそうです。
 故郷の近くに帰られたわけですが、東京での生活から急に自然豊かな地に行かれたわけで、しばらくは途惑うこともあるでしょうが、美しいアルプスの山々が詩興を湧かせてくれることを期待しています。

 いただいた詩は、冒頭を最初は「水冷」とされていたようです。水が清く冷たいというのは信州の秋をよく表している言葉ですが、視線の動きが下の五字と不釣り合いという難が確かにあります。
 「風急」として、大きな視野で眺め始めたことで、自然な目の動きになり、風景が読者にも実感を持って伝わると思います。

 承句の「枝間」から空を仰ぐのは、作者の立ち位置が山の中に動いたことになりますが、目の高さが同じなので、それほど急激な展開でなく、読者も同じように動いた感覚で、違和感無く流れていると思います。

 転句で視点が絞られていきますが、「草屋」となるには直前の風物が「墜葉稠」の方が納得できます。

 やや強引ですが、平起式にして語句を入れ替え、

  碧空風急断雲流
  水冷山陰墜葉稠
  草屋蕭条人影絶
  残蛩独愛万村秋

 というような流れが素直な気がします。



2015.12.30                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第292作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-292

  桐山堂福岡天神詩宴(一)        

歡迎熱烈遠來朋   歓迎 熱烈 遠来の朋

此地筑前尊藝能   此の地筑前 藝能を尊ぶ

不亦樂乎今夕宴   亦た楽しからずや 今夕の宴

同門師弟興堪乘   同門の師弟 興乗るに堪ふ

          (下平声「十蒸」の押韻)



<解説>

 全国漢詩大会福岡大会の会場は、福岡市「郊外の」太宰府市中央公民館であった。
 にも拘らず、大会行事終了後の桐山堂懇親会を太宰府ではなく「福岡天神」で企画したのには、少なからぬ拘りがあった。

 詩歌の神様である菅原道真公を祀る「太宰府天満宮」の所在地である太宰府は、漢詩大会の開催地として文句なく相応しいが、全国各地から冠「福岡」大会に参加される会員の方々に、太宰府と福岡との土地柄の違いを認識して貰いたいと思ったのである。
 「天神」と言う地名は、言うまでも無く、道真公(天神様)と無関係ではない。
 大福岡の繁華街の真ん中に菅公所縁の「(水鏡)天満宮」が祀られているのである。

 懇親会の開宴に先立ち、歓迎の意を籠めて博多民謡「正調博多節」を披露した。第二番の歌詞は、菅公の「重陽後一日」に付したものである。

   博多帯締め筑前絞り歩む姿が柳腰
   御衣を重ねて泣く秋の夜に
   月が射しこむ榎寺

 「正調博多節」の節回しは「北の江差追分、西の正調博多節」と言われる程、確かに技巧的で難しい。
 転勤族の多い福岡・博多の土地柄、この歌をマスターしようと思って練習し、やっと歌えるようになった頃には転勤命令が下る、と言う具合で、「転勤節」とも呼ばれている。

























 2015年の投稿詩 第293作も 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-293

  桐山堂福岡天神詩宴(二)        

同門師弟十三人   同門の師弟 十三人

好日秋天吟興新   好日 秋天 吟興新た

夜會一堂圍卓坐   夜一堂に会し 卓を囲みて坐せば

交歡不盡擧杯頻   交歓尽きずして 杯を挙ぐること頻りなり

          (上平声「十一真」の押韻)

<感想>

 報告が遅くなりましたが、10月の太宰府での漢詩全国大会、当日の夜、兼山さんのご手配で福岡天神に場所を移して「桐山堂」の懇親会を開くことができました。

 13名の参加でとても楽しい宴でしたが、とりわけ、兼山さんが暖かい心配りで歓迎してくださったことが嬉しく、一同感謝、感謝でした。
 博多の美味しい料理もたっぷりいただき、私の刈谷での受講生も三人加えていただきましたが、暖かく迎えてくださり、とても喜んでいました。
 あらためて、ご準備にお骨折りくださった兼山さんにお礼を申し上げます。



