2006年の投稿詩 第91作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-91

  謁去来墓     去来の墓に謁す   

一尺苔碑囲艾蒿   一尺の苔碑 艾蒿に囲まれ、

斜陽寂歴乱鴉号   斜陽 寂歴 乱鴉号ぶ

生前秀句周天下   生前の秀句は天下に周ねし

誰比流芳墓石高   誰か流芳を比べん 墓石の高さに

          (下平声「四豪」の押韻)

<解説>

 十年以上前に嵯峨にある落柿舎を尋ねた際に、近くにある去来の墓に立ち寄り、生前の去来の名声に比べ、余りにも小さい古賢の墓に驚きました。

<感想>

 嵯峨の落柿舎に向かう竹林の美しさに私が感動したのは、もう何年も以前のことになりますが、時折、目の前にふっと浮かんでくることがあります。
 結句の「流芳」は、「後世まで伝えられた名声」のことですが、前半の寂しげな風景との対比がよく出されていますね。ただ、結びの「墓石高」が即物的で、作者はその即物性を否定しているのですが、書かれていると意識されてしまうわけで、せっかく転句や「流芳」で醸された余韻がここで断ち切られるような気がします。

2006. 7. 2                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第92作は 一人土也 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-92

  焼芋        

野花籬外友相聯,   野花の籬外 友相聯なりて、

掃集紛飛落葉燃。   紛飛する落葉を掃き集めて燃やす。

紫芋焼甘唯妙味,   紫芋焼けば甘し 唯れ妙味、

晩秋行楽漠然煙。   晩秋の行楽 漠然たる煙。

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

  焼き芋

 野花咲くまがきの外、友達と並んで、
 飛び散った落ち葉を掃き集めて燃やす。
 焼いた紫芋は甘くてとてもおいしく、
 晩秋の楽しみはもやもやと漂う煙のなか。

これは学校での出来事です。

<感想>

 落葉の季節になると、どうしてもつながるのが焼き芋でしょう。
 私も高校一年生の時に、クラスメートと校庭の落ち葉を集めて、焼き芋大会をやったことを思い出しました。まだ平屋の木造校舎が並んでいた時代、教室から外に一歩出れば、落ち葉がうずたかく積もっていました。担任の先生の音頭で、HRの時間にクラスのみんなで落ち葉を集めて焼き芋をしました。
 その時の焼き芋の味などはもうすっかり忘れてしまいましたが、仲間の一人ひとりの顔をなぜかしっかりと覚えているんですね。楽しい思い出というのは、そういうものかもしれません。

 「芋」は、「サトイモ」のことですから、「紫芋」「紫のサトイモ」となります。
 このあたりが、時代の変化の難しいところですね。ただ、南宋の范成大の「冬日田園雑興 其八」には、「灰の中に芋と栗の香」という言葉がありました。芋の種類は違っても、焼いた灰の中に芋を入れておくという「焼き芋」の楽しさは共通のようですね。

2006. 7. 2                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第93作は 嗣朗 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-93

  詣本泉寺偶感        

医王山卿照一隅   医王山の卿 一隅を照らす

蓮如布教是吾徒   蓮如の布教 是れ 吾が徒なり

遺形真贋疑今昔   遺形の真贋 今昔を疑ふなかれ

造宝御文筆硯娯   造宝 御文 筆硯を娯しむ

          (上平声「七虞」の押韻)

<解説>

 加賀二俣は医王山の美しい容姿に抱かれた聚落である。住職のお話に聞き入り、寒さも忘れ、お宝や上人御造作の「九山八海」の庭を楽しんだ。
 三十五歳の時二俣を訪れた上人は、叔父の如乘師に親に代わる愛情を頂き、この地を恰も故郷のように大切にされたようです。

<感想>

 承句・転句の解釈に迷っているうちに、掲載が遅くなってしまいました。ただ、まだよく分からないところが残りますが。
 「蓮如上人の布教は吾が徒である」というのは、「私は蓮如上人の教えを大切にし、弟子として生きている」ということでしょうか。私は「教え」の方面に詳しくないので、それで分からないのでしょうか。お助けいただきたいところです。
 転句も、原文のままですと、「今昔を疑ふ(へ)」となり、否定形には取りにくいですね。

