2013年の投稿詩 第241作は 藤城 英山 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-241

  雨偶感        

日本天空暗闇包   日本の天空 暗闇包む

近隣国冷雨親交   近隣国との親交は冷雨なり

景観長雨不先見   特に中小の景況は長雨で先が見えず

財政目前大雨泡   国家の財政は目前大雨で泡となるや 

          (下平声「三肴」の押韻)



<感想>

 詩の中で同じ字を二度使うことはできませんので、「雨」を削るという方向で考えてみましょう

 承句は「近隣国との親交」と離れて読むことはできませんし、「冷雨」の比喩も分かりにくいので、例えば、「近隣諸国冷親交」と直しておきましょう。

 転句の「景観」は「風景」「様子」という意味で、作者の意図である「景気観測」の略には使いづらいところです。
 これも案として、「展望景気尚朦曖」というところでしょうか。
 下三字の「尚朦曖」は「●〇●」となっていて、本来は六字目は●(仄字)でないといけませんが、これは「挟み平」と言われる形ですので大丈夫です。

 結句はやはり、「心配だ」という言葉を述べるべきですので、バブルの再来を恐れるという形で「憂慮済民爲水泡」とするところでしょうか。

 こうして直していくと、雨がこれで承転結から消えましたので、改めて、起句で「暗闇」を「暗雨」とすると、詩題にも合う形になるでしょう。

 まとめると次のようになりますが、「雨」を削るという方向性を持っての推敲例として、ご参考にしてください。

  日本天空暗雨包   日本の天空 暗雨包む
  近隣諸國冷親交   近隣諸国 親交は冷やか
  展望景氣尚朦曖   景気を展望すれば 尚朦曖
  憂慮濟民爲水泡   憂慮す 済民の水泡と為らんことを

 なお、平仄は次のようになっています。

  ●●〇〇〇●◎
  ●〇〇●●〇◎
  ●〇●●●〇●
  〇●●〇〇●◎





2013. 9.25                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第242作は 玄齋 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-242

  苦熱        

夏日不知逃俗縁   夏日 俗縁を逃るるを知らずして

秋涼多見噪残蝉   秋涼 残蝉噪ぐを見ること多し

病牀揮汗詩成処   病牀 汗を揮いて詩 成る処

閑夢透簾風動辺   閑夢 廉を透して風 動くの辺

夕照友迎経幾歳   夕照 友迎へて幾歳をか経て

幽居醒後路何年   幽居 醒めて後 路何年ならん

平素無忘世間熱   平素 世間の熱を忘るること無ければ

詩人欲足寸時眠   詩人は寸時の眠りに足らんと欲す

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

 夏の日には世間のしがらみを逃れることを知らずに、秋の涼しい日には秋の時期まで生きている蝉たちが騒いでいるのを見ることが多いのです。
 病床では汗をふるい落としながら詩ができる時には、静かな夢を見ている中で、簾を通して風が動く窓の外を思っていました。
 夕方には友人を迎えて何年か経て、一人静かにいる時期に目が覚めた後で道は何年かけて完成するのでしょうか。
 普段、世間の熱を忘れることが無ければ、詩人はほんのわずかな眠りに満足しようとしているようなものです。

 私も入院と自宅での療養が続いて、その合間に勉強をしている日々ですので、その中で自分にできることを懸命にしていこうと思っています。
 まだ道半ばですが、残りの人生をしっかりと過ごしていけるように頑張っていきます。

<感想>

 この詩は、玄齋さんからのご希望もあり、事前に謝斧さんにもお見せしました。
 感想は、二人の意見を合わせてということでご理解下さい。

 律詩としてのまとまりがよく出ていると思います。
 逆に、添えて下さった現代語訳は二句を一文で訳そうとしたからでしょうか、難解至極。句ごとに訳した方が良かったですね。

 首聯は、上句が尾聯の上句と重なりますし、表現が回りくどい気がします。「苦熱」という題名に沿うように、もう少し季節の描写を入れても良いかと思います。

 頷聯は、「病牀」「詩成処」というのは分かりやすいですが、「閑夢」「風動辺」というのは、外へ出たいという願望の表れでしょうか。
 病気なのでベッドが書斎、夢の中で外の世界を眺めている。これはこれで完結しているのですが、「不知逃俗縁」とはどうつながるのか、疑問です。

 頸聯は「夕照」「幽居」の対は、時で対応させたのでしょうか。無理矢理という感じがします。
 また、「友迎」「醒後」は対として苦しいと思います。
 上四字の対を整えると、聯全体の意味も分かりやすくなると思います。

 尾聯は作者の心情がよく出ています。しかし、これも頸聯の「経幾歳」「路何年」があるため、「寸時眠」がぼやけています。

 やや理屈に走っているような印象で、もう少し詩的表現が欲しいと感じます。



2013. 9.25                  by 桐山人



玄齊さんからお返事をいただきました。

こんにちは、玄齋です。

鈴木先生と岸本先生のご指摘をもとに、以下のように大幅に修正しました。

    苦熱
  夏日不知避炎天  夏日 炎天を避くるを知らずして
  秋光多見噪殘蝉  秋光 残蝉噪ぐを見ること多し
  病床揮汗詩成處  病床 汗を揮いて詩 成る処
  閑夢呼涼風起邊  閑夢 涼を呼びて風 起こるの辺
  歳歳笑談懷老境  歳歳 閑談して老境を懐い
  時時嘆詠過青年  時時 嘆詠して青年を過ぐ
  平素無忘世間熱  平素 世間の熱を忘るること無ければ
  迂儒欲足寸時眠  迂儒は寸時の眠りに足らんと欲す

(現代語訳)
夏の日には暑さを避けることを知らずに、
秋の日の光景には生き残った蝉たちが騒いでいるのを見ることが多いのです。
病床では汗をふるい落としながら詩を作っており、
静かに夢を見ているときは、涼しさを呼ぶように風が起こっていました。
毎年、笑い話をしながら老いの時期のことを思い、
たえず悲しみを詩に詠みながら青年の時期を過ぎていきます。
普段、世間の熱を忘れることがなければ、
世間のことに疎い学者である私は、ほんのわずかな眠りに満足しようとしているようなものです。

 これからも元気に頑張っていきます。
 これからもよろしくお願いいたします。

2013. 9.26           by 玄齊
























 2013年の投稿詩 第243作は 鮟鱇 さんからの作品です。

作品番号 2013-243

  醉死夢生         

丹液芳醇滿金盞,   丹液 芳醇にして金盞に滿ち,

白頭老朽作黄鶯。   白頭 老い朽ちて黄鶯となる。

醉生夢死酒毒死,   醉生夢死 酒毒に死し,

醉死夢生泉下生。   醉死夢生 泉下に生く。

出谷尋春喜張翼,   谷を出でて春を尋ね喜びて翼を張り

賞花探勝擅飛聲。   花を賞でて勝を探り擅(ほしいまま)に聲を飛ばす。

追懷前世耽高趣,   前世を追懷して高趣に耽り,

今日挽回神體輕。   今日 挽回す 神體の輕きを。

          (中華新韵十一庚平声の押韻)

<解説>

「醉死夢生」: 四字成語。醉生夢死に同じ。酔ったように、また夢をみているようにぼんやりと一生を過ごすこと。
        価値あることをせずに無駄に生きること。
「丹液」: 道教でいう不老不死の藥。私は、酒のようなものかと思っています。
「神體」: 精神と肉体。

 私は、醉生夢死という言葉が好きで、それを使った詩はこれまでにいくつも作っていますが、醉死夢生という言葉もあることを初めて知り、作ったのがこの律詩です。
 醉生夢死も醉死夢生も意味するところは同じです。
 しかし、字面を追えば、醉生夢死は醉ったように生き夢みるように死ぬ、ですし、醉死夢生は、醉って死に夢のように生きる、です。
 そこで、この世では醉生夢死し、醉って死んであの世では夢のように生きてみたい、ということで上掲の詩を作りました。
 なお、三句目六字目の「毒」は、中華新韵では平声です。

   醉ひ生きて夢に死ぬるも醉ひ死なば夢にぞ生まれん黄泉(よみ)の鶯 画蛇添足

<感想>

 「醉死夢生」という言葉があるのですか。知りませんでした。意味的には恐らく、「酔死夢生」「酔生夢死」とも互文で、「酔夢(酔中、夢中の状態)」の「生死(人生)」ということでしょうが、この順序が鮟鱇さんを刺激したのですね。

 「藥」「盞」「頭」「鶯」と色を重ねた段階で、もう極楽というか涅槃図というか、キラキラと輝きながら魂が黄泉へと向かう印象が鮮明ですね。
 色の重ねをあざとく感じる方もいるかもしれませんが、私には、「そろそろお迎えかな?」と鮟鱇さんが期待して、いそいそと準備をしているようなコミカルな場面が想像され、「やったな!」という思いがしますね。

 後半は現世を高みから笑い飛ばすような感じで、この生き生き感は荘子が蝶になった時のような楽しさかもしれませんね。



2013. 9.25              by 桐山人





















 2013年の投稿詩 第244作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-244

  対米国退役空母        

曹翔南海不能回   曹は南海に翔け回を能はず

作戦無謀万骨堆   作戦の無謀 万骨堆し

与艦赤蛉蟷螂斧   艦と赤蛉と 蟷螂の斧

出師劣勢激余哀   出師の劣勢 余哀を激せしむ

          (上平声「十灰」の押韻)



<解説>

 先年、米国オークランドに係留の退役空母ホーネットを見学して、こんな巨大な空母に、赤トンボ旧海軍練習機に25番の爆弾を積み込み突撃させるという無謀さを感じたのである。
 仮に命中突撃したとしてもモンドリ打って海中に・・・
 厭な予想に暫し茫然として佇む次第。まさに赤蛉と蟷螂の斧ではないだろうかと。

<感想>

 「曹」は「ともがら」、ここでは深渓さんの「戦友」のことですね。
 前半はとても分かりやすく、お気持ちもよく出ていると思います。

 後半になると、急に分かりにくくなります。
 転句は具体的な画像を想い描いたのでしょうが、「赤蛉」が「赤トンボ海軍練習機」を指すというのも、その後に「蟷螂」があるので、実際に昆虫を想像してしまって、分かりにくいですね。
 平仄で見ても、転句は「二六対」が崩れていますので、比喩の形を明確にして、語順などを入れ替えてはどうでしょうか。

 また、結句は承句との違いが弱く、悲哀が承句以上には伝わりません。逆に言うと、思いが強くなりすぎて、言葉が落ち着きを失くしたという感じでしょうか。
 前半の二句を生かす形で、後半を検討するとまとまりが良くなると思います。





