作品番号 2010-241
巴黎有感(一)
無邊燈火似天河 無辺の灯火は天河に似
笑語遊人盡綺羅 笑語の遊人 尽く綺羅
香榭街頭光景好 香榭街頭 光景好きも
奈君不在我隣何 君の我が隣に在らざるを奈何せん
<解説>
もう7年近く前のことになりますが、結婚式を挙げた翌月、上司のお供で1週間ほどヨーロッパに出張することになりました。
最終日、パリで少しばかり自由になる時間が得られたので、とりあえず新妻へのお土産を求めてシャンゼリゼーをぶらぶら。ちょうどクリスマスも間近の時期ということもあってか、その町並みの美しさはたいへん印象的でした。
もちろん、さっそく詩を作ろうとはしたのですが、当時の私の力では、結局、一首どころか一句まとめることさえままならず、ずっと残念に思っていました。
今回、当時の記憶等を頼りに改めて作詩を試みた次第です。
「香榭街」: 香榭麗舎大街。シャンゼリゼー大通り。
[訳]
無限に続く街の灯は 夜を彩る天の川
さざめき歩く人びとの ファッション・ショーを照らしてる
シャンゼリゼーの大通り とてもステキな場所だけど
君がとなりにいないのに 僕はどうしたものだろう
<感想>
シャンゼリゼ通りのきらびやかな電飾、道行く人々の華やかさ、通りのざわめきも聞こえてきそうな詩ですね。
どんなに素敵な場所でも君が居なくてはつまらない、というのは、表現としては若い新婚さんに似合う言葉ですが、私も中国に旅行に行って美しい景色に出会ったりすると、妻に見せてやりたいと思います。
妻は飛行機が嫌いなので、中国旅行には一緒に行ってくれないからですが、美しい感動、嬉しい体験をパートナーとして共有したいという気持ちは幾つになってもありますね。もっとも、「一人で見るのはもったいない」という何となく貧乏くさい面も私の場合には無いわけではありませんが。
ということで(?)、観水さんの詩の方ですが、結句がもう一工夫欲しいところです。「奈何」が目的語を取る時には間に挟むわけですが、詩で目的語が長くなると読みづらくなりますので、「・君不在我如何」と倒置法にした方が良いでしょう。
また、「我隣」は冗語で、「不在」だけでも充分意は通じるように思いますので、若々しさ、初々しさを失わない会話的な雰囲気は残す程度で推敲されると良いと思います。
2010.11.8 by 桐山人
作品番号 2010-242
巴黎有感(二)
臘月花都滿唱歌 臘月の花都 唱歌に満ち
美人行處競眉蛾 美人 行く処 眉蛾を競ふ
不如蓬屋共君在 如かず 蓬屋に君と共に在って
靜夜剪燈相語多 静夜 灯を剪って 相語ること多きに
<解説>
「臘月」: 12月。「臘(ロウ)」の祭の月。
「花都」: ここではパリ。
[訳]
花の都の十二月 街じゅう聖歌にあふれてて
道行く女の人もみな ばっちりメイクをキめている
それより僕は君といて 貧乏長屋の片隅で
静かに夜の更けるなか 語らい続けていたいなあ
<感想>
こちらの詩は、転句以降の後半に微妙な気持ちが出ていますね。
「不如」は「及ばない」ということで、この言葉の前段に比べて後段が良いという比較を示します。比較を弱くして、単に「良い」という趣にもなりますが、この場合は、前二句との比較で良いでしょう。
「花の都パリの美女の中」に行ったけれど、やっぱり「ボロ屋でも君と一緒に居る」方が良いなぁ、という気持ちはよくわかります。
ただ、七言絶句で見るならば、この「不如」以下は結論の部分で、結句一句にまとめて欲しいところです。後半二句を使ってしまうと、その分作者の心情は大きくなりますが、逆に前半が小さくなります。この詩では、比較されて否定されるものが、更に存在が小さくなるわけで、では「巴黎有感」という題はどうなるの?と思います。
帰国の詩ならばまだ分かりますが。
バランスと言うことで考えるならば、この二句は律詩の尾聯に置く形で、パリの様子をもう少し膨らませた前半があると良いでしょう。
観水さんもそんなお積もりだったかもしれませんが、今度は七律で「巴黎有感」に挑戦されたらいかがでしょう。
2010.11. 7 by 桐山人
作品番号 2010-243
北琵琶湖舟游
夏日舟行離水涯 夏日の舟行 水涯を離る
風涼波静爽然時 風涼しく 波静か 爽然たる時
一群烏鬼空中散 一群の烏鬼 空中に散ず
小島山林見減衰 小島の山林 減衰を見る
「烏鬼」: 鵜
「小島」: 竹生島
<解説>
夏も終わりの、まだ、暑さは十分には収まっておりません頃、北琵琶湖の舟游をしました。
水上は流石に涼しさを感じました。
竹生島に近づくと、黒点が飛び散ったように、鵜の一群が飛んでおりました。
そして、竹生島の山林はひどく荒れており、びっくりしました。
話には聞いておりましたが、これほどひどいとは考えておりませんでした。
いろいろと、対策はとっているようですが、なかなか、うまくはいかないようです。
自然保護のむずかしさを感じたしだいです。
<感想>
琵琶湖の竹生島は、かつては「琵琶湖周航の歌」で
瑠璃の花園 珊瑚の宮
古い伝えの 竹生島
仏の御手に 抱かれて
眠れ おとめご やすらけく
と詠われた所でしたが、近年、鵜の糞害で島の北部は荒れてしまったそうですね。
その様子を描いたのが、点水さんの詩の後半に当たるわけですが、直接被害を目前で見ている立場ならばこのドラマ仕立てのような展開も納得できますが、事情を知らない読者には、二万羽も棲み着いていると言われる鵜の被害を「一群烏鬼空中散」だけで象徴するのは無理があります。
もちろん、自然保護の主張が狙いの詩ではありませんから、それほど細かに荒れてしまった原因や状況を語る必要はありませんが、結句は状況描写だけでなく、多少の説明は必要でしょうね。
「見減衰」の下三字は、「見」の字も不要に感じますので、後半をもう少しご検討されると良いと思います。
2010.11. 9 by 桐山人
作品番号 2010-244
重陽偶成
菊迎重九白雲天 菊は重九を迎へ 白雲の天
満目江山景色妍 満目の江山 景色は妍なり
夏去涼生紅葉麗 夏去りて涼は生じ 紅葉麗しく
秋来暑退碧波連 秋来りて暑は退き 碧波連なる
時翻日記懐過去 時に日記を翻しては 過去を懐み
偶聴童謡憶往年 偶に童謡を聞きては 往年を憶ふ
休笑老翁腰已弱 笑ふ休(な)かれ 老翁 腰の已に弱れるを
仍幇孫女擺鞦韆 仍ほ孫女の鞦韆を擺らすを幇く
「重九」: 重陽
