第151作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-151

  凭欄人・雨後小春        

黄落紅楓別趣春,   黄落紅楓(コウラクコウフウ)、別趣の春、

暄日軽煙狗引人。   暄日軽煙(ケンジツケイエン)、狗(イヌ)は人を引く。

鴉声雨後新,      鴉声、雨後に新しく、

碧天一片雲。      碧天に一片の雲。

          

<解説>

 詩ではなく、詞の投稿、お許しください。
 雨あがりの小春日和を写景しました。
 「黄落」は「銀杏」の落葉、「別趣」は「別の趣き」、「暄日」は「温かい日ざし」、「軽煙」は雨あがりの「淡い靄」のつもりです。

 「凭欄人」は詞牌の名称、「雨後小春」は拙作の題です。
 詞では、近体詩の律詩・絶句に詩譜があって平仄に規範があるのと同様に、平仄の規範としての詞譜が、詞牌ごとにあります。「凭欄人」の詞譜は次のとおりです。

  ▲●○○▲●◎,▲●△○△●◎。○○▲●◎,▲○△●◎。
    平声  仄声  応平可仄  応仄可平  平声韻

 この詞牌は、四句すべて押韻します。ただし、韻は、詞韻により押韻します。拙作は、詞韻「六部」により押韻しています。
 詞韻は、詩の百六韻に比べ、ずっと現代中国の標準語(普通話)の韻に近いと思います。詞韻の第六部の韻は、百六韻の上平声「真」韻「文」韻のすべてと「元(一部:現代韻で−anとなるものを除き、−unを含む)」を包括しています。
 この結果、現代韻との差意がきわめて少なく、たとえば百六韻では、「新(現代ではxin1)」は真韻、「欣(xin1)」は文韻、また「温(wen1)」は元韻、「文(wen2)」は文韻であるなど、現代では同じ韻のものが別の韻目となっています。しかし、詞韻では、これらはみな同じ韻です。

 字数は24字、ちょうど五絶と七絶の中間です。反法・粘法の組み合わせは絶句と異なりますが、五絶・七絶の規模の題材を扱うのに便利な詞牌だと考えています。
 また、詩では転句・結句の順番をめぐって指正を受けることがよくありますが、そのような場合に転句と結句は粘法で平仄がまるで違うし、転句は押韻せず結句は押韻句であるために改修は少々やっかい、ほとんどはじめからやり直しになりますが、「凭欄人」では1・2句、3・4句の平仄は粘法になっていますので、1と2、3と4の入れ替えはあっという間です。これも便利。
 みなさんもお作りになってみてはいかがですか。

<感想>

 詩と詞が中国古典詩の両峰ですが、日頃私たちが多く目にするのは「近体詩」としての絶句と律詩、『唐詩選』『唐詩三百首』『古文真宝』で目にする「古体詩」がほとんどです。
 鮟鱇さんを始め、皆さんが詞をこのホームページで紹介して下さるのは、とても貴重なメッセージだと思っています。
 古体詩や詞を作るのは難しい、という気持ちが私にはずっとありましたが、身近に感じられるようになってきました。(まだ挑戦できないではいるのですが・・・・)
 第一句の「黄落紅楓別趣春」は、蘇軾の「一年好景」『贈劉景文』)や劉禹錫の「秋日勝春朝」『秋思』)と同じ趣の佳句と思います。

2000.12.13                 by junji





















 第152作は大宮市の三十代の男性、 マイケル さんからの作品です。
 初めて作った作品とのことですが、21世紀を迎える気迫が感じられる詩ですね。

作品番号 2000-152

  新年        

辛巳新世紀   辛巳 新世紀

曙光払蛇心   曙光 蛇心を払う

五十年旭輝   五十年 旭は輝く

憂無大海臨   憂を無くし大海に臨まん

          (下平声「十二侵」の押韻)

<解説>

 平仄が間違っているかもしれませんが、初めて作ってみました。
 私の会社の50周年にあたる2001年がちょうど新世紀となって、邪な心を捨て、景気は良くなくいろいろ問題がありますが、心機一転、仕事に励みましょう。
 ちなみに、旭は会社名であり、船会社なので、大海に臨まんとしました。
 愚作へのアドバイス頂ければ、幸甚です。