2013. 9.26                  by 桐山人





鮟鱇さんから感想を、深渓さんからお返事を同時にいただきました。

 鮟鱇です。
 3月にお会いして以来、ご無沙汰いたしております。

 玉作「対米国退役空母」拝読いたしました。ますますのご健筆、佩服いたします。

 さて、玉作につき感想を述べさせていただきますが、
 桐山人先生も書かれていますようにいささかわかりにくく、いつもの先生らしからぬ作品になっていると思います。
 愚考ですが、語るべき思いは重く、小さな七言絶句に詠み込むには大き過ぎる、のではないでしょうか。
 とりわけ転句「与艦赤蛉蟷螂斧」は、艦と赤蛉と蟷螂斧と、三つの要素が含まれており、そのそれぞれで一句が詠めるように思います。

 具体的には、
 1 米国退役空母を目の当たりにしたときの印象
 2 赤蛉=赤トンボ海軍練習機の飛ぶ姿
 3 蟷螂斧。 飛槍恰似蟷螂斧

 これにもう1句を加え、玉作の4句を加えれば、8句、つまりは律詩ほどの詩想が、玉作の背景にあるように思えます。

 そこで、短絡すれば、律詩に詠まれた方がよかったのではないか、と愚考しますが、律詩はよく整った詩型で行儀が良すぎるともいえ、戦友と日本の愚行への先生の思いを斟酌させていただくなら、対偶で遊ぶ気持ちにはとてもなれない、とも思えます。

 そうなら、古詩はどうか、ということになりますが、玉作の詩想であれば、平仄・押韻は絶句に準じ、一韵到底格8句の古詩にされるのがよいのではないか、と思います。

 そのような古詩が先人によって詠まれているかどうかは知りません。
 ただ、七言で8句の詩に、七言律詩しかないのは、いささか窮屈です。

 対偶は、拙見ですが、日本人の詩想・発想と合わないところがあり、そこで日本の漢詩人の作はほとんどが絶句で律詩は少ない、ということがあるのだろうと思います。
 その結果、詩想が絶句という容器から溢れ、舌足らずで余裕のない七言絶句になってしまう、ということがあると思います。
 であれば、日本の漢詩ということで、平仄・押韻は絶句に準じたうえで一韵到底格8句に作る格律詩を、日本から提唱してもよいのではないか、と愚考します。

 大変僭越ですが、小生の提案、玉作に即し具体的に書かせていただくなら、次のようなことになります。

      古詩・客中看對美國退役空母
  曹翔南海不能回   曹は南海に翔け回を能はず
  敵艦已爲文化財   敵艦すでに文化財となる
  救國蟷螂揮鬼斧   救國の蟷螂 鬼斧を揮ひ
  赤蛉敗翅墜人災   赤蛉 翅敗れて人災に墜つ  
  出師劣勢好風盡   出師劣勢にして好風盡き 
  作戦無謀万骨堆   作戦の無謀 万骨堆し
  老叟追思猶涕涙   老叟 追思 なほ涕涙し 
  清秋此地帶餘哀   清秋 此地 余哀を帶ぶ

 上記はあくまでも一例です。ご参考まで。


2013. 9.28            by 鮟鱇

こちらは深渓さんのお返事です。

 2013-244にご感想を頂き有りがたく、転結をこのように詠み替えました。
〇転句には当蟷螂の斧に拘り、蟷臂車の故事。列強の軍備・軍需には到底勝ち目はなく、まさに当蟷螂の斧なりと。

   又対米国退役空母(推敲作)
曹翔南海不能回   曹は南海に翔け 回るを能はず
作戦無謀万骨堆   作戦の無謀 万骨堆し
蟷臂当車如我事   蟷臂 当車 我が事の如し
追懐往昔激余哀   往昔を追懐して 余哀を激せしむ


2013. 9.28             by 深渓




















 2013年の投稿詩 第245作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-245

  於米国航空博物館        

零戦雄姿儂使号   零戦の雄姿 儂をして号ばしむ

曽於敵国駭相遭   曽ての敵国に於て相遭ふに駭く

干戈惨憺人知否   干戈の惨憺 人知るや否や

出撃搭乗思我曹   出撃 搭乗の我が曹を思う

          (下平声「四豪」の押韻)



<解説>

 ワシントンスミソニアン宇宙航空博物館に展示されている、懐かしのわが海軍の数々の飛行機の中に、零戦の雄姿を68年ぶりにみて感無量である。
 あの戦火を交えたグラマンよりも、エノラ・ゲイB29が無傷でデンと大きな翼を広げて、その翼の下にわが零戦を、飛べるものなら飛んで見よとばかり展示されており、不愉快極まりない思いで退館せり。

<感想>

 そうですね、日本人の側から見ると、「わが」零戦ですので、展示にも敬意を払ってほしいと言いたくなるところでしょうね。
 私が子供の頃には、少年誌でも「世界一の高性能 ゼロ戦」とか「航空母艦大和の勇姿」などと言った特集や記事が小松崎茂さんの美しいイラストとともに載り、「紫電改のタカ」などの戦記漫画も長く連載されていました。
 日本の技術力は、開発・製造でも、操縦でも優れていたのだというメッセージが強く伝わってきて、戦争体験のない私でも、ゼロ戦と聞くだけで、誇り高い気分と悲しい気持ちの両方が湧いてきます。
 深渓さんは直接体験ですので、思いがひとしおのことでしょう。

 こちらの詩も、思いが先に走りすぎたでしょうか。
 起句の「儂使号」、承句の「曽於敵国」はどちらも語順がおかしく、句意が混乱します。
 「儂使号」は「使我号」となれば良いのですが、結句に「我」があるため「儂」にし、今度は平仄を合わせることもあり、入れ替えたのでしょうか。
 ただ、「儂」にしろ「我」にしろ、漢字は異なっても意味は同じ一人称ですので、重複感は否めません。
 基本的に一人称を用いるのは、強調の意味合いがあり、「この私」とか「私だけ」というニュアンスを伴います。そういう意味では、結句の「我曹」は戦友への思いを籠めたものですので、生かしたいところ、起句の使役形を直す形で、上四字とのつながりももう少し出すと良いでしょうね。

 承句は簡単にすれば「於曾敵国」でしょうが、これはあまりに生硬な表現で、もう少し言い換えたいところです。「駭相遭」は本来はゼロ戦に対してのことですので、起句の上四字とつなげるような形で前半の二句を検討してはいかがでしょう。

 結句は、意味は分からないではないですが、この語順ですと「出撃搭乗」したのが作者のように読めますので、ここは「思」を練ってみてはいかがでしょう。



2013. 9.30                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第246作は 鮟鱇 さんからの作品です。

作品番号 2013-246

  天仙子・草木皆兵         

老將學詩多語病,   老將 詩を學ぶも語病多く,

草木皆兵花弄影。   草木皆兵にして花は影を弄ぶ。

月中醉罵繆斯妖,   月中に醉って罵る 繆斯の妖しきが,

勸清聖,          勸むる清聖,

洗悪夢,          悪夢を洗ふも,

背水敗軍營冷靜。   背水の敗軍 營は冷たく靜かなるを。

          (中華新韵十一庚仄声の押韻)

<解説>

語病:措辞に問題があること。
清聖:清酒。

 中国に「風声鶴唳,草木皆兵」という成語があります。
 風声鶴唳,草木皆兵のいずれも『晋書・苻堅載記』を典故とするもので、五胡十六国時代、前秦の皇帝苻堅が大軍を率いて東晋を攻めはしたものの淝水の戦いで大敗し、風や鳥の声を聞けば敵兵の吶喊かと恐れ、草木が揺れ動けば敵兵の攻撃かと恐れた、という故事をもとにしています。
 風声鶴唳は『平家物語』富士川の平家の敗走の脚色に使われ、草木皆兵は芭蕉の名句「夏草や・・・」と無縁でないように思います。夏草を見て古戦場を思うことはままあると思いますが、「兵どもが・・・」という言葉が頭に浮かぶには、草木皆兵という言葉を知っている方が、知らないよりずっと近道です。

 さて、拙作は、その「草木皆兵」を題とし詠んでいますが、語病を詞に生かしてみよう、ということも思いつつ作っています。
 語病は措辞に問題があることをいいますが、詩を學ぶ老將の語病が生んだ句のひとつが「草木皆兵花弄影」という句であった、という虚構を得、それをもとに、空想を逞しくしてみました。
 それが語病とどう関係があるかを以下に説明します。

 草木皆兵という成語に、花弄影という語句を繋げるのは支離滅裂、と思われるかも知れませんが、老將の頭の中には、

  @草木があれば花もあってもよいだろう。
  A草木と花には影があるだろう。
  B血腥い風が吹けば、草木と花は影を揺らし、すなわち影を弄ぶだろう。
  C草木と花が影を弄べば、敗軍の將は、その動く影を、「月夜」に潜む敵兵と見誤るだろう。

 という想像があるのです。なお、なぜ「月夜」かというと、宋の詞人張先の『天仙子』に、「雲破月来花弄影」という詞句があることを、老將は知っていることにしています。

 この老將の詞想を表現する措辞としては、草木和花弄影,疑是皆成敵兵。とするのが正しいのです。
 これを詞譜に従い七字の律句にしたのが、「草木皆兵花弄影」―わかりやすさでいえば、措辞に問題がある句です。
 張先の「雲破月来花弄影」と較べても、とてもわかりにくく、つまり語病があります。
 そして、さらに語病でいえば、末句の「營冷靜」。
 「冷靜」は成語です。だれもそれを字面のとおりに「冷たく靜か」の意味にはとりません。しかし、ここは、軍營は冷たく靜か、の意味に使っています。語病といえば語病です。

  將軍に病ひ多くば草木は花の影ふむ兵となるらん  画蛇添足

<感想>

 「草木皆兵花弄影」、この句は最初読んだ時、鮟鱇さんが仰る通りで、上四字と下三字がつながらないと思いました。もっと正確に言えば、「皆兵」と「花弄影」が合わないわけで、戦場の血なまぐささと風雅な心を一句内で読み取ることは難しいことです。

