作品番号 2001-31
有明海
従来紫菜潤多村 従来 紫菜(のり) 多村を潤す
浅慮官員鎖水門 官員の浅慮 水門を鎖(とざ)し
忍看漁民空筏子 看るに忍びんや 漁民 空(から)の筏子(いかだ)を
寧知碧海作愁源 寧んぞ知らん 碧海 愁いの源となるを
<解説>
仕事が中国との海藻貿易をやっているだけに、有明海の海苔の問題は関心を持たずにいられません。
”官員の浅慮”とはちょっと言い過ぎですが、それにしても人間は、なかなか自然との共存ができないものです。
<感想>
政治というものへの不信がこれだけ増大してくると、どれだけ「治水防災対策」だの「公共利益」だのと言われても、「結局誰のための事業なの?」と、どうしても疑いの目で見てしまいます。
勿論、「官員」の方は、地域住民や将来的な自然保護のために、と真剣に取り組んでいるのでしょうが、それならば尚更、過ち(或いは過ちになりそうなこと)に対しては慎重に、立ち止まるべき所は立ち止まる、戻るべき所は戻る、という姿勢が必要なのでしょう。
ここ数日のニュースでも、長野県の田中知事が県内のダム事業の凍結を宣言したことや、諫早湾の水門を一時的に開くことを決定した、などの報道がありました。少しずつですが、変化は見られつつあるのかもしれません。
2001. 3. 2 by junji
作品番号 2001-32
春日偶成
彩邦風暖落花前 彩邦 風は暖かなり 落花の前
鳩谷水清垂柳辺 鳩谷 水は清し 垂柳の辺
淑気韶光誰共語 淑気 韶光 誰と共にか語らん
小蹊独歩詠春天 小蹊 独歩 春天に詠ず
<解説>
都内から埼玉県は鳩ヶ谷市に転居しました。
「彩邦」は「彩の国“さいたま”」のつもりです。
まだまだ寒い日が続いていますが、立春も過ぎ、割と良い陽気の日もあるようになりました。そんな日の作です。
<感想>
新しいお住まいになった土地の風景を織り込んだ、春らしい言葉に満ちた詩ですね。
「彩邦」が埼玉と一般に理解できるとは思えませんので、県外の人には注が必要でしょうね。もう一つ、「彩邦」はかなり広い視野で眺めているように思いますが、続く言葉が「落花前」と急に眼前の景に移っていて、やや唐突の感があります。
承句で「鳩谷」で見える範囲をクローズアップしてますから、起句は頑張って空の高みから眺めるくらいの視点を維持してはいかがでしょう。
結句の「小蹊独歩」は、道の様子なり自分の気持ちなりをもっと具体的に語ると、詩としてのまとまりが出てくるように思います。
全体としては、暖かみのある、散歩の折につい口ずさみたくなるような詩ですね。
2001. 3. 2 by junji
作品番号 2001-33
春日村居
江郭寒風定 江郭ニ 寒風 定マリ
今朝帰雁頻 今朝 帰雁 頻リナリ
遠山融白雪 遠山 白雪 融ケ
野水長青蘋 野水 青蘋 長ツ
牆下清香樹 牆下 清香ノ樹
畦中粗褐人 畦中 粗褐ノ人
村居過六十 村居 六十ヲ過グ
垂老也茲春 垂老 也 茲ノ春
<解説>
ここ、木曽川沿いの海部地方に又春がめぐって来ました。
そして、この六十歳の私にもその春が訪れました。
そんな春を迎えた喜びを表現したつもりです。
<感想>
目に見えるものを、「遠山」「野水」「牆下」と徐々にクローズアップしてくる前聯・後聯の展開が良く、知らず知らず真瑞庵さんの視点に移ってしまいますね。ところが、「畦中粗褐人」はきっと作者自身を客観的に眺めた描写でしょうから、また視点が転換する、その辺りが楽しく感じました.
