作品番号 2024-181
朧月
春宵朧月近郊鏗 春宵 朧月 近郊の鏗(こう)
草屋閑居坐憩棚 草屋 閑居し 憩棚に坐す
淑氣餘寒温尚淺 淑気 余寒す 温尚ほ浅し
老生侶影酒杯傾 老生 侶影し 酒杯傾く
承句の「憩棚」は何処を指しているのでしょうね、あまり見ない表現ですね。
転句は、結論としては「温尚淺」なわけですので、「淑」と状態を表す言葉を使うより、単に「春氣」とした方が分かりやすいですね。
結句は中二字、「侶影」は「影を侶(とも)とし」が読みとしては正しいでしょう。
<感想>
起句の「鏗」は「金属が当たるカンカンという音」を表す字で、この場合は「鐘の音」ですね。
「閑坐庭前嫩草棚」とかでどうでしょう。
作品番号 2024-182
早春賦
雨後春宵月影C 雨後の春宵 月影清し
川靄湧出隔簾明 川靄 湧出す 簾を隔てて明らかなり
御堂採水餘寒駐 御堂 採水 余寒駐(とどま)る
願保平安壽考英 願はくは平安を保ち 寿考の英たらんことを
<解説>
二月堂の井水採り 三月十二日
<感想>
転句は「餘寒駐」自体は分かりますが、これでは「春がまだ来ていない」ことになります。
結句の「壽考」の「考」は「老」と同じ意味ですね。
承句の「靄」は仄声ですので、ここは「幽川靄起隔簾明」として、ですかね。
お水取りの「新年への祈願」が来ないと、結句の「願保平安」とは逆の流れになってしまいます。
「呼春意」としておけば落ち着くと思います。
お水取りはもう一つ、「悔過」として懺悔の役割もあるそうで、結句でそちらの面を出して行くなら「餘寒」も使えるかなとは思います。
作品番号 2024-183
惜春
黒鈴l蕩竹林隣 緑風 駘蕩 竹林隣る
茅屋弧窗紅雨頻 茅屋 弧窓 紅雨頻り
花發依原人不復 花発きて 原に依るも 人復(かえ)らず
刻遷徒老惜徂春 刻(とき)遷り 徒らに老ゆ 徂(ゆ)く春を惜しむ
<解説>
「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」劉廷芝『代悲白頭翁』
<感想>
結句は「徒」が余分、「朽老」で同じ意味合いが出せると思います。
ここの「紅雨」は「赤い花が雨のようにハラハラと散る」「赤い花に降る雨」ですが、どちらにしても花が開いているわけです。
そうなると、転句の「花發」はしつこくなります。
転句は劉廷芝の句を受けたものですので、承句の方で花を感じさせないようにするとなると、「細雨」「煙雨」など「雨」を変化させた方が良いですね。
中二字の「依原」は分かりにくいので、「依舊紅花人不復」。
作品番号 2024-184
晩春
碧天郊里到池塘 碧天 郊里 池塘に到る
嵐影湖光村昼康 嵐影湖光 村昼康し
不囀老鶯春已盡 不囀の老鶯 春已に尽き
回頭遙嶺彩雲粧 回頭す 遥嶺 彩雲粧ふ
<解説>
今年は異常の暖かい春分である。桜花早くも便り多し。
<感想>
転句は「老鶯」だと何で分かったのか、「不囀」ではなく、「巧囀」「遷囀」の方が季節的にも合うと思います。
結句はまとめとして大きな景になり、詩を膨らませていると思います。
承句の「嵐影湖光」は「青青とした山気と湖の輝き」、山水の美しさを表す言葉ですね。
そういうことで考えると、起句の「碧天」は色を出さずに「午天」と穏やかに書き出した方が印象深いと思います。
「村昼」はその関係で行けば「村景」「村巷」など。
作品番号 2024-185
往時散策東山哲學道
時機訪友畫中游 時機 友を訪ねて 画中に游ぶ
曲徑沿山明又幽 曲径 山に沿うて明又幽
春滿櫻花増意氣 春満の桜花 意気を増し
秋深紅葉散閑愁 秋深の紅葉 閑愁を散ず
再敲作をいただきました。
往時散策東山哲学道(三稿)
※「爛花」は「乱花」のほうが良いかも
<解説>
哲学の道:西田幾太郎・三木清等が思索しながら歩いた東山山麓の疎水沿いの小径
昔は近隣の人達しか通らなかったが、今、春は桜、秋は紅葉の名所で大勢の人出がある
