「三四三四三」形式による和歌の漢訳
金 中
はじめに
和歌の漢訳をめぐって、ここ三十年来、日中の学者により理論面および実践面からの検討が幅広くなされ、それぞれの訳出案が提唱されてきた。本稿は、これまでの和歌の漢訳について総括した上で、漢字の「三四三四三」形式による和歌の訳出法を新たに提示し、また、この方法を用いて和歌の作品に対する具体的な試訳を行いたい。
一 先行する和歌の漢訳についての概観
和歌の漢訳については、まず非定型訳と定型訳の二種類の基本的な観点がある。
李芒氏は非定型の訳出法を主張し、和歌の具体的な内容に応じて、四言、五言、七言、および長短の句など、様々な形によって柔軟に翻訳している。(1)
あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも(2)
(古今集・羇旅・406・阿倍仲麻呂)
仰首望長天、疑是昔時月、昇自奈良三笠山。 李芒 訳(3)
和歌は定型の「五七五七七」音によって表現されるものである以上、その形式美を現すためには、漢訳はやはりある定型の形が望ましい。定型訳としては、主に次のような形式がある。
(一)和歌型
和歌の原文との「形の相似」を保つため、羅興典氏は「五七五七七」の形式による翻訳を提唱している。(4)
君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ
(万葉集・巻二・85・磐姫皇后)
国君在旅中、冉冉多日不回宮;賎妾?君帰、欲訪青山去迎君;待到何時見駕臨。
羅興典 訳(5)
しかし、和歌の「五七五七七」は日本語の仮名音節を指しており、それを漢字に表記すると、かなり短くなる。漢字の「五七五七七」では、内容的に和歌の表現より遥かに多くなり、また、リズムの面においても和歌とは一致しない。(6)
沈策氏は、古典中国語による「五七五七七」形式の欠点を考慮し、口語の「五七五七七」形式によって翻訳することを提唱した。(7)
わたつみの豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけかりこそ
(万葉集・巻一・15・天智天皇)
汪洋大海上、旗幟般的彩雲中、透射着夕陽;看来今天的月夜、一定分外地清凉。
沈策 訳(8)
この訳出法の特徴は、余分な語句を増やさぬようにするため、口語を柔軟に使用しており、これは和歌の内容を単純に表現するには比較的よい方法であると言えよう。しかし、文体、語感、気品などの点においては、中国語の口語と日本語の文語とでは天地の差があり、これでは和歌固有の格調を伝えるのは難しい。(9)
(二)伝統詩句型
1.七言四句型
この訳出法は早い時期の和歌の翻訳に見られる。
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(万葉集・巻一・21・天武天皇)
恋妹一片紫芸香、憐我深愛入衷腸。無端已為他人婦、相思遺恨共天長。
楼適夷 訳(10)
2.五言四句型
銭稲孫訳『万葉集精選』(11)、楊烈氏訳『古今和歌集』(12)は主にこの方法を採用している。例えば、楊烈氏は前掲した阿倍仲麻呂の歌を次のように訳している。
遠天翹首望、春日故郷情。三笠山頭月、今宵海外明。 楊烈 訳(13)
このほかに、多様な形式による和歌の翻訳を主張する李茫氏が、その実践において、最も多用しているのがこの形式である。例えば、同じ阿倍仲麻呂の歌を次のようにも訳している。
長天翹首望、万里一嬋娟。昔日応相識、初昇三笠山。 李芒 訳(14)
3.四言四句型
銭稲孫訳『万葉集精選』では、この形式も併用されている。
君待つと我が恋ひをれば我がやどの簾動かし秋の風吹く(万葉集・巻四・488・額田王)
方我俟君、我思漸漸;秋風吹来、動我房簾。 銭稲孫 訳(15)
4.七言二句型
豊子ト訳『源氏物語』(16)に見られる和歌の翻訳が代表例である。
空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな(空蝉)
蝉衣一襲余香在、睹物懐人亦可憐。 豊子ト 訳(17)
これらの漢訳は絶句や詩聯といった中国の伝統詩の表現形式を用いており、中国の読者に受け入れられやすいという長所がある。しかし一方、短所もあり、完全に純粋な中国詩に翻訳してしまっては、和歌固有の特色は現れてこなくなる。内容的には、七言四句型では明らかに長過ぎるし、五言四句型も比較的長い印象を受ける。そもそもこうした長い字数に合わせるためには言葉を増やさねばならず、それでは和歌の含蓄が損なわれてしまうのである。これに反して、七言二句型ではやや短く、和歌の原意を十分に伝え切れない恐れがある。これらに比べ、四言四句型は一首の和歌と比較的対応するが、この形式は主に『詩経』に見られ、格調が古色蒼然過ぎて、また、リズムも単調であるため、和歌との隔たりは甚だ遠い。
(三)減字型
1.「三五三五五」型
丘仕俊氏は、余分な内容を増やさぬように考慮した結果、和歌の五句構成の基本を保ちながら、毎句の字数を二字減らすことにした、即ち「三五三五五」形式の訳出法を提示した。(18)
近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ(万葉集・巻三・266・柿本人麻?)
