2017年の投稿詩 第181作は 岳城 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-181

  列座千部經法要        

浄土真宗法要臨   浄土真宗 法要に臨む

聲明合一梵鐘音   声明 合一 梵鐘の音

貪瞋痴毒凡夫意   貪 瞋 痴毒 凡夫の意

千部經文導虚心   千部経文 虚心に導く

          (下平声「十二侵」の押韻)



<解説>

「千部經法要」: 親鸞聖人が越後から関東に赴く途中、浄土三部経を千回読経しようとした故事に由来。
「声明」: 梵唄
「貪瞋痴毒」:貪欲 怒り 愚痴の三毒
「虚心」: 心にわだかまりが無い

<感想>

 「「貪瞋痴(癡)」は「とん・じん・ち」と読んで、人間の煩悩を表す言葉ですが、「愚痴」は私たちが使う「愚痴る・文句を言って嘆く」という意味ではなく、文字通りに「おろかさ」を言います。
 それは人間の悪の根源で「三毒」であるのですが、それを棄てきれないのがまた人間でもある、というところが、近代文学の出発点でもあったと私などは思います。

 濁世を去って「虚心」に一時でもなれたというのは、貴重な瞬間だったのでしょうね。
 ただ、「虚心」ですと平仄が合いませんので、どう直すか難しいですね。



2017. 7.23                 by 桐山人



岳城さんからお返事をいただきました。

 いつもお世話になっています。

 「虚心」を「素心」にしました。
 「信心」「仏心」なども考えましたが、「素心」を選びました。

 ご指導 よろしくお願いします。

 列座千部經法要(推敲作)
浄土真宗法要臨   浄土真宗 法要に臨む
聲明合一梵鐘音   声明 合一 梵鐘の音
貪瞋痴毒凡夫意   貪 瞋 痴毒 凡夫の意
千部經文導素心   千部経文 素心に導く
          (下平声十二侵韻)

「素心」: 飾り気のない清らかな心

2017. 7.26               by 岳城


 そうですね。
 初案の「虚心」に近い言葉としては、お考えになった三つの中では「素心」が一番合うかと私も思います。

 「信心」「仏心」ですと、転句の「煩悩の中に居る私」が「千部経文」のおかげで「信仰の世界に入れた」という流れになり、どうもストレートというか、商品の広告を聞いているような感じがしますから。(あくまでも表現の問題としてです)
 「導」にこだわらなければ、「拂俗心」とか、「愈洒心」なども考えられますね。
 例に出しました「愈洒心」でも、「愈」とか「洒」を別の字にすれば趣が違ってくると思いますので、ぴったりのものを探してみてはいかがでしょうか。


2017. 8. 9               by 桐山人























 2017年の投稿詩 第182作は 東山 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-182

  丁酉立春聞嬢子赤縄事作(1)        

歳歳逢春空送春   歳歳春に逢うて 空しく春を送り 

未歸恋恋恨年巡   未だ帰がず 恋恋として年の巡るを恨む

勃聞霹靂赤縄事   勃に聞く霹靂 赤縄の事

去患野翁佳節晨   患いを去る野翁 佳節の晨

          (上平声「十一真」の押韻)



<感想>

 東山さんのお嬢さんがご結婚とのこと、おめでとうございます。

 前半は、なかなかその手の話が聞けないで、心配をしていた日々を描いたものですね。
 親としてのお気持ちはよく分かります。
 詩としては、起句はややおおげさかなと思いますし、承句も「恨年巡」はくどいかなと思いますが、これは喜びの裏返しの表現だと解釈できます。

 転句の「赤縄事」は、「いつまでも切れない夫婦の契り」という故事で使いますが、これから夫婦になるということですから、「結婚」とした方がしっくり来ると思いました。



2017. 7.23                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第183作は 東山 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-183

  丁酉立春聞嬢子赤縄事作(2)        

長子遇還團欒時   長子遇還り 団欒の時

勃宣嬢子赤縄事   勃に宣う嬢子の 赤縄の事

正之霹靂阮S我   正に之れ霹靂 間(しばし)我を亡ふも

愉待君歸君幸姿   愉しみに待たん 君帰ぎ 君が幸いの姿を

          (上平声「四支」の押韻)



<感想>

 前の作品と同じ内容ですが、息子さんが帰ってこられて皆が揃った時にお嬢さんから結婚の発表があったという事情が書かれているのでしょう。
 この場合には「長子」は申し訳ないですが付帯事項みたいな存在ですから、わざわざ「子」の字を重複させると、息子さんの方も何かあるのかと思います。
 それはそれでめでたいことかもしれませんが、全体はお嬢さんの話として書かれていますので、起句は記録としては意味があっても詩としては浮いていますね。

 結句の「君」の重複は呼びかける気持ちが出ていて良いと思います。

 「帰」は「とつぐ」の意味で良いのですが、個人的な感懷としては、「帰る」と訓読しがちなので、出来れば他の言葉にしておいた方が詩では良いと思います。



2017. 7.23                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第184作は 芳園 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-184

  消夏雑詩        

炎威七月海邊樓   炎威七月 海辺の楼

帆影模糊伴白鷗   帆影模糊として白鴎を伴ふ

浴後涼風無限好   浴後の涼風 無限に好し

慿欄觀月火雲収   欄に憑りて月を観れば 火雲収まる

          (下平声「十一尤」の押韻)



<解説>

  激しい暑さの、七月海の見える楼には
  遠くぼんやりとした帆船に、白鴎が伴うように
  入浴の後、涼しい風に、限りない喜びを
  欄によりかかり月を見れば、赤く燃えるような雲が収まっている




<感想>

 前半の遥かな遠景は昼の景色、結句で「観月」と来るともう夜のイメージですね。
 実際に見た景色は、昇ったばかりの夕方の月かもしれませんが、それは句だけでは伝わりません。
 「東天新(清)月」と少し丁寧に描写しないと、読者が混乱します。

 転句は「風呂上がりの風が最高!」という感じで、多少俗っぽい「無限好」の言葉も生き生きとしています。



2017. 7.23                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第185作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-185

  懷亡友(故新谷勲君)        

博釜時宜富賑津   博釜 時宜 富賑の津

少年渡滿以文親   少年 渡満 文を以て親しむ

戰前戰後無人識   戦前 戦後 人の識る無し

唯聽訃音離別晨   唯聴く 訃音 離別の晨

          (上平声「十一真」の押韻)