途中に「法然院」・「永観堂」終点近くに南禅寺がある。
私は起点近くに住み、友は終点近くに下宿しておりました。
<感想>
承句は「幽明」の地というのが言いたいところ。初案として示された「五里」は逆に具体性が表れて面白いとは思います。
後半は対句で春も秋も心が動くということですが、「意気」「閑愁」と心情語を出すよりも、ここも景色を入れて欲しいところです。
起句は「訪友」が具体性を持っていて、「訪寺」よりも良いですね。
解説にお書きになったように、疎水も有れば古寺もありますので、その景色を出して臨場感を増してほしいですね。
再敲作
時機訪友畫中行 時機 友を訪ねて 画中に行く
曲徑沿山五里程 曲径 山に沿う五里程
春満爛花疎水影 春満 爛花 疎水の影
秋深紅葉寺鐘聲 秋深 紅葉 寺鐘の声
作品番号 2024-186
甲辰雨水節早朝
開戸庭中雨露 戸を開けば 庭中 雨露堰iあまね)く
紅花落盡緑芽新 紅花 落ち盡くして 緑芽新たなり
霽雲屋棟東風裡 霽雲 屋棟 東風の裡
鳩鳥咬咬喚婦頻 鳩鳥 咬咬 喚婦頻り
<解説>
二月十九日(雨水節の始まりの日)、雨戸を開けて目にし、耳にした情景を描きました。
異常に暖かな日でした。「紅花」はサザンカの花。
<感想>
結句はお書きになった通りで、鳩がククルククルと朝方鳴き交わす声をよく聞きます。
起句は作者の行動をそのまま描いたものですが、「開戸」が丁寧過ぎる感じがします。「庭中」が変なのかも。
雨が上がったということは転句の「霽雲」で示してはいますが、ちょっとこれも離れ過ぎているようです。
「南庭」「茅庭」、すっきりさせるなら「過雨朝窗庭露堰vとかですかね。
転句の「霽雲」は別の言葉に替えやすいと思います。
「婦を喚ぶ」のは晴れた時の様子を表していますので、場面にはよく合いますね。
作品番号 2024-187
青藏鐡路
行人適意遠遊時 行人の適意 遠遊の時
鐡路連綿日自移 鐡路は連綿 日自ずから移る
地味荒涼馳萬里 地味は荒涼にして 萬里馳す
茫茫西藏向天涯 茫茫たる 西蔵 天涯に向かふ
※
<解説>
青蔵鉄道に乗ってラサに行った時のことを思い出して詠んでみました。
<感想>
承句くらいで地名の「西藏」とか「萬里」が入ると景色が想像しやすくなりますね。
この承句の関係で、転句なり結句を修正しますが、チベットの景色で記憶に残っているものを入れるとより思い出が鮮明になると思います。
海抜五〇〇〇メートル以上の高さを走る「青蔵鉄道」は、青海省西寧とチベット自治区(西蔵)拉薩を繋いでいて、総延長は一九五〇キロ程とのこと。
日本から行くとなると二週間以上の旅程は必要だったのではないでしょうか。
かつて各地を旅をしていた頃への思いが起句に表れていますね。
「鐵路連綿萬里馳」とか「鐵路連綿西藏羇」など。
「雪嶺」「碧湖」などはよく目にしますね。
作品番号 2024-188
碧海孤島春
山色青青花欲然 山色青青として 花 然(も)えんと欲す
白鷗來去海濱邊 白鴎来去す 海浜の辺
碧風孤島仲春裏 碧風の孤島 仲春の裏(うち)
美味酒肴愉悦筵 美味酒肴 愉悦の筵
<解説>
かつて、愛知県知多半島の篠島を訪れた時を偲んだ詩。
山は芽吹いて青々として、花々はあちらこちらに咲き始めまさに生気にみちている。
白い浜辺には鴎が行ったり来たりしている。
正にこの碧海の孤島は春の真っ盛りだ。
酒宴では美味しい酒と料理が出て、本当に楽しかった。
<感想>
転句の「碧風」が残念で、またここで色となるとしつこいですね。
結句は良い句ですね。
前半は杜甫の「絶句」を受けた形で、色彩豊かな景ですね。
杜甫が眺めたものと同じような春景色ということで、古典を十分に使った表現で、ここは良いと思います。
「仲春」を頭に持ってきて「仲春篠島」。下三字は、作者が遊びに来ていることを出すと、最後の結句への流れが出来ると思いますよ。
作品番号 2024-189
梅里立春
渡湖東風然翠丘 湖を渡る東風 翠丘を然やす