淡海渺、夕浪映千鳥。聞鳥啼、吾心無限愁。懐古思悠悠。 丘仕俊 訳(19)
2.「三四三四四」型
この訳出法は和歌のリズムとの対応を重視したものである。高橋史雄氏は、和歌の二音一拍といった伝統的な観点から、七五調の和歌を「三七七」あるいは「三七八」の形式に、五七調の和歌を「三四三四四」の形式に翻訳するのがふさわしいと述べた。(20)松浦友久氏は、和歌が四音一拍であり、毎句が二拍であることを指摘して、(21)和歌の漢訳を「三四三四四」の形式に統一した。(22)例えば、阿倍仲麻呂の歌を次のように訳している。
天蒼茫 仰首遥望 奈良辺 三笠山頭 旧時明月 松浦友久 訳(23)
(四)その他
林文月氏訳『源氏物語』(24)では和歌の漢訳に漢字の「七七八」形式が用いられている。そのうち第一句の四字目、第三句の五字目にはすべて「兮」の字が充てられている。例えば、前掲の空蝉帖の歌を次のように訳している。
空蝉蛻兮去無影、徒遺残殻枝椏間、芳踪何処兮情思騁。 林文月 訳(25)
二、「三四三四三」による訳出法の理論
ここまで見てきた主な訳出法のうち、どちらかと言えば、「三五三五五」型と「三四三四四」型は、和歌固有の特色を伝えようとすることに重心を置いているものである。次に、この二種類の訳出法の優劣について、更に分析を加えたい。
「三五三五五」型の訳出法の長所は、中国古典の詩や詞によく見られる五言句を多く用いており、読みやすく、読者に受け入れられやすいことである。一方、その欠点は、まず訳文が合計二十一字で依然として長く、そのため、和歌の原文にはない言葉を加えざるを得ないことである。例えば、丘仕俊氏の訳した、
春過ぎて夏来たるらし白たへの衣干したり天の香具山(万葉集・巻一・28・持統天皇)
春已尽、似覚夏日炎。如白雲、家家晒衣衫。天姿香具山。(26)
に見える「炎」「家家」といった語は、和歌の原意にはないものである。更に、「三五三五五」が和歌のリズムと対応しないという問題点がある。周知のように、中国の文語詩は二字一拍であるため、三言、五言はそれぞれ二拍、三拍となり、いずれもその末尾には二分の一拍に相当する休音がある。前掲した丘仕俊氏が訳した柿本人麻呂の歌のリズム構造は次のとおりである。
(淡海)(渺×)、(夕浪)(映千)(鳥×)。(聞鳥)(啼×)、
(吾心)(無限)(愁×)。(懐古)(思悠)(悠×)。(27)
これに対して、和歌の原作のリズム構造は四音一拍説に従えば、次のようになる。
(あふみの)(うみ××)(ゆふなみ)(ちどり×)(ながなけ)(ば×××)
(こころも)(しのに×)(いにしへ)(おもほゆ)
このように、漢訳における三つの五言句は、いずれもそれに相当する和歌の七音句より一拍分多くなってしまう。本来「心もしのに古思ほゆ」の間には四分の一拍に相当する休音が一つあるだけで、詠んでみれば一気呵成であり、格調は重厚である。これに対して、その漢訳である「吾心無限愁。懐古思悠悠」は、区切りのある一組の押韻句であるため、格調が軽快流暢になってしまい、原作とは一致していない。
「三四三四四」型の訳出法の長所は、内容が一首の和歌におおよそ相当し、リズムも和歌に比較的近く、組み合わせることによって、「五七調」「七五調」といった句切れに柔軟に対応できることである。(28)一方、その欠点は主に次の点にある。つまり、和歌の七音の末句には四分の一拍に相当する休音があるが、それに相当する漢訳の四言の末句には休音が含まれない。同じく二拍であっても、詠んでみるといささか硬く、和歌の末句の活き活きとしたところには及ばない。(29)このほか、七五調の和歌に対して、漢訳の結びの「四四」の二句が組み合わさると、そのまま一つの八言句を形成することになり、この形式は中国詩における表現の伝統性に乏しく、流暢に詠めないことも指摘できよう。