「満目」: 見渡す限り
「鞦韆」: ブランコ
<感想>
おだやかな秋の日に、お孫さんと遊ぶ楽しげな姿が目に浮かんできます。
重陽の日は陰暦の九月九日、秋の最後の月を迎えた時季ですので、頷聯の「夏去」や「秋来」は、今さらの感があります。
第二句の「満目江山」を受けて、更に描写をしようという意味での「紅葉」「碧波」だと思いますので、山や河の景色をもう少し詳しく頷聯では描くと良いでしょう。
頸聯は、この重陽の日に私は何をしているか、という話になるわけですが、「日記をパラパラと見ては昔を思い出し、童謡が耳に入れば子供の頃を思い出す」として、自身の老いたことを示すとともに、この童謡が尾聯の「孫女」に属するものであることも暗示しているのでしょうね。
ただ、「日記」で過去を思い出すというのは、そのままずばり、何も具のない素うどんが出てきたようで、何かひと味のひねりが欲しいところです。
2010.11.10 by 桐山人
作品番号 2010-245
社日
菊発吹香社鼓聞 菊 発いて香を吹き 社鼓聞こゆ
嬌児喜走散鶏群 嬌児喜び走りて 鶏群を散じ
女童粧点階前笑 女童 粧点して階前に笑ふ
吾祝年豊一盞醺 吾 年豊を祝す 一盞の醺
「社鼓」: 祭りの太鼓。
「嬌児」: かわいい男の子。
「粧点」:よそおい飾る。年豊:豊年。
「盞」: さかずき。
「醺」: ほろ酔い。
<感想>
投稿のお手紙には、ホームページへの感想として、「多くの方々の作品に触れられることと、それにつけられる桐山人先生の寸評は非常に勉強になります。もっとはやくこのページに出会っていればと悔やまれます」とお書きになっておられました。
ありがとうございます。責任感を奮い起こされました。
起句は、「菊発吹香」と上四字を使うと菊のことが強くなり、「社鼓」とのつながりが弱く感じます。
菊を詠う詩ではなく、ここは季節を出すことが目的ですので、「吹香」は「高天」「秋天」とするのが良いでしょう。
承句、転句は秋祭りの様子を描かれていまうが、楽しげな雰囲気をよく表していると思います。子供が鶏を追いかけたり、稚児さんが赤いほっぺで笑っている様子は、懐かしい光景です。実景なのか、作者の思い出の光景か分かりませんが、臨場感のある表現になっていると思います。
ただ、「嬌児」「女童」と来るとこの二句をペアで考える形になりますし、更に結句の「吾」も同じ様な流れで読みますので、全体の構成としては、起句で「秋祭りだよ」と提示し、以下、男の子は…、女の子は…、私は…、と個別に説明をしていく「頭括式」の表現になります。
一般の起承転結の流れとは異なりますが、これはこれで理解できるものですが、各句の頭に「嬌児」「女童」「吾」と置いたのは、単調な印象ですし、「吾」の一人称の使用も気になるところです。
そのあたりに留意して、推敲されると良いと思います。
2010.11.10 by 桐山人
詩意平易而詠田園卑近
可謂人ニ近キ詩ト
一吟使我心安
学詩於楊万里耶 佳哉
結句 吾之句覚不自然
詩意は平易にして田園の卑近なるを詠む
人に近き詩と謂ふべきか
一吟 我が心をして安んぜしむ
詩を楊万里に学びたるか 佳き哉
結句 吾の句は不自然に覚ゆ
(読み下しは桐山人が失礼ながらつけました)
2010.11.14 by 謝斧
作品番号 2010-246
於宮中簾前会議不譲土佐少将
宮中簾前会議に於ひて土佐少将譲らず
辞官納地不堪陳 辞官納地 陳ぶるに堪へず
討議爭論揺紫宸 討議争論 紫宸を揺るがす
維新將就建言夥 維新 将に就(な)らんとして建言夥(おびただし)し
一喝容公憂國眞 一喝す容公 憂国の真
<解説>
「宮中簾前会議」: 慶応3年(1868)12月9日 京都御所小御所の会議を指す。
「「會津戊辰戦史」様サイト」
「土佐少将」: 前土佐藩主 山内容堂公(時に41歳)
「辞官納地」: 前将軍 徳川慶喜の内大臣の辞職と徳川家領(800万石)の削封問題。
「不堪陳」: 発表できない難題。
「揺紫宸」: 実際の会議場所は「小御所」であって「紫宸殿」ではないが、御所の総称として措辞したもの。
「一喝容公憂國眞」: 容堂公は御前会議(明治天皇は時に16歳)参会の王侯将相を一喝して、
徳川恩顧の大名として慶喜擁護の正論を張った。
すなわち:
「今日の挙、すこぶる陰険にわたる。(中略)恐らくは幼冲(ようちゅう)の天子を推して
権柄を窃取せんと欲する(後略)」:飛鳥井雅道『明治大帝』講談社、2002年、130頁より。
大意:「2、3の公卿(岩倉具視ら)が幼冲(ようちゅう、幼い子供)の天子を擁し、
権威をほしいままにしようとしている」
私見で恐縮ですが、私はこのような権力に阿(おもね)ず、人に媚びない容堂公の生き方に憧れます。
サラリーマン家業にあってはなかなか容堂公のように言いたいことも言えないのが日々の現実ですが、漢詩家でもあった文人大名容堂は好きですね。
そして酒豪で鯨海酔侯(げいかいすいこう=鯨のいる海の酔っぱらいの殿様)と号した彼の代表作を、紹介させてください。
二州酒楼に飲す
昨は橋南に飲み
今日は橋北に酔ふ
酒在り 飲む可し 吾酔ふべし
層楼傑閣 橋側に在り
家郷万里 南洋に面す
眦を決すれば 空濶碧茫々
唯見る怒濤の巌腹に触るるを
壮観却って此の風光無し
顧みて酒を呼べば杯己に至る
快なる哉 痛飲放恣を極む
誰か言ふ君子は徳を修むと
世上解せず 酔人の意
還らんと欲すれば欄干の灯なほ明らかに
橋北橋南ことごとく絃声
<感想>
山内容堂公は、今年の大河ドラマでは近藤正臣さんが一癖も二癖もある姿を、迫力有る演技で見せてくれていますね。これだけ存在感を示したのは、幕末を描いたドラマでも初めてではないでしょうか。
御前会議の詳しい事情などは、私は知りませんでしたが、確かに日本のあり方を変える場面での議論は、難問続出だったと思います。今日の政府も難問続出ですが、議論の体をなしていないように見えますね。
容堂公の一喝は、歴史に詳しい者同士ならばフムフムとうなずくところ、漢詩仲間ならばわかり合えると行きたいところですが、すみません、私自身が恥ずかしながら、という点があり、「そうなんだ!」と納得しかありませんでした。
2010.11.11 by 桐山人
作品番号 2010-247
詠山内容堂公 山内容堂公を詠ず
土州藩主願安民 土州の藩主 安民を願ひ
幕末尊攘辛苦新 幕末尊攘 辛苦新たなり