<解説>

 新谷君は小学校時代の学友、戦時中に博釜連絡船で、博多港から満蒙(張家港口)に渡った。
 以後、戦中戦後を通じ文通。    雁が音や満蒙の春初便り


<感想>

 兼山さんは今年に入ってからお身体の調子が悪かったとのことです。
 入院中は退屈だからと一日一首を心がけたそうで、創作意欲が旺盛ならば大丈夫と安心しています。
 一昨日は卒寿を迎えられた深渓さんにお会いしてお話を伺いましたが、まさに矍鑠。桐山堂の長老の皆さん、まだまだしっかりと後輩をにらんでいて下さいよ。

 さて、今回は悼詩を四首送っていただきました。
 友人や先輩などが亡くなる、ということについて、兼山さんは「ひとり取り残される我が身に感謝する」とお手紙に書かれていました。
 そうした感覚は、恐らく、戦中戦後を生きて来られた方々、大きな災害に遭って親しい人を失った方々の気持ちにも通じるもので、「残された者の悲しみ」を背負いながら、嘆きよりも感謝という心なのだと思いました。
 詩題にお名前が書かれていますので、いつもですとこうした個人名はイニシャルに直しもするのですが、今回は哀悼のお気持ちを考えてそのまま載せました。

 今回の詩は小学校時代のご友人、七十年以上もの長いお付き合いだったのですね。
 転句の「今ではもう戦前戦後のことを知っている者も居なくなった」というお言葉は、単なる時代変化のことではなく、ご友人との長い星霜を思い返してのものでしょうね。



2017. 7.24                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第186作も 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-186

  懷亡師(故松藤大観師)        

野芥百墳魂魄眠   野芥 百墳 魂魄眠り

明王神佛護縁邊   明王 神仏 縁辺を護る

善男善女瀧修行   善男 善女 滝修行

宗主中興已九泉   中興の宗主 已に九泉

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

 裏山(西油山)のウオーキングコースにある晃恩寺の住職、石鎚神社大観遥拝所代表。
 霊峰石鎚山登山では、下山する人にも「お上りさん」と掛け声を掛け合う。

   石鎚や山下る時「お上りさん」

<感想>

 こちらの詩は結句がやや問題で、「宗主中興」は「宗主中興す」と読む形です。
 そうすると、下三字への流れとしては、「宗主中興するも 已に九泉」と逆接でつなぐのでしょう。

 起句の「野芥」は晃恩寺のある地名だったのですね。「のけ」と読むそうですが、山地をイメージさせる言葉ですね。
 「善男善女瀧修行」は、それだけお寺が人気があるということの言い換えで、結句の「中興」を暗示したものでしょう。



2017. 7.27                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第187作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-187

  懷亡阿兄(故閑納重義大兄)        

閑人臥病忘交流   閑人 病に臥し 交流を忘る

未納札翰心事悠   未納の札翰 心事悠なり

非礼重言何日報   非礼 重言 何れの日にか報いん

阿兄喩義隔明幽   阿兄 義を喩り 明幽を隔せり

          (下平声「十一尤」の押韻)



<解説>

 元勤務先「K建設」の先輩・上司。
 日本オープン出場のゴルファーであった。

 名前の音感の類似から「天皇」と呼ばわった。
b  詩中に個人の氏名を読み込んだ。

   筆を擱(お)く閑納天皇一代記



<感想>

 結句の「明幽」は「この世とあの世」。
 兼山さんがご病気の間に他界なさったという内容ですが、承句の「悠」は「愁」とか「留」の方がつながりが良いと思いますが、どうなんでしょうか。

 兼山さんの先輩・上司ということですが、きっと「天皇」と呼ばれるだけのお人柄だったのでしょう、吟句に兼山さんの敬慕のお気持ちがよく出ていますね。



2017. 7.27                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第188作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-188

  懷亡友(故白石悌三君)        

逝者不歸何處之   逝く者は 帰らず 何処へ之きしや

乾坤無極有誰知   乾坤 無極 誰有りてか知らん

巡來四季再逢爾   四季 巡り来りて 再び爾に逢ふ

七月花茨忌日時   七月 花茨 忌日の時

          (上平声「四支」の押韻)



<解説>

 高校時代の学友。命日を「花茨忌」と称す。
 今年(七月四日)は、十九回忌「丁酉花茨忌」

   又ひとつ回を重ねて花いばら

 独吟歌仙「花茨」(第十七の巻)

  (発句) 又ひとつ回忌重ねて花いばら
  ( 脇 ) 二〇二〇年東京五輪
  (第三) 米の坂越さんとぞ思ふ気概以て
  ( 四 ) 夢一夜邯鄲の夢物語
  (月座) ときめきて一夜の月下美人待つ
  (挙句) 秋風ぞ吹く老々介護

<感想>

 兼山さんは今年八十四歳におなりでしたね。
 歌仙にありますように、「米の坂越さん」の気概で頑張って下さい。

 「花茨忌」の詩も毎年いただいています。今年も墓前で吟じられたのでしょうか。
 毎年思い出してくれる友が居る、あるいは、思い出させてくれる友が居たというのは、幸せなことだと思いますね。

 転句の読み下しは「巡り来たる四季」ですね。逆にしたければ「春秋忽過」、時期から行くと「秋春来去」なども考えられますね。



2017. 7.28                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第189作は 酔竹 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-189

  山間春宵        

空谷黄昏白水行   空谷 黄昏 白水行く

野猿度樹鹿麛鳴   野猿樹を度り 鹿麛鳴く

余暉忽盡春温減   余暉忽ち尽き 春温減ず

風定沈沈但澗聲   風定りて沈沈 但澗声

          (下平声「八庚」の押韻)



<解説>

 川湯温泉(和歌山)の露天風呂で体験した情景です。

 初案は次の形でした。

  山館窗前白水行
  鹿麛飲谷野猿鳴
  余暉欲盡春温減
  風定沈沈但澗聲

<感想>

 前半に山間の鄙びた風景がよく表れています。
 「野猿」「鹿麛」(「麛」は子鹿)は現代の私たちには馴染みが少ないですが、酔竹さんによると実景だとのこと、旅行気分満喫ですね。

