2005年の投稿詩 第196作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-196

  倣北郭先生之体 (擬辞世)        

冑山有客性頑愚   冑山客有り 性頑愚

徒爾淫詩如腐儒   徒爾たりし 詩に淫しては 腐儒の如し

破屋三弓無長物   破屋三弓 長物無く

荒庭一撮獨高梧   荒庭一撮 獨り高梧

帯縄散髪行捜句   縄を帯び髪を散じて 行く々句を捜ぐり

把酒狂歌醉叩壷   酒を把り狂歌して 醉いて壷を叩かん

縱賈人嘲不介意   縱え人嘲を賈うも 意に介せず

去騎鶴背遊仙都   去って鶴背に騎して 仙都に遊ばん

          (上平声「七虞」の押韻)

<解説>

 (五雲閣より降謫された私は)冑山に居を卜し
  性来頑愚で無駄に詩に耽っては腐れ儒者のようです
  棲家は三弓程の狭いところで、部屋の中は何もありません
  荒れた庭も、一掬いの広さで、但高い梧桐だけです
  私は暇に任せ、縄を帯びてざんばら髪で、句を吟じながら詩を作っています。
  また、それに飽きれば、酒を飲み、壷を叩いては調子をとり狂おしく歌っています。
  この様を見て、人は私を嘲り嗤うも、気にしません。
  こういった生活にも飽きたので、今より白鶴に乗って、元の五雲閣にでも戻ろうとします。

 最後の聯は仄三聯平三聯になっています。
  [語注]
「三弓」:弓三張り分の広さ
「一撮」:一つまみ(撮土)
「長物」:ぜいたく品余り物 長は仄用 「只縁無長物 始得作閑人」(白楽天)
「高梧」:丈の高い梧桐 「棲鳳凰于高梧宿」(馬融伝 後漢)
     鳳は高梧でなければ棲まず

 七言律詩は非常に難しく今までに満足な詩はありません。全てデタラメで廃棄すべきなのですが、愛着もありますので、捨てるに忍びなく幾らか鶏肋の感もあります。
 今回は北郭先生高青邱に詩味を真似たもので、少し難解かと思います。
 手前みそですが、自分としては納得ができる、初めての作品だとおもっています。
 少しは漱石先生の堂に升ったかと自惚れています。

<感想>

 「「五雲閣」から降りてきた」というのは、高啓自身が「青邱子歌」で、
   青邱子         青邱子
   臞而清         せて清し
   本是五雲閣下之仙卿   と是れ五雲閣下の仙卿なり
   何年降謫在世間     何の年に降謫されて世間に在るや

述べているわけですが、高啓は江戸期から愛された詩人で、特に森鷗外が明治二十三年に「青邱子歌」の訳を発表するように、明治大正期の詩人にも愛されました。

 時代の流れの中での短い人生を送りましたが、李白に伍すると言われる詩才は本当に魅力的です。
 謝斧さんの詩は、高啓の詩を横に置いて読むと、意味合いがより深く感じられますね。

2006. 1. 1                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第197作は 諦道 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-197

  永平寺        

秋風吹度老杉樹   秋風吹き度り 老杉の樹

七十伽藍荘重連   七十の伽藍 荘重に連なる

緇素同参香一片   緇素 同じく参じて 香一片

法灯無尽界三千   法灯尽きること無く 界三千

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 永平寺に上山し参拝したときに何とも言えない荘厳な雰囲気に魅せられて作詩しました。

   秋風吹き渡る大木の杉の樹
   七十からなる伽藍荘厳に連なっている
   僧侶も一般の信者さんも上山して香を炊いてお参りをする
   永平寺の法灯はあらゆる世界に耀いている

<感想>

 諦道さんからは、以前にも同じ題で(「永平寺」を送っていただきましたが、前作が春の詩でしたので、こちらは秋バージョンということですね。

 転句の「緇素」は、「緇」が「黒い服」、「素」が「白い服」ということですが、墨染めの黒い着物を着ているのが僧侶、白い服が世俗の人を指す言葉です。
 結句の「界三千」は、「三千(世)界」を平仄の関係で入れ替えたのでしょうが、私はあまり納得できません。どうしても、「三千を界す」と、「界」の字を動詞(引き離す、境界とする)として読みます。
 転句で、「僧俗、差別なくお参りをする」ということで、誰にとっても仏法は均しいとの感動を広げるためには、「無尽」の語も物足りないですね。
 結句は再考されることをお勧めします。