 そこで、私は鮟鱇さんとは別の流れで(つまり、詩病のことはひとまず置いて)、「戦場で花を愛でる」という場面を考えました。これは、という結論を出すだけの情報はありませんので、「老将はどんな人だろうか」とか、「戦場はどのあたりだろうか」とか、あれこれと考えるわけですが、ふと、この作業は俳句に似ているなと思いました。
 つながらないものをつなげる、というと俳句を作る方に叱られるかもしれませんが、俳句に関しては作る側でなく読む側の人間は、思いもかけない取り合わせに驚き、そこから作者の気持ちを想像する過程で句を理解します。
 鮟鱇さんの発想にも、そうした俳句的な要素が入っていたのでしょう。
 あるいは、承知の上で仕掛けて来たか、うーん、どうも鮟鱇さんの狙いにうまうまと乗っかってしまったかもしれませんね。
 でも、頭の中であれこれと考えるのは、ネットサーフィンならぬ「知的サーフィン」とでも呼びましょうか、楽しいものだと実感しました。



2013. 9.30                  by 桐山人


鮟鱇さんからお返事をいただきました。

 桐山人先生
 ありがたいコメントをいただき、恐縮です。

>私は鮟鱇さんとは別の流れで(つまり、詩病のことはひとまず置いて)、「戦場で花を愛でる」という場面を考えました。

 「戦場で花を愛でる」・・・先生の妙想に驚いております。小生には思いもよらないこと、というより、そういう流れで詩を詠めば、きっともっと上品な作になっただろう、と悔やんでいる次第です。

> ふと、この作業は俳句に似ているなと思いました。

 実をいえば「草木皆兵花弄影」という句は、漢語俳句を作るなかで考えた句です。
 いちおう「老將多病/草木皆兵/花弄影」という句にはしました。
 しかし、いかにも説明不足でわからない、人に通じない=語病があるからだ ということで、老將多病→老將學詩多語病としました。
 そして、老將學詩多語病,草木皆兵花弄影という二句を置くことのできる詞、ということで天仙子を選び、後半の四句を書き足しています。

 先生おっしゃるように私も、俳句は「つながらないものをつなげる」詩だと思います。
 俳句の影響のもとにイマジストやシュールレアリストの詩が生まれたともいわれています。
 漢詩・漢籍が芭蕉や蕪村など江戸の大俳人に大きな影響を与えていますが、俳句ひいてはイマジストやシュールレアリストの詩法から、漢詩が何を学べるのか、そういう視点から私なりに作詩をしています。

 それによって成果が期待できるかどうかはともかく、私の作風を変えることができれば、と思う次第です。


2013.10. 5              by 鮟鱇


























 2013年の投稿詩 第247作は 素衣 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-247

  五更赴酒店     五更に酒店に赴く   

静淵深夜町   静淵 深夜の町

風穏浸東京   風穏かにして 東京を浸す

眠醒鞋音起   眠醒めて 鞋音起てば

裾翻涼意生   裾翻りて 涼意生ず

路頭方気爽   路頭 方(まさ)に気爽かなりて

天角僅光明   天角 僅(わづか)に光明

暁近残星恨   暁近くして 残星の恨み

遠聞車大鳴   遠くに聞く 車の大いに鳴くを

          (下平声「八庚」の押韻)



<解説>

 真夏の夜明け前に早過ぎる早起きをし、再び眠るにも眠れず、仕方なくコンビニに朝食のパンを買いに行った時の心境です。

<感想>

 精力的に創作に取り組んでいらっしゃる素衣さん、掲載が遅くてすみません。
 今回は五言律詩に取り組まれたのですが、独学でここまでお作りになることに若さの魅力を感じますね。

 対句は二句でひとまとまり(聯)で構成を考えるわけですが、この詩の場合、首聯で東京の夜中だと場面設定、次は作者が目を覚ましたという室内、そして外へ出るという移動が書かれ、頸聯と尾聯は明け方の街の様子。
 三つの聯が情景描写で、作者の行為を表す頷聯は時間経過を表すだけの役割で、記録映画としては良いですが、詩としては面白みがありません。
 早起きをしてしまった、という気持ちを出すならば、作者の行為を頸聯に置いた方がバランスが良く、明け方の空の様子、爽やかな空気感も生きてくると思います。

 語句のことで言えば、二句目の「東京」は固有名詞よりも「都城」「京城」の方が普遍性が出るでしょう。
 対句はよく工夫されていますが、六句目の「光明」は、ここで光を出すと次の「残星」が弱くなるのと、「氣爽」の対応としてどうでしょう。「雲」くらいを出しておくのが良いかと思います。

 最後の「遠聞車大鳴」は、一首の結びとしては弱く、直接作者が眺めた「残星」を持ってきた方が印象が強くなるでしょう。



2013.10. 2                  by 桐山人



鮟鱇さんから感想をいただきました。

 素衣さん
 こんにちは、鮟鱇です。

 貴兄葛飾区にお住まいのよし、小生松戸市にあります葛飾吟社に所属しています。
 貴兄の作品、葛飾のニ字のご縁で親しみを覚えつつ拝読していますが、貴兄は20代、作詩歴もまだまだのご様子、小生は60代後半、いたずらに馬齡と作詩歴(17年)を重ねています。
 貴兄の作品、漢詩の措辞の基本をしっかり押さえられていると思います。
 日本の詩歌としての漢詩はすでに滅亡した、といわれることがありますが、貴兄のように若い方のご活躍、頼もしい限りです。

 さて、玉作『五更赴酒店』拝読しました。
 全体の構成については、桐山人先生が書かれていることが重要で、情景描写に傾き過ぎていると小生も思いますが、貴兄の句作りでは好い表現があり、勉強になりました。

 大事なのは全体の構成であり、私が申しあげるのは句作りの細かいことで恐縮ですが、気が付いた点、率直に申しあげます。

1 静淵深夜町   静淵 深夜の町
  普通の表現では、深夜の町は静淵のごとし、ということで、「深夜街衢如靜淵」、という語順になるかと思います。
  そこを貴兄は、静淵を頭に作っていますが、その方が静淵が生き、詩の言葉としては生きていると思います。
  ただ、町には日本語の「まち」の意味はなく、田の「あぜ道」をさします。「まち」の意味であれば、街または城。

2 風穏浸東京   風穏かにして 東京を浸す
  「浸」は水に関係する動詞です。風であれば、入、撫などの動詞がよいように思います。

3 眠醒鞋音起   眠醒めて 鞋音起てば
  「眠」は名詞にも使いますので間違いとは言えませんが、眠醒とならぶと、眠と醒、という感じで違和感があります。
  「夢醒」ぐらいが無難かと思います。

4 裾翻涼意生   裾翻りて 涼意生ず
  素晴らしい表現です。
  裾が翻って涼意が生じるはずはありませんが、裾が翻って涼意が生じる、そう感じることはあるはずです。
  涼しい風に裾が翻る、という表現にくらべずっと豊かな詩情です。

5 路頭方気爽   路頭 方(まさ)に気爽かなりて
  涼意と気爽は同義。次句の光明との対偶としては、曉闇、とかはどうでしょうか。
  7の「曉近」を手入れしなければなりませんが。

6 天角僅光明   天角 僅(わづか)に光明
  特にありません。

7 暁近残星恨   暁近くして 残星の恨み
  「残星恨」はとてもいい表現だと思います。
   暁近の二字目の「近」は、次の句の一字目が「遠」ですので、避けた方がよいかと思います。
  「遠近」を同じ位置にするとよいのですが、対句崩れと思われても損。
  「残星恨」がとてもよいので、暁近をどうするかですが、留在とか、碧落とか、樓頂とか適当でよいと思います。

8 遠聞車大鳴   遠くに聞く 車の大いに鳴くを
  「車大鳴」よりも「車大声」の方がよいように思います。

 最後に構成についてですが、私の所属する葛飾吟社では会員の作品を合評する際に、実句・虚句という区別で議論をしています。
 実句は見たこと、聞いたことを詠む句で写生句です。それに対し虚句は、作者の主観を述べる句です。
 虚実は必ずしも判然としない場合があり、実句なのか虚句なのかが議論になりますが、実句に流れ過ぎないように、また、虚句が生きるように、ということで作品の検討をしています。
 虚半実半をよしとしていますが、虚句を詠み、虚句を生かすのはとても難しいです。

1.世相を直接に評せば虚句になりますが、いつでもどこでも誰かが口にしているような視点のものいいはそんなことはもうわかっている、ということで興ざめ、

2.風景への作者の感想を詠めば虚句になりますが、ありきたりの感想を口にするだけでは読者の共感は得難い。

3.空想、夢想を詠めば虚句になりますが、荒唐無稽なだけ、では軽薄です。

 虚実を玉作に即してみれば、「裾翻涼意生」は虚です。裾が翻れば涼意が生じるわけがないから、虚です。もしこれが、「涼意入衣裾」であれば実。
 「暁近残星恨」も虚です。残星が恨むはずはなく、作者の恨が投影されているから、虚です。
 ただ、桐山人先生もおっしてることにも関連しますが、末句がその恨を受けて詠まれていないため感興が薄く、虚が生かしきれていないように思えます。

 以上、ご参考になればということで愚見を申し述べました。

2013.10. 5                 by 鮟鱇



 鮟鱇さん、感想をありがとうございました。
 色々な視点、観点からの詩の感想をいただくと、作者の素衣さんは勿論、私にもとても参考になります。

 一点だけ追加で、
 頷聯の「裾翻涼意生」は私も良い句だと思いました。
 仰るように、「涼しい風が吹いて裾が飜る」という語順ですと、確かに解釈に悩むことは少ないでしょうが、それでは二句目の「風穏」のどんよりとした夏の空気感が弱くなります。
 私は「飜裾」、つまり歩くことで澱んだ空気が破られ、涼意が生まれたのだと理解しました。
 対句のことで見れば、前句の「鞋」とこの「裾」を対応させた方が収まりが良いでしょうが、この爽快感を残した今の形が、詩としては良いと思っています。

 なお、観水さんから次韻詩をいただいていますので、そちらもご覧ください。

2013.10. 6                 by 桐山人



素衣さんからお返事をいただきました。
鮟鱇さんからの感想、観水さんからの次韻へのお礼ということですので、観水さんへのお返事は次韻詩の方にも載せました。

 鮟鱇様の感想、観水様の次韻詩をいただき、感激に絶えないものであります。
 桐山人先生に毎度頂いているご指摘、ご感想は元より、諸先輩が一読の上コメントを下さったことへの感謝の念に、このような交流の場の貴重さを改めて思わずにいられません。

 鮟鱇様の懇切丁寧なご感想のお言葉、ありがとうございます。
「町」「浸」「東京」「眠醒」「車大鳴」「碧落」等、文字通り一字一句について丁寧なコメントを頂き、恐悦の至りでございます。
 骨身に染み込ませつつ、大いに励みとせずにはいられぬ思いです。

(「町」などは、新字源を開くと即ご指摘の内容があっただけに、頭をかかえました)
 また、好印象頂けた字句についても、こそばゆいことですが、この視点や構図の組み立てを帰納などしつつ、いずれも今後の詩心の糧としていければ、と感じています。

