平仄は本当に必要?
私の意見 大特集




1999.10.19

私の意見11[愛知県・真瑞庵さん(50代・男性)]

 結論を先に述べれば,私には分かりません。

 私が漢詩を作り始めた頃5、6年ほど前ですが、御指導願った先輩は日本人の作る漢詩に平仄の決まりを当てはめる事の無意味さを述べておられました。
 其の理由として、わが国における漢字の読みは、たとえ音読であっても中国の四声とは凡そかけ離れており、ましてや訓読される場合にはまったく意味をなさない。元々、中国の詩は楽器に合わせて謡われたものであり、其の為のリズムを追求していき、結果として近体詩が成立したものだ。わが国の発音ではでは其のリズムを求めることは不可能である。それゆえ、漢詩を作るなら則りが緩やかな古詩体を作ってはどうですかと勧められました。
 で,古詩を作る事にずいぶん励みましたが、それはそれでかなり難しく、ダラダラと焦点の定まらない物しか出来ませんでした。今でも其の焦点の定まらない傾向はありますが。
 今では,絶句,律詩を平仄に苦しみながら作っています。そうした中で,平仄が合いしかも自分が感じたこと,あるいは見たこととピッタリ符合する表現が出来たときは例え様もなく嬉しくなります。

 私にとっての作詩の楽しみは平仄が有っての楽しみのようです。特に,律詩の対句をアアデモナイ、コヲデモナイト考えているときは最高です。今しばらく,平灰とジャレながら漢詩作りを楽しみたいと思います。
















1999.11.18

私の意見12[福岡県・K.Kさん(20代・女性)]

 こんばんは。
 わたしは高校の頃から中国に興味が出てきて、その頃から漢詩にひかれるようになりました。はじめは李白、杜甫、白居易などの詩人の詩を読むだけにとどまっていましたが、そのうち自分で作りたくなって。
 結局、高校のときに3つの作品を作りました。
 でも、平仄があまりに難しすぎて組み込めず、平仄を無視した漢詩になっちゃいました。
 あれから数年たった今でも、平仄は理解できましたが、それを考えた漢詩はできません。そこまで考えてたら、用いる言葉も制限されてきて、自分が本当に使いたい言葉が使えません・・・。

 今まで作った漢詩も、平仄を用いてないために、世間に公表できないです。
 もっとみんなが自由に作って、楽しく読めるように、現代では平仄はなくてもいいんではないでしょうか。

 なんだかまとまりなくって、すみません。わたしからの意見は、以上です。






















1999.11.18

私の意見13[兵庫県・Kenさん(70代・男性)]

 junji先生 こんにちわ
 ご無沙汰しました。
 親善使節とやらで、九月いっぱいから十月にかけてイングランド北東部を歴訪し、途中で眼を悪くしたまま帰ってき、いまなおCRT画面を覗くのを控えている状態です。
 おおぜいの方々がボクの留守中に議論してくださったのを拝見して、だまっているわけにもいかず、とりあえず次の通りのお返事(?)をしたためさせていただきました。

 鮟鱇先生へ
 「問題提起がどのへんにあるのか」、との仰せですが、そうたいしたつもりもありません。
 故郷の老人(というボク自身がすでに古希はるか)から、近作の漢詩なるものを受け取り、その字面があまりにも美しくなかったので、「ここを一字だけ、こう変えられたら」と示唆したところ、「平仄が合わぬからいやだ」との返事。 90歳の老人にとっては平仄合わせが詩文の美しさに優先するらしく、それからもうこの方との文通を中断しました。
 バンコクの観光バスで、ハーバードの中国文学の先生が、ボクの台湾の相棒(旧上海系財界人)に、「中国では詩をどのようにして読むのか、それがわからぬ限り詩作が出来ない」と訊ねた。
 あぐらをかき長キセルを腕にまきつける所作を示しつつ、「こういうふうにして唸らないと、詩というものは格好がつかないものだ」と、かれは答えた。「なるほど、平仄というのはそういうためのものか」とハーバードの先生ともどもボクも、そのとき感じ入りました。
 平水韻略を座右に置くわけでもなく、中国語発音の知識も少ないボクのような庶民が、いまさら「漢詩を」、と思い立っても、平仄の壁に阻まれて立ち往生、つまりは日本の漢詩の悲観的な将来。 それをみなさんがどう思っていらっしゃるかしら、という至極あたりまえの疑問がボクの「問題提起」になったわけです。

 それが今回の討論会(?)で、問題点も solution も、ほぼすべて浮き出しにされたようです。
 「唐代の詩人たちと同じ事をしているのだという大いなる幻想」にたゆたうか(瓦礫さん)、「漢詩の世界にも規制緩和が必要」か(河東さん)、はたまた「平仄とジャレながら漢詩作りを楽しむ」か(真瑞庵さん)、つまるところ遊びのルールは個々の美意識の範疇、ということでしょうか。

 ここで、平仄押韻の問題はチョット棚の上に置いておいて、少し考えてみたいのは、「漢詩をどうやって読むか(どう読むかではない)」ということです。
 「我が国古来のやまと言葉だけにではなく、一衣帯水の大陸との関係を含めて、(日本人のアイデンティティを)確かめながら、喜びや悲しみを詩に託して人に読んでもらう」(鮟鱇さん)にしても、「日本の漢詩として、独自の[うたう歓び]を取り戻す」(郤山さん)にしても、必ずしも規定された「音訓混交の読み下し法が定着」(郤山さん)しているわけでなく、日本語特有の奔放極まりない読癖(よみくせ)が優先し、しかもそれを黙読するのか、微吟するのか、高吟するのか、そのばあい場合を想定して作詩のときの字面(じづら)も変えねばならぬだろうし、日本文としての平仄押韻も充分考慮しなければならない(そのよき類例は明治象徴派の詩)のではないでしょうか。

 巷間隆盛の「詩吟」は、伝統的な和歌朗詠をもとに志士酔余の慷慨調を追加したものと思っていたが、もう少しまえに始まるとの説があるところからして、徳川中期の詩人たちが宋金明の平仄には激しくこだわりながら、その歌い方を、たぶん他の低感受性の人たちに任してしまい、それが今日の詩吟に至ったのではなかろうか。
 おそらく漢詩を作るほどの人ならばあの放歌高吟調には嫌悪感が先立つはずである(漢詩を異端の吟界(?)から取り返せ!)。
 本来、「吟」とは(ひくく口ずさむ)こと,つまり「微吟」や「吟嘯」が相応しく、「高吟」には馴染まない。 いまボクの家には例の「楓橋夜泊」を掛けているが、悉黒に白ぬきの「月落烏啼」という文字は色調といい字面といい、そのすべてがまとまって一幅の立体画になってい、だから、つとめて静かに黙読(黙吟?)することにしている。 日暮れにこれを掛け、これを黙読すると、あら不思議や、寒山寺の鐘がごーんとボクの部屋にまでとどいて来るではないか。(インターネットのHPをサーフィンしていると、最近ときたまテーマ音楽入りに出くわすことがある。あの感覚と同じように、ボクの家の「楓橋夜泊」は彩色音楽入りである。) こうしたばあいには、間違いなく黙吟がのぞましい。
 一般的に言えば、われわれが美しいと感じる七言絶句などには12チャンネル「漢詩鑑賞」風の荘重な吟唱が似合うようである。 しかしこれとてある場合には葬祭場の音楽のごとく悲劇風が強すぎる。(むかし、長い留学生活から戻ってきたボクの子供が、「日本のアナウンサーはなぜあんなに悲しそうな声を出すのか」と質問したことがある。 まことNHKはカントの「優美と荘美」のうちの壮美に偏りすぎ、アメリカのニュース放送ははじけたボールのように尻上がりすぎる。)

 徳川・明治期を通じてわが漢詩人たちは、詩が、紛れもなき音楽であるという事実を看過して、字面の美しさと、数百年のノスタルジーたる平仄に固執しすぎた。 結果、異端の鬼子にも似た「詩吟」に、わが国の「漢詩」の市場を明け渡してしまったかに見える。
 真言・天台声明でさえ音楽としての地位復権を図りつつある今日、漢詩の歌いかた吟(よ)み方について何らかの温故知新的 consensusが、漢詩人の間で醸成されないものであろうか。

 先月イングランドを歴訪中、毎日数回も要るボクのスピーチの原稿を、たまに現地の人に添削依頼したことがあった。 こころよく添削してくれるのは有り難いが、いつも、どうもボク口調に合わなくてマイクの前で戸惑うことしきり。
 わかったのは、例のリンカーンの「 by the people, of the people, for the people shall not perish from the earth 」にも似た、一昔まえの平仄押韻入りのものものしいボクの英語スピーチに対して、かれら英国人が美しいと考えているのは、もっと訥々とした平易な現代英語であるということであった。
 こうした行き違いは、お互いの美意識のすりあわせをした後に作文にとりかかればいくらかは防ぎ得るらしいる、とわかった。
 同じようなことが現代の漢詩、およびその平仄押韻の是非にも言えるのではなかろうか。
 南宋の水平韻を踏襲するいまの漢詩作法に加えて、不可避的に音訓混交で読み下しし、しかもその吟じ方については 我関せずエン とする。 それでいて自作の詩はおおぜいの人が読んでくれて、そして誉めてほしい、というのはいささか虫が好すぎはしないか。
 とりあえず手っ取り早くは、漢詩の吟じ方についてなんらかの新しい定型を、漢詩人の間で2、3種類作ろうではないか。

