平仄は本当に必要?
私の意見 大特集




1999.8.26

私の意見1[徳島県・落塵さん(40代男性)]

 淳次先生お晩です。
 平仄については、私も昔から疑問に思っていながら答えを見つけられずにいます。これに明快に答えられる域に達したら、平仄規則をはずした漢詩を作れるようになると確信しています。(ちょっと矛盾してるかな?)

 人間は形からはいらなければ、なにも表現できないし、心も通じないという悲しい性を持っています。相手を思いやる心があればそれだけで良いと思ってみても、便りするなり、中元を届けるなり、賀状を書くなりの表現というか、形がどうしても必要です。
 ですから、「形」は虚礼にならぬよう、必要だと思います。

 少し意味は異なりますが、特に日本などの東洋文化はそうです。
 茶道、華道、書道、柔道、剣道、およそ道のつくものはすべて最初は形から入ります。一つ一つの動作に決められた形があり、意味があります。師匠に教わった形を真似て一流を立ててのち自分なりの工夫をこれに付け加えます。

 短歌にしても、語の制約があり、日本語もこれでリズミカルに光るように思います。最近ではイレギュラーな音の並びもありますが、卓越した才能の方が作るとそれなりに趣があるようです。
 これは、中国の天才も時折韻などを落としたり、同じ字を使って変則なことを試みていますが、それはそれなりに面白い気もします。

 しかし、字の音も知らない、まして本場の方の発音まで変わってしまった現代にほんとに平仄は必要なのかなと思うのが本音です。でも、「守破離」ではありませんが、満足に漢詩も読めない自分ですから、師匠が言うとおり復唱するように{平平仄仄仄平平}とやってます。

 漢詩といえば古典ですから、しょうがないのでしょうかね。短歌を英語でやってもちょっと無理があるように思います。近頃この手の試みが多くて、雨上がりの竹林のようです。
 で、これらの試みも年を重ね、芸術の域まで達し、多くの人が認めて、時代を超えて評価され受け継がれると、完成された「形」となって、古典といわれるようになるのだと解釈しています。

  -----------余談(私は思う)-----------
 自然科学はどんどん時代と共に発展します。
 しかし、人文科学はどうも遅々として進んでいない、いやむしろ後退しているように思えます。
 それは、自然科学が時を越えて伝承できるのに対し、文学や芸術は感性を鍛えることによってのみ伝承が可能なゆえんだと思います。師匠よりも弟子の感性が劣れば必然にその技術や表現は劣ったものになってしまいます。

深い哉千古葩経の旨〜♪♪♪

こんなことばかり言ってるから、事業儲からないのでしょうね、きっと。



















1999.8.31

私の意見2[東京都・鮟鱇さん(50代男性)]

鈴木先生、鮟鱇です。
平仄について、意見を述べさせていただきます。

kenさんの問題提起:
 辞書を開かなければ、中国の人でも判らない平仄を、現代でも守る必要はどの程度あるのでしょう?
 平仄条件を無くしさえすれば、漢詩はまだまだ寿命を長らえ得るのではないだろうか、という、僕のまことに平凡な意見は、きょう現在の時点でどの程度の支持が得られるのでしょうか。

私:鮟鱇の意見:
 最近、現代中国の方の詩を読む機会がありました。同じ漢詩でも、わたしが作るのとちょっと違うなという印象がありました。
 当たり前のことを、しかし明快に、あまり技巧をこらさずに述べているという印象。
 芸術的、あるいは詩的雰囲気をめざすのではなく、作者の所感が、わかりやすく展開されているという印象。

 漢詩に限らず、「詩的感動」というものがあります。というより、わたしは、そういものがあるという教育をこれまで受けてきていて、詩作といえば、そういう感動を呼び起こすものを作ることだと考えがちです。
 そして、そういう詩は、一個の「芸術」となります。
 しかし、「詩」ははたして「芸術」なのかどうか。
 詩を作る喜びが、はたして「芸術作品」を作ることなのかどうか。