梅花滿野鳥枝遊 梅花は野に満ち 鳥は枝に遊ぶ
今冬無雪既春半 今冬は雪無く 既に春は半(なか)ばなり
此季節廻正氣不 此の季節の廻りは 正気なりや
<解説>
春風は湖を渡って、丘の草木を然やす
梅花は野に満ちて、鳥は遊んでいるように枝を渡っている
今年の冬は雪が降らず、もう春の真っ盛りのようだ。
この季節の巡りは正常ではないと思うがどうだろうか。
<感想>
承句は「滿野」が余分で、起句の「翠丘」とぶつかります。ここは「梅花」がどうしたのか、を描いた方が良いです。
転句は「今冬」の話をして「春半」ではおかしいですね。
結句の「正」は「正しい」の時は仄字、ここは「四字目の孤平」になってしまいます。
起句の「湖」は平字で、これはミスですね。「湖上」が良いでしょう。
五字目、「然」となると「翠」が赤くなるということで、極端ですので、「渡」でどうですか。
もう一点は、「立春」の筈だったのが「春半」といつの間にか変わってしまっています。
「今冬無雪立春到」ならば話は通じます。
表現としても回りくどい感はありますので、「節序順行方正不(節序の順行 方正なるや不や)」とか「季節推移正氣不」。
作品番号 2024-190
願平和
八旬元旦過 八旬 元旦が過る
皺面白頭驚 皺面 白頭に驚く
庭内山茶發 庭内に 山茶発く
門前橘子瞠 門前の 橘子を瞠る
露烏無對話 露烏 対話無し
芭以續紛爭 芭以 紛争続く
人類賢人也 人類は 賢人也
希望穩國情 穏かな国情を 希望する
<解説>
「露烏」: ロシア ウクライナ
「芭以」: パレスチナ イスラエル
<感想>
第二句は「老人(作者)が驚く」と読むのが自然です。
頷聯は対句を考えてのものですが、「庭内」「門前」は説明的過ぎて、せっかくの対句が面白くないです。
頸聯は話が飛びますが、ここは「転」ですので、「結」でまとめられれば面白い展開とも言えます。
尾聯は「人類は賢人」は対応がおかしく、「人」の重複の効果もあまり感じません。
第一句は「過」ぎてしまっては話がよくわかりません。
「迎」が自然ですが、韻字ですので「迓」でしょうね。
「皺と白髪になったことに驚く」ということでしたら「鏡を見た」という場面が必要ですね。
「鏡裏」でも良いですが、「古鏡白頭驚」とすると「白頭」と合うかと思います。
ただ、この句は次の庭の景色へ流れる必要がありますので「驚」で良いかどうか。
律詩でも起承転結は大切で、首聯と頷聯はそれなりの繋がりが求められるわけです。「窗外曉光明」として、叙景にしておくと良いでしょう。
庭や門の情報とか、「山茶」「橘子」の色の対比とか、ご検討ください。
もう一度、新年や新春に戻るようにすると、頸聯が正月に思ったこと、という形になるでしょうね。
例えば、「新歳偏祈願」として、願う内容を最後に入れるとどうでしょう。
作品番号 2024-191
待春
不負酷寒梅發窺 酷寒に 負けず 梅が発き窺く
宿根告央c芽姿 宿根は 緑翠 嫩芽の姿
一陽来復興詩緒 一陽 来復 詩緒を興す
返老還童八十春 老を返し 童に還る 八十の春
承句は「告央c芽姿」で草が芽吹いたということですが、「宿根」が邪魔ですね。
転句は下三字、「詩緒」は古典ではあまり用例が無い言葉です。
結句の「返老還童」は「若返る」という意味で、「ますます元気な八十歳」、下三字と調和していますね。
<感想>
起句の「不負」は表現として日本語的ですし「酷寒」とわざわざ言う必要はないですね。
通常の「凌寒」という表現の方がしっくり来ます。
すると、上の二字に更に言葉を添えられますので、何を言うかを考えると良いでしょう。
「牆角」「南圃」など場所を示しても良いですね。
下三字の「梅發窺」は梅の控え目な感じが出ていると思います。
梅の根の話かと考えてしまいますし、実際に根を見ているわけではありませんので理屈っぽく感じます。「復逢国菅c芽姿」
「催詩興」と、これも通常の言い方の方が分かりやすいでしょうね。