 と、以上のことが、いまのボクの、漢詩の読み方、歌いかた、吟じ方についての見解と、そして提案です。 議論してみていただけませんか。
                               (ken)














1999.11.24

私の意見14[福岡県・kyoounさん(40代・男性)]

 漢詩は未だ作ったことがありませんが、漢詩の世界は好きですし、作ってみたいと思っています。
 私の周りにも、一人だけですが、漢詩を作ることに興味を持っている男性(27歳)がいます。しかし、二人とも、「平仄がなあ」という結論に落ち着いてしまいます。
 頭の中には、漢詩のフレーズらしいものが浮かんできます。

 数日前、みかん狩りに行ったとき、秋の日が落ち、夕暮れの空をからすが一羽飛んでいきました。このときの風景を俳句にしようと思い、いろいろ考えましたがどうにもまとまらず、残ったのは俳句のような、漢詩のような、何とも正体不明のフレーズでした。
 このときの「未完成フレーズ」については今も考えています。
 しかし、俳句は完成しても漢詩にはできません。読み下し文としては完成するかもしれませんが、漢詩の形にしたとき、平仄は手におえないからです。
 それでも、平仄を勉強しようという気はあります。
 しかし、できれば平仄をなくせとはいいませんが(俳句・短歌にも型がありますから)、手におえるものにして欲しい。
 大漢和辞典で平仄をいちいち調べなければ作れないのでは、漢詩的感慨は、「読み下し漢詩」で終わらせてしまって、外に発表するときは俳句・短歌の形をとるのが楽です。

 唐の時代から1000年が経ちました。「詩」は「志」といいます。志は、もっと自由に述べたい。
 李白も杜甫も、「まだ、俺たちと同じことをやっているのか」といっているような気がしてなりません。














1999.11.30

私の意見15[東京都・鮟鱇さん(50代・男性)]

Ken様
 貴投稿、拝読いたしました。
 そういうことでしたら、なにも難しいことではないのではないでしょうか。
たかが平仄です。推敲一字、長年の文通を絶つまでのことはないのではと思います。貴台のお決めになることではありますが。

 ただ、小生、一般の庶民ではありますが、庶民も漢和辞典を座右の書としてもよいと思います。 平仄は二年もお付き合いすれば、自然に身につきます。辞書に書いてありますから。
 しかし、貴台のおっしゃる「字面」の善し悪しは、辞書には示されておりません。
 したがって、浅学の凡才には平仄は自ずとわかるが、「字面」はいつになってもわからず、そういう凡才が詩を作るのであれば、平仄に従わざるを得ないのではないかと考えます。

 華風は、論理を重んじますから、敢えて率直に苦言をもうしあげます。




















1999.12.13

私の意見16[千葉県・中山逍雀さん(60代・男性)]

 偶然にも貴台のページを拝見致し、亦多くの方々のご意見を拝見致しました。小生 も、一筆書き込みをさせて戴きます。

1.平仄要否について
 この設問の討論に入る前に、「漢詩」に着いて研討しなければ成らないでしょう。漢詩は日本の詩歌のように云う人もいれば、中国詩歌だと云う人も居ます。この二点の決め方で、平仄要否の論旨は自ずと異なってきます。
 私の認識では、漢詩は中国詩歌であって、日本の詩歌ではありません。漢詩は日本語文字との共通点は有りますが、英語も普及している今日では、日本人が英語の詩歌を作るのとさほどの変わりはありません。
 此処では外国詩歌を作ると云う前程で述べさせて戴きます。それならば、中国詩壇で通用評価されることが最低限の条件で、これは上手下手以前の問題です。
 詩歌と非詩歌との判別は「押韻」の有無です。平仄は、古詩の規約にある如く平3連若しくは仄3連を避ければよいでしょう。これは、詩歌は唱うことを前提にしていますから、歌唱上好ましくないのでしょう。

 ここで蛇足ながら、漢詩を日本詩歌の一類とする方々の平仄押韻に着いて述べれば、もはや作品を国際的な詩壇に通用させる前程がないのだから、平仄も韻も関係無くご自分の思うが侭に作れば宜しいでしょう。
 でも何処にも通用しないものを作るのだったら、日本にも歴史に培われた立派な定型詩歌が有るのですから、其方を作られる方が賢明と思います。

2.古典韻と新韻について 
 日本の漢詩壇(詩壇と言えるほどの人数が居るのか知らぬが)でも、中國詩詞壇でも、古典韻と新韻に着いては各論頻出して居るが、未だ其の途上にあります。
 中國は多民族国家で、亦多言語の国家でもあります。古い時代には文字も各々異なったのですが、今では文字は殆ど共通しているようです。然しながら発音は全く異なります。
 更に中国人は、中華人民共和国だけでは有りません。架橋として世界各国に居ります。普段はフランス語を使いながら、詩詞は漢字で綴ると云うことをしているのです。これは日本人が漢詩詞を作るのと全く同じ感覚です。
 古典韻は皇帝の権威によって、発音の違いを乗り越え統一して普及させたものです。ですから、昔も今と同じ様に、現実の発音との不整合は有ったのです。
 新韻とは、現在の普通話発音と詩詞の韻律平仄を一致させようと云う試みですが、これの制定によって整合性が得られるのは、普通話を使っている地域だけに限られます。
 この問題は中國の国内問題ですから、これ以上の筆を措きますが、ご参考までに中國黒龍江省に中華新韻学会が有ります。小論がいつも掲載されていますので、購読為されると宜しかろうと存じます。




















1999.12.16

私の意見17[兵庫県・謝斧さん(50代・男性)]

 逆説的ないいまわしで申し訳ありませんが、平仄があるほうが漢詩は作り易いともいいます。私も作れといわれれば、1時間で1首ぐらいは作る自信はあります。それも恐らくは、他人に批正を仰ぐ必要がないものをです。
 なぜならば、現在の漢詩人の詩を作る方法に問題があります。
 詩人は詩語表なるものを参考にしてつくるようです。それには、平仄ものっています。これを巧みにつかって創作をします。だから同じような詩ばかりです。まさに漢詩の作り方は「パズル」です。江戸末期の葛子琴は詩語表なるものを、全て暗記していたと聞き及んでいます。
 結論からいいますと平仄は必要ありません。

 詩は志ともいいます。内容がよければそれでよいのです。多くの漢詩人は気付いていません。漢詩も詩だということを。唯だ漢詩はマイナーだから世間から忘れられているのではありません。才能ある詩人がでてこなかったからです。
 五言絶句を見て下さい。失声している詩がなんと多いことか、これは五言が七言よりも歌行の目的で作られてないからです。歌行目的の詩は別です。
 曾てこういった話を聞いたことがあります。
 名もない中国人の詩人3・4名と、学殖技巧等全てに勝る梁川星巌と詩を戦わせたところ、梁川星巌の詩は一つだに採られなかったと聞き及んでいます。これは漢詩のもつ、視覚と聴覚がおおきな理由であったらしいです、当然の事ながら、梁川星巌も平仄に法った作り方をしています。
 中国人にはうまれついての感覚があります。これを中国語も話せない日本人が理解するのは、結局は無理だとおもいます。

 然し日本人同士の贈答、もしくは歌行の目的でない場合は、平仄は関係ありません。ましてや、日本人が説明している平仄の本にも、不備があります。
 平仄は、そんなに簡単に説明出来るものではありません。杜甫等が、表面上は失声しているようであっても、大抵は、次ぎの句で助けたり、平声に近い上声をもちいたり、三仄連を三平連で助けたりしています。東坡等は自注でこの字は平で読むとしています。
 然し私も自身葛藤しています。平仄は必要ありませんといったものの、それではなぜ押韻する必要があるのか。
 ある人は古詩とみなせば善いではないかともいいます。ご存じの方もあるかとおもいますが、古詩も案外平仄にはうるさいのです。王漁洋の古詩平仄論などがそうです。
 そうであれば平仄を用いなければ、何故漢字で詩を作るのか、全く必要は無いのではないかという結論になります。
 では、何故貴方は、漢字ばかりの漢詩をつくるのですかという質問になりますが、もう想像がつくとおもいます。
 仮名混じりの文章を作るには余りにも稚拙に過ぎるせいです。
 河上肇博士の受け売りではありませんが、自分には漢字だけで表現するのがむいている。中国の古典文学と哲学を若いときから興味をもっていた為です。ゆえに白描で詩を作るのが苦手です。それならば平仄でもあわせてみようかというだけです。
 余りとりとめのない話に終始しましたがお許し下さい。




















1999.12.18

私の意見18[中国・河東さん(30代・男性)の第2弾]