2006. 1. 1                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第198作は 諦道 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-198

  越前古刹永平寺        

秋風吹度傘松巓   

五代杉頭石蘚鮮   

荘重伽藍渓面配   

清幽廊閣澗声旋   

承陽殿裏法灯盛   

選佛場中開祖禅   

三百学僧端坐凛   

吉祥山上月輪懸   

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 永平寺の荘厳なる伽藍および雰囲気の中で、三百余りの学僧が日夜厳しい修行に励んでいる姿を漢詩に詠んでみました。

 [訳]
 秋風が吹き渡る傘松の頂き
 五代杉の周りには蘚むした石が鮮やかである
 荘重なる伽藍は山の傾斜面に配されて
 清く静かなる廊閣の周りには谷川が流れている
 開山をお祀りしている承陽殿の法灯は今も昔も盛んである
 座禅道場の中は開祖の禅が満ちあふれ
 三百余の修行僧が日夜静かに座禅三昧に明け暮れている
 そのような吉祥山永平寺の上には秋の月が皎々と懸かっている

<感想>

 こちらは同じ趣を、律詩の形で書かれたものですね。
春の時の七言絶句に尾聯の詩句が使われていましたが、こうして律詩で読むと、作者の気持ちがよく表れてきますね。どちらが良い悪いではなく、絶句の簡潔さと律詩の構成の違いが分かります。

 第六句の「選佛場」は、「禅堂」「僧堂」の意味ですね。
第三句の「渓面配」は、どう読むのでしょう。

 頸聯の「法灯盛」「開祖禅」は、「法灯が盛ん(主語+述語)」と「開祖の禅(修飾語+名詞)」ですので、対句の対応が合わないと思います。
2006. 1. 1                 by 桐山人


諦道さんから、お返事をいただきました。

次のように訂正しました。

 越前古刹永平寺

 秋風吹度傘松巓
 五代杉頭石蘚鮮
 荘重伽藍山鳥呼
 清幽廊閣澗声旋
 承陽殿裏法灯盛
 選佛場中弁道専
 三百修僧慕開祖
 吉祥山上月輪懸

 秋風が吹き渡る傘松の頂き
 五代杉の周りには蘚むした石が鮮やかである
 荘重なる伽藍は鳥が盛んに鳴いている
 清く静かなる廊閣の周りには谷川が流れている
 開山をお祀りしている承陽殿の法灯は今も昔も盛んである
 座禅道場の中では真剣に弁道が行われている
 三百余の修行僧が開祖道元を敬い慕っています
 そのような吉祥山永平寺の上には秋の月が皎々と懸かっている

2006. 1.28                 by 諦道





















 2005年の投稿詩 第199作は Y.T さんからの作品です。
 

作品番号 2005-199

  歎天災是人災     天災 是 人災なるを 歎く   

伐尽森林緑未回   森林 伐り尽して 緑 未だ回らず

万邦奔利不須猜   万邦 利に奔って 猜うを須ひず

塹山鋪路致洪水   山を塹り 路を鋪して 洪水を致し

埋海成田墾百災   海を埋め 田と成して 百災を墾やす

七竅被穿渾沌死   七竅 穿たれて 渾沌 死し

人知漫弄両儀頽   人知 漫りに弄して 両儀 頽る

乾坤有限欲無限   乾坤 限り有るも 欲は限り無し

遘禍蒼生只可哀   遘禍の蒼生 只 哀(かな)しむ可し

          (上平声「十灰」の押韻)

<解説>

 第十回の交流詩に投稿した七絶を律詩にしてみました。
対句にどうしても自信が持てませんので、一般投稿にしてご教示に預かりたいと思います。

 頷聯の「洪水」「百災」は対するでしょうか?対しないなら「百災」を熟さない語ですが「禍災」にしなければなりません。

 頚聯の「人知」も駄目なら、これも熟さない語ですが「三知」と改めなければなりません。
 又、「被穿」と「漫弄」は対するでしょうか?