 平仄、韻、韻の踏み外し、反法粘法、対句、起承転結、そういう「絶句・律詩」における決まりごとを、わたしは、画家が絵の具の性質を熟知しようとするように、学んできました。しかし、その間、何を題材として描くかを学んだかどうか。あるいは、わたしが書くことを喜びとしたい対象を描くのに、「絶句・律詩」という形式が本当に適しているのかどうか。

 いろいろ疑問がめぐります。

 前置きが長くなりました。
 kenさんの質問の前提として、ひとつ混乱があるように思います。それは、kenさんは、漢詩=絶句・律詩だと思っていらしゃるのではないかということ。漢詩といとくちにいっても、平仄がやかましく議論されるようになったのは絶句・律詩以降のことで、絶句・律詩のルールは、絶句・律詩についてのみ適応されるものです。
 また、平仄をまったく無視しているわけではありませんが、「宋詞」という「絶句・律詩」とは別の詩形もあって、その数は2000を超えるとも言われています。
 2000の詩形があるということは、みんながそろって同じ詩形の詩ばかり書いていたのではなく、誰かが自由に書いた詩が素晴らしいということがあって、その詩形を借りて別の詩を作るということがさかんに行われ、新しい詩形として残ったということではないかと思います。

 また、新しい定形詩のジャンルとして、日本の中山先生という漢詩人が提唱した「曄歌・坤歌」という詩形が中国詩詞学会で検討され、よし作ってみようかということで、中国でさかんに作られはじめています。
 簡単に紹介しますと、全十字の詩です。3・4・3字で詩を構成します。韻は、3・4・3の適当な区切りで踏みます。最低2個所、最大3個所の押韻です。平仄は問わない、というのがおおまかなルールです。また、日本人の作については、韻を踏まなくてもよいということが、現時点でのコンセンサスとなっています。

 こういうことをみてみますと、わたしには、「絶句・律詩」は広義の意味での漢詩のなかでは、ワンノブゼムではないかと思えます。
 しかし、歴史があり、とても実績のあるワンノブゼムですから、これを変えようというのは難しい。
 しいていえば、平仄のルールを撤廃して、「新絶句」とか「新律詩」とかの名前を付ければよいのでしょうけれど、2000もある詩形のなかで、敢えて「絶句・律詩」だけを取り出して「新」を付けるよりは、ただ「詩です」といえばよいのではないかと思います。
 一般にそれらの詩は「古詩」とも呼ばれて、漢詩世界のなかで立派に「市民」権を得ています。

 もうひとつ。kenさんのおっしゃっている「中国の人でも判らない平仄を、現代でも守る必要はどの程度ある」かという問題。
 これは、確かに、絶句・律詩を守る立場からは、とても深刻な問題です。
 ただ、絶句・律詩を作る場合に、現代でもさかんに用いられている「平水韻」に変わる新しい「韻」の体系があるかというと、現代中国において合意を得るに足る韻の体系はないようです。「普通話」があるとはいえ、「普通話」の韻の体系で詩を書く人は、それほどいないようです。
 歌の世界では、北京語よりも広東語がむしろ流行しているという話も聞きました。
 普通語は公用語ですが、詩にはふだんの言葉のほうがよいということでしょうか。

 最後に。
 ひとくちに平仄といっても、四声としての発声の原理としての平仄と、絶句・律詩をつくる際の規則としての平仄を、わけて考えなければいけないと思います。
 結論をいえば、漢語で詩を作るうえで、発声の原理としての平仄は、十分留意する必要があるが、絶句・律詩の平仄(平水韻)については、それを墨守することには迷いがあるというのがわたしの意見です。
 中国語はわれわれの日本語と違って四声(高低のアクセント)が重要な言語です。平仄の基本原理は、平声ばかり、あるいは仄声ばかりが長く続くと、発音が難しくなるようです。
 この条件のもとで平仄についてのさまざまなルールが中国・唐の時代に研究され、絶句・律詩の平仄ルールを形成したものと思います。

 平仄のルールとは、「平平仄仄平平仄仄......」 という繰り返しを基本原理として、適当に区切って「句」を作ることです。
 この基本原理にしたがえば発音が容易であり、その句の調子がよくなります。
 そこで、2・2のパターンを「平平平仄」、あるいは「仄仄仄平」など3・1、1・3のパターンに置き換えることはまあまあ許され、0・4あるいは4・0となることは特別な理由がない限り忌避されるというのが、平仄の基本原理です。