 平仄討論会に於ける皆さんのご発言を拝見して、漢詩に関して2種類の見方があると思います。
 1つは漢詩そのものを対象として道をきわめること、2つは漢詩を道具として使うこと。
 前者に関しては、まだ勉強不足でコメントを差し控えさせていただきたいです。
 後者に関しては漢詩という道具を使って何をしようとするか、平仄云々の前にまず我々の目的意識を明確にさせる必要があると思います。
 もし目的は昔とそれほど変わらない花鳥風月やこれにかかわる感情を表現しようとするなら、私も平仄規則を緩和させる必要がないと思います。しかし、漢詩を使ってインターネット時代の生活、物事、心情、ストレスなどの現実を表現するつもりなら、漢詩づくりのルールがかなりの束縛になります。或いは漢詩というスタイルそのものに無理があるといってもよいでしょう。
 それでも漢詩で表現したいなら、せめて平仄は緩和したいです。石器時代の工具を使って、摩天楼を建てようとしても無理な話で、工具を改善するか、或いは別の工具にするかの問題と同じだと思います。

 それから鮟鱇氏の詩の解説に小生のコメントが紹介されています。これについて若干の訂正をします。
 話したときと文字になったときの意味がこうも違うのは鮟鱇氏が間違っているのではなくて、小生の表現力の不足によるものです。
 まず李白、杜甫のルール違反なら許せるのに我らの違反なら許せない点ですが、平仄は法律でもなければ社会規範でもない、また今更科挙でも受けようとしているのではないから、許す許さない程の問題ではない。それぞれの好み程度の軽い問題だと受け止めています。
 小生が鮟鱇氏に言いたかったのは、一般的に李白が平仄違反したら、さすがに李白、違反してもこの字を使っていると感心する一方、普通の人がルール違反をしたら、こいつ、詩の基本ルールさえ知らないくせに詩を作っていると二重基準で論評されがちであることです。
 科挙の厳しいルールの中で、少なくとも試験に答えるための詩には傑作がほとんどありませんでした。今残っている李白の詩で科挙の受験をしたら恐らく落第したでしょう。
 中国史上、一般に言われる詩のベスト3の作者はルール違反に留まるどころか、いずれも政治的な反逆者でした。ベスト3には詩人の詩が1つも入っていません。

 結論を申し上げます。小生の詩作りの目的は今現在の現実の中で感じていることを表現することです。平仄よりもまずは内容の確保に努めたいです。




















1999.12.22

私の意見19[東京都・鮟鱇さん(50代・男性)の第4弾]

 河東さま
 拙詩のコメントで貴兄の平仄についてのお考えを紹介しましたが、わたしの理解・言葉が足りず誤解を招きかねないものとなりました。おわびいたします。
 幸い貴兄にご覧いただき、貴兄のお考えについてわたしの記述が不十分であったことを訂正をしていただきました。ありがとうございました。

 謝斧さま
 含蓄に富んだ貴稿、拝読させていただきました。
 「志」をめぐるお話、中国の名もない詩人と梁川星巌をめぐるエピソード、わたしが忘れかけていることを改めて指正された思いです。
 私は、詩を作ろうという人を一人でも多く増やしたいと願っている人間ですが、その立場から感じたことを若干述べさせていただきます。

 嘆くべきは、日本人には所詮は「漢語のほんとうの詩」はつくれないということではなく、詩を作ろうという人そのものが少なくなってきていることではないでしょうか。
 なにも漢詩に限ったことではありません。自由闊達に書けばよいはずの日本語の現代詩にしても、どれだけの人が詩を作っているのでしょう。

 私見ですが、現代においてあえて詩を作る人は、すばらしい詩を書くことによって人々に認められたいと考えています。西洋近代が生み出した「芸術を売り物に」という思想があります。すばらしい芸術作品を世に広めることによって、生きていく糧を得ようという思想です。このためには、よい作品とできの悪い作品を峻別する権威づけが必要です。つまり、売れる作品は、売れない作品がなければ市場価値が生まれません。そして、 作品を作らない批評家や編集者が、作家のうえに立つのです。
 できがよいか悪いかでいえば、「詩」は批評がむずかしいものです。批評家は作家のうえに立てません。できのよい作品を作ろうという立場からは、たよりになる批評家がいないから、詩は作るのがむずかしい、つまりは商品にもなりにくい、そこで詩を作ることが面倒になる、それでも詩の魅力は捨て切れない、そこで自分で作るよりは人が作ったものを読むのがいい、だれの詩を読めばいいか、無難なところは李白だということになります。
 それでは李白だけでよいか。どうせわたしは作らないのですから、李白以外の詩を読む必要はあまりないでしょう。漢詩は唐の時代が最高。まして、現代の作家は、毛沢東あたりは平仄に従わないことがあるし、歌っている内容も李白とはちがうからやめておこう、ということになります。そのようなことで、詩は衰退していきます。

 わたしは、そのような時世をとても悲しんでいます。  人間の歌いたい、表現したいという衝動が、職業的な小説家やコミック作家が占有する特権となり、庶民・凡人は歌うことを忘れさせられています。この特権階級から歌う権利をどうやってとりもどすか、わたしはそういうことに腐心したいと思います。
 詩は、できがよいかわるいかを問わなければ、小説やコミックよりずっと手間をかけずに作ることができます。また、仮りにできが悪い詩を読まされるにしても、小説のように長くはないから、読み手の時間的な被害も多くはありません。歌う権利を取り戻すためには、詩の富を凡人の手に委ねることが必要です。

 前置きが長くなりました。
 わたしは、漢詩という定形詩の最大の富は、われわれ外国人であっても平仄に従いさえすれば、特別な感性や才能がなくても、いちおうは「詩」らしきものができる点にあるのではないかと思います。
 いちおうは「詩」らしきものであっても、作れればそれなりの感興はあるのであって、その喜びが多くの人に共有されれば、これまで生き長らえてきた人間の「歌う心」を、次の時代に伝えていけると思います。





























1999.12.29

私の意見20[名古屋市・T.Yさん(60代・男性)]

 平仄に就いて皆さんの様々な意見、興味深く拝読。私も一言述べてみたくなりました。
 若い時から唐詩と宋詞が好きで愛読してきましたが、今年の八月迄、漢詩を作った事はありませんでした。
 しかし、身元保証人をしている中国留学生の父親が八月に亡くなり、ふと悼亡詩を贈る気になって、64歳になって初めて七絶五首を作ってみました(その後は作っていないので私の作品はその五首だけです)。その留学生はあまり詩を読まないので、韻を合わせただけで、平仄は出鱈目でした。
 しかし、彼女は大変喜んで、国の母親にも見せるというので、何気なくお母さんは何をしている人かと訊くと、高校の国語の教師と云う答えでした。それで驚いて「平仄が出鱈目だから直す」と、五首全部、平仄を合わせ直しました。(その時、インターネットで漢詩をサーフィンし、当HPも知り、平仄の合わせ方や、絶句の規則を勉強させて頂きました)

 前置きが長くなりましたが、その経験から私は、「日本人の漢詩に平仄は要らない」と、思います。但し、中国人、特に填詞や詩作をする人に見せるなら、矢張り平仄は必要と思います。
 以下、私の考えを述べます。

 平仄のきまりがあって、それから詩が産まれたのでしょうか?そんな筈はありません。詩経や古詩には平仄が無いことから、それは明らかです。
 そもそも詩は、少なくとも中国の詩は、民間の歌謡や大雅の様な宮廷歌から出発、発展した。それが六朝時代になると、音韻学の進歩によって、中国語の発音を子音と母音に分解したり、アクセントの種類を整理したりする研究が進んだ。此を詩に応用して、どの様に漢字を配列すれば調子が良く、どうすると悪くなるかを法則化する試みが始まった。斉の沈約の”四声八病の説”等はその代表的なものである。こうして、斉、梁以後、詩を作る時の音韻上の規則(声律)が精密化して響きのいい詩が作られるようになっていった。
 それが初唐の頃までに次第に整理され、一定の規則に固まるようになった。その規則を基にして産まれたのが律詩であり絶句である。即ち、響きのいい詩を分析して、そこから平仄の規則が演繹されたのであり、もともと平仄は口調の良い詩を作る為の方法論であって、詩を規定する枷ではなかったのだ。
 だから、平仄の価値が認められてまだ間のない頃では、李白の「山中答俗人」や「山中与幽人對酌」等の絶句に見られる様に規格から全く外れているものも多いのである。