最後の「春」は韻目が合いませんが書き間違いですかね、「時」としておきましょう。
作品番号 2024-192
懐漢詩
絶句呈論理 絶句は 論理を呈す
律詩現技量 律詩は 技量を現す
少知歌歴史 歌の歴史を少かに知り
大杜苦吟煌 大杜 苦吟は煌く
この詩では、結句の「大杜」がどうして出て来るのでしょうか。
<感想>
五言詩では「二字目の孤平」は禁忌です。
この詩では承句の二字目の「詩」が仄声に挟まれていて、平仄破りになっています。
全体の繋がりを読者は考えて読みますので、そうなると、この詩は「大杜」つまり「杜甫」の詩について語ったものかと考えます。
起句から「(杜甫の)絶句は・・・」、承句は「(杜甫の)律詩は・・・」と読んでいき、そして転句になると「(杜甫が)歌の歴史を少しは勉強する」ということになり、そりゃあ「苦吟」するだろうという話になってしまいます。
作者としては転句の「少知」の主語は自分ということでしょうが、そうは読んでもらえないでしょうね。
全体の流れから行くと、「大杜」は削った方が良いですね。
作品番号 2024-193
懐宗教
人間艱四苦 人間は 四苦に艱む
解脱未難成 解脱は 未だ成り難し
佛法慈悲教 仏法は 慈悲の教えなり
釈尊導庶氓 釈尊は 庶氓を導く
<感想>
こちらの詩では、結句が「二字目の孤平」です。
「懷宗教」の詩と同様で、結句の「釈尊」が気になります。
作者自身の姿では無いので、結局何を言いたいのか、がはっきりしません。
仏教の有り難さを伝える御詠歌では無いわけですから、作者自身が起句や承句で描いた内容にどう対処していくのかということを語って欲しいですね。
作品番号 2024-194
閑庭早春
滿開香雪有C音 満開の香雪 清音有り
仰視蒼空物外心 仰ぎ視る 蒼空 物外の心
伯勞邪揄搖靜好 伯労 邪揄する 静好を揺する
人生甘苦醉翁吟 人生 甘苦 酔翁の吟
<解説>
酔竹さんの詩を読ませていただき、作ってみました。
我が家には借景で割と古い白梅の木があり、そこにつがいの目白が二〜三組来ます。
百舌が邪魔しに来ます。
<感想>
結句はどうして「人生甘苦」が来るのか、「醉翁」は酔竹さんのことでしょうか。
転句の「伯勞」は百舌のこと、「靜好」は難しい言葉ですが『詩経』からの言葉で、「琴瑟」と同様、夫婦の仲の良いことを表す言葉です。
ここは、解説に書かれた場面、つがいの目白が仲良くしているところを百舌が「邪揄」(からかう:「揶揄」とも)するわけですが、そうなると起句の「C音」が目白の鳴き声ということですね。
ちょっと離れていますので、承句に「繍眼兒聲」と持ってきておいた方が転句の話はよく分かると思います。
この句は唐突な感じがしますね。
作品番号 2024-195
詠早春
乘風香雪滿閑庭 風に乗る香雪 閑庭に満つ
草木堪寒萌動 草木 寒に堪へ 萌動青し
天爲舒舒春意在 天為 舒舒として 春意在り
年初災異願安寧 年初の災異 安寧を願ふ
<解説>
二月上旬から中旬の家の庭の景色です。
隣家の梅の木が風向きにより我が家の庭に散ってくれます。最初は雪かと思った程です。
<感想>
転句の「爲」はこの場合には平声でしょうから、「天意舒舒春氣在」とすれば良いですね。
結句は能登の地震のことになりますが、最後の「願安寧」と行くとちょっと舌足らずの感じがします。
前半は早春の景ということで、「萌」「」の字が生きていますね。
地震のことは転句までの流れからも浮いてるので、別のことを出す方向で上四字を考えた方が良いかと思います。
作品番号 2024-196
港・横須賀
蒼海灣頭岩壁多 蒼海 湾頭 岩壁多し
泊然艦上響軍靴 泊然 艦上 軍靴響く
顧思護衛憂家國 顧みて思ふ 護衛 国家を憂ふ
日米融和歳月過 日米の融和 歳月過ぐ
<解説>
日米融合の街、横須賀。
一九七〇年代、米軍基地から水兵、自衛隊駐屯地からは隊員、防衛大学校から学生等々。夜や休日には群れていました。
<感想>