<感想>

 全体に新年を迎えるにふさわしい言葉が使われていて、暗い世相の中、希望の光が目に浮かぶような内容だと思います。
 承句の「蛇心」は、私はあまり目にしない言葉ですが、『大漢和』で確認しましたら、「蛇のように執念深い奸悪の心」とありました。どのようなことを指しての言葉かわかりませんが、何か余程悪い意思が胸にあるようで、穏当な表現ではないように思います。結句の「憂無」(ここは語順を逆にして「無憂」の方が適切だと思いますが)と内容的にも重複しますから、承句は「勇気が湧いてくる」とか、「元気が出てくる」とかの明るい方向への言葉にした方が良いでしょう。
 あるいは、もう少し軽めの表現で、「払俗心」ではどうでしょう。
 会社の50周年とのことですのが、お祝いの気持ちをこうして詩で表すのは、古来文人の作法でした。マイケルさんのこの詩は、会社の皆さんの気持ちを代表して語られたものでしょうね。素晴らしいことだと思います。
 平仄が合っていない点(起句・承句・転句)につきましては、ご了解の上と思いますので、次作での挑戦を期待します。


2000.12.13                 by junji





















 第153作は ニャース さんからの作品です。
 

作品番号 2000-153

  日没東京      日没の東京  

日没東京大廈連   日没の東京 大廈連なり

晩秋悲哀在双肩   晩秋の悲哀在双肩

何時我可成偉業   何時 我 偉業をなすべけんや

只有懐中弐万円   只有る懐中弐万円

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 友人にみせたら二万円もあれば上出来だといわれてしまいました。

<感想>

 「大廈」は「大きな家」のこと、現代中国語では[dasha]で「ビルディング」です。この詩の場合は東京の高層ビル群を指しているのでしょう。
 結句のユーモラスな収束、それまでの大仰な悲哀からの大逆転に、思わず手を叩いて笑ってしまいました。「晩秋悲哀在双肩」だの「我可成偉業」という、盛唐詩のような重々しい言葉を辛抱強く転句まで連ねてきて、一気に口語文芸の世界に突き落とす、こうした洒落た詩の展開は私は大好きです。
 高尚風雅な詩情も、財布の中をのぞき見る俗情も、どちらも私たちには現実の世界であり、その間を行き来する面白さが日常であるからには、この詩はまさに写実の典型でしょう。なおかつ、風格を失していない点が良いと思います。
 ただ、二万円を多いと見るか少ないと見るか、ここはかなり難問かもしれません。

2000.12.13                 by junji





















 第154作は 観水 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-154

  東京夜景        

東京四万八千楼   東京四万八千楼

炯炯光芒夜夜浮   炯炯たる光芒 夜夜浮ぶ

我識今人偸星月   我は識る 今人星月を偸めり

青天寂漠銀漢幽   青天寂漠 銀漢幽なり

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

 古代、夜空は星々で輝いていました。
現代の夜は、大地が人口の光で埋められ、空は暗いばかりです。
人類が夜空から星や月を奪ったようです。都会で夜景を眺める度に思うことを詠ってみました。

「四万八千」という数字は、単純に「南朝四百八十寺」を100倍しただけです。東京にある高層建築物の実数は知りません。

<感想>

 平仄で見ると、転句結句の「二六対」が合いませんね。

     ○○●●●○○
     ●●○○●●○
     ●●○○○○●
     ○○●●○●○


 転句の「星月」を「星月」として、転句の平仄を●●○○●○●とすれば、一応(挟み平とそれに伴うフォローという救済策で)解決しますが、今回の転結句は言葉の選択が今ひとつぴんと来ません。
 現代人が夜空から星を奪ってしまったという発想は問題はないと思いますが、月まで盗んだと言われると、「???」となります。月はさすがに明るくて、現代でもまだ見ることはできます。どちらかと言えば、高層ビルに物理的に隠れてしまって見えないという方が適当ではないでしょうか。
 もう一点は、おっしゃるような都会の燭光によって暗くなっている夜空を「青天」と呼ぶのは、私には違和感があります。
 挟み平は平仄によるリズムの一つの型ですので構いませんが、語句の流れがゴツゴツしますと、読後感が濁ります。起句承句の流れるような言葉の響きは、観水さんの若々しい感性がよく表れていると思いますが、やや尻すぼみの感有り、推敲を期待します。

