作品番号 1999-76
秋夜思 河東
秋雨連綿秋夜長,
長
芳
去
<解説>
[訳]
秋の雨がよく降り、秋の夜が長い。
金星は見難く、色々な花を思う。
芳しい花は何故散ってしまうのか分からない。
散った後には香りが残らない。
<感想>
回文詩は、漢字による言葉遊びの感覚でしょうか。
自分で作るのは大変ですが、読ませていただくのは楽しいですね。丁度、鮟鱇さんからも回文詩をいただきましたので、是非、次の76作目もご覧下さい。
承句の「長庚」は「宵の明星」、晩秋の夕暮れは雨さえなければ金星の美しい季節、冷え冷えの西空に鎌のような三日月と、それに寄り添う輝く星、学校帰りにいつも眺めては見とれたものでした。
結句は「無留一点香」が印象に残る句ですね。逐一訳せば「ほんのわずかも香りは残らない」となるのでしょう。突き放されたような虚無の感覚が、いかにも現実感を強くする佳句だと思います。
1999.10.23 by junji
作品番号 1999-77
払暁飛觴 払暁に觴を飛ばす 鮟鱇
飛觴払暁起風悲 觴を飛ばせば払暁に風起きて悲しく
暁起風悲魂夢帰 暁に起つ風の悲しければ魂夢帰る
帰夢魂悲風起暁 故郷に帰る夢に魂悲しく風暁に起き
悲風起暁払觴飛 悲しき風暁に起ちて觴を払って飛ぶ
<解説>
回文詩です。ひとくちに回文詩といっても何種類かありますが、この詩は10字で28字の七言絶句とするものです。
字の重複を省けば、次のように書くことができ、「飛」から時計まわりに7字読んで起句とし、4字もどって7字読んで承句とし、今度は「帰」から7字読んで転句、4字もどって7字読んで結句とします。
飛 帰 觴 夢 払 魂 暁 悲 起 風
<感想>
この詩の場合、使われている字がたった10字だけというのが信じられないですね。
口に出して詠んでみると、能の謡のような、言葉の重層化による韻律が感じられ、とても面白いと思いました。
平仄討論会は、まだまだ皆さんからご意見が続きそうです。こうして、より条件を厳しくして詩作される鮟鱇さんの姿勢も、ひとつの意見発表ですね。
1999.10.23 by junji
作品番号 1999-78
月夜聞笛(第二作) 月夜笛を聞く 真瑞庵
帆影迢遥湖水平 帆影迢遥トシテ 湖水ハ平ラカニ
三山鐘響落輝晶 三山鐘ハ響イテ 落輝晶ナリ
今夜月沖高櫓上 今夜月ハ沖(のぼ)ル 高櫓ノ上
誰吹短笛韻鳴鳴 誰ガ吹クゾヤ 短笛韻ノ鳴鳴ナルヲ
<解説>
何時も適切な御指導と解説を有難う御座います。
「月夜聞笛」の詩ですが、ご指摘に従い作り変えてみました。御指導お願い致します。
他の先輩にも注意されましたが、小生の詩は表現がくどく、言うなればシャッターチャンスのずれたピンボケの様です。見たもの、感じた事をどう絞り込むのか何時も苦労しています。
今後とも宜しくお願い致します。
三山=湖東三山【西明寺,金剛輪寺、百斎寺】のことです。
<感想>
「指導」と仰られると緊張してしまいますね。気楽に、皆で思ったこと、感じたことを言いたい放題、それがこのホームページの特長と思っています。私の方こそ「ピンボケ」ばかりじゃないかと心配しています。
ということで、「感想」を少々。
前作とは構成も視点も変わっていますので比較はできません。これも一つの詩、前作も一つの詩ということでしょう。
この詩では、承句から転句への転換にポイントがあるように思います。
湖のはるか遠くまで眺めながら、鐘の音を聞き、夕陽の沈む大きな光景をまず示して、スケールの大きな自然描写ができていると思います。
しかし、この実景を受けての、転句の「今夜」という語が非常に説明的に感じます。わざわざ「今夜」と言うからには、その意味するところは、「丁度今夜は」とか「今夜は特に」という強調に他なりません。ここで強調する必要はあまり無いのでは、と思います。
逆に抑え気味にして、時間経過を示す「暫くにして」とか「忽ちにして」、「已にして」などに類する言葉を入れてみてはどうでしょうか。
「月夜聞笛」という題ですので、詩の中に入れなければならないものが多くなります。絶句の場合は、削れるだけ削るつもりで焦点を絞っていくと、内容が整ってくると思います。
またまた、言いたい放題でしたが、ご容赦を。
1999.10.25 by junji
