2009年の投稿詩 第211作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-211

  秋景書懐        

閑策竹筇曽水辺   閑ニ策ス 竹筇 曽水ノ辺

行行毎興四時遷   行キ行キテ 毎ニ興ズ四時ノ遷リ

北来群雁枯蘆岸   北来 群雁 枯蘆ノ岸

南望黄雲嘉稲田   南望 黄雲 嘉稲ノ田

鐘度寒村斜日曜   鐘ハ 寒村 斜日ノ曜カナルヲ度リ

途沿凋菊暗香旋   途ハ 凋菊 暗香ノ旋グルニ沿フ

臨風莫哭身垂老   風ニ臨ンデ 哭ス莫カレ 身ノ老イナントスルヲ

霜鬢霜頭是自然   霜鬢 霜頭 是レ自然

          (下平声「一先」の押韻)

<感想>

 詩全体の主題としては、眼前の秋景を「四時遷」と捉え、「身垂老」こととつなげて、どちらも自然の姿だとまとめあげようとしたものですね。
 こうした発想自体は杜甫の「絶句」もその例ですが、従来から見られるものです。四季の移り変わり、生命の芽生える春から夏、秋を経て、草木が枯れ朽ちる冬までを、生まれてから死ぬまでの人の一生と同じだと感じるのは、まさに自然な感情でもあります。
 とりわけ、盛りを過ぎた秋という季節は老を迎えた自分の姿と重なりますので、寂寥感の深いものです。

 そのあたりを意識しながら真瑞庵さんのこの詩を拝見すると、頸聯と頷聯での秋景は、「枯」「凋」の寒さと「黄雲嘉稲田」「斜日曜」の明るさ、暖かさとが混ざっていて、一気に寂寥に向かうことができずに、一歩行っては一歩退くような揺れが感じられます。
 また、季節の変化という点では「北来群雁」くらいしか見られず、「四時遷」の具体的な景色が見えにくいように思います。

 こうした感想になるのは、尾聯に描かれた作者の感慨が重いので、ついその分だけを前に要求してしまうのかもしれません。ここがもう少し軽い感情になると、秋日偶懐という形で落ち着くかもしれませんね。

2009.12.19                  by 桐山人



真瑞庵さんからお返事をいただきました。

 鈴木先生、いつもお世話になります。

 拙詩「秋景書懐」についてのご感想、ありがたく拝見しました。
 ただ、尾聯が重いとのご感想は、小生にはちょっと意外でした。
 季節と共に移ろう周りの景色、その変化はごく当たり前の事であり自然そのもの。そしてそこに身を置く人(自分自身)の老いもごく自然で当たり前のこと。髪が白くなり、鬢に霜を置くようになった今、秋の気配が深まる田舎道の散策で出会う景色を前にして(臨風)嘆く事など無いよ。老いていく我が身はそれはそれで自然で、秋の霜枯れた景色を楽しむように自身の老いも楽しもう。
 そんな思いを込めたつもりでした。

 十分表現できない稚拙さを反省しています。この点をもう少し推敲を試みたいと思います。
 又、五,六句を以下に改めてみました。

    日落寒村烘柿曜
    煙籠茅屋晩香旋


2009.12.23               by 真瑞庵


 そうですね、私の感想としては、第七句の重さを言いましたのは、「莫哭身垂老」と語る段階ですでに「哭身垂老」が意識されるからです。
 「ここにゴミを捨てるな」と貼り紙があれば、ゴミを捨てている人がその辺りに居るのだと感じるように、禁止の言葉があれば、その行為や行為をしている人の存在が伝わって来ます。「泣くな」と書けば「泣いている人」が見えるわけです。
 そんなことを言ったら禁止の文は書けないと言われるかもしれませんが、この場合、「哭」している人が大事で、他人に対して「哭するな」と言うならば「重さ」も感じないのですが、自分に対して言うとなると、すでに哭している自分に自分が「哭するな」と命じるわけで、悲愴感とか悲哀というものが出て「重さ」につながっているのでしょう。
 「老翁莫哭」などのように、自身を客観化するような表現にすると、随分印象が違うと思います。

2009.12.26                     by 桐山人





















 2009年の投稿詩 第212作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-212

  秋晴 登濃州三方山        

鳥声澗籟細渓幽   鳥声 澗籟 細渓 幽ニシテ

紆折嶇嶔阻径周   紆折 嶇嶔 阻径周グル

林靄離離蔵木魅   林靄 離離トシテ 木魅ヲ蔵シ

樵家寂寂没暗愁   樵家 寂寂トシテ 暗愁ニ没ス

上聞紅樹一吹度   上ニ 紅樹 一吹ノ度ルヲ聞キ

下望黄雲三水流   下ニ 黄雲 三水ノ流ルルヲ望ム

四野九旻無點綴   四野 九旻 點綴 無ク

老懐慰得此山游   老懐 慰メ得タリ 此ノ山游

          (下平声「十一尤」の押韻)



<感想>

 前作と同じ時に送っていただいた詩ですが、頷聯、頸聯の対句が光っていますね。

 「林靄」「樵家」の対も良いですし、「紅樹一吹度」「黄雲三水流」は音の組み合わせにも工夫されていることを感じます。
 題名にも書かれた「三方山」は養老山脈に属する山、頂上から濃尾平野が見下ろせる好ポイントのようですね。となれば、「三水」は当然木曽三川である「揖斐川」、「長良川」、「木曽川」を表すのですが、具体的な名前よりも、眼前にまさに川が三本流れているという光景が目に浮かびます。

 この頸聯が印象的なだけに、その次の「四野九旻」の数詞がうるさく感じます。頸聯に「紅」「黄」と色彩語を入れてしまったために、ここを数詞にしたのでしょうが、「無點綴」につなげるならば、本来は数詞の部分に同色系の色彩(碧と蒼のような)を入れたいところかと思います。
 頸聯の対句を生かすか、尾聯を落ち着かせるか、迷うところですね。


2009.12.20                  by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第213作は東京都杉並区の 木梗 さん、六十代の男性の方からの初めての投稿作品です。
 

作品番号 2009-213

  晩秋        

空庭落葉送秋時   空庭の落葉 秋を送るの時

弊尽柴扉日影移   やぶれ尽くす柴扉 日影移る

白首誰憐知晩節   白首誰か憐れまん晩節を知るを

残蛩未老慰相思   残蛩未だ老いず 相思うて慰めん

          (上平声「四支」の押韻)


<解説>

 初心者でも気楽に応募してくださいとの、鈴木先生からのメールを戴き、勇気を出して投稿いたしました。

 晩秋になって、白髪を見るにつけ、自分は人生の老年時代を再認識したが、今宵聞こえる鳴く虫は、冬の訪れと共に死に絶えて行く定めを知らずに、まだ音を出している。
 定めを認識できない虫はさておき、生き様を問える人間としての生き様を問うて見たかったのだが・・。

<感想>

 漢詩を作られて一年ほど、とのことですが、用語や展開に無理がなく、伝えたい思いがよく出ていると思います。

 気のついた点だけを書きましょう。

 起句の「空庭」は「誰も居ない」という状況説明ですが、転句に「誰憐」と反語形(誰が憐れもうか、誰も居ない)を用いていますので、ここにも「空」の字を用いるのは考えものです。
 後半のしっとりとした感懐を生かすためには、もう少し冒頭で感覚的なニュアンスも欲しいところ、「閑庭」としておいて、次も「堆葉」と動きのある形にするのも良いかと思います。