2000.12.20                 by junji





















 第155作は 観水 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-155

  夢 親        

酔人焉得故園情   酔人 焉くにか得ん 故園の情

痛飲狂歌楽帝京   痛飲 狂歌 帝京を楽しむ

今夜独眠寒月下   今夜 独り眠る 寒月の下

不知何処老親声   知らず 何れの処か 老親の声

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 忘年会のシーズンということで。
 酔って愁心を忘れようとしても、思うようには行かないようです。

<感想>

 こちらの詩は、起承転結の整った、用語も明解な詩だと思います。特に転句の「今夜」が生きていて、起・承句の帝京の普段の生活との対比がよく分かります。
 また、結句の「何処老親声」も実感の伴った、内容と適合した良い表現と思います。「何処」と来たので「不知」と受けるのは、やや言葉が走った感じがします。単に「聞こえた」というくらいにして、不知のような感情の伴う語は抑えた方が、「何処」の語がより生きてくるように思いますが、いかがでしょうか。

2000.12. 20                 by junji





















 第156作は 隆葦 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-156

  秋 径        

楓林落葉韻深深   楓林 落葉 韻 深深

歩歩粛粛踏囁音   歩歩粛粛として囁音(ささめき)を踏む

樹間冷風思土湿   樹間 冷風 土湿(うるほ)ふと思ほえば

山稜曳彩日将沈   山稜彩(さい)を曳きて 日将に沈まんとす

          (下平声「十二侵」の押韻)

<感想>

  前半の聴覚を中心とした描写から、後半の視覚への転換は、起承転結の面白さをよく出していると思います。こうした感覚は、工夫するというよりも自然に出るものだと思いますが、漢詩の場合には重要な要素です。
 用語としても、日本の晩秋の山を描くに適した言葉が多いと思いますが、起句承句の畳語「深深」「歩歩」「粛粛」は、連続していることもありますが、やや多すぎるでしょう。特に「歩歩」「粛粛」は仄声ですので、承句は何と六字仄声が続いてしまっています。これは音調上からは読みにくい句になりますので、「粛粛」を何か別の言葉に換えた方が良いでしょう。
 転句の「思土湿」は、わざわざ「思ほえば」と読みを付けてますので、多分偶然条件接続、「思われて時にたまたま〜」と訳す意図でしょうが(正岡子規の俳句「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」と同じです)、漢詩を白文で読んでいくとどうしても、「土が湿ると思った」ことと「日が沈もうとしている」ことが繋がってしまいます。本来因果関係の無いものが結びつきます。
 これは、「思」という感情を表す言葉が良くないのです。秋の山径の情景を描いてきた中に突然、「私は思う」と主張が出てきたから、つい、「だからどうなるの?」と読者は考えざるを得ません。写実に徹して、「教土湿(土を湿らしむ)」くらいでどうでしょうか。
 前作も、余韻を持った落ち着いた詩だったと思います。今回はより詩情豊かな感じがします。

2000.12.20                 by junji





















 第157作も 隆葦 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-157

  寒 夢        

払暁夢中遇一人   払暁 夢中 一人(いちにん)に遇ふ

細声触耳息清新   細声耳に触れて息清新たり

尋吾旧時花咲季   吾(あ)に尋(き)く 旧時花咲けるの季(とき)

何為怱怱不寄脣   何為れぞ怱怱として脣(しん)に寄らざりし

          (上平声「十一真」の押韻)

<感想>

 この作品では平仄を確認しましょう。
起句から順に書き出せば、次のようになります。

     ●●●○●●◎
     ●○●●●○◎
     ○○●○○●●
     ○○○○●●◎

 問題点は、
@起句が孤平であること。
A転句結句が二四不同・二六対を破っていること。
 結句の「為」は、「ために」と助字として用いれば仄声ですが、「なす」「なる」「す」と動詞用法の時は平声となります。