作品番号 1999-79
憶登高 三耕
山空覇気滅
海色塵氛堆
朝日霧中白
鷓鴣啼旧台
<解説>
[語釈]
「登高」 :九月九日、高い所に登って低地の邪気を払う習わし。
平成十一年、十月十七日は旧暦九月九日。
「色」 :起句「空」に対比する意もあり。
「氛」 :やや邪気を帯びた重苦しい気。
「鷓鴣」 :シャコ。うずらの一種。
「旧台」 :古の楼閣や城郭の址。
尚、申し訳有りませんが、特に起承句は重層的内容ですので読下しによる意味限定を避けさせて頂きました。
<感想>
「鷓鴣」は越鳥とも呼ばれる鳥で、その鳴き声が非常に哀愁に満ちたものとされているため、越の地方、特にそこでの旅愁や懐古と結び付いて詠われることが多い(『唐詩鑑賞辞典』より)と言われています。
李白の『越中覧古』にも昔と今の対比に巧みに使われていましたね。
今回はあまり感想を書くと、「意味限定」になってしまうかもしれませんので、みなさんの鑑賞におまかせしましょう。
1999.10.31 by junji
作品番号 1999-80
山中桂花 山中の桂花 桐山人
西山幽径桂花香 西山の幽径 桂花香(かんば)し
騒客盤桓澗水傍 騒客盤桓す 澗水の傍(ほとり)
停杖放吟声亮朗 杖を停めて放吟すれば 声は亮亮
風吹万頃近重陽 風は万頃を吹きて 重陽に近し
<解説>
[訳]
西山の奥深くの小道には、金木犀の香りがたちこめて、
通りかかった詩人は立ち去りがたく、谷川のほとりに佇む。
杖を立てて声高く詩を吟ずれば、声は明るく空に響き、
風は広い天地を吹き抜け、重陽の佳節もまもなくだ。
重陽の節句は現代の暦では10月の下旬、晩秋の気配の濃い時節です。その頃に街を埋め尽くすのが金木犀の花の香、あの清冽さは並ぶものはないですね。
1999.10.31 by junji
作品番号 1999-81
偶成 真瑞庵
日暮江村柳影幽 日は江村に暮れて柳影幽かなり
白茅空揺誘閑愁 白茅空しく揺れ閑愁を誘う
野頭望月酌醪坐 野頭月を望んで醪を酌んで坐せば
霜鬢映杯還一秋 霜鬢杯に映じて還一秋
<解説>
秋の気配も漸く深まり,各地から紅葉の便りを聞くように成りました。
ここ,海部津島地方も秋の深まりと共に蓮田はすっかり枯れ落ち,木曾三川の中州には鴨の群れが飛来し,芦花も一面風に揺れています。
と言った具合に,秋の詩の題材に事欠きませんが,なかなか上手く行かないものです。
投稿なさっておられる皆さんは、有り余る題材をどう選択なさるのかお聞きしたいものです。
<感想>
秋は春と並んで、詩の題材には事欠かない季節です。しかし、だからといって詩が沢山出来るというわけでもなく、ちょうどその時の自分の心境と合致する素材でないと結局は使えないということなのでしょう。
素材をどう選ぶか、ということについては、きっと皆さん苦労していらっしゃるのだろうと思います。「平仄討論会」ではありませんが、皆で色々体験を話し合うのは面白いでしょうね。
私自身は、漢詩に限らず、詩を作る時には、どれだけ具体的なイメージが表現できるか、という観点で素材を選ぶようにしています。
私たちの目は、カメラのレンズと違って、対象を絞り込む形でものを見ていると思います。その絞り込み方が人によって、或いは時と場所によって異なってきます。その一回性の感動を言葉で定着させるのが詩であり、文学であると私は思っています。
見た通りに写真のように全てを再現するのは、(それが正確であればある程)実は事実から離れていくことを意味しています。本来、恣意的に選択して見ている素材なのに、それを言葉で定着させようとすると、ついつい欲張ってしまいます。
自分の感動をやはり見つめ直すことが第一かもしれません。そのためには、個人のリアリティを大切にした「具体性」が勘所のように私は思います。
他の方もまた、ご意見を下さい。
1999.11.16 by junji
作品番号 1999-82
応酬之歓 応酬の歓び 鮟鱇
平平仄仄似秋千 平平仄仄、秋千に似て
打蕩東西詩一篇 東西に打蕩すれば詩一篇
託雁手書飛万里 雁に託せば手書、万里に飛び
凌山渡海素懐伝 山を凌ぎ海を渡って素懐伝う
<解説>
この詩は、中国の詩人との詩の応酬(詩の交換による文通)の歓びを歌ったものです。