承句の「泊然」は「心静かで無欲」の状態を表しますが、この穏やかさと下の「響軍靴」の対照も起句と同様ですね。
転句からは横須賀の歴史、ここは江戸の時代から、特に明治以降は首都防衛の要処でしたので、その辺りの横須賀の状況を結句でまとめるようにすると、詩としてまとまるでしょう。
起句は「海」と「灣」と場所が重なりますので、「海碧」とすると「灣頭」を修飾する形になり落ち着きます。
下三字の「岩壁」はこれだけでも「切り立った岩」を表しますが、「切り立った」を強めるなら「危壁多」「岩嶂多」。
上の広々とした景色と危険そうな岩壁の対比が面白いところです。
転句では「日米融和歳」と戦後のことを出して、結句は更に溯る形、「要鎮東都幾世過」などが考えられますね。
あるいは、現在の横須賀の景色に再度戻るという形も考えられますので、もう一工夫、再敲が良いかもしれませんね。
作品番号 2024-197
端午感懐
轉西梅里到池塘 転西 梅里 池塘に到る
端午追懷憶故ク 端午の追懐 故郷を憶ふ
供粽遣今憂國涙 供粽 今に遣す 憂国の涙
彩雲映水謹提觴 彩雲 水に映ず 謹んで觴を提(かか)ぐ
<解説>
屈原は戦国期楚の人(前三四三〜二七七年)。名は平、字は原。楚の懐王に仕えた。
大夫の地位に居たが、親秦派の謀で江南の地(長江の南)に流罪となり、汨羅(洞庭湖南岸)で投身す。
翌年、楚の首都郢(えい)は洛城し、楚は江南の陳に移る。
屈原の死後五十四年、楚は滅び(前二二三)秦の統一なり(前二二一)、戦国期は終る。
諸説あるが、端午は屈原の命日とされ、粽、吹き流しは霊への供物と言う。
<感想>
転句の「遣」は「遺」ですね。
結句は、雲とか水、そうした情景に季節感が出ると良いと思います。
起句は「梅里を西に転ずれば」という感じですかね。
「池塘」から「端午」へ、更に「故ク」への連想はもう少しヒントが無いと苦しいところ。
起句の上四字が削れそうですから、うまく「菖蒲」くらいが入れば、一応「池塘」と「端午」は繋がり、「粽」と合わせて子供時代ということで「故ク」へも流れるかな、と思います。
作品番号 2024-198
師崎港
晴光碧海尾州濱 晴光 碧海 尾州の浜
港市波閑鳥語頻 港市 波閑かにして 鳥語頻なり
昔日賈船搬國産 昔日 賈船 国産を搬び
今時走舸載遊人 今時 走舸 遊人を載せる
<解説>
風光明媚な南知多の師崎港は、昔は尾州廻船で土地の産物を運び繁栄した。
今もフェリー船で観光客を乗せ賑わっている。
<感想>
起句の「碧海」と「港市」を比べて「波閑」に添えるのは「碧海」の方が良いですので、入れ替えましょうか。
後半は対句にして今昔の対比ですね。
師崎港は知多半島の南端、水平線に太平洋を望む「風光明媚」な景色が何よりですね。
後はどんな「海」にするか、「碧海」「大海」「瀛海」「東海」などで検討してはどうですか。
転句の「國産」は「國」が何を指すのか、前に「尾州」もあって分かりにくいので「物産」。港の賑わっていた雰囲気を出すように、「搬」を「盈」にしましょうか。
併せて、結句の下三字も「載」よりも「溢」が勢いが感じられます。
作品番号 2024-199
河和港
遙望銀山春色歸 遙かに望む 銀山 春色歸る
釣舟散点海風微 釣舟 散点し 海風微なり
行人乗舫河和港 行人 舫に乗る 河和港
佳景津頭鷗鷺飛 佳景 津頭 鴎鷺飛ぶ
<解説>
春らしくなってきたこの頃の、河和港の景色を詠んでみました。
<感想>
承句の「散點」は「散在」と同意、釣り船がのんびりと動かない様子が、河和の穏やかな春景色を象徴していますね。
転句は「舫」ですと承句の「舟」との違いが出ません。「來往」とか「幾影」など。
結句は「鷗鷺飛」の結びは広がりが戻って来て良いです。
起句の「銀山」、「銀」は通常ですと雪をかぶった山でしょうが、知多半島の東側ですので、見えるのは東三河の方向です。
春になっても冠雪している山と言われると悩みます。「遙望連山」「霞色遠山」などでしょうか。