 また、観水様にも頭を上げられぬ思いです。
 生まれて初めて次韻をして頂きました。記念的とも言うべき感慨です。

「偸生」について、方々想像したり、また自身の偸生を思わされたりも致しました。
 夜という時間帯は、静かで穏やかな分だけ、昼間よりも、言葉を内側でグルグルと巡らせるのに適した時間帯なのでしょうか。
 悩みがあれば悩みが、慶びがあれば慶びが殊更に凝視され、試行錯誤され、心の内側に練りこまれていくように感じます。
その分だけ、夜明けというポイントに感じる、静かで壮大な無常さも、ともすれば一入に想えてくるのか。
 幻想的です。
 いずれにしましても、本当にありがとうございます。

 当方、ご案内のとおり、「詩」に触れてまだまだ日も浅い身です。
 日頃の景色・事物から詩心を摘み取り、紙面に材料として並べ、切って煮詰めて形にして、お出しする…という詩作のプロセスに、これまで親しんだ各種創作や鑑賞には類しない新鮮な楽しみと充実感を覚えつつも、では腕に覚えはあるか、といえば、それは言うまでもないことです。
 日々先人の築いた故事や視点、虚実の大海に学ぶ中(凄まじい時は学び方を模索すらする中で)、先輩方との圧倒的な距離感を傲慢にも意識するにつれ、詩作本来の愉しみが徐に遠ざかる危惧も、ひょっとすると予感するところでありました。

 が、この度のように桐山人先生、鮟鱇様、観水様等から言葉を頂けることを励みとし、これを懐に入れると、そういった疑い迷いもはて何のこと、という具合です。
 とにかく志を育てて参りたいと思います。


2013.10. 7              by 素衣






















 2013年の投稿詩 第248作は 素衣 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-248

  晩夏偶感        

匆忙累日戦塵渦   匆忙に日を累ぬ 戦塵の渦

瞬息休兵涼既多   瞬息に兵を休むれば 涼既に多し

有謂光陰如矢去   謂ふ有り 光陰矢の去くが如しと

此躬徒弛送時過   此の躬、徒に弛みて 時の過ぐるを送る

          (下平声「五歌」の押韻)



<解説>

 日々の多忙と戦う、そんな現代社会におけるひとときのバカンス「休日」ですが…
 夏バテもあってか、仕事疲れに対して復讐するかのようにただダラダラ過ごすことで手一杯です。
 この調子で、暑い暑いと言いづめであった華やかな夏も、まもなく終わってしまいます。

 一方、職場のとある先輩(10歳以上年上)は、退勤後の寸暇を惜しんで夜毎フィットネスに励むなど、趣味のための体躯作りに昨日も今日も余念の無い様子です。
 雪にも夏の暑さにも負けず、普段から安定して広く物事に励まれます。

 この全くエネルギッシュな、まさに自分には無き精力の無尽蔵な偉丈夫を前に仰天の青瓢箪、さあ右へ倣えと自身に喝を入れようとしてみるも気が付けば結局ゴロゴロ過ごして過ぎる貴重な休暇。

 この状況を詩的な体裁でもってさらにやり過ごさんと試みる…と、こういった有様です。

<感想>

 起句の「匆」「忙」もどちらもいそがしいことを表しますので、まさに「多忙」という感じを強調していますね。

 承句の「瞬息」は文字通り、まばたきと呼吸、ほんのわずかの時間のことで、「寸陰」と同意の言葉です。
 多忙の中、ちょっと一休みして気づいたら、もう秋が間近になっていた、という感じでしょう。

 結句がやや説明臭いのですが、「晩夏偶感」という題に対しての詩として理解できる内容です。
 解説に書かれたように、休日の過ごし方、ということをテーマにしたいという意図があるのでしたら、承句の「瞬息」を「一日」とし(起句の「累日」は「累累」とでもしておきましょう)、時間のスケールを拡げておくと良いでしょうね。




2013.10. 2                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第249作は 東山 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-249

  老樟        

衆鳥時時緑景親   衆鳥 時時 緑景に親しみ

村家世世拝昏晨   村家 世世 昏晨に拝す

無為成徑一千歳   無為にして径を成す一千歳

盤柢擁祠吪地神   盤柢 祠を擁して地神と

          (上平声「十一真」の押韻)



<感想>

 お久しぶりです。七月頃に送られたようですが、メールの関係で届かなかったようです。

 「老樟」という題での作、樹齢千年を越えた楠ですと、その年数をうかがうだけでも神々しく感じますね。

 起承転結の構成が明瞭で、後半はこの老樹の神秘性を十分に伝えていると思います。
 その後半の格調に応じようと、前半も「時時」「世世」の対語を用いてリズム感を出すなどの工夫が見られます。
 私の感覚では、「衆鳥」が集まるのが朝晩で、村人が拝するのが「時時」のようにも思いますが。

 起句の「緑景」は、悩まれたところではないでしょうか。
 沢山の鳥がこの木を慕って群れ集まる様子を、大きな視野で「景」と表したのでしょう。私も、「葉」とか「樹」とか、具体的に表す形を検討しましたが、鬱蒼と繁っている枝の様子を表すのに、なかなか納得できるものが浮かびませんでした。




2013.10. 2                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第250作は 東山 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-250

  偶感        

太虚生萬物   太虚は万物を生じ

不計毎神清   計らずして毎に神清

人間來何處   人間何処より来る

身中存一誠   身中一誠存す

          (下平声「八庚」の押韻)



<感想>

 こちらの詩は、哲学的なのか、難しいですね。
 前半は「万物」「神清」として、目に映ずるあらゆる事象への賛美の気持ちを出しておいて、転句は「しかし、人だけはどうしたことか」と逆接でつなぐのでしょうか。
 それでも人には「一誠」はあるということかな?と理解しましたが、どんなもんでしょうね。

 ただ、転句の「人間」は、「人」ではなく「人間世界」の意味で、「間」は平声で用いますので、その辺りはどうお考えでしょうか。
 ここを「人」の意味だとすると、結句の「身」も「心」かなと思いますが、これもいかがでしょう。



2013.10. 2                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第251作は 海鵬 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-251

  偶作        

曽一日還千里途   曽て一日に還る千里の途

今時飛宙九宵紆   今時、宙を飛んで九宵をめぐ

借問何到桃源地   借問す何ぞ到らん桃源の地

君指渺茫天一隅   君は指さす渺茫たる天の一隅

          (上平声「七虞」の押韻)



<解説>

 今は科学が発達し、生活には便利になったが、桃源郷にあるという人の幸せには、ほど遠いと言う現実。

 李白の「早発白帝城」と、杜牧の「清明」からヒントを得ました。

<感想>

 海鵬さんにも、前作からですと三年ぶり、お元気でしたか。
 漢詩を続けていらっしゃったか、ちょっとお休みだったか、どちらにしてもお帰りを大歓迎です。

 前半は、「昔は一日に千里行くのも大変だったが、今では宇宙にまで飛んでいくことができる」ということですね。承句の「宵」は「霄」の字でないと意味が通じません。

 科学が発達したけれど、桃源郷たるユートピアは、まだまだ遥か彼方で辿り着けない、というのが後半。
 構成の点では問題なく、漢詩らしい展開になっていると思います。

 転句の「借問」の「問」は仄声、ここだけ平仄が合いませんので困りましたね。
 「借問」はせっかくだから使いたい言葉でしょうが、仕方ありませんから、「問君何處桃源地」という形にして、結句を「尚指渺茫天一隅」と直しておく形でしょうか。




2013.10. 3                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第252作は 緑風 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-252

  無情雨        

無情冷雨故人荘   無常の冷雨 故人の荘

骨肉親朋粛捻香   骨肉親朋 粛かに捻香

斗酒隻鶏今幻想   斗酒隻鶏と しゅせきけい 今や幻想

何時我訪白雲郷   いつか我も訪ねん 白雲の郷(くに)

          (下平声「七陽」の押韻)



<感想>

 緑風さんは、この夏に親しいご友人を続けて亡くされたそうで、その折の思いを詠んだ作品とのことでした。

 前半は、告別式の情景を描いていますが、書き出しの「無情冷雨」がいかにも寂しげな様子を象徴していますね。
 夏なのに「冷雨」がどうか、と心配されていますが、詩自体に夏を感じさせる言葉が無いわけですから、この詩だけを読めば、秋から冬の季節の哀悼の詩と理解します。
 作者は夏の出来事として考えていますので気持ちの面でしっくりしないかもしれませんので、「細雨」「夜雨」などにしておくと良いかもしれません。

 転句の「斗酒隻鶏」は故事からの言葉で、「亡くなった友人を哀惜する」気持ちを表します。もともとは、「一斗の酒と一羽の鶏は死者を弔う時に用いたもの」で、魏の曹操の文から生まれたようです。
 それを受けるのに「今幻想」はややずれる感じがします。悲しみの深さを表すような言葉が良いでしょうね。



2013.10. 3                  by 桐山人



緑風さんからお返事をいただきました。

 鈴木先生、いつもご指導有難うございます。
 2013-252の『無情の雨』につきまして、先生のご助言を頂き推敲しましたのでお送りいたします。
 今後ともよろしくお願いします。 

    無常雨(推敲作)
 無情細雨故人荘   無常の細雨 故人の荘
 骨肉親朋粛捻香   骨肉親朋 粛かに捻香
 斗酒隻鶏思縹渺   斗酒隻鶏 思ひ縹渺
 何時我訪白雲郷   いつか我も訪ねん 白雲の郷(くに)

2013.10. 7            by 緑風






















 2013年の投稿詩 第253作は 観水 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-253

  読「五更赴酒店」詩有感次韻     「五更赴酒店」詩を読みて感有り 韻に次す   

憶昔青雲志   憶ふ昔 青雲の志ありて

離家獨上京   家を離れ 独り上京せしを

胸中期出世   胸中 出世を期すも

夜半懼偸生   夜半 偸生を懼る

散歩路猶暗   散歩すれど 路は猶ほ暗く

空望天未明   空しく望む 天の未だ明けざるを

勞勞將去處   労労 将に去らんとする処

不覺遇鷄鳴   覚えず 鶏鳴に遇ふ

          (下平声「八庚」の押韻)