 結句の「御文」は皇帝の持ち物以外を指す場合は和習ですし、四字目の孤平でもありますので、そこはご了解ください。

2006. 7. 2                 by 桐山人



 嗣朗さんからお返事をいただきました。

桐山人先生 こんにちは
体調は如何でしょうか、霖雨で体調を崩しそうですネ。
 此の度は、解釈も出来そうに無い漢詩を投稿し恥ずかしい限りです。私も理解しないまま作詞いたしました。
 ただ、本泉寺の老僧が(御歳90歳)寒い中、熱心に語られる様子からこの様な詩に成りました。
仏教での人に対する供養では、特に親鸞の流れを汲む蓮如は「生きている間に自分が仏事を行って死後の功徳とする供養」−逆修供養がこの時代背景から流行ったとされているそうです。
その蓮如の説法は、辻説法では無く、御文(瓦版?)による説法で現在のインターネットのようなのか?

私の漢詩への思いは
医王山卿照一隅
  この小さな山郷医王山本泉寺の老僧が、今も語り継いでいる蓮如の本願は一隅を照らす。
蓮如布教是吾徒
  この老僧は蓮如になりきり、参拝者はすべて門徒で有るがごとく布教される。
遺形真贋疑今昔
  遺形が真か贋かは今も昔も疑う(老僧の熱心な説法から真と信じよう)
造宝御文筆硯娯
  蓮如上人のご造作「九山八海の庭」、御宝物「八万の法蔵御文」等々は真として娯しましていただきました。

 以上のような思いでしたが、寺は格式あり、この地(加賀二俣)の伝説は沢山あるそうです。
恥ずかしながら無理な解釈と思いますが、宜しくお願いいたします。

2006. 7. 3                    by 嗣朗





















 2006年の投稿詩 第94作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-94

  一七令・賞櫻花吟句        

櫻,         桜,

飛雪,        雪は飛び,

随風,        風に随ひ,

春烟裡,       春煙の裡に

酒杯中。       酒杯の中に。

傾杯白首,      杯を傾ける白首,

出谷黄鶯,      谷を出る黄鶯,

作賓花底醉,     賓とって花底に醉ひ,

乘興樹顛鳴。     興に乗って樹顛に鳴く。

老骨多閑無事,    老骨 閑多くして事なく,

詩懷偏愛連声。    詩懐 偏へに声を連ねるを愛す。

聳肩諷詠調平仄,   肩を聳やかす諷詠 平仄を調へ,

賞景吟描如画工。   景を賞して吟じ描き 画工の如し。

          (中華新韻「十一庚」の押韻)

<解説>

 「一七令」は、詞の中では古い方で、白楽天も作っています。
 1字句に始まり、以下、2、2、3、3、4、4、5、5、6、6、7、7と、2句ごとに対句にしながら字数を増やして行きます。
 下記は、わたしが考案した書き方です。1字目を「山」にて全体を△にして「山」と題した作もあります。

             櫻,
           飛雪,乘風,
           春烟裡,酒杯中。
         傾杯白首,出谷黄鶯,
        作賓花底醉,乘興樹顛鳴。
       老骨多閑無事,詩懷偏愛連声。
         聳肩諷詠,描如画工。
            調 吟
            平 景
            仄,賞

 押韻は、中華新韻十一庚です。この韻目は、ピンイン表記で-ing(実はieng)、-eng、-ong(実はoeng)を包括しており、平水韻の上平東、冬、下平庚、青、蒸をすべて網羅しています。韻字が沢山あって、詩詞がとても作りやすい韻目のひとつです。

<感想>

 鮟鱇さんの考案の書き方は、対句が視覚的に分かりやすく、なるほどと思いました。桜の木のように見えるのも楽しいですね。
 この書き方を見せていただくのは、初めてでしたか。以前も見たような気がしましたが、すみません、忘れました。