 又、杜甫の名作“月夜”の頷聯
遙憐小児女/未解憶長安 は何故対句となるのでしょうか?

<感想>

 ご質問がいくつかありますので、私の感想も書きますが、皆さんにも考えていただきましょう。ご意見をお寄せ下さい。

 「洪水」「百災」は名詞としての対応はかなってますのでこれでも良いと思いますが、内容的にもう一ひねりではないでしょうか。「洪水」が「百災」の中の一つと考えると、個別のものと全体を表すものが並びますので、「百災」の方を個別的な災害(「地震」とか「台風」にあたるもの)にすると対応がすっきりすると思います。
 「七竅」は荘子の典故ですが、「七竅」自体が「人知」を象徴しているものですので、数字にこだわる必要はなく、内容としてしっかり対応していると思います。提案の「三知」では、意味が違ってしまうと思います。対応で言えば、「混沌」の固有名詞(?)と「両儀」の一般名詞の方が合わないのではないでしょうか。
 「被穿」「漫弄」は、「(連用修飾語)+(動詞)」ですから、問題ないでしょう。

 杜甫の「月夜」の対句は、文法的な対応を考えると難しいですね。大修館書店の『漢詩の事典』での対句(「流水対」)の説明が一番分かりやすいと思いました。要点だけを書きますと、

 文法的には、

    遙(副詞)憐(動詞)小(非体言)児女(名詞)
    未(副詞)解(動詞)憶(非体言)長安(名詞)

 ということで、一応対句の許容範囲にある。文法上は対句の要件を満たしてはいるが、対句としての対偶効果は曖昧である。内容的には「流水対」で、「遙憐」がこの二句全体を受ける形(「小児女がまだ長安を思うことができない」ことを遥かに憐れむ)になっているが、このように、「流水対」は鮮明な対偶効果を持たないという点で、必然的に、「仮対」(形式次元での対偶関係−品詞などの文法構造の一致−をかろうじて満たすが、しかし意味次元での対偶関係を持たない対句、言い換えれば、対句らしく見えないが、文法構造を調べると確かに対句の条件を満たしているもの)とならざるを得ない。
 という説明ですが、「非体言」の対応と言ってもなかなかピンとはきません。私は、
      遙(連用修飾語)憐(述語)小児女(目的語)
      未(連用修飾語)解(述語)憶長安(目的語)
 という形での対だと考えると何とか理解できるかなと思っています。ただ、「解」はこの場合の用法としては述語というよりは「可能の助動詞」と考えますので、『漢詩の事典』のような説明にならざるを得ないのだろうと思います。

 尾聯の「欲」は、「乾坤」との句中対ですが、助動詞として読みそうですので、他の言葉を探されるのがよいと思います。 2006. 1. 4                 by 桐山人


感想をいただきました。
 頸聯の

   七竅被穿渾沌死 
   人知漫弄両儀頽


 単なる字対だけでは対句になりません。
 また、「七竅」「渾沌」ともに荘子の辭ですから、落句も荘子の辭を使います。
そうでなければ、偏枯(偏古)という病になります。

2006. 1. 5               by 道聴途説居士























 2005年の投稿詩 第200作は 点水 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-200

  楝        

高木花開孟夏姿   高木の花開きて孟夏の姿

芳葩淡紫緑陰滋   芳葩は淡紫 緑陰は滋し

怱怱葉落秋天碧   怱怱と葉落ちて秋天は碧し

果実浅黄懸細枝   果実は浅黄 細枝に懸る

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 楝は初夏に花をつけ、緑陰をつくってくれ、また、秋は早めに葉を落とし、日当りをよくしてくれます。その下で体を動かすのに、大変都合がよろしいというわけです。また、万葉の歌人「家持」も「ほととぎす楝の枝に行きて居ば花は散らむな珠と見るまで」と実を歌っています。 そんなことで、つくってみました。

<感想>

 夏と秋のように、二つの季節を詠い込む場合には、結句が難しくなりますね。

 転句で大体は季節を転換するのですが、結句がそのまま受けてしまうと、前半と後半が切られてしまい、二つの詩が並んだような印象になってしまいます。
 その場合には、叙景が淡々と並び、作者がどこに感動を持っているのか、その思いが出てこないように思います。