 転句で時間経過を入れて、結句に持っていきたい意図でしょう。
 「余暉忽盡」は山の中の描写、地平線ではなく山に夕陽が沈むので、「忽」は実感でしょうね。
 ただ、「盡」は時間経過を含むニュアンスがありますので、「忽」よりも「漸」が釣り合いがよく、ここならば「忽落」とスパッと言い切った方が良いでしょう。

 「春温減」は「暖気が消えた」ということで、「春」と入れて季節を表したかったのだと思います。他の句に季節感が薄いですからね。
 しかし、わざとらしく入れなくても題名に入っていますし、そもそもが春の遅い山奥でしょうから、かえって唐突で違和感があります。
 逆に言えば、「温泉の露天風呂」という情景が何も書かれていないことの方が寂しいですね。「暗くて湯船が見えない」とか「湯客の姿が分からない」とか、そんな方向で考えてはどうでしょうね。



2017. 8. 5                 by 桐山人



酔竹さんから推敲作をいただきました。

      山間春宵 (推敲作)
   空谷黄昏白水行   空谷 黄昏 白水行く
   野猿度樹鹿麛鳴   野猿樹を度り 鹿麛鳴く
   余暉忽落覚寒気   余暉忽ち落ち 寒気覚ゆ
   独浸温泉対月明   独り温泉に浸り 月明に対す


2017. 8. 7            by 酔竹























 2017年の投稿詩 第190作は 国士 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-190

  行田題園林     行田の園林に題す   

薫風吹入梅   薫風吹き、入梅し

一見満園花   一見す満園の花

双蝶飛清景   双蝶飛び清景なり

君嬋娟足誇   君の嬋娟、誇るに足る

衆芳開毎歳   衆芳、毎歳に開き

名利競生涯   名利、生涯を競ふ

時復情人楽   時に復た情人と楽しみ

年年愛惜華   年年、華を愛惜す

          (下平声「六麻」の押韻)



<解説>

 富山県滑川市の行田公園で彼女と作ったものです。
 対句になっていなかったら指摘お願いします、今のところ自信がありません。習作です。

  行田公園の題について詠ふ

 おだやかな初夏の風が吹き、梅雨に入った。
 ひとたび見ると花が庭園にいっぱい。
 二匹の蝶が飛び、清らかな景色である。
 君の姿のあでやかな様子も誇りに足りる。
 多くの香しい花が毎年咲き開き。
 人間の名誉と利益は一生涯競われるが。
 時にはまた愛する人と花を楽しみ。
 毎年花を深く愛して大切にする。

<感想>

 まずは妙な感想ですが、解説にお書きになった「彼女」というところ、お二人で漢詩を相談しながら作った、ということかしらと感激してしまいました。
 そうではなくて、彼女一緒に居た時に作った、ということかもしれませんが、私は「漢詩でデート」しているカップルを想像して、勝手に盛り上がっています。

 さて、詩の方の感想に行きましょう。
 習作とおっしゃっていますが、チャレンジが大切、二人で挑戦すれば(しつこいかな?)大丈夫です。

 対句のことで見ますと、五言律詩の場合には第三句と第四句(頷聯)と第五句と第六句(頸聯)を対句にするのが一般的です。
 頷聯は句の構造も語の対応もしていませんので、最初から対句にするつもりは無かったようですね。

 「双蝶飛清景」は「双蝶飛び 清景なり」と訓じていますが、読みとしては「双蝶 清景を飛ぶ」とした方が自然ですし、五言の「二字+三字」のリズムを守った方が読みやすいです。
 国士さんの訓ですと、「蝶が飛んだ」情景を「清景」とするわけですが、満園の花の「清景」の中を蝶が飛ぶことになり、切り方で意味が変わります。

 「君嬋娟足誇」も「二字+三字」のリズムが崩れているため、ギクシャクした印象です。
 「君」の語を入れたのは二人で居ることを表しているのでしょう。語順としては「君の嬋娟」ではなく「嬋娟たる君」とした方が良いですね。
 「嬋娟」が誰のことを言ってるのか、前の句の「双蝶」「清景」と誤解されないように「君」を句頭に持ってきたのかもしれませんが、逆に不自然になったように感じます。

 頸聯は形としては対句になっていますので、こんな感じで沢山作ると良いでしょう。
 「花は毎年開くのに、人はいつでも名利を追うばかり」とまとめて、尾聯の「時には」へと流れていきますね。
 より良い対応にするために、ということで言いますと、「衆芳」は上の語が下の語を修飾する構成、「名利」は並列の構成、熟語の構造を上句下句で整えるともっとすっきりします。

 対句以外で気の付いた点は、
 題名の「行田題園林」は「行田の園林」と読むならば「題行田園林」と並べるべきで、ここは「行田にて園林に題す」と読むしかありません。
 「題」は本来は詩を壁に書き付けることで動詞として「詠」と同じように用いますので、解説に書かれた「題について詠ふ」というのはおかしい言葉です。

 第二句の「一見」は「ちらりと見る」ということで、「満園」にはそぐわない、ここは「一望」が良いでしょう。

 その「満園花」もそうですし、「衆芳開毎歳」もそうですが、そのままですと季節として春を表す言葉です。この詩は「薫風」「入梅」などからは初夏のようですので、季節感がちぐはぐして読者は混乱します。
 例えばバラならその名前をどこかで述べる、「衆芳」を「薔薇」と具体的に記述するような形で、作者は実際に見ているのでいちいち名前を言わなくても分かっていますが、読者は詩から想像するしかありませんので、配慮が必要です。

 あと、細かいことで言えば、「毎歳」「年年」は同じ意味ですので、漢字を替えても意味としては重複感が残ります。
 また、上の「時復」とも違和感がありますので、この「年年」は他の言葉を入れるようにしましょう。



2017. 8. 8                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第191作は 凌雲・羽沢典子 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-191

  再会桜        

東風歓喜漫桜開   東風 歓喜し 漫に桜開く、

旧友芳園酒宴催   旧友 芳園 酒宴催す。

驟雨惜花人集処   驟雨 花を惜しむ 人の集ふ処、

再期此地待春来   此の地に再び期し春来を待つ。

          (上平声「十灰」の押韻)



<解説>

 女房との合作です。
 手取り足取り教えたつもりですが、漢詩はやはり馴染めないようで、マニアックな専門的なジャンルなのだと痛感しました。
 慣れてしまえば慣れてしまうものだと思うのですが。

 羽沢典子は本人のたっての希望のペンネームです。よろしく


<感想>

 前の国士さんの作品で「彼女と」の解説に敏感に反応しましたが、凌雲さんのこちらの詩は何と「合作」!!!