「秋千」はブランコ、「打蕩」はブランコを揺らす、揺れるの意味です。
今年の夏、「葛飾吟社」の中山先生のホームページを知り、先生が推進している国際聯歌に投稿しました。
日本の漢詩の投稿ページでは何といっても鈴木先生の「漢詩を創ろう」が一番ですが、中国の詩人に日本で一番知られているのは「葛飾吟社」のようで、中山先生のページでは大陸の詩人の投稿をたくさん読むことができます。URLは、次のとおりです。
http://www3.justnet.ne.jp/~katushika/
さて、国際連歌ですが、詳しくは葛飾吟社のページをごらんいただきたいのですが、中国の詩人が作った漢字3・4・3字の上句に、私たちが4・4字の下句を付けるもので、日本の連歌と形式が似ています。
日本の古典に通じた中国の方の発案であろうと思います。
目的は、日中の詩の応酬による友好親善を、絶句や律詩のやりとりではなく、もっと簡単な形で進めていこうというものです。
この国際聯歌に応募したのがきっかけで、数名の中国の詩人から詩をいただくようになりました。 応酬の詩は、ひとりきりで作るのとはひと味違う興趣があるように思います。
<感想>
鮟鱇さんに紹介されて、「葛飾吟社」さんのホームページを訪問させていただきました。中山先生の精力的な活動がよく分かるページで、刺激をとても受けました。
他の人の上の句に合わせて下の句を作る、という連歌・連句のやり方は、一人の場合では生み出し得ない発想の面白さ、共感の歓びがありますね。
鮟鱇さんの詩を読んで、私も時間を取って参加したい、と思いました。
1999.11.16 by junji
作品番号 1999-83
吉野山 霞衣
吉野遊従母 吉野に遊ぶに母に従えば
春闌早暁山 春闌(たけなわ) 早暁の山
桜霞横旧庇 桜霞は旧庇に横たわり
千載久清閑 千載久しく清閑たり
<解説>
乃木や児玉などの明治の軍人をはじめ、明治の日本人は漢詩をつくっていた事を知ってから、私の頭に、いつか漢詩を作ってみたいという思いが生まれてきました。
そして今春、念願だった吉野山の桜を観に母と連れだって出かけました。桜だけが目的に、早朝の誰もまだいない山を登りました。吉野の桜は、華やかで、静かで、雅で、どうしても、これを漢詩にしたいと思いました。
この二つの思いが、このホームページで厚かましい願いとなりました。
何もわからない赤ちゃんの状態の私を、根気よく、親切に添削し続けて下さった鈴木先生のおかげで、一応の完成をみました。
まだまだひよこで、この作品も90%以上が鈴木先生の御指導によるものですが、私のような者でも、こうして、ひとつの漢詩をつくる事ができたという事を、私と同じように、漢詩に憧れている人にも知って欲しくて、恥ずかしながら送らせて頂きました。
なんだかまだ夢のようです。
先生、どうもありがとうございました。
次は、新年ですか、、、頑張ります!
<感想>
詩の完成、おめでとうございます。
霞衣さんから最初に「漢詩を作りたい」とお手紙を頂いたのが、今年の5月の中旬でした。私のアドバイスをもとに作り直して、またアドバイスをして、ということを繰り返しながら、粘り強く頑張った甲斐があったと思います。
初めての作品は、一生の記念になります。その大切な部分にお手伝いが出来たことを私もとても嬉しく思っています。
この詩は、まだまだ言葉が練れていないと思いますが、まずは第1作、完成させることも大切なことです。霞衣さんのお手紙には、
「この吉野山の詩は、これからも、折に触れて思い出し、推敲を重ねてゆき、大切にしたいと思います」
と書かれていました。私もその通りだと思います。
そして、次の詩、つまり第2作目に挑戦して行きましょう。私も出来る限りのお手伝いをしますよ。
1999.11.18 by junji
作品番号 1999-84
歩桐山人先生佳詩原玉 鮟鱇
秋天新霽帯余香 秋天新霽、余香を帯び
紫菊繁葩盛路傍 紫菊の繁葩、路傍に盛んなり
蜂舞蝶迷人曳杖 蜂舞い蝶迷い人、杖を曳くは
負暄閑適小春陽 暄を負うの閑適、小春の陽
<解説>
先週の日曜(10月31日)、東京は雨があがり、春のような陽気でした。
拙宅庭先も菊(家内が植えた雑草のような菊)が小さな花をたくさんつけ、しじみ蝶、紋白蝶、蜂が群がっていました。