 承句は「柴扉」だけでも「柴で編んだ粗末な扉」という意味が入っていますので、「弊尽」まで来ると、やや大げさな表現という気もします。
 「幽径」や「苔砌」を置くくらいでも良いのではないでしょうか。

 転句は、意味としては「白首(私)が晩節を知ることを誰が分かってくれるだろうか」ということでしょう。反語で「誰も居ない」という意味を含んでいますので、このまま読んで行くと、最後の「残蛩」こそが「私の晩節を理解してくれる仲間だ」となります。
 作詩の解説とは少しずれるかもしれませんが、詩としては、虫を「仲間」と理解して進める方が素直です。
 そのためにも、転句の「誰憐」「自憐」「独憐」とした方がよいでしょう。
 また、結句の結びは「慰相思」を「相思を慰む」と読んだ方が良いでしょうが、その時には「私の心を慰めてくれる」となるでしょうね。


2009.12.20                  by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第214作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-214

  遊石山寺        

玲瓏秋月輾中天、   玲瓏たる秋月 中天にてんじ、

縹渺琶湖泛暮煙。   縹渺たる琶湖 暮煙に泛ぶ。

清影一条昭濁世、   清影 一条 濁世を昭し、

俗身五戒絶塵縁。   俗身 五戒 塵縁を絶す。

          (下平声「一先」の押韻)



「縹渺」: 広くかぎりのないさま。
「清影」: 清らかな月光。
「一条」: 湖面のさざ波を照らす一筋の光。

<感想>

 起句の「玲瓏秋月」や転句の「清影一条」と承句の「暮煙」の時間差が気になりますが、逆に、暮から夜にかけての移ろう時間を切り取ったということでしょう。

 全対格でお作りになったものですが、前半の叙景を受けての後半の精神世界への転換は、まさに「玲瓏秋月」がもたらしたもの、納得できるものです。
 また、その精神の清浄に大きく関わる「寺」の存在は、題名のみに示して、詩中では寺の姿は隠されていますが、そのあたりは井古綆さんの工夫のところでしょうね。


2009.12.22                  by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第215作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-215

  新秋夜坐        

新蛩喞喞轉清涼   新蛩喞喞(しょくしょく)転(うた)た清涼

梧葉飜風拂翠篁   梧葉(ごよう)風に飜(ひるがえ)って翠篁(すいこう)を払ふ

桂月披雲懸檐宇   桂月雲を披(ひら)いて檐宇(えんう)に懸(かか)り

我繙蠧巻苦吟長   我は蠧巻(とかん)を繙(ひもと)いて苦吟長し

          (下平声「七陽」の押韻)



「轉」: ますます、いよいよ。
「拂翠篁」: 風が緑の竹やぶを吹き払う。

<感想>

 秋の夜の趣がしっとりと感じられる詩ですね。

 承句は「拂翠篁」の主語は「梧葉」ということで良いでしょうか。「風」を主語にするのでしたら、上の「飜風」は「風飜」と逆にした方が良いと思います。

 結句の「我」の一人称は、転句の「桂月」に対して「私の方と言えば」という形での強調ですが、「苦吟長」と時間的な長さで結ぶためには、転句の方にも時間経過を感じる表現を強く出してバランスを取りたいところです。
 平仄の点から見ても、「懸檐宇」「渡檐宇」のようにしてはいかがでしょうか。


2009.12.22                  by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第216作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-216

  秋夜寄友        

蕭瑟西風揺古槐   蕭瑟(しょうしつ)たる西風 古槐(こかい)を揺るがし

遥望皓月獨傾杯   遥かに皓月(こうげつ)を望んで 独り杯を傾く

別離酒友問安否   別離の酒友 安否を問はんとし

徹夜思君尺素裁   夜を徹し君を思ひて尺素(せきそ)を裁す

          (上平声「十灰」の押韻)



「古槐」: 庭の古いえんじゅの木。
「尺素裁」: 手紙を書く。


<感想>

 離れた友を想うという主題ですが、起句の「古」から始まって、「独」「別離」と寂寥感を表す言葉が用意されていますので、読み進めていくと、自然に作者と同じ心情になってきます。
 このあたりが工夫されたところでしょう。意図されたものではないとしても、作者の思いが文字を選択させたのだと思います。

 結句の叙述がそれまでに比べると逆に冷静さが感じられます。私ですと、「思君」の部分に激情を表す言葉を入れてしまいそうですが、ぐっと我慢しての抑制をされたものでしょう。


2009.12.22                  by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第217作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-217

  賞火龍果     火龍果を賞す   

純白花開映月光   純白の花 開いて 月光に映じ

眞紅實熟放清香   眞紅の實 熟して 清香を放つ

不能易看況難食   易く看る能はず 況や 食し難し

龍果珍羞百果王   龍果 珍羞 百果の王

          (下平声「七陽」の押韻)



<解説>

 二十数年前に沖縄から持ち帰った月下美人以外に、最近はドラゴンフルーツを育てています。
今年は、偶々、中秋の名月の夜に十輪開花しました。

 ドラゴンフルーツ(中国語名・火龍果)は、メキシコ及び中南米原産、サボテン科ヒモサボテン属サンカクサボテンの果実(ピタヤ)の一種。
 月下美人と同じ様な花(直径三十センチ)が咲き、結実すると真っ赤になります。
最近は沖縄や九州でも栽培され、デパートなどで姿を見る事があります。

    純白の花 紅の龍果と化す


 ドラゴンフルーツの花と実(兼山さんの撮影)

    

<感想>

 ドラゴンフルーツの果実はひょっとしたら見たことがあるかもしれませんが、食べた記憶はありませんでしたし、まして、花は知りませんでしたから、兼山さんが添付してくださったお写真で初めて姿を見ました。
 ネットで見ますと、茎が龍の身体、果実が龍の目に見えることから「火龍果」と名付けられたそうですが、兼山さんのお写真からだけでも十分納得できます。

 直径三十センチの花が十輪、月下に開いた姿は壮観だったでしょうし、その白い花が、濃紅の果実になるというのは、信じられないと言うか、天工の極みですね。

 詩では前半を対句(前対格)にして、花と果実の両方に重みを置いた構成は、効果的だと思います。
「純白」「真紅」の対は色の説明だけでなく、作者の対象への感情まで伝わる気がします。

 月下美人と同じく、開花の時間がとても短いそうですので、転句の「不能易看」「(花は)そう簡単にはお目にかかれない」と書かれるのも分かります。「難食」はどうしてなのか、色々な理由が考えられて、その多様な発展性が良いかどうかは迷うところです。

2009.12.23                  by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第218作は 忍夫 さんからの作品です。

作品番号 2009-218

  観賞當麻寺名庭        

佛堂射影碧池中   仏堂 影を射す碧池中

秋気生寒半染楓   秋気 寒を生じて 半ば楓を染む

坐看幽庭心自遠   坐ろに看る 幽庭 心自ずと遠し

不知人巧奪天工   知らざりき 人巧の天工を奪ふを

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

 二上山に登り、帰路に石光寺、當麻寺という古刹を訪ねました。
 當麻寺は中将姫伝説で有名なお寺です。広大なお寺で、西塔の庭園に感銘し作詩しました。
 紅葉の時節には幾分早いが、池面に映える三重塔と庭を覆う楓の様子がとても素晴らしいものでした。自然との調和こそが、人の技術の極みであるとの思いを結句に込めたかったのですが、拙詩ではうまく表現できませんでした。