 せっかく苦労して作った漢詩を妻は見向きもしてくれない、という嘆きは沢山聞きますが、「合作」したというのは珍しいです。
 お二人の写真も添えていただきましたが、これは公表は控えましょう。

 慣れるまでは誰でも「馴染めない」もの、また「合作」や「競作」という言葉を聞かせていただきたいですね。

 詩は、承句まではサラサラと書けたのではと感じます。内容が場面や情況の説明になりますので、多くの情報の中から必要なものを選び出して配置するという、ある意味確認作業のような面もあるからです。
 転句からの心情を表す部分になると、今度は形の無いものを言葉で表すということで、ここから表現が難しくなってきます。

 「驟雨惜花人集処」は、それぞれの言葉のつながりがよく分からないのですが、「急に雨が降ってきた、でも花が散るのを残念に思い、寄り集まって雨宿りした」ということでしょうね。
 分かりにくい理由は、「驟雨」がどうしたのかが無くて投げ捨てであること、そのため「惜花」の主語かのように感じます。
 「驟雨令人惜花処」という感じで複文化して、「驟雨」がどうしたのかを示すと分かりやすくなるかと思います。

 結句は読み下しを「再び期す 此の地 春の来たるを待たんと」とした方が良いですね。



2017. 8.10                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第192作は 凌雲 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-192

  誰警笛     誰かの警笛   

楼台深暮彩   楼台 暮彩を深め、

俯瞰感時遷   俯瞰すれば時の遷ろふを感じる。

原色交差点   原色の交差点、

群青都市伝   群青の都市伝。

持愁人倘歩   愁ひを持し 人 倘歩す、

潤睫影幢然   睫を潤はし 影 幢然たり。

返響誰警笛   返響する 誰かの警笛、

街灯語夢鮮   街灯 夢を語って鮮やか。

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

 尾崎豊のアルバムの『壊れた扉から』の中に「誰かのクラクション」と言う楽曲がアルバムの最後の曲としてあるのですが・・・・

 久し振りにレンタルビデオ店に行き借りて帰って聞いてみました。尾崎豊といえば知らない人はいないと思いますが・・・・
 私の若い頃はそれこそ全盛で、今振り返ってみると大人に逆らう、社会に牙をむく、少年受けするような内容ばかりで、我ながらよくこんなものを聞いていたものだ・・・・・
 若気の至りだとつくづく思うのですが。
 「誰かのクラクション」だけはちょっとフィーリングが違いまして・・・・・・・

 さて、何をか主題にしているかと聞かれたら、現代人の孤独と安らぎとでも言いましょうか。
 はっきり言葉には表現しづらいムードのようなものが、何とも優しい印象が残りますね。

 私は詩人ですから言葉を使ってこの曲のムードを伝えたいと思うのですが・・・・・・
 おひまでしたらこの曲も一緒に楽しんでみてはいかがですか。

 余談ですが、じっくり詩に向き合う時間があるだけ幸福なのかもと思うようになりました。

<感想>

 尾崎豊は私の住んでいる半田にも縁があって、新美南吉が通ったという昔からの喫茶店と親戚関係だったかと思います。
 凌雲さんの世代が彼の歌と丁度重なるのでしょうね。

 曲は私は分からないので、今度探してみますが、内容は「現代人の孤独と安らぎ」とのこと、凌雲さんの詩を拝見すると「都会の憂愁」といったところでしょうか。
 最後に「街灯語夢鮮」と付け足したような感じが「安らぎ」を表したのかな?

 分からない言葉が「都市伝」、次の「倘歩」は「倘佯」(フラフラとさまよう)の片割れですが、「歩」とつなげて「街をさまよい歩く」というお気持ちでしょうが、この一字だけでは意味が通じません。
 「徜」の方がまだ良いかも知れませんが、これも「徜徉」の熟語で使うべき言葉です。
 あまり気持ちに適さないかもしれませんが、「独歩」あたりで収めるべきでしょうね。

 



2017. 8.10                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第193作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-193

  七十五翁書懐        

七十五春如白駒   七十五の春 白駒の如し

匏身一個寄村隅   匏身一個 村隅に寄す

游花弄月且生老   花に游び 月を弄して 且らく老いを生きん

冥界裁量豈可図   冥界の裁量 豈に図るべけんや

          (上平声「七虞」の押韻)



<解説>

 歳を重ねて七十五 何をするもなく過ぎ去ってしまい
 役立たずの身を細々と村の片隅に寄せて生きながらえています
 (じゃが)四季折々風情を十分楽しみ、今しばらく生きてみようと思う
 あの世とやらに行けば(怠惰に生きた自分を閻魔様が)如何に裁くのか分かったもんじゃ無いからね


<感想>

 「匏身」は「ひょうたんのようにぶら下がったままで、役にたたない自分」という謙遜の言葉ですね。
 これが転句への導入になっていますが、単に謙遜で終るのではなく、逆接というか開き直りというか、「春の花、秋の月と古来からの風雅に親しんでいるぞ」という自負を見せて、人生を積極的に楽しむ姿勢が伝わってきます。
 そして、それはこれからの人生に限定した話ではなくて、今までもこうだったし、これからも変わらないぞという肯定感に満ちた姿になります。
 そう読むと、結句も素直に読むのではなく、「さて、俺をどう裁くか」と閻魔様に喧嘩をうっているようにも感じられますね。
 そのあたりも真瑞庵さんらしいと言えるでしょうね。
 私も七十五になった時に、こういう強さを持ちたいと思いました。

 転句の下三字が表現がもたつきますので、「将窮老(将に老を窮めん)」「養終老(終老を養ふ)」などでどうでしょうか。



2017. 8.14                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第194作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-194