<解説>

 素衣さんの「五更赴酒店」を拝読しました。
「早過ぎる早起きをし、再び眠るにも眠れず」という状況には、私も身に覚えがあります。

その昔 大志を抱き 東京に 出てきたわたし
将来を 夢見ながらも 生き方に 疑問もあって
まだ暗い 街をぶらつき 明けやらぬ 空をながめる
くたびれて 帰るところで いつの間に 朝になるのさ
 具体的な場面は異なるでしょうが、(今よりもうちょっと)若かりし頃の自分を思い起こしつつ、詩を作りました。
 将来の活躍を夢見ながらも、寝床でふと、無為に生きることへの不安に目が覚め、気晴らしに散歩に出てみたりもしました。
 真夜中の彷徨の果ての現実の夜明けが、なかなか落ち着かない気持ちの一区切りと重なります。



<感想>

 観水さんから、素衣さんの詩に対しての次韻をいただきました。
 素衣さんの詩は現在を表していましたが、観水さんの方は「憶昔」とあるように、過去(と言っても観水さんならば「ちょっと前」かなと思いますが)を思い出しての内容になりました。
 その分、構成も整って、良い意味での落ち着きが感じられますね。素衣さんの詩の率直さとつながるものがあり、次韻の詩としてだけでなく、先輩としての親近感も感じられる作品になっていると思います。

 ありがとうございました。




2013.10. 5                  by 桐山人



鮟鱇さんから感想をいただきました。

觀水さん
 今日は。鮟鱇です。

 素衣さんの「五更赴酒店」詩への和詩、拝読しました。
 觀水さんの作風は端正で、日本の漢詩を荷う若手詩人としていつも頼もしく思っていますが、「早過ぎる早起きをし、再び眠るにも眠れず」という新鮮な詩題・着想には素衣さんに功があるにしても、その詩想にいち早く着目され、素晴らしい和詩を詠まれた貴兄に佩服しています。

 素衣さんの詩について私が句の虚実を述べている間に、貴兄は素衣さんへの和詩を詠まれました。
 そこでついつい貴兄の玉作も虚実で読んでしまいました。

 見当外れかも知れませんが、

 憶昔青雲志,離家獨上京。
  この聯は、心に浮かんだことを詠んでいますので虚といえますが、多くの人が経験するところであり、よくあることだ、と読者に思われることで、事実化した虚であり、限りなく実に近い聯だと思いました。

 胸中期出世,夜半懼偸生。
  この聯は、首聯を受けて貴兄の個人的な体験を述べて虚になっています。
 「胸中,夜半」は心の内と外の状況、「期出世,懼偸生」は過去と現在の心境、
 ということでよくととのった対偶になっていると思います。
  そして、「夜半懼偸生」句の働きがとてもよいと思います。
 この句によって、憶昔という形で現在に身を置いていた作者の心が、その昔へと入っていきます。

 散歩路猶暗,空望天未明。
  この聯は「散歩路猶暗」は実「空望天未明」は虚。
 「空」一字が「夜半懼偸生」句と照応していることで、虚として実によく働いていると思います。

 勞勞將去處,不覺遇鷄鳴。   この聯は「勞勞將去處」は虚、「勞勞」がとてもよく働いていて、
 @疲れたA自分で自分を慰めるB遠い、という思いがこもごも含まれていると思います。
  そして、末句「不覺遇鷄鳴」は実、になりますが、「勞勞」句を受けていることで、
 触景生情の好句になっている、と思います。

 以上が私の感想です。
 玉作を虚実で読むのがよいのかどうかはともかく、佩服。

 觀水さんと素衣さんは、川を挟んで指呼の間ではなかったでしょうか。
 交流はされていますか。
 先輩・後輩ほどの年齢の開きがあるかと思いますが、私から見れば別世代のお若いお二人が切磋琢磨され、よい詩を詠んでいただくと、とてもうれしいです。
 老兵も負けてはいられませんので、励みになります。


2013.10. 7             by 鮟鱇



素衣さんからお返事をいただきました。

 観水様にも頭を上げられぬ思いです。
 生まれて初めて次韻をして頂きました。記念的とも言うべき感慨です。

「偸生」について、方々想像したり、また自身の偸生を思わされたりも致しました。
 夜という時間帯は、静かで穏やかな分だけ、昼間よりも、言葉を内側でグルグルと巡らせるのに適した時間帯なのでしょうか。
 悩みがあれば悩みが、慶びがあれば慶びが殊更に凝視され、試行錯誤され、心の内側に練りこまれていくように感じます。
その分だけ、夜明けというポイントに感じる、静かで壮大な無常さも、ともすれば一入に想えてくるのか。
 幻想的です。
 いずれにしましても、本当にありがとうございます。

 当方、ご案内のとおり、「詩」に触れてまだまだ日も浅い身です。
 日頃の景色・事物から詩心を摘み取り、紙面に材料として並べ、切って煮詰めて形にして、お出しする…という詩作のプロセスに、これまで親しんだ各種創作や鑑賞には類しない新鮮な楽しみと充実感を覚えつつも、では腕に覚えはあるか、といえば、それは言うまでもないことです。
 日々先人の築いた故事や視点、虚実の大海に学ぶ中(凄まじい時は学び方を模索すらする中で)、先輩方との圧倒的な距離感を傲慢にも意識するにつれ、詩作本来の愉しみが徐に遠ざかる危惧も、ひょっとすると予感するところでありました。

 が、この度のように桐山人先生、鮟鱇様、観水様等から言葉を頂けることを励みとし、これを懐に入れると、そういった疑い迷いもはて何のこと、という具合です。
 とにかく志を育てて参りたいと思います。


2013.10. 7              by 素衣






















 2013年の投稿詩 第254作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-254

  初聞秋聲(一)        

旱天漸卒白雲生   旱天 漸く卆り 白雲生ず

宵夕初聞是蟲聲   宵夕 初めて聞く 是れ虫声

慈雨吹涼蘇病葉   慈雨 涼を吹いて 病葉を蘇らせ

殘蝉啼罷動吟情   残蝉 啼き罷んで 吟情を動かしむ

          (下平声「八庚」の押韻)


秋風や耳を澄ませば虫の声 


<感想>

 兼山さんから初秋の詩を二首、いただきました。

 それぞれの句を見ると、秋の到来を感じさせる素材がよく配置されていると思います。
 特に前半の「初聞是虫声」は季節の経過をよく表していると思います。ただ、ここで声を出しておくと、結句の「残蝉啼罷」とぶつかっていますね。蝉が啼き終えた後の静寂、そこに「吟情」が動くという、一瞬の間がこの句の命だと思いますが、承句で虫の声があると二つの鳴き声が重なっている形で、静寂感が出てこないと思います。

 前半、後半、それぞれは整っていますので、二つの詩が並んでいるような、ちょっと勿体ないような詩だと思います。



2013.10.16                  by 桐山人


鮟鱇さんから感想をいただきました。

 兼山先生
  鮟鱇です。

 玉作「初聞秋聲」二首、拝読しました。
 とりわけ(一)は佳作、佩服しました。

 「殘蝉啼罷動吟情」は、一方で鳴きやむ蝉(死)、一方で吟じようという人間(生)の対比に趣きがあります。
 この句のうけとめ方はいろいろあるかもしれませんが、小生には夏(生)と冬(死)のはざまの秋の風情をよく詠まれており、余韻嫋嫋だと思いました。
 轉句の「病葉」も、合句(結句)とよく照応していると思います。

 蟲聲、殘蝉啼罷、吟情。聲起こり、聲止み、聲起こる、は、桐山人先生のおっしゃるように同義重複の感もあり、うるさい、という見方もあるかと思いますが、
 小生は、聲起こり、聲止み、聲起こる、という動きを表現したもので、よいように思います。
 かりに承句の蟲聲を消してしまうと、合句の「動吟情」が唐突になるかと思います。合句の「動吟情」は、承句の「初聞是蟲聲」とよく符合している、と思います。


2013.10.18            by 鮟鱇
























 2013年の投稿詩 第255作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-255

  初聞秋聲(二)        

連日殘炎勢未休   連日 残炎 勢ひ未だ休まざるに

颱風一過入新秋   台風 一過 新秋に入る

蟲聲滿地三更下   虫声 滿地 三更の下

深謝天恩詩可酬   深謝 天恩 詩もて酬ゆべし

          (下平声「十一尤」の押韻)


不用意に虫の天下となりにけり


<感想>

 こちらの詩は起句が強すぎる印象です。
 結句の「深謝天恩」を持ってくるために、夏の暑さも出しておきたいところでしょうが、いかにも承句への説明という感じではないでしょうか。
 この詩で見れば、承句から始まって後半の三句で十分な内容だと思います。
 今年の夏が異常な暑さだったということを強調したいならば、「連日」という現在形のような言い方はやめて、「今夏」と振り返るような形が良いと思います。



2013.10.16                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第256作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-256

  稱竹外老儒監修校訂「東日本大震災漢詩集」発刊        

國難詩編斯道魁   国難の詩編は斯道の魁

懇虞陸奥賦悲哀   懇に陸奥を虞って悲哀を賦す

復興激励又追悼   復興の激励 又追悼

憫黙涕零稱史才   憫黙びんもく 涕零ていれいして 史才をたた

          (上平声「十灰」の押韻)


「憫黙」: 深い感動のあまり言葉が出ないさま
「涕零」: 出るのは感涙のみ



<解説>

【はじめに 御無沙汰を謝して】

 鈴木先生はじめ桐山堂門下の皆様、大変ご無沙汰しています。

 東京での全日本漢詩連盟創立10周年記念大会に御参会の皆様には桜花爛漫の九段下でお会いしましたが…。
あれからでも半年ですか。

 その節、懇親会場の近況報告でも申し上げましたが、我が師である伊藤竹外(いとう・ちくがい)愛媛県漢詩連盟会長(全日本漢詩連盟副会長)が一年前から入院加療中の為、月例の雅会もままならず一日も早い老師の御快癒を祈念して、漢詩の投稿を控えてまいりますことお話ししました。

 老師は数多の六六庵門下の祈りもむなしく、未だ再起をすることがかなわない状況です。
 そこで今回投稿した拙詩もさることながら、時を経ては新鮮味や当時の感懐が薄れてしまうことから、今季より再度投稿を再開させていただきます。
 ただし、これまでは老師の添削を経て世に出しても恥ずかしくないレベルのものを投稿しておりましたが、今後はそれが望めません。漢詩歴十年を経て、そろそろ独力で諸兄の批評を仰ぐ時期を迎えたのかもしれません。