 平仄を踏み外した有名な句に、杜牧の「南朝四百八十寺(平平仄仄仄仄仄)」というのがあります。下五字がとても読みにくい。そこで「十(仄)」を「什(平)」に変えて読むそうです。

 すでに触れたことですが、中国には唐詩のほかに宋詞、元曲と呼ばれる古典詩形があります。
 これらは、一般に「詞」と呼ばれて「唐詩」とは区別されていますが、広義の意味では立派に「詩」です。
 わたしたち日本人は、「詩」はたくさん作りましたが、「詞」はあまり作りませんでした。そこで、明治になって新しい詩をめざしたとき、「詩」ということばをその新しい詩に用いたのですが、いわゆる「自由詩」を「詩」と呼ぶのであれば、「詞」は日本の自由詩以上に「詩」です。

 そして、それらの「詞」に、その時代時代の平仄があるのも事実。
 現代中国語の普通話でいえば、第一声、第二声が「平」、第三声、第四声が「仄」、と考えてよいようですが、「平平平平平」あるいは、「仄仄仄仄仄」となっては、発音が早口言葉か何かのようで、とても難しくなってしまうそうです。
 そのようなことがありますから、何も「平水韻」にこだわることはないと思いますが、平仄について一定の配慮は必要ではないでしょうか。
 ちなみに、上記の杜牧の「南朝四百八十寺」は、普通話の平仄では「平平仄平平平仄」となります。七言句の平仄の「二四不同」に合致せず、「二六同」には合致しています。

 唐の時代には、発音がとても難しかったものが、現代ではそれほど難しくなくなってしまったのです。なんともはや、であります。
 そうすると、いくら「平水韻」準拠の平仄に100%合致した絶句や律詩をわれわれ日本人が作ったとしても、普通話に近い北京語をネイティブとしている中国の人々には、「平平平平平平平」となってしまう句を作ってしまうことになります。
 とすると、あの世で李白や杜甫に教えを乞うつもりで詩を作るのであれば、「平水韻」だけで作ればよいのですが、現代中国の人にも読んでもらいたいと考えるのであれば、現代中国語の勉強の必要です。
 また、現代中国の人に読んでもらうことだけを考えるのであれば、「平水韻」は要らないと思います。

 で、最後にわたしはどうかといいますと、やはりあの世で李白や杜甫の教えも請いたいと思っていますから、絶句・律詩の場合には水平韻にこだわって作ります。
 ただ、現代中国の人に、流麗であるといわれるのも大変うれしいことですので、普通話の声調にもこだわります。
 もしかするとわたしは、ほんとうは「詩的感動」などには興味がなく、ふだん日本語であると思って使っている漢字は、これはもしかすると「外国語」なのだということに、興味をもっているだけなのかもしれません。
 つまり、日本人としてのアイデンティティを、我が国古来のやまと言葉だけにではなく、一衣帯水の大陸との関係を含めて、確かめたいだけのことかも知れません。

 わたしの漢詩歴は現在2年と4か月です。
 この間に作った詩は、たった十文字の曄歌も含めてですが、1500になります。
 多いのか少ないのか知りませんが、いちおう500も作れば、平仄にはそれほど苦労しなくてもすむという実感があります。
 平仄にあまり苦労しなくてもすむようになると、あとは、いくらでもできるという実感もあります。
 最初の8カ月でできたのは、50首でした。次の一年は、450です。 そして、今年の1月から現在まで8月で、曄歌も含めてまもなく1000首になります。
 平仄にあっているかどうかはともかく、平仄を無視したことは一度もありません。

わたしの結論:
 よい詩ができたかどうかは作者には最後までわかりません。
 ただ、たくさん詩を書きたいと考えるなら、ぜひ平仄を考えてください。
 平仄にあわせて詩を作ることは、結果として、生産性を高めることです。

