作品番号 2024-331
造梅酒
仲夏清晨摘鵠~ 仲夏の清晨 緑梅を摘み
午天洗甕白雲開 午天甕を洗ぎて白雲開く
毎年醞醸一升酒 毎年醞醸(うんじょう)す一升の酒
幾夜沈沈秋氣來 幾夜沈沈たりて秋気来る
<解説>
梅酒を造りました。結句は、あと何日待てば秋になって梅酒ができるかなという気持ちを伝えたかったです……。
夏の朝、青梅をとり
午後に甕を洗うと晴れてきた
毎年一升の酒を造るが、
幾晩更けたら秋となる
<感想>
朝に梅を摘むのは分かりますが、「午天」に甕を洗うのは何か理由があるのでしょうか。
転句は「一升」ですと唐の時代は約0.6リットル、「三升」で現在の日本の「一升」くらい、単位は別にしても数字的には「一升よりも「二升」とすると、現実的な趣が出ますね。
後半は「年年」「夜夜」と対応させた方が良いです。
全体に時間の流れが慌ただしいですね。
また、「C晨」と来れば通常は「爽やかに晴れた朝」を思いますが、昼になって「白雲開」というのも午前中に何があったのか。となると、承句は「午天」も「白雲開」も削除して、更にどんな情報が入るかですね。
そうですね、青梅についてもう少し書いておくのが良いですかね。転句からの期待感に繋がるかなと思います。
「瓊珠帶露馥微回(瓊珠 露を帯び 馥り微かに回る)」、下三字を「甕新開」も考えられますね。
「どれくらい寝たら」と「毎晩毎晩楽しみだ」の違いですね。
「沈沈」は「惟須(惟だ須つ)」でどうかな。
作品番号 2024-332
仲春偶成
習習東風渡水田 東風 習習 水田を渡る
今宵群星是吾天 今宵 群星 是れ吾が天
春泉洗耳C閑足 春泉 耳を洗ひ 清閑足る
松籟瀟瀟物候姸 松籟 瀟瀟 物候妍
<解説>
心地よく春風が水田を渡り、天を仰ぐと星が夜空に一杯ちりばめられて、自分一人で楽しんでいる。
隣を流れる長尾川には清流が流れて清々しく、庭の松も風に吹かれて春を感じるな〜。
<感想>
もう一つは、「水田」は「水を張った田」ですが、「仲春」では早過ぎませんか。
承句の「是吾天」は空の星を独り占めした感覚でしょうかね。
後半はどちらの句も聴覚で揃えたということですね。
結句はやや疑問で、「瀟瀟」は「寂しげに吹く音」、これは秋の風情。
起句はこの句だけだと問題はありませんが、次の承句では夜の場面、となると風が水田を渡るのも夜の景色なわけですが、これですと昼だと思います。
「東風」を「晩風」「夜風」とし、承句の「今宵」は「滿目」が良いでしょうね。読み下しは「習習たる晩風」。
「風が水田を渡る」と言われると初夏のイメージが強くなりますよね。「水」をやめて「圃」としておくと季節は合うでしょう。
一気に広がりが感じられ、生き生きとした良い表現です。
「星」が平声ですので、語順を替えて「群星滿目是吾天」が良いでしょう。
これは解説に書かれた「隣を流れる長尾川」が分かるように「川聲」とした方が画面に合うでしょうね。
ここまでに視覚や聴覚も使っていますので他の風物を持ってくるのもちょっと難しく、「獨坐南軒」と全体をまとめるような形が良いですかね。
作品番号 2024-333
送春偶成
村徑徂春山翠鮮 村径 徂春 山翠鮮やかなり
依然勝景共爭姸 依然 勝景 共に妍を争ふ
耕人開拆当時顧 耕人 開拆 当時を顧みる
季到嫩秧又一年 季到り 嫩秧 又一年
<解説>
春の季に、昔の情景を思い出し、以前は家の周囲は一面田圃であったことなどを顧みて、又一年馬齢を重ねたなーと。
<感想>
承句は「然」が韻字ですので、「依依」とするか、別の言葉を探しても良いでしょう。
転句は「耕人」が「当時を顧みる」ように読めます。
結句の「季到」は説明文になりますので、「復看」と「今年もまた」という感じが良いでしょう。
起句はこれで問題はありませんが、「送春」の題で直後に「徂春」と来るのはちょっとしつこいですね。
「山徑」がどんな様子なのかを描くと、次の「勝景共爭姸」が具体的に目で分かるようになります。
また、承句で「依然」と「昔と変わらない」と言っていますので、「当時」のような言葉は違和感が出ます。「遊人懷昔惜春興」。
四字目の孤平を避けて「嫩秧」は「青苗」でしょうか。
作品番号 2024-334
枇杷
近邊果樹熟枝撓 近辺の果樹 熟して枝は撓む