対句にあらわれている事物のつながりが弱いのか、描かれた景物がバラバラと置かれているという印象(遠近は別として)はありますが、その分実写の感覚が強まっているとも言えますね。
2001. 3.14 by junji
作品番号 2001-34
弔少年
少年倶没愛媛丸 少年愛媛丸とともに没し
此夜琵琶有者弾 此の夜 琵琶(ウクレレ)を弾く者有り
帯恨声音無法耐 声音 恨みを帯び 耐える法無く
九魂以弔夏威灘 以て九魂を弔するか 夏威(ハワイ)の灘
<解説>
昨日、ニュースで宇和島の遺族の方の前でハワイの現地の方々がウクレレで哀悼している場面を見ました。
遺族の方の悲しみに耐えられない様子を見て、本当に切なくなりました。私も実習などで船に乗っていましたので他人事のような気がいたしません。
<感想>
学校で生徒たちに「最近のニュースで記憶に残っているものは?」と聞いたら、かなり多くの者がこの「えひめ丸」の事件を挙げました。同世代の若者の命が失われたことへの悼みの気持ちは、純粋な感情の表れと思いました。
事故は予測できずに起きてしまうことも当然あり、そうした事態への心構えもあるわけですが、今回の事故は事情を聞くほどに悲しくなります。避けることのできた事故、いや、そもそも起きるはずのない事故だった・・・・。
詩の形式の点では、今回は平仄よりも文法的に気になる所が各句にあります。書き下しを直せばそれでよいところもありますが、例えば、
承句「有者弾」は「有弾者」としないといけません。
転句「無法耐」も同様に、「無耐法」でなくては読めません。
書き下しにとらわれずに、まず漢文の方で意味が通じるかを見て下さい。その後、無理のない形で書き下しにしてみる、という順番が大切でしょう。
書きました二つの例を直すだけでも韻や平仄が崩れますから、言葉を生かしながら組み直してみてはいかがでしょうか。
2001. 3.14 by junji
作品番号 2001-35
和鱸松塘之金沢詩 鱸松塘の金沢詩に和す
小人迂世古今然 小人世に迂きこと 古今然り
白葦黄茅蒙墾田 白葦黄茅 墾田を蒙(おお)う
奪却児孫身上暖 児孫の身上の暖を奪却し
霽光空照旧風烟 霽光空しく照らす 旧風烟
<解説>
もとの詩はこれです。
「金沢」 鱸松塘
小人謀利率皆然 小人利を謀ること 率(おほむ)ね皆然り
潟鹵能開幾頃田 潟鹵能く開く 幾頃の田
奪却漁村蝦菜業 漁村蝦菜の業を奪却す
湖山無復旧風烟 湖山復た旧風烟無し
詩の訳
諫早だけでなく、全国の干拓事業、更に公共事業というものへの懐疑というのが、下敷きです。
[大意]
下衆な人間が、世の風潮に疎いことは今も昔も変わっちゃいない。
本来豊かな実りのあるべき新田は、雑草に覆われているではないか。
「国債」という形で、負の遺産を全て子孫に押し付けているだけじゃないか。
清らかな月の光が、晧晧と、嘗ての景勝の地を照らしている。然し、昔ならよく映えたのに今となっては、空しいばかりである。
大したこともない詩であり、元の鱸松塘の品格をかえって落すような作になりましたが、平に御容赦。
<感想>
鱸松塘の「金沢」の詩を改めて読みました。(書き下しと口語訳は、上村売剣著「日本名勝詩詳解」から引用させていただきました)
振り返ると人間は同じ様な過ちを繰り返して、それでも懲りないものなのでしょうか。
元の詩と同じ語がポイントの所に使われていて、やや付き過ぎの感がしますが、品格としてはかなりの線だと思いますよ。
2001. 3.14 by junji
作品番号 2001-36
源宗坊 呉八景懐古之一
騒客絶長惟静閑 騒客、絶えて長くただ静閑のみ、
渓流懐古湯舟山 渓流、古を懐かしむ湯舟山。
路傍佇立仁王像 路傍に佇立す仁王像、
迎稀人来成破顔 稀人の来るを迎えて破顔となる。
<解説>
[訳]
多くの人で賑わっていたのは遙かな昔
いまはひたすら静けさのみ。
ここ湯舟山では水の流れだけが昔を懐かしむ。
路傍に佇む仁王像は、
滅多に来ない客人を迎えて、笑顔となった。
呉市清水谷の上流にある湯舟渓は、明治から大正にかけて料亭や温泉があり近隣随一の行楽の地だった。
昭和にはいると客足も次第に減っていったが、入れ替わるように「源宗」という「昭和の奇僧」が、薬草を育てて町で売って、コンクリートで大仏や仁王像・竜の噴水などを作っていき、一大奇景の地となった。