[おわび]
 kenさんからのお手紙を私が全文紹介しなかったので、誤解があるといけませんので、一言。
 「kenさんは、漢詩=絶句・律詩だと思っていらしゃるのではないか」とのことですが、kenさんはお手紙で、「最近興味を持っているのは、唐詩宋詞元曲の中でも宋詞だ」と仰っていましたので、おそらく、混乱はないと思います。
 お詫びします。すみません。
        (junji)


























1999.9.1

私の意見3[新潟県・瓦礫さん(40代男性)]

 平仄についてひとこと。

 漢詩作りの苦しみも楽しみも、厄介な平仄のルールと格闘しながらなんとか詩らしきものを作り上げていくこと、そのことにあるのではないでしょうか。またルールがあればこそ破格やルール違反の面白味があるのでは。
 「ホモ・ルーデンス」という昔の本にもありました。ゲームを破壊するのはルール違反ではなく、ルールに対する無関心だと。
 平仄という漢詩創作の癌をとりのぞこうと手術をしたら、漢詩そのものが死んでしまった、という事態がおこらないとも限りません。自由に表現したいという要求が先に立てば、漢字ばかりで詩を書くこと自体がナンセンスということになるでしょう。

 現在、どうしても漢詩でなければならないという理由はもとよりないのですから、面倒でも平仄まで勉強してみようという人々以外に漢詩創作に手を染める人が多くいるとも思われません。
 漢詩というゲームに興味をもって見に来たら、ルールらしいルールもなくて、ただみんなが好き勝手にボールを投げ合っていた、というような事態になるような気がします。

 それともうひとつ。平仄という大きなルールをなくせば、世界共通という基盤をなくすばかりか、唐代の詩人たちと同じことをしているのだという大いなる幻想を捨てることになってしまうではありませんか。



























1999.9.1

私の意見4[東京都・三耕さん(40代男性)]

 今日は
 平仄は是か非かということですが、現代における観点と、私の詩作の上での考えの二通りの解釈があります。

 まず、現代日本における観点からは、ずばり不要です。理由は既に述べられておられるように、
・日本語には平仄は無く、日本人には判読できない。
・よく、「漢詩は中国の文学だから中国に通じなければ駄目だ」と言われますが、現代中国人においてすら、現代中国語音は、「漢詩」の平仄で用いる唐代の四声と大幅に変化しており、専門の教育を受けていないと判読できない。
 つまり、いくら平仄に則って詩作しても日中ともに一部の「専門家」にしか通じないものとなっていますから、現代文学としての「漢詩」には平仄は不要です。「漢詩」と言うのに語弊があれば「漢文詩」として新たなジャンルを興すのもいいでしょう。

 次に、私の詩作の上での考えとしては、詩作を「道」、所謂「茶道」「剣道」の「道」として日々向上し挑戦し続ける行為として捉えております。従いまして、平仄も乗り越えるべき課題、自己目標として勉強している次第であります。けっして他の方の作品、ましてや初心の方の作品に強制するものではありません。
 田中角栄が北京に降り立った時「漢詩」を詠んだそうですが、それを評して一部の専門家が平仄・押韻がなってないことを第一に挙げて酷評したのは残念なことです。評するなら内容を第一に挙げるべきで、それが文学者の道だと思います。江戸時代に様々な流派に分かれてしまった派閥の漢詩評論家の弁ならば別ですが。

 拙論「漢詩の間道と細道」(「漢詩の小道」続編 http://www.win.or.jp/~metanki/kadan/bai_intn1.htm)でも「名作の力」として触れておりますが、行く行くは何ものにもとらわれずに詩作してそれが「よし」と思える境地に達することを目指しております。



















1999.9.1

私の意見5[中国・河東さん(30代男性)]

 鈴木先生
 先生をはじめ、皆さんの傑作、そして先生による鋭くて且つ暖かい批評を拝見するのは大変楽しいことです。更新をいつも楽しみにしております。
 HPを開設されて、1年ちょっとの時間で、詩百首、アクセス1万回の快挙、おめでとうございます。