 鈴木先生、井古綆先生、謝斧先生いつも御講評賜り有難うございます。
 浅学の身には先生方の丁寧なご指摘が、とても勉強になります。先生方のご好意にお応えすべく少しでも上達したいと願っております。井古綆先生から戴くご試作も、とても参考になります。
 ホームページ上のことなので、直接に感謝の意が伝えられないのが残念です。
 今後ともお付き合い下さいますよう宜しくお願いします。
 先生方におかれましては益々ご健勝の上、これからも多くの玉作を拝見させて戴くことを楽しみにしております。

<感想>

 丁寧なお言葉、ありがとうございます。私の感想は見当外れのことも多いかと思いますが、今後とも宜しくお願いします。

 今回の詩は、結句が勝負だったのですが、忍夫さんがおっしゃるように、言いたいことを伝え切れているかと言うと物足りないものが残ります。
 まず問題になる結句の意味ですが、これは「人間の技術がどれだけ進んでも、天公の創り出した自然界の巧みさを凌ぐことはできない」ということだと理解しました。
 しかし、両者の調和を目標としながら、両者の比較(優劣)を語るというのは、逆に喧嘩を煽るような感じがするのですが、どうでしょう。

 もう一つしっくりしないのは、ここで「人巧」を出されたのは、「現実世界」での技術を指しておられるのでしょうが、詩の結びとして使われると、どうしても當麻寺から離れるわけにはいきません。
 というのも、転句の最後に書かれた「心自遠」は陶潜の「飲酒(其五)」にある「心遠地自偏」の句を意識されたものでしょうが、「自分の心が俗世を遠く離れた」ということで、この當麻寺の内の世界に身も心も入り込んでいることが示されているからです。
 急に「現実世界」に戻るのは難しいですから、結句の「人巧」はこの當麻寺の「幽庭」やら「仏堂」「碧池」などの造作を指すと読む方が素直で、その辺もしっくりこない理由でしょう。
 「調和」が前面に出るような形で結句を推敲されると良いと思います。

 あと、起句の「射影」「映影」、承句の「半染楓」「初染楓」の方が良いように思いました。

2009.12.23                  by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第219作は 忍夫 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-219

  中秋雑感        

村巷忽昏虫韻中   村巷 忽ち昏れて 虫韻の中 

桂香漂処九秋風   桂香 漂ふ処 九秋の風

明珠在掌無人識   明珠 在掌 人の識る無く

三五清光万里同   三五の 清光 万里に同じ

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

 暗夜にふと匂う金木犀の香に詩情をそそられ詠みました。「明珠 在掌」という禅林句集にあった4字に感銘を受け、この句を詩中に入れてみたいという思いから上のような詩となりました。大切なことは、存外身近にあるということだろうと解します。人は幸福を遠くに求めがちだが、月の清光のように幸福は求めれば、何処にもあるでは。

<感想>

 「在掌」は、誰の手でもなく自分の掌を表しますから、素晴らしい宝や人材はすぐ身近にあるということですね。

 この四字句と眼前の秋景をどう結びつけるか、ということで、秋の美しい月光を出された意図はよく分かりますので、こちらはすっきりとした詩になっていますね。

 結句の「万里」は「全世界」という気持ちでしょうが、「明珠在掌」とのつながりで言えば、「万戸」の方が、人の存在が明確になって良いと思います。


2009.12.23                  by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第220作は 楽聖 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-220

  喀刺高夜間音楽会     喀刺高=クラコフ夜間音楽会   

遠征欧土我交盟   遠く欧土に征す 我が交盟

音楽研修此意傾   音楽を研修して此の意を傾く

成果試来古都夕   成果を試み来る 古都の夕

響清男女唱歌声   響きは清し 男女唱歌の声

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 音大4年の秋、10月に卒業記念演奏旅行というのを毎年授業で行っていました。
 そこに私は参加して、感じたことを一首だけ作詩しましたのが今回の詩です。

 ポーランドのクラコフでクラコフのオーケストラと共演してベートーヴェンの交響曲第9番を歌いました。
 クラコフ、アウシュビッツ、ジェラゾラヴォア、ワルシャワに観光とともに滞在しています。一週間の旅行でした。私自身はあんまりいい思い出がありません。

<感想>

 お手紙ですと、この卒業記念演奏旅行は全員が参加する、いわば強制のような形だったそうですが、でもうらやましいですね。無理矢理でも、体験すべきことは体験しておくことも勉強の一つの方法ではあるのですが、現在はなかなかそうした教育のできる条件は少ないのですから。

 詩は解説を読まないと分かりにくい部分がありますね。
 起句の「我交盟」は学校間での友好交流がなされているということでしょうね。
 「此意傾」「此に意を傾く」と読んだ方が「此」の指示内容がはっきりして、分かりやすくなるかな、と思います。


2009.12.26                  by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第221作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-221

  宇宙実験棟"希望"        

邦家火箭響轟音、   邦家の火箭 轟音を響かせ、

脱出環球守指針。   環球を脱出して 指針を守る。

離地旋回從窮理、   地を離れて旋回するは 窮理に従ひ、

向天高上保求心。   天に向かって高く上り 求心を保つ。

重來失敗辛勤歴、   失敗を重ね来たって 辛勤を歴て、

綿密施工遺漏箴。   施工を綿密にして 遺漏を箴(いまし)む。

空站寄居鍾實驗、   空站(くうたん)に寄居して 実験を鍾(あつ)め、

希望成果感懐深。   希望の成果 感懐深し。

          (下平声「十二侵」の押韻)



「火箭」: 去る9月11日に打ち上げたロケット我国のH2Bを指す。
「指針」: 指令センターからの指令を指す。
「求心」: 求心力。
「空站」: 空間站。宇宙ステーション。
「希望」: 宇宙ステーション実験棟「きぼう」。

<感想>

  宇宙実験棟「きぼう」については、以前に常春さんから「宇宙實驗棟『希望』」の二首をいただきましたね。

 今回の詩も交流詩としていただいたものですが、一般投稿にしていただきました。題名は私の方でつけました。

 前半が打ち上げの状況、後半が作者の思いという形の展開ですが、特に前半は宇宙から眺めているような臨場感があります。
 最先端の科学技術がここに集約されるわけですので、それを漢詩で表すのには工夫されたでしょう。頷聯の「従窮理」は宇宙物理学を指して、十分に納得できます。
 第二句の「脱出環球」と第四句の「向天高上」は入れ替わった方が時間の流れが良いように思います。

 後半は作者の温かい視線が感じられますね。



2009.12.26                  by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第222作は 忍夫 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-222