 結句で全体を収束するような内容を持ってくると、バランスがよくなるでしょう。

2006. 1. 4                 by 桐山人


謝斧さんから感想をいただきました。
 詩は詠物体の格に合って申し分ありませんが、暗喩が感じられませんので、詩人は何を言わんとしているのか、能く分りません。
 字面だけでしょうか、そうであれば内容が甚だ平板に思えます。

2006. 1. 7                 by 謝斧





















 2005年の投稿詩 第201作は 藤原崎陽 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-201

  看菊小集        

籬辺佳菊弄秋光   籬辺の佳菊 秋光を弄す

小集開樽好擧觴   小集樽を開いて 好し觴を擧げん

萬態金英華繞舎   萬態 金英 華 舎を繞り

千姿玉蕋露凝香   千姿 玉蕋 露 香を凝らす

浮英成酔白衣酒   英を浮かべ酔を成す 白衣の酒

含艶耐寒青女霜   艶を含み寒に耐ゆ 青女の霜

誰與此花同晩節   誰か此の花と晩節を同じうせん

盡歓韻士楽重陽   歓びを盡して韻士 重陽を楽しむ

          (下平声「七陽」の押韻)

<感想>

 「青女」は、李商隠の詩に「青女素娥倶耐寒」とありますが、「霜を降らせる天女」のことから、霜を表す言葉ですね。特に、「重陽」とか「菊」を題材とする詩には、上句の「白衣酒」と対でよく見られますね。

 尾聯の「韻士」は、「風雅を愛する人」つまり、詩人を表しています。
 世俗の汚れが洗い流されたような、透明感のある詩になっているのは、尾聯の明解さによるのだと思います。仕上げの完成度が全体を整えるということですよね。

2006. 1. 4                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第202作は 柳田 周 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-202

  新宿御苑        

菊花競艶蘆簾裏   菊花艶を競ふ 蘆簾ろれんの裏

桂葉滋香草蓆中   桂葉香をす 草蓆の中

口哨誰能声切切   口哨誰か能くするや 声切切たり

御園遊歩信秋風   御園の遊歩 秋風にまか

          (上平声「一東」の押韻・起句踏み落とし)

<解説>

 久しぶりに立ち寄った新宿御苑はちょうど菊花展の最中でした。
 池の近くにある桂の落葉が、芝の中から微かながらよい香りを放っていました。大木の下で誰かが巧みな口笛で、唱歌や童謡を吹いていました

<感想>

 前半は御苑の菊の様が思い浮かぶ対句になっていますね。
 転句は、解説を読ませていただくと、たまたま口笛が聞こえてきたということで、「切切」はその音色が「かすかに聞こえた」という意味に解釈しました。「もの悲しく音色」とも取れますが、そこまで出す必要はないでしょう。

 この口笛が聞こえたことと結句の「遊歩信秋風」との関係は、口笛と秋風を重ねているのでしょうか。少しつながりが弱いように思います。
 口笛を生かすならば結句の「秋」を、秋風を生かすならば転句を替えるような形で、雰囲気だけに流れないような工夫が欲しいと思いました。

 平仄では、各句の頭が全て仄声になっていますので、平声をどこかに入れたいですね。

2006. 1. 4                 by 桐山人


謝斧さんから感想をいただきました。

詩は景物を叙した前対格で、一句全体が情思が少ないように感じます。
こういった詩は難しく、景物を化して情思と成し、詩外に詩人の温柔敦厚の意を感じさせなければ、平板な内容になります。

2006. 1. 8               by 謝斧





















 2005年の投稿詩 第203作は 柳田 周 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-203

  晩秋        

風鳴楓葉催黄落   風は楓葉を鳴らして黄落をうなが

雨褪菊花還暗流   雨は菊花を褪せしめて暗流に還る

鮭激衰身遺子処   鮭の衰身をはげまして子を遺す処

可憐人亦各勝秋   憐れむべし 人亦た おのおの秋に

          (下平声「十一尤」の押韻・起句踏み落とし)