大政奉還推進績 大政奉還 推進の績(いさおし)
回天謨訓絶倫人 回天の謨訓 絶倫の人
「謨訓」: 国家の大計
<感想>
同じく山内容堂公を詠んだサラリーマン金太郎さんの詩です。
こちらは和語を持ってきて、私たちにはなじみ深い言葉が多く、その分リズムが良くなっているのですが、この詩題に合わせての狙いを持ったものでしょう。
前半もまとめれば「土州藩主辛苦新」ということですが、「願安民」とどうして「辛苦新」なのか、また、それが「幕末尊攘」とどう関連し、更に「辛苦新」へとつながるのか、この辺は読者の歴史知識に寄りかかった上での展開ですので、万人に作者の思いが伝わるかどうかというと、やや苦しいでしょうね。
万人を意識しなければ、歴史好きな人には重要ポイントが配置されていて、手を打って喜ぶかもしれません。サラリーマン金太郎さんの「ニヤリ」とした目線を感じるような詩ですね。
この詩とは直接の関係はありませんが、結句の「回天」は「困難な状況を一変させる」という意味ですが、これが太平洋戦争末期に特攻魚雷の名前に用いられたことはよく知られています。この言葉を見ると、その命名の悲しさを改めて痛感します。
2010.11.11 by 桐山人
作品番号 2010-248
如何得知 如何ぞ知るを得ん
人影来而空不看 人影来たるも 空しく看ず
風声砕雨久珊珊 風声 砕雨 久しく珊珊
令瞑滴露金剛石 瞑(くら)ましむる滴露は金剛石
孤傘揺揺夜転寒 孤傘揺揺として 夜転た寒し
<解説>
「去った人が再び帰ってくることに期待し疲れ、耳には雨や風の音しか聞こえない。
それはだいぶ前から聞こえている音である。
ふと滴る雫は、雨か涙か。
永遠に光を放つダイヤモンドのような煌きを持つ。
とはいえ、ただ、夜がやってきて寒くなるばかり。」
という孤独な詩情を漢詩にしました。あまりに暗い詩なので、せめてもと思い、珊と金剛石の二つの宝石を入れてみました。
<感想>
てしさんは文学同人誌を作っておられる方です。漢詩の特集を次回に組むということで、漢詩創作に挑戦されたとのことです。
初めての創作とのことですが、よく勉強なさっていて、平仄や押韻については問題有りませんね。
内容について、少しずつ見ていきましょう。
起句は、「来」という言葉と「不看」とには矛盾があるわけで、そこが理解できるかどうかがポイントでしょう。
「作者としては「雨の街角でひとり佇み、誰かを待ち続けている」という場面設定が頭の中にありますから、「誰かが来た・・・でも、違う人だった」という展開を期待しているのでしょうが、読者はここでは設定も知らないわけで、「来」と「不看」の食い違いに混乱します。
せいぜい「誰かが来た・・・でも、よく見えなかった」と読むところでしょうか。それでも、「だから、何?」という感じで、遠回しと言うか、思わせぶりというか、もやもやした印象が残ります。
「人影不来」と書き出せば、誰か来ることを期待している、というニュアンスは出ますので、その上で場面設定を考えると良いでしょう。象徴詩的な承句や転句につなぐためには、この起句では作者の気持ちをすっきりと示したいところです。
なお、「而」のような接続詞は、古詩では使われますが、近体詩では使わないようにします。字数や韻律の制約が多い近体詩では、無くても一応理解できる接続詞を入れるよりも、他の言葉を一字でも増やして情報量を多くしたいからでしょう。
承句の「珊珊」は、もともとは珊瑚の宝玉を指し、帯びた玉が重なり合って出る音、あるいは美しさを月の光に例えて使われる言葉です。この場合は、雨のキラキラと輝く様を表そうとしたのでしょうか。珊瑚を雨に喩えるのはイメージしにくいのですが。「上平声十四寒」の押韻ですので、韻脚は他にもありそうに思いますが。
転句は「令瞑」の「瞑」は平声で良いですが、「目を閉じさせて暗くさせる」という意味になります。それと「金剛石」との関わりはどうなのでしょう。ここは、「滴露」がどこにあるのか、場所を示しておくべきでしょう。
結句の「孤傘揺揺」は起句に持ってきて状況説明に用いても良いと思いますが、やや説明っぽくなるのを避けたのでしょうね。
2010.11.12 by 桐山人
作品番号 2010-249
秋来
草邊蟋蟀告秋近 草邊 蟋蟀 秋ノ近キヲ告ゲ
樹裡蜩蝉惜夏行 樹裡 蜩蝉 夏ノ行クヲ惜シム
物候不関経世事 物候 関セズ 経世ノ事
西風一陣促鋤耕 西風 一陣 鋤耕ヲ促ス
<感想>
夏から秋への移りゆく季節の変化を、前半の対句で表していますが、素材に真瑞庵さんの独自の視点の無いのが物足りなさにつながりますね。
もちろん、年中行事的に、毎年変わらないものが訪れることの喜びというのも無いわけではなく、真瑞庵さんの狙いも転句の「不関経世事」に見られるようにその点にあると思いますが、それでしたら、「秋近」「夏行」の対にもう一工夫欲しいところです。
結句は、真瑞庵さんの生活の一こまが感じられる句になっていると思います。
2010.11.12 by 桐山人
作品番号 2010-250
秋夕漫述
鐘声嫋嫋度雲湄 鐘声 嫋嫋トシテ雲湄ヲ度レバ
萬頃秋田日脚垂 萬頃ノ秋田 日脚垂ル
野月影涵疎竹径 野月 影ハ涵ス 疎竹ノ
木犀香罩小楼楣 木犀 香ハ
暮村灯火家家遠 暮村 灯火 家家遠ク
夜思吟筇歩歩遅 夜思 吟筇 歩歩遅シ
歳歳棄忘年少志 歳歳 棄忘ス 年少ノ志
去来ニ毛半生癡 去来ス ニ毛 半生ノ癡
<感想>
こちらの詩は、細かいところまで手がかけられていて、読み終えるとホット吐息の出るような詩ですね。
前半の叙景は、徐々に時間の経過を表す形で、頸聯になって作者が登場しますが、そこに「吟筇」と老年を感じさせる言葉が入ることで、尾聯の感懐への流れがスムーズになっています。
ちょっとした言葉の工夫が、全体の流れの中で生きてくる好例ではないでしょうか。
律詩の奥行きを感じさせる詩だと思います。
2010.11.12 by 桐山人
中聯対杖甚妙 就中三四句可謂天工乎
恰如唐人之詩
正措辞対杖 無先生之出右者 佳哉
中聯の対杖 甚だ妙なり 就中三四句「天工」と謂ふべきか
恰も唐人の詩の如し
正に、措辞 対杖 先生の右に出る者無し。佳き哉。
(読み下しは桐山人が失礼ながらつけさせていただきました)
2010.11.14 by 謝斧
作品番号 2010-251
酷暑影響
干天炎熱亙長期 干天 炎熱 長期に亙り