以上に挙げた様々な訳出法は、中国の伝統的な詩句の使用に重きを置いたばかりに、結果的に、和歌固有の特色が十分に反映されていないものか、それとは逆に、和歌のリズムを表現することに注意するあまり、その結果、中国古典詩の伝統と乖離したものか、どちらかに偏っている。それでは、この二者から長所を兼ね備えた、中国伝統の詩句を用いて和歌固有の特色を再現することは可能であろうか。
それは可能である。その方法とは「三四三四三」形式による訳出法である。
これは「三四三四四」の訳出法が進化したものであり、つまり、その末尾の一字を削ったものである。この一字の修正を軽視してはならない。翻訳の総合的な効果を高めることにおいて、それは重大な意味を有している。
まず、内容の上では、和歌に更に接近するようになる。
前述したように、和歌の漢訳として、漢字「五七五七七」型の三十一字、七言絶句型の二十八字はいずれも明らかに冗長である。「三五三五五」型の二十一字、五言絶句型の二十字もやはり長い感じがする。それでは、一首の和歌の内容は、一体どれ程の漢字量に相当するのであろうか。古典漢語は単音節語であり、一字一音である。日本語の単語は長短異なるため、同じく五音句、あるいは七音句であっても、そこに含まれる単語の量は必ずしも一致しない。一首の和歌の内容に至っては、更に千差万別である。しかし、理論上、古典詩歌では漢語の一字は、基本的に日本語の仮名二音に相当すると指摘されている。(30)それ故、日本語の三十一音によって表現される一首の和歌は、その内容は平均して古典漢語の約十五・五字に相当することが、おおよそ判断されよう。従って、「三四三四四」型の十八字を「三四三四三」型の十七字に修正することは、明らかにこの平均値により近付くのである。
次に、リズムの上では、和歌と更に対応するようになる。
詩歌の結びの部分は、往々にして一首の作品全体の音韻効果の決定に重要な役割を果している。和歌漢訳の末句を四字から三字に改めることで、二拍のリズムを保ったまま、その末尾には二分の一拍に相当する休音が現れる。これによって、和歌の七音の句末に附随する四分の一拍相当の休音によるリズム感を取り入れ、和歌のような余韻に富み、意の尽きざる独特の効果が生まれてくる。
更に、表現の上では、中国の読者に受け入れられやすくなる。
「三四三四三」は和歌漢訳の原初的な形態である。翻訳を完成する段階では、和歌の内部構造によってそれを組み合わせてから句点を付ける。後述するように、一首の和歌の漢訳は、最終的にはいずれも二つの七言句に一つの三言句を加えた形となり、中国の伝統詩によく見られるものとなる。平仄を究めることによって、中国古典詩の韻律法則と合致させれば、和歌の古雅な風韻を再現することができよう。
三、「三四三四三」の訳出法の実践
以下、筆者は「三四三四三」の形式を用いて、異なる構造の和歌を漢訳してみる。
(一)七五調
七五調は即ち「五、七五、七七」の構造である。『古今集』以後、和歌の主流を占めるようになり、語調は流麗軽快を特徴とする。
見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮
(新古今集・秋上・363・藤原定家)
この歌は典型的な七五調であり、その拍節構造は次のとおりである。
(みわたせ)(ば×××)(はなもも)(みぢも×)(なかりけ)(り×××)
(うらのと)(まやの×)(あきのゆ)(ふぐれ×)(31)
初句「見わたせば」の末尾には、四分の三拍に相当する休音の停頓がある。二句目と三句目の間には四分の一拍に相当する休音が存在するが、基本的には連読しており、三句目の末尾には四分の三拍に相当する休音の停頓がある。四句目と五句目の間には四分の一拍に相当する休音が存在するが、基本的に連読されており、五句目の末尾には四分の一拍に相当する休音がある。和歌の原意に忠実に、「三四三四三」の形式によって次のように漢訳することにした。
環望処 桜花紅葉 皆消逝 海岸茅廬 日暮秋