 さて、ご提案の漢詩改革についてですが、結論から申し上げますと、大賛成です。
 ゲーテはかつて漢詩を世界最高の文学ジャンルと言ったことがあります。最高であるかどうかは別として、最難であることは間違いないと思います。
 難しすぎると、作る人が減っていきます。新しい作品が出てこないと読者が離れていきます。最終的には漢詩の滅亡につながります。漢詩の世界も是非とも規制緩和が必要です。
 平仄の問題は確かに1句の中で全部「平」或いは「仄」ですと、リズムが悪いです。平仄の共存が必要だと思います。
 ただ、近体詩のような平仄規則は要りません。作る人の考えが規則によってかなり束縛を受けます。ただの読者でしたら、ほとんど平仄の規則を知らないでしょう。平仄の規則を守る意味があまりないではないでしょうか。
 詩はリズムだけでなく、内容、イメージ等も大切です。書く人の発想をより自由にして、もっと内容、イメージに力を注ぎたいものです。



















1999.9.3

私の意見6[長野県・京祥さん(60代男性)]

 ご無沙汰しています。お体の具合はよろしいですか。
 さて平仄についてですが、私の体験を述べさせていただきます。参考になれば幸いです。

 私の漢詩への動機は中国語で漢詩の朗読を聴いたときからです。流麗なる音調、詩の韻律の美しさ、音楽的快感は忘れられない体験でした。
 それからは漢詩の勉強と中国語の勉強をして自作の漢詩を朗読して楽しんでいます。
 漢詩における抑揚のある声音は中国語の四声に有るばかりでは無く、五絶七絶の平仄を使った詩形に有ったのでした。しかし、現代における中国語の四声は漢の時代のものとは多少異なると言われますが解りません。漢詩を日本語で読む時は平仄まつたく関係無いかも知れません。
 私は作詩のとき思うような字が見つからず苦吟するときは古体詩にします。平仄に関係なく(ゼロではないですが)造りました。古詩には古詩の難しさが有るので苦労しました。
 今は中国語読みもさることながら、対句に苦吟しています。語彙や詩語の勉強には漢詩における規則によって十分に鍛えられると思いました。
 いずれにしてもどちらともいえないですが、勉強をすればするほど近体詩に魅了されるではないでしょうか。



























1999.9.4

私の意見7[埼玉県・游惟さん(40代男性)]

 俳句から季語を取り去ったり、自由律を認めたり、といったことと同じでしょう。
 季語を含み、伝統的な韻律に従う俳句はそれはそれなりの芸術性があり、無季俳句・自由律俳句はそれなりの芸術性があります。ただ、作る人がどちらが好きか、というだけの問題だとおもいます。

 漢詩にしても、平仄や押韻にこだわっているのはむしろ日本人であり、中国の人たちはそれ程こだわってはいないようです。
 私は香港にいましたが、香港では広東語独特の韻律体系に基づく漢詩がつくられており、日本人が金科玉条のようにしている平水韻などは知らない人の方が多いようです。

 若者達の漢詩離れをくい止めるために、無平仄漢詩も認めるという考えは、それはそれなりに意義のあることでしょう。ただ、自由律俳句や英語俳句などは「俳句」とは言えないという人が多いように、無平仄漢詩などは「漢詩」ではなく単なる漢字の羅列にすぎない、という人は必ず出てくると思います。

 私個人としては、そもそも和歌や俳句ではなく漢詩を作るのは、文学的センスのなさを平仄のせいにしてごまかせるからという理由からであり、また平仄合わせのパズルのようなおもしろさを楽しんでいるからでもあって、無平仄漢詩が認められたからといって自分では作らないと思います。


















1999.9.9

私の意見8[東京都・鮟鱇さんの第2弾]

 kenさん。鮟鱇です。
 貴兄も宋詞・元曲に興味をお持ちのよし、鈴木先生のコメントで知りました。わたしも一句に長短のある宋詞・元曲に関心があり、唐詩では表現できないことも書くことができますので、面白いと思って試みてもいます。
 しかし、宋詞にも元曲にも、唐詩と同様に平仄はありますよね。韻の体系、通韻の範囲は異なりますが、唐詩と同様、むしろ唐詩以上に平仄にやかましいのでは、と思えます。ただ、詩形が2000もある。平仄のパターンがたくさんあり、通韻の幅がひろいだけに選ぶ言葉にはばがあります。
 そこで、書こうとすることに一番ふさわしい詩形や言葉をえらぶという自由があり、絶句・律詩を作るときのような閉塞感はありませんが、平仄については、むしろ絶句・律詩よりも厳格に守らなければならないように思えます。
 ちょっと、kenさんの問題提起がどのへんにあるのか、見失っています。