意気銷沈體力衰 意気銷沈 体力衰へ
老漢突然僵疾病 老漢は 突然 疾病に僵れ
壯年漸次苦勞疲 壮年も 漸次 労疲に苦しめり
如今蔬菜茂生弱 如今 蔬菜 茂生 弱く
向後稻粱収穫危 向後 稻粱 収穫 危し
糧食剰餘應減少 糧食の剰餘 応に減少すべし
蒼民真摯要勘飢 蒼民は真摯に飢に勘ふることを要す
<解説>
食料不足などが現実にならないことを願います。
<感想>
点水さんからは、前回、「異常気象」をいただきましたね。その折りには「適當對策必須明」と詩を結ばれ、政府の今後の政策への提起がされていたのですが、相変わらずの後手後手の迷走状態が続いている感じですね。
点水さんの今回の詩では、前半の異常気象から、今回は農産物への影響を懸念する方向に転換され、危機感が募りますね。
実は尾聯の上句と下句は本来から言えば内容が矛盾しているわけですが、それ程の違和感もなく読み取れてしまうということに、既に日本の現代食糧事情が反映されていると言えますね。
頷聯については、「老漢」と来ましたので、「壮夫」とした方が流れが良いと思いました。
2010.11.17 by 桐山人
作品番号 2010-252
告猫 猫に告ぐ
江畔結盧滞 江畔に盧を結びて滞り
幾秋過与猫 幾秋を猫と過ごす
勿眠車轎下 車轎の下で眠ること勿れ
御人不待逃 御人は逃げるを待たず
<解説>
大河の近くに盧を結んで住み
何年かを猫と共に過ごす
(猫や)車の下で眠ってはいけないよ
ドライバ―は逃げるまで待ってはくれないよ
小生は長江の近くに住んでいます。
飼い猫の交通事故が心配でこんな五言絶句を作ってみました。
平仄が合わないと思ったので、「轎車」と「車轎」とし、また「御者」と「御人」と変えてみました。
<感想>
雲錦さんは、お仕事で中国にいらっしゃるようです。雲錦とは南京特産の刺繍した絹布です。
いただいたお手紙には、
最近漢詩を勉強してみようと思い、先ずは『唐詩三百首』を購入し、見よう見まねで五語絶句から作り始めてみました。とのことでした。まだ作り始めたばかり、とのことですが、現代中国語をご存じですので、上達は早いと思いますよ。
小生、現代中国語の素養は若干あるのですが、漢詩となると勝手が違うし、また漢和辞典もないので随分途惑っております。
特に平仄は不肖にとっては難解で、ほとんど理解出来ておりません。
とりあえず現代中国語の一声・二声を「平」とし、また三声・四声を「仄」と考えていますが、勿論唐音とは異なるので間違いも多々あるかと存じます。
願わくば今後も投句を通じてご指導頂ければ幸甚です。
幾秋過与猫
勿眠車轎下
御人不待逃
作品番号 2010-253
尋高山
辛苦険阻路 辛苦たり険阻の路。
遂無高木遮 遂に高木の遮ること無からん。
茫茫松樹横 茫茫たり松樹は横はり。
渺渺嶂巒賖 渺渺たり嶂巒は賖(はる)かなり。
欣舞群小蝶 欣びて舞ふ群小の蝶。
怡開幾万花 怡(たの)しみて開く幾万の花。
解荷間仰臥 荷を解きて間(しば)し仰臥すれば、
忘我刻無涯 我を忘れて、刻(とき)涯まり無し。
<解説>
若い頃よく登った北アルプスの高山の印象が、今でも鮮やかに残っていて、何とかうまく詩に表現できないものかと思っています。
高木限界を過ぎて、這松の樹海をやり過ごすと、そこは高山植物の咲き誇る別天地となり、重い荷物を解いて横たわっていると、時間の流れも忘れてしまいます。
初めての五言律詩で追句の難しさを感じました。
第四句の漢字が重すぎる気がします。高木が無くなって、周囲の峰々がはっきりと現前する様子を表わしたいのですが?
<感想>
五言律詩に初めて挑戦したとのことですが、よく工夫されていると思います。
気になる点は、二句目と八句目に「無」の字が重複していることがあります。律詩は長くなりますので、ついつい見落としてしまいがちですが、気をつけましょう。
前半までの情景描写はとても良いと思います。気合いの入ったところですね。
頸聯の「幾万花」は高山植物のお花畑を指すのでしょうが、首聯の「遂無高木遮」が響いて、植物の育たない高地なのにどうして花があるの?という気持ちになります。
「群小蝶」を出すことで視線が地面の方に動いたことを示そうとしたのでしょうが、やや説明が足りません。「(花が)地を覆う」というような描写に持っていけば不自然さは解消するでしょう。
また、「欣」「怡」の感情語を用いた擬人法は、蝶や花と作者の心が一体になったことを狙ったのでしょうが、類型的で深みを消しているように感じます。
「蝶が舞っている」、「幾万の花が開いた」という描写から「蝶も楽しいのだろう」「花も嬉しいのだろう」と推測させる方が面白みは増すでしょう。
尾聯の「荷」は「蓮の花」の時は平声ですが、「荷物・担う」の時は上声、つまり仄声です。「解荷」という行為をわざわざ言う必要は無いと思いますので、ここはもう一工夫してください。
2010.11.19 by 桐山人
作品番号 2010-254
八月六日憶核廢絶 其一
白虹爍爍鏖都府 白虹爍々 都府を
黒雨蕭蕭糜肺腑 黒雨蕭々 肺腑を
被爆災痾重且長 被爆の災痾 重く且つ長し
歳年底事怨嗟愈 歳年底事ぞ 怨嗟愈ます
<解説>
もともと12行の古詩として作ったもの、平仄を整え 三首にわけました。
通して読んでいただければ幸いです。
重苦しい課題ですが、眼を背けるわけにもいきません。環日本海もまた核戦争の危機を内包しております。
作品番号 2010-255
八月六日憶核廢絶 其二
禁止希求無盡論 禁止 希求するも論尽くす無し
忸怩拱手傘中蹲 忸怩たり拱手 傘中に
弄翰非核三原則 弄翰 非核三原則
秘密文書赤裸煩 秘密の文書 赤裸に煩ふ
作品番号 2010-256
八月六日憶核廢絶 其三
後塵鷄口保持恣 後塵の鶏口 保持 恣にせんとす
變化潮流前廢棄 変化せる潮流 廃棄に前む
可奈邦家時運何 邦家 時運に奈何にすべしや
問君是否因循避 君に問ふ 因循に避くるは是か否か
<感想>
通して読んで、というご希望ですので感想もまとめてということで。
「重苦しい課題ですが、眼を背けるわけにもいきません」と常春さんが書かれていますが、核をちらつかせて脅しに使う手法が今でも通用する恐ろしさを改めて実感します。