原作の句切れ構造と対応させるため、二句目と三句目、及び四句目と五句目の二組の「四三」字を組み合わせて七言句とする。中国の七言詩もまさに「四三」の構造である。句読点を付けると、次のようになる。
環望処、桜花紅葉皆消逝、海岸茅廬日暮秋。
環(めぐ)りて望(のぞ)む処、桜花紅葉 皆な消え逝(さ)りぬ、海岸の茅廬(ばうろ) 日暮(にちぼ)の秋。
その拍節構造を示すと、次のとおりである。
(環望)(処×)、(桜花)(紅葉)(皆消)(逝×)、(海岸)(茅廬)(日暮)(秋×)。
「環望処」の末尾には二分の一拍に相当する休音の停頓がある。「桜花紅葉皆消逝」の末尾には二分の一拍に相当する休音があり、「花も紅葉もなかりけり」のリズム感と比較的一致する。(32)「海岸茅廬日暮秋」の末尾には二分の一拍に相当する休音があり、これもまた「浦のとまやの秋の夕暮」に近いリズム感を生み出している。ここでは、和歌の「七五」句と「七七」句をすべて漢語の七言句に訳しており、文字上の長短の違いは現れていないものの、両者とも休音が含まれるという音韻上の特徴が再現されている。
このように、七五調の和歌は最終的に「三七七」の句式によって表現される。以下に、そのほかの訳例を示しておく。
春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ(万葉集・巻十九・4139・大伴家持)
芳春苑、桃花灼灼紅交映、少女亭亭立道間。
芳春の苑、桃花 灼灼(しやくしやく)たり 紅(くれなゐ)交(こも)ごも映ず、少女 亭亭として 道間に立つ。
夢よゆめ恋しき人に逢ひ見すなさめての後にわびしかりけり
(拾遺集・恋二・709・よみ人知らず)
夢中莫!伊人莫譴来相会、醒後料知惆悵生。
夢の中 莫かれ。伊人(かのひと) 来たりて相ひ会(くわい)せしむる莫かれ、醒(さ)めて後 料(はか)り知る 惆悵(ちうちやう)の生ずるを。
(二)五七調
五七調は即ち「五七、五七、七」の構造であり、万葉時代に多く見られる。その語調は荘重典雅を特徴とする。前掲した阿倍仲麻呂の歌は典型的な五七調であり、その拍節リズムの構造は次のとおりである。
(あまのは)(ら×××)(ふりさけ)(みれば×)
(かすがな)(る×××)(みかさの)(やまに×)(いでしつ)(きかも×)
初句「あまの原」の末尾には四分の三拍に相当する休音の停頓があるが、第二句と連読させなければならず、不安定なリズム感を生み出している。「ふりさけ見れば」の末尾には四分の一拍に相当する休音があり、やや停頓した後、すぐ第三句の「春日なる」に続く。三句目と四句目の状況は初二句とほぼ同じである。末句「いでし月かも」の末尾には四分の一拍に相当する休音がある。この歌を「三四三四三」の形式によって次のように漢訳してみる。
望長空 料知応是 春日境 三笠山巓 旧明月
句切れの構造に従って、それを組み合わせて句読点を付けると、次のようになる。
望長空料知応是、春日境三笠山巓、旧明月。
長空を望みて 料り知る 応(まさ)に是なるべしと、春日の境(さかひ) 三笠の山巓(さんてん)、旧明月。
その拍節リズムの構造は次のとおりである。
(望長)(空×)(料知)(応是)、(春日)(境×)(三笠)(山巓)、(旧明)(月×)。
「望長空」の末尾には二分の一拍に相当する休音の停頓があるが、「料知応是」と連読させなければならず、こうした不安定なリズム感は「あまの原ふりさけ見れば」と頗る相似する。読点によってやや休止した後、以下の「春日境三笠山巓」の状況は前の句とほぼ同じである。末句の「旧明月」の末尾には二分の一拍に相当する休音がある。「三四」字を組み合わせた七言句は格律詩の句式ではなく、詞の句式に類似している。これによって、全体的に五七調のリズム感が再現されていると言えよう。
このように、五七調の和歌は最終的に「七七三」の句式に表現され、そのうち、二つの七言句がともに「三四」の構造となっている。この形式によって、前掲した額田王の歌を次のように漢訳する。