  初秋望郷        

看送客船湖畔秋   客船を看送る 湖畔の秋

他郷定住不知愁   他郷に定住せしも 愁ひを知らず

却懐故国無帰日   却って故国への帰日無からんを懐へば

一片慕情随白鴎   一片の慕情 白鴎に随ふ

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

 琵琶湖畔で、客船を眺めていて何故か望郷の念が湧いてきました。
 私は東京の出身なのですが、大学生の時以来、京都に暮らし、この地に一家をなして、はや25年になります。
無事に毎日を過ごさせてもらっておりますが、やはり気にかかるのは老いた父母のこと。

<感想>

 この詩は読み下し文が書かれていませんでしたので、桐山人がつけました。

 さて、解説には「客船を眺めていて何故か望郷の念が湧いてきました」とありますが、望郷の想いをかき立てたきっかけは「客船」ということでしょう。
 客船を見て、「あの船に乗れば故郷へ帰れる」と思ったか、「あの船と同じように自分も旅をしているようなものだ」と思ったかのどちらかでしょうね。
 どちらであるにせよ、読者は「望郷」という題を見た上で鑑賞しますから、この起句の「客船」に望郷を重ねて、初秋の湖畔の寂しさとを繋いで理解しようとします。

 ところが、なかなか素直な「望郷」ではないようで、承句ですでにどんでん返しが来ますね。句意を文字通りに読めば、「他郷に居ても寂しくなんかないよ」ということで、起句でぼんやり姿の見えた「望郷」は承句であっさりと否定されてしまいます。

 更にところが、ということで、転句や結句になると、「故郷に帰ることはもう無い、それがちょっとだけど寂しい」となるわけで、この微妙な感情を漢詩で描こうとしたことはすごいと思いますが、これだけ揺れ動いた表現では、読者に伝えるのは難しいと思います。

 承句の「特に不満はないけれど・・・」といった感じの遠慮がちな句意を削るか、転句の「「無帰日」を、解説に書かれたように「気にかかるのは老いた父母のこと」にすると、全体の流れが良くなると思います。


2009.12.31                  by 桐山人



謝斧さんから感想をいただきました。

 不本意な感想になるかもしれませんが、
「看送客船」と「他郷定住」の句で、「定住」と「看送」の措辞がどうも気になります。
 詩語として熟してないような気がします

 「随白鴎」の「白鴎」も本来の故事からはなれているようで、強韻のような気がします。

 「定住」と「看送」の措辞が疵かどうかはわかりませんが、詩意は大変佳いと思います。
「無疵于石」よりも「有疵于玉」のほうが佳いと思っています。


2010. 1. 2                 by 謝斧





















 2009年の投稿詩 第223作は 忍夫 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-223

  初秋鴨川辺        

送惜日長還一年   日の長きを送り惜しみて また一年

蛬声幽寂夕陽前   蛬声 幽寂たり 夕陽の前

忽看対岸連灯火   忽ち看る 対岸に灯火の連なり

月照蘆間白鷺眠   月は照らす 蘆間に 白鷺眠るを

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

  鴨川の秋の夕暮れの光景です。
 鴨川辺では夏の間クマゼミが鳴き、初秋になると交替にキリギリスが鳴き始めます。夏の余韻の川床に灯りが点ると、忽ち日が暮れます。
 鴨川は京都市街を流れていますが、鮎釣りができ、鯉の泳影も見られ、水は澄んでおります。鴨や鷺などの水鳥も多くみかけられます。


<感想>

 秋の鴨川はどんな風なのかな、と思いながら読みましたが、期待がちょっとはぐらかされたような印象です。

 原因の一つは、転句でしょう。「対岸連灯火」が必ずしも夏を意識させるわけではありません。「鴨川」と言うことで「夏の川床」をすぐに思い浮かべる人もいるでしょうし、赤や青の提灯の灯り、つまり歓楽街の灯りと思う人もいるでしょう。
 ネオン街の灯りと考えると、詩そのもののイメージも崩れるので、おそらく除外するでしょうが、では、夏の情景だと考えても、この転句の位置づけがはっきりしないのです。
 確かに「初秋」ということですから季節の移り変わりの時期、作者が「夏の余韻の川床に灯りが点る」景も入れたいと思う気持ちは分からないでもないですが、ここの転句で夏の名残を出したからどうなのか、という全体での役割がわかりません。
 なので、承句で「秋の寂しさ」に心を移しても、転句で「あれ、まだ夏?」と思い、また結句で「やっぱり秋か」と感じるわけで、どうしても混乱が残ります。

 承句で「夕陽前」、転句で「連灯火」、結句で「月照」と光を並べたのも、意図してのものだとしても、その狙いは伝わってきませんね。時間経過を示したのでしょうか。

 この素材を使うのであれば、承句と転句の内容で前半に置くような構成にすると、読者に伝わりやすくなるでしょう。


2009.12.31                  by 桐山人



謝斧さんから感想をいただきました。

 味わいがあって大変佳い作品になっています。
 ただ、個人のこのみでしょうか、
「送惜日長還一年」が措辞がごたごたしてすっきりしないように思います。


2010. 1. 2               by 謝斧





















 2009年の投稿詩 第224作は 博生 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-224

  看菊訪友        

看菊尋来雅友荘   看菊 尋ね来たる 雅友の荘

千茎馥郁漾幽香   千茎 馥郁 幽香漾ふ

花前共酌興無尽   花前 共に酌み 興尽きる無し

悦目開心俗念忘   悦目 開心 俗念忘ず

          (下平声「七陽」の押韻)


<解説>

 菊鉢が庭一杯の友を訪ね、大菊小菊を愛でながら菊談義に耳を傾け、秋の閑雅な一日を楽しむ。

<感想>

 良いですね。「雅友」とありますから、詩のお仲間でしょうか。心の通う友人との一献は、本当に嬉しいものです。
 その友人は菊の花を庭一杯に咲かせていると聞きますと、思い出されるのは『愛蓮説』の一節です。
 北宋の周敦頤『愛蓮説』の中で、「菊は華の隠逸なる者なり。」と語っています。これは東晋の陶潜が菊を愛したことと関連していますが、菊には「俗世を離れた隠者」の趣が伴うとなると、結句の「俗念忘」の結びもとても分かりやすくなりますね。

 ただ、詩をよく読むと、菊の花について書かれているのは承句だけ、残りは友人と共にいる楽しさが描かれているわけで、まさに主題そのものが「訪友」に尽きることがわかります。
 その承句ですが、「馥郁」「幽香」は矛盾していますので、「清香」などと香りがすっきり分かるようにしなくてはいけませんね。


2009.12.31                  by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第225作は 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-225

  山麓逍遥        

林下柴扉庭菊香   林下の柴扉 庭菊香る

随風酔歩白雲郷   風に随ひて酔歩す 白雲の郷

愁懐忽解清如水   愁懐忽ち解け 清きこと 水の如し

錦繍連山仰彼蒼   錦繍連山 彼蒼を仰ぐ

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 屈託した気持ちを抱き、秋景深まる山麓の村を訪ねていると、そのわだかまりは、美しい自然の姿によって忽ち浄化され、清らかな水のように解けてなくなっていた。
 改めて、どこまでも澄み切った青空を背景に浮かび上がる紅葉の連山を見上げたことであった。

<感想>

 秋の山村を歩いていると、澄んだ空気に胸の奥まで清らかになる思いがします。そんな雰囲気のよく漂う詩ですね。
全体として趣が首尾一貫していますので、作者と共に歩いているような気がします。