「其一」の「鏖」は「閉じこめて皆殺しにする」という意味で、同じ「皆殺し」の意味での「殲」が「切り刻む」を語源とすることとの違いを出したのでしょう。二句目の「糜」は「ただれる」という意味ですが、どちらも原爆の実態を漢字で表そうという意図が伝わってきます。
連作の詩として拝見しましたが、古詩としてまとめて読んだ方が良いように感じました。
「其一」は独立しても分かりますが、やや観念的な内容で、やはり後半(「其二」「其三」)に向けての導入を担った書き方のように感じます。少なくとも「其二」と「其三」はつながっていないと、作者の主旨が伝わらないように思います。
毎年夏が近づくと戦争や核の問題を考えるのですが、それをどう継続的に頭の中に起き続けるかが大切なのだと思います。最後の句の「問君」は、常春さんが私も含めてこの時代を生きる後輩に投げかけた言葉だと受けとめています。
2010.12.5 by 桐山人
作品番号 2010-257
有感卒業六十周年 卒業六十周年感有り
二百星霜文武魂 二百 星霜 文武の魂
偉材輩出亦休論 偉材輩出 亦論ずること休からん
士不可以不弘毅 士は 以って 弘毅ならざるべからず
敢莫向他欲訴冤 敢て他に向ひ 訴冤を欲する莫かれ
山紫水明詩景好 山紫水明 詩景好し
白砂松籟自然存 白砂松籟 自然存す
新装學舎空懷古 新装の學舎 空しく古を懷ふ
質朴氣風誰與言 質朴の氣風 誰と與にか言はん
<解説>
高校卒業六十周年記念同窓会の開催に際して、母校を訪ねた。創立二百周年記念事業と銘打った全面的な改修工事が竣工したと言う。
故郷の山水は麗しく、元寇防塁記念碑が建っている周辺には、白砂青松の名残りが辛うじて保存されている。然し、嘗てオリンピック金メダリスト(葉室選手)が練習したプールは、最早や其処には無く、その昔、柔道場を兼ねていた畳敷の講堂は、近代的設備を誇る多目的ホールに姿を変えている。
質実剛健を旨とした我が男子高校は、校舎も校風も変わって終った。思えば、男女共学の新制高校になってから、既に半世紀以上の歳月が経過している。部活の生徒たちの黄色い声に驚いた。
廣田弘毅(1878-1948)=中学「修猷館」卒業後、一高、東大、外務大臣、総理大臣を務めた。戦後、東京裁判では一切の弁明をせず、A級戦犯として処刑された唯一人の文官政治家である。名は「士不可以不弘毅」《論語・巻四 泰伯》より。
初めて律詩(らしきもの)に挑戦しました。思い切って投稿致しますので、何卒、宜しく御願い申し上げます。果して対句の条件に適っているか、典故文を其の侭使用した頷聯2句「士不可以不弘毅」の第2字は平仄が合いませんが、矢張り許容出来ませんでしょうか。
<感想>
卒業六十周年というのも素晴らしいと思っていますが、学校の二百年の歴史から見ればまだまだ短い、時の流れの雄大さを感じるようなスケール感ですね。
頷聯で原田弘毅を出していますが、ここで一人のことを詳しく言い過ぎると前の「偉材輩出亦休論」からのつながりが不自然です。頸聯でも更に他の卒業生の業績を出すのなら良いのですが、風景への描写に移りますので、ますますこの頷聯が浮いた感じになりますね。
また、『論語』からの引用も、一句まるごとというのはどうでしょうか。文自体も二重否定の強調文で、あくまでも文であり詩ではありませんから訓読しにくく、平仄を破ってまで入れるべき七字とは思えません。二重否定を書き換えるような形で入れる方が良いでしょう。
第四句は「四字目の孤平」になっていますので、気をつけて下さい。
頸聯は「山紫水明」は「山紫にして水明らかに」という意味であり、下句の「白砂松籟」の「白い砂 松の籟」とは文の構造が違いますので、これは対句としては苦しいですね。
尾聯は「空懷古」あるいは「誰與言」という表現の中に、現状への批判、不満が含まれているのですが、冒頭の「二百星霜」や頸聯の美しさへの賛美とは反対の感情となります。違和感が残り、作者の思いとずれているように思いますが、いかがですか。
2010.12. 7 by 桐山人
作品番号 2010-258
十月十七日 与某氏訪昭和記念公園
十月十七日 某氏と昭和記念公園を訪ぬ
同訪秋桜丘彩燃 同ニ 彩ニ燃エル 秋桜丘ヲ 訪ヌ
国風松柏北庭辺 国風(級)ノ松柏ハ北庭ノ辺
将今行楽良縁喜 将ニ今、行楽シミ良縁ヲ喜ブ
記念公園秋色遍 記念公園ノ秋色遍シ
<解説>
次女の嫁ぎ先を訪問し、ご自宅前の昭和記念公園を訪ねるとコスモスが今は盛りと咲き誇っている。
また、国風(級)の松柏は、北庭の辺に重厚な姿を見せていた。
将に今、家族ともに行楽し、良縁を喜んでいる。
(昭和)記念公園の秋は遍し、良き日である。
次女は、十月九日に結婚したので、初めて嫁ぎ先を訪ねることになった。
<感想>
まずはお嬢様のご結婚、おめでとうございます。
今回の詩は、押韻も合っていませんし、表現上の問題もあります。せっかくの詩ですので、丁寧に見ていきましょう。
題名につきましては、送っていただいたものは「某氏」ではなく、具体的なお名前が入っていましたが、インターネットは公開された場ですので相手の方のお名前は避けるべきです。
起句は読み下しのように訓読するのはとても無理です。「彩燃」が「秋桜」を修飾させたいのでしょうが、修飾語は被修飾語の前に置くのが漢文の規則です。この語順では、「秋桜丘」が「彩燃」であるという主語と述語の関係になります。
それを理解した上で句を見直してみると、今度は「同訪」の目的語がやはり「秋桜丘」になりますから、「秋桜丘」は主語でもあるし目的語でもあるということで、意味はと言えば、「共に秋桜の丘を訪ねたが、その秋桜の丘は彩り豊かに燃えるようだ」という形で二度使って理解するしかありません。
それで一応通じはするのですが、そんな苦労をわざわざ読者に強いる必要はなく、作者が書き直すべきものですね。
「燃」の比喩も通俗ですし、そもそもこの比喩は真っ赤な花を表すわけで、秋桜の花には適さないでしょうから、この句は全面的に推敲した方が良いでしょう。
承句の「国風」は「その国独自の風俗」という意味なのですが、解説や読み下しに書かれた「国風(級)」というのはどのような意味で用いられたのでしょうか。「日本風」の、ということかと思いましたが、「級」がつくとなると分からないですね。
転句は「楽」よりも「興」の方が良いので、これを用いる熟語を考えると良いでしょう。
ただ、その下の「良縁喜」との関連がはっきりしないといけないですね。