 内容としては、幻想的な雰囲気が感じられ、思わず引きつけられてしまう詩ですね。夢に現れたのは一体誰なのでしょうか。興味津々・・・。
 ただ、このままではやや理解し辛い語句もあります。
 起句の「夢中」は、「夢裡」とした方がよいでしょう。また、「一人」は、意図としては「ある人」という意味でしょうが、漢詩では「一人」は人数として「ひとりの人」となります。
 転句の「花咲」も、できれば「花発」としたいところですが、平仄から行くと無理ですね。どうしましょうか?
 平仄と内容との関係で苦しむと、実はそれが推敲の面白さにつながります。チャレンジを続けて下さい。

2000.12.22                 by junji





















 第158作は 観水 さんからの作品です。
 今回は「詞」の投稿ですので、鮟鱇さんに講評をお願いしました。

作品番号 2000-158

  凭欄人 錦衣夢        

碧水青山郷里春   碧水青山 郷里の春

白馬金鞍衣錦人   白馬金鞍 衣錦の人

只今世紀新      只今 世紀も新なり

吟詩奉老親      吟詩 老親に奉らん

<解説>

 鮟鱇さんの「凭欄人・雨後小春」に倣って詞を作ってみました。
 宋詞については全くの不勉強です。このような作り方で宜しいのでしょうか?
ご指導いただければ幸甚の至り。



<感想>

 鮟鱇です。
 すばらしい「凭欄人・錦衣夢」拝読しました。

 とくに、「碧水青山郷里春」「白馬金鞍衣錦人」の対聯、美しいと思います。このような「対聯」は、近体詩では絶対に書けないものです。
 まず、第1句と第2句の平仄が完全な粘法になっています。(●●○○○●◎,●●○○○●◎。)一方、近体詩の対句は、平仄が反法でなければなりません。
 また、観水さんの対句は、「碧水・青山」「白馬・金鞍」と色彩がとてもにぎやかな名詞句が並べられており、述語がどこにもありません。日本の俳句史を研究している中国の研究者から、「日本のみなさんは大自然を前に歌い、大自然との一体感を歌いますね」といわれたことがあります。つまり、われわれ日本人の句作りは「写生」が多いのですが、「写生」には述語が必要です。
 たとえば、「碧水遶青山」と、述語の「遶」一字を入れれば、そこに描かれた碧水と青山は、作者の目の前にある実景として具体的に写生されます。しかし、「碧水青山」だけではもう少し抽象的です。「碧水青山」の4字は、「郷里春」を修飾する枕言葉のようなものにも読めますし、「碧水(の春)、青山(の春)、郷里(の春)」という風にも読めます。抽象画が見る人によってさまざまに受け取られるように、名詞句をにぎやかに並べる手法は、一見具象的な写生のようでいて、それとは別のものです。そこには、ある種の抽象化されたメッセージがあります。「景」と「情」に分ければ、抽象的であるだけに、「情」により近いメッセージです。

 「白馬金鞍衣錦人」は、第1句同様、具象画ではありませんから、様々な想像が可能です。つまり、おそらくその青年は今はまだ、白馬に金鞍、錦衣の人、ではない。心には錦、の段階かもしれない、などと。しかし、懐かしい故郷をさわやかに前にして、新しい時代へ向けての志は高揚しています。そんな気持ちを詩に託して、早く老親と語りたい、そういう情景が頭に浮かびます。

 ただ、第3句の「只今世紀新」については、全体の句作りをどうまとめていくかで、いくらか問題にされるかも知れません。「白馬金鞍錦衣」は、現代生活にはないものですから「世紀」という現代語と親和しないと、指正されるかも知れません。
 しかし、詩詞は作者の立場がより多く詠み込まれている方がよいと、小生は思います。
 「只今世紀新」「世紀」を、宋人あるいは元人が読んでも不自然でない語と置き換えたらどうなるかですが、その場合詞の全体は擬古詞として完成度の高いものにはなるでしょうが、作者の観水さんが何を考えそのような詞を作ったのか、背景のまるでわからない詞になると思います。おそらくは中国文学を研究していて、正月は故郷でご両親に研究の進み具合でも話すつもりの詞の主人公の姿は見えてきません。