2015.12.30                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第294作も 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-294

  桐山堂福岡天神詩宴(三)        

遠來酒店盞杯嬉   遠来 酒店 盞杯嬉し

朋友相和惟樂詩   朋友 相和し 惟だ詩を楽しむ

夜景難忘明似晝   夜景忘れ難し 明るきこと昼の似く

福岡雅宴興無涯   福岡の雅宴 興涯り無し

          (上平声「四支」の押韻)



<解説>

 福岡天神『海山邸』に於ける懇親会の席上で、戯れに柏粱体風の寄せ書きをして頂いた。
 予告なしの提案だったが、出席者夫々の感想を窺い知ることが出来る。

 この「福岡天神詩宴(三)」は、これらの十句余りの七言句(省略)を不肖兼山が編集して構成した絶句である。

 桐山先生には絶句を揮毫して戴いた。

  懇親会参加者名簿(順不同・敬称略)

 近畿漢詩連盟の徠山さん、鐵峰さん、愛媛漢詩連盟の亥燧さん、石英さん、東京の深渓さん、静岡の常春さん、全日本漢詩連盟の住田箎軒さん、桐山堂刈谷から眞海さん、大西さん、高橋さん、桐山先生、兼山(英山)、芝原(幹事)



懇親会の写真です



    桐山先生当夜作
  筑紫良宵詩友聲   筑紫の良宵 詩友の声
  都樓碧拷e幽明   都楼 碧緑 影幽明
  美酒高歌風雅宴   美酒 高歌 風雅の宴
  醉吟芳談盡時清   酔吟 芳談 時を尽くして清し


<感想>

 こちらも兼山さんのはからいで、詩宴らしく即興の七言句を皆で作るということでした。
 皆さんが七言一句を練っている間に、私には絶句を作るように、とのご指示でしたので、即席で一首献上しました。
 (石川先生じゃないから、しこたま飲んだ後での突然の課題は厳しいっすよ)と心の声が叫んでいましたが、逃げられませんでした。
 講座の生徒がニヤニヤと私の顔を見ながら、「鈴木先生がこんなに苦しんでいるのを見るのは初めてだ」と喜んでいましたが、どうやら私の青息吐息も兼山さんの狙ったところだったのでしょうね。

 下手くそな字で申し訳ないです。
 拗体の詩でしたが、即吟ということで許していただき、できれば起句と承句を入れ替えたいところです。

 



2015.12.30                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第295作は 常春 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-295

  博多一夕        

博多夜景明如晝   博多の夜景 明 昼の如し

猶有桐山電網燈   なお有り 桐山電網の灯

藹藹盟兄談不盡   藹々たる盟兄 談尽きず

遠窺蘊奥更知朋   潜かに窺ふ蘊奥 更て朋を知る

          (下平声「十蒸」の押韻)



<解説>

 17日 楽しいひと時でした。有難うございました。

 翌日、兼山さん、深溪さんらとの吟行 楽しみました。

<感想>

 常春さん、深渓さん、兼山さんの桐山堂でのベテランの皆さんですが、当日は80代のパワーが炸裂!という感じでした。
 特に最年長の深渓さんは、一ヶ月アメリカにいて、アラスカのオーロラを見物、福岡大会の前日に帰国したばかりということで、我々60代などは先輩の元気溌剌な姿と、その勢いに圧倒されていました。




2015.12.30                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第296作は 亥燧 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-296

  全日本漢詩大会即事        

来参詩友共披襟   来たり参ず詩友 共に襟を披き

塵外清遊玉盞斟   塵外の清遊 玉盞斟む

如夢何縁文墨会   夢の如し 何の縁ぞ文墨の会

吟耽闘句到更深   吟に耽り句を闘はせ 更深に到る

          (下平声「十二侵」の押韻)