結句は「遍」は仄声ですので、間違いですね。「秋色」に対応させるとすると、「連」くらいでしょうか。下三字そのものを他の表現で考えても良いでしょう。
2010.12. 8 by 桐山人
作品番号 2010-259
初冬偶成
一村山影夕陽微 一村の山影 夕陽微なり
歩歩老軀鎖竹扉 歩歩 老軀に竹扉を鎖す
茅屋炉辺詩酒楽 茅屋の炉辺 詩酒の楽しみ
鐘聲只有怕寒威 鐘聲 只有り 寒威を怕る
<解説>
おひさしぶりです。
私の有りたき心境です。酒飲みのところだけ
<感想>
冬を迎えての想いを描いた詩で、落ち着いた生活が感じられますね。
起句は、このままでは初冬を表す言葉が何もありませんので、物足らなく感じます。作者は題名を意識しているから気にならないかもしれませんが、読者の方は、「さあ、どんな初冬の様子が描かれるのか」と期待して読み始めますので、肩すかしをされたような思いになります。
「山影」の「影」を少し冬らしく描くだけでも、起句の全体への働きが随分違ってきます。
承句は、読み下しには「老軀に」と助詞がついていますので、作者としては「私に対して門が閉じられている」ということかもしれません。文の構造としては、「老軀」が主語で、つまり私が「鎖竹扉」となりますので、心情的には「客が来ないように門を閉じた」という意味に理解します。
それですと、「歩歩」からの流れがありませんので、違和感が出てきます。
この承句にも、冬の様子を表す語が無く、そういう意味では下三字に何か季節感のある言葉を入れたいところですね。
転句は問題有りませんが、結句は「只有」は「鐘声」を指していると思いますので、読み下しを「只有りて」としておくと倒置であることが示されます。
ただ、「鐘声」と「怕寒威」のつながりがあまり感じられません。「孤鐘」「一鐘」、あるいは「寒鐘」(「寒威」を「冬威」として)と直しておくと良いと思います。
2010.12. 8 by 桐山人
初冬偶成(推敲作)
一村山寂夕陽微
歩歩老軀霜有威
茅屋炉辺詩酒楽
鐘聲只有怕寒威
<感想>
起句の「山寂」は、もっと強く「山冷」でも良いくらいでしょう。
承句は「霜」を持ってくるのは良いですが、「霜に威有り」はまだ上四字とつながりません。
また、「有」も「威」も後半に使われていて同字重出になりますので、例えば「霜満衣」「霜湿衣」とか、「帰」を韻字にしても場面の幅が広がるでしょうね。
2010.12.19 by 桐山人
再推敲しました。
同字重出は十分にチェックしてませんでした。
起句に明かりを取り除き暗いイメージにして、承句に「帰る」を使いました。
初冬偶成(再推敲作)
一村山冷雨霏霏 一村 山冷やかにして 雨霏霏たり
歩歩老軀不語帰 歩歩の老軀 語らず帰る
茅屋炉辺詩酒楽 茅屋の炉辺 詩酒の楽しみ
鐘聲只有怕寒威 鐘聲 只有りて 寒威を怕る
<感想>
起句承句結句に統一感が出た分、転句の明るさが目立ちますが、違和感のあるものではありません。ただ、詩の主題は「寒さの中での詩酒の楽しみ」という方向が明確になります。
全体に暗くしたいのなら、「楽」を取って「有詩酒」とか「詩与酒」とし、結句も「鐘声残響」とするなどが考えられます。
承句は「四字目の孤平」になっていますから、「無語帰」とするか、「老軀」を換えるか、というところでしょう。
2010.12.31 by 桐山人
作品番号 2010-260
詠梅於月瀬渓谷
一望万樹恵風丘 一望 万樹 恵風の丘、
恰似清渓吹雪幽 恰も清渓に吹雪の幽なるに似る。
今古為花高士集 今古 花のために 高士集ひ、
払苔石碑旧詩留 苔を払へば石碑に旧詩留む。
<解説>
三月に奈良県の月ヶ瀬梅渓を訪ねたときのことを詠んだものです。
古来より梅の名所として知られるところです。
梅渓を一望できる丘には、芭蕉の句と名前は失念してしまいましたが、名士の漢詩を記した碑があったと記憶しております。
「梅渓を去り行くバスや 雨強し」
<感想>
忍夫さんからの、ひさしぶりに詩をいただきました。この一年の詩作の中から、ということのようですので、季節的には春の詩から掲載をしましょう。
月ヶ瀬の梅は近世の文人達の好んだ地のようで、漢詩もよく目にしますね。そのあたりを意識されての転句の「今古為花高士集」でしょう。
ただ、「集」と結句の「旧詩留」は重なりますので、できれば「集」を避けて、高士が集まって何をしていたか、どんな気持ちだったかを表すと、結句が生きてくるように思います。
また、承句の「吹雪」と「幽」との対応が不自然な気がしますので、雪の形容を変えた方が良いのではないでしょうか。
2010.12. 9 by 桐山人
作品番号 2010-261
北野天満宮梅園
東風一陣又清遊 東風 一陣 又清遊、
半綻梅花迎我優 半ば綻びし梅花 我を迎えて優なり。
香雪雑紅春色穏 香雪 紅を雑へて 春色穏かに、
水辺談笑鳥声酬 水辺の談笑 鳥声酬ゆ。
<解説>
毎年、梅の季節には北野天満宮の梅園を訪れるのを楽しみにしています。
今年は中国の友人を案内しました。
中国ではもっと香り強い蝋梅のほうが普通だということでした。日本の梅はあまり香りはしないが、紅白の花がとても綺麗だと喜んでくれたことが思い出されます。
<感想>
北野天満宮の梅の詩は、昨年の「北野天満宮」でも拝見しましたね。
前作は菅原道真公を十分に意識されたものでしたが、今回は梅に焦点を絞っての眼前の景という趣で、個人的にはこちらの方がすっきりしているように感じます。
承句に「迎我優」とありますが、ここは「迎客」としておいた方が結句の「談笑」という複数を表す言葉との対応が良いように思いました。
2010.12. 9 by 桐山人
作品番号 2010-262
賞又兵衛桜
老桜孤立尚悠然 老桜 孤立して尚悠然
得免災難三百年 災難を免れ得たり 三百年
宇陀山間塵俗外 宇陀の山間 塵俗の外
時流緩慢早春天 時の流れは緩慢と 早春の天
<解説>
「又兵衛桜」は奈良県宇陀市にある樹齢三百年と言われる桜の古木で、後藤又兵衛の屋敷跡にあることが名前の由来だといいます。
老木の下、ゆっくりとした時の流れに身をまかせ清清しい気分を味わいました。
「歳月に育まれたる瀧桜 急ぐこと無し 時ぞ優しき」
<感想>
承句の「災難」の「難」は仄声かと思いますが、どうでしょうか。杜甫の詩には「艱難」で平声で扱っている例もありますので、悩ましいのですが。
