第121作は 舜隱 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-121

  偶出      偶々出づ  

市中江上唯人人   市中江上 唯人人

壓堡從何千萬民   堡を圧す何れよりか千万の民

火蕣煌煌留我眼   火蕣煌煌たり我が眼を留むるも

目開亦入落花塵   目開けば亦入る落花の塵

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 [訳]
 街の中も川辺も見えるのは唯人、人、
 土手をおし崩すような群集はどこから出てきたのだろうか?
 『火の槿』はきらきらと輝いて私の目をくぎづけにするが、
 目が開くと今度は落ちてくる『花』の塵が入ってくる。

 部屋を整理していたらこんな詩が出てきました。友人達と花火大会を観に行った時に作ったものです。
 打ち上げているすぐ傍まで行ったので、灰などが落ちてきて時々目に入るのですが、その時に即興で作ったものだったと思います。ただ、即興であったために平仄が正確ではありませんでした。と言う訳で、多少手直しをして投稿させて頂きました。

 詩の中の『火蕣』と言うのは私の造語だと思いますが、花火の次から次へと上がってくる様子から、韓国語で「ムグンホァ(無窮花)」と言う程咲いては散り、散っては咲く槿の花を連想したものです。これは私が槿を好む理由です。

 又、鮟鱇先生には私のような者の為に素晴らしい詩を作って頂き、お礼の申し上げようもありません。詩には詩で御返事を差し上げるのが礼儀でしょうが、如何せん浅学菲才、それも侭なりません。また折を見て投稿させて頂きたいと思いますが、そのときは又、宜しくご指導をお願い致します。

<感想>

 舜隱さんからの投稿2作目、今回も楽しく読ませていただきました。
 今回は花火大会での体験を詩になさったようですが、即興の感覚を大切にしながら、言葉を厳選していくのが詩作の楽しみです。特に漢詩の場合には、平仄を合わせる関係からも、多くの場合は後で見直しが必要になります。その時に、初めの感動をどれだけ見失わずに推敲を進められるか、それが大切でしょう。
 さて、今回の詩ですが、気の付いた点をまとめておきますので、ご参考までに。
起句「唯人人」はすべて平字ですので、リズムが平板になります(「下三平の禁」)。「人人」は良いと思いますので、「唯」を他の仄字の言葉に変えたらどうでしょう。「更人人」などではありふれていますか?
承句:この句だけを見ると何も問題は無いのですが、起句で「唯人人」と人出の多いことを表しているので、ここの「千萬民」は意味が重複していますね。三文字分、何かこの日の花火大会を象徴するような表現を入れてみたらどうでしょう。
転句「火蕣」は、仰るとおり、説明が無ければ分からない言葉です。語注を付けるか、隠喩としてここでは花のことだけを述べ、花火と分からせるために詩題に「花火大会云々」と入れるか、何らかの手だては必要でしょう。
 花火を楽しみ、それによって詩も楽しむ、一挙両得の楽しみでしたね。


2000.10. 2                 by junji





















 第122作は ニャース さんからの作品です。
 「帰郷」という題でいただきましたが、副題として「六月回故郷、離郷已有二十年」と書かれていました。

作品番号 2000-122

  帰郷        

鉄路車窓映緑田   鉄路の車窓 緑田映し

帰郷今日見桜川   帰郷 今日見る桜川

聞君早嫁為賢母   聞く 君 早く嫁ぎ賢母と為るを

半過人生白髪憐   半ば過ぎたり 人生 白髪を憐れむ

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 仕事の関係で久しぶりに故郷に行きました。
 実際に友人達に会ったわけではなく、わがマドンナの消息を聞いたわけではありませんが、すでに40代直前。われもおじさん。君も多分...
 転句は「已嫁称他姓(已に嫁ぎ他姓を称す)」としたかったのですが、ちょっときれいすぎるかな、と思いやめました。
 しかしまさに人生如夢。とほほほ。



<感想>

 私自身は生まれて以来、故郷を離れて生活したことのない人間ですので、「帰郷」という心情を直接に体験したことはありませんが、でも、ニャースさんのこの詩の気持ちはとてもよく分かります。
 転句の「聞君早嫁」はよく目にする表現ですが、その後、「為母」というところまで聞いてしまったところに、マドンナへの思いが表れていると、妙に納得しました。
 あと、結句の形で終結させるのでしたら、前半に「故郷は昔のままの野山の風景だ」と少し転句の人事との対比をしておくと、全体のまとまりが生まれると思います。