大仏は手まで完成したところで源宗がなくなり未完成のまま今に残るが、その他の像や寺院は今でも木々に埋もれかけながら残っています。
・私の住んでいる広島県呉市には明治から昭和のはじめにかけて呉八景と賞された景勝・名所がありました。平成の今、かつての呉八景を巡って、詩作シリーズとしていこうと思っています。
私の HPに 画像入りで紹介しています。
<感想>
金先生のホームページを見せていただきましたが、画像も美しく、何よりもご自身の足で見て回ったという息づかいが感じられるものが多く、価値が高いと感じました。
今回の詩は、平声が全体的に多く感じます。承句は『湯舟山』 と固有地名を入れたので「下三平」となったのは仕方ないかもしれませんが、どこかでバランスを取る工夫は欲しいところです。
結句は、「二四不同」が崩れていますし、「迎稀人来」という表現も読み辛いですから、推敲が必要でしょう。
2001. 3.19 by junji
作品番号 2001-37
春夕賞梅花
少年喜対花開笑, 少年喜んで対す、花の開笑するを,
老叟賞嘆梅吐霞。 老叟賞嘆す、梅の霞を吐くを。
春夕逍遥随伴狗, 春夕(シュンセキ)の逍遥、狗(いぬ)に随伴すれば,
紅雲白雪遶家家。 紅雲白雪、家家(いえいえ)を遶(めぐる)。
<解説>
家家の庭に梅の花が咲き誇る季節になりました。小生、生来ガサツで、若いときは季節の花々をめでる気持ちになれませんでした。若い美しい女性にはいくらでも眼がいきましたが。。。
しかし、詩を作り始めてからは、不思議なもので、花が眼に入ります。なぜだろうと時々思います。歳のせいかとも思いますし、そうでない何かのせいかも知れません。
今回の作、そんなことを考えながら、梅に思いを寄せています。紅雲白雪、少々オーバーかも知れませんが、わが日本の家の庭に植えられているおびただしい数の梅、その咲き誇る様子を表現したいと思い、あえて誇張してみました。
起句・承句は、対句のつもりです。「開笑」は、「笑いを開く」という意味に使っていますが、問題があるかもしれません。
<感想>
自然の景物を見て感じることでは、私も鮟鱇さんの仰ることを感じます。
以前はどちらかと言えば、自然のダイナミクスな面を好んで見ていたようで、険しい山肌、切り立った絶壁、深い谷間など、自然の厳しさなどに目が行っていました。
何時の頃からか、一本の樹木や、静かな渓流、小さな花などにも目が向くようになりました。
私は、これは自分の進む速さと関わっていると思いました。山の中の道、海沿いの道、どこでもそうですが、自分の足ではなく、車で通り抜けるようにして見ていた時には、ものはマクロにしか見えません。通過した後の残像として、大きく残るものが見えていただけなのでしょう。
車から降りて、ゆっくりと歩いた時に、じっくりと眺めるなんてつもりはなくても、見逃していたものが見えてくることを知りました。
若い時には、自分の歩く速度を緩めることはなかなかできませんし、乗っている車から降りることもできないものです。そういう意味では、鮟鱇さんの言われるように、年齢も関係が深いのでしょうね。
でも、それ以外にも、何かあるように思いますね。
さて、いただいた詩についての感想です。
前対格になっていますが、「喜対花開笑」は分かりにくい並び方ですね。私は確認できませんが、中国語でもこのままで伝わるのでしょうか。
「喜対」はこのままで、「喜対〇〇花」とすると、韻字も揃いますし、おさまりが良いように思います。対句に執着するならば、下三字をもっと具体的にして、意味の上でも承句と相対するようにしたいと思いました。
結句の「紅雲白雪」は、「春夕」という状況ですので、決して違和感はありません。幻想的な雰囲気も出て、辺り一面、花に包まれたような感覚が出て、面白く感じました。
春の一日、日常からふと紛れ込んだ異次元の里、桃源郷(この場合は梅源郷と言うべきでしょうか)にいるような、そんな余韻を残す後半ですね。
2001. 3.19 by junji
作品番号 2001-38
戯作
折腰豈能容 腰を折る 豈に能く容んや
承顔不堪恥 顔を承く 恥じるに堪えん
休譏數數然 譏るを休めよ 數數然たるを
冷然御風子 冷然たり 風に御する子
<解説>