<感想>

 前半の叙景から、鮭を連想するところが、劇的な展開で面白いですね。どこから浮かんできたのか、作者の発想を追うのも楽しいです。
 ただ、結句の「各勝秋」とのつながりが、やはり苦しいですね。気持ちはよく伝わりますので、用語の問題だけだと思いますが。

 もう一つは、「鮭」を「シャケ」と解するのは日本語用法で、漢文では「フグ」になってしまいます。「フグ」に「衰身遺子」という習性があるのか、日本人にはイメージはすぐに浮かぶのですけどね。

2006. 1. 4                 by 桐山人


柳田 周さんからお返事をいただきました。
 ご指摘真に恥ずかしく存じます。
 少し心配だったので『漢字源』を引いてその第一義にサケとあったため使用したのですが、ご指摘を戴いた後、『字通』、『大字源』を調べ、「フグ」が本義で「サケ」は日本用法と知りました。
『漢字源』では鮭字の旁「圭」について「土を三角型に盛った土盛り。のち、先端の△型にとがった玉器をいう。」とあり、また「三角形にとがった、形がよい」の意を与えて第一義を「サケ」としているのに対し、『大字源』では「恚(いかる)」を与え、腹を膨らませる様子を「怒る」として「フグ」を第一義にしています。
 ここは「鮭」に換えて「魚」にしたいと思いますが、そうしたとしても「衰身遺子」との関係は日本人にしかわからない、という事かも知れません。

 「各勝秋」については、「秋」には「秋髪」「秋顔」の語などからの類推で「老(年)」の意があると思ったのですが、確かに一人よがりだった様です。

2006. 1. 5                by 柳田 周





















 2005年の投稿詩 第204作は 嗣朗 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-204

  拝雨中金剛院     雨中の金剛院を拝す   

晩節雲流若狭州   晩節雲は流る 若狭の州

遊人未老立楼頭   遊人未だ老いず 楼頭に立つ

天梟乱正如煙水   天は梟乱 正に煙水の如し

楓寺無常冷雨愁   楓寺無情 冷雨愁える

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

 11月16日若狭と金剛院(もみじ寺)の旅に参加した。
 大阪を出発のときは快晴、今津を過ぎる辺りより雲行きが怪しくなり、小浜では雨となった。もみじ寺の金剛院に到着、雨の中、百余段の石段を黙々と登り紅葉を楽しむ。晴天であれば?と誰もが思ったであろう。
 若狭や北陸の天候と、こちら太平洋側の天気の違いを味わった。
 その中、還暦や古稀を迎えた若者が、雨の中傘を差し石段を黙々と登る様は言葉にならない。

<感想>

 押韻の「下平声十一尤」に属する字が、ここでは、「流」「遊」「楼」が使われています。「楼」は「畳韻」だとしても、「流」と「遊」は出来れば避けたいところ(「冒韻」)です。
 転句は、「正」が下の三字に掛かっていきますから、読み方としては、「天梟乱 正如煙水」と切り、本来の「二・二・三」のリズムが崩れていて、読みにくい句になっています。「正」は、ここでは不要に思います。

 全体のもたらす風情は落ち着いたものがありますので、転句を少し直すだけで、良い詩になると思います。

2006. 1. 5                 by 桐山人


嗣郎さんから、お返事をいただきました。

明けましておめでとうございいます。今年も拙い漢詩ですが挑戦しますので宜しく御指導ください。
御指導頂きました漢詩につき、自分なりに推敲し以下のように訂正したいと思います。

   秋染白雲若狭州   秋は白雲を染む 若狭の州(くに)
   行人未老上僧楼   行人未だ老いず 僧楼に上る
   曇天梟乱如煙水   曇天梟乱 煙水の如し
   楓寺紅飛照客愁   楓寺紅は飛び 客愁を照らす