 もちろん、このことは観水さんが詞に書いたことではありません。わたしの勝手な想像です。しかし、「白馬、金鞍、錦衣」「世紀」が共存すればこそ、そういう想像が可能になります。錦を飾る帰郷の詞として読むにしても、「世紀」という語で現代に軸足を置いて「白馬、金鞍、錦衣」と読めば、故郷に錦を飾る古人の文化と現代の主人公の帰郷という現実が読者の頭のなかで対比されます。その対比があって、「心には錦」というメッセージが、読み取れるようになります。観水さんの詞で歌われているのは、白馬に金鞍・錦衣の古人ではなく、オートバイにジーパンのいでたちで、「白馬金鞍衣錦人」という佳句を、さまざまな思いで口ずさみながら、故郷へと突っ走っている主人公です。そういう主人公の心中如何、また、彼が老親に奉る詩の内容如何、ということは、いまはまだ錦衣の人ではない主人公が、新しい時代を迎えるというシチュエーションのなかで、読者によってさまざまに読まれるべき含蓄です。


 「宋詞の指導を」というお言葉ですが、詞譜の平仄に随って思うことを存分に書くしかないだろうということ以外に、小生に言えることはありません。
 ただ、観水さんの玉作では、第3句の頭2字の平仄は詞譜では「○○」ですので、「只今」「只」(上声紙韻のはず)が少々気になります。平仄を整えるためだけのこととして「只今」「剛才」ぐらいにしたらどうかと思います。詩では頭2字目の「孤平」はあまりうるさく咎められませんが、さまざまな「詞譜」、また実作を見ますと、詞では詩以上に「孤平」を極力避けようとしていると思えます。
 しかし、上記の「○○」も、「△○」としてはいけないと、強く言えることではありません。詞における平仄は、一般に近体詩よりも厳格ではありますが、二四不同二六同、三連の禁、孤平の忌避などの詩の「律句」の規律をきちんと認識していれば、多少の変化は許されるもののように思えます。

2000.10.21                 by 鮟鱇


お詫び:
 鮟鱇さんの講評はもっと長い文章でしたが、一般読者の方に関連の深いところを選択して掲載しました。鮟鱇さんの書かれた意図が十分伝え切れていないかもしれませんが、私の責任です。観水さんご本人には全文、送りました。

2000.12.21                 by junji





















 第159作は 観水 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-159

  除夜作      除夜の作  

寒風冽冽赤門傍   寒風冽冽たり 赤門の傍

寂寂鐘声独断腸   寂寂たり鐘声 独り断腸

千里懐家涙如雨   千里 家を懐えば 涙雨の如し

本郷不是吾本郷   本郷は是れ吾が本郷ならず

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 私の下宿先は東大の近くなんです。
 実家を離れ独り過ごす歳末を詠ってみました。
「本郷不是吾本郷」「この土地は『本郷』という名ではあるが、私の本当の故郷でないのだ」の意です。
 二六対が破られていますが、転句の挟平格で釣り合いが取れているでしょうか?

 [語釈]
 「赤 門」:いわゆる東大の赤門。東大自体を指すこともある
 「鐘 声」:除夜の鐘
 「本 郷」:東京都文京区本郷。赤門の所在地
 「本 郷」:本当の故郷、生まれ育った故郷の意

<感想>

 転句の「挟平格」に対して、結句の下三字を孤仄にすることは、全く問題はありません。観水さんの仰っておられることは、順序としては逆かもしれませんが・・・・。
 観水さんのこの詩は以前に送っていただいたものですが、大晦日の今日、掲載をさせていただきました。結句の二つの「本郷」が発想の面白い点で、「除夜作」の感傷として個性が表れていますね。
 大晦日を故郷で過ごす人も、他郷で、つまり家を遠く離れて過ごす人も、この年末は20世紀の終わり。だから去年と何が違うのか、と言われると、別に相違は無いという人も多いかもしれませんが、でも、やはり世紀の変わり目は気持ちの入りが違います。
 寂しさもひと味違うと思うと、少しは慰められるでしょうか。