五言古詩の仄韻詩になってしまいました。ゆるして下さい。
[語釈]
「承 顔」 :他人の顔色をうかがう
「數數然」:齷齪するさま。(荘子「逍遥遊」)
「冷 然」 :軽妙な様子
「御風子」:列子のこと。風に乗って旅をしたとされる。(荘子「逍遥遊」)
[訳]
腰を折ってへいこらへいこらすることは私にはできない
相手の顔色をうかがうことも耐えられない
漆園の敖吏よあくせくしている私を謗らないでおくれ
私の心はひょうひょうとして彼の風に乗って楽しんでいる人と同じだから
戯れにということで、故事を多用した詩を作ってみました。
全句に故事があります。知識を見せびらかせた、鼻持ちならない詩だと思いますが、反面教師にしてくれたら幸いです。
昔、故事を多用して注意されたことがありました。何事も技巧のあとをみせてはいけないのでしょう、羚羊挂角が肝要かと思います。
<感想>
故事を詩の中で効果的に使う、というのは難しいと実感しています。
漢詩創作の場合には、ほとんどの参考書では、「和臭を避け、言葉は詩語を用いるように」とされています。その際の詩語とは典拠のある言葉と教わった方も多いのではないでしょうか。
そうした用語の問題と、故事を用いて表現するということとの関係は、混信する場合があり、つい多用してしまいがちです。
本来、故事は詩を重層的にすることを目的として用いられるべきであり、効果的な一語によってその語の背景となる詩文がイメージされるものなのでしょう。
私は、日本の和歌における「本歌取り」と似通う部分があると思っています。『新古今和歌集』の時代に好んで使われた技法ですが、古歌の一節を借用したり、連想させたりしながら、短歌三十一文字の表面に描かれた世界に、もう一つ別の本歌の世界を重ねるというものでした。
この本歌取りなどは、知識をひけらかす極めてペダンティックな手法とも見えますが、貴族社会における共通教養を前提とした、ハイレベルな言葉遊びでした。それを「余情」「幽玄」という概念と結合させて、「縁語」の技法とともに、重層化の手法へと発展させたのが、『新古今和歌集』の時代性と言えます。
直接の本歌取りではないにしても、例えば、
春の夜の夢の浮き橋とだえして 峯にわかるる横雲の空 藤原定家
の歌などは、文字通りの通釈としては、「春の夜の短い夢が途中で切れ、(外を見ると)横雲が峯から離れていくところだった」ということですが、「縁語」として、「夢」「とだえ」「わかるる」と重ねて、はかなく途切れたという感情を浮かび上がらせています。
更に、「夢の浮き橋」という『源氏物語』の最終巻の題名を持ってきて、「途中で切れてしまった」という意味を出すとともに、この時の「春の夜の夢」が『源氏物語』に描かれたような、雅やかな、なまめかしいものであったということを暗示しているわけです。
こうした効果によって、この歌は、複雑で濃厚な味わいを持つものとなっていますね。
同じく定家の歌では、
駒とめて 袖打ち払ふかげもなし 佐野の渡りの雪の夕暮れ
が有名ですが、この歌は、『万葉集』の「苦しくも降り来る雨か 神が崎 狭野の渡りに家もあらなくに」を本歌としつつ、「雨」を「雪」に変え、「夕暮れ」に時刻を設定して、余情性を強めています。
昔思ふ 草の庵の夜の雨に 涙な添えそ 山ほととぎす
この歌は、定家の父親である藤原俊成の歌ですが、『古今集』の「夏山に鳴く郭公心あらばもの思ふわれに声な聞かせそ」を本歌として、さらに、白居易の「蘭省花時錦帳下/廬山夜雨草庵中」の詩句も下地として構成された歌です。
これらの歌を見ていると、古歌を自分の歌の中に生かすという精神のあり方を教えられているように感じますね。
敢えて故事多用の詩を送って下さった謝斧さんのお気持ちに感じ、つい長くなってしまいました。
2001. 3.19 by junji
作品番号 2001-39
卒業写真
卒業佳朋会一堂 卒業 佳朋 一堂に会す
一張照片已為黄 一張の照片(写真) 已に黄となる
其中認得君容貌 其の中 認め得たり 君の容貌
昔日青春制服娘 昔日 青春 制服の娘
<解説>
季節がら柄にもなく感傷的になりました。
卒業の写真は すでにセピア色
あせることなし 君への思い
<感想>
以前にニャースさんからは、「帰郷」 の作で、マドンナへの思いの作品をいただきましたね。青春時代への郷愁は、やはり憧れの君と結びつくもの、胸に迫るものが私にもあります。