 音楽について考えてみよう。ドビッシー以前、西洋では三和音の法則は作曲の基本であり、それを外れては楽曲は成り立たないと考えられていた。
 しかし西洋音楽でも、最初から三和音の法則があって、それから音楽が始まったのではない。それは古いグレゴリオ聖歌などが三和音の法則に全く則っていない事からも明らかである。しかし西洋音楽の七音階にとって三和音の理論は非常に優れたもので あった為、次第に定着していったものと考えられる。
 そうして学校が出来て音楽教育が盛んになり、学問として音楽を教える様になると、どうしても理論が必要になるので、三和音の理論はますます金科玉条となっていったのである。
 漢詩も声律がまだよく分かっていなかった頃の古い詩では平仄のきまりはなく、近体詩になって平仄が問題になってきたのは、隋以後の科挙の制度と関係があると思う。科挙で最も重要な”進士の科”では試験科目の一つに”詩賦”があり、詩においては題目と詩形と韻が提示され、一定の枠の中で詩を作らせ優劣を競わせたのである。それ故、平仄が非常に重要なものになっていったのであろう。
 我々が漢詩を読む時、読み下し文の発音は中国音とは全く違う。しかし十分に漢詩の良さを味わう事ができる。その理由の一つは漢字の美しさである。我々は嬋娟とか窈窕といった語を聞いた時、音だけでなくその文字を直ぐ連想し、そこに視覚的な美しさをも感じる。(それ故、略字で書かれていては興醒めする事が多いし、活字より毛筆で上手に書かれた方が更に宜しい。三絶等が持て囃されるのもその為であろう)我々の先祖が唐詩を愛読した時、音ではなく漢字の美しさと、雅な詩語が大きかったのでは無いだろうか。
 我々が漢詩を読んで覚える感動は、読下し文の調子と内容だけでは無く、漢字の持つ視覚的な美しさにもある以上、我々はそれを守って作ればいいので、平仄は我々にとって、さほど意味がないと云うのが私の考えである。ただ韻の方は現在でも押すべきだと思う。日本人でも音読みで大体韻は解る。(尤も、涯が支韻と通ずるのは少し不可解、麻韻に通ずるのは肯けるが)押韻まで無視すれば、それは出鱈目か前衛になる。
 我が国の政治家が中国訪問の際、漢詩を詠んで、吉川幸次郎氏だったかに、詩の規格に合っていないと貶されている。その政治家は詩人ではないので、その批評は酷との意見が当時あった。しかし私は酷ではないと思う。ドビッシーの音楽が認められたのは、その内容が優れていたからである。詩も内容が第一で、内容さえ優れておれば規格など二の次だ。しかし規格に外れ内容も無ければ、もはやそれは詩でも何でもない、只の出鱈目だからである。 逆に、形式さえ整っておれば中身はなくとも一応、詩にはなる。矢張り最小限、押韻は必要であろう。
 ピカソが”アヴィニヨンの娘達”を発表した時、囂々たる非難を浴びた。しかし今では20世紀絵画の最大傑作として美術館に恭しく奉置されている。
 対照的に、或る美術館の催しで若い前衛芸術家が自作を披露しようと、空缶やペットボトル、果ては馬糞まで持ち込んで、ごちゃごちゃ並べオブジェを作ったが、美術館はそれを撤去した。開催日に来たその芸術家は自作が無いのに驚いて問い糺した。美術館はゴミだから撤去した、と回答。芸術家氏はゴミではない芸術だと、反発。いやゴミだ、いや芸術だ、と押問答になった。嘘ではないホントの話である。
 この芸術家も普通の作品を作れば、例え中身は無くとも撤去まではされなかったであろう。内容がなく、型破りでもあれば出鱈目になる。ピカソが認められたのは中身があったからで、それがあればこそ追随者がでて、新しい様式となった。(芸術の評価は難しい。此の芸術家の作品の内容が只、我々に理解できないだけかも知れない)

再び音楽の話に戻るが、作曲は音符の順列組合せであるから、三和音の法則も時代が降ると共に次第に行き詰まって来る。そこへドビッシーが現れ、三和音の法則に依らず、自分の耳を信じて音楽が作れる事を示した。その先、音楽は前衛の時代へ突入する。ドビッシー自身は前衛ではなかったが、三和音を無視しても曲が作れる事を証明したので、彼の追随者達は三和音など無視出来る、という訳で前衛が生まる。ヴァレーズはサイレン等の雑音を多く取り入れ、音楽家と呼ばれるのを嫌って騒音調整家と呼ばれたがったという。
 現在、忠実に三和音の法則に則って作曲するのは、音大の作曲科での試験に於いて位ではないだろうか。現代では、三和音の法則を遵守して優れた曲を作る事が最早不可能になってきていると思う。勿論、デッサンと同じで三和音の訓練自体は音楽の基礎訓練として教育上の意義が大きい事は認めるが。

 漢詩も平仄の規則に縛られていては碌な詩は出来ない−−−誤解の無い様にお断りしますが、平仄に、こだわらず詩を作って、それがちゃんと平仄に合っているのは、それで宜しいが、平仄を合わせる為に詩を作っていては本末転倒という意味である。それに、優れた芸術作品を作りたい人は、近体詩の形式では、もう作れないと思う。そういう人は近体詩にこだわらず、現代の漢詩を作るべきである。古い皮嚢では新しい美酒を醸せないから。
 バッハ時代のスタイルで作曲しても最早、名曲は作れないのと同様に、ダ・ヴィンチの様式で画いても最早、傑作は産まれまい。彼等のスタイルはその時代では先端を行くもので、彼等の時代精神に沿ったエネルギーに充ち満ちたものであった。だから優れた作品足り得たのだ。
 しかし今はその時代ではない。桑原武夫氏は、俳句を評して第二芸術と云ったが、芭蕉や蕪村の時代には俳句は立派な芸術であった。しかし、現代では第二芸術と言われても仕方のない程、エネルギーを失っている。詞も宋代においては、立派な芸術ジャンルであったが、現在では当時の活力はない。現代の芸術を創造するには現代の様式で創造しなければ活力は得られない。近体詩は唐代では確かに優れた様式で力に溢れたものであってが、今ではその活力は大幅に減退している。
 従って、今の近体詩は填詞と同様、趣味であって、芸術作品を作る為のものではない。「だから、平仄にこだわるのだ」と、いう考え方もあって当然だが、そういう方は平仄を合わせて作ればよいので、他人にまで、押しつける筋のものではないと思う。
 しかし、中国人に見せる場合、平仄を整える事は発音からみて、意義のある事と思う。詩は矢張り根元的に、歌謡と近縁のものだから。
 音の解らない我々が平仄を無視して詩を作っても、中国人には聞き苦しいものになる可能性が大きい。時代が遷って中国でも発音と調子は変化し、今では入声は消滅してしまったそうだが、それでも平仄が正しければ聞き苦しさはかなり軽減するであろう。
 日本人が音読で或る程度、韻が分かるように、現代中国語でもその響きはより唐音に近いものだろうから。
 しかし音の解らない我々日本人が日本人同士の間で作るのなら、平仄にこだわる必要は無く、視覚的に美しい文字と雅な詩語を使って近体詩を作ればそれでよい。所詮、趣味であって芸術とは関係がないのだから。


2000.1.3

私の意見21[名古屋市・T.Yさん(60代・男性)の第2弾]

 掲載のお礼のお手紙を頂きましたが、内容としても前回の意見の補足になるということで、転載を了解いただきましたので、そのまま掲載させていただきます。(鈴木)

 鈴木淳次先生
 早速、御掲載いただき、有り難う御座いました。

 ドビッシーの音楽は、三和音の理論では律せられなくても、和声学の理論を超越した調性のとれたものであった様に、李白の作品も平仄を無視していても、発音してみると(判りませんが)、よく響くものだったのだろうと思います。李白も多分、ドビッシーのように、自分の耳を信じて書いたと思います。発音して響きの悪い詩では、当時の人の感覚からみて(杜甫と違い、李白は生前から大詩人の名を恣にしていた)あれ程まで彼は時代に受け入れられたでしょうか。
 多分、当時はまだ、平仄は単に快く響く詩を作る為の手段に過ぎないと判っていたのではないでしょうか。(中国は広いので、同じ字でも方言によって発音が違い、押韻も違ってしまう。それでは科挙の試験が不公平になるので、唐代になって官韻が制定されたのですから)それが、時代が降るにつれ、平仄が金科玉条となり、詩を作る手段であったのが、同時に束縛の枷ともなったものと思われます。
 こうした平仄の歴史を見る時、中国音で読まない日本人が作る漢詩では、日中両国間で試験をするのでなければ、初めから平仄の意味は失われています。
 唐代とは発音の違って来ている現代の中国ではどうなのでしょうか? 例え平仄は残すとしても、新しく現代の音韻によって改訂していかなければ、中国に於いても近体詩は益々生命力を失っていくのでは無いでしょうか?
 韻は中国で何度も改訂されています。(唐代では隋の陸法言が編纂した切韻を修正したものが使われていたが、時代と共に発音が変化したので北宋時代にそれを改訂した広韻が作られた。しかし、広韻は切韻に近く、まだ数も206もあった。そこで元代になって更に、平水韻に整理され106に再分類された。)
 韻の改訂は必ずしも平仄とは関係しませんが、作詩の点からから見ると、押韻ですらこうして時代に合わせて変わって来ているのです。こうした流れを考える時、読み下し文でしか読まない日本での平仄問題も考えるべき時期に来ていると思います。
 その意味で先生のこの平仄討論会は大変時宜を得たものと感服いたしております。