欲認畫圖飛燕騒 画図を認めんと欲すれば 飛燕騒ぐ
黃黒`安多墨客 黄緑は描き安く 墨客多し
何言休歇眼中高 何ぞ休歇を言はん 眼中 高し
起句の「近邊」は「近園」とした方が「果樹」には合いそうです。
承句は「認」は何をするのか、次に「描」があるので同字を避けたのですかね。「作」の方が分かりやすいかな。
転句は「枇杷は描きやすいので絵画によく使われている」ということですかね。これを七文字で言うのは難しいですね。
<感想>
枇杷に白い覆いをする季節ですね。
「撓」は「不撓不屈」の四字熟語や、「撓曲(どうきょく)」「撓屈(どうくつ)」などで使いますが、平仄が微妙で、沢山の韻を持っているのですが、「たわむ」の場合は仄声のようですね。
「南庭樹果垂枝熟」。
ここで「飛燕騒」ですが、飛びながら燕が鳴くというのも疑問ですが、作者の絵を描こうとする行為とどう関係するのか。
これですと、燕が「やめろ、やめろ」と言っているようですが、何か燕に悪いことをしましたか。
こちらに「高」を持ってくれば、顔を上げたら飛燕が見えたということで収まりますが。
ここは「墨客」など無視して、先ずは枇杷の姿をもっと描くべきですね。
その上で、結句で「古來墨客筆箋操」とか、下三字は「喜詩曹」でも良いですね。
作品番号 2024-335
姥捨棚田
六月棚田昼亦涼 六月 棚田 昼亦涼し
蒼茫塵外水雲ク 蒼茫 塵外 水雲の郷
如鱗斜面寫生圃 斜面 鱗の如し 写生の圃
百里歸程時足忘 百里 帰程 時 忘るるに足る
起句は「昼亦涼」でも良いですが、「風亦涼」も広がりが出て良いかなと思います。
結句は「時正忘」が良いですね。
<感想>
「姥」は「姨」が地名としての表記のようですね。
千曲市の姨捨棚田、六月は水が田に満ちて美しく見えるとのこと。
棚田は「梯田」と中国では表記します。
こちらの詩も、「寫生圃」では弱いので「棚田」の様子をもう少し描いて欲しいですね。
作品番号 2024-336
春思
東窗旭染好風吹 東窓に旭染まりて 好風吹く
啼鳥花悲落地時 啼鳥 花は悲しむ 地に落つる時
何處歸春三月半 何れの処にか春は帰る 三月の半ば
年年亦遇囀黃鸝 年年 亦遇ふ 囀る黄鸝に
<解説>
花落つる頃、春は去り、淋しさ、でも毎年ウグイスの囀りを耳にする頃、また、春に出会える
<感想>
承句は「啼鳥」が必要かどうか、逆に結句で「囀黃鸝」と来ますので、最後を印象深くするには承句で「鳥」は出さない方が良いですね。
転句は逆に「春歸」の語順で、主語述語をはっきりさせましょう。
結句は「亦」を「復」(どちらも読みは「また」)とすれば、「もう一度」という意味が強くなります。
起句は「(東窓が)旭に染まり」と訓じた方が分かりやすいですが、「旭日」だけでも問題無いと思います。
「獨看(独り看る)」と少し寂しげな雰囲気が良いでしょうね。
中二字は「花悲」ですと「花が悲しみ、地に落ちる」と述語が並びますが、「悲花」と逆にしてこちらを主語にした方が好いです。
作品番号 2024-337
思節句
祝童端午酌芳樽 童を祝ふ端午 芳樽を酌む
萬古屈原弔沒魂 万古 屈原の没魂を弔ふ
喜慣悲生人靜坐 喜びの慣(ならわ)し 生の悲しみ 人静かに坐す
徒迷節句直臣冤 徒らに迷ふ 節句 直臣の冤
<解説>
端午の節句は今まで子供の成長を祝うの喜びの行事と思っていました。
楚の王族であった屈原が讒言により汨羅の淵に身を投じたのは知っていましたが、今回、この死を弔うことが節句の始まりだと知りました。
今までの喜びの節句と悲しみが一緒になり、迷ってしまいました。
<感想>
承句は「四字目の孤平」になっているのと、「屈原の没魂」と続けるには「弔」が邪魔というか、「屈原没魂」と続けないといけません。
転句の「喜慣」はあまり目にしない言葉、造語ですかね、「遥想」とか「此日」。
結句は「惻然」という「憐れみ悼む気持ち」を表す言葉がありますので、それを頭に使うと良いかと思います。
清廉な屈原を悼むための祭が始まりですが、それから二千年以上も過ぎましたから、内容が節句のお祝いになっても問題無いですよ。
屈原ご本人も、暗く辛い思いで居るよりも、健やかに育つ男の子、という役割の方が嬉しいかもしれません。
