作品番号 2003-226
深秋
銀桂芳香漂夕陰 銀桂の芳香 夕陰に漂ふ
金風涼冷襲衣襟 金風は涼冷 衣襟を襲ふ
新醇美酒羮湯好 新醇の美酒 羹湯好し
覚得高商漸漸深 覚え得たり 高商漸く深し
<解説>
ついこの間まで木犀の香を楽しみ、秋風を襟元に冷たく感じておりました。そんな時、どうしても羹と美酒がほしくなります。
そんな気分で作ってみました。
<感想>
新しい方をお迎えして、とてもうれしく思います。今後もよろしくお願いします。
秋が深まる中で、金木犀の香りにほっと心がやすらぐ、そんな季節のひとこまに、美酒とあたたかいお椀が似合いますね。
承句の「金風」は「秋の風」です。「金」は「下平声十二侵」ですので冒韻ですが、起句の「銀桂」と対応なさったのでしょうね。
承句を「商風」にし、結句の「高商」を「高秋」とするのも一つの案でしょうね。
結句の「漸漸」は「次第次第に」という意味ですが、秋にはふさわしい用語ですね。
今後もよろしくお願いします。
2003.12. 1 by junji
作品番号 2003-227
聞阪神星野監督勇退報道有感 阪神星野監督の勇退報道を聞きて感有り
一報驚天東西馳 一報天を驚かして東西に馳し
美酒未醒襲愁悲 美酒未だ醒めざるに愁悲襲う
好事盛時却多魔 好事盛んなる時 却りて魔多し
不図監督積痾危 図らざりき監督積痾危きを
思立陣頭幾千度 思えらく陣頭に立つこと幾千度
春風駘蕩温顔宜 春風駘蕩温顔宜しく
秋霜烈日怒号吼 秋霜烈日怒号吼ゆ
闘志溌剌縦縞姿 闘志溌剌
打倒巨人果雪辱 打倒巨人雪辱を果し
猛将遂掲優勝旗 猛将遂に掲げたり優勝旗
誰道阪神中興祖 誰か道う阪神中興の祖と
功名永劫伝刻碑 功名永劫碑に刻みて伝えん
<解説>
鈴木先生は愛知県ですので中日ファンと拝察しますが、小生は熱烈な阪神ファンです。
日本シリーズ第7戦の開始が待ち遠しい本日(10/26)です。古詩の投稿も構わないということでしたので、では御薦めに従い、拙作「聞阪神星野監督勇退報道有感」を投稿致します。
「打倒巨人」の箇所、御気に障るかと存じますが、漢詩ファンの中には阪神ファンも少なからず居ると思われますので掲載されても袋叩きにはならないでしょう。
古詩にも平仄があります。
一韻到底格は、古詩といっても、今体詩よりも新しい詩形で、高青邱により確立された詩体だと思っています。
太刀掛呂山先生は落句を四仄五平×××●○×◎ で八割位あればよいとされています。
例えば
×××●○×◎で六字目が仄の場合×××●○●◎ 二四不同二六対が破れ破格になります。
×××●○×◎で六字目が平の場合×××●○○◎ 平三連になり破格となります。
高青邱の詩などは概ね ×××○●●●(出句仄三連) ××○●○○◎(落句平三連)です。
わざと今体の声律を避けるためです。内容も当然古調をおびたものになります。
太刀掛呂山先生は頼山陽の詩には一韻到底格は無いといわれていました。恐らくは手が出せなかったものとおもいます。
一方、改韻格は、今体詩よりも新しい詩形で、声律はやかましくいいませんが、概ね今体と同じようにつくります。
内容も歌行ですので自由です。我々が作るのであれば、改韻格で創るべきだと考えて居ます。
2003.12. 5 by 謝斧
作品番号 2003-228
阪神優勝祝賀行進
欣欣祝賀御堂筋 欣欣として祝賀 御堂筋
六甲颪鳴撼浪雲 六甲颪鳴りて 浪雲を撼(ゆるが)す
喜色笑顔縦縞列 喜色笑顔 縦縞の列
歓声絶叫虎徒群 歓声絶叫 虎徒の群
酔醒冷雨猶無止 酔醒冷雨 猶 止むこと無きも
興奮熱風曾不聞 興奮熱風 曾て聞かず
記取闘将今見納 記取せよ 闘将今ぞ見納め
狂騒感動水都醺 狂騒感動 水都醺(よ)う
<解説>
2003年11月3日の阪神御堂筋パレードの翌日のデイリースポーツ紙は「雨の御堂筋そして神戸」と歌謡曲の題名をうまく使っており感心しました。
又「狂喜乱舞御堂筋」という七言絶句調の大見出しも踊っておりましたのでそれを詩題にして七言律詩を作ってみました。
[語釈]
「浪雲」 | :浪と雲。 浪速の雲に重ねる |
「虎徒」 | :タイガースファンを意味する造語。 |