  擬香山居士想帰田園詩、辺邑閑居懐        

老來怠惰嫌煩頻   老い来たり 怠惰にして煩わしきを嫌ふこと頻りに

住處邊村遠市塵   住めるは邊村 市塵に遠きところ處

半畝菜畦能餌口   半畝の菜畦 能く口を餌し

三間草屋足居身   三間の草屋 身を居くに足れり

釣竿渓畔追魚夏   釣竿 渓畔 魚を追ふの夏

醸酒梅園興酔春   醸酒 梅園 酔に興ずるの春

莫笑空言空語者   笑ふ莫れ 空言空語の者と

無愉閑暇自痴人   閑暇愉しむ無くんば 自ら痴人

          (上平声「十一真」の押韻)



<解説>

 年とともに何事にも億劫になり 人付き合いも避けるようになり
 片田舎のショッピングにも不便な所に住んでいます
 それでも半圃ばかりの菜園でその日の食料は間に合いますし
 こじんまりした家でも 年老いた身を十分安らげます
 釣竿片手に 渓流に魚を追う夏
 旨酒と梅の香りに酔いしれる春
 おっと、そんな絵空事を言うんじゃないよと言わないでください
 年寄りが暇を持て余していた日には 呆けてしまうじゃないですか


<感想>

 題名が最初「擬香山居士想田園帰書辺邑閑居懐」でしたので、文が複雑で悩みました。
 「香山居士」は白居易ですが、彼の詩の題は「想帰田園」ですので、そこの書き間違いかなと思い、そうすると、詩題は「香山居士の『想帰田園』の書に擬す 辺邑閑居の懐」と読めるようになります。
 「書」も「詩」で良ければ「擬香山居士想帰田園詩、辺邑閑居懐」でしょう。
 あるいは、「辺邑閑居之懐(擬香山居士想帰田園)」とする方法もあります。

 三句目の「能餌口」は「能養口」の方が詩らしくなります。

 頸聯の対句は、「釣竿渓畔」はしっかりつながりますが、「醸酒梅園」は関連がわかりません。
 「春酒梅園」とした方が対句の収まりが良いと思います。

 最後の「自」は迷われたのではないかと思います。「則」「是」と因果関係を明確にするのも、気持ちがはっきり出て、詩に強さが出てくると思いますが、いかがでしょうね。



2017. 8.14                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第195作は 禿羊 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-195

  初夏郊歩書懐        

世事粉粉心不休   世事粉粉として 心休まらず

独辿細径上山丘   独り細径を辿りて 山丘に上れば

荒叢紫葚慈甘有   荒叢の紫葚 慈甘有り

憶昔童年若莫憂   憶ふ昔 童年は 憂ひ莫かりしが若し

          (下平声「十一尤」の押韻)



<解説>

 鈴木先生、無沙汰をしておりました。禿羊です。
二首、投稿いたします。

 近ごろは詩を作ることが少なくなりました。作っていないと、全く詩想が湧いてきませんね。
また頑張って、作詩を続けたいと思っておりますのでよろしくお願い申し上げます。



<感想>

 お久しぶりですね。
 先日真瑞庵さんにお会いした時に、「禿羊さんの詩を最近見ないけど」と心配されていましたよ。
禿羊ワールドを楽しみにしている方も多いので、是非「頑張って、作詩を続け」てください。

 「葚」は「桑の実」、自然の中に入って実際の体験からの転句などは、禿羊さんならではのもので、私も拝見して、嬉しくなりました。

 起句の「粉粉」は「紛紛」の間違いですね。「粉」は仄字ですし。

 転句の下三字は「有慈甘」となるところ、平仄を合わせたのでしょうが苦しいですね。
 「ああ、懐かしい味だ」という感動も含めて表したいところですので、この一字に悩みました。
「慈甘」は残したい言葉でしょうから残して「慈甘在」、これでも通じるでしょうが口に入れた感覚を出して「慈甘味」というところでしょうか。

 結句の「若莫憂」は比喩にする必要は無く、「莫一憂」とズバッと言い切った方が良いですね。
 ただ、転句から「憂」を言うにはやや飛躍がありますので、「懐昔」も含めて考えたいですね。



2017. 8.15                 by 桐山人



禿羊さんからお返事をいただきました。

 鈴木先生、ご批正ありがとうございました。
「紛紛」はうっかりとしておりました。詩を作るのが間遠になるとうっかりも増えてくるようです。

「慈甘有」はやはり無理でしたか。苦しいなとは思っていたのですが。
どうしようかと悩みましたが、とりあえず以下のように変えてみました。
拗体となりましたが。

 よろしくお願いします。

初夏郊歩書懐(推敲作)

世事紛紛心不休   世事 紛紛として 心休まらず
独辿細径上山丘   独り細径を辿りて 山丘に上る
紫葚慈甘発懐旧   紫葚 慈甘ありて 懐旧を発(ひら)く
髫年恰似莫悲憂   髫年は 恰も似たり 悲憂莫かりしに


2017. 8.24              by 禿羊


 転句に「懐旧」の語を置いたことで、結句とのつながりが生まれ、流れが素直になったと思います。
 逆に、「紫葚」「慈甘」の存在が弱くなって、昔ながらの味わいへの感動が薄れたようにも思えます。
 あまりうまくありませんが、「紫葚慈甘覚依旧」とか「紫葚慈甘旧時味」のように、下三字に「旧」一字を入れつつ転句自体は「紫葚」のことで収めてはどうかと思います。


2017. 8.31         by 桐山人






















 2017年の投稿詩 第196作は 禿羊 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-196

  伊国利古里亜海岸     伊国利古里亜海岸(イタリア・リグリア海岸)   

澄暉燦燦海風暄   澄暉 燦燦として 海風暄かなり

寄艇砕波崖崿村   艇を寄す砕波 崖崿の村

彩壁花窓迷路巷   彩壁 花窓 迷路の巷

景光民俗入吟魂   景光 民俗 吟魂に入る

          (上平声「十三元」の押韻)



<解説>

 二首目は先月のイタリア旅行の思い出です。
 リグリア海岸は日本ではリビエラ海岸という方がよく知られていますが、その東端の断崖にチンクエテッレといって、5つの僻村が並んでおり、世界遺産となっています。
 そこを尋ねた時の印象です。

 「花窓」は花を飾った窓の意味で使ったのですが、本当は花の透かしを入れた窓を示すようです。

<感想>

 禿羊さんも世界中を旅していらっしゃいますね。
 今回もオリジナルブランの旅でしょうね。
 行動力に感激します。

 リビエラ海岸は森進一が昔歌った曲の中に出てきた場所でしょうか。
 地中海の海村の穏やかな風景が目に浮かぶようで、言葉の一つ一つが情報量が多い気がします。

 転句の「花窓」はひっくり返して「窓花」とすれば意図に沿うように思いますが、並んだ窓というイメージを残すならば、「きれいな窓」という意味で「花窓」も良いと思います。