ただ、時には屈原への哀悼を思い出すことも大切で、この詩もそうした意義があるでしょうね。
「萬古」では長すぎるようにも思いますので、ここは「獨弔屈原孤憤魂(独り弔ふ 屈原の孤憤の魂)」が良いでしょうね。
作品番号 2024-338
國是
戰爭放棄國民望 戦争 放棄は 国民の望(ねがい)
憲法九條明記良 憲法 九条の 明記は良(りょう)なり
唇齒輔車挑社會 唇歯 輔車 社会を挑(かか)げ
日東恒久守安康 日東 恒久 安康を守る
「唇齒輔車」は従って二つのものが助け合うわけですが、この詩の前半から行くと、何と何が対応するのでしょうか。
結句の「日東」は中国から見ての表現、「吾邦」とし、「私(たち)の国」という気持ちを出した方が良いでしょう。
<感想>
「唇齒輔車」は「くちびると歯、輔(頬骨)と車(下顎の骨)のように、お互いに助け合う存在」を言う言葉ですね。
「輔車」は「車輪とその軸受け」と解釈する説もあります。
『春秋左氏伝』に見られ、「唇亡びて歯寒し」も似た意味に使われます。
「戦争放棄」や「憲法九条」だけですと「唇と歯」になりません。かと言って、もう一つを探すのも「九条」と並ぶものとなると難しいですね。
ここは、残念ですが、別の四字熟語を考えた方が良いでしょう。
作品番号 2024-339
老翁
白眉白髪白髭鬚 白眉 白髪 白い髭と鬚
老眼老身黃齒膚 老眼 老身 黄の歯と膚
行動極遲多憩息 行動 極遅く 憩息多し
發聲起座殆前途 発声して 起座する 前途殆(あやう)し
前半は同字を巧みに使って、面白い表現になっていると思います。
転句の「極遲」は口語的ですので「遲遲」「緩遲」。
結句は、これまでの繰り返しですと、老いの症状を羅列しているだけで、だから何をこの詩で言いたいのかが分かりません。
<感想>
身につまされる詩ですね。
起句は「白」を三回、承句は「老」が二回ですね。「四字目の孤平」を避ける為の処置でしょうが、ちょっと残念ですね。
平字で「眼」「身」「齒膚」の上に共通で置ける言葉があると良いですね。うーん、「衰」とかでしょうか。
最後はまとめる形で、「こんな年寄り(自分)だから」、あるいは「こんな年寄りだけど」という流れに持って行きたいですね。
作品番号 2024-340
炎暑對策
炎暑前庭草木稠 炎暑 前庭 草木稠る
垂廉扇子竹床由 垂廉 扇子 竹床を由(もち)いる
蟬聲聒聒聞連日 蝉声 聒聒(かつかつ) 連日聞く
對策萬端夫婦休 万端の対策して 夫婦は休(いこ)ふ
<解説>
我が家の炎暑対策です。
<感想>
現状と対策という点で見ると、起句は現状、承句は対策、転句は現状、「対策した結果、転句のような状態になった」ということなら分かりますが、蝉の話では起句と変わらないですね。
承句と転句は逆にすれば、話はまとまりますので、入れ替える形にしましょう。
結句の読み下しは「万端の対策」とは読めませんので、「対策は万端」となります。
なるほど、今年も猛暑、酷暑になりそうですから、対策は大切ですよね。
となると、「対策しても効果が無かった」ということでしょうか。
作品番号 2024-341
砂漠水
高山融雪入坤週 高山の 融雪 坤に入り週(めぐ)る
湧水爲川展下流 湧水は 川を為し 下流に展(のび)る
兩岸茂椰觀告F 両岸に 茂る椰の 緑色を観る
村民日日過悠悠 村民は 日日 悠悠過す
<解説>
モロッコにアトラス山脈があり、南側は黄茶色の砂漠で湧き水あり、川沿いに椰子が茂り、所々に人家がある風景。
<感想>
転句は「椰の緑色を観る」とはなりません(述語と目的語の位置)ので、「椰の」としないように。
結句は「過悠悠」ですと「過ぐること悠悠たり」で「悠悠過ごす」とは読めません。
起句の「入坤」は「地中に入り込んで」ですが、「週」が余分ですね。
地下の水の流れは見えないわけで、「週」と言われると地上を流れていることになります。
でも、それは承句の役割みたいですので、結局、「週」は分かりにくくさせているだけ、という感じです。
雪解け水が地下でどうなったのか、他の韻字で考えてみましょう。
ただゆったりと暮らしている、ではやや弱いので、「村民順性日悠悠(村民順性たり 日は悠悠)」など、村民への思いを出したいところです。
作品番号 2024-342
昼顔