「記取」 | :しっかり記憶する |
「水都」 | :大阪 |
<感想>
私は愛知県人ですが、実は巨人ファンなのです。ですので、今回の鯉舟さんの作を拝見して、悔しい思いが先に立ってしまって、掲載しようかどうか迷ったんですけどね。
ま、でも全国には(今までどこに隠れていたんだー!って思うくらい)沢山の阪神ファンがいることも今年分かりましたので、これまでの地下生活で苦労なさった日々を思いやり、掲載の決断をしました。うーん、くやしい。
星野監督の勇退は、全く驚きでしたね。今日喫茶店で週刊誌を見ていたら、広沢だけは数日前に「おい、一緒にやめよう」と監督に言われて、知っていたらしいのですが。
詩の感想については、いつもは客観的に見ることを心がけているのですが、ま、今回は「欣欣」「喜色」「笑顔」「歓声絶叫」「興奮」・・・・、もう何を言っても結構です。
ただ、「颪」は国字(日本で作られた字)ですので、この字だけは駄目です。
2003.12. 3 by junji
作品番号 2003-229
徳島再訪
志学離家遊県城 志学 家を離れて県城に遊び
三年春夢渺雲程 三年の春夢 雲程の渺かなり
渭水眉山猶若旧 渭水 眉山 猶旧の若きも
踏迷坊裏聴秋声 坊裏に踏み迷いて 秋声を聴きたり
<解説>
私、田舎を出、下宿をして徳島市で高校生活を送りました。
高校時代は受験勉強に明け暮れ、そう楽しい思い出はないのですが、久しぶりに徳島の地を踏むとやはり懐かしさはあります。今回は所用で多分20年ぶりぐらいでしょうか。
この詩、勿論朱子の「偶成」を下敷きにしております。
[語釈]
「渭水」 | :吉野川下流の別名。細川頼之が初めて徳島に入ったとき、絵で見た渭水と似ているので名付けられたといわれる。 |
「眉山」 | :徳島市の真ん中にある山。 |
<感想>
禿羊さんの詩も味わいが出てきましたね。
「春夢」と「秋声」と対比させて、青春時代と老年の時代を例えるのは朱熹と同じ手法ですが、結句の「踏迷坊裏」の具体的な行動が生き生きとしていて、「聴秋声」はとても現実感が出ています。単なる対比で終わらせなかったところが、工夫されたところですね。
転句から結句の流れも自然で、これはもう、徳島で「渭水」「眉山」という地名に出会った段階で、詩の格調は約束されたようなもののようにも思えますが、それを本当に実現するために、言葉の工夫が必要になるわけで、この詩は成功した例と言えるのではないでしょうか。
逆に、承句の「渺雲程」はやや焦ったでしょうか。主題に通じる言葉をここで用いてしまうと、後半のせっかくの工夫が印象が薄くなってしまいます。じっと堪えて、ここでは「春夢」は「未覚」、「まだあの頃の情熱は消えていないつもりだ」とした方が、この場合には似合うように思います。
ご検討下さい。
2003.12. 3 by junji
承句に稍晦渋を覚えます。
「三年春夢」は以前にも言ったのですが、「三年は春夢の如く雲程の渺」かと読みました。
「春夢」は人生のはかなさにたとえますが、詩人の詩意では「(池塘)春草夢」の方が近いようにおもいます。
そうであれば、「短い三年の春夢」と理解するのが妥やかではないでしょうか、次の「渺雲程」に齟齬が生じます。ここでの「渺雲程」はよくわかりません。和習なのか、少し杜撰だと感じます。
恐らくは「三年の春夢の(時間の速やかに去るに及んで)間、我が希望は渺雲程の如きに有り」なのでしょうか、それであれば、舌足らずで、叙述に推敲が必要だと思います。
転句、結句の収束は、「渭水眉山猶若旧」(美しく、観光に行くべきなのであろうか、何故か踏迷坊裏うて世縁からは断ち切れない)という意味でしょうか。
余韻深い収束の仕方だと思います。
2003.12. 5 by 謝斧
「三年春夢」は、この場合には、「若い時(恐らくは高校時代)の三年間の青春の日々」という意味だと私も解釈をしました。
その「春夢」も「渺雲程」、つまり「今でははるか遠い過去のこととなってしまった」と理解すれば句としてのまとまりは出るように思います。