ただ、「津頭」は言葉は違いますが「港」と同じ場所になります。
大きな海原や沖に見える島影などを持ってきた方が、具体的な景色が出て良いと思いますよ。
作品番号 2024-200
愉詩會小宴
芳時詩友集桐堂 芳時 詩友 桐堂に集ひ
笑口開襟入醉ク 笑口 開襟 酔郷に入る
四座談論三十刻 四座 談論 三十刻
老師莞爾肅傾觴 老師 莞爾として 粛(しず)かに傾觴
<解説>
先日の漢詩勉強会後の懇親会の様子を詩にしました。
「詩友」は「詩学」の方が良いかと思いますが、「学詩の徒」という意味に解釈されるかはっきりしないので。
<感想>
承句は流れがあり、とても良いです。和やかな雰囲気が出ていますね。
転句は「談論」だとやや固いかな。ここの「三十刻」はどのくらいを表すのでしょうか。軽く抑えるなら「四座高論談不盡」ですかね。
結句はまとめで良い趣、「老師」は講師の私ですかね。自分が出ると落ち着きませんので、私は会長さんとして読みました。
起句は「芳時」も良いですが、「芳春」と季節をはっきり出すと、記録的な意味も出ますね。
作品番号 2024-201
墨堤賞花宵
江上春風落日斜 江上 春風 落日斜なり
長堤十里粉紅霞 長堤 十里 粉紅の霞
月隨一刻千金夜 月随ひ 一刻千金の夜
幾處開筵醉歳華 幾処 開筵 歳華に酔ふ
<解説>
「墨堤」… 隅田川の堤
<感想>
転句は「一刻千金」と熟語として使われていますが、「月随」と時間経過を表す言葉が上にありますので、「一刻」も実体を持った言葉として解釈が生まれます。
しっとりと桜を楽しむ趣で、更に「粉紅」「千金」「歳華」などの言葉が艶やかさも加えていますね。
このまま江戸の詩人の作としても納得してしまいます。
つまり、「月と一緒に一刻歩くと、その一刻が千金にも感じられる」ということ、「一刻」はそれほど長い時間ではありませんが、それが価値を高める効果、蘇軾の句が日本風土に昇華されたと言えます。
そう考えると、起句の「落日斜」は「月」と同様に天上にありますので、素材効果としてはどうか。
一茶の「月は東に日は西に」があるかもしれませんが、ここは天上ではない別の物を置いた方が良いか、と思いました。
作品番号 2024-202
讀介子小説
疑嫌穢土入山逃 穢土を疑嫌し 入山し逃(かくれ)る
不順勅論燒死掏 勅論に順(したが)はず 焼死を掏(えら)ぶ
一日炊煙不須火 一日 炊煙 火を須(もち)ひず
中華寒食習風挑 中華の寒食 習風挑(めぐ)る
起句の「逃」は読みとしては「かくる」、ただ「のがる」と読んでおいた方が自然です。
承句の辺りは故事を知らないと分からないところ、ですが、うまくまとめていると思います。
転句は寒食の説明ですので、結句と逆の方が話は分かりやすいでしょうね。
<感想>
題名は「介子小説」では何か解りませんので、そのまま「讀介子推」が良いでしょうね。
ここは「不」の字が重複していますので、気を付けましょう。
作品番号 2024-203
晁卿(阿部仲麻呂)悲話
伏奏想親歸國望 親を想ひ 帰国の望(のぞみ)を伏奏する
別朋出港大風強 朋に別れ 出港す 大風強し
復船漂着安南岸 復船 漂着 安南の岸
再返京都寂死亡 再 京都に返り 寂しく死亡する
起句は順番としては「伏奏」よりも「想親」が先ですね。
承句の「別朋」は別れの場面ですが、それなら「餞宴」という言葉がありますので、それを使った方が良いですね。
転句の「復船」は「帰りの船」ですかね、「また船が漂着した」と理解しますので、これは通じないですね。
結句は、また「再」や「返」と同じ意味の字で、同じ話が繰り返されています。
<感想>
阿倍仲麻呂と李白や王維の交流はよく知られていますね。
ここが逆の分だけ、内容が言い訳っぽく感じます。
「想親」は「懷ク」としても良いでしょう。
「破船」としても直前の「大風強」があるので「帰国の船」が破損したことはわかります。
また、「京都」はこの場合には日本の都なのか唐の都なのかはっきりしません。「長安」とはっきり書いた方が良いです。