私は昨年、高校を卒業して30年ということで、同窓の者たちが集まる機会が何度かありました。正確な卒業名簿を作ろうと、まさに変色しかけた卒業アルバムを開いて、顔と名前を確認したりを何人かでしたのですが、つい手が止まるページというのがそれぞれにあるようでした。
さて、詩についての感想ですが、今回は言葉のつながりがあまり無く、羅列されているような印象です。
特に、起句は言葉足らずで、このままでは卒業した時に皆が集まったということなのか、何年か後に集まったのか、つまり写真を指しての過去のことか、それを見ている現在のことなのかが分かりにくいと思います。
転句も仰ることは分かるのですが、あまりにも表現が直截、散文的で、詩としての趣が消えてしまっています。
結句は、「制服娘」という所が気になりますね。「昔日」の思いを表すのに 「制服」 が最も適しているのか、やや感情の勢いに流れたように感じます。
奔流の如くあふれるものを言葉に置き換えるのが詩ではありますが、表現者はそれをそのまま出してしまうのではなく、一旦自分の胸の辺りで転がしてやり、その後に言葉に表すと、良い言葉に出会えるように思っています。
今回の詩は、誰もが共感しやすい心情が描かれているわけですから、どんな風に書いても分かってはもらえると思います。しかし、だからこそ言葉の選択が重要ですし、また、それが詩を作る面白さだとも思います。
2001. 3.21 by junji
作品番号 2001-40
春日偶成(改)
彩邦風暖白雲回 風暖かにして 白雲回り
鳩谷水清啼鳥来 水清らかにして 啼鳥来る
淑気韶光誰共語 淑気 韶光 誰と共にか語らん
花蹊独歩亦佳哉 花蹊 独り歩くも 亦た佳き哉
<解説>
埼玉県鳩ヶ谷市に転居に際し、作った詩です。「彩邦」は「彩の国“さいたま”」の意味。
<感想>
前半は収まりがよく、スケールの大きな景になったと思います。
後半については、転句の反語表現(誰と語り合おうか、いや、誰とも語らない)は普通、「だから嫌だなぁ」という気持ちを導きます。結句で「独歩亦佳哉」と気持ちが逆転するためには、理由が「花蹊」だけではやや物足りないかもしれません。
結句は整っていると思いますので、転句の「誰共語」を工夫できれば面白くなるでしょう。
あまり良い句ではないかもしれませんが、例えば、「淑気韶光春立日(淑気 韶光 春立てる日)」とか、「淑気韶光人日夕(淑気 韶光 人日の夕)」などの即事で感情をここは抑えておくのも良いと思います。
2001. 3.21 by junji
作品番号 2001-41
慕君 君を慕う
櫻花爛漫碧楊新 桜花爛漫 碧楊新たなり
山色水光萬里春 山色水光 万里の春
君想如何觀列宿 君は如何にと想い 列宿(空の星座)を観る
共行色楽我夢巡 共に行色(旅立ち)を楽しまんと、我は夢を巡らす。
<解説>
満開の櫻が咲き、新緑の柳が春を告げる季節がやって来ました。
また、今年も君と楽しい旅をすることに、私は夢を巡らせている。
<感想>
今朝の朝日新聞の『天声人語』では、今年の桜は例年よりも1週間から10日程開花が早いとか。東京では今週中がピークだと言う話なのですが、我が家の庭の桜はまだ蕾がふくらんだ程度。愛知県は東京よりも桜前線は早いと思っていたのですが、どうも逆転が起きたようです。
桜の花は広い視野で眺めた時に美しさを倍増させます。まさに、「山色水光萬里春」という言葉の通りだと思いますね。
起句承句の整った表現に対して、転句結句がやや尻すぼみの感がありますね。文法的にも、「君想如何」「共行色楽」はおかしいですし、「我夢巡」も「我は夢を巡らす」と読むのでしたら問題があります。(「我が夢は巡る」と読むのなら良いのですが・・・)
結果として、後半を読むのにもたつく分、全体の印象がぼやけてしまい、せっかくの前半の佳句が生きてきません。転句結句から作り始める形でお考えになったらいかがでしょうか。
2001. 3.28 by junji
作品番号 2001-42
三春風
体露体蔵一満月 体露るるも 体蔵るるも 一満月
花開花落三春風 花開き 花落つ 三春の風
不知回首本何拠 知らず 首をめぐらせ もと何の拠るところぞ
到海従天還雨降 海に到り 天よりして また雨の降る