2017. 8.15                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第197作は西安の 安文 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-197

  雙蝶        

款款于飛蝶,   款款として于(ゆ)く飛蝶,

莫分雌與雄。   雌と雄とを分くる莫かれ。

新房何必問,   新房何ぞ必ずしも問はん,

能不在花中。   能く花中に在らざらんや

          (下平声「六麻」の押韻)



<感想>

 西安にお住まいの安文さんからの投稿です。
 読み下しはありませんので、私の方で添えました。

 「雙蝶」という題ですが、比喩的な詩ですので、若い男女を描いた内容でしょう。

 私なりに約せば、
   ひらひらと舞う蝶
   雌と雄を分けるなよ
   新居なんて探す必要はない
  (どのみち)花の中に居ないわけにはいかないのだからね
 という感じでしょうか。

 軽いタッチで作っておられると思いますが、反語も含めて承句から結句まで否定形が重なるので、表現がややもたついた印象です。
 転句か結句を変化させるとリズムがよくなると思いました。



2017. 8.16                  by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第198作も西安の 安文 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-198

  欲行        

回郷訪親去,   回郷 親を訪ねんとして去(ゆ)く

行李在雙肩。   行李 双方に在り

瓶水無須備,   瓶水 須らく備ふる無かれ

山中多礦泉。   山中 砿泉多し

          (下平声「一先」の押韻)



<感想>

 こちらの詩も、サラリとしたタッチで書かれていますが、承句の「行李在雙肩」は単に荷物が重いということだけでなく、久しぶりに会う親へのお土産をいっぱい持って汗を流している姿が浮かびます。
 また、後半の山中の様子も、一時代前のイメージ。現代でしたら、ひょっとしたら電車や車での帰省かもしれませんが、山の中を歩いて行くということから、遠くはるばると行く気持ちが出てきます。

 後半の「瓶水」は一見すると「ああ、そうなの」と過ぎてしまうかもしれませんが、軽妙な表現を見ると、親に会う喜び、ウキウキとした気持ちが伝わってくるようですね。

 素直で、こちらも幸せな気持ちになれる良い詩だと思いました。



2017. 8.16                  by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第199作も西安の 安文 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-199

  回郷有作        

暖暖烟坡上   暖暖たる煙坡の上

揮鋤有一人   鋤を揮へる一人有り

形容雖莫辨   形容 弁ずる莫しと雖も

非故必相親   故に必ずしも相親しむに非ざらんや

          (上平声「十一真」の押韻)



<感想>

 こちらは帰って来た時の情景でしょうね。

 春霞の懸かっている丘の上、農作業をしている人が一人、まだはっきりとは姿がわからないけれど、だからといって、どうして親愛の気持ちが湧かないはずがあろうか。
 遠くからでも親であることは分かり、思わず走り出してしまう愛情がわかりますね。

 実は私は現在中国に旅行に来ていますが、駅のホームや観光地で(中国も夏休みなので)子供連れの姿を沢山見ます。
 中にはおじいちゃん、おばあちゃんと一緒に旅行しているとわかる姿もあります。

 今日は東北部の長春駅の待合で、おじいちゃんが孫の男の子にカップラーメンを買って食べさせていました。
 ところが、男の子はカップを座席にこぼしてしまい、困った顔をしながら、座席に落ちた麺を箸でカップにすくって入れていました。
 どうするのかな、と見るともなく見ていると、おじいちゃんが苦笑いしながら来て、新しいカップラーメンを買ってきました。
 そして、子供が出来上がったラーメンを食べるのを見ながら、自分は子供がすくったラーメンを横で食べ始めました。
 スープはこぼれてしまって麺だけでしょうが、楽しそうにしていました。

 座席にこぼれた麺なんて汚い、と思うかもしれませんが、そうした評価は別にして、子供にとってはこぼしたラーメンを棄てられるのと、おじいちゃんが代わりに食べてくれるのとでは、失敗による罪悪感は全く違うでしょう。
 おじいちゃんは単に勿体ないと思ったからかもしれませんが、子供の失敗もこうすれば、「あの時、こんなことがあったよね」とひょっとしたら楽しい思い出に変わるかもしれません。
 (その後、汚した座席をきれいにしてくれたかどうかはしりませんが)

 子供への愛情がいっぱいで、子供も心から信頼して甘えている、そうやって成長した人がこういう詩を書くだろうな、とそんなことを思いました。



2017. 8.16                  by 桐山人























  
 2017年の投稿詩 第200作は 銅脈 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-200

  立夏書懐        

初夏南風午院幽   初夏の南風 午院幽なり

焚香一縷案辺浮   香を焚いて一縷 案辺に浮かぶ

朝来静坐無人訪   朝来静坐して 人の訪ふは無し

読了詩書遣悶憂   詩書を読了して悶憂を遣る

          (下平声「十一尤」の押韻)



<解説>

 忙しい毎日で嫌気がさして欠勤中のゴールデンウィークに詠んだ詩を読み返して考えさせられた、というか、そんなものだったと思いました。
 以前と違って尋ねる人もなく、朝から坐って詩を読んでいるんだったら勤務にいけるんじゃないか?という感じですが。

 体調はすっかり良くなりました。詩はあまり読めていませんが。
 線香焚いて詩を読む日常というのは非現実的かもしれませんね。
 今日も詩が詠めていいと思います。

<感想>

 銅脈さんは以前、体調がすぐれず、なかなか本来の芸術活動が進まないと仰ってましたね。
 若い方が悩み苦しむことから(暫しの間でも)抜け出すことができるのに漢詩が役立つのかどうかは、私にはわかりません。でも、おっしゃるように、「今日も詩が詠めていい」、そう考えられる状態は大切なことでしょう。
 「今日もご飯を食べることができた」「今日も笑えることが一つあった」、そうやって一日一日が実感できて行くのだと思います。