 句の流れとしては、「出谷黄鶯」「乘興樹顛鳴」であり、「傾杯白首」「作賓花底醉」という交差するような構成ですね。
 それは、鮟鱇さんの書き方ですと、右側と左側で分けて読むわけですよね。

2006. 7. 2                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第95作は 一人土也 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-95

  閑坐        

学校今終刻,   学校 今終わりし刻、

登階見宇寰。   登階 宇寰を見る。

斜陽風逝寂,   斜陽 風逝きて寂とし、

永影我留閑。   永影 我留まりて閑たり。

遠近黄紅葉,   遠近 黄紅の葉、

東西碧緑山。   東西 碧緑の山。

星浮帰路迫,   星浮かびて帰路迫り、

屋上白雲還。   屋上 白雲還る。

          (上平声「十五刪」の押韻)

<感想>

 学校の授業後、のんびりと過ごしている気持ちを描いた作品ですね。
 頸聯は、「黄紅葉」「碧緑山」を対比させたのですが、「碧緑山」の方が季節が合わない印象です。常緑樹の山との取り合わせを強調するならば、「遠近」「東西」の対が単調です。もう一工夫できそうですね。

 尾聯の「星浮帰路迫」も、せっかく星が出たことをもう少し生かしてあげたいですね。今のままだと、単なる時間経過を示しただけという気がします。上二字を「一星」と変えるだけでも随分生き生きとしてくるのではないでしょうか。

2006. 7. 4                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第96作は 徐庶 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-96

  新晴        

極目塵收曠野茫   極目 塵収まりて 曠野茫たり,

西峰麗色好瞻望   西峰の麗色 瞻望に好し。

簷端緑竹伸新節   簷端の緑竹は新節を伸ばし,

門下紅桃落故裝   門下の紅桃は故装を落とす。

偃息楢机書散亂   楢机に偃息して 書 散乱し,

放開柴戸表飜揚   柴戸を放開して 表 飜揚す。

舊朋登第今安在   旧朋 登第して 今安くにか在る,

朗景獨迷斟杜康   朗景 独り迷ひて 杜康を斟む。

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

  見渡す限り塵は収まって、野原はどこまでも遠く続いており、
  西方の山並みの景色は望み見るに勝える美しさである。
  軒の辺りの緑竹は新たな節を伸ばし、
  門の横の紅桃は花を散らしてしまった。
  私は楢の机に俯せになって休むので書物が散乱しており、
  粗末な扉を開け放しておくので、風が入って上着が翻ってしまう。
  古馴染みは大学に合格して、今頃どこにいるのだろうか。
  春の明るい景色の中、私は一人することもなく、酒を飲んでいる。

 GW中、大学に合格した友人はみな様々に出かけていきましたが、私は情けないことに予備校通いの日々でした。
 私を含め浪人生は皆、GWに雨が降ればなぁ、と望んでいたんですが、どうにも素晴らしく晴れてしまったので鬱々たる日々を過ごしました(笑)。
 五月病と言いましょうか、この時期はどうにも勉強が捗りません。
来年には侘びしい酒ではなく、学友と楽しく飲めたらよいのですが...。

<感想>

 徐庶さんの近況報告のような感じもしますが、尾聯にはお気持ちをこめたというところでしょうか。
 「杜康」は、「杜氏」の元になった酒造りを始めたとされる伝説上の人物の名ですが、「お酒」のことも表します。
 「おいおい、まだお酒を飲んじゃダメだよ」、とつい言ってしまうのは教員の性ですね。

 昨年は、受験勉強の合間にも漢詩を作るくらいの心があると良い、というようなことを言いましたが、うーん、今年はでも結果が欲しいですよね。
 頑張ってください。みんなが応援していますよ。

2006. 7. 4                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第97作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-97