<解説>

 全国大会(太宰府)は初めてでしたので大感激。
 鈴木先生ともお会いできたし、思いがけず二次会にまで参加でき、ネット詩友(先輩諸氏)と親しくお話をし、杯を酌み交わせたこと望外の喜びでした。

 博多の夜は若者が多く、華やいだ空気についつい浮き浮きしてしまいました。
 次回の京都にも是非参加したいと思ってます。

 有難うございました。

 結句は「耽吟」の語順の方が良いですね。

<感想>

 愛媛の亥燧さんとはなかなかお会いできる機会もなく、今回の大会で初めて顔を合わせることができました。
 いつも拝見している漢詩が落ち着いた雰囲気ですので、私よりも年齢が離れているイメージを持っていましたが、随分とお若くて、自分の読解力の不足を感じました。
 初対面でも漢詩を通してはもう2年以上のお付き合い、すぐに楽しく話をさせていただきました。

 同じく愛媛から、まだ桐山堂への投稿はいただいていませんが、石英さんが懇親会にご参加くださいました。
 ありがとうございました。



2015.12.30                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第297作は桐山堂刈谷の 眞海 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-297

  感福岡漢詩大會        

翕然騒客一場屯   翕然(きゅうぜん)たり 騒客一場に屯す

壽色盈堂至樂存   壽色 堂に盈ち 至楽存す

今夕筑州詩酒會   今夕 筑州の詩酒の会

生涯受賞謝師恩   生涯の受賞 師恩に謝す

          (上平声「十三元」の押韻)



<感想>

 桐山堂刈谷からは眞海さんが大会で入選され、お祝いということで、付き添いに二人、高橋さんと大西さんが九州まで同行されました。
 私も一緒の新幹線で名古屋を出発しましたので、駅などでも「みんな、ついておいでよ」という感じで、何となく修学旅行の引率のような旅でした。
 私は翌日仕事が入っていましたので、朝の飛行機で帰りましたが、三人はそれぞれもう一泊して、博多の屋台やらを楽しんで来たようです。
 うーん、残念、仕事が無ければ一緒に楽しんだのに、という気持ちです。



2015.12.30                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第298作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-298

  老嫗能解        

俳人賣花鳥,   俳人 花鳥を売り,

推奨季題詩。   推奨す 季題の詩を。

老嫗皆能解,   老嫗みな能く解し,

成群隨老師。   群れをなして老師に隨ふ。

          (中華新韻十三支平声の押韻)



<解説>

 老嫗能解:白居易は詩を作るごとに老女に聴かせ、理解されなければ改め、老婆でもわかる詩作に腐心したといいます。
 老嫗能解、これを踏まえて作られた四字成語で、詩文明白で解りやすいことを形容する言葉として使われます。

 さて、白居易のこの作詩法はひとつの見識であるとして、詩はすべからく老嫗能解でなければならないか、というと異論があるはずです。
 詩は、老婆ばかりが詠むものではないからです。

 そこで思うのが、日本の俳句です。
 日本の俳句は、正岡子規や高浜虚子によって、大いに大衆化しました。
 「写生」や「花鳥諷詠」はとてもわかりやすく、また、「俳句は季語を用い五七五に詠めばよい」という有季定型の教えもとてもわかりやすい教えです。
 そのおかげで、俳句人口は大幅に増え、つまりは、詩を志し、俳句を志す多くの人の支持を得て、かつては、新聞にもあった漢詩投稿欄を追い出すような結果を招きもして大いに栄えました。
 さらには、「俳句は有季定型でなければならない」という考えも生まれ、俳句の新たな可能性を探る試みである無季や自由律の俳句を俳句として認めないかのようでもあります。

 この状況、どう考えるかですが、様々な文芸思潮にそれぞれの消長があるのは当然のこととして、中国の定型詩には、詞曲を含め2000をはるかに超える詩体がある一方で、日本の定型詩歌が多様性をそぎ落とされていくように思え、そら恐ろしいです。
 多様性をそぎ落されると、詩魂は、老化するからです。