ただ、「再び都に戻って寂しく死んだ」というだけでは伝記のまま、作者の仲麻呂への思いが出切れないですね。
最後の下三字をもう一工夫してはどうでしょう。
作品番号 2024-204
圣彼得堡港(サンクトペテルブルグ)
歐州海路露邦望 欧州 海路は 露邦の望(のぞみ)
開拓芬灣築港將 芬(フィンランド)湾 開拓し 築港将(すすめ)る
軟弱地層多湧潏 軟弱地層 湧潏(けつ)多く
竣工不屈使徒腸 不屈の使徒(ペテロ)の腸(こころ)で竣工する
<感想>
詩題の「圣」は「聖」の簡体字です。漢詩についてはできるだけ繁体字(旧字)が良いですね。
承句の「芬灣」については「芬蘭」まで書かないと分からないですので、「芬蘭灣」まで入れて、「開拓芬蘭灣港將」で行けると思います。
転句はよく分かる句です。
結句は「不屈使徒」がペテロ(彼得)を表すわけで、ここに「彼得使徒」と入れても良いと思いますが、まあ、題名に入れてありますし、「不屈」という情報を加えるのも良いと思います。
ただ、「腸」を「こころ」と訓ずるのはどうでしょうか。句意を優先して、例えば「魂」(上平声十三元)に韻を換えてしまうことも考えてはどうでしょうね。
上平声十三元で探せば、起句は「奔」、承句は「繁」で行けると思います。
作品番号 2024-205
桑名港
昔年旅客行交宮 昔年 旅客 宮を行き交ふ
今日漁民蛤獲 今日 漁民 蛤獲驍オ
來往篇舟盛氣属 来往する篇舟 盛気属す
藍川蘇水碧流中 藍川 蘇水 碧流の中
<解説>
七里の渡のかつての盛況と現在の桑名漁港を描きました。
木曽、長良の大川は今も昔も悠悠と流れています。
<感想>
承句は「蛤」がこの位置だと、最近になって蛤漁が始まったような印象になります。
転句は「こぶね」ということですと「扁舟」、「扁」は「小さい」の意味では平声です。
結句は地区の特徴がしっかり出ていると思います。
起句の「行」は「ゆく」という意味の時は平声、「下三平」になります。
また、転句の「盛」も「もる」なら平声ですが「さかん」だと仄声になるので、ここは「下三仄」です。この二箇所は直す必要があります。
「蜃蛤漁民今愈驕vと入れ替えると良いと思います。
「來往」は「往來」として起句に置き、「大小行舟」でしょうか。
作品番号 2024-206
四日市港
東望尾州伊勢灘 東に尾州 伊勢の灘を望み
西鈴峰群嶺景觀 西に鈴峰群嶺の景観
工場煙藥害頻發 工場の煙薬 害は頻発
今日鰆鰤魚正溥 今日 鰆鰤の魚正に溥(あまね)し
<解説>
四日市港は昭和中期までコンビナート公害に悩まされましたが、今日は水質や空気も良くなり、魚達も戻って来ました。
<感想>
転句は「往時」「昔年」と過去の事だとはっきり分かるような書き出しの方が分かりやすいと思いますし、結句への転換も良いです。
結句は「鰆(さわら)」も「鰤(ぶり)」もどちらも和習で、漢文では別の魚になってしまいます。
起句は良いですが、承句は平仄が合いませんね。「鈴峰西對嶺雲觀」などで。
具体的な名前は出しにくいので、中二字を「魚鰕」として、下三字は韻字も含めて再考してみてはどうでしょうか。
作品番号 2024-207
励自
幾經辛酸老境迎 幾たびか辛酸を経て 老境を迎ふ
繁霜増皺鏡姿驚 繁霜 増皺 鏡姿に驚く
至長壽猶未爲可 長寿に至れども 猶 いまだ可為らず
更積研鑽果大成 更に研鑽を積み 大成を果さん
<解説>
八十を過ぎても達成感のあるものは一つもなく寂しい限りである。
あと残り少ない人生だが、何かを成就したいものと自らを叱咤激励したもの。
<感想>
題名は「自」一字ならば「自励」、「励自己」とするのも良いでしょう。
起句は良いですが、承句は「繁霜」と対にして「細皺」が合います。
転句は「猶」は平字ですので、ここは平仄が合いません。
結句は「果」を「全」「期」「嘉」などが、強さとか気持ちが入ると思います。
更に人生に充実を願う、という姿勢は素晴らしいですね。