 起句は「林下」から「柴扉」「庭菊」と視点をどんどん絞って行く構成ですが、ここは通りかかった他人の庭の中まで覗いた感じがしますので、「叢菊」「籬菊」くらいが良いように思います。
 起句と承句で「近・遠」の対比になっていますが、あまりに絞り込んで「近」が強調されてしまうと、読者の視点を急激に「遠」に持っていくのは苦しくなります。近景を並べただけならそんなこともないのですが、この詩では方向性というか、ベクトルを持っていますので、気になりました。「幽径香」のような下三字ですと、少し距離感が出て、承句へもスムーズに流れるかもしれません。

 解説に書かれたような「屈託した気持ち」が作者にとって重たいものでしたら、承句は軽やか過ぎるでしょうから、もう少し暗さが有っても良いでしょう。その場合には、起句の「香」の読みも「かおる」から「かんばし」と感情を少し加えた方が良いでしょう。
 転句に「忽解」とありますので、この「愁懐」はそんなに深刻なものではないと見るべきかもしれませんが。

 結句は「連山」が「彼蒼」を「仰」と読まれるのを避けて、例えば「錦繍暮山連彼蒼」とするのも一案です。(「暮山」は「暮」でなくても構いません。「連」を次に持ってきたかったために置いたものです)

2010. 1. 3                 by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第226作は 海鵬 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-226

  故山観楓        

山初点雪映斜陽   山初めて雪を点じ、斜陽を映し

揺落禅庭凝艶粧   揺落の禅庭、艶粧を凝らす

清興送秋塵気外   清興、秋を送る塵気の外

白頭独上観音堂   白頭独り上る観音堂

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 郷里の出羽三山を望む紅葉の秋を詠みました。
 菩提寺の庭の紅葉は格別です。色あせた観音堂の色が、夕色の紅葉と溶け合って好風情です。
 詩語集を購入し、その中の詩語を拾いながら作りました。

<感想>

 起句の「点雪」には「初」の意味合いが含まれていますので、ここは山の名前を入れるとか、「遠山」「故山」「連山」などにするだけでも、情報量が随分違ってきます。

 転句は「清興」「塵気外」のつながりは良く分かるのですが、「送秋」だけが浮いているように感じます。
 結句についても、「独上観音堂」が何を意味しているのか、すっきりしません。何故「独り」なのか、何の為に「観音堂に上る」のか、そのあたりにもう少し導入があると、理解もしやすくなると思います。


2010. 1. 3                 by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第227作は 澄朗 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-227

  菊人形街        

馨従霜降一園充   馨は霜降より 一園充つ

傳説菊城譚画忡   伝説の菊城 譚画の忡

再起五年文化祭   再起 五年 文化の祭り

黄花依旧笑清風   黄花 旧に依りて清風に笑ふ。

          (上平声「一東」の押韻)


<解説>

 全国に知られていた「枚方大菊人形展」は平成十六年に財政難から中止になりました。
 市民は「ひらかた大菊人形」の伝統文化の火を消したくないという熱い願いの中、公募されたボランティアにより、平成十八年四月より人形師の指導の下、不安と失敗の繰り返しの中、平成二十一年にやっと展示できました。
 歴史街道「枚方宿」の街道には市内小学生の作品から大菊人形まで展示されました。


    

    

<感想>

 伝統文化を維持するというのは、現実的には「人」と「お金」の両方で厳しい面がありますね。公募ボランティアで再開するのも大変だったと思いますが、その分、五年越しの思いがしっかりと詰まっているのでしょうね。

 承句の「伝説」は、「昔から伝えられてきた話」となりますので、菊人形展が随分以前に消滅してしまったような印象を受けます。
 その後の「譚画忡」はちょっと分かりにくいのですが、「(実物でなく)話だけのものとなってしまうことが心配だ」という意味かと思いますので、こちらを生かして、「伝説」は「伝統」の方が良いのではないでしょうか。

 詩の構成としては、起句に現在の菊の様子を描くと、承句や転句での経過説明から結句の復活の喜びが生きてきません。
 起句で、枚方の町並みや歴史の説明をされると、全体の流れがよくなると思います。


2010. 1.10                 by 桐山人



澄朗さんからお返事をいただきました。

 鈴木先生、拙作に対して親切なるご指導を賜り有り難うございます。
以下のように推敲致しました。宜しくご指導下さい。

    菊人形街
  宿場鍵屋澱江東   宿場の鍵屋 澱江の東
  傳統菊城談裏忡   伝統の菊城 談裏の忡
  再起五年文化祭   再起五年 文化の祭り
  黄花依旧笑清風   黄花旧に依りて清風に笑む。

 前半に町の様子を入れたので、構成としては落ち着いてきたと思います。
 起句のは「澱江東」は地理的な説明の印象で、承句との関わりが薄く感じますので、「古江」「大江」としたらどうでしょうか。


2010. 2.20             by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第228作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-228

  觀菊花展        

千枝遍發四方芳   千枝遍(あまね)く發(ひら)いて四方に芳しく

玉蕊鮮葩相競光   玉蕊鮮葩(ぎょくずいせんぱ)相競ふて光(かが)やく

淵明最好重陽節   淵明最も好む重陽の節

我感頽齢老故郷   我は頽齢(たいれい)を感じて故郷に老ゆ

          (下平声「七陽」の押韻)

<感想>

 菊の花展に行きますと、どこでも本当に見事な菊花を見ることができ、育てた人の苦心と花への愛情が感じられます。私は菊作りの知識はありませんが、以前は大きさが勝負みたいな感じもしましたが、最近は群生で素晴らしい形を見ることも多いですね。

 「華の隠逸なるもの」と呼ばれた菊ですが、転句にあるように「陶淵明」を出すと一層その趣が強くなります。
 陶潜(陶淵明)は「九日閑居」という詩の中で、「酒能祛百慮 菊為制頽齢」(酒はもろもろの憂いを消し去るし、菊の花は年を取るのをふせいでくれる)と詠み、田園での自適な生活に満足感を表しています。
 「その陶潜と違ってこの私は・・・・」と来るのが結句の「我」の働きで、「(こんなに美しい菊花を見ていても)頽齢を除くことができない」自分は、心静かに生活を楽しむこともできないという嘆きがにじみ出て来ます。

 工夫された表現ですが、前半の菊の描写がきらびやかですので、落差の大きさで、多分作者が思っている以上に読者は重〜い気分になっているでしょうね。


2010. 1.17                  by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第229作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-229

  豫州北條鹿嶋神社夏越祭        

瀲灔漣波千里遐   瀲灔(れんえん)漣波(れんぱ)千里遐(はる)かに

神燈照海到天涯   神燈は海を照らして天涯に到る

賽人陸續喚聲裏   賽人陸続 喚声の裏(うち)

C淨六根驅百邪   清浄六根 百邪を駆る

          (下平声「六麻」の押韻)

<感想>

 勢いがあり、一気に作られた詩という印象で、祭の賑わいが感じられる詩ですね。

 起句は遠くから近づくズームイン、承句は逆に遠方へと視点を移すズームアウトの構図で、祭の始まりを告げるファンファーレが鳴り響くような効果を狙っているものと思いますが、「千里遐」「到天涯」にはやや重複感が残ります。
 しかし、そのもやもやとした気分を後半の畳みかけるような語句が払ってしまい、気がついたらだまされていたようなものですが、それも祭の勢いというところでしょうね。