  惜別友人        

送君関左去京華   君を関左に送って京華を去り

一曲労歌空歎嗟   一曲の労歌に 空しく歎嗟す

昨夕開筵酔陶少   昨夕筵を開くも 酔陶少に

今朝分手別愁加   今朝手を分ちては 別愁加ふ

素梅遍発多逢雨   素梅遍に発くも 雨に逢ふこと多く

黄鵠双飛頻念家   黄鵠双び飛んで 頻に家を念ふ

春色綿綿似相思   春色綿綿 相思の似く

指途目断白雲遮   途を指し目断すれば 白雲遮ぎる

          (下平声「六麻」の押韻)

<解説>

 菅廟吟社席題です。「麻韻」を引きました。
 険韻ではありませんが難しい韻でしたので、1時間経っても一聯の対句だけしか出来ませんでした。
井伏鱒二の「ハナニアラシノタトエアリ サヨナラダケガジンセイダ」が頭にありました。少しあせりましたが、七絶にしようかと開き直ったら、三十分くらいで、詩作を終えました。
 風雅を楽しむとはかけはなれた心持ちでした。

 [語釈]
 「関左」:関(函谷関)の東
 「労歌」:別れの曲
 「黄鵠双飛」:願為双黄鵠 送子倶遠飛 蘇武
 「春色綿綿似相思」:唯有相思似春色 江南江北送君帰 王維

<感想>

 最初にできた一聯というのは、頸聯でしょうか。この聯は印象深いですね。
 焦って作られたということですが、別れの情趣が余韻を持って描かれているのは、詩の面白さですね。時間をかければ工夫も多くなり、自分自身の満足度は上がるでしょうが、詩に表れる言葉の勢いも良いのだと思います。

 「空歎嗟」「別愁」の心情語を前半に出したことで、全体の色調が整った感じがします。この辺がさじ加減というところでしょうかね。

2006. 7. 4                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第98作は 点水 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-98

  春朝発西安訪法門寺     春朝西安を発し法門寺を訪ぬ   

夜来雨罷起東風   夜来の雨罷み東風起る

眺望車窓麦隴葱   車窓を眺望 麦隴あお

名刹荘厳磚塔聳   名刹は荘厳 磚塔せんとうは聳ゆ

叩頭舎利喜無窮   舎利に叩頭 喜び無窮

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

 三月初西安へ旅行して、法門寺を訪ねることができました。この寺は釈迦の指の舎利があることで、有名です。幸いこれを拝観できました。

<感想>

 この春に中国を訪れた方も多いようですね。点水さんは、まさに「長安の春」を満喫されたということで、うらやましい・・・・。
 「磚塔」「瓦葺きの塔」「叩頭」「叩首」と同じですが、「額を床につけて敬礼する」ことです。
 結句の「喜無窮」は、点水さんのお気持ちがよく出ている言葉ではありますが、「叩頭」という行為には既に心情が表れているわけですので、推敲の余地がある部分でしょうね。

2006. 7. 5                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第99作は 嗣朗 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-99

  東大寺二月堂修二会     東大寺二月堂の修二会(お水取り)   

堂上松明大願呻   堂に上る松明 大願の呻き

達蛇妙法騒然人   達蛇の妙法 騒然の人

千餘伝続火炎舞   千余も伝へ続ける 火炎の舞

夜毎歓声瑞気伸   夜毎 歓声 瑞気伸ぶ

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 今年で1255回目を迎えた東大寺二月堂の修二会の行事、開行以来一度も欠かされた事がなく、練行衆11名のお坊さんが12月に発表され参篭し戒壇院で修練、本番は二月堂で3/1〜3/14の期間行われ、特に3/12は俗に云うお水取りの日である。この行事が過ぎると本格的な春となると云われている。

<感想>

 お水取りの雰囲気をよく伝える詩になっていると思います。
 気になる点としては、承句の「達蛇」は、達陀だったんの入力間違いでしょうね。「達陀」は、火と水と懺悔の行を表す言葉です。読み方も難しいですね。
 「騒」は、騒ぐという意味ですと平声ですので、このままですと、下三平ですね。
 転句の「千餘」は、年数としてとらえてもらえるかどうか、少し疑問ですね。