 従いまして、過去の投稿レベルからして、お恥ずかしい詩編ばかりが今後は皆様のお目に供すると思いますが、よろしくお願いします。

【「東日本大震災漢詩集」について】

 この漢詩集は震災直後から老師がどうしてもなさねばならないと執念を燃やしていた刊行物です。
 老師は平素から「漢詩家たるもの『現代を詠じ現代を吟じ舞う』ことを忘れてはならない。ただ単に年中行事的に『夏日海村』など詩語集にあるような漢詩ばかり作っていてはいけない」とご指導くださいましたから、未曾有の今回の国難に遭遇して人生最大の仕事として意気に感じ、どうしてもこれをまとめ発刊したかったに違いありません。

 その熱意に打たれ愛媛県下門下はもとより、かねて老師の添削をいつも仰いできた全国の雅兄たちから漢詩が数多寄せられました。その数およそ300首。この内、秀逸なる漢詩を老師が選定127首を編集したのが今回の震災漢詩集です。
 老師の念願通り震災一周忌の平成24年3月に完成し、関係門下生はもちろんの事、公立図書館など関係機関に納められ、なによりも愛媛県当局を通じて、東北被災各県に数多冊数が寄贈されました。
 これら一切の印刷製本等出版経費は老師が無償でなさったということです。頭が下がります。

 これを称える拙詩は、著書の完成を受け昨年六月に賦したものですが、直後、老師が昨夏の入院により、直接お目を通していただくこともなく今回の投稿と相成った次第です。

 当刊行物は非売品ですので、各位に見ていただくことがかないません。そこで老師の思いを少しでも皆さんに知っていただきたく、序文を引用して著書のご披露に代えさていただきます。

【伊藤竹外老師の序文(引用)】

 昨年、平成23年3月11日に突如として東日本を襲った大震災、大津波の災害は已に1年を経過して、未だに瓦礫累累を目前にしながら被災者の皆様、30餘万人が仮設住宅に餘震、風雪によく耐えて一日も早く復興を願っていますが、放射能の除染もままならず政府の対応も目下、復興庁を設け審議を重ねてはいますが復旧は容易ではありません。
 国民斉しく憂い、倶に義援金を贈るのは当然でありますが今最も必要なのは温かい思いやり、激励の言葉だと思います。
 先般、人間学を学ぶ「致知」という月刊紙が、全国版の新聞紙上に「無財の七施」という「雑宝蔵経」のお経の解説本が載っていました。この意は財物によらず苦しみ悩む人々にいたわりを施す七則を次の如く示していました。

  (一)眼施…やさしくいたわりのまなざし
  (二)和顔施…慈愛にあふれた笑顔
  (三)言辞施…温かい言葉と励ます言葉
  (四)身施…自分の体をもって奉仕する
  (五)心施…思いやりの心をほどこす
  (六)坐床施…自分の席を譲る
  (七)房舎施…自分の宿を貸す

 成る程と思うところ頻りなるものがあります。
 思いは誰でも分かりません。又心で思うだけでは誰にも分かりません。それは思いやり、心遣いの具体的な動作や行動がなければ誰にも判りません。
 私たち風雅を学ぶ者達がこの度の大震災の遭難者を憂い、歎き、激励の漢詩をこの一年間に詠じたものは三百篇にも及びます。それは月々に応じて「大震災書感篇」「扶桑国難回顧篇」「中秋観月東北を懐う」「避難者激励篇」「歳晩避難者慰問篇」「壬辰(平成二十四年)新年書感集」など、(財)全国吟剣詩舞振興会、月刊機関誌「吟詠家に漢詩のすすめ」欄にて募集、発表した絶句篇及び、愛媛県漢詩連盟十五吟社、例月漢詩会で募集した詩篇を取りまとめ、この「東日本大震災漢詩篇、(激励を込めて復興を祈る)」と題して上梓、刊行して関係各位、同志諸君に配布し七施に加えて八施に一灯を掲げたく存ずる次第であります。
 尚、本稿は漢詩家のみならず吟詠家及び震災避難者、一般読者層の為に、上段を書き下し文とし下段を白文としました。

(以下編集関係者への謝辞があるが割愛)

 平成二十四年三月

                       愛媛漢詩連盟 会長 伊藤 竹外



【関連ホームページ】

   六六庵、伊藤竹外、漢詩、愛媛漢詩連盟、四国漢詩連盟


<感想>

 東日本大震災の年、全日本漢詩連盟の発刊した「扶桑風韻」の中で、震災を詠んだ詩で載せられていたのは二首、その一首が伊藤竹外先生の玉作でした。
 まさに、金太郎さんがおっしゃる通り、竹外先生は「斯道魁」として取り組んでいらっしゃることを感じました。

 時事を扱う詩は、措辞がどうしても生硬になり、詩として情趣に欠けるという批評がありますが、そうした点は、詩人の率直な思い、感慨が強すぎることからだろうと私は思っています。現代社会や現実の事件を詠もうとした時に、伝統的な詩語では表しきれないものがある、その歯がゆさを十分噛みしめた上で、それでも表現せずにはいられない感情こそが、作詩の源泉でもあるのだと思います。
 現代日本の漢詩界の柱である竹外先生のご回復を私も心から祈っています。

 金太郎さんの詩は、竹外先生のご意志をくみ取り、ご労作への敬意を表したものですね。
 転句の「復興激励又哀悼」まで、詩集の内容を丁寧に伝えていると思います。
 ただ、結句の「憫黙」「涕零」はやや重く、急に激情的になる感じがします。
 作者があまりに感情をほとばしらせると、読者は逆にひいてしまいます。できれば最後まで抑制された表現の方が、逆に心に染み込んでくる場合もありますからね。

 結句の「史才」は難しい言葉ですね。歴史を語る才能、というところでしょうか。時代を描かんとする竹外先生のお姿が浮かび上がってきます。



2013.10.16                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第257作は 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-257

  富士山        

遥眺霊峰富士山   遥かに眺む 霊峰富士の山

白雲壮麗隔塵寰   白雲 壮麗 塵寰を隔つ

長空漠漠聳天半   長空 漠漠 天半に聳ゆ

絶頂崢エ攀路艱   絶頂は崢エ 攀路艱し

          (上平声「十五刪」の押韻)



<感想>

 仲泉さんは山梨にお住まいですので、富士山への思いがよく伝わってくる詩ですね。

 「霊峰」「隔塵寰」「聳天半」「絶頂崢エ」と、各句に散りばめられた富士山への言葉が、山を前にたたずむ作者の姿を彷彿とさせます。

 この富士の背景として空と雲が配置されていますが、承句と転句にそれぞれ入っているため、やや意図が通じにくくなっています。
 承句の「白雲」は杜牧の「白雲生處」(「山行」)と同じように神仙をイメージさせて「隔塵寰」へと流れるようにしたいのでしょうが、「壮麗」が入ると、「白雲が壮麗だから塵寰を隔てている」という形になり、因果関係がぼやけてしまいます。
 転句も「長空」「漠漠」「聳天半」となって、主語の転換が伝わって来ません。
 視野として「白雲」も「長空」も同じような位置に存在しますので、どちらも空だと割り切って、転句にまとめるような形の方が良いでしょう。
 「聳天半」も承句に持ってくると、「隔塵寰」とぶつからないと思います。

 結句はこれで問題はないですが、詩の結びとして「攀路艱」が良いのかどうか、読者はどうしても最後に主題があると読みますので、「攀路艱」、つまり「人を寄せ付けない険しさ」こそが富士山の姿だと作者は言いたいのだろうと考えます。
 仲泉さんご自身がそれが目的だということならば良いのですが、狙いとちょっとずれるということでしたら、句の並べ方を検討してみると良いでしょう。



2013.10.20                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第258作は 越粒庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-258

  仲秋        

簷馬殘燈下   簷馬 殘燈の下

清音凛凛乎   清音 凛凛乎たり

推敲聊託酒   推敲 聊か酒に託せば

乃是苦中娯   すなわち是れ 苦中の娯み



<感想>

 詩を推敲する楽しみと苦しみが率直な言葉で書かれていて、まさにその通り、と共感します。

 ただ、「仲秋」という題の詩としてはどうでしょうか。
 極端に言うと、後半の場面は「仲秋」でなくても通用し、春でも冬でも、前半に季節感を表す素材を配置すれば詩として成り立ってしまう恐れがあります。
 「仲秋」という題でなく、詩を作ったり推敲するという題ならこれでもよいかもしれませんが。

 結句の「乃是」の二字に秋を感じさせる言葉を入れるような形が良いのではないでしょうか。



2013.10.20                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第259作は 素衣 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-259

  心字池小憩        

大厦聚観閑緑郷   大厦 聚(つど)ひて観る 閑緑の郷

松風池皺放微涼   松風 池は皺(しわ)みて 微涼放つ

清陰静坐逾慵去   清陰 静かに座せば 逾(いよいよ)去くに慵(ものう)し

徒羨水亀休石床   徒(いたづら)に羨む 水亀の石床に休むを

          (下平声「七陽」の押韻)



<解説>

 とある炎天下の日に日比谷公園の心字池で小憩をとった際の感慨を綴ってみたものです。

 残暑も盛りの東京砂漠のど真ん中、滾滾と湧き出る緑豊かなオアシス。
 各々静かに休むわずかな人影や小動物達のように、
 自分も時間を忘れ、ここでのんびりしていたい、と思ってしまいました。
 また、亀が当たり前にそこにいることにも驚きました。


<感想>

 素衣さんには、観水さんや鮟鱇さんからも歓迎のエールが送られています。若い方が漢詩の仲間に加わることは嬉しいですね。
 この詩は以前に送ってこられたもので、作詩を始めてそれほど期間が経っていない頃の作品だと思いますが、アイデアが表れた詩になっていますね。

 起句は、ビル達が集まって公園をのぞき込んでいるという擬人法でしょうか、東京の高層ビル群が押し合いへし合いして頭を寄せ合っている様子だと思うと、コミカルで楽しく、私はそう解釈しました。

 承句の「池皺」は細かな波が立つことで、これも面白さが出ていますね。

 転句からは素直な表現で、暑さの中でもうやってられないよ、という気持ちが表れています。全体に重苦しさが無く、明るさが出ていて、清新という感じがします。
 強いて言えば、結句の「羨」は感情がそのまま出ていますので、「看」のような動作を表す言葉にした方が表現に奥行きが出るでしょうね。



2013.10.20                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第260作は 玄齋 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-260

  追悼東日本大震災        

多年惨澹禱平安   多年の惨澹 平安を祷り

幾度苦吟何憚難   幾度の苦吟 何ぞ難きを憚らんや

海面迢迢客路遠   海面 迢迢 客路遠く

航程燦燦夕陽寒   航程 燦燦 夕陽寒し

停車牽袂離家日   車を停めて袂を牽く家を離るる日

寄汝懷詩拭涙酸   汝に寄せんと詩を懐ひ涙を拭ひて酸たり

有信親朋看不見   信有りて親朋 看れども見えず

別魂一哭在波瀾   別魂 一たび哭して波瀾に在り

          (上平声「十四寒」の押韻)