全体的に「悠然」「三百年」「時流緩慢」などの語で時間のゆるやかな流れを感じさせてくれますので、主題もそのあたりに落ち着くかと思います。
ただ、桜そのものの描写がもう少しあっても良いかと思いますので、起句の「尚悠然」の三字に持ってくるか、転句に置くかすると、老桜の姿が明確になってくるでしょうね。
2010.12. 9 by 桐山人
作品番号 2010-263
小春
老犬大如未 老犬 大なることh未の如し
長生十二年 長生して 十二年
見糧無自走 糧を見ても 自から走くこと無し
尽日向陽眠 尽日 陽に向かひて眠る
<解説>
我が家の愛犬も既に大型犬の平均寿命を超えめっきり動きが鈍くなってきました。
老老介護の日々です。
<感想>
私のところでも数年前まで犬と暮らしていましたが、中型の大きさで、十五年ほど、晩年に白内障を患ってからはさすがに動きも鈍くなりましたが、それまで元気に過ごしていました。おそらく、という言い方しかできませんが、おだやかな老後を送ったのでは思っています。
陽山さんの詩を拝見しながら、その頃のことを思い出し、描写の一つ一つに納得をしました。
起句の「如未」の「未」は、平仄の関係でこの字を用いたものと思いますが、方角や時刻以外で動物そのものを指すのは納得できません。用例が思いつかないのですが、勉強不足でしたら済みません。
作者の思いを正確に伝えることを考えれば、「羊」の字を使うべきでしょう。語の順番を少し変えれば直るでしょうから、読者のためということでお考えください。
前半が愛犬の姿、後半がその行動という形での変化ですが、構成としては、結句と転句は内容を入れ替えた方が、愛犬の「老」を印象づけると思います。
2010.12.10 by 桐山人
作品番号 2010-264
早暁閑行
村郊漫歩繞晨風 村郊漫歩すれば 晨風繞る
小径無人朝耀中 小径人無く 朝耀の中
忽聴暁鐘清浄韻 忽ち聴く暁鐘 清浄の韻
不知何処古梵宮 知らず 何処にか古梵宮
<解説>
早朝、散歩した時、遠くからの鐘の音を聴きました。帰宅して直ぐに創りました。
韻を「ひびき」と読みましたが、間違っていませんか?
<感想>
ご質問の「韻」を「ひびき」と訓読しても良いかどうかですが、間違いではありませんし、何も問題有りません。
早朝の散歩ということですが、詩の中に朝を表す物が無く、逆に「晨」「朝」「暁」と言葉で説明しているところは、具体的なイメージが浮かびにくく、作者の思いに共感しにくく思います。
「晨」「朝」「暁」はどれか一つだけで十分に働きますので、例えば「晨風」を「涼風」「西風」に、「暁鐘」を「遠鐘」とすれば、それだけでも具体性が出てきますね。
結句は、「梵」の字は通常は仄声です。しかし、それよりも、「不知何処」として、どこか分からないのに「古」とするのは不自然です。遠くの鐘の音を聞いただけで「あれは古い寺の鐘だ」と感じるのは、仮に場所が京都や奈良だとしても、無理があります。
そのあたりを整理して、結句を推敲されると良いでしょう。
2010.12.13 by 桐山人
作品番号 2010-265
左府 島津久光公
倒幕勤皇憂國情 倒幕勤皇憂国の情
重來捲土薩長盟 重来捲土 薩長の盟(ちかひ)
密願主上親征詔 密(かに)主上に願ふ 親征の詔(みことのり)
成就維新酬聖明 維新を成就して聖明に酬(むく)ゆ
<解説>
今年はなんと言っても「龍馬ブーム」の一年でした。
それに奉賛してこの所、幕末維新の群像を漢詩で取り上げています。
今回は幕末薩摩の「國父」と称された島津久光です。
「重來捲土」: 関ヶ原の敗戦から二百六十年余り経って、ようやく外様の雄藩に幕府倒幕の機運が巡ってきたこと。
「密願主上親征詔」: 倒幕の密勅。
「倒幕の密勅(出典:フリー百科事典 ウィキペディア日本語版)」
<感想>
テレビの「龍馬伝」もめでたく(?)終わり、今度は「坂の上の雲」第二部に夢中になっています。四国は今年は大ブームだったのではないですか。
さて、金太郎さんの幕末から明治維新を題材にした詩、今回は「島津久光公」ですね。
日本の史実を漢詩で描くとなると、どうしても和習は避けられませんので、それはそれとして、日本史の解説が漢詩で書かれているという感覚で読みました。(「勤皇」は「勤王」でも良かったかなとは思いましたが)
承句の「重来捲土」は「土を巻き上げて」の部分が後だと訳が微妙で、やはり「捲土重来」の順番が良いですね。「捲土」「重来」のどちらかだけの方が却ってすっきりするかもしれませんね。
転句は「主上」に対してのことですので、「願」よりは「拝」「賜」、「請」くらいの方がおだやかかと思いましたが、いかがでしょう。
2010.12.13 by 桐山人
作品番号 2010-266
古都春日大社
薫風嫋嫋滿宸居 薫風嫋嫋として宸居に満つ
紫白架藤垂一如 紫白架藤 垂れて一如たり
連綿大社幾千歳 連綿たる大社 幾千歳(いくせんざい)
碧殿朱樓聳太虚 碧殿朱楼 太虚に聳(そび)ゆ
<解説>
「春日大社」: 藤氏の氏神
「滿宸居」: 天子の住まいに満ちる意味だが、ここでは神域に満ちている様子を言う
「紫白架藤」: まるで天蓋の様な「砂ずりの藤」
「太虚」: 大空
「春日大社『砂ずりの藤』(「巨樹と花のページ」様ホームページより)」
<感想>
平仄の点では粘法が崩れている形で、金太郎さんご自身も拗体と注意書きをされているように、承知の上でのもの。解消するには起句と承句を入れ替えれば良いのですが、この詩ではなかなか難しいところ、句の並びとしてはどうしてもこれで行きたいというお気持ちは納得できます。
転句の「連綿」は「大社」を修飾していますが、趣旨としては「幾千歳」につなげてのものだと思います。
私の感じでは、「幾千歳」で「連綿」の意味は出ていると思いますので、「大社」を形容する言葉、例えば「荘厳」などを置くのはどうでしょう。
あと、これは人によって意見は分かれるかもしれませんが、結句で「碧」「朱」の色を使っていますが、承句の藤の花の「紫白」との関係を、相乗効果と見るか、ポイントがぼやけると見るか、悩ましいところです。
2010.12.12 by 桐山人
作品番号 2010-267
夏日雑感 一
避暑山荘只愛眠 避暑の山荘 ただ眠りを愛し、
消閑無術日如年 消閑 術無く 日は年の如し。
清風一陣吹髯面 清風 一陣 髯面吹けば、