2000.10. 2                 by junji





















 第123作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 オリンピックでの女子マラソン、金メダルの高橋選手についての作品です。

作品番号 2000-123

  慶祝高橋選手冠軍        

百載待望如夢馳,   百載の待望、夢の馳せるがごとく

南天赫赫日章旗。   南天に赫赫たり、日章旗。

高橋選手開顔好,   高橋選手、開顔好(よ)し

老少一心傾祝卮。   老少一心、祝卮を傾く。

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 高橋選手のオリンピックマラソン優勝、とても感動しました。初の女子陸上優勝、百年の歳月。
 お昼は妻を誘って中華料理を食べました。祝杯をあげたのは少々便乗気味かも。

 結句については、別に「誰責乗機醉祝卮(だれか責めん、機に乗じて祝卮に酔うを)?」というのを考えましたが、ここは素朴な喜びを大事にしたいと思います。

 [訳]
 百年待ち望んだことがまるで夢のように過ぎて、
 シドニーの空に明るく日章旗が輝いている。
 高橋選手の笑顔がとてもよくて、
 老いも若きも心をひとつにしてお祝いの大杯を傾ける。

<感想>

 高橋選手のオリンピックでの走りを見ながら、何とも不思議な気持ちになりました。国中の期待を受けた中で、当然のように結果を出す、こんなたくましい日本人の姿を見るのは初めてのように思います。
 勿論、この本番に来るまでに数限りない努力や苦しみもあったのでしょうが、彼女の晴れ舞台にはそんな影は微塵もなく、強靱な肉体と精神の力を感じるのみでした。これは、おそらくこれまでの日本人のメダリスト達とは全く異なる姿だったのではないでしょうか。こんなに日本人は強くなったのか!と、私は感動していました。
 そして、もう一つ感じたのは、同じ女子マラソンの有森選手が数日後の新聞に載せていた文章でした。彼女は高橋選手の走る姿をシドニーで見ていたのですが、このマラソンの後、「自分はまだ、レースを外から見ている人間ではない」と強く思い、トレーニングに戻ったそうです。
 年齢や体力、気力の衰退、色々なマイナス要素が人間にはつきまとうわけですが、高橋選手の姿には何度でも壁に立ち向かっていく勇気を、それを力まずに自然な形で持たせてくれたように思います。
 彼女の走りから、同じように勇気を感じた人が多かったのではないでしょうか。

2000.10. 2                 by junji





















 第124作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-124

  雑 賦        

半酔詩成閑草堂   半バ酔イ 詩成ッテ 草堂閑ナリ

日傾西岫影催涼   日ハ西岫ニ傾キ 影 涼ヲ催ス

清秋欲近蛩鳴廡   清秋 近カラント欲シテ 蛩 廡ニ鳴キ

朱夏恨過蜩噪廂   朱夏 過グルヲ恨ンデ 蜩 廂ニ噪ガシ

空笑玉箋充綺語   空シク笑ウ 玉箋ノ綺語ニ充チルヲ

自憐酒盃映繁霜   自ラ憐レム 酒盃ノ繁霜ヲ映ズルヲ

我身無作老閭里   我身 作無ク 閭里ニ老ユ

六十人生以奈量   六十ノ人生 奈ヲ以ッテカ量セン

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 秋。この言葉に,そこはかとなく哀愁を感じるのは,日本人の独特の感性なのでしょうか。ましてや、高年と言われる年齢に達した小生にとっての秋は一層の哀感を感じさせる言葉であり又季節です。
 先に投稿しました『村居雑賦』では,閑適に浸る楽しみを賦しましたが,この「 雑 賦 」では老い行く我が身の切なさと、無為に過ぎた人生に対する迷い,そして老い行くことへの不安を表現出来たらと作詩を試みました。
 諸先生のご批評,ご指導をお願いいたします。

<感想>

 秋も深まり、色々なもの思いが胸を去来するこの頃ですね。
今回の作は、秋の寂しさと人生の深まりとをうかがわせる内容で、しみじみと感じさせていただきました。
 第6句、「酒盃映繁霜」は、「映」の字の用法として、これでは「酒盃」「鬢霜」「映」ったの意味になるように思います(主語と客語が逆)が、いかがでしょうか。
 第7句、「無作」は、「無産」の意味でしょうが、1句目に「詩成」とあるせいか、詩が無いのかとも思い、「??」という感じでした。「無為に過ぎた人生」を表す言葉は沢山ありますが、どうでしょう。