 起句の「千里遐」に季節を感じさせる言葉が入ると、「夏越祭」の風趣が出るかと思います。


2010. 1.17                  by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第230作は 点水 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-230

  晩秋奈良        

蕭瑟西風秋意盈   蕭瑟なる西風 秋意 盈ち

南都園裏落楓輕   南都の園裏 落楓 輕し

叢中寂寂稀蟲語   叢中 寂寂 蟲語 稀に

水畔呦呦頻鹿鳴   水畔 呦呦 鹿鳴 頻り

累世伽藍留古事   累世の伽藍 古事を留め

當今建築展新生   當今の建築 新生を展ず

四辺景物豊傳説   四辺の景物 傳説 豊か

遊子深懐踏葉行   遊子は深懐 葉を踏みて行く

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 晩秋になると、大分冷え込んできて、旅行客は大分減ってまいり、街も寂しくなります。もう鹿の切りは終わったでしょう。
 こんな古事の中に、新しい建築ができていて、景観も次第に変わっていくのは、まことに当然のことでしょうが、なにか寂しさも感じられるところです。

<感想>

 奈良の晩秋となると、もう少し具体的な自然描写が欲しいところですね。何となく奈良の解説書みたいな印象を受ける(すみません)のは、客観的な言葉が多いからでしょうか。

 頸聯の新古の対比が作者の独自の視点になりますので、ここをもう少し発展して欲しいところでしたが、次の「四辺景物豊傳説」ですっと終わった感じがし、やや寂しいですね。
 逆に言えば、古都奈良の昔ながらの風情を表すならば、この「當今建築展新生」が浮いてしまっているとも考えられます。
 「留古事」でも意図は伝えられていますので、「豊傳説」だけでも頸聯を引き継ぐようにすると、全体のバランスも取れてくると思います。


2010. 1.17                  by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第231作は 博生 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-231

  晩秋書懐        

田園一望暮煙流   田園 一望 暮煙流る

楓樹蕭條返景幽   楓樹 蕭條 返景幽なり

歳月空過秋復去   歳月 空しく過ぎ 秋 復た去る

悲風落葉白頭愁   悲風 落葉 白頭の愁ひ

          (下平声「十一尤」の押韻)



<解説>

 老境に在る身、先行き不安の世相を憂う。

<感想>

 晩秋のもの寂しい情景と気持ちは誰にでも共感を得やすく、言葉を並べるだけでも趣は出てきます。それ故、素材の並べ方には一層の工夫が必要になります。
 どれとどれを組み合わせて、それをどのように配置するか。読者は基本的には起句から読んでいきますから、まずは読み手への配慮と、主題を最も効果的に伝える構成を検討します。

 この詩では、作者の感情を表す言葉が結構多く、「蕭條」「幽」「空」「悲風」などは、基本的には「もの寂しいぞ」という気持ちを表しているので、途中までで読者には作者の心情が分かってしまいます。結句の「悲風」と来れば、もう「お腹いっぱい」という感じです。
 「感情形容語の多用は避ける」というのも、作詩のチェックポイントだと私は思っていますが、特にこの詩では、転句からの作者の切なる思いを引き立てるためには、同種の感情形容語の使用を前半は控えておきたいところです。
 また、転句の「歳月空過」と述べるための、季節や時間の推移に対する言葉が足りませんので、例えば「落葉」のような語は承句に置いた方が良く、そうした方向で推敲されるのが良いでしょう。


2010. 1.18                  by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第232作は 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-232

  石蒜        

沿路群生石蒜花   路に沿ひて群生す 石蒜の花

繞繚妖艶競豪奢   繞繚妖艶 豪奢を競ふ

敷英魔性乍擒我   敷英の魔性 乍ち我を擒にす

回想纏綿故旧嗟   回想纏綿たり 故旧の嗟き

          (下平声「六麻」の押韻)

<感想>

 「石蒜」、つまり彼岸花は私の住む半田市にも馴染みの深い花です。
『ごんぎつね』などの童話を書いた新美南吉は、私の高校の大先輩で、彼の生家が半田市西北の岩滑(「やなべ」と呼びます)に在り、近くを流れる矢勝川の土手には秋になると200万本の彼岸花が咲き、真っ赤な絨毯を敷いたように鮮やかです。
 私は個人的には、土手などにぽつりぽつりと咲いた彼岸花のシルエットが夕暮れの空の下に見えるような景色が好きです。

 さて、その彼岸花の様子を描いた前半、特に承句は、あまり良い別名を持たない彼岸花にはこれ以上ないというくらいの褒め言葉ですね。

 転句から結句への流れは、どうして突然「回想」が始まるのか、「魔性」の彼岸花と「故旧嗟」がどうつながるのか、その辺りの事情がわかりませんので、なかなか難しいですね。
 「何か彼岸花に関わる思い出が、作者にはきっとあるのだろうな」と何とか理解できなくはないですが、作者の思い出の内容までは読者も想像できません。
 転句は前半二句の焼き直しのような内容ですので、ここに「回想」につながる伏線や事情など、時制を過去にした事柄を入れると、全体の流れも良くなると思います。

 なお、仲泉さんが意識されたかどうかは分かりませんが、彼岸花の花言葉をネットで調べましたら、次のようなものでした。仲泉さんの結句のイメージ、どこか重なるところがあるような気がしますので、引用しておきます。

 彼岸花の花言葉:「情熱」「独立」「再会」「あきらめ」「悲しい思い出」「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」
                      (「Wikipedia」より)


2010. 1.18                  by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第233作は 秀涯 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-233

  吟道賦        

回顧詠来三六年   回顧す 詠じ来る三六年

丹心一曲教場縁   丹心の一曲、教場の縁

少年照眼観空舞   少年照眼す 観空の舞

吟道遺風千古伝   吟道の遺風を千古に伝へん

          (下平声「一先」の押韻)


<解説>

 吟を習い始めて、早(奇しくも)三十六年になりました。
 師に、先達の作品を学びつつやってきました。又、良き吟友たちとも出会いました。
 思い返せば、朗詠を聞いたのは、学生時代の空手部での先輩の観空形で演武を見たのが契機でもありました。
 三十六年を迎えて、漢詩を学ぶ事にもつながっています。
 今、新たに詩吟道(道)に精進する自らの決意を込めて賦したものです。

<感想>

 秀涯さんは、この詩が二作目、でも詩吟を永年続けてこられて漢詩も勉強なさっているからでしょう、素材や言葉の選択など、漢詩の雰囲気をつかんでいらっしゃることを感じますね。

 前半は、三六年という長い時間を一気に振り返り、心を籠めて一曲を吟じよう、という意味ですね。ただ、「教場縁」だけで「師や吟友との交際」を伝えるのは苦しく、やはり「師」「友」などの言葉が欲しいところです。

 転句は吟詠との出会いのことですね。
 秀涯さんのお気持ちとしては、出発点(転句)と今後の決意(結句)をセットにしたいのでしょうが、起句の最初に「回顧」の言葉があると、この出会いの時点がどうしてもつながってしまい、起句から転句までがひとまとまりの印象が抜けず、しかも時間的に現在に当たる承句が間に入っているため、どうも間延びしている感じになります。
 順序を整える形で、例えば承句を「恩師詩友教場縁」とし、転句の方を「丹心一曲観空舞」とするような配置換えをするか、「回顧」の言葉を、ただ「喜ばしい」という程度の意味の語にするか、どちらかが良いと思います。