 さて、「平仄討論会」でみなさんのご意見を拝聴しているうちに、少々気になることがありました。
 落塵さんと三耕さんのお二人が「道」について触れられておりますが、漢詩を作ることを「道」にしてしまってよいかどうか、わたしには疑問があります。
 まず、平仄。平仄に慣れることは語学の勉強と同じレベルのことで、訓練であるかもしれませんが、道を求めて行う修行ではないと思います。
 次に詩作が「道」たりうるかどうか。技術としての柔術が柔道となり、剣術が剣道となりました。また、中国では「書法」と読んでいるものが「書道」になり、花をいけることも、お茶を飲むことも、日本では「道」となっています。
 日本人は、中国人にとっては、方法、技術であるものにある種の精神的価値を付与する才能があるといってもよいのかも知れません。
 そういう日本で、「詩」もまた「詩道」となってしまうのでしょうか。

 おことわりしておきますが、わたしは、剣や花や茶や書の「道」を、否定するものではありません。しかし、「詩」を「道」にすることには、抵抗があります。
 なぜなら、詩は「言葉」だからです。言葉は人間の心に直接にかかわるからです。
 「言葉」にかかわるものが「道」になるとき、そこにある種の絶対化が生まれてきます。「道」という言葉のもつ求心力が、人間の自由な発想を阻害し、詩の可能性を狭めることにならないか、そういうことが懸念されます。
 また、「道」には党派を作る力があります。漢詩の「家元」制度。そういう絶対化、あるいはカリスマ化を煽る危険があると思います。
 このカリスマ化は、具体的な党派を作らないまでも、わたしたちの心のなかで自然に作られていきます。これを避けるには、どうしたらよいか。
 わたしは、まず、詩を書くということは、くだらないことだと考えるようにしています。人間としての喜びや悲しみや怒りをどう書き連ねるかということを離れて詩詞が作れるとは思いません。その喜びや悲しみを詩に託して、人に読んでもらうのですから、人間としてはとても弱いわけで、その弱さをさらけだすことが「道」となり、「家元」となっていくかと考えますと、わけがわからなくなります。
 そこでわたしは、その混乱を避けるために、詩を作るのは面白いからやめられないが、本質的にはくだらないことだと思ったほうがよいと考える次第です。
 つまり、酒は体によくないことはわかっているが、飲むと気持ちがよいから飲んでしまう、そういう毒が文学にはあります。体にはよくないが、お酒を飲まなければわからない喜びや悲しみはよく知っている、詩もまた、そういう文学ではないのでしょうか。

 詩」を「道」とすることは、李白も杜甫も、そのほかの詩人も、やっていないとわたしは思いますが、ちがいますでしょうか。










1999.9.19

私の意見9[愛知県・K.Kさん(50代・女性)]

先生のHPは時々訪問させて戴いています。
今回、平仄は是か、非か、とても興味あるタイトルでしたので新人ですが、一言考えていることを書いて見たいと思います。

私が漢詩に興味を持ったのは6年ほど前になります。
漢詩に平仄があるのは詩吟の教室でわかっていましたが、そこでの先生の説明は、「この詩は仄起こりで、この詩は、平起こりです」というものでした。
先生に詳しいことを聞いても、やはり最初の字が仄字なら仄起こりで、最初の字が平なら平起こりという答。でも、それ以上お尋ねしても先生が答えられないのです。
私の先生の吟歴は、当時15年くらいだったと思います。
先生が特別知らないわけではなく、みんな知らないと感じました。
ならば、自分で勉強するよりしかたないと判断し、通信教育の漢詩講座を受講しました。