 また、ゆっくりとで良いですから、出来た詩を拝見させてください。

 今回の詩は何か課題でしょうか。
 詩としてのまとまりも良く、落ち着いた趣が感じられます。
 以前の銅脈さんの、七絶では描ききれないエネルギーの奔出という感じではありませんので、逆に言えば「落ち着き過ぎ」と言えるかもしれません。
 「非現実的」と仰っているのは、老成の感があるという点かなと思います。
 確かに、「午院」「朝来静坐」という状況は、三十代の方には望みがたい生活かもしれませんからね。

 どこか一語でも、作者ならではの描写が入ると現実感が深くなると思いますよ。




2017. 8.17                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第201作は 地球人 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-201

  梅雨夕焼        

梅天屋漏暗簾攏   梅天 屋漏 簾攏暗し

水漲泥深小院中   水漲って 泥深し 小院の中

雨散霧晴新竹緑   雨散じ霧晴れ 新竹緑なり

玉虹空跨夕暉紅   玉虹 空を跨ぎ 夕暉紅なり

          (上平声「一東」の押韻)



<解説>

 雨で憂鬱になりがちな梅雨ですが、時たまカラット晴れて夕暮れがきれいな状況を描いてみました。

 詩語表から適切な熟語が見つけられなかったので、漢和辞典を見て「空跨」という単語を作ってしまいましたが、問題ありませんか?
 それとも詩語表にない単語を使うことは禁じ手なのでしょうか?

 ご助言宜しくお願いします。

<感想>

 題名ですが、「夕焼」は「暮天」「暮景」としておきましょう。

 起句ですが、「攏」「櫳」ですね。手偏と木偏の違いですが、意味も平仄も違います。

 ご質問の「空跨」ですが、李白の「元丹丘歌」の詩に「身騎飛龍耳生風 横河跨海與天通(身は飛龍に騎して耳風を生じ 河を横ぎり海を跨ぎ天と通ず)」という句があります。他にも『全唐詩』に何首か見つかります。
 ただ、「空跨」では「空しく跨ぐ」としか読めませんので、これは苦しいですね。せめて、「跨空」とすれば良いでしょう。
 「跨天」とすると一番良いですが、起句で使ってますから「空」で代用させました。

 他はわかりやすいですが、結句は「夕暉紅」で終ると、その前の「玉虹」があまり生きてきません。
 色を出さない形で結びを考える方向が良いでしょうね。

 詩語表に無い言葉を使うことについてですが、
 そもそも詩語表をどうして使うのか、という話はここでは置いておき、どうしても言葉が見つからない時、一般的には漢和辞典に載っている言葉や先人の詩に用例がある言葉を探します。
 大概はその辺りで納得(我慢かな?)をするようにしますが、どうしても「しっくりこない」場合に、自分で考えた「造語」を入れてしまうことがあります。
 望ましくはありませんが、「全ての言葉を詩語表から」という程に窮屈にしなくても良いと私は思っています。

 ただし、漢文法に則っていることが必須条件です。
 述語と目的語、被修飾語と修飾語の関係を守って語順を整えるのは、少し注意をすればそれほど難しいことではありません。
ところが、平仄が合わないために語順を入れ替えたり、日本語をそのまま漢字に変換しただけで良しとする、そういう安易な造語をする場合も実情では少なくありません。
 それでは漢文法に合わず、何を言っているのか伝わらないということになります。
 ならば最初から「詩語表の言葉」とか「辞書に載っている言葉」と制限を設けておく方が、指導する側も助かりますからね。

 現代では漢詩を創作する人は、漢学者でもなければ漢詩の専門家でもなく、ただ自分の心を表す方法として漢詩を選び、創って楽しみたいという人がほとんどだと思います。
 詩語表や先例から自分の思いに近い言葉を見つけて、その上で少しアレンジして、自分で納得行く言葉にしてみるのはむしろ良いことだと思います。
 その上で、詩意に適しているかどうかについて、他の人の感想を聞くことが大切な勉強でしょう。

 最低限の漢文法を身につけるのは外国語(漢文)で詩を書く上でのマナーですから、先述の「安易な造語」は当然問題外ですが。





2017. 8.17                 by 桐山人



地球人さんからお返事をいただきました。

 鈴木様
 「櫳」についてのご指摘、質問への回答およびご指導有難うございます。

 推敲した内容報告いたします。

梅天屋漏暗簾櫳   梅天 屋漏 簾櫳暗し
水漲泥深小院中   水漲って 泥深し 小院の中
雨散霧晴新竹緑   雨散じ霧晴れ 新竹緑なり
玉虹跨空月懸弓   玉虹 空を跨ぎ 月弓を引く


2017. 8.31              by 地球人






















 2017年の投稿詩 第202作は 陳興 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-202

  題上海五園 曲水園    据説上海有五大古典園林。特題詠之。   

曲水回廊寂,   

雨中人罕至。   

白墻池照影,   

紅鯉来游戯。   

          (去声「四ゥ」の押韻)



<感想>

 陳興さんから、上海の名園を詠んだ連作をいただきましたので、順に紹介しましょう。

 曲水園は1745年に建てられたそうです。
 ネットで「曲水園」の写真を見てみますと、陳興さんのお書きになった通りの景ですね。
 残念ながら、紅鯉の写真は載っていませんでしたが。

 起句の「寂」である理由は庭園そのものの幽趣だと思いますが、承句の「雨中」が理由のように感じられて、それがやや気になります。
 その承句の「人罕至」は「人罕(まれ)に至る」と読みますが、意味としては「ほとんど居ない」ということです。
 この句は本来は転句との組み合わせで、「人は居ない、鯉はゆったり遊ぶ」ということかと思いましたので、内容的に承句と転句を入れ替えて、「白墻」の様子に「寂」の感じを出すと、まとまりが出るかなと思いました。
 現行は、何となくバラバラに映像が並んでいる印象です。



2017. 8.25                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第203作も 陳興 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-203

  題上海五園 豫園       

細雨荷花好,   

高樓把酒談。   

此間聞古曲,   

何處不江南。   

          (下平声「十三覃」の押韻)



<感想>

 豫園は上海を通るツアーですと、隣の商場での点心料理とセットで訪れることが多いですね。
 私も二、三度訪れました。でも一番最近というと七年前で、上海万博の前で上海市内も豫園も工事中ばかりだった記憶です。