ただ、そうすると、「渺雲程」「踏迷坊裏」が同じことを述べていますし、更に言えば「猶若旧」の対比の効果も薄れてしまうのではと感じています。
後半の収束は仰るとおりで、好句だと思います。
2003.12. 6 by 桐山堂
ニャースです。
私も不惑を過ぎ、禿羊さんのような体験をよくするようになりました。自分の仕事が出張の多いのと、父もサラリーマンで何度か転勤をしたので、昔居た場所の再訪というのは比較的よくあります。そのような時 詩をよみたいと思うのですが、心にわきあがるものが多すぎてまとまりません。
禿羊さんの徳島再訪もきっと個人的にはさまざまな感情が湧いたと思うのですが、抑制がきいており、読者も感情を共有できる作品になっていると思います。
結句が印象的な句となっており、何度も口ずさみたくなりますね。ただ作者には責任がないのですが、昔人が日本の風景を中国の土地に見立てるいいかたは個人的にはあまり好きではないのですが。
2003.12. 6 by ニャース
ニャースさんが「昔人が日本の風景を中国の土地に見立てるいいかたは個人的にはあまり好きではないのですが。」と云われるのには尤もなところがあると思います。
『夜航詩話』に地名に関しての是非の説明があります。
詩は韻響を尚ぶものなれば、文字の俗なるは詩として入れがたし。ゆえに古よりも修飾して用いること已むを得ざるの例なり。さるに素より雅なる地名をも、奇を好て変更するは惡むべし。(それの例として)
あるいは万葉仮名の例にて愛宕山を怨児山とし、船岡を浮名岡とし(中略)好みて古を引証して搏宏を衒す者あり。
今世通用する文字よりも却って不雅なる古名は珍重するに足たらんや。淡海・五瀬・浪速・明石の如きは択び用いるべし。
地名を謎語にて称するは悪戯と謂うべし。白山を商邱あるいは白帝城
等等の説明があり、最後に
故に歌は好て地名を用いる、詩にはなるたけ用いざるぞよき、如何となれば、歌には其の名自然に叶えり、詩には極めて入れ難し。蓋し此の方の地名を取りて、西土の詩詞へ挿入んは、元来牽強のことなり、故に天然の的当を得て、十分格好にて、始めてもちいるべきのみ。
私の感想ですが、今回の禿羊さんの「渭水眉山猶若旧」の句に関しては、いささか牽強のところも感じられますが、不自然さはないようにおもえます。
2003.12.12 by 謝斧
ここ十日ほど留守に致しており、返事が遅くなり申し訳ありませんでした。
拙詩に対しての諸先生から暖かいご高評、まことにありがとうございました。
承句、押韻に苦しんだ果てのものですが、違和感がありましたか。「遠い昔のこと」といった表現ばかり探しており、鈴木先生のご指摘のような表現は思い浮かびませんでした。
どうも頭が固くなっているようです。
承句を次のように改めたいと思います。
三年春夢再分明 三年の春夢 再び分明
2003.12.12 by 禿羊
作品番号 2003-230
入谷仙介老師挽詩
憂慮鴻儒痾未痊 憂慮す鴻儒の痾未だ痊ざるを
悲哉永訣去黄泉 悲い哉 永訣して黄泉に去らん
須知格力詩文好 須く知るべし 格力の詩文の好きを
坐覚才望評釈全 坐ろに覚ゆ 才望の評釈の全たし
北海清芬使人感 北海の清芬 人をして感さしめ
右丞高趣有誰伝 右丞の高趣 誰れ有りてか伝えん
樊遲俯首無由学 樊遲 首を俯れては、学に由し無し
慚以鉛刀欲執鞭 慚らくは 鉛刀を以って鞭を執らんと欲っす
<解説>
先週の日曜日、一海先生にお会いしました。その時に、たまたま、入谷先生の事をお尋ねしましたら、先生は肺ガンで亡くなられたことを聞き、大変驚きました。詩の事でご教示頂きたくお手紙を差し上げようと思った矢先のことでした。大変残念です。入谷先生には迷惑でしょうが、私は一海先生もですが、師だとおもっています
[語釈]
●北海孔融字文擧 ●右丞王維字摩詰 ●清芬人の徳行や芸術の清くかぐわしきをいう
●樊遲 孔子の弟子 樊遲出 小人哉樊遲 ●鉛刀 なまくら刀 ●執鞭 富而可求也 執鞭之士 吾亦為之 論語述而
<感想>
入谷先生の「宋詩選」を読み、和語を駆使された訓読文の美しさに感動した方も多いと思います。また、先生の「漢詩入門」も、数少ない貴重な入門書として恩恵にあずかった人も多いのではないでしょうか。