<解説>

 何年もいたましく思いながら平安を祈り、幾度も苦吟をしておりましたが、どうして言うのが難しいからといって言うのを憚ることができましょうか。
 海面ははるかに広がっていて旅人の道のりは遠く、船の通った後はきらきらと輝いて夕陽が寒々しく感じられました。
 車を停めて袂を引っ張って別れを惜しむ、家を離れる日に、あなたに贈ろうと詩を吟じて、涙を拭って悲しい気持ちになっていました。
 親しい友人からの便りがあって、便りを見ようとしても見ることができず、別れの気持ちで一度声を上げて泣いて、人生の波瀾の中にいます。



 私は今年は検査入院をした後に自宅での休養の日々を過ごしながら漢詩を詠んでいます。
 震災の日を忘れず、日々を真剣に学びながら過ごしていこうと、そう思っています。

<感想>

 東日本大震災からすでに二年半が過ぎました。現地の方々は復興に努力されている姿を報道で目にしますが、被害の傷跡は消えることはないようです。
 それは、遠く離れた私たちも同じことで、心の中に深い傷として残っています。

 玄齋さんから詩をいただきましたが、過ぎ去った出来事ではなく、現状を、今の思いを、詩として詠み上げていくことは大切なことだと改めて感じました。

 この詩は、先日のサラリーマン金太郎さんの詩「稱竹外老儒監修校訂「東日本大震災漢詩集」発刊」と併せて、東日本大震災のコーナーに転載させていただきました。



2013.10.23                 by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第261作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-261

  又富士山        

六入清浄先達蹤   六入清浄 先達の蹤

信仰聖域睢山容   信仰の聖域 山容を睢る

四時神爽聳天半   四時 神爽にして 天半に聳ゆ

世界誇称不二峰   世界に誇称せん 不二の峰

          (上平声「二冬」の押韻)


「六入清浄」: 六根清浄と同意。
「先達」: 信仰の山に入る先導役。
「睢」: みあげる。
「四時」: 春夏秋冬。



<感想>

 前回の詩は、富士山が世界遺産登録されたので観光客が沢山来ることへの危惧がテーマでしたが、今回の詩は、富士山の姿を賛美しようという意図のものですね。
 すっきりとした内容になっていると思います。

 平仄の点で、起句の四字目が「浄」で仄声であること、承句の二字目の「仰」も仄声ですので、修正が欲しいですね。
 起句は「先達六根清浄蹤」のような形で語順を入れ替えても行けるかな、と思いますが、承句はそうはいきませんね。
 「霊」とか「神」などの字を使うところでしょうか。

 転句の「神爽」は、通常、心(神)の状態を表す言葉なのですが、「神々しく颯爽と」聳えている姿という解釈で、ここでは合いますね。



2013.10.27                  by 桐山人



深渓さんからお返事をいただきました。

桐山堂先生
毎々ご指導有難うございます。
今年の夏異常な酷暑と秋に向けて台風に見舞われ、体調管理に如何お過ごしでしょうか、お見舞い申し上げます。

扨て、「又富士山」にご感想賜り有難うございます。
起句の「六入清浄」を「精進潔斎」に
承句の「信仰」を「信心」に
と推敲いたしました。

2013.10.30              by 深渓






















 2013年の投稿詩 第262作は 亥燧 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-262

  夏日海村        

黄昏潮退蟹行沙   黄昏潮退いて 蟹沙を行く

無用艫綱繋釣槎   無用の艫綱 釣槎を繋ぐ

如今寂寥人絶久   如今 寂寥 人絶えて久しく

當年殷賑海之家   當年 殷賑 海之家

          (下平声「六麻」の押韻)



<解説>

 子供のころ賑わった海水浴場も今は寂れてしまいました。(昼の暑い盛りにもちらほら程度)。
 そこから500メートルほど行ったところに小さな漁港があって。干潮の風景です。

<感想>

 そうですね、私の住んでいる知多半島は海に囲まれていますので、当然、海水浴場もかつては沢山ありました。
 最近は車を運転しながら通り過ぎるくらいですが、せいぜい潮干狩り会場の看板が立つくらい、海水浴で賑わう(?)のは半島先端の海岸しか無い状態です。
 私自身も、子ども達が小さい時に連れて行ったきりで、もう三十年近くは海に入ってないように思います。

 起句の「行」は、「走」なり「歩」なりが分かりやすいですが、平仄を合わせて「横」の方がより具体性が出るでしょう。

 承句は「無用」、漁師としては「無用」ですが、「釣槎」を繋ぐ役割はしているわけで、ややひっかかりますが、面白い表現とも言えます。
 私は、起句が大きな景から蟹まで広がり感を出しましたので、承句は「艫綱」が並んでいるような奥行きを出しても良いかと思います。

 転句は「如今」では平仄が合いませんので、「今日」なりに直しておく必要がありますね。

 対比が明瞭で、納得、共感する詩ですね。



2013.10.30                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第263作は 亥燧 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-263

  夏日茅居        

三伏妨眠頭上蠅   三伏 眠りを妨ぐ頭上の蠅

無由拂汗憑小窓   由無く汗を拂うて 小窓に憑る

口琴吹奏生涼気   口琴吹奏すれば 涼気生じ

薄暮東空月始昇   薄暮 東空 月始めて昇る

          (下平声「十蒸」の押韻)



<解説>

 襦袢にステテコ、昼寝をしようにもうるさいハエが・・・
 仕方なくハーモニカを取り出して、昔の歌を吹いていたら、いつの間にか日が暮れました。

<感想>

 こちらの詩も、前作と同じ時にいただきました。
 展開が滑らかで、各句のつながりが時間経過とともに、よく理解できます。
 気になったのは、この暑さの中でどうして「口琴」を吹こうと思ったのか、というところ。「仕方なく」と解説には書かれていますが、仕方なくでもハーモニカを誰もが吹くわけではないので、亥燧さんの趣味か、と、これは私の個人的な興味ですね。

 推敲が必要なのは承句で、二六対が乱れていることと、「窓」は「上平声三江」の韻ですので韻目が合っていません。
 句の流れを残しながら、修正をしていただくと、すっきりとした詩になると思います。



2013.10.30                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第264作は 鮟鱇 さんからの作品です。

作品番号 2013-264

  虎入羊群人酒家        

愁翁懺悔憶生涯,   愁翁 懺悔して生涯を憶(おも)ふに,

虎入羊群人酒家。   虎は羊の群に入るも人は酒家に、と。

醉死秋宵叩泉戸,   醉って秋の宵に死に泉戸を叩き,

夢生春晝賞櫻花。   夢に春の晝に生まれて櫻花を賞す。

老學韻事買詩筆,   老いて韻事を學び詩筆を買ひ,

暫喜風流跨暮鴉。   暫く風流を喜んで暮鴉を跨ぐ。

張翼周旋閻王殿,   翼を張って閻王殿を周旋(めぐ)り,

輪廻猛獸長霜牙。   輪廻す 猛獸の霜牙を長ずるに。

          (中華新韵一麻平声の押韻)

<解説>

「虎入羊群」: 四字成語。強き者が弱者の中で暴虐の限りを尽くすことをいう。
「醉死/夢生」: 四字成語を分解して対仗に用いている。「醉死夢生」は「醉生夢死」と同じ。
「泉戸」: 冥府(黄泉)への門。
「跨暮鴉」: 「騎仙鶴」という詩語をもじっている。
「閻王」: 閻魔大王。王は軽声に発音するので仄声。
「霜牙」: 鋭い牙。

 今月で67歳。いつ死んでもおかしくない、と思いつつ詩を詠んでいます。閻魔との対面など、黄泉での偶感を詩材とすることが、とても多くなりました。
 ただ、私にとって黄泉は、愉快な場所で、以前にも詩にしましたが、唐宋元の詩人・詞人・曲人に会うのが大きな楽しみです。
 李白にはぜひ会いたい。そのために詩と酒の訓練を毎日重ねていますが、上記拙作は、凡才の作詩4万首の研鑽の成果を示すもので、私ならでは、という作風でもあり、李白に読んでもらっても恥かしくない出来だと自負しています。

 「學」が現代の中華新韵では平声であることや閻王の「王」が軽声に読むので仄声であることは説明しなければなりませんが、李白は平仄にあまりこだわらない人ですので、そんな話よりも酒だといわれると思います。
 李白との酒席、もしかすると晁衡(阿倍仲麻呂)にも同席してもらえるかも知れません。
 同郷のよしみ、日本人漢詩人の大先輩には、漢詩の精華である平仄・押韻を取り込んで詠む漢語短詩を披露できれば、と思います。

      五七令・虎入羊群人酒家

  部長醉搖唇,虎入羊群,倒酒樽。(中華新韵九文平声の押韻)

  虎となり羊の群にをる部長くちびる揺らし酒樽(さかだる)倒し  画蛇添足

<感想>

 今回も楽しく拝見しました。
 鮟鱇さんが李白に会うために、酒と詩の訓練を重ねていらっしゃるのは、なるほどと納得、「李白一斗詩百篇」に対抗するだけの酒豪でなくてはいけませんし、酒豪と併せて詩豪があるなら、四万首の鮟鱇さんこそふさわしいでしょうからね。
 阿倍仲麻呂まで出てきては、それこそ「一杯一杯復一杯」、夢は果てしなく広がって行きますね。でも、あまりはしゃぎ過ぎて大先輩に失礼をしないように。後から私が行った時に、末席に加えてもらえるようにしておいてください。

 「虎入羊群」から「人入酒家」への連想、酒家で「暴虐の限りを尽くす」と生涯を振り返る書き出しから、「酔死夢生」の対、「仙鶴」ではなく「暮鴉」とした意図は人間臭さを出したのでしょうか、そう言えば、酒を飲むと人は大トラになるなぁと感じ入った次第です。



2013.11. 7                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第265作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-265

  聞秋蝉        

西風忽動老昏情   西風 忽チ動カス 老昏ノ情

身世心形両覚傾   身世 心形 両ツナガラ傾クヲ覚ユ

坐聴寒蜩庭樹裡   坐シテ聴ク 寒蜩 庭樹ノ裡

啾啾盡是急時声   啾啾 盡ク是レ 時ヲ急カスノ声

          (下平声「八庚」の押韻)





<感想>

 身体(「形」)が弱るから心も弱るのか、心が弱るから身体も弱るのか、どちらが先という話ではなく、老いゆくのはまことに「心」と「形」の両方で、それが同時進行的に相互に足を引っ張り合うということを最近実感しています。
 身体は老いても心だけは若々しく、なんて、つい最近まで思っていたような気もするのですが。