2010. 1.20                  by 桐山人



秀涯さんからお返事をいただきました。

 ご指摘、ありがとうございます。
 承句の、師や友人達との出会いの数々、七字で悩んだ部分でした。

 ご指摘の点を踏まえて直しますとすっきりして、メリハリも出て来ました。
 未だ、字句を並べるのが精一杯^^!ですが、これからも漢詩が作れるように努力したいと思います。

  相和詠来三六年
  恩師詩友教場縁
  丹心一曲観空舞
  吟道遺風千古伝

 やはり、古典を含めて勉強ですね。
今後ともよろしくお願いします。


2010. 1.22              by 秀涯





















 2009年の投稿詩 第234作は 禿羊 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-234

  七五三(今年、孫女七歳、孫児五歳也)

袨服佳肴常日違   袨服 佳肴 常日に違ひ

作嬌旋舞自嬉嬉   嬌を作り旋舞して 自ら嬉嬉たり

社前儂亦祈延齢   社前 儂も亦 延齢を祈る

欲見笄冠飾髪時   見んと欲す 笄冠 髪を飾る時

          (上平声「四支」の押韻)


<解説>

 孫達もつつがなく成長しております。
はたして彼らの成人式を見ることが出来るかどうか。

<感想>

 私のところでも、孫が四歳になりまして、予想どおりの「爺馬鹿」をしております。
 孫がまだ居ない時には、高校の同窓会などで早く爺さまになった同級生が、携帯の待ち受け画面を見せながら目尻をダラーンと下げているのをからかってもいたのですが、自分も爺さまになってみると、気持ちがよく分かります。

 子どもの楽しげに家の中をぴょんぴょん跳びはねている姿が、承句によく表れていて、読みながらうんうんと納得しました。

 後半の思いも実感のあるもので、そうですね、私も自分のために長生きをしたいとは思いませんが、子どもや孫と少しでも長く時間を共有したいと思います。
 健康第一ですよね。


2010. 1.20                  by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第235作は 禿羊 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-235

  秋日即事        

日映窓簾樹影斜   日は窓簾に映じて 樹影斜なり

三竿嬾睡少驕奢   三竿の嬾睡 少しく奢を驕る

衰躬夙覚蕩心涸   衰躬 夙に 蕩心の涸れたるを覚ゆるに

底事痴翁夢抱花   底事なにごとぞ 痴翁 夢に花を抱くとは

          (下平声「六麻」の押韻)

<感想>

 この詩はなかなか意味深い詩ですね。
 前半のおだやかな秋の陽射し、のどかな一時の描写から、転句で老いを感じる自分を描きます。「蕩心」は「放蕩の心」、「蕩心涸」は「酒や女に心を動かすこともなくなった」ことを表しますので、「秋日」に老いを重ねての思いは自然な流れです。
 ところが、結句では「花」が出てきますから、「痴翁」「抱花」という、かなり不釣り合いな組み合わせで、びっくりです。
 でも、一番びっくりしたのは、きっと作者自身でしょうね。「花」を女性に限定するのは詩意を浅くするでしょう。「春」を象徴する花ですので、ここも「青春」とか「若さ」の象徴と考えるのがよいと思います。

 そうして改めて見直すと、題名の「秋日」が反語的な響きを持ってきますね。


2010. 1.20                  by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第236作は 観水 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-236

  書懷(一)        

友人皆是錦衣徒   友人 皆是れ 錦衣の徒

經世濟民馳白駒   経世済民 白駒馳す

我愛安居曲肱樂   我は愛す 安居 曲肱の楽しみ

川東碌碌一田夫   川東 碌碌たる 一田夫なり

          (上平声「七虞」の押韻)


「馳白駒」:歳月を送ること。また、実際に白馬を駆って活躍するイメージも重ねているつもり。
「安居」:安らかな暮らし。現状に甘んじているイメージも含ませているつもり。
「曲肱」:清貧の中でも道を行い楽しむこと。「曲肱而枕之」(論語)。
「川東田夫」:川(江戸川)の東側に住む田舎者。


<解説>

  友だちみんないつのまに 立身出世をなしとげて
  天下国家につくさんと 西に東に大活躍
  私といえばつつましく 今の暮しにあまんじて
  ろくろくとした毎日を 楽しむだけの田夫だよ


 めっきり冷え込んでいる経済・雇用情勢の昨今、なんとか人並みの生活ができているだけでも幸いとすべきかもしれませんが、上を見ればきりがないとはいえ、ついつい他人の事情も気にかかってしまいます。
 学校を出て、かつての同級生もそれぞれ違う道に進んでから10年近く。当然、自分よりずっと活躍している者もたくさん(「も」と言うべきか、「が」と言うべきか)。尊敬する一方で、ちょっぴり嫉妬してみたりもします。

 自分の運が悪かったとかそういうのではなく、結局、自分がそういう選択をしなかった、してこなかったことに尽きるものではあるし、将来、いわゆる格差が出てくることだって当時からわかっていたはず。それでも、いざリアルな現実となって目の前に出てくるようになると、心中必ずしも穏やかでない、というのが正直なところです。

 転結句は、本音のつもりですが、あきらめというか、から威張りというか、開き直りというか、そんな気持ちもまじっているかもしれません。

<感想>

 そうですね、「心中必ずしも穏やかではない」という気持ちはよく分かります。
 誰でも(と言っては言い過ぎかもしれませんが)、他人と比較することの愚かさを理性的には分かっていても、感情が追いついてきてくれないことが、人生の中で何度かはあるし、それは年齢には関係ないようにも思います。
 その感情に従うのか、それともから威張りするのか、と言えば、私は「から威張り」を続けます。
 孔子は「七十而従心所欲不踰矩(七十にして、心の欲する所に従ひて矩を踰えず)」と言いましたが、「理性」と「感情」が一致するのは孔子でさえ七十歳になってのことだと解釈すると、逆にそれまでは一致していなかったわけで、況や凡人である私などは、「感情」に心を任せない限り、自分の選んだ道を歩くためには「から威張り」をするしかないのだと思います。

 そういう意味での観水さんのこの詩は、構成も良く、「開き直り」のたくましさが感じられるものですね。


2010. 1.20                  by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第237作は 観水 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-237

  書懷(二)        

瞻望桐山已十年   桐山を瞻望すること 已に十年なるも

狂吟不飽費詩箋   狂吟 飽かず 詩箋を費やす

何愁恰似兒童戲   何ぞ愁へん 恰も児童の戯れるに似たるを

碌碌偸生好樂天   碌碌として 生を偸むも 楽天に好し

          (下平声「一先」の押韻)


「瞻望」:遠く仰ぎ見ること、したうこと。「陟岵兮瞻望父兮」(詩経)。
「楽天」:天命を楽しむこと。


<解説>

  桐山堂に通うこと もう十年になるけれど
  飽かずへぼ詩を書き散らし ひたすら反故を積むばかり
  まるで子どもの遊びでも 悲しむことはないだろう
  ろくろくとした人生も 楽しむのには具合よい