経歴を拝見すると、1933年生まれ。まだまだご活躍いただきたかった先生です。
2003.12.11 by junji
作品番号 2003-231
新宿逍遥偶成
新宿廈上月 新宿廈上の月
電飾欺昼煌 電飾昼を欺(あざむ)きて煌(ひか)る
蟻集老若群 蟻集す老若の群れ
蝶飛美粧娘 蝶飛す美粧の娘
八珍満酒肆 八珍酒肆に満ち
百貨放燦光 百貨燦光を放つ
逍遥不夜城 逍遥す不夜の城
酔脚帰程忘 酔脚帰程を忘る
<解説>
本年二月十五日、高校同期会の準備会が東京四谷であり上京した帰途、新宿で途中下車してヨドバシカメラをひやかすなど宵の新宿の街を徘徊しました。
丁度丸い寒月が小田急デパートの上に出ていたので、西条八十作詩「東京行進曲」の中の「月もデパートの屋根に出る」の歌詞を思い浮かべました。
賑やかな都会の雑踏と美食のレストラン、派手な化粧のギャルなどを見ていると、不況、不況と大騒ぎしているのは何処の国のことだろうかと思いました。
<感想>
不況ということを身に染みて感じるのはどんな時なのだろうと、鯉舟さんのこの詩を読みながら考えました。
新聞での活字やら、株価の低迷やら、失業率やら、様々な情報は入ってくるのですが、同時にテレビでは相変わらずの「温泉グルメの旅」だの「芸能人の○○さんは△△のブランド品揃え」だのと言った番組のオンパレード。
テレビの世界では、先日の某局ディレクターの視聴率稼ぎが問題になっていましたが、番組の編成ではどうやら視聴率が一番大事なようです。たかが首都圏600人のサンプルという視聴率の問題はさておき(理論上は信頼できると言われても、心情的には私などは・・・???なのですが)、みんなが見るから番組も放送されるということでしょうかね。
となると、私たちの心の中での「不況の実感」と「温泉グルメ番組を楽しむ」こととの相関ということは、現代人の心理を考えるには面白い題材かもしれませんね。
詩としては、題名に既に「新宿」と入っていますので、冒頭の「新宿」は、あまり地名としては入れたくないところです。
また、題名も「新宿逍遥」で十分ですね。
2003.12.14 by junji
作品番号 2003-232
寓話
桂秋無月蕭森径 桂秋無月 蕭森の径
熊帥三猿到酒家 熊 三猿を帥いて酒家に到る
柿葉盛来鮭菜旨 柿の葉に盛り来る鮭菜旨し
妖狐化主是羞花 妖狐 主に化せば 是れ羞花
<解説>
故郷の友人たちとの忘れ難い一夜のできごとです。
私は猿の方でしたが、主が自庭の柿の木から採って来たという、半紅半緑の柿葉に盛りつけた刺身は、見た目にも実に美しく、本当に美味しかった。
[訳]
木犀の匂う秋の無月の夜、樹木の多い淋しい小径を
熊が三匹の猿を引き連れて酒屋さんにやって来た
柿の葉っぱに盛られた魚料理がとても美味しい
妖しい狐が化けているのだろう、主は花も羞じらう程の美人だ
<感想>
友人たちとの楽しいひと時を表すのに、宮澤賢治の童話の世界のような構成で描いたのは、明るい雰囲気をかもしだしていて、成功しているのではないでしょうか。
「鮭」はご存じのように、日本で新巻きに使うような「シャケ」の意味では使いません。「鮭菜」となれば、「魚料理」のことですね。
また、結句の「羞花」は、「羞花閉月」とも言われますが、「花も恥じらうような、月も隠れてしまうような美人」を比喩した表現です。
となると、起句の「無月」が生きてくる。あるいは、いっそ「閉月」としてしまっても面白いかもしれません。「羞花」の方は、季節としてどうでしょうか。転句までの情景では、花は全く見えてきませんから、ここで「羞花」と来ると、言葉の上だけの比喩になります。ある程度花が想像できて、「その花にも優る美しさ」となると、整った場面が描かれるのではと思います。
2003.12.14 by junji
桐山人 鈴木淳次先生
柳田 周です。
拙作『於薔薇園』及び『寓話』についてのご講評を賜 り、ありがとうございます。
『寓話』ですが、
<「宮澤賢治の童話の世界のような構成で描いたのは、明るい雰囲気をかもしだしていて、成功しているのではないでしょうか」