 この老境に響くのが「寒蜩」なわけで、前半と後半がよく対応していると思います。

 承句の下三字、「両覚傾」は「覚両傾」の語順でしょうね。



2013.11. 7                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第266作は 哲山 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-266

  土偶河童        

河童子見沼沈愁   河童子 沼を見て沈愁す

頂皿乾徒歳華周   頂皿は乾き 徒らに歳華めぐる

停巷間何煩偶命   巷間に停まって何ぞ偶命を煩ふ

深淵将骨易心休   深淵まさに骨易く心休まる

          (下平声「十一尤」の押韻)



<解説>

 小さい池の辺に土偶の河童を置いているのですが、その河童に自分を見立ててつくりました。
 題の<土偶河童>を単に<河童>だけにした方がいいのかどうか迷ったままです。

<感想>

 哲山さんは五言詩が多かったですが、七言詩は二作目でしょうか。

 最初に読んだ時に、違和感が強く読みづらかったのですが、それは句切れが七言での通常の「二・二・三」ではなく、変則なリズムだからですね。
起句は通常の「河童 子見 沼沈愁」ではなく、「河童子 見沼 沈愁」となっています。以下の句も同様で、「頂皿乾 徒歳華周」、転句も「停巷間 何煩偶命」、結句は「深淵 将 骨易心休」。
 これは、恐らく、読み下しが先にできて、それに合わせて漢詩に変換していったからでしょうね。
 読み下し自体は、用いている語もよくわかり、漢詩の雰囲気も出ています。だから、そのまま漢字に置き換えることを思いますが、七言の詩では、「二・二・三」という切れ目、あるいは「四・三」というリズムを意識して進めると良いですね。





2013.11.12                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第267作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-267

  告別之詞(追悼畏友故O君)        

無音非必言無事   無音 必ずしも 無事と言ふに非ず

訃報傳聞可奈何   訃報 傳へ聞く 奈何す可き

懷古紅顔疑是夢   懷古す 紅顔 疑ふ是れ夢かと

如今揮涙困詩魔   如今 涙を揮ひ 詩魔に困す

          (下平声「五歌」の押韻)



<解説>

 小学校以来の友人「O君」の訃報に接して「告別の詞」(追悼畏友故O君)を詠みました。投稿致しますので、宜しく御願い致します。

【自註】
 修猷館高校の同窓会誌「仁禄通信」消息欄で、畏友O君の訃報を知った。彼とは西新小学校時代からの友人である。
 福岡市郊外の「西ノ庄」(現在の南庄)には、当時、広々とした田園風景が拡がっていた。
 田圃の中に大きな構えの邸宅が在り、小学校時代の彼は其処から西新小学校に通っていた。
 彼が如何なる経緯で校区外から越境入学していたのかは知らない。
 学校帰りに田圃の水路で泥鰌や小鮒を獲って遊んだ記憶が懐かしい。

 今を去る七十年昔の話である。
 小学校卒業以後も、中学・高校・大学と一緒のコースを歩いたが、大方は年賀状を交換する程度の付き合いが続いていた。

【補注】
「便りが無いのは無事の証拠」と言う格言は、喜寿・傘壽を越えた後期高齢者仲間では、必ずしも當を得た言葉ではない。
 風の便りに誰彼の訃報が届いても、如何することも出来ない。
 共に紅顔の少年だった頃の思い出だけが去来するのみで、気の利いた追悼の詩を詠むことも出来ない。

平成二十五年中秋(四七日忌を前にした某日)

 弔句 秋彼岸小年竹馬の友何処 兼山

<感想>

 起句の逆説的な表現から引き込まれ、そのまま結句まで兼山さんの心の動きを追うように描かれていて、悲しみのお気持ちがよく表れた詩だと思います。
 「非必」部分否定の表現で、「必言無事」を否定する形、つまり、「無事だと必ず(しも)言う」のではない、直訳すればこんなような意味です。
 参考に、「必非」の語順になると全部否定に変わります。「無事と言うのではない」ことが「必ず」だ、もう少し日本語らしくすれば「無事と言うことは絶対にない」となります。
 これでは「便りが無ければ無事の筈がない、絶対に何かの事が起きている」ということで、随分意味が異なります。ところが、返り点をつけて日本語として読むと、「非必〇〇」も「必非〇〇」も読む順序は「必ず」「〇〇に」「非ず」となって区別がつかず、音読を聞いた時に誤解をしやすいので、部分否定の時は「必ずしも」と読むのが約束です。

 ついでに「非」は「不」でも同じ、「必」はその他に「常」「復」のような副詞でも同じです。
  「常不有酒」は全部否定で、「常に酒有らず」と読み、「いつも酒がない」
  「不常有酒」は部分否定で、「常には酒有らず」と読み、「いつも酒があるわけではない」

 以上、漢文法の説明が長くなりました。

 詩に戻りますと、転句の上四字と下三字のつながりが弱く、何が「夢」なのかすっきりしません。「懐古」「疑」という二つの動詞が入ったせいでしょうか。
 ただ、悲しみの勢いということで読めば、すっと読み過ぎるのかもしれませんが。



2013.11.12                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第268作は 素衣 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-268

  旧故集偶感     旧故の集に偶感す   

夜涼郷苑好披襟   夜涼の郷苑 襟を披くに好し

酔語紛紛猶興深   酔語は紛紛たれども 猶ほ興深し

莫問堪何歓宴裏   問ふ莫からん 何にか堪へん歓宴の裏にと

但傾卑酒倚童心   但だ、卑酒を傾け 童心に倚る

          (下平声「十二侵」の押韻)



<解説>

 先日、ひょんな切欠(きっかけ)から、中高生時代の旧友数人との一席がございました。
 多くが卒業以来の再会ながらも、不思議と堅苦しさもなく、すっかり当時の学生的な感覚に戻って雑談できる喜びに、思い出の有難きを感じる一方で、各々が日頃各々の責任の中で歯を食いしばっていることを、かえって想像もさせられる一夜でありました。
 あのささやかな宴席が、せめてあの場の誰にとっても、明くる朝以降の糧となっていればと感じます。

<感想>

 読み始めは仲間との楽しい酒宴の詩だな、と思いましたが、後半になるとやや厳しい内容ですね。
 二十代の素衣さんのようなお若い方々が、「日々歯を食いしばって」いらっしゃることに、私自身が愕然とした状態です。自分の二十代を振り返ってみると、何と脳天気な日々だったのだろうと、叱られてしまいそうな感想しか浮かびません。
 ま、でもどんな心境や環境の中でも、そしていつの時代でも、酒は心を楽しくさせてくれる妙薬で、明日のエネルギーを与えてくれるものです。

 そういう点で言えば、「莫問堪何歓宴裏」などはまさに野暮というもの、その場の誰も口に出すはずも無いことですので、ということは、詩においても冗舌過ぎ、言わずもがなの一句ですね。
 自分自身の心の中を語る程度にしておいた方が良いでしょう。

 題名についても、「旧故集」ですと何か昔の詩集かと思いますので、「集」は「宴」とするか、「どこどこに集う」とすると誤解が無いでしょう。



2013.11.12                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第269作は 藤城 英山 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-269

  哭同窓S君        

異郷苦節五十年   異郷ブラジルで苦節五十年

空調技術花一円   空調技術の花を一円に咲かせ

大輪花此処惜散   此処に大輪の花が惜しみ散る

今秋富士愁色煙   今秋の富士の山も悲しみに煙る

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

 同窓のS君が、急に遠くブラジルサンパウロ病院で今年6月亡くなり、その追悼の漢詩です。
 よろしくお願いします。松口月城さんの新古体詩でのつもりです。

<感想>

 平仄は古詩に則り、押韻を合わせるという形での作詩でしょうか。

 悼詩はお気持ちが大事ですので、表現につきましては申し上げないようにしていますが、転句の「大輪花」だけは気になります。
 直前に「花一円」とあって、ここで「花が散った」となると、ご友人のことを例えたのでなく、先の「一円の花」が散ったと読んでしまいます。功績が消えてしまうような印象は避けて、故人のお人柄や才能などが感じられる言葉にすると良いと思います。

 なお、投稿ではお名前が直接書かれていましたが、掲載に当たって「同窓S君」と改めさせていただきました。



2013.10.22                  by 桐山人
























 2013年の投稿詩 第270作は 亥燧 さんからの作品です。
 

作品番号 2013-270

  食河豚        

池蘌河豚不見疲   池蘌の河豚は疲るるを見せず

今宵選竟臨終期   今宵客に選ばれ 竟に臨終の期

清漣淡艶真如織   清漣淡艶 真に織るが如く

卓上菊盛伸箸遅   卓上の菊盛り 箸を伸ばすこと遅し

          (上平声「四支」の押韻)



<解説>

 生け簀の魚は元気なものほど命が短い。一朝選ばれて君王の側にあり・・・
楊貴妃や西施、王昭君など美しい女ほど悲しい運命に翻弄されました。

「臨」は辞書では平・仄両方ありましたが仄字でいいのでしょうか?

 ところで私の住む新居浜では「ふぐざく」という料理があって、それはそれは美味しいのです。
また、河豚が高価だという人には「カワハギの薄づくり」もあり、肝やネギなどを混ぜてポン酢につけて食べるのですが、これまた絶品で・・・。

 鈴木先生、機会を作って是非一度お出かけください。

<感想>

 「ふぐざく」とはどういう料理なのか、名前だけでもおいしそうですね。
 かわはぎの刺身は私の大好物ですが、釣りに行かないと新鮮なものに出会えず、なかなか肝を食べることができません。煮魚にしようとしても、最近のスーパーではもう肝がはいであるものばかりで、「一番おいしい所が無くなっている」と泣いています。
 何年か前に、出張で福井に行った時、夜にホテル近くの居酒屋に入ったら「カワハギ刺身」がメニューにあり、注文したらしっかりと肝が付いていました。感動したことを覚えています。
 是非一度「ふぐざく」と「カワハギの薄造り」を食べに行きたいですが、うーん、機会を待っていてはなかなかチャンスは来ませんから、「食べること」を目的にした方が良いかもしれませんね。
 松山にはサラリーマン金太郎さんもいらっしゃいますので、逢いにいっちょおうかな?

 ご質問の「臨」は通常「下平声十二侵」で、仄声の場合には意味が異なります。

 それにしても、フグを目の前にして楊貴妃を思い出すとは、楽しい食事ではないでしょうか。



2013.11.18                  by 桐山人