2006. 1. 7                by 嗣郎





















 2005年の投稿詩 第205作は 登龍 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-205

  訪黄葉寺        

山行七里錦楓稠   山行七里 錦楓稠し

染出閑庭立寺頭   染め出す閑庭 寺頭に立つ

滿目燦然濃淡色   滿目燦然 濃淡の色

鐘聲誘我試清遊   鐘聲我を誘ひ 清遊を試す

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

 このページの投稿者はハイレベルの方が多いですね。晩学、力不足ですが、頑張りたいと思っています。宜しくお願いします。

 鈴木先生著 「漢詩はじめの一歩」を繰り返し繰り返し読ませて頂いています。非常に立派な本だと感心しております。こんなに丁寧に基本事項が書いてあるのは初めてです。
 例えば五言絶句の押韻は偶数句の末であるが七言絶句は偶数句末と第一句の末に押韻する理由が書いてありはっきりしました。知っていたつもりが案外知らなかったことに気がつきました。有難うございます。

[大意]
  山歩きをして七里、錦のように紅葉した楓が密生しており、
  秋の霜に染め出したような寺の庭の辺りに立つ
  見渡す限り濃い色と薄い色
  鐘の音は我を誘ひ清らかな遊びを試す

<感想>

 起句から転句まで、「錦楓稠」「染出」「濃淡色」とあえて続けることで、山歩きからお寺まで、辺り一面ずーっと紅葉に包まれていた、という視覚的な感動を描き、結句で「鐘聲」と聴覚を持ってきた点が、作者の工夫のところでしょうか。

 場面の広さということから見ると、起句から承句で作者の視野が絞り込まれてきて、転句で「満目燦然」と、また広げているわけです。
 その広がり感をそれほど違和感なくさせているのは、承句の「立」の字でしょう。それまで歩いてきた作者がここで「立」ちどまり、後を振り返り、辺りを見回し、一面の紅葉に改めて感動したという動きが、この「立」に示されているとも言えます。
 私は、この起承転の展開も面白いと思いました。

 結句では「試」の字が、よく分かりませんでした。

2006. 1. 5                 by 桐山人






















 2005年の投稿詩 第206作は土浦市の 人正 さん、五十代の男性の方からの作品です。
 お手紙には、「水墨画に載せる漢詩を作りたいと思い、このページにアクセスしました。現在、漢詩を習う先生が見つからないので、このページは非常に心強いです。よろしくお願いいたします。」と書かれていました。
 こちらこそ、よろしくお願いします。

作品番号 2005-206

  思冬至     冬至に思ふ   

買暦縫衣只待春   暦を買ひ 衣を縫ひ 只春を待つ

光陰如矢総為塵   光陰矢の如く 総て塵となる

昔時学舎思交誼   昔時の学舎の交誼を思ふ

君逝前年涕涙新   君逝くは前年か 涕涙新たなり

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 来年の暦も買ったし、衣服も準備したし、後は正月を待つばかりだ。この1年を思い出すとあっという間に過ぎていってしまったな。昔の学生時代の友達との交流を思い出す。そう言えば、君が亡くなったのは去年の今頃だったと思うとまた涙が出てくる。

<感想>

 年末の慌ただしさの中、ふと昔を思い出すことがありますが、歳を重ねてきますと、単に青年時代への哀惜だけでなく、友の訃報とつながることも出てきます。時の流れを一層感じさせられ、寂しい思いがつのるのは、私自身も体験したことですので、この詩のお気持ちもよく分かります。

 詩としては、そうした気持ちを短い字数の中で、いかに効果的に表現するか、ということになります。
 前半は、起句の読み下しを「只春を待てば」と条件接続にして、「準備を整えて新年を待っていると、今年一年のことが思い出され、それはあたかも矢のように過ぎて行くようで、全てのことが塵のように消えていく」という感懐がよく出ていると思います。
 そこから承句で三十年(?)前に思いは飛び、結句で一年前に戻るわけですが、年末の思いとしては、私は逆のように思います。学生時代を思いだして、その後でお友達の逝去を思い出し、しかも「涕涙新」となっていますので、妙にちぐはくした感じが残ります。
 転句と結句の内容を入れ替えるような形で句を展開すると、人正さんのお気持ちがより深く表現できると思います。

2006. 1. 14                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第207作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-207