桾覧チ到雨餘村 薫風 涼到る 雨余の村
陋巷池邊坐小軒 陋巷 池辺 小軒に坐す
開蕾昼顔泡沫命 開蕾す 昼顔 泡沫の命
不長存志已忘言 長にあらず 志に存り 已に言を忘る
<解説>
「昼顔」… 多年生つる草。初夏朝顔ににた淡紅色の花が咲き、午後には散る。根は薬用。
<感想>
主題は、花の命の短さに負けずに蕾を開かせる昼顔の心を想うものですが、花の美しさが無いとどうしても理屈っぽくなります。
承句に花を出す展開も考えられますが、この展開でも悪くはありませんので、どこかに花の形容を入れたいですね。
転句の「泡沫命」と結句の「不長」は似通っていますので、どちらかに花を入れるとすると、「紅淡好(紅淡く好し)」、結句ならば「艶姿」とかでしょうか。
昼顔は日本で自生している花で、奈良時代末に遣唐使がアサガオ(「牽牛花」)の種を持ち帰ったため、対応させて「ヒルガオ」となったとも言われています。
ちなみに、「牽牛花」の名は、アサガオの種が漢方薬として重宝され牛を牽いて行って交換したとのことです。
まずは花の美しさが描かれて、その後に短命と来れば、昼顔の健気さが出てくるでしょう。
作品番号 2024-343
愛知用水
遙岑巡到潤村流 遥岑 巡到 村を潤して流る
御岳既應搖落秋 御岳 既に応に搖落の秋なるべし
嵐影湖光池水畔 嵐影 湖光 池水の畔
山川草木憶ク遊 山川 草木 郷遊を憶ふ
<解説>
愛知用水の上流(木曽)と下流(佐布里)を描き、出郷七十余年の想いを記す
<感想>
各句を見て行くと、「遙岑」「岳」「嵐影」「山川」と同じような場所が出て来ます。
起句の「遙岑」と承句の「御岳」は同じかと思いますので、ここから水が流れ始めるということを書くと良いです。
「遙岑碧水潤村流」
「上流と下流を描いて」とありますが、主眼が上流になっていると言えます。
作詩の意図は明瞭ですので、区分を明確にして、例えば転句は佐布里に絞り「燦爛波光池水畔」とすると落ち着きます。
作品番号 2024-344
盛夏井水
菜園草茂不能休 菜園 草茂り 休むに能はず
炎夏芟除珠汗流 炎夏 芟除(さんじょ) 珠汗流る
汲井一呑加浴洗 井を汲み一呑 加えて浴洗
C涼廻體暑初収 清涼 体を廻り 暑 初めて収る
起句「草茂」と下三字の「不能休」の関係がすぐには分からないのがちょっと気になります。
承句の頭は「草茂」でも良いのですが、「芟除」と繋がりが強過ぎて説明文になってしまいますので、「一日」「半日」「午下」など、時を表す言葉が良いでしょうね。
転句は素直な佳句。結句は「体を廻る」のは「清涼(の気)」が良いのですが、実感として爽やかさが身体に満ちていくという感じは、「清涼」と言い切ったこの形がすっきりしています。
<感想>
炎天下、草はこれ見よがしにはびこり、人間ははかない抵抗をしなくてはいけません。
我が家も狭い庭ですが、草むしりには広すぎて、蚊取り線香を腰にぶら下げては夏の朝の私の仕事場です。
次の承句を読めば「芟除」などの農作業だとは分かりますので、理解はできますが。
「菜園炎夏」とか「菜園六月」とすると、「休」が孤立して分かりやすくはなります。
作品番号 2024-345
家族釣遊
新蟬嘒嘒廣園池 新蝉 嘒嘒(けいけい) 広園の池
處處情親弄釣絲 処処 情親 釣糸を弄す
男子揚揚誇碩果 男の子 揚揚 碩果を誇り
樹陰恬淡&30604;嬰兒 樹陰 恬淡(てんたん) &30604;(こう)嬰児
<解説>
ファミリーフイッシングの光景です。
<感想>
承句の「情親」は「情親しみ」と訓じ、「心を通わせる」という意味ですが、ここでは「家族が楽しく」というところでしょうね。
転句の「碩」は「碩学」(偉い学者)でよく用いられますが、「大きい」「立派」。男の子が大きな魚を釣り上げたという場面ですね。
結句は、その男の子の「誇」という元気さに対比して「恬淡(無欲)」な子供、「&30604;(居眠り)」の一字を加えたのが画面を生き生きとしたものにしていると思います。
起句の「嘒嘒」は「蝉の声がせわしい」という形で漢詩では使われます。
「殘暑入林蟬嘒嘒」「滿地蟬聲爭嘒嘒」など。
作品番号 2024-346
晩春遊七本木池上
忽聞春盡水邊遊 忽ち春の尽くるを聞き 水辺に遊ぶ