 私の詩の方ですが、まだ駆け出しで、借句が多く、作詩ならぬ借詩でお恥ずかしい限りです。初心者向けの添削教室というか、投稿した詩に、皆さんが(匿名・記名何れでも宜しいが)、自由に批評や添削をして頂けるようなページが有ればと思います。解説と読み下し文でのみでなく、そこに借りた出典や、情況の説明も載せられて、それへ読者の方からの添削批評が仰げれば嬉しいのですが。
 難しいでしょうが御一考願えれば幸いです。
 本ページの益々のご発展をお祈りします



 ご提案の「読者からの批評・添削」につきましては、このホームページを主宰する立場の私としては、次のように考えています。

 読者の方からの批評・添削につきましては大歓迎ですが、但し「掲示板的なフリーな掲載」は現在は考えていません。
 老婆心と言われるかもしれませんが、批評を受けることで励ましになる方もいれば、批判と感じて遠ざかる人もいます。特に始めたばかりの人にとっては、直截な批評に場合によってはショックを受ける人も居ると思います。
 現在は、他の方の詩についての感想・批評は、主宰である私にまず送っていただいて、私を経過して作者の所へ届くようにしています。そして、作者の了解を得てから(事後承諾もありますが)、ホームページへの掲載をします。
 簡単に言えば私というフィルターが一度入るわけですから、直接読者同士が交流できない、というマイナスは当然あります。
 しかし、このホームページは、年齢も地域も異なり、お互いに顔も名前も知らない者同士が、「漢詩が好きだ」というただ一点で集まっているせっかくの場です。読者の方が一人でも残念な気持ちに、万が一にもならないようにしたいという気持ちで今はいます。
 投稿詩の掲載に際しては私が感想を添えていますが、私としては「先陣を切って」というつもりで書いていますので、どうか皆さんもどんどん、感想を送って下さい。





























2000.1.7

私の意見22[東京都・鮟鱇さん(50代・男性)の第5弾]

 T.Yさま
 鮟鱇です。
 貴投稿を拝見いたしました。いささか異論があります。お許しください。

 私は、平仄にあっているかどうかについて、他人の絶句・律詩を読ませていただく場合と、自分で詩を作る場合では、態度が異なります。
 読ませていただく詩が面白ければ平仄はまったく気になりませんが、そうでない場合は、この人は「さぼったな」と思います。
 作る場合はどうかといいますと、平仄を合わせきれない詩もかつてはありましたが、今はそれほど不自由しておりません。つまり、平仄を外す必要がなければ、平仄に従います。
 その必要とは、どうしてもここはこの語でなければならないという内的な必然性にほかなりませんが、そういう語にはなかなかめぐりあいません。
 そういう語を見つけ出す天才は、わたしにはないのだと思います。

 また、平仄を合わせないのであれば、「古詩」を書けばよいのですが、詩を書きたいという衝動が自然に言葉となってあらわれるほどの内面の蓄積がありませんから、古詩は書けません。
 わたしの考えでは、現代人が詩を作る場合に、古詩が書ける人よりも絶句や律詩を書く人がなぜ多いかといえば、平仄のルールが確立しているからだと思います。

 貴台は詩が先か平仄が先かという趣旨のことをおっしゃっていますが、詩が先であるのは当然です。しかし、篆書が先か楷書が先かでいえば、楷書が後です。そして現在では、ほとんどの人が、楷書体で書きます。もちろん、現在でも篆書は書かれますが、それは書道やハンコなど、特別な場合に限られます。
 いったん前に進んでしまった以上、原点に立ちかえるには、それなりの理由が必要です。絶句・律詩の平仄についても、平仄を外す理由が作者にはっきりわかっていなければならないと思います。いちばんわかりやすいのは、ここはどうしてもこの言葉でなければならないということです。

 しかし、平仄の規則がなくなれば、そういう言葉が見つかるのでしょうか。あるいは、いい言葉がみつかったが、平仄にあわないのであきらめるということが、どれだけあるのでしょうか。平仄があってもなくても、むずかしいのはそういう言葉を見つけることです。そういう言葉が見つかれば、だれも平仄にあっていないなどと馬鹿なことはいいません。

 むしろ、気になりますのは、貴台の「芸術」と「趣味」の二元論です。わたしは、詩にはいろいろな形があると思いますが、「芸術」と「趣味」の区別はないと考えます。
 しかし、貴台は、詩がめざすべきはひとつで、その到達の程度によって、作品には「芸術」品と「趣味」の作があるとお考えのようです。
 詩がめざすべきもの、それは内容であって、平仄ではない。平仄に従わなければならない絶句や律詩ばかりを作っているわたしたちは、その原点を忘れているのではないか、そのように指正されたように思います。そして、そういうわたしたちの作品は、「趣味」ではありえても、「芸術」にはなりえないと。

 詩の言葉は特別である、普段わたしたちは言葉に使われているが、詩はその言葉を使う、そういう趣旨の言葉があったと思います。
 言葉に使われるとはどういうことか。ものをあるがままに見ないで、言葉を通して見るということです。人間は言葉の習得の課程で、観念を育てていきます。次にその観念を通してものを見、考えます。そして、その観念がやがて固定していきます。固定してしまうと、もう新しいものの見方ができなくなります。言葉の主人であるべきわたしたちが、固定観念の支配下に置かれる、言葉に使われるとは、つまり、そのような固定観念でものを見ることです。貴台は、詩のあるがままを見ないで、「芸術」と「趣味」という固定観念で、絶句・律詩をご覧になってはいませんでしょうか。
 「芸術」というのは、何なのでしょう。多くの人がすばらしいとか、美しいとかいうことであり、詩についていえば、本が出版され、広く読まれるということでしょうか。一方、「趣味」ということでは、優れた鑑賞者である他人にお見せするのが恥ずかしく、個人的な慰めとして、タンスのなかにでもしまっておくのが適当である、ということでしょうか。
 確かに、この点では、現在の絶句・律詩の状況は、たとえば日本語で書かれた小説や宇多田ヒカルなどと較べ、「芸術」としてなりたっていません。
 しかし、これは、今に始まったことではありません。あの李白にしても、死んで1200年を超えた今でこそ出版でメシを食っていますが(つまり広く読まれていますが)、生前詩で食えたのは唐の朝廷につかえた数年であり、ピカソやドビッシーのように、大衆的な支持を受けていたわけではありません。
 さらには、李白をいまも食える詩人にしているのは、李白自身ではなく、李白の詩を研究してきた人たちのおかげです。つまり、「芸術」にするかしないかを決めるのは、決して書く側、贈る側の問題ではなく、受け取る側、読む側の問題です。
 書く側には、それが「芸術」であるか「趣味」であるかという問題は存在しえません。あるのはただ、書けたかどうかというだけ。
 それに、漢詩はどう転んでも、現代の国語教育のもとでは、日本人には読むのが難しいと思います。平仄に従って詩を作っても従わなくても、結果は同じです。わたしたちが書いた詩をタンスのなかにしまっておかなければならないとすれば、それは、他人にお見せするのが憚られるからではなく、漢詩を鑑賞できる人がまわりにいないからです。

 わたしは「芸術」という言葉がきらいです。一見、近代西洋の盛華がこめらえているようですが、近代の日本の欧化思想が発明した熟語で、日本人を催眠術にかけ、ものを作らない人間が、ものを作る人間を品定めするのに便利な言葉だからです。
 西洋には日本人が考えるような「芸術家」はいません。いるのは「詩人(ポート)」であり、「音楽家(ミュージシャン)」であり、「画家(ペインター)」云々ではないでしょうか。しいて、「芸術家(アーティスト)」といえば、「美術家(アーティスト」でしょう。あなたはアーティストだといわれて喜ぶのは日本語のわかる詩人くらいで、西欧の詩人であれば、いいえ、わたしはポートだと答えるでしょう。
 芸術(アート)は人生よりも長しという英語のことわざも、もともとは「技芸の習得」の意味。この意味では、平仄の習得には時間がかかりますから、平仄にこだわるわたしなどは、古来の意味でのアートにこだわっていることになります。

 また、「趣味」という言葉は、漢語としてみればとてもよい言葉に思えます。おもむきであり、あじわいですから、詩の技巧ではなく内容を論じるには、むしろ「芸術」よりも適しています。ただ、わが国近代の欧化思想のなかで、「芸術」とならべられた結果、ひどく貶められた使い方がされるようになりました。

 なぜ漢詩を書くのですかと問われて、「いえ、ほんの趣味でして」と答えたら、わたしには詩のおもむき、あじわいがわかりますと答えるのと同じことになると思います。
 あえていえば、わたしには「趣味」がよくわかりませんので、「芸術」でお恥ずかしいのですが、「平仄」には腐心しますと答えたいと、わたしは思います。




2000.1.11

T.Yさま
 追伸:
 ひとつ大事なことをいい忘れましたので、重ねて失礼します。
 「漢詩も平仄の規則に縛られていては碌な詩は出来ない」というご発言についてです。