2000.12.31                 by junji





















 第160作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-160

  (詞)凭欄人・推 敲        

往昔僧敲月下門,   往昔、僧は月下の門を敲き,

今日吾推腦裏雲。   今日、吾は腦裏の雲を推す。

両辞平仄分,      両辞、平仄分れれば,

推敲本不論。      推敲、もとより論ぜず。

<解説>

 ミレニアムの年に1000首の詩詞を作ろうと思い、1000首作りました。こういう数だけの馬鹿げたことは十七八の頃にやっておくべきですが、私が漢詩を始めたのは五十を過ぎてからですので、若いときには出来ませんでした。詩を作り始めたのが遅すぎましたし、ミレニアムを迎えるには、生まれたのが早すぎました。仕方ありません。
 とにかく、記念にと一首作りました。

  七律・吟得一年一千首

李白投湖魚喫句,林逋埋墓鬼知詩。
騒人往昔愉潜逸,書庫如今蔵孑遺。
學者可憐嘗冷炙,鮟鱇將喜擧新卮。
一壺三詠年千首,七欲百吟天一涯。

(訳)  李白、湖に投げれば魚、句を喫し、林逋、墓に埋めれば鬼、詩を知る。
 騒人、往昔(むかし)は潜逸を楽しみ、書庫は如今に孑遺(僅かな残り)を蔵す。
 学者、憐れむべし、冷炙(冷えたあぶり肉)を嘗め、鮟鱇、まさに喜ばんとす、新卮(新しい杯)を挙ぐるを。
 一壺に三詠して年に千首、七欲、百吟して、天の一涯にあり。

 この詩、全対格のつもりです。起聯がとても気に入っています。しかし、頷聯が対句になっているかどうか、自信が持てません。そこで今も推敲しています。「推敲」は本来2案があって、あれかこれかと迷うもの、小生は残念ながら、いまだ1案しかないので、「推敲」以前ではありますが。。。。

 さて、どれだけ「推敲」すれば答えにたどりつけるかですが、いちばん時間のかかっている「推敲」は、推敲の本家、賈島の「推敲」ではないかと思います。賈島は「僧推月下門」という佳句を得て、しばらくロバに揺られながら推敲するうちに、「推(おす)」を「敲(たたく)」にしようかと考えた。そこへ韓愈がやってきた。賈島は「推」と「敲」とどちらがよいかを韓愈に聞いた。韓愈は「敲」がよいと言う。そこで、賈島は、「僧敲月下門」とした。
 「推」にするか「敲」にするかは、賈島と韓愈の間ではすでにもう解決のついている問題です。しかし、それで終わらなかったのが「推敲」、もし終わっていたとすれば、今日「推敲」という言葉が成語として使われることもなかったでしょう。

 賈島と韓愈の間では「敲」がよいとされたものの、なぜ「推」よりも「敲」の方がよいのかがわからない、「僧推月下門」も「僧敲月下門」も、どちらもよい句に思えます。そこで、世人は、そのどちらの方がよいかをめぐって、賈島と韓愈のかわりに、延々と議論する、そして、その論争は「宋代を超えて今日にいたるまで結論を得ていない」とわたしが読んでいる唐詩集には解説されています。

 拙作「凭欄人・推敲」は、そんなことを思いながら作ったものです。小生がいいたいのは、不幸は「推」も「敲」もともに平声であったこと、どちらかが仄声だったら、無駄な議論はしなくてすんだだろうに、ということです。
 それにしても、韓愈は、なぜ「敲」の方がよいと思ったかです。彼の好みということもあったでしょうが、どちらもいいから「敲」でいいじゃないかと思ったのでしょうか。それとも、「推」の方がよいといえば、「敲」にしようかと散々考えた賈島が気の毒、とでも思ったのでしょうか。
 なお、拙作第3句の平仄は「○○▲●◎」でなければなりませんが、「●○○●◎」となってしまいました。一応5字の律句になっていますので、許容されるかと思っています。

<感想>

 12月にアクセス3万人を突破しましたが、クリックされたのは鮟鱇さんだったそうです。
 常連の皆さんを始め、多くの方々に支えられての1年でした。改めて、ありがとうございました。

2000.12.31                 by junji