先生の新しい詩を読ませていただき、私にも秋があったなと思い唱和させていただきました。
転句、「蝶迷」は「蝶飛」とすべきかもしれませんが、どの花に停まろうかと迷うように飛ぶ蝶のイメージを出したいと考えました。
「迷」は「迷蝶」の「迷」と受け取られるおそれがあり、また、「夢中になる」の意味にとられるおそれ(ただし、何に夢中になるのかがわからない)もあり、また単に「迷う」と受け取られて、なぜ迷うのかとか、何に迷うのかとか、いらぬ穿鑿を呼び起こすおそれがあります。
そういう曖昧な言葉の使い方は、読んでいただく方に失礼ですので、本来避けるべきですが、なんとか「迷うように飛ぶ」と読んでいただけるのではないかと考えました。
叱正をまちます。
<感想>
詩に対してこのように早く感想をよせて頂くのはとても恐縮します。
ありがとうございます。
転句の表現に鮟鱇さんは「迷」っておられるようですが、確かに誤解を招きやすいと思います。
「飛」では蝶のためらいが表せないのでしたら、「遊」とか「游」ではいかがでしょうか。明確な自動詞を用いれば、鮟鱇さんの意に近づくように思いますが、考えてみて下さい。
1999.11.18 by junji
作品番号 1999-85
読真瑞庵先生「偶成」
有感歩原韻奉和題名 河東
信歩山林野径幽,
既除煩悩亦消愁。
夕陽斜照清澗水,
回映丹楓覚晩秋。
<解説>
[訳]
足に任せて、山林の中の幽玄な小道をぶらぶら歩く。
煩悩も除くことができれば、愁いも消すことができる。
夕日が斜めに清い谷川に照らし、
水に映っている紅葉を見て、もう晩秋が来ているのを知る。
<感想>
お手紙に、
「真瑞庵氏の作品への鈴木先生のコメントは、一般の言いたくてもうまく言えないことをうまく表現して下さったような気がします」と書いていただきました。
素材の選択は、創作時にまず第一に悩み、そして最後まで悩む事柄ですね。真瑞庵さんへのコメントも悩みながら書いたものでしたが、河東さんのお言葉で安心(?)しました。
転句の六字目「澗」が仄字ですので、バランスが崩れています。同じ意味での平字である「渓」に変えてみたらどうでしょうか。
1999.12. 7 by junji
作品番号 1999-86
初冬晩景 鮟鱇
青山緑水紅霞映 青山緑水、紅霞映じ
黄落白茅銀月盈 黄落白茅、銀月盈(み)つ
天意初冬揮彩筆 天意、初冬に彩筆を揮ひ
黒鴉両点紫穹鳴 黒鴉両点、紫穹に鳴く
<解説>
日本にはわびさびの文化があって、ごちゃごちゃした色使いはあまり好まれないと思いますが、華風文化は、そうではないと思います。
色彩語をいっぱい使って、初冬の風景をにぎやかに歌ってみようと思ったのですが、できてみると、どうも「わび・さび」の感性が出てしまったように感じます。
<感想>
全部で何色使ってあるんですか。「青」「緑」「紅」「黄」「白」「銀」「黒」「紫」の八色ですかね。
冬の景色を詠もうとすると、どうしても淡色の墨絵のようなイメージで、沢山の色を使いにくいものですが、鮟鱇さんの今回のチャレンジで、鮮やかさの中の寂しさという表現を学べました。
1999.12. 7 by junji
作品番号 1999-87
四会鮟鱇先生 河東
初冬雖到本郷台, 初冬到ると雖も、本郷台
天暖如春花欲開。 天暖かくして春の如く、花開かんと欲す
寒舎有縁迎雅客, 寒舎縁有りて、雅客を迎ふれば
忽然詩興又重来。 忽然として詩興又重ねて来る
<解説>
鈴木先生 こんにちは。
昨日、鮟鱇氏と又お会いいたしました。詩をお送りいたします。
今回、初めて読み下しを付けてみました。間違ったところを直していただければ幸甚です。
[訳]
(季節的には)初冬は既に本郷台に来たとはいえ、
天気は春のようで、花が咲けそうにまだ暖かい。
寒舎は縁が有って、佳き客を迎えることができ、
忽ち乏しかった詩興がこのご来訪で又起こされた。
1999.11.29
作品番号 1999-88
歩河東先生原玉致謝 鮟鱇
承招尋処小春台 招きを承けて尋ぬる処、小春の台
台上君家天愈開 台上の君が家に天はいよいよ開く
開轄談詩跨今古 開轄たり、詩を談じ今古を跨げば
古人風韻響将来 古人の風韻、将来に響かん
<解説>
河東さんのお宅に招かれ、詩談に花を咲かせ、詩をいただきました。