ありがとうございます。作者の狙い通り読んで戴いて大変嬉しいです。
その意味で題は当初『童話』としたのですが、中国語としては「童話」は辞書にも収録されていず、使われていないのかも知れないと思い、「寓話」とした次第です。
<「羞花」の方は、季節としてどうでしょうか。転句までの情景では、花は全く見えてきませんから、ここで「羞花」と来ると、言葉の上だけの比喩になります。ある程度花が想像できて、「その花にも優る美しさ」となると、整った場面が描かれるのではと思います。
そうですね。やはり初学の拙さ、ご指摘の処までは考え及びませんでした。
2003.12.19 by 柳田 周
作品番号 2003-233
於薔薇園
十月晴空気朗然 十月 晴空 気朗然たり
薔薇二発競嬋娟 薔薇 二たび発いて嬋娟を競う
花傍妻笑吾倶笑 花の傍に妻笑めば吾も倶に笑む
琴瑟相和四十年 琴瑟相和すること四十年
<感想>
結婚四十年ですか、おめでとうございます。詩の内容から推測しますと、結婚記念日が十月ということでしょうか。実は私も結婚したのが十月ですので、うん、ちょっと嬉しいですね。
題名の「於」は不要ですので、「薔薇園」で十分です。
「十」の字は結句でも用いていますので、ここはどうでしょうか。秋を表す他の言葉にして、「十月」だということを記念として残したいのならば、題名の方に残したらどうでしょうか。
転句は表現としては、もう一工夫はできそうな気もしますね。結句の「琴瑟相和」も、自分自身のことを指して使って良いのかどうか、私にはちょっと分かりません。
でも、改めて読み返すと、「秋になってまた花を開いた薔薇」が「嬋娟」を競っているのは、私は最初は薔薇同士が美しさを競い合っていると思っていましたが、これはひょっとすると、「薔薇と妻が美しさを競っている」と作者は言いたいのかもしれませんね。
うーん、なんとも、うらやましいと言うか、ふてぶてしいと言うか、結婚して四十年を経て、今も「花の傍に妻笑めば吾も倶に笑む」というお二人の幸せな姿に、心からのお祝いを述べたいと思います。
ほら、何か感想も、結婚式とか新婚さんへのお祝いみたいになってしまいましたよ。
2003.12.14 by junji
題名の『於薔薇園』での「於」は不要とのご指摘、ありがとうございます。
薔薇園そのものの即事詩ではないことから、近現代の日本あるいは西洋詩のタイトルに倣ってしまいました。確かに中国の詩では『・・・にて』という詩題はないかもしれません。
>「薔薇と妻が美しさを競っている」と作者は言いたいのかも
まさか幾ら何でも60過ぎの家内を花と比べるなんてしません(笑)。
>「ふてぶてしいと言うか・・・」
なる程、確かに大甘ではありましたね。
>「琴瑟相和」も、自分自身のことを指して使って良いのかどうか
これは仰る通り、自分の事を言うと、それこそ「いけしゃあしゃあとよく言うよ」の類だったかも知れません。
「十」の重出もありますので、推敲をしたい思います。
2003.12.19 by 柳田 周
ニャースです。
柳田さんの今回の作品、文字通り薔薇色という感じですね。
鈴木先生の感想にあるように、新婚さんのような初々しさ。
もう作品そのものの感想より、私もうらやましい気持ちでいっぱいです。
本当におめでとうございます。私は30年後こんな詩がよめるかなあ。
2003.12.23 by ニャース
作品番号 2003-234
秋日郊行
晴空一碧訪秋行 晴空一碧秋を訪なって行き
延目西郊満野情 目を西郊に延ぶれば 野情満つ
菊朶裝金傲孤秀 芳菊金を裝って 孤秀傲り
槿花凝紫乱群生 槿花紫を凝して 群生して乱る
南園丹柿橈枝熟 南園の丹柿 枝を橈めて熟し
北圃緑珠埀子成 北圃の緑珠 子を埀して成る
風動霜楓零露冷 風は霜楓を動して 露を零して冷かに
山川欲老意難平 山川老んとすれば 意平か難し
<解説>
「緑珠」は「葡萄」のことです。
<感想>
頷聯頸聯にかけての色彩感、「金」「紫」「丹」「緑」は、極彩色の絵画を見るようで、秋の面目を高めていますね。