「鏡姿」は「鏡の形」になりますので、ここは「鏡中」「鏡前」で。
「長壽」自体も起句の「老境」と重なりますので、すっきりと「無功八十」とし、下の「未爲可」はちょっと無理矢理という感じなので「爲可」を「能賞」。
作品番号 2024-208
憂電脳發達
近來少語巷間然 近来少語 巷間の然
電脳無言能互傳 電脳不言ざれど 互に伝えること能ふ
孔聖嘗喩仁コ恕 孔聖は嘗つて喩す 仁徳の恕
心情初届口頭前 心情は初めて届く 口頭の前
<解説>
近ごろ世間では会話が少なくなっているように思う。
これは電脳が無言にても互いに伝えることができるからである。
孔子がかつて仁徳には恕が大切だと言っている。
(これは人がキチンと人の道を歩んでいくには人を思いやることが大切だといっているが)、それには心情が相手に伝わらなければできないことで、すなわち直接話し合うことが必要なのだ。
転句から結句は少し飛躍し過ぎているのでは とは思います。
<感想>
起句は「然」だけですと分かりにくいですね。寂しい雰囲気を表す「蕭然」として、その理由を承句で述べると良いです。
承句は「電脳」というよりもネット社会に問題があると思いますので「電網」でどうですか。
転句は四字目の「喩」は仄声で使うことがほとんどですので、ここは別の語で。「論」ならば行けますかね。
結句は良いですね。
現状を描いた前半から、孔子の言へと進むのはそれほど飛躍ではなく、結句でうまくまとめていると思いますよ。
作品番号 2024-209
春情
山滿紅霞鳥語紛 山は紅霞に満ちて 鳥語紛(みだ)る
池湛碧水泳魚群 池は碧水を湛え 泳魚群れる
急風吹去櫻花舞 急(つと)に風吹き去り 桜花の舞
何處時聞鶯朗聲 何処なりや 時に鶯の朗聲を聞く
<解説>
山は桜花が赤い霞が掛かったようにいっぱい咲き、鳥が囀りながら飛び交っている。
池は碧水をいっぱいに湛え、魚が群れを為して泳いでいる。
風が急に吹いてきて、桜の花がサッと散って花びらが舞ってとてもきれいだ。
何処からだろうか、時に鶯の清らかな鳴き声が聞こえてきて、本当に春を満喫した。
<感想>
転句は「吹去」とあれば「急」は必要ないので、風の形容語を入れると良いです。
結句は韻字が違いましたね。上の「聞」が韻字ですので、これを最後に置くつもりだったのでしょうか。
前半は対句で組み立てていますね。
「鳥語」と「泳魚」の構成が逆なので、直すとすれば「啼鳥」、韻字は「欣」が良いでしょうかね。
語順を整えるなら、「何處鶯聲朗朗聞」で行けるでしょう。
ただ、起句に「鳥語」がありますので、「鶯」をどう扱うか。
前半は対句ですので必要ですし、「鶯」も捨てがたいし、悩ましいところです。
どちらも韻字を変更しなくてはいけないでしょうが、この「上平声十二文」韻で合いそうなのは「薫」「芬」など。
作品番号 2024-210
櫻花
殘梅三月發櫻花 残梅 三月 桜花発く
燿燿春暉入萬家 燿燿たる春暉 万家に入る
漢地牡丹専自慢 漢地 牡丹専ら自慢するも
不知日本有名葩 知らず 日本に名葩有るを
<解説>
桜が開くと、国中が春を感じるようになる。中国では牡丹の花を自慢するが、日本の桜花を知らないからだろう。
<感想>
承句は桜の流れから行けば、「春暉」は「香雲」が良いですね。
転句の「漢地」は「漢土」「唐土」の方が分かりやすいですね。
結句は、そもそも現在の日本の桜自体が無かったわけですから、「不知」は申し訳ないです。
起句の「殘梅」は季節の変化を表すための語、後に「牡丹」も出ますので花の種類を増やさない方が良いでしょう。
「東風三月誘紅葩」かな。
この下三字は「自慢」では表現が直接的過ぎます。
牡丹ですので、周敦頤の『愛蓮説』に倣って「人甚愛」が面白いです。
内容的には、中国の人が牡丹を愛するのと同じように、日本では桜を大切にして愛している、という展開の方がすっきりしませんか。
そうなると、結句は「吾邦千古有櫻花」などが良いですね。