 前作の『村居雑賦』の 推敲作 もいただきましたので、掲載をしておきました。そちらもご覧下さい。

2000.10. 8                 by junji



 謝斧さんからの感想です。

 先生之対杖天来才 佳詩一読使人回腸蘯気 
 起聯意適頗佳也 少恨尾聯乏于収束力

 「無作」は鈴木先生が云われますように、少し杜撰ではないかと思います。
 私は「無策」の過ちで「稲粱謀が無い」と理解しましたが、それでは通じないと思います。
 「以奈量」は、読者の立場から言わせていただきますれば、やや分かりにくい表現になっています。此れからの人生に対してどう処したらよいのか量り難いとの意味でしょうか、やや詩的表現に欠けてると感じます。
 首聯と対句は相変わらずみごとだと思います。
 「空笑玉箋充綺語/自憐酒盃映繁霜」を繰り返し読みましたが、鈴木先生が云われますようなことは感じられませんでした。玉箋は綺語に充ちて、酒盃は繁霜を映すでしょうか。とくに、「空笑玉箋充綺語」はなかなか良いですね。
 頷聯の対句も感心させられますが、ただ、「蛩鳴廡」「蜩噪廂」の対句は不満がのこります。
 いつも感じることですが、先生の尾聯は、稍や収束が平板に帰すきらいがあるのではないでしょうか。

2000.10.13             by 謝斧



 真瑞庵さんからお返事です。

 両先生には、いつも適切なご指導,ご批評を頂き有難う御座います。
 愚作『雑賦』に対するご指摘、ご批評にについて小生のお答えをしたいと思います。

 第六句についての鈴木先生のご指摘ですが、主語と述語が逆転しているとは思っていません。
「酒盃」「繁霜」を映しているとの表現に誤謬は無いと思いますが如何でしょうか。

 第七句について−特に「無作」について−の両先生のご指摘ですが、この「無作」「無為」と同義で用いました。
 従って、此れと言った事もしないまま田舎暮らしのうちに年老いてしまった我が身。(我身 作ス無ク 閭里ニ 老ユ)
 第八句 こんな私の六十年の人生を何を以って考えたら良いのだろうか、です。

2000.10.23              by 真瑞庵




 謝斧さんからのご意見です。

 「無作」「無為」は同義になるでしょうか、「無為」はよく熟した言葉で、何事もしないということでは、あらゆる用例があります。
 しかし、「無作」で何事もしないということは、私の浅学のためか、用例はしりません。ただおこることがないと言う意味ではあるようです(其名為風是惟無作 荘子 齋物)
 「作」「為」はどちらとも「なす」と読むため、「無作」「なすなし」と読むということでしょうか。たしかに動作という熟語がありますが、わたくしは、「無作」「なすなし」と読むのは、何か抵抗があります。杜撰さをおぼえます。
 詩は散文とは異なり、落ち着いた言葉をつかいます、たとえ「無作」「なすなし」と読めても、「無為」が熟しきっていますので、生硬すぎると誹られることになるのではないでしょうか。我々は推敲を重ねて「無作」の様な語を排斥して、「無為」のような熟しきった言葉を捜ってゆくものと考えています。

2000.11. 3              by 謝斧





















 第125作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-125

  感秋(五言排律)        

星楡天宇晶   星楡 天宇晶かに

野廣已霜晴   野廣く 已に霜晴

軒下西風動   軒下 西風動き

窓辺白露生   窓辺 白露生ず

林深茅屋静   林深く 茅屋静かなるも

葉落素娥明   葉落ちて 素娥明らかなり

置酒人無到   酒を置くも 、人到る無く

披書心未盈   書を披いても 心未だ盈たず

誰存秋思句   誰か秋思句の

他到碧霄情   他の碧霄に到るの情を存せん

一鶴相知少   一鶴 相知少く

九皋悲寄聲   九皋 悲く聲を寄せん

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 旧稿の五言律詩を五言排律に変えました。
   誰存秋思句
   他到碧霄情
 は流水対を用いました。
 晴れた秋空に雲を排して、一鶴が空を舞い上がるのをみれば、即ち、我が心は詩情を誘われると云う劉禹錫のような心はもちあわせてはいません。寧ろ、一鶴に相知少く、奥深い野に、草を啄みて、友を呼んでいるような、寂しい気になります。

<感想>

 自然から人事への流れも自然で、まとまった詩ですね。
 確かに、秋と言えば「寂しいもの」とつなぐのが私たちの感覚でしょう。しかし、劉禹錫は秋にこそ春より心を騒がせるものがあるのだ、と主張した詩人です。『秋思』と題された詩です。