  県市議会議長会春季総会(大洲市)随行書感        

覆山躑躅水運郷   山を覆う躑躅 水運郷

議長団欒討論昌   議長団欒討論昌んなり 

經世濟民方要諦   経世済民方(まさ)に要諦

豫州政運兆禎祥   豫州の政運 禎祥を兆す

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 平成16年5月作詩
 昨年度北条市最後の議長会出席でした。もう今年は北条市議会議長という要職もこの世から消え去っています。諸行無常です。承句はお手盛りの批判もあるかもしれませんが、私には皆さん能力のある選良に見受けられましので。

 経世済民―まさに政治家に心して欲しいですね。

<感想>

 起句の「運」は仄声ですので、「二六対」が崩れていますから、ご注意ください。

 結句の「豫州」は「伊予の国」、転句の「方要諦」は、議長会での討論の根底に「経世済民」の考えがあったということで、愛媛県の明るい未来を行政の立場から詠ったものですね。

 起句の叙景が承句と分離していますので、全体的に説明・記録的な文章のような印象です。起句の描写を転句に置くような構成にすると、詩として躍動感が出るのではないでしょうか。

2005. 1. 14                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第208作は 佐竹丹凰 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-208

  芒種後偶題        

膝痛心如挫   膝痛に心挫くるが如く

行忙内外科   行くに忙はしき 内外の科

雲垂梅雨近   雲垂れて 梅雨近く

樹茂鳥聲多   樹茂りて 鳥声多し

牆角逢人話   牆角 人に逢ひて話し

店頭求酒過   店頭に酒を求めて過ぐ

空房凭一榻   空房 一榻に凭り

暗暗奈愁何   暗々たる愁ひを奈何せん

          (下平声「五歌」の押韻)

<感想>

 身体のどこかに痛みを持っていると、気持ちも滅入り、連鎖的にあちこちが痛み出すことも多いのですが、そこに更に天候の穏やかならぬ様子が加われば、一層嫌になりますね。

 ただ、そうした中でも景物を眺める目を忘れないのは素晴らしいことです。
 最後の句の「暗暗奈愁何」は言葉としては重いのですが、前聯の描写が明るさを出していますので、「やれやれ、困ったものだ」の軽さを感じさせてくれます。

2006. 1. 14                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第209作は 禿羊 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-209

  送樊同事俄辞職去東京     樊同事の俄かに職を辞し東京に去くを送る   

一年友誼了今宵   一年の友誼 今宵に了る

含笑交杯転寂寥   笑を含んで杯を交すも 転た寂寥

東西分手浪華陌   東西 手を分つ 浪華の陌

颯颯秋風銀杏飄   颯颯たる秋風 銀杏飄る

          (下平声「二蕭」の押韻)

<解説>

 大阪で勤めている会社に中国人の同僚がいて、中国語を教えてもらったりして、親しくしていたのですが、この秋急に東京の会社に移ることになり、二人でお別れに一杯やりました。

<感想>

 転句の「浪華」は、地名として使っておられるわけですが、「浪」の字が効いて、川沿いの道というニュアンスが生きていますね。
 別れの宴を「含笑」とされた点が、その後の「寂寥」と対照されて、感慨を深めているでしょう。
 転句から結句の流れも自然な動きで、別れの一時をそのまま切り取ったような趣、余韻を効果的に残した詩ですね。

2005. 1.16                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第210作は 謙岳 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-210

  郷夢        

野畦成群赤卒飛   野畦 群れを成して 赤卒飛び

江辺茅屋帯斜暉   江辺の茅屋 斜暉を帯ぶ

家山夢醒懐郷切   家山の夢醒むれば 懐郷切なり

樹上鵑聲頻促歸   樹上の鵑聲 頻りに歸を促す

          (上平声「五微」の押韻)

<解説>

 「郷 夢」=故郷の夢を見る。
 「懐郷切」=帰心が切なり。
 「鵑 聲」=ほととぎすの鳴き声。

<感想>

 転句の「家山」は、「故山」と同じで、「故郷の山」です。
 また、結句の「鵑聲」は、周末の望帝(杜宇)が死後、杜鵑(ホトトギス)と化し、いつも故郷を偲んで啼いたという故事と重なりますから、詩意をより深める効果を出そうという作者の工夫が感じられます。

 起句の「畦」は平声ですので、ここは仄声の言葉に替える必要がありますね。>

2005. 1.16                 by 桐山人