2006. 7. 5                 by 桐山人



 嗣朗さんからお手紙をいただき、推敲作とお水取りの写真をいただきました。
お水取り」をご覧ください。

2006. 7. 6                 by 桐山堂





















 2006年の投稿詩 第100作は 逸爾散士 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-100

  春思        

粧點朱唇明鏡前   朱唇ヲ粧點ス 明鏡ノ前

更梳緑鬂恨連綿   更ニ緑鬂ヲ梳ケバ 恨連綿タリ

春光遍滿無人訪   春光ハ遍滿スレド 人ノ訪フ無シ

繚亂桃花幾日妍   繚亂タル桃花 幾日カ妍ナル

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 「山陽吟社」で太刀掛先生に叱正を受けていた頃の詩。これは直されたところはありません。
 『三体詩』『唐詩選』にある楽府題の詩から詩題を借りて練習していたのです。ほかに「柳枝」「秋思」「秋閨思」「西宮春怨」「西宮秋怨」「思君恩」を作りました。

 振り返ればたいがいは自分が女性の身になったものだなあ。「かへるさのものとや人の思ふらん待つよながらの有明の月」(藤原定家)などと転身詠が稀ではない日本の伝統を受け継いでいるから、“女々しい”のは得意。(たをやめぶり、と言えばもっともらしいけど)

 鏡にしても化粧にしても自分で思い浮かべる光景は、テレビCMなどで見ているような映像。言葉の上では漢詩の範囲に収まっていると思いますが・・・。女性が化粧をしながら思い人が来ないのを憂いて、桃の花(若い女性の象徴)の盛りは過ぎるように、自分の花の盛りだって短いものを、と嘆息している。
「連綿」「遍満」「繚乱」と畳韻語、双声語を連ねたのは、日本語で訓読したときの声調を意識したのですが、煩わしいかなあ。

<感想>

 そうですね、私は、拝見してまず浮かんだのは、小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに我が身世に経る眺めせし間に」の和歌の方でしたね。これは、結句のストレートな表現がそのまま小町の歌と通じたからでしょう。

 ともすればベタベタした感じになりやすい内容ですが、それを救っているのは、起句と承句で使われた「朱唇」「緑鬂」の色彩感でしょうね。

2006. 7. 5                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第101作は 参川古稀 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-101

  人生七十不稀哉        

人生七十悠悠也   

白寿応稀亦楽哉   

雁陣年年齎秋到   

梅花歳歳報春廻   

爺尋故旧歓無限   

媼迎孫児笑老莱   

峻岳深淵君莫恐   

塞翁安坐且乾杯   

          (上平声「十灰」の押韻)

<解説>

  人生70だが悠々だ。白寿ともなれば珍しいが。
  雁の群れは年々秋に帰っていき、梅の花は毎年春になれば咲く。
 (来年は見られるかしら?)
  爺さんは旧友を訪ねて(酒あれば)うれしく、ばあさんは孫が来て大笑い。
  山有り谷有りの人生だが、恐れることはないぜ。   人生塞翁が馬、万事よろし、乾杯だ。

 私も71歳になり、こんな気持ちを読んでみました。「平起不入韻」につき、首連第一句はふみおとしました。「年々歳々」は好きな文句で、一度使ってみたかった。

<感想>

 「古希」は杜甫が使った言葉ですが、確かに、現代の日本のような長寿大国では、「稀」とは言いにくくなりましたね。でも、数の多い少ないではなく、長生きをすることは喜ばしいことです。
 そういう意味では、日本に長寿を表す色々な呼び方があるのは、機会機会をとらえて祝おうということでしょうね。おめでとうございます。
 「白寿」はその中の一つ、日本独特の言葉ですので、漢詩では和習になります。

 第三句は平仄が崩れていますので、ご注意ください。また、第六句の「迎」は、単に「迎えた」というだけならば、平声です。「迎えに行き、連れてくる」となると仄声です。
 「峻岳深淵」が長い人生の比喩として出されているのですが、それを比喩だと分かるには、更に次の句の「塞翁」を待たなければならないでしょう。それもちょっと苦しいかもしれません。
 