そのお礼の詩です。
詩談のなかみですが、平仄討論会の続きもやりました。
河東さんは、李白や王維であれば平仄を踏み外せるのに、なぜわれわれにはそれが許されないのかという立場。
わたしは、どうしてもこの語でなければならない場合は平仄を踏み外すのもやむをえないことはわかるが、どちらでもよい場合は平仄に従うべきだといいました。
河東さんは、中国の方ですが、わたしは日本人。漢語の微妙な部分はわかりません。ましてわたしは、凡人で違いのわからない男ですから、重みのある一語に巡りあうこと少なく、平仄の推敲はできますが、ニュアンスをめぐる推敲はできません等々云々。
李白や王維に許されることがわれわれには許されない、それでどうするかと考えることと、それはなぜかと考えることは違います。河東さんは「どうするか」を考え、わたしは「なぜか」を考えたと思います。そんなことをあとで考えました。
上記の詩、実は承句の出だしで行き悩んだのですが、河東さんが投稿なさった回文詩が頭に浮かび、なんとか前に進むことができました。
1999.11.29
昨日鈴木先生に投稿した詩を鮟鱇氏にお送りしたところ、素晴らしい回文詩の和詩が贈られてきました。その美しい響きに感動し、小生も昨日の詩を回文詩に加工し、さらにもう一つ作りましたので、投稿いたします。宜しくお願いいたします。
作品番号 1999-89
和鮟鱇先生和我之詩<1> 河東
初冬猶暖本郷台,
台上我家花欲開。
開戸喜能迎雅客,
客人持着好詩来。
<解説>
[訳]
初冬なのにまだ暖かい本郷台。
台上の我が家では花が咲こうとする。
嬉しいことに門を開き、佳き客を迎えることができる。
客人が良い詩を持ってきて下さった。
1999.11.30
作品番号 1999-90
和鮟鱇先生和我之詩<2> 河東
来賓暢叙本郷台,
台上主人思路開。
開口吟詩猶学問,
問君何日再能来。
<解説>
[訳]
来賓と本郷台で歓談したことで、
台上の主の発想が開かれた。
開口して詩を吟じるのも猶学問である。
君に聞くが、何時又来られるのか。
1999.11.30
作品番号 1999-91
再歩河東先生原玉 鮟鱇
来来紅旭照雲台 来たれ紅旭、雲台を照らすべし
台上同看新紀開 台上、同に新紀の開くを看む
開放青龍跨天下 開き放たれし青龍は天下を跨ぎ
下民悉喜太平来 下民悉く太平の来たるを喜ぶを
<解説>
[語釈]
「新紀」 :新世紀のこと
「青龍」 :東をつかさどる神。めでたいときに現れるとされています。
「下民」 :人民のこと
河東さんから再度応酬の詩をいただきました。それに応えての詩です。
詩のなかで「ともに」とあるのは、「河東さんと」の気持ちです。
この詩は新世紀における平和を願っていますが、河東さんとの応酬ですから、河東さんとともに、とりわけ日中の平和を祈願したいという詩です。
1999.12.1
<感想>
楽しく読ませていただきました。
うらやましがってもいられませんので、私も詩作に励んで、お二人に負けないように詩の贈答ができるようになりたいもの、と思いました。
河東さんからは初めての書き下しを頂きましたが、1、2ヶ所直させて頂きました。間違いというのではなく、日本語としての漢詩読み下しのリズムに合うようにしたつもりです。
平仄討論会の続編の話も、とても興味深く読みました。
特に河東さんの言われる「李白や王維であれば平仄を踏み外せるのに、なぜわれわれにはそれが許されないのか」の発言は、率直なご意見と思います。
「そんなもの、そもそも李白や王維とはレベルが違うのだから、当たり前だ!」と思われる方も居られるでしょうし、「李白や王維の時にはまだ平仄やらの近体詩のルールが確立されていなかったのだ」と歴史的に説明されるかもしれません。
しかし、私は河東さんのような疑問をまず出発点として持つべきだと思います。権威や知識を拠り所にして盲従するのではなく、自己の問題として平仄の是非を問いかけることが大切です。
平仄とは内容が異なりますが、例えば夏目漱石の小説を読むと当て字が山ほど出てきます。それを見た子どもが、「漱石なら当て字が許されるのに、なぜ僕らはテストでペケになるのか」と憤慨したとしたら、さて、何と言って説得しましょうか。
1999.12.14 by junji