午夢漸醒聞暮蝉 午夢 漸く醒めて 暮蝉を聞く。
<解説>
今年の夏は本当に暑かったですね。冷房がなしには過ごせませんでした。
実際は家で、暑さに負けてゴロゴロしていただけですが、せめて詩の中だけでも優雅にということで、山荘といたしました。
夕暮れに聞く蜩の声は、なぜか切ないですね。
<感想>
今年の夏の詩は、皆さんも酷暑のことが中心でしたね。
今思い返しても、本当に暑い毎日でした。我が家のクーラーは丁度交換時期に来ていたようで、二台立て続けに故障してしまいました。エコポイントの関係でこの際買い換えるか、と電気屋さんに行っても取り付けに半月くらい待たねばならないと言われ、泣きの涙ならぬ、汗まみれでした。
せめて心の中だけは爽やかに、という忍夫さんのお気持ちはよく分かりますね。
「避暑山荘」での、のんびりとした姿が感じられます。
結句の「漸醒」は、少しずつ眠りが醒めてきたことを表しているわけですが、夢うつつで気がついたら周りはもう夕方の気配、「暮蝉」が時間経過と作者のもの寂しさを感じさせて、効果的だと思います。
2010.12.22 by 桐山人
作品番号 2010-268
夏日雑感 二
日親筆硯坐清晨 日々筆硯に親しみ 清晨に坐せば、
幽院白蓮花発新 幽院 白蓮の花発して新なり。
忽識晴天催暑気 忽ち識る 晴天 暑気を催し、
不如書室一閑人 如かず 書室の一閑人。
<解説>
朝起きて書道をするのが日課です。
今年の夏は、朝の一時涼しいだけで、すぐに暑くなるので青天が恨めしいようでした。
休日は家で寝転んで、小説を読んでばかりでした。
<感想>
起句の「清晨」と承句の「白蓮花」が時間的にもバランスが良く、朝のすがすがしさが前半でよく出ていますね。
転句からは暑さへと意識が動くわけで、「忽」の語が作者の「また今日も暑くなりそうでいやだなぁ」という気持ちをよく伝えています。
この後どんな展開になるのかと期待しますが、結句の「不如」は比較の対象がはっきりせず、突然読者に考えを振ってきたような印象です。転句に「忽識」が無い、あるいは終わりが「人」でなければ、また別なのでしょうが。
ここは、「暑気」が作者にどう働きかけているのかを示した方が、写生に徹して良いと思います。
2010.12.22 by 桐山人
作品番号 2010-269
秋夜雑感
籬辺風竹報秋初 籬辺の風竹 秋を報ずる初め
揺葉蕭蕭虫語疎 揺葉 蕭蕭 虫語疎なり
一穂青灯涼爽夜 一穂 青灯 涼爽の夜
不如耽読老荘書 如かず 耽読 老荘書
<解説>
漸く秋らしくなりました。読書の秋にはちょっと背伸びして哲学書をひも解き、思索に耽るのも好いかと思います。
<感想>
こちらは「不如」は、転句に描かれた爽やかな夜には読者が一番だ、という作者の意図が明快で、読み終えた後の余韻も深くなっています。
前半は、「風竹報秋」も「揺葉蕭蕭」も「虫語」もどれも音を使っていますので、やや単調さを感じます。
起句の「風竹」を承句の頭に持ってきて、起句には秋を感じさせる花とか露とかを置くと、画面の奥行きや広がりがもっと出てくると思いますが、いかがでしょう。
2010.12.22 by 桐山人
作品番号 2010-270
聽“莫扎特”作曲小夜曲第13番
少壯傾聽廣播音 少壮 傾聴す
音聲瀲灔更浮沈 音声
新知奏樂連綿響 新知の奏楽 連綿と響き
誘引桃源感慨深 桃源に誘引されて 感慨深し
幾許伶人合弓子
無雙名曲出提琴 無双の名曲 提琴を出づ
居諸不返加霜髪
馳思青春昔日心 思ひを馳す 青春 昔日の心に
<解説>
作者20代に愛聴した曲を思い出して作る。
[語釈]
「莫扎特」: モーツアルト
「小夜曲第13番」: 「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
「広播」: ラジオ
「瀲灔」: さざ波の動くさま。バイオリンの演奏にたとえた
「浮沈」: 同じくバイオリンの音の強弱をたとえた
「伶人」: 楽人
「弓子」: バイオリンの弓
「居諸」: 月日
<感想>
私も中学生の頃、同居することになった義兄の影響で、クラシック音楽に夢中になった頃がありました。
それまではラジオやテレビでもせいぜい歌謡曲しか視聴しない環境で生きていましたので、義兄が持ってきた「ステレオ」から流れ出る音の壮大さにまずびっくりしました。
それが昭和40年の前後、そもそも、ベートーベンだのバッハだのという有名な人の曲は学校の音楽室でしか聴けないものだと思っていましたし、木目調の大仰な「ステレオ」装置は家具の一部としての役割も持ち、所有している家ではどこでも座敷の真ん中にデーンと置かれていました。
それが我が家にも来たわけで、テレビやラジオのスピーカーでは聞くことのできない重低音の迫力と、クラシック音楽の多彩な曲想や音色に感激し、聴かない日は無いくらいに夢中でした。「アイネクライネ・ナハトムジーク」も何度も何度も聴いた曲ですね。
井古綆さんは私よりも更に時間を遡って、「ラジオ」の全盛期でしょうか。短波放送でジャズを聴いたとか、よく聞いたことがあります。
それが起句の「少壯傾聽廣播音」でしょう。
「傾聴」という表現から、私は「電波の入りにくいラジオにしがみついて必死に聴こうとしている姿」を想像しましたが、初めて触れる西洋の音楽への新鮮な感動と敬意から姿勢を正して聴いているような姿も考えられますね。
頸聯は「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の紹介に当たるところ、「無双名曲」はまさにその通りですね。「提琴」も「バイオリン」のことです。
尾聯が冒頭の「少壮」と呼応する部分ですが、「昔日」は回想的でややしつこい気がします。あの頃はどんな「日」を送っていたのか、ここの二字が実はこの詩の要ではないでしょうか。
「青春日日心」としてぼかすことも考えられますが、できれば青春時代の毎日を象徴するような表現が欲しいと思います。
2010.12.23 by 桐山人
ご高批ありがとうございました。
楽聖さんの「維納国立歌劇場紐連堡指輪観劇有感」の項目で、当該の曲を探しだして聴いているうち詩想が湧いて作ったのでした。
今思えばなんと素晴らしい曲かと感動にむせびました。ですから尾聯の項目にはあまり関心もなく、あのように作ったしだいです。
ありがとうございました。
2010.12.24 by 井古綆