待所歓正相思処、妾閨房微微簾動、送秋風。
所歓を待ちて 正(まさ)に相ひ思ふ処、妾が閨房 微微(びび)として簾動き、秋風送る。
(三)その他
和歌にはそのほか、「五七、五、七七」という句切れの形式があり、その音感は五七調と七五調の中間であり、作品数は比較的少ない。
春の野に霞たなびきうら悲しこの夕かげに鶯鳴くも
(万葉集・巻十九・4290・大伴家持)
その拍節リズムの構造は、次のとおりである。
(はるのの)(に×××)(かすみた)(なびき×)(うらがな)(し×××)
(このゆふ)(かげに×)(うぐひす)(なくも×)
初句「春の野に」の末尾には四分の三拍に相当する休音の停頓があるが、第二句と連読させなければならず、不安定なリズム感を生み出している。「霞たなびき」の末尾には四分の一拍に相当する休音があり、やや停頓した後、すぐ第三句に続く。「うら悲し」の末尾には四分の三拍に相当する休音の停頓がある。四句目と五句目の間には、四分の一拍に相当する休音のみあり、基本的に連読しており、五句目の末尾に四分の一拍に相当する休音がある。それを「三四三四三」の形式によって次のように漢訳する。
春原野 煙霞繚繞 漫傷悲 夕照光中 鴬鳥啼
句切れの構造に従い、それを組み合わせて句読点を付けると、次のようになる。
春原野煙霞繚繞、漫傷悲、夕照光中鴬鳥啼。
春の原野 煙霞(えんか)繚繞(れうぜう)として、漫(そぞ)ろに傷み悲しむ、夕照の光の中に 鴬(あう)鳥(てう)啼く。
その拍節リズムの構造は次のとおりである。
(春原)(野×)(煙霞)(繚繞)、(漫傷)(悲×)、(夕照)(光中)(鴬鳥)(啼×)。
「春原野」の末尾には二分の一拍に相当する休音の停頓があるが、「烟霞繚繞」と連読させなければならず、不安定なリズム感を生み出している。「漫傷悲」の末尾には二分の一拍に相当する休音の停頓がある。「夕照光中」と「鴬鳥啼」を組み合わせるとちょうど一つの七言格律の詩句となり、その末尾には二分の一拍に相当する休音がある。リズムの上では原作にかなり近いものであると言えよう。
このように、「五七、五、七七」構造の和歌は最終的に「七三七」の句式に表現され、そのうち、一つ目の七言句が「三四」の構造となっている。そのほかの訳例を示しておく。
君ならで誰にか見せむ梅花色をも香をも知る人ぞしる(古今集・春上・38・紀友則)
若非君誰堪與示?玉梅花、色香唯有識人知。
若(も)し君に非ざれば 誰(たれ)にか示すに堪(た)えん。玉梅花、色香(しきか)唯だあり 識(し)る人のみ知らん。
おわりに
本稿では漢字の「三四三四三」形式による和歌の訳出法を提示したが、その長所は次のとおりである。
(一)表現内容が和歌とほぼ一致し、余分な語句を加える必要がない。
(二)拍数や休音の位置などのリズムの面においては、和歌と比較的対応している。
(三)中国古典の詩や詞の表現伝統と符合し、中国の読者に受け入れられやすい。
訳文は最終的にはいずれも、二つの七言句に一つの三言句を加えたものとして書写される。即ち、七五調は「三七七」に、五七調は「七七三」に、「五七、五、七七」の構造の歌は「七三七」になる。このように、形式が整っており、和歌の内部構造は一目瞭然である。
「三四三四三」形式は、内容、構造、リズムなど和歌固有の特色を伝えると同時に、中国古典の詩や詞の表現伝統にも符合しており、和歌に対する合理的な訳出法であると言えよう。
【注】
(1)詳しくは、李芒「和歌漢訳問題小議」(『日語学習與研究』一九七九年第一期)、「和歌漢訳問題再議」(同上、一九八○年第一期)、「和歌漢訳問題三議」(同上、一九八一年第四期)、「日本古典詩歌漢訳問題」(同上、一九八二年第六期)、「和歌・俳句の漢訳――『和漢比較文学叢書』のために」(『和漢比較文学叢書 第八巻 和漢比較文学研究の諸問題』、汲古書店、一九八八年)などを参照されたい。