 拙作

  老嫗皆能解,成群隨老師。

 の二句は、そのあたりの思いを詠んでいます。
 「老」字が同字重複になっていますが、導くのも老人、導かれるのも老人 ということであえてこのままでよい、ということにしています。


<感想>

 私も授業で生徒に俳句を作らせる時がありますが、仰るとおり、「有季定型」でないと減点対象、時には「作り直し」をさせます。
 漢詩の作り始めの時期に七言絶句から入るように言うのと同じで、有季も含めて定型になっていると、それなりに詩らしくなるし作りやすいということで、日頃生意気を言っている生徒も「おっ」と思うような句を作ることがあります。
 以前、「部活終え夕暮れの町腹が減る」という句を作ってきた野球部の生徒がいましたが、季語を入れろと言ったら、苦しんだ末にようやく、自宅の近くで見た「ヒガンバナ」と入れてきたことがあります。
 季語が必須という制約が、少しだけ彼の目を周りの自然に向けさせたのかな、とハナマルをつけてあげました。

 ただ、そうした指導は、鮟鱇さんが仰るように「俳句は有季定型でなくてはならない」、もっとひどく言えば、「有季定型でないものは俳句として認めない」という方向に進みやすいことも事実です。

 鮟鱇さんの句の「老嫗皆能解」の「皆」がくせ者で、誰でも理解出来る明解な手法である程、他の手法が見捨てられていくのでしょうね。

 最近の教科書は、ホトトギス一辺倒ではなく、無季自由律の俳句も載せるようになってきましたので、一応文学史的知識としては高校生も体験はするわけですが、最後に国語の教員が駄目を出します、つまり「君たちは有季定型を作らなくてはいけないよ」と。
 そこで「どうして駄目なのですか」と抵抗があれば面白い展開になるのでしょうが、最近の高校生はあっさりと引き下がります。彼等もそもそも作りたいという意欲があるわけではなく、課題として受動的に取り組むものと考えているので、抗うほどの創作意欲は無いのでしょう。
 その結果、彼等の頭の中には「無季自由律は認められない」という意識だけが残っていくのは十分に予想されること、なかなか難しい問題です。

2016. 1. 3                  by 桐山人
























 2015年の投稿詩 第299作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-299

  鳳字躱開賢聖骨        

枯骸累累散秋堤,   枯骸累累として秋の堤に散じ,

歴史長河映日西。   歴史の長河 日の西なるを映ず。

鳳字躱開賢聖骨,   鳳の字 賢聖の骨を躱開(さ)け,

宛如醉歩探詩題。   あたかも醉歩するごとく詩題を探る。

          (中華新韻十二斉平声の押韻)



<解説>

 [語釈]
 枯骸: 野ざらしの遺骨
 鳳字: 凡+鳥=鳳の字となる。鳳字すなわち凡鳥。ここでは凡庸なる詩人。
 躱開: 身をかわして避けること。

 枯れ葉を題材として作った詩です。
 ただ、枯れ葉が枯れ葉のままではつまらないと思い、枯れ葉を枯骸に置き換えました。
 堤防に散る枯れ葉が枯骸になると、面白いもので、川が歴史の大河になりました。
 あとは一気呵成、というか、転句、合句(結句)では多少の警句を試みました。

 とはいえ合句では、かなり推敲しました。
 「宛如醉歩」の初案は「蹣跚醉歩」。この初案を得るまでは一気呵成でしたが、「蹣跚」がひっかかり、なぜひっかかるかをひと晩考えながら眠り、眼が醒めてはじめて、酒を飲んだ といっていないのに、いきなり「蹣跚」はないだろう、ということに気が付いたのです。

 そこで「蹣跚」→「宛如」。

 「宛如」を用いると稚拙な比喩になりがちかと思いますが、ここは「宛如」というしかない、ということで、私としては、「宛如」をはじめてうまく使えたように思え大満足です。