池上成群白鷺浮 池上群を成して 白鷺浮かび
颯颯惠風飛柳絮 颯颯たる恵風 柳絮を飛ばす
寂然夕景畫中収 寂然として夕景画中に収まる
<解説>
友人から柳絮が見られるとの連絡があり半田市の池に出かけた。
鷺の多さに驚くとともに、夕景と柳絮を併せて絵を見ているような景色だった。
<感想>
起句は「春が終わるのも知らずに居た」ということで、世の人が季節の変化にあたふたとしているのを超越した心境。
承句も良いですが、「浮」は鷺ですとおかしいので、「周」ですかね。
転句も結句もきれいに描けていますが、せっかくの「柳絮」の描写が無い点が残念と言えば残念。
【再敲案】
半田市の七本木池の周囲は道が整備されていて、私も時々散歩に出かけます。
柳絮は知りませんでしたが、鷺が沢山枝にとまっているのは目にします。
冬から春の間は鴨も飛来、水面を行き来していますが、初夏になると姿を消しましたね。
まさに「春の心はのどけからまし」を体現したような様子ですね。
山の奥深くに隠棲していたり、病気で外に出られない時に使う表現ですが、脱俗という意味で風雅の象徴という感じですね。
注が無ければ「柳絮が飛んでいたのか」と普通に読みますが、わざわざ見に行ったとなると、やっぱりもう少し描いておいた方が記録にも記憶にもなりますよね。
転句の上四字かな、是非ご検討を。
忽聞春盡水邊遊 忽ち春の尽くるを聞き水辺に遊ぶ
池上成群白鷺周 池上群を成して白鷺周る
風絮飛飛偏似雪 風絮飛飛として偏へに雪に似たり
寂然夕景畫中収 寂然として夕景画中に収まる
作品番号 2024-347
會舊友
相盟會食幾春秋 相 盟て 会食 幾春秋
甚恨多痾而白頭 甚だ恨む 多痾 白頭
驚是吟詩同好士 驚くべし 是れ 吟詩 同好の士
朗聲一詠圧吾流 朗聲一詠 吾流を圧す
<解説>
会社退職後何十年だろうか、久しぶりの会食をした。
話は病気と老化の事ばかりだったが
彼が未だに詩吟をやっていて同好の士だったことに驚いた。
録音で彼の吟詠を聞いたが、上手で圧倒された。
<感想>
承句ですが、「多痾」はあまり聞きませんので、語順を換えて「多病頻嘆雙白頭」かな。
転句はこれで分かりますので、「驚くは是れ」と訓じた方が良いです。
結句については、友が吟詠を続けていたことを喜ぶ形で終わった方が詩としては収まりが良いですね。
起句は「幾春秋」が「何十年ぶり」にはならず、「会食を幾年も繰り返した」となってしまいます。
「盟」「會」は変化がありませんので、もう会ったということにして、「相舒久闊幾春秋」。
「朗聲共詠彼吾流」ですかね。
作品番号 2024-348
梅雨
霖雨時威四野周 霖雨 時にして威り 四野に周(あまね)く
空山抱霧影峰幽 空山霧を抱いて 影峰幽なり
逝川滿水滔滔下 逝川は水を満し 滔滔と下り
獨紫陽花艷路頭 獨り紫陽花は 路頭に艶やかなり
<解説>
雨は時に猛々しく周り一面に降り続いている。
山には霧が立ち込めていて峰に姿が霞んで幽かに見えるだけである。
川は水がいっぱいで滔滔と下っている。
そんな中で紫陽花だけは道端に艶やかに咲いている。
<感想>
承句、転句はまとまっていると思います。
結句は「獨」が効果的で、前半の暗さの中で鮮やかさを際立たせていると思います。
起句はそもそも「霖雨」ですので、「時威」が無くても「四野周」になるでしょうね。
となると、「蕭條」「蕭森」などとしておく方が画面はまとまります。
そうなると、転句も「滿水」を「碧水」にするとか「逝川」を「暗川」などとするのが良いでしょうね。
作品番号 2024-349
水
十里CC碧水頭 十里 清清 碧水の頭(ほとり)
昊天無順任荒流 昊天 無順 荒流に任す
近年運用過多患 近年 運用 過多を患(うれ)ふ
膨大需要爭亂稠 膨大なる需要 争乱稠し
承句の「任」は、「たえる・任侠」で平声、「まかす(任意)・つとめる(任務)」は仄声。
承句の「昊天」は通常は「夏空」「青空」の意味で使いますが、辞書によっては「春の空」とされているものもあります。
転句の「運用過多」と結句の「膨大需要」はどちらも似た意味に感じます。
<感想>
今回は両韻字があり、難しかったですね。
承句の「過」は、「過ぎる」は平仄両用、「過失」で仄声。