 現代の日本人が作った平仄完備の律詩で、わたしがとても驚いた作品があります。
それは、昨年の暮れ、鈴木先生の「漢詩を作ろう」ホームページに投稿された謝斧さんの次の詩です。

    次韻李白詩『登金陵鳳凰台』題大龍寺   謝斧

  大龍寺裏大龍遊   大龍寺裏 大龍遊び
  龍去帰帆泛海流   龍去って 帰帆 海流に泛ぶ
  修法大師尋故地   法を修めし大師故地を尋ね
  参禅僧侶臥深丘   参禅の僧侶 深丘に臥せる
  天高目断翠煙外   天高く目断す翠煙の外
  波静雲崩淡路洲   波静かに 雲崩れる 淡路洲
  白首已知霜樹老   白首已に知る 霜樹の老るを
  暮江朗景使人愁   暮江の朗景 人をして愁えしむ

 李白の詩は、崔コウ(景頁)の傑作「黄鶴楼」の向こうをはって書かれたといいますが、謝斧さんの詩は、その李白の傑作に和そうというもので、構想雄大です。1000年の長い歳月、時空を超えて、詩を応酬することが可能だということに、謝斧さんは挑戦しています。
 応酬の相手が李白である場合、相手の李白はもうこの世にはいませんから、李白ではないわれわれがその証人となるしかありません。こういう場合、李白の原作とくらべてどうかということがとかく問われます。したがって、和そうと思うこと自体が無謀でもあるわけですが、謝斧さんの詩の完成度は、李白と比べて遜色がない、というのではまだ言葉が足りません。
 李白の詩は、たしかにすばらしいのですが、最初に出てくる鳳凰が最後まで架空の「鳳凰」に留まっています。一方、謝斧さんの「龍」は、「大師」と重なり、最後に愁いているのは大師であり、龍でもあります。
 したがって、小生は、李白の詩よりも謝斧さんの詩の方が含蓄に富んでいて、その分、優れていると思います。「鳳凰台」に対する和詩として、これから先、1000年は、追従を許さないでしょう。このような詩を、「芸術・趣味」論のなかで、単なる「趣味」にとどめることはできません。

 桑原武夫氏の「第二芸術論」は、ものを作る立場からは建設的ではありません。違うジャンルの文芸を比較して、その時代性、優劣を比較することは、むやみにあるジャンルをもう「古い」といって、色メガネを流布するだけです。
 俳句についていえば、桑原氏の論によって、どれだけ有益な成果を得たでしょうか。また、桑原氏の論によって、俳句に変わる新しい日本の「詩」が、どれだけ生まれ、日本に定着したのでしょうか。
 わたしは唐詩を作り、宋詞もやっています。平仄についていえば、宋詞のほうが詩よりも孤平、孤仄についての要求条件が厳しいように思い、平仄を合わせるのにとても苦労しています。
 しかし、そういう苦労のなかで、はじめて想像力が動くのであり、ときに天から平仄が降ってくるようなことが起こるのです。
 実践的ないいかたをすれば、ピアノを弾かない人間に、ピアノの曲が作曲できるとは思えません。平仄は、絶句・律詩、宋詞を作る人間にとっては、ピアニストにとっての鍵盤と同じです。毎日弾かなければ、やがて弾けなくなりますし、新しい音を出すこともできないと思います。




























2000.1.16

私の意見23[兵庫県・謝斧さん(50代・男性)]

 五言絶句の平仄の件で皆様方にお尋ねしたいことがあります。
 去年の12月に、古詩の一韻到底格で入谷仙介先生に教えを乞うたことがあります。
 その時に、五言絶句の平仄に関して貴重な事を聞きました。
これは、どうしても、これから詩を作る人にお知せせねばならないと、投稿いたしました。
 これは、神田喜一郎博士が入谷仙介先生にお話しされたことだと先生自身がいわれました。
 五言絶句は過去の唐人の作品から帰納して。平仄にはとらわれることはない。古体と今体の区別はないとのことです。
 以下は私の勝手な意見です。我慢して聞いて下さい。
 なるほど七言は歌行ですから、リズムやハーモニは大切であるから平仄は必要だと理解しています。陽関詞等はある場所では、四声の制限もあり、独特な平仄になっています。
 然し五言絶句は、25文字の中で読者に自分の心情を吐露しなければなりません。言外に意があるように作る必要があります。時には、故事成語を駆使して、古風なおもむきをだし、格調の高さも求められます。視覚からくる、措辞の美しさなど、かなり難しい詩の形態です。
 私等は、今だ曾て納得したものは作っていませんし、作品数も少ないです。恐らくは七律よりも難しい部分があると思います。特に五言絶句は古風を求められる作品と理解しました。
 このことを、他の漢詩作家に考えを問うた時、けんもほろろに、賛成出来ませんとのことでした。我々のような習作詩を作っている立場では、古人が云われる様に平仄を守って作るのはやぶさかではありません。また守るべきだとおもいますが。
 皆様のお考えはどんなものでしょうか 































2000. 1.20

私の意見24[名古屋市・T.Yさん(60代・男性)鮟鱇さんへ]

 鮟鱇先生へ
 ご批判有り難う御座いました。先生のご批判を拝読して、また色々考えさせられました。それを、伸べさせてください。

 字は道具であり実用品です。実用品はより便利なものに取って代わられるのは当然で、楷書は篆書に比べれば、特に、紙と筆ではずっと書き易いのです。篆書は金石や竹などに彫って書く時代に発達しました。
 しかし紙と筆の時代になって、より書き易い楷書に取って代わられたのだと思います。そうして、紙と筆の時代から、活字とペンの時代になって、楷書の字も、より簡便な略字が大幅に使われています。勿論、教育普及の為という政府指導による影響が大きいのですが、活字やペンでは、筆より小さな字を書く為、字画があまり多くては書きにくい事もあります。字が実用品である以上、篆書へ戻れないのは、便利なものから不便なものへ戻る理由がないからで、当然の事です。
 しかし、詩は実用品ではないでしょう。「詩を作るより田を作れ」という言葉が如実に示している様に。それ故、詩と字は同一には論じられません。
 正に実用品でないが故に、平仄が現状に合わないからといって、何も改める理由にならない言う事は理解できます。

 これを私の場合で説明します。今、中国での漢字の簡体化は凄まじく、「豊麗」を例に採ると「豊」は三を縦棒で貫くもの、「麗」は鹿を除いた冠だけです。中国ではこうした簡字で教科書に唐詩が載っています。「豊麗」という字に馴染んできた私には、この字ではお臍の辺りを逆撫でされたような違和感を覚えます。しかし子供の時から、こうした字に馴れてきた中国の若い方には特に違和感はないようです(私の留学生氏も繁字は日本に来て初めて知ったと言っていますし、中学の教科書を見ても、唐詩が簡字で書いてありますから)。
 私の場合、手紙など実用的なものは略字でも何とも思いませんが(実際、「実」という字に略字を使っています)、パンフレット等に略字で唐詩が印刷してあると、簡字ほどではありませんがゲンナリします。
 これは人間が理性と感情から成り立っている為です。理性は理論や理屈に従いますが、感情はそれ自体独立しており、理性の支配を受けません。科学は理性の領域であり、万人が等しく理解し、納得できるものでありますが、芸術は感情の領域に属し、科学と違い、個性的であり、万人が同じ様に了解できるとは限りません。
 文字は記号であり、略字で書かれていても本字が使われていても、意味内容が全く変わらない事は、私の理性がよく承知しています。しかし私の感情は、簡字で書かれた唐詩をどうしても納得出来ません。
 私の美意識は、理性の理解できないそれ自体の理由を持っているからです。それは、此迄の教育、習慣によって培われたもので、ずっと、簡字で教育され、唐詩もそうした字で読んでいる若い方には不可解でしょう。

 同様にずっと、漢詩に平仄は不可欠、としてやって来られた方々にとっては、私が本字に拘る以上に、平仄に拘られるのだろうと思います。中国の若い方が簡字で書かれた唐詩に特別な違和感を持たれないように、漢詩を作った事のない小生の美意識には、平仄に対する感覚、感受性が欠けているのです。今、頭の中でそうした美意識、拘り、を理屈として理解することは出来ますが、感覚的には未だ理解できていません。
 以下、無知な素人の無責任な発言とお許し下さい。

 小生は詩は読んで来ましたが、作った事は最近迄ありませんでした。悼亡詩を作った時、それ迄に読んだ詩から色々な詩句を適当に借りてきて、少し字を変え、韻を合わせ、いわば借詩したので、平仄は出鱈目でした。平仄を直す羽目になって、漢和辞典を引き引き、あちら直せばこちら直らずで、大変苦労して、効率も悪かったのです。
 その時、偶々、ネットサーフィンをし、漢詩作法入門講座や当HPを知り、詩語集という便利なものがある事を知りました。お陰で何とか平仄を合わせる事が出来たのです。そうして、こんな便利なものを最初から知っていたらと思いました。(そんなものも知らなかったのかと嗤われそうですが、詩語集を見ると、確かに漢詩を作るのはパズルに似ている気もします)
 しかし、詩語集を見ても固有名詞を下三連に使った時の平仄には苦労しました。6字目が平の為、「唯有・・・・・」と出来ず、仕方なく、「唯存・・・・・」とせざるを得ませんでした。読み下せばほぼ同じかも知れませんが、平仄を考える事無く、漢詩を本でだけ読んで来た私には、「唯存・・・・・」は非常に違和感があったからです。(平仄など知らない、私の留学生氏も「有」の方が「存」より良いと言いました)