<感想>

 「秋の堤に散らばる枯葉」を「枯骸」と見るという発想がこの詩の眼目で、その累々たる遺骨から時の流れ、歴史へと進む連想は、仰るように「一気呵成」で自然な流れでしょう。

 しかし、そもそも最初の発想が鮟鱇さんならではのもの、見立ての妙が、俳諧を読んでいるような気持ちにさせられます。

 「歴史長河」は、はるかに連なる文学の歴史でもあり、作者の目には洋の東西を問わず、先人の姿が見えているのでしょう。
 「躱開」は「自分に不都合なことを避ける」という意味ですので、ここは見えている「聖賢骨」を敢えて避けるようにして、と解釈するのでしょう。
 謙遜と取るか、揶揄と取るか、色々と考えられますね。
 「聖賢骨」はきっと、骨となっていてもそれと分かるものを持っているのでしょう、私はそちらが面白く感じます。

 「醉歩蹣跚(すいほばんさん)」は四字熟語、道幅いっぱいをよろけて歩くということですが、この言葉自体が比喩とも実景とも取れるもの、ここは「宛如」と直喩で強調して、「鳳字」とのつながりを表したのでしょうね。 2016. 1. 3                  by 桐山人






















 2015年の投稿詩 第300作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2015-300

  詩林山鬼賣生涯        

詩林入口通魔道,   詩林の入口 魔道に通じ,

山鬼華裝迎秀才。   山鬼 華やかに裝ひて秀才を迎ふ。

笑賣生涯堪立志,   笑みて売る生涯 志を立つるに堪へ,

勸斟雲液善披懷。   斟むを勧めたる雲液 善く懐を披(ひら)く

春風吹處飛蝶舞,   春風吹くところ飛蝶舞ひ,

秋月明時老友來。   秋月明るき時に老友來たる。

共醉怠磨刀筆銹,   共に醉ひて刀筆の銹を磨くを怠り,

夢騎仙鶴上泉臺。   夢に仙鶴に騎(の)って泉台に上る。

          (中華新韻四開平声の押韻)



<解説>

 [語釈]
 雲液:美酒。
 泉臺:墓穴。
 この律詩は、私がなぜ詩を作るようになったかを、考えてみたものです。
 詩人としてのいわゆる感性や才能に恵まれているとは思えない私が、「詩を作るようになった」ということは、「魔がさした」からです。

   詩人としてのいわゆる感性や才能に恵まれていない、と自覚していたので
 少しでも多くの詩を詠む とか
 少しでも多くの詩型にチャレンジする とか
 平仄と押韻を自分のものにする努力ができ
 平仄と押韻を自由にできるようになった とは思いますが
 そもそも何のための努力や自由であったか といえば
 詩を作るため。
 なぜ、私が詩を ということではやはり
 魔がさしたからだ と思うほかはありません。

 さて、この作の自慢ですが、

  春風吹處蝴蝶舞,秋月明時老友來。

 この二句は、光陰如箭の意を春と秋、飛蝶と老友の対比によって、私なりにですが
 うまく表現できたと思っています。

<感想>

 鮟鱇さんが「感性や才能に恵まれているとは思えない」とは私には思えないのですが、それはさておいても、「魔がさした」というのは共感できますね。
 人生を振り返ってみると、良きにつけ悪しきにつけ、「魔がさした」としか思えないことがありますが、間違いなくそれは、人生のターニングポイント、あるいは大きな一石だったもの、「運命」というものでしょう。
 鮟鱇さんにとっても、「詩を詠む」ことがそうした存在になったわけですね。
 ただ、神様もどんな「運命」を与えるかは人を選んでいるように思います。

 対句については、「蝶」は平水韻では入声ですが、中華新韻では平声(die 2声)となるそうです。
 頸聯は、私は「吹處」「明時」がやや間延びしている感じがします。「春風蝴蝶舞 秋月老朋來」の五言の対が時の流れの速さには合いそうに思いますが、いかがでしょう。



2016. 1. 3                  by 桐山人