また、「要」は「もとめる(要求)」で平声、「かなめ(要点)・まとめる(要約)」で仄声、この詩はどれも正しく入っています。
ここは夏空ですが、字義から見ると「日に天」で「太陽の輝く空」ということですので、起句の「十里CC」とも繋がりは良いですね。
反面、下の「無順」や「荒流」とはバランスが悪いですね。
「夏天」として、夏は気候が変化しやすいという感じに出来れば良いでしょう。
どちらかを残して、別の言葉を考えてはどうでしょうね。
作品番号 2024-350
木曾三川今昔
三川昔日厄災稠 三川 昔日 厄災稠し
蘭客近代堤亂修 蘭客 近代 堤乱修む
耕地肥饒禾黍作 耕地 肥饒 禾黍作る
積年大水玉姿悠 積年の大水 玉姿悠なり
<解説>
「木曽三川」は昔は暴れ川で、十年に一回は災害に見舞われました。
明治初期から中期にかけてオランダ人技師の河川整備により、現在は殆ど大きな災害は無くなりました。
<感想>
転句は「禾黍作」では面白く無いですね。「耕圃肥饒禾黍稔」で。
結句は、昔のことを思い出した句でしょうか。「大水」が来てしまっては災害に繋がりそうで、心配してしまいます。
こちらは承句の「代」の平仄が違いましたね。
語順を換えて「近代蘭人堤亂修」でどうでしょう。
反対の意味の「治水」がこの場合には適しているでしょうね。
作品番号 2024-351
邯鄲夢
林間酒友既空喪 林間の酒友 既に空しく喪ふ
登阜同袍在異ク 登阜の同袍 異郷に在り
我獨偸生迎月酌 我独り 生を偸(ぬす)み 月を迎へて酌む
憾邯鄲夢雁聲長 憾たり 邯鄲の夢 雁声長し
<解説>
人生は盧生の夢の如きもの
<感想>
承句の「登阜」は故事は分かりませんが、「同袍」は「お互いに服を貸し借りする親友」ですので、「登阜」は行楽を共にした、ということでしょう。
結句は「邯鄲之夢」で「人生の盛衰のはかなさ」を表しますから、転句と繋がって、「生きている私は人生のはかなさを嘆いている」となります。
起句の「林間酒友」は白居易の「林間暖酒」からの言葉でしょうね。
若い頃に一緒に遊んだ友への思いを述べた詩ですが、その友も「既空喪」と亡くなってしまったというのが起句。
「在異ク」は起句を考えると、単に「別の土地」というよりも、冥界、つまりお亡くなりになったと解釈すべきでしょうね。
最後の「雁聲長」の余韻が詩をまとめる効果を果たしていると思います。
そうなると、結句の「憾」(残念に思う、遺憾)の感情語が良いかどうか。
「猶」で「猶ほ邯鄲の夢のごとし」と再読文字とか「如」だけでも良いかと思います。
作品番号 2024-352
再會
舊交再會白頭郎 旧交再会す 白頭の郎(おとこ)
平午茶坊雨送涼 平午の茶坊 雨 涼を送る
會者定離人自老 会者定離 人自ら老ゆ
生生世世夢回翔 生生世世 夢回翔す
<解説>
詩吟同好会の先輩。共に中国旅行も同行した。
昔話に花が咲いたが、さすがに老いを感じた。
<感想>
承句の「平午」は「平昼」「亭午」とも言いますが、「正午」を表しますね。
転句で「会者定離」、結句で「生生世世」と熟語を重ねますが、前者は人の世の無常を言い、後者はいつの世でもと永遠を表しますので、対照的な言葉が並びます。
起句は分かりやすい句ですね。
無常を受けて「人は必ず老いる」ことを述べ、しかし、「夢はいつまでも遶り廻る」と明るく終わらせようという意図でしょうか。
旧友と再会したという前半から、転句で「会者定離」と来るのは、その旧友と別れるような話で、句の流れが行ったり来たりするような感じ。
「談笑正知(談笑 正に知る)」という表現でも良いかと思います。
作品番号 2024-353
観恒河
恒河汚濁E漫蠃 恒河(ガンジス川)は汚濁し E漫(びょうまん)と蠃(のび)る
信者早朝坡下盈 信者は早朝 坡下に盈(みち)る
江上死骸皮骨就 江上の死骸 皮と骨と就(な)す
水中枯草土埃更 水中の枯草 土と埃に更(かわ)る
川流沐浴心身整 川流 沐浴 心身を整(ととの)える
火葬燃焼焱煙瞠 火葬 燃焼 焱煙(えんえん)を瞠(みつ)める
印度教徒天国夢 印度 教徒 天国を夢みて
西方彼岸守墳塋 西方の彼岸 墳塋を守る
頷聯については、「皮骨就」は「皮骨」を主語にしないと「土埃更」との対が乱れます。「皮骨露」。