頷聯の下三字、「傲孤秀」は、「孤秀傲る」と訓んでおられますが、意味からは「孤秀を傲る」と訓むのだと思います。となると、次の「乱群生」も対応上、「群生を乱す」と訓みたくなります。指定されたのでは「乱」と「群生」が並列ですので、そこが気になりました。
それまでの静的な描写から尾聯で動きを出し、最後に詩人の感懐を述べる結びは、前半の景が鮮やかであるだけに共感を呼びやすいのではないでしょうか。
2003.12.14 by junji
作品番号 2003-235
杪秋有感
欲求閑雅與琳琅 閑雅と琳琅を求めんと欲し
禿筆遅遅不作章 禿筆遅遅として 章を作さず
楓葉観望莫惆悵 楓葉観望するも惆悵する莫れ
猶存残菊傲霜香 猶存す 残菊の霜に傲りて香るを
<解説>
起句は「探来閑雅與琳琅」か「誰將閑雅與琳琅」がよいでしょうか。
<感想>
ご質問の「欲求」「探来」「誰將」のどれが良いかということですが、承句への逆接を意識するならば、お書きになった「欲求」が流れを作るように思います。「誰將」は、承句の自分の内面を言うにはやや弱いのではないでしょうか。
この二字はもう少し考えられるように思います。
結句の「傲霜香」は、蘇軾の「贈劉景文」での「傲霜枝」が浮かびますが、霜は香はありませんから、「霜に傲りて香る」という嗅覚的な表現は合いませんね。「帯霜香」などの表現を考えると良いと思います。
2003.12.16 by junji
作品番号 2003-236
民心乱
国貧耐餓少年時 国貧しく餓えに耐える少年の時。
補食鰌蝗焉世姿 食補うは鰌蝗これ世の姿。
代転民豊精閔病 代転じて民豊かなれど精病みて閔ふ。
人倫諭衆聖賢辞 人の倫 衆に諭すは聖賢の辞なり。
<解説>
[訳]
終戦直後、育ち盛りの私達は食べ物に餓える日々であった。
食べ物といえば、イモ類、どじょうやイナゴであった。
しかし、時は過ぎて、今は飽食の時代であるが、民の心は病んでいる。
いまこそ賢者は人の生きる正しい道を諭すときであろう。
以上のような気持ちを詠んだものです。
<感想>
私自身は、昭和三十年代が少年時代ですので、戦後の極端な貧しい時代は知らないのですが、それでも話としてはよく聞きましたし、食べ物を粗末にしないというしつけだけは受けてきました。
「鰌」(どじょう)やら「蝗」(イナゴ)を自分で捕まえて食べることもなく、いつの間にか気がつくと「飽食」の時代。物は豊かになり、電気製品でも何でも使い捨てが当たり前のような現代に生きていますと、こうした詩を読むことは目を洗われるような気がします。
世が乱れ、人の心も荒んだ時には、そうした人々を導く賢者が登場したり、新しい思想が生まれるものですが、そうした希望も持ちにくい時代のように思えます。となると、誰かを待つのではなく、「聖賢」と限定しないで、気が付いた者、目を先に開いた者が思いを語るべきなのでしょう。それが、まさに「人倫」なのだと改めて思いました。
転句の「代」は、唐の時代に、太宗 李世民の諱を避けるために、「世」を「代」に書き換えたことから、同じ意味でどちらも使うようになったものです。ここは「世」の方が分かりやすいのではないでしょうか。
語順の問題では、「精閔病」は、「精病みて閔ふ」とするならば、「精病閔」としなくてはいけないでしょう。
ただ、「民豊精閔病」は、「民」と「精」の対応がすっきりしませんね。「精」(心)に対するならば、「物」などの物質面を表す言葉にした方が良いでしょう。また、「精」もこの一字だけでは「心」の意味には取りにくいので、結句はもう一工夫というところでしょうか。
2003.12.14 by junji
作品番号 2003-237
偶成
巷街秋悪在 巷街、秋は悪(いずく)にか在り、
不聴虫聲哀 虫聲の哀しきを聴かず、
残務還残務 残務、還(ま)た、残務、
欲帰煙雨来 帰らんと欲すれば、煙雨来たる。
<解説>
毎回ご丁重なる御添削、誠に有難く存じています。教えられること極めて多く、感謝に耐えません。
お褒めに与った時などは、「木に登った豚」のような心境になっています。降りられなくて困ることもある位です。今後とも、何卒よろしきご教示の程を!