 芸術という言葉は実は私も嫌いです。小生の表現力不足の為、仕方なく芸術という曖昧で抽象的な言葉を使いましたが、趣味との区別は困難です。ただ、芸術には”力”が有る。趣味にはそうした力が弱い。というと両者は程度の問題かと成りそうですが−−また少し違います。ま、私の言いたい所を分かってください。残念ながら、現在では絶句や律詩に唐代のような力がないという事を言いたかったのです。
 そういう訳で、二元論ではないつもりです。

 小生が平仄を守っていては碌な詩は書けないと申しましたのは、一般論で、例外はいくらでもあります。バルトークは「今でも、ハ調で音楽が書ける」と言ったそうですが、そう言ったという事は、一般的にはハ調で書けない時代である事を彼も認めていたからでしょう。実際、彼は、ハ調で書いていません。謝斧先生の詩は勿論立派な例外です。その点は誤解しないで下さい。

 平仄は詩を作る為の方法論的なものです。方法ですから、平仄を使いこなすのは訓練がものをいうでしょう。韻字分類を覚えて、日夜錬磨すればするほどよく使えるようになるのは間違いない事と思います。
 しかし平仄がピアノの鍵盤と同じと言うのは、中国人ならいざ知らず日本人の場合、どうでしょうか? 平仄は恣意的に作られたものではなく、詩をよく響かせる為の方法論として作られたものですから。
 昔作られた方法論の平仄が、現在も方法として機能するには、読みが当時の音、乃至はそれに近い音を保持していなければ、その機能は失われて、単なる規則になると思います。
 それ故、小生も中国人に見せるには平仄を合わせた方がいいだろうと申しました。中国音で読むなら出鱈目より、平仄を合わせた方がよく響く事は否定できません。
 しかし我国で読み下し文で読むのに、果たして平仄に意味があるのか、というのが感情抜きの私の考えです。ピアノを弾く時、調律が出来ていなければ、練習効果はどうなるでしょう?
 揚げ足を取る様で恐縮ですが、平仄がピアノの鍵盤であるとするなら、叩いた時の音が出鱈目に鳴っては、最早、鍵盤の機能を失うのではないでしょうか?(読み下し文での音は平仄の音とは全く関係がないので、折角、合わせても読み下せば響きとしては全く別ですから)。
 それとも先生の意味は平仄を含めた詩語を指すのでしょうか?それなら分かりますが。































2000. 2.18

私の意見25[東京都・鮟鱇さん(50代・男性)謝斧さんへ]

 謝斧 様

 鮟鱇です。五言絶句の平仄について、とても説得力のある貴稿拝見してから、かれこれ1カ月です。
 神田喜一郎博士の「五言絶句は過去の唐人の作品から帰納して、平仄にはとらわれることはない。古体と今体の区別はない」のお話、大変興味深いし、七言と五言の違いについての貴台のお考え、わたしなりに考えさせられています。
 以来、わたしなりに五絶の平仄を気をつけてみているのですが、手元にある詩書をながめてみましても、「唐詩選」は別とすれば、五言絶句はあまり見ることができません。そこで、神田博士の帰納するところは、わたしには確認できません。これは、わたしの無知によるものです。

 ただ、五言詩の平仄について、奇異に思ったことがあります。わたしが気がついたのは、律詩を読んでいたときのことで絶句ではないのですが、●○●○●という句に出あったことがあります。
 これは、平仄を遵守している句であるかどうかでいえば、下三字が「挟み平」になっているということで、平仄にあっているということになります。
 しかし、平仄は原理として、平声ばかりが○○○○○○○と続いたり、あるいはまた仄声ばかりが●●●●●●●と連なることを避け、一方で○●○●○●○と平声と仄声が落ち着かず入り乱れることを避けようというものに思われます。そして、そのほどよいところが、平声と仄声が2字ずつ交互に連なるということであり、○○●●○○●●○○●●という連鎖を、適当なところからはじめて適当な長さで句切ったものがよいということになります。この原理によって、二四不同、二六同、下三連、四字目の孤平を避けるとかのルールを容易に理解することができます。
 しかし、その原理を思いますと、●○●○●という句は、とても奇妙です。五言は二字・三字にわけて読むことを考えれば、●○・○○●となるほうがむしろ流麗にさえ思われます。しかしこの句は、二四不同のルールに合致しませんし、挟み平でもありません。
 挟み平は、七言においては下三連が●●●となることを避けるはたらきがあるものであり、また、四字目の孤平を避けるというルールによって七言では下5文字が●○●○●という不自然な平仄になることはないのですが、五言では、理屈のうえでは許されることになります。
 また、五言では、●●●○●とか、○○○●◎とか、平声・仄声のバランスが悪い句も、平仄にあっているということになります。

 五言詩といえば、古詩・律詩が多い印象があります。
 しかし、七言についての貴台のお考えも踏まえつつ、わたしなりに七言と五言の違いについて考えますと、二・三に分けて読む五言には、二・二・三、あるいは四・三に読む七言にくらべ、平仄の抑揚について、あまりやかましいことはいわなくてもよいようにも思われます。
 そこで、唐代の人人が五言絶句の平仄をどれだけやかましくあつかったかということにも、疑問を感じ始めた次第です。





























2000.2.24

私の意見26[兵庫県・謝斧さん(50代・男性)]

 私は漢詩の平仄に関しては門外漢です。専門の方がこれを読むと、たわ言にしか思え ないかも分かりませんが、その点に就きましては、お含み下さい。

 鮟鱇先生の言われるように、恐らくは、唐代の人も五言絶句の平仄に関してはあまりやかましくは言わなかったこととおもいます。
 私は万首唐人絶句を読んで、五言絶句に破格の詩が多かったのに驚いています。
たとえば、銭起の「望山登春台 目尽趣難極 晩景下平阡 花際霞峰色」がありますが、然し、唐代の人が、この詩を見て、誰が、この詩を古詩か、或いは、今体詩が失声したものの詩かを判断する必要があるでしょうか。
 作者である銭起自身も、古詩 今体詩を意識して作ったということはないと思います。ただ詩を作った後に朗詠して、なんとなく、調子がよくないと感じた、それだけのことではないでしょうか。
 あるいは、別に意図があったかもわかりませんが、当然今体詩の様な平仄の規律は、感覚で理解しているものと思います。
 若し、後世の人が無理やりに判断をする必要があったとしたら、古詩としか判断は出来ないのではないでしょうか。そうすれば、失声した、破格の詩は、全て古詩となります。

 ここらへんが、七言絶句とは違うところです( 七言古詩は平仄の規律があります)。
 更に鮟鱇先生の言われるように、「七言と 五言の違いについて考えますと、二・三に分けて読む五言には、二・二・三、 あるいは四・三に読む七言にくらべ、平仄の抑揚について、あまりやかましいことはいわなくてもよいようにも思われます。」は、私も同じ考えを持っています 。
 然し、それは、あくまでも短詩形の、つまり絶句に限るのではないかと考えています。
 五言でも長編の場合は、今体の格律とは別に、空海の文鏡祕府論で説明されているような、蜂腰・上尾・鶴膝等、平仄にうるさくいっていることもあるみたいです。





























2000. 9.30

私の意見27[東京都・鮟鱇さん(50代・男性)]

 鮟鱇です。
 9月16日に北京で「迎新世紀中日短詩交流会」なる日中詩人の交流会が開催されました。交流会は、中国で20年の歴史のある「漢俳・漢歌」と、この平仄討論会にも寄稿のある葛飾吟社の中山先生(日本側参加者団長)が提案した「曄歌・坤歌・瀛歌・偲歌」をめぐるもので、漢語による詩の日中/中日の一衣帯水の交流を深めていくことを目的とするものです。漢俳をめぐる議論から、現代中国の詩人が、詩における平仄をどう考えているのか、うかがい知るところがありましたので、ご参考までに寄稿いたします。

 まず、「漢俳」とはなにかですが、日本の俳句5・7・5に想を得て、日本の俳人を歓迎することを目的に漢字5・7・5の短詩が作られたことが始まりです。その点では、日本の俳句が発端ではありますが、言葉の情報量、韻律のうえでは俳句を超えるところがあり、中山先生ご提案の「曄歌(漢字3・4・3:詳細は こちらを 」の方が、俳句との情報量、韻律の整合を保っていることは明らかです。
 また「漢歌」は漢字5・7・5・7・7で、日本の和歌に相当しますが、和歌についても、言葉の情報量・韻律の整合性では中山先生ご提案の「瀛歌(3・4・3・4・4)の方がまさります。
 しかし、「漢俳」には「漢俳」なりの注目すべき点があるようにわたしには思えました。もとより「漢俳」と「曄歌」は、詩形として両立しうるものであり、どちらかがどちらかより優れているというものではありません。詩形としてみれば、「漢俳」は五言絶句に近く、「曄歌」は日本の俳句に近いといえます。また、私見ですが、「曄歌」は、5字・7字のほかに、3字句、4字句、6字句を多用する詞のリズムに近い感じがします。いずれにしろ、漢俳/曄歌ともに、それぞれの詩形の長所を生かした創作が可能に思います。