頸聯はそれぞれの句の意味は分かりますが、聯としてはどういう気持ちなのでしょうか。
最後の「守墳塋」ですが、ヒンズー教徒は墓を持たないのではなかったですかね。
<感想>
第一句の最後の字は「焱」で中が虫ですが、これは「ら」と読み、下平声八庚韻ではありません。
意味は「なめくじ」。
これは似た字が多く、中が「女」の「&23348;(えい)」は「みちる」、中が「貝」の「贏(えい)」は「あまる」、これはどちらも下平声八庚韻です。
四句目は、本来地上にあるべき「枯草」や「土埃」が「水中」ではバランスが悪いですね。
「江」「水」「川」と同じものを表す字が続くのもどうか。ここは「水中」を換えるべきでしょう。
ここの「瞠」の主語は当然作者だと考えるのですが、そうなると沐浴したのも作者になるので、誤解の無いように語を整理するべきですね。
作品番号 2024-354
懐漢字
視鳥足紋為字先 鳥の足紋を視て 字を為す先(はじめ)なり
象形会意激増前 象形 会意で 激増に前(すす)む
中華記録存文化 中華は記録の文化が存り
求古尋論見識研 古を求め 尋ね論じ 見識を研(みが)く
起句は「視」は不要な言葉、下三字は読みにくいですね。
承句は「催」で行けるでしょう。
転句は「中華(の)記録は文化に在り」となります。「中華有記録文化」と書くしかありません。
結句の「尋」は良いですが「論」は自分の意見を述べるわけですので、強過ぎるかな。「尋思」くらいで控え目にしましょう。
<感想>
題名は「懐」ですと「なつかしがる」という感じがしますので、「漢字考」「親漢字」などかな。
「鳥足為紋作字魁」と韻字を上平声十灰に変更した方が良いかと思います。
句の切れ目がおかしくなることを避けるならば、「記録が文化を育てる」というような構文に持って行く形ですね。
「見識」自体も「しっかりした考え」で、それを「更に研く」となると、自分は見識があるぞと言っているみたいに感じますが、どうでしょうね。
韻字も含めて再考してみてください。
作品番号 2024-355
初夏明日香村
飛鳥悠悠古跡天 飛鳥(ひちょう) 悠悠 古跡の天
滔滔逝水幾千年 滔滔 逝水 幾千年
往時骨肉操戈地 往時 骨肉 操戈の地
家族插秧初夏田 家族 秧を插す 初夏の田
<解説>
明日香(奈良)に行ってきました。
今月の課題『家族』を踏まえて創ってみました。
<感想>
後半は、結句の方に「現在」を表す言葉が無いので、二つの句ともに「往時」のような読みになりそう、対比が分かるかな?とやや心配。
承句の「幾千年」は、飛鳥の歴史から言えば長過ぎます。
「逝水」だと言えば通じますが、そうなると次の「往時」が混乱してきます。
時間的には「其二」で使われた「千古」くらいが適当かと思いますので、起句を「千古天」、承句を「舊(故)墟邊」とすると、視線の動きも大から小へと変わり、転句に流れやすくなるかと思います。
「家族」という言葉にこだわらなければ「唯見」と自分の行為を入れると現在という視点が分かりますので、例えば「唯見新秧一望田」のような形ですね。
作品番号 2024-356
初夏明日香村 其二
極目平疇舊跡多 極目すれば 平畴 舊跡多し
此村千古是東倭 此の村 千古 是 東倭(やまと)
&26238;衣風掃翠山麓 &26238;衣 風掃ふ 翠山の麓
即景聞知萬葉歌 即景 聞き知る 万葉の歌
<解説>
万葉の歌;「春過ぎて夏きたるらし白妙の衣ほしたり天の香具山」
<感想>
承句は「東倭」で明日香を表せるのでしょうか、色々と説があるようですが、一般的には「日本国」という捉え方だと思いますがどうでしょうか。
転句の「&26238;」は太陽にさらしてかわかす、という意味ですので、「衣ほしたり」に当てはめた字ですね。
起句は広がりが感じられる良い句ですね。
「晒」「曝」もほぼ同じ意味で使いますが、細かい意味の違いはよく分かりません。
初夏の言葉を使わずに、「&26238;衣」や「翠山」などで季節感を出した点が工夫ですね。
作品番号 2024-357
明日香村稲渕棚田
紆曲千畦獄ク 紆曲千畦 獄の郷
梯田水足健新秧 梯田 水足りて 健新秧
遐觀日本舊風景 遐観 日本の旧風景
天籟吹馨滌客腸 天籟 吹馨 客腸を滌ふ
<解説>