ビル街の勤めには、あまり秋を感じる機会も少ないものです。今年は虫の音すら、はっきりと聞いた記憶がありません。残務に追われ、やっと帰れると思えば、外は煙のような雨が降ってる。
これは、私の現実なのですが、ただこれでは救いがなく、愚痴に終わってしまっているような気もします。投稿するということが私にとっては救いなのですが、聞かされるほうはたまらないかも知れませんね。
<感想>
転句の「残務還残務」は、「今日も残業、また明日も残業・・・・」という声が実際に聞こえてきそうですね。実感のよく伝わる詩だと思います。
平仄の点では、承句の「虫聲哀」が三字とも平字ですので、これは「下三平」の禁忌を破っています。
また、実際に耳にしたのならともかく、聞こえてこない虫の声を「哀」と表現するのは不自然ですね。
結句は、「欲帰」は、必要のない説明です。転句で時間の経過は十分に伝わっていますので、ここで更に「帰る時になって」と言うのは、内容的に重複しています。
作者の行為は転句にまかせて、結句は景を描くのに徹すると、余韻の深い「煙雨来」を生かすことができるでしょう。
題名については、せっかくの詩ですので、内容が分かるようなものを付けると良いと思います。「秋雨」のような短いものでも十分でしょう。
2003.12.16 by junji
作品番号 2003-238
在空港送人的情景 空港に在りて人を送る情景
銀翼君乗去 銀翼に君は乗りて去り、
妾留願路寧 妾は留まりて路寧を願う。
尾灯天際滅 尾灯天際に滅すれば、
只剰幾顆星 只剰すは幾顆星。
<解説>
出張で成田空港に行ったときに出会った光景を詠いました。
空港はやはり出会いと別れの場。
大事な人を送る人の姿は、やはり感動的です。
<感想>
前半の起句承句は「君」と「妾」を対応させるならば、対句にしたいところですね。「妾」を使わないならば、対句にこだわらずに、「留連」などの言葉でも良いかもしれません。
承句は二字目の孤平になっていますし、結句も「顆」は仄声だと思いますので、その点は考える余地があると思います。
転句から結句への展開は、現代ならではの余情を印象的に表していて、ニャースさんの新鮮な感覚が生き生きと出ている詩ですね。その分、前半がやや物足りないでしょう。
2003.12.19 by junji
転句結句で詩人の心情はどんなものであったのか、推し量ることができます。
余韻の深い収束だと思います。
此は個人の好みかも知れませんが、私なら
銀翼乗君去 銀翼、君を乗せて去き
としたいのですがどうでしょうか。
私ならば、
銀翼乗君去 銀翼、君を乗せて去(ゆ)き
妾留祈路寧 妾は留まりて路寧を祈る。(孤平を拯う)
尾灯天際滅 尾灯天際に滅すれば、
唯剰点繁星 唯剰す 繁星点ずるを。
2003.12.20 by 謝斧
作品番号 2003-239
游松江望宍道湖
雲淡風輕意淡如, 雲淡く風輕く意は淡如として,
松江秋水似西湖。 松江の秋水 西湖に似る。
紅楓黄柳青山暮, 紅楓 黄柳 青山の暮,
身在欄干酒在壺。 身は欄干にあり 酒は壺にあり。
<解説>
松江に遊び、宍道湖を眺めながらの作です。
湖畔の公園の紅葉、枯れかかって黄色味を帯びた柳。暮れ行く山並み。宍道湖は奥行きが深く、どこか日本の風景らしからぬ広さがあり、頭に浮かんだのが蘇軾の「飲湖上初晴後雨」に使われた「欲把西湖比西子、淡粧濃抹総相宜」の句でした。
この詩、承句「松江秋水似西湖」が最初にできました。
韻については現代韻(普通話韻十姑)です。平水韻(上平六魚・上平七虞)の詩としても通用しますが、わたしなりの整理として、現代韻でも通用するものは現代韻とすることにしています。
<感想>