 こちらに最初に投稿させていただいたのが2000年の終わり頃でしたので、もう足掛け10年になります。
 多少はましな詩が作れるようになったかな……、と思う一方で、他の皆さんの作品を拝読しては、自分の未熟さを痛感しています
 漢詩にばかり時間を割いていられない、というのも言い訳でしかないのですが、転結句では開き直ってみました。

<感想>

 そうですね、観水さんが初めて詩を送って下さったのがまだ大学生の頃、ご卒業とご就職、ご結婚、そしてお子様のご誕生と、色々な場面で漢詩を送っていただき、「十年来の知己」と良く言いますが、同じ時間を生きてきたという気持ちです。

 承句の「狂吟不飽費詩箋」は詩人の面目躍如というところですね。
 転句は反語形で比喩がより強調されますので、やや謙遜しすぎの印象です。反語形だけにするか、比喩だけにするか、どちらかにした方がすっきりすると思います。

 「碌碌として生を偸む」に耽るには観水さんはまだ早過ぎると思いますが、世代を越えた詩友として、これからもよろしくお願いします。


2010. 1.20                  by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第238作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-238

  晩秋即事        

蕭颯金風雲影流   蕭颯(しょうさつ)金風 雲影流る

幽庭早已曉霜稠   幽庭早已(すで)に暁霜稠(しげ)し

梧桐葉散無人見   梧桐 葉は散じて人の見る無し

聲細残蛩秋不留   声は細やかにして残蛩 秋を留めず

          (下平声「十一尤」の押韻)

<感想>

 晩秋らしい詩で、特に起句の「雲影流」などは秋の窮まる感をよく出していると思います。

 起句の「金風」、五行説で「金」が秋にあたりますので、秋の風を「金風」と呼びます。これは「木火土金水」で、物質としての金属を表すのですが、それでも文字面の「金」の色彩が華やかで、この一文字だけが浮き上がって感じます。

   


 秋風を表す言葉は他にもありますので、「西風」「素風」「商風」などで入れ替えてみると落ち着きが出ると思います。もっとも、詩全体がモノトーンで白黒写真のような感じがしますので、作者は敢えてアクセントの意味で「金」を用いたのかもしれません。

 モノトーンということで言えば、どの句も秋の寂しげな趣を感じさせて悪くないのですが、逆にどの句もおさまりが良くて、あまり変化が無い感じです。特に、転句の働きが感じられなくて、四句を適当に入れ替えて転句に持ってきても成り立ってしまうように思います。

 転句にふっと作者の姿が浮かび上がるような感じを出すと、構成にまとまりが出て、詩のインパクトが強くなると思いました。

2010. 1.24                  by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第239作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-239

  奉迎聖嗣行啓豫州育樹祭        

雨過四望更C新   雨過ぎ 四望 更に清新

恰迓黄雲萬壽辰   恰(あたか)も迓(むか)ふ 黄雲(こううん) 萬寿の辰(とき)

先帝植栽培養地   先帝 植栽せし 培養の地

老杉高聳粼粼   老杉(ろうさん)高く聳(そびえ)て 緑粼粼(りんりん)たり

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

「聖嗣行啓」: 皇太子浩仁親王殿下の愛媛県御来県。
       平成20年10月25日から27日、第32回全国育樹祭が開催されました。
       「第32回-全国育樹祭ニュース(財団法人愛媛の森林基金)
「黄 雲」 : 稲が熟した様。
「萬壽辰」 : めでたい時節。
「先 帝」 : 昭和天皇。
「老杉高聳」: 昭和天皇、皇后両陛下が、昭和四十一年全国植樹祭の際にお手植えされた六本の杉を
       皇太子殿下がお手入れされた。

 尚、小原六六庵翁と出会い作詩に開眼して、過年松山で逝去された古木越堂さんの詩集に、昭和四十一年当事の漢詩が詠まれていましたので、参考までに掲載します。

    奉迎聖駕行幸豫州植樹祭
  西幸鑾輿出帝閽
  歡呼聲起撼乾坤
  羽林曾伍禁軍旅
  草莽今迎天子旙
  海擁龍船波浪穏
  山開輦路鳥禽飜
  一州樹色更添緑
  總是昇平雨露恩



<感想>

 この詩も、起句承句はとても良いですね。
 雨が上がって吹き清められたように澄んだ空、実り豊かな稲田、今日のこの大切な行事に絶好の秋の日だ、と読者に期待を持たせるには十分な表現だと思います。

 転句は時間的に過去を置きましたので、前半からの転換がはっきりしているのですが、最後の「地」が承句の「辰」が「とき」と「ところ」で対応している感じがするのが惜しかったですね。ここは「培養樹」くらいの方が勢いがついたでしょう。

 結句の「老杉」は、解説では昭和41年に昭和天皇がお植えになった杉の木のようですが、「老杉」というとどのくらいの樹齢から用いるのでしょうね。人間ならば丁度「初老」の頃ですけどね。
 最後の「粼粼」は、『詩経』に出典がある語ですが、「岩の間を流れる水がキラキラ光るさま」(新釈漢文大系)とされています。ここは「緑の枝を抜ける光がキラキラ輝いている」と比喩的に考えるのでしょうかね、多くは水に関係した場面で使われる言葉ですので、詩語表などで見つけられたのでしょうか。

 私の感想としては、「奉迎」という詩題ですので、結句を自然描写だけでなく、杉でも人間でも良いので「歓迎」という気持ちや字が入ると、結句のしまりが良くなるかなと思いました。


2010. 1.24                  by 桐山人






















 2009年の投稿詩 第240作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2009-240

  四国八十八寺遍路旅        

弘法遺芳辿古蹤   弘法の遺芳 古蹤を辿り

偏無千里引歸筇   偏に千里をなみして 歸筇を引く

心身清浄期望旅   心身 清浄 期望の旅

満願茲成香火供   満願 茲に成リて 香火を供す

          (上平声「二冬」の押韻)



<解説>

 亡妻の菩提を弔わんと発心とは聞こえが良いが、五十三年苦労掛けっ放しの贖罪の念に駆られての行脚なり。

 [行程]
  己丑 九月二十七日から二泊三日  阿波二十三ヶ寺
     十月 十八日から二泊三日  土佐十六ヶ寺
     十月二十八日から三泊四日  伊予二十六ヶ寺
    十一月二十五日から三泊四日  讃岐二十三ヶ寺の八十八ヶ寺と高野山
    十一月二十七日        高野山宿房に宿泊
       二十八日        高野山各寺巡拝して奥の院で満願の礼拝す。


<感想>

 五十三年間、一緒に生きてこられた奥さまを亡くされた喪失の思いを推し量ると、私にはお慰めする言葉もありません。
 ご結婚は昭和三十年代の前半ですね。ようやく日本が戦後から脱し始めた頃でしょうか、経済の様々な荒波を越えてこられたお二人の長い半世紀だったことと思います。

 その奥さまの菩提を弔うためのお遍路の旅、大変だったことと思いますが、結句を読むとほっとしますね。

 承句の「偏無千里」は、「千里の遠い道も全く気にかけず」ということです。
 転句は「期望」の内容は、前の「心身清浄」を受けるものでしょうね。


2010. 1.24                  by 桐山人