 そのうえで「漢俳・漢歌」の興隆をめざす中国の詩人たちには、「漢俳・漢歌」を、唐詩、宋詞、元曲、散文詩につぐ新しい詩形にしようという強い意欲が感じられました。日本では、俳人は俳句ばかりを、歌人は短歌ばかりを、散文詩人は散文詩ばかりを、漢詩人は漢詩、それも絶句・律詩ばかりを、という具合で、専門分化がはなはだしいのですが、中国の文人にはその境目がありません。わたしたちがお会いした中日友好協会副会長の林林先生、中国新聞学院古典文学教授の林岫先生は、中国古典はもとより日本の和歌・俳句にも詳しい文人であり、中国作家協会主席団員で人民日報の高級編集委員、文芸部主任の袁鷹先生は、編集者・作家・詩人として文芸全般に通じ、中国散文詩学会創会副会長の紀鵬先生は散文詩の詩人、また、散文詩人で放送作家、山西省の詩文雑誌の編集長、書道家でもある董耀章先生、といった具合で、さまざまな文芸ジャンルの文人がまさに呉越同舟で漢俳を創作していることがよくわかりました。日本では俳句だけを作るという方はたくさんいますが、中国では漢俳だけを作るという詩人はひとりもいない、ということです。

 さて、その呉越同舟、同床各夢の詩人たちの同舟、同床はなにかということです。言葉の情報量は漢俳は17字ですから五絶20字にほぼ相当し、漢歌は31字ですから七絶28字にほぼ相当します。それなら、なぜ「五絶、七絶にしないでわざわざ日本の俳句・和歌にならった漢俳、漢歌を作るのか、五絶・七絶と漢俳、漢歌では、歌う内容が根本的に異なるのか?」 林岫先生は、わたしの質問にきわめて示唆に富んだ答えをしてくれました。
 「五絶を作ろうと思ったことがあります。そのなかの1句が気に入らず、削りました。そして2字をまんなかの句に加えて漢俳にしました」とのこと。
 また、林林先生からは、「漢俳の作り方に3とおりある。古文(文語:絶句・律詩に同じ)で作る。白話(口語)で作る。そして半古半白(文語・口語混淆)」。林林先生ご自身は半古半白だが、最近は白話への傾斜が顕著だそうです。

 交流会では、日中参加者の短詩集があらかじめ配られていました。日本側は、曄歌・瀛歌・偲歌(偲歌は日本の都都逸に対応。4・4・4・3字:小生は回文曄歌2首、偲歌、宋詞の少年遊を提出)、五律、七絶、漢歌、中国側は、漢俳が圧倒的に多かったのですが、漢歌や曄歌・瀛歌をお作りの先生もいました。上記二先生のお話に加え、漢俳の実作例を通じてわかったことを、書かせていただきます。

1.韻は踏む。通常は現代韻。押韻個所は全3句のうち2。3、つまり全句押韻も可。また、五絶4句20字は、押韻によって起承と転結で2句10字づつの2韻2文に区切りますが、漢俳の2韻は、実作をみますと、17字3句2韻の1首を2文に区切ってもよいし、区切らずに1文としてもよいようです。

2.2・4不同、2・6同の平仄の規約はない。したがって、第2句7字の平仄(現代韻では第1・2声が平、第3・4声が仄)では、2・4不同、4・6同というような句作りがある。このことはしかし、詩と同様2・4不同、2・6同とすることを妨げるものではない。

3.詩では5字句は2・3、7字句は4・3にわけるが、漢俳では5字句を3・2、7字句を3・4にわけてもよい(7字句3・4は、宋詞・元曲でも多用されている)

4.また、内容でいえば、季語がなく風刺・ユーモアをうたう作品もある。すなわち、日本の川柳に対応するものです。見方を変えれば、5・7・5の同じ詩形でも、日本では内容によって俳句とよび、あるいは川柳と呼びわけていますが、中国では、詩形が同じであればあえて内容によって詩形の名称を変えることはしないということか。

 平仄討論会は、21世紀を迎えようという今日、唐代の韻・平仄に基づいて詩を作ることの意味についての問いかけに始まりました。小生は平仄・韻に可能な限り忠実であろうとする立場で議論をさせていただきました。その立場から、中国でさかんに作られている漢俳、漢歌の試みは、とても興味深いものでした。なにもすべてを絶句にもりこむ必要はない、絶句の要求条件が現代にそぐわない、あるいは日本人の漢語力にそぐわないからといって、絶句の要求条件である平仄を無視した絶句作りを許容する必要はない、という思いを改めて新たにしました。
 詩にしようとする題材が、起承転結にうまく展開でき、古典韻・平仄を踏めそうなときは絶句にすればよいし、現代韻を使って口語でのびやかに歌いたい、あるいは起承転結がうまく展開できそうもない、そういうときは漢俳、漢歌にすればよいのです。現代韻は、平水韻を現代中国語のピンインで読めばかなりの程度体系的に理解できますから、それほど難しいものではありません。したがって、漢俳・漢歌と五絶・七絶は、二者択一的に取捨選択されるべきものではなく、われわれ日本人の作詩活動のなかで両立可能であり、絶句から平仄の規約を取り外そうという議論や、現代韻化の努力は、あまり建設的でないと思えます。

 5・7・5という詩形は明確な規約、3句のうち2句は押韻するというのが暗黙の規約、3句押韻も可、だだし、五絶4句20字は、押韻によって起承と転結で2句10字づつの2文に区切りますが、漢俳の2韻は、実作をみますと、17字3句2韻の1首を2文に区切ってもよいし、区切らずに1文としてもよいようです。













2000.10.1

私の意見28[千葉県・中山逍雀さん(60代・男性)]

 平仄論議、貴重なご意見を拝見しました。
 論議をするには、先ず前提を決めなければなりません。昔のことを論議するのか?今のことを論議するのか?
 昔のことを論議するのなら昔の文献を頼りに、今のことを論議するなら今の文献を頼りにしなければ、論議そのものが成り立ちません。
 御説拝読しますに、今のことを論じて居られるご様子なのに、例えば空海の文鏡祕府論などを論拠にした説、又はその説を基にした説を論拠にした説をお見受けしますが、文鏡祕府論は、日本で発行された当時でさえ、既に中国においては旧論の類の書物なのです。後人、その説を踏襲して、一説を企てても、旧屋に屋を重ねるごときものです。
 今のことを論じるので有れば、今の論説を拠り所にしなければなりません。日本国内において、日本人の著作による、西暦二千年に通用している詩論の書籍は見受けませんので、中国本土の研究論文をお読みになられる事をお勧めします。簡単な手段として中国詩壇の刊行物には毎号のように詩論は載っています。
 前置きが長くなりましたが、小生の説を一言書かせて戴きましょう。

 文学作品などの規約は、大衆の合意と淘汰が原則です。どなたがどのように作られても、何等の束縛を受けるものではありません。それにしても一つの原則があります。
 承知の上ならば「可」。知らずにならば「不可」です。













2001.4.25

私の意見29[千葉県・中山逍雀さん(60代・男性)]

 過日平仄論に関係有りそうな小論を纏めたので、その一部を紹介しましょう。

[詩句は喋り易さに任す]
 三言兩語 三長兩短 三心二意 三番五次 三朋四友 千方百計 千錘百煉 
 千難萬険 千言萬語 千叮萬嘱 萬紫千紅 萬水千山


 これら常套語は文字を入れ替えて、兩言三語 兩長三短 二心三意としても、さしたる意味の違いもなく、どちらも成り立ちそうに思えるが、実の所、なかなかそう簡単には行かない。成り立たないのである。
 何故に成り立たないのか?其れは、喋りにくいからである。
 これらの語句は大方於いて、平平仄仄、若しくは仄仄平平かの何れかである。見方を代えれば、中国語の喋りは、平平仄仄、若しくは仄仄平平の声調が喋りやすいと言える。四言句の場合は平平仄仄、若しくは仄仄平平の二通りがあり、五言句の場合は、中に一字を挟み込む方法と、後に一字を付ける方法がある。
    平平 平仄仄  平平 仄仄平
    仄仄 仄平平  仄仄 平平仄
 詩は朗唱が前提だから、当然の事ながら平仄構成は、喋り易さを基本に成り立っている。古詩が如何に平仄不問の格律詩で有ると謂っても、喋り易さまで不問にする事はないので、自ずと不問にも規は有る。
 即ち平仄平仄平や仄平仄平仄は、当然埒外で有ることは見当が付くが、孤平や孤仄が喧しく謂われるのは、詩句の基本に抵触する事柄だからである。