この詩の狙い所は結句の「身在欄干酒在壺」にあるのでしょうね。
それまでの静かな情景描写から、一転して「酒」を出すことで、神仙境の軽快な気分を描き出していると思います。ここを同じ様な寂しげな雰囲気にして全体を揃えるのも一つの詩でしょうが、鮟鱇さんの独自な感覚がうかがわれますね。
ただ、この結句の句中対の効果で考えると、起句の「雲淡風軽」や「紅楓黄柳青山」の対がやや目に触るでしょうか。
鮟鱇さんの場合には、リズムのある言葉があふれてくるだけに、抑えて行くことが良いかもしれませんね。
2003.12.19 by junji
作品番号 2003-240
嫁ケ島
夕陽沈處暮雲愁, 夕陽沈むところ暮雲愁い,
碎錦湖光島似舟。 錦を砕く湖光に島は舟に似る。
松影宛如人鼓棹, 松影あたかも人の棹を鼓し,
長歌送嫁去難留。 長歌して嫁の去りて留まりがたきを送るがごとし。
<解説>
「嫁ケ島」は、松江宍道湖に浮かぶ平たく細長く舟のような小島です。拙作はそれを見ての印象を詩にしたものです。普通話韻十二候(平水韻下平十一尤)押韻。
[語釈]
「湖光」 | :湖の風光、景色 |
「長歌」 | :声を長くして歌う |
<感想>
宍道湖の夕景色は、「日本三大夕日」とされていますが、特に小泉八雲の『神々の国の首都』の中の、次の文章によって絶賛されていますね。
私の前には広々として美しい湖が、柔らかい光でにぶくかがやいて眠っている。火山系の青い山並みが鋸状の出入りを見せながらぐるっと遠景を縁取っている。右の方、湖の東の端にはこの町でも最も古い区域が青みがかった灰色の瓦をふいた屋根を連ねて広がる。密集した家々は湖の岸辺に及び、木造建築の足元をたゆたう水に浸す。望遠鏡でのぞくと私の今住む家の窓が見え、その向こうに家々の屋根が遠く広がり、それら全体を押えて緑色濃い城山がそそり立ち、その中央に屋根の先端を不気味に尖(とが)らせて、くすんだ色の天守の櫓が見える。日は沈みはじめ、色彩の微妙で素晴らしい変化が水と空とに現われる。この八雲の文章には、前半に次のような一文があり、日本の美への感覚についての分析があります。彼が言うような「優雅」さは現代では薄れかけているのかもしれませんが、ほっと心が安らぐような気がします。それも紹介しておきましょう。
鋸の歯のような刻みをつくって長く連なる山々の藍色とも黒ともつかぬ姿の背後から上空にかけて、くすんだ濃い紫の靄が幅広くたなびき、朦朧とかすむ紫が更に中天に向かうあたりは薄く淡い朱やかすかな金色になり、それがまた仄かにも淡い緑色を経て、青空の青さに溶けこむ。遥かかなた、湖水が深まるあたりの水面は名状しがたいほどの柔らかい菫色(すみれいろ)を帯び、群立つ松が影をつくる小島のシルエットが、なごやかで優美なその色彩の海に浮かんでいるように見える。しかし、もっと浅くて近い湖面は、ちょうど線でも引いたように、深い所とは水流によってくっきりと区別されて、その線のこちら側は水面が隈なく微光を放つ青銅色、いや金色に青銅色を加えた赤みがかった渋い色になっている。
日本には熱帯地方のような落日はない。光は夢のなかに差す光のように穏やかで、あのどぎついほどの色彩はない。この東洋の自然には強烈な色などというものはない。海を見ても空を見ても、色彩と言うより色合いと言うべきものばかりで、しかも霞のような淡い色合いである。例えば素晴らしい織物の染色でも分かるように、この国の人々が色彩や色合いに関して示す実に優雅な趣味は、大まかに言って、どぎついものが一つもない温和きわまるこの国土の自然が帯びている地味で優美な色調に由来するものであろう。鮟鱇さんの詩では、宍道湖の夕景の美しさがよく描かれていると思います。転句結句のゆらゆらとした表現が、景と合っていますね。