でも、一番の厄介なことは平仄でした。
半年であきらめ5年が過ぎた時に、先輩から漢詩を作るお手伝いを頼まれました。
彼女は詩吟の昇段試験に漢詩を作成して提出しなければ行けなかったのです。
二人で悪戦苦闘なんとか平仄を揃えましたが、「詩にあらず」と講評されていたそうです。
彼女は、二人の合作を提出せず、平仄無視の作品を勝手に提出していたのです。
試験ですから当然平仄は揃えなければなりません。
平仄の意味がわからないから、揃えられなかったと言っていました。

前置きが長くなりましたが、私のような新人だからこそ、平仄は絶対に必要です。
漢詩は文化です。規則のない詩は、漢詩ではありません。
才能があっても理論を軽視すればいい作品はできません。
「詩」と「道」と同じにしないでほしいとの意見もありましたが、「詩」も「道」も同じです。
どちらも作法があります。作法はなくして文化は生まれません。「道」を極めることもできません。
茶、花、書、剣、みな、長ーい伝統に培われて今日まで継承されているのは、作法を重んじるからです。

平仄を守っていたら、漢詩は途絶えるなんてとんでもないと思います。作法があるからこそ、漢詩の楽しみもあります。

極論を言いましたが、これから漢詩作成に真剣に取り組もうと考えています。
漢詩の楽しみを生涯に持ちたい思っています。

それにしても、鮟鱇さんの2年4ヶ月で1500首とは驚きです。先日の漢詩講座を受けた時は、1ヶ月に一題できれば上出来と言われました。難しく考えない方がいいのでしょうか

辞書をくくりながら、夜のふけるのも忘れさせてくれる漢詩は本当に楽しいです。
的をはずれた投稿かもしれませんが、お許しください。








1999.10.7

私の意見10[神奈川県・郤山さん(60代・男性)]

 漢詩の歓びは、二つあると思います。
 一つは漢字によって紡ぎ出される詩文と詩文が醸し出す情感を楽しむ歓びであり、もう一つはその情感を声にして「うたう歓び」です。
 中国の昔にあっては、この両者はまさしく一体のものであったはずです。そして、この「うたう歓び」を窮めようとして韻律や平仄のルールが作られたのでしょう。
 日本に渡来した漢詩は、その時点で、漢語が持つ独自の「うたう歓び」を捨てなければなりませんでした。しかし、やがて音訓混交の読み下し法が定着するにつれ、日本の漢詩として、独自の「うたう歓び」を取り戻し、千年の歴史を積んできたのだと思います。
 本家の中国においても、いまや古い韻律や平仄にこだわっていては、詩の持つ「うたう歓び」が味わえないという悩みがあるのでしょう。私たちが今日、耳にする、あの歌うような、語るような中国語による詩の朗読は、現代中国語によってうたわれています。
 詩が持つ「うたう歓び」の側面に対して、われわれはどのような態度で臨めば良いかというのが、今回のテーマかと思います。
 一言で結論を言えば、「各自各様、好きなように楽しむべし」という当り前のことになると思います。
 ただし、平仄を重視する人も、こだわらない人も、漢詩が持つ「うたう」側面を考えないわけには行かないと思います。平仄を重視する方は、その時代の中国の詩人がどのように「うたった」かに思いを馳せるわけですから、漢音にせよ呉音にせよ、まず音読みの漢詩を楽しむべきだと思いますし、平仄にこだわらないという方は、自分が「うたう」とすれば、どのように「うたいたい」かを主張するのですから、読み下し文が洗練された詩文であることに、拘らなければならないと思います。

 最後に私の立場について言わせていただきます。
 漢詩は詩を通して、現代の中国人と心を通わせる事が出来ます。しかし心が通うだけでは、何も詩である必要はありません。詩であるからには「うたう歓び」を備えたものでありたい。しかも、現代中国語と日本語の両方でうたってみて、満足できるものでありたい、と考えています。
 とは言っても、私の中国語はまだまだ初級の段階ですから、とても中国人の音韻感覚を満足させらる詩を独力でものにすることは出来ません。結局、詩心のある中国人に詠んでもらい、アドバイスを受けてから仕上げる、というプロセスになります。
 漢詩と中国語の両方を追いかける。道、はなはだ遠しです。