(2)本稿で引用する所の和歌はすべて『新日本古典文学大系』(岩波書店)による。
(3)注(1)李芒「和歌漢訳問題小議」第三九頁。
(4)羅興典「和歌漢訳要有独特的形式美――兼與李芒同志商?」(『日語学習與研究』一九八一年第一期)。
(5)同上、第四一頁。
(6)詳しくは、実藤恵秀「横あいから――羅興典氏の和歌翻訳論について」(『日語学習與研究』一九八一年第四期)、高橋史雄「和歌和俳句的翻訳也要有独特的音律美――兼與李芒先生和羅興典先生商?」(『日語学習與研究』一九八一年第四期)及び王勇「和歌格律探源」(『日語学習與研究』一九九○年第三期)を参照されたい。
(7)「也談談和歌漢訳問題」(『日語学習與研究』一九八一年第三期)。
(8)同上、第三○頁。
(9)孫久富「関於《万葉集》漢訳的語言問題的探討――兼與沈策同志商?」(『日語学習與研究』一九八三年第四期)。
(10)「《万葉集》選訳」(『日本文学』一九八三年第四期)。
(11)中国友誼出版公司、一九九二年。
(12)復旦大学出版社、一九八三年。
(13)同上、第八八頁。
(14)李芒「和歌・俳句の漢訳――『和漢比較文学叢書』のために」第二五六頁。
(15)注(11) 銭稲孫訳書第一〇五頁。
(16)人民文学出版社、一九八〇年。
(17)同上、第五九頁。
(18)「和歌的格調與漢訳問題」(『日語学習與研究』一九八二年第三期)。
(19)同上、第二六頁。
(20)注(6)高橋史雄論文。
(21)詳しくは、松浦友久『リズムの美学――日中詩歌論』(明治書院、一九九一年、第二五?二九頁)、『中国詩歌原論――比較詩学の主題に即して』(再版、大修館書店、一九九二年、第一八二?一八五頁)、『『万葉集』という名の双関語――日中詩学ノート』(大修館書店、一九九五年、第一七三?一八〇頁)を参照されたい。
(22)注(21)松浦友久『中国詩歌原論――比較詩学の主題に即して』第一九四?二〇一頁。
(23)同上、第一九七頁。
(24)洪範書店有限公司、二〇〇〇年。
(25)同上、第五八頁。
(26)注(18)丘仕俊論文第二七頁。
(27)括弧は一拍を表し、×印は休音を表す。以下も同様である。
(28)注(22)と同じ。
(29)高兵兵「和歌漢訳実践体会」(西北大学学報[哲学社会科学版] 一九九八年第一期、第五五頁)。
(30)注(22)松浦友久著作第一九九頁。
(31)本稿で言うところの「拍節構造」とは、すべて「韻律のリズム」を指し、「意味のリズム」のことではない。両者の区別については、注(21)松浦友久『中国詩歌原論――比較詩学の主題に即して』第一八六?一九一頁を参照されたい。この藤原定家の歌の意味リズムは次のとおりである。
(みわたせ)(ば×××)(はなも×)(もみぢも)(なかりけ)(り×××)
(うらの×)(とまやの)(あきの×)(ゆふぐれ)
(32)中国の七言詩と日本語の七五調のリズム感が類似していることについて、松浦友久『リズムの美学――日中詩歌論』(第四四?六〇頁)、『『万葉集』という名の双関語――日中詩学ノート』(第一四四?一五九頁)を参照されたい。
[付記] 本稿は、住友財団二〇〇八年度アジア諸国における日本関連研究助成「日本の古典詩歌に対する漢訳形式の研究――和歌・俳句・新体詩を中心に」の研究成果の一部である。
なお、松浦友久先生がご逝去の二ヶ月前に、筆者に宛てた二○○二年七月二十四日付の書簡の中で、和歌の漢訳形式について、「結びの二句を『三四』もしくは『四三』に変えれば、共通の修正案として面白いと思います」と述べており、本稿の着想に大きなヒントを与えて下さった。詳しくは、拙稿「松浦友久先生的回憶――兼及《詩歌三国志》中文版的成書経緯」(『中国詩文論叢』第二十二集、二〇〇三年十二月)第一二○頁を参照されたい。この場を藉りて、松浦先生の学恩に深く感謝の意を申し上げる。