<解説>
[語釈]
「露」:あらわれる。
「蔵」:かくれる。
「体露体蔵一満月」:『従容録』三七則より
「花開・春風」:『従容録』三八則より。
「従」:・・より。
「還」:また。
<感想>
春の風は気ままで、人の心を騒がせるもの。しかし、その春風も大きな大自然の流れの中で生まれ、消えるもの。――そんな感じに理解しました。
前半の同字反復が古詩の雰囲気を強めて、素朴な力強さを伝えてきますね。
4月を迎えると、春も最後の一ヶ月(季春)となります。学校も会社も新年度の始まり。希望の時でもあれば、別れを告げる時でもある。例年のこととは言え、愁いの深まる季節ですね。
2001. 3.28 by junji
作品番号 2001-43
西安旅情
春霞万里到咸陽 春霞万里、咸陽に到る。
列伍整然土俑場 列伍、整然たり、土俑の場。
賜浴嬌羞連理館 浴を賜り、嬌羞す、連理の館。
恩哀切々独傾觴 恩哀切々たり、独り觴を傾く。
功名卓絶安天下 功名卓絶、天下を安んずれども、
恃色専権殆廟堂 色を恃み、権を専らにし、廟堂を殆(あやう)くす。
百代恩讐多古意 百代の恩讐、古意多く、
長安落日感無常 長安の落日に無常を感ず。
<解説>
地理関係:
市の西北に位置する空港から約48km(大半、高速道路)。
途中、秦の兵馬俑坑、楊貴妃ゆかりの華清池や、未央(今は料金所)など数多くの史跡がある。
西安市は秦より唐に至る12王朝の首都で街路は碁盤の目である。
即天武后ゆかりの品もある。城門(壁)に登って市街を見渡すことができる。
<感想>
房徐齢さんからは、推敲を何度も重ねられたようで、改訂版を何度か受け取りました。私も、詩や曲を書く時には、これで完成かどうかで悩み続けます。
詩の感想ですが、もれなく西安の歴史をふまえた詩句が用いられ、房徐齢さんの感動の中心が歴史散策にあったことをよく伝えていると思いました。ただ、その分、西安の情景としては「春霞万里」と描かれたのみですので、七律という字数の多い詩の構成としては、やや寂しい感じもします。
できましたら、首聯は自然描写に意を注いで、頷聯以降に歴史的な遺跡や遺物を描いて行くと、最後の「無常」の意味が対照されて分かりやすくなると思います。
対句については、頷聯・頸聯とも対応が弱いようです。主題も対象もはっきりしている詩ですので、対句も明瞭にした方が、読者にも印象が深くなると思います。
2001. 4. 1 by junji
作品番号 2001-44
西安旅情・続
慈恩大塔艶陽天 慈恩の大塔、艶陽の天。
最愛蘭亭上巳莚 最も愛す。蘭亭、上巳の莚。
更想楽遊無限好 更に想う。楽遊、無限に好かりしと。
今宵定宿学邨辺 今宵、宿を定めん、学邨(そん)の辺(ほとり)に。
<解説>
前作の七律は都の西北に偏しており、バランスをとるためと、漢詩の特質の一つが委曲を尽くすに在りますゆえに、続編として七絶(一先韻)を添えました。
<感想>
唐代の詩句をいくつも織り交ぜて、時代を一気にさかのぼるようなスピード感のある詩だと思いました。唐詩を愛する人が旅をして作ったんだなぁとつくづくと感じます。
こんな詩が作れると楽しいですよね。
2001. 4. 1 by junji
作品番号 2001-45
同君賞桜花
風定雪融江水青, 風定り雪融けて 江水青く
櫻雲湧処鳥声明。 桜雲湧く処 鳥声明なり。
同君何用尋幽酒, 君とともに何んぞ用いん尋幽の酒,
花似銀河春降清。 花は銀河の春に降って清きに似る。
<解説>
昨年の春、妻と山里で見た桜の印象を歌ったものです。小生は近くのみやげもの屋で缶ビールを買いたかったのですが、歩きながら酒を飲むことは妻の許すところではありませんでした。
なお、承句冒頭「桜」は冒韻であるのかも知れませんが、句頭については許されるように理解しています。
<感想>
前半はとても視点が明快で、きれいに仕上がっている詩ですね。転句で「酒」が見え始めてから、やや俗っぽくなりましたか?
結句の「銀河春降清」は、「春の銀河は淡く、故に清らか」ということでしょうか。私としては、「清」という形容が今ひとつ共感し辛いのですが。
他には、各句の頭が全て「平声」ですので、これは「平頭」、リズムが単調になりますので、できれば避けたいところです。
2001. 4. 1 by junji