 結句は、その前に配置された「細雨」「荷花」「高楼」「古曲」などが具体的なイメージを喚起させますので、「どこをとっても江南の魅力を伝えない処はない」という否定反語形で主観的な表現が、逆に効果的になっていると思います。



2017. 8.25                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第204作は 陳興 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-204

  題上海五園 古猗園        

奇石流泉出,   

荷花遍古池。   

小樓臨曲岸,   

撑出一舟遲。   

          (上平声「四支」の押韻)



<感想>

 古猗園は上海で最も古い明代の庭園で、450年前に築造されたそうです。
 ネットで「古猗園 太湖石」で検索すると写真が出て来ますが、陳興さんがお書きになった通りの場面で、蓮が覆う池、そびえ立つ太湖石など、丁寧に描かれていると思いました。

 小籠包の発祥の地とも言われているようですが、それは庭園の隣だとか、詩とは関わらないですかね。



2017. 8.31                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第205作は 陳興 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-205

  題上海五園 秋霞圃        

寂寞芭蕉葉,   

紫陽花又新。   

奇山怪石里,   

能遇寫生人。   

          (上平声「十一真」の押韻)



<感想>

 こちらは落ち着いた雰囲気が感じられますね。
 中国の庭園はどこも「奇山」「怪石」が据えられてますので、詩として変化を出すのが難しいかと思いますが、見えたものを丁寧に描くことで違いが表れていますね。



2017. 8.31                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第206作は 陳興 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-206

  題上海五園 醉白池        

瓦舍茶烟淡,   

石橋荷葉香。   

此中詩畫趣,   

誰復董其昌?   

          (下平声「七陽」の押韻)



<感想>

 こちらは宋代に建てられた私邸に明、清代に増築をして作られたもの。
 明代には董其昌が住み、多くの文人との交流の場だったそうです。
 そういう気持ちで庭園を歩かれた陳興さんですから、「詩畫趣」という言葉が一層味わい深くなります。




2017. 8.31                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第207作は 芳原 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-207

  入梅雨思畏友        

群螢亂舞紫冥覃   群蛍乱舞して紫冥覃(ふか)し

何處幽明隔十參   幽明何れの処ぞ 十参隔つ

不數餘生愴君逝   余生数へず 君が逝きしを愴(いた)む

四簷煙雨思耽耽   四簷の煙雨 思ひ耽耽(たんたん)たり

          (下平声「十三覃」の押韻)



<解説>

 鈴木先生 長いご無沙汰致しました。

 梅雨に入って十余年前のこの時期に他界した友人とのあれこれを思い出すことが多くなりました。
 推敲を重ねている間にいつしか梅雨も終わり暑い日々です。



<感想>

 梅雨に降り籠められていると、昔のこと、失くしたもの、遠い友人のことなど、いろいろな思いが浮かんできます。
 また、螢は古来から亡くなった人の魂ととらえられることも多く、確かにはかなげに浮かび、消えては光る様子はそんな寂しげな気持ちになります。
 前半はそういう意味で、場面と心情がうまく合っていると思います。

 転句は「不數」が頭にあると、直前の数詞である「十參」と繋がってしまい、誤解しやすいので、できれば「愴友(爾)」で始まるようにした方が良いかと思います。

 結句は、気持ちの籠もった句になっていますね。



2017. 9.10                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第208作も 芳原 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-208

  雨餘古刹        

落花檐際赤   落花 檐際(えんさい)赤し

丈室曉鐘音   丈室 暁鐘の音

雨霽飛鳶遠   雨霽れて飛鳶(ひえん)遠く

鶯聲競拷A   鶯声 緑陰に競ふ

          (下平声「十二侵」の押韻)



<感想>

 五言絶句で字数の少ない形ですが、近景と遠景、視覚と聴覚の配合など、構成に工夫が感じられる詩です。
 特に、起句の「赤」と結句の「香vの配置は鮮やかな色彩感が出ていますね。

 「飛鳶」「鶯」で二つの句に鳥が出て来ることと、「鐘音」「鶯聲」が重なることがやや気になりますので、結句でもう一度「古刹」をはっきり出すような形にしてみてはどうでしょうね。



2017. 9.10                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第209作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-209

  悼義弟 一        

聞道魂浮又魄沈   聞くならく 魂は浮き 又 魄は沈むと

早迎五七満中陰   早とに迎ふ 五七満中陰

酒杯傾盡新年莛   酒杯 傾け尽くす 新年の莛

只恨明春無共斟   只恨む 明春 共に斟む無きを

          (下平声「十二侵」の押韻)



<解説>

 昨年10月、今年5月と相次いで義弟を亡くしました。
 此の二首は二人の満中陰の法事の時に吟んだものです。

 人は死に向かって生きるものだとはわかっていますが,やはり別れは辛いものです。
 新年には義兄弟五人がそろって祝宴を張り、飲み、しゃべり、笑いあった事。
 互いの菜園の出来不出来を競い、耕作の楽しみや苦労を共有する。
 それらが一瞬で消えてしまう事は何とも言えない寂しさがあります。


<感想>

 二首、真瑞庵さんからいただきました。
 詩題はどちらも、亡くなられた方のお名前が入っていましたが、個人名ですので、二首を連作として「其一」「其二」とさせていただきました。

 起句は「魂魄浮沈」の互文ですが、「魂魄が浮沈する」というのは、亡くなった方の魂が四十九日の間(中陰)、六道輪廻の間をさまようということを指しているものですね。
 「魂魄」はさまよっている間に、現世の方では慌ただしく時間が過ぎていく、その対比が承句の「早迎」にでていますね。





2017. 9.11                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第210作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-210

  悼義弟 二        

聞説人生百歳臨   聞くならく 人生百歳に臨むと

何料接訃痛余心   何ぞ料らん 訃に接し余が心を痛ましむとは

春耕秋稼共相語   春耕秋稼 共に相語りしに

恨見蔬園夏草深   恨み見る 蔬園 夏草の深きを

          (下平声「十二侵」の押韻)



<感想>

 平均寿命の伸びた現代、自分自身も含めて、つい何となく明日が続いていくと思っています。
 しかし、それは決して恒久的なものではない、それを忘れていた自分に対して「痛余心」としているのでしょうね。

 転句はお気持ちがよく籠もった句になっていますね。
 それを受けた結句は情景描写にして、「恨」を「今」「只」などとするのも考えられますね。



2017. 9.11                 by 桐山人