「稲渕棚田」:奈良県景観資産として登録されており、日本の棚田100選にも選ばれています。
<感想>
承句は分かりやすいですので、読み下しも「新秧健やか」としましょう。
転句の「遐觀」は「遙望」と同じだと思いますが、ここでわざわざ視点の説明をする必要があるでしょうか。
結句は「天籟」と風を出して聴覚や嗅覚へと移してまとめようという気持ち、その立ち位置が「遐觀」に繋がったのでしょうね。
起句は「紆曲千畦」で田圃の景色が目に入るのですが、下の「野」が余分なイメージを出すようで邪魔ですね。
「滿冊ク」あたりでどうでしょう。
「見たぞ〜」という感動の方が適切かと思います。
「得觀(観得たり)」「正觀(正に観る)」と強く言いたいですね。
作品番号 2024-358
夏日遊池畔
炎炎池上火雲張 炎炎たる池上 火雲張る
無數吟蟬噪夕陽 無数の吟蝉 夕陽に噪ぐ
佇立柳塘通體汗 柳塘に佇立す 通体の汗
梢梢風自水來涼 梢梢として風は水より来たりて涼し
<解説>
猛暑日が続く中、夕方に近くの池に行った。
依然として汗をかく暑さだったが、池の畔の柳の下に立つと池から涼しい風が吹いてきた。
<感想>
承句は「無數」が必要かどうか、下に「噪」がありますので、説明過多の印象があります。
転句の「通体」は「体中、上から下まで汗ぐっしょり」という、今年の暑さをよく表していますね。
結句の「梢梢」は「木立を抜ける風の音」ですかね、その下が無理矢理自を入れたという感じがします。
起句は良いですね。
書くなら大げさに「無限」くらいが面白いですが、通常の形で言えば、蝉のいる場所を示すのが良いでしょうね。
後ろの「柳」を借りてくるのが妥当ですかね。
上四字は作者を登場させて、「漫歩孤翁」のような情報を入れたいところです。
すっきりとさせる形で、「梢風渡水自來涼(梢風 水を渡り 自ら来たりて涼たり)」のような感じですかね。
作品番号 2024-359
六夜待
深更涼到坐遐贍 深更 涼到 坐して遐かに贍る
茫漠天河新月纖 茫漠たる天河 新月繊たり
六夜待長過半夜 六夜待長し 半夜を過ぐ
三尊在意客衣沾 三尊は意に在り 客衣沾ふ
<解説>
「六夜待ち」… 陰暦正月と七月の二十六日の夜、月の出を待ち、三尊を拝する行事。
三尊とは、彌陀、観音、勢至のことで、月光の中に出現すると云う。略して「六夜待ち」。
今年七月の六夜待ちは八月二十九日(木)。
<感想>
起句の末字は「目」を偏にした「瞻」ですね。「貝」偏は別字です。
結句は「客衣」である必要は無い、というよりも、旅先ではない方が「六夜待ち」には合うと思いますので、ここは「葛衣」「素衣」など、粗末な着物とした方が良いでしょうね。
二十六夜待ちとも言われ、江戸時代には主に関東で行われた行事ですね。
二十六日の月が昇るのは随分遅くなりますが、今年の八月二十九日の月が出る時刻を調べると、愛知県ではもう翌日の一時十一分だそうです。
ということは、六夜待ちを江戸の人達が楽しんだのは、どうやら、月を待つまで宴会を楽しむという趣向だったのかもしれませんね。
ここで「深更」と言い、転句でまた「過半夜」はちょっとしつこい感じです。
季節が分かるように、起句の方を「秋宵」としてはどうでしょう。
作品番号 2024-360
十六夜月
閑居丘麓暮鐘微 閑居す 丘麓の暮鐘微か
幽寂鮮明十六暉 幽寂 鮮明なり 十六暉く
皓月千浬懷畏怖 皓月 千浬 畏怖を懐く
黙開菊酒雁南歸 黙して菊酒を開く 雁南に帰る
転句は、「十六暉」から直ぐに「皓月」と来ると、重複感が出ます。
結句は「開」よりも「斟」が下の「酒」に合うと思います。
<感想>
起句で聴覚、承句で視覚、と分けて描いてるのは分かりやすいですね。
時刻的にも、「暮鐘」とともに「十六夜の月」が昇るは納得できます。
ただ、「鮮明十六暉」は良いですが、「幽寂」は何を指しているのか、と言うと、「閑居している丘麓」の形容でしょうから、この二字だけが前句からの引きずりで、モヤモヤとします。
起句の方に「閑居幽寂暮鐘微」と持って行き、承句は「丘上鮮明」と場所を表す言葉にすると、収まりが良くなります。
四字目の「浬」は平字にしたいということですが、これは「海里」を表す字ですので、海がここで出て来ると場面が合わなくなります。
「皓皓C光」「皓皓覆天」など。