2006. 7. 7                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第102作は ニャース さんからの作品です。
 

作品番号 2006-102

  春色        

城中五月満朝霞   城中の 五月 朝霞満ち、

楊柳河堤帯緑芽   楊柳 河堤 緑芽を帯びる。

春色独深離別恨   春色 独り深し 離別の恨み、

燕飛比翼入孤家   燕飛 比翼 孤家に入る。

          (下平声「六麻」の押韻)

<解説>

  大連の街は 朝霞が満ち、
  河堤の 楊柳は 緑の芽をふく。
  春の楽しい景色は、独りの私にとっては、別離の悲しみを深めるだけ。
  皮肉なことに二羽の燕も仲よさそうに飛び 孤独な私の家に入ってきた。

鈴木先生 ニャースです。元気に大連駐在をしております。
春は却って 別離の悲しさを感じさせることがあります。
その思いを詩に託しました。

<感想>

 ニャースさんは大連でお仕事をなさっておられます。もう一年近くになるでしょうか。お元気なようで、「大連の春」を伝えていただきました。

 遠く離れた地にいると、一層詩心は磨かれるのでしょうか。転句の「春色独深離別恨」はとても心がこめられた句ですね。
 この佳句を生かすのに、転句の位置が良いか、余韻の残る結句が良いか、つまり転句と結句の内容を入れ替えるという選択肢もあるように思います。ただ、その時に、この「春色独深離別恨」の緊迫感が薄れるといけませんので、そこが難しいですね。

2006. 7. 7                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第103作は 童心 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-103

  早春秩父遍路        

煌煌星宿見孤行   煌煌たる星宿は孤行を見つめ、

重重連山知旭陽   重々たる連山は旭陽を知る。

下沢登丘従古道   沢を下り丘を登りて古道に従ひ、

観音霊地拝金堂   観音霊地の金堂に拝す。

路辺菫草未色揃   路辺の菫草は未だ色は揃はず、

村里梅枝馥郁香   村里の梅枝は馥郁と香る。

片栗幽愁誘旅人   片栗の幽愁は旅人を誘い、

早春秩父百花粧   早春の秩父は百花粧える。

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 前回初めて投稿し、鈴木先生の丁寧な批評と推敲を頂きました。
本を買って独学で勉強中ですが夢中になっています。今後も宜しくお願いします。

 昨年より毎月一回秩父の三十四観音零場に遍路に行っています。
 今年も3月、4月に出かけました。3月は梅また梅を、4月は桜また桜を見て満喫して帰りました。早朝より出発し、日が暮れてから家路に着きます。宗教心と言うよりは仕事のストレスを発散するためで、私にとっては無くてはならないものです。
 又、俳句および漢詩の創作にも大変に役立っています。

 今回初めて律詩に挑戦しましたが、絶句に較べ句数が二倍になり、創作の苦労は四倍になりました。

<感想>

 全体の構成を見ますと、前半は天から地、遠から近と視点を写し、後半は「菫草」「梅枝」「片栗」と並べて、最後の「百花」へとつなげる形で、滑らかな展開に工夫がよく出ていると思います。

 平仄の点では、いくつか気になるところがありますので、指摘しておきましょう。
  第二句の「重重」は、「重い」の時が仄声、「重なる」の時は平声です。この場合は平声ですので合いません。
 第五句は、「色」が仄声です。ここの六字目は平声でないといけません。
 第七句は押韻をしない句ですので、末字は仄声にしなくてはいけません。

 律詩の場合には、対句を意識しなくてはいけませんが、この詩の場合、不具合があるのは次の所です。
 頷聯の「下沢登丘」「観音霊地」が、「下(動詞)沢(名詞)登(動詞)丘(名詞)」に対して、「観音(名詞)霊地(名詞)」で合いません。
 また、頸聯の「未色揃」「馥郁香」が、「未(副詞)色(名詞)揃(動詞)」に対して、「馥郁(形容動詞)香(動詞)」で、これも語の構成が合いません。
 ここでは、後半(下句)で「馥郁」と重韻語を用いていますから、前半にも音的に工夫した言葉を置きたいところです。

 「片栗」は和習ですね。

2006. 7. 7                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第104作は名古屋市の 明山 さん、五十代の男性の方からの作品です。
 

作品番号 2006-104

  闌残     闌残(らんざん:過ぎ行く春を惜しむ)   

幽庭返照起微瀾   幽庭 返照にして 微瀾起り

三月多情酔牡丹   三月 多情にして 牡丹に酔ふ

幾片飄紅花帯涙   幾片の飄紅 花 涙を帯び

誰知絲雨又闌残   誰か知らん 絲雨 又闌残たり

          (上平声「十四寒」の押韻)

<解説>

 最近漢詩作りを始めました。呂山著「誰でもできる漢詩の作り方」の詩語を参考にしました。これが10作目くらいです。

 庭に夕焼けが映え、風が少し吹いて来た。
 晩春の三月は、憂鬱なことがたくさん起きたけれど、牡丹を見ていると心が晴れるようだ。
 ただ風で花びらが少しずつ散り始め、牡丹も涙を帯びてきたようだ。
 でも私の気持ちを誰が知ろうか。糸のような細雨が牡丹を濡らして、過ぎ行く春を私は惜しんでいる。

<感想>

 はじめまして。明山さんは私と同じ、愛知県ですね。よろしくお願いします。
10作目ということですが、一緒に漢詩を創ることを楽しんでいきましょう。

 詩を拝見して思うのは、言葉一つ一つがまとまっていないということです。
 例えば、起句の「返照」で「夕映え」という場面設定をしているわけですが、そこに結句の「絲雨」が来ると、どう解釈するのか。特に、この「絲雨」「闌残」とが照応していることを考えると、前半の設定がどこかへ飛んでしまうような気がします。
 「雨」を持って来た意図がおありなのでしょうが、それをどう伝えるかが大切です。

 承句については、「三月」「多情」はつながりは明確なのですが、そこから「酔牡丹」への逆接は、読者には伝わりにくいですし、ここで「酔」うことが後半の沈んだ気持ちとは離れているようです。

 「酔」「絲雨」の二つの言葉を検討されると、全体として流れの良い詩になると思います。

2006. 7.12                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第105作は甲府市の 仲泉 さん、七十代の男性の方からの作品です。
 

作品番号 2006-105

  故郷讃歌        

眼下遠望是我郷   眼下の遠望 是れ我が郷

清流曲折到大洋   清流曲折し 大洋に到る

水田開拓農事忙   水田の開拓 農事忙しく

旭日満村意気揚   旭日は村に満ちて 意気揚がる

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 月2回の講座では、手も足も出ませんでしたが、桐山堂のホームページに飛びつきました。
 大変分かりやすく何回も復習できますのでありがたいと思っております。鈴木先生よろしくお願いします。

<感想>

 よろしくお願いします。詩の投稿フォームが円滑に働かないようで、何度か送っていただき、ご迷惑をかけました。

 さて、詩の押韻のことですが、転句の「忙」は「下平声七陽」の韻字になっていますので、ここは韻を踏まず、仄声にしなくてはいけません。「急」などでしょうか。

 平仄の点では、起句について。四字目の「望」は平仄両用ですので使うのは良いのですが、このままですと、前後の仄声に挟まれた「四字目の孤平」になってしまいます。「眼下遥望是我郷(眼下 遥かに望めば 是れ我が郷)」ではどうでしょうか。
 同じことは結句にも言えます。

 承句は六字目の「大」が仄声ですので、「二六対」が崩れています。「洋」につながる平声の文字を探すか、下三字を別の言葉に換えるかということになりますね。

 全体の構成はバランスが良く、整った詩になっていると思いますので、形式の点を確認なさると完成した詩になると思います。

2006. 7.12                 by 桐山人