  自古逢秋悲寂寥   古えより 秋に逢えば 寂寥を悲しむも
  我言秋日勝春朝   我は言う 秋日 春朝に勝れりと
  晴空一鶴排雲上   晴空 一鶴 雲を排して上れば
  便引詩情到碧霄   便ち詩情を引いて 碧霄に到らしむ

 様々なもの思いをさせるのも、また、秋の楽しみかもしれませんね。

2000.10. 8                 by junji





















 第126作は 西川介山 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-126

  山行        

石古荒途澗壑深   石古りて荒途 澗壑深く

陟來峻隘入疎林   峻隘を陟り来りて 疎林に入る

含風緑葉誘涼意   風を含み 緑葉 涼意を誘い

遷谷黄鶯弄好音   谷を遷る 黄鶯 好音を弄す

雲動山巒停歩屐   雲は 山巒を動して 歩屐を停め

雨搖竹樹解衣襟   雨は 竹樹を搖して 衣襟に解く

遊人自適未成去   遊人 自適 未だ去るを成さず

滿目翠屏殘照沈   満目の翠屏 残照に沈む

          (下平声「十二侵」の押韻)

<感想>

 介山先生とは嘯嘯会で共に詩の勉強をしているので、遠慮なく言いたい事をいってます。
 私の詩の感想ですが、
  含風緑葉誘涼意
  遷谷黄鶯弄好音
 の対句は感心しません。平板にして陳套のように感じられます。

  雲動山巒停歩屐 
  雨搖竹樹解衣襟 
 は工夫をした跡が感じられ、佳句だとおもいました。 

 「遊人自適未成去」「遊人適意未須去」の方が良いのではないかとおもいますが、全体的には、佳い作品ではないでしょうか。
 諸先生の御感想は如何なものでしょうか



2000.10. 8                 by 謝斧




 私の感想も少し。
 対句については、頷聯の方は確かに決まりすぎていて、面白みが少ないようです。ただ、頸聯とのつなげて眺めると、バランスが取れているのではないでしょうか。頸聯はとてもよく作られていますので、頷聯までも凝りすぎるとやや読むのが辛くなるのではと思います。それくらい頸聯は良い対句だと思います。
 詩が一つの絵(世界)を確実に描き出している、成功している作品ですね。

2000.11. 3                 by junji





















 第127作は 桐山人 、拙作です。
 

作品番号 2000-127

  病夜吟      病夜の吟  

秋風蕭索繞簷甍   秋風蕭索 簷甍を繞り

璧月高天一望明   璧月高天 一望明らか

自問病来心健否   自問す 病来 心健なるや否や

夜烏数叫弄幽情   夜烏数叫 幽情を弄す

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 7月8月と入院しましたが、その折の病中吟の一つです。
 元来が楽天的な性格ですから、それほど病気にめげたりはしないだろうと自分では思っていたのですが、時には、ふと気力が蒸発してしまうような夜もあります。そういう時にこそ詩が成るのかも、と期待しましたが、なかなかそうは行かず、詩を作る気にもならないのが現実でした。
 どんな状況であろうが、自分を客観的に眺める努力をし続けること。それはなかなか出来ないことなのだ、と実感したのが今回の貴重な体験でした。
 結句の「幽情」は、初めは「憂情」としていましたが、あまりに転句と呼応し過ぎる気がして、直しました。
 皆さんのご叱正を待ってます。

2000.10. 9                 by junji



 謝斧さんからの感想です。

「起句に我が身の近くに秋が来たといい、承句に秋の爽やかさをいう。転句には、病身の我が身が心まで病むのではないかと心配し、夜烏の声を聞いては、ますます寂しくなります」として理解しましたが、これでよいのでしょうか。
 詩の構成力はさすがだとおもいます。杜撰な言葉もありません。作者の言いたい事も言い得ています。
 しかし、各句毎に不満もあります。
起句:
 「秋風」「簷甍」を繞っても、作者には蕭索感は感じられるでしょうか、風の音を聞いて寂しいとか、風が我が衣を吹く、或いは、風によって、葉等が揺れるのを看る、等が生じる所であれば、読者も抵抗はないのですが、「簷甍」では無理だと思います。
転句:
 「自問病来心健否」は、あまりにも直截的ではないでしょうか、もう少し、詩的表現が必要だと感じています。
結句:
 「弄幽情」はどういった事なのでしょうか。浅学の為よく分かりません。「弄幽情」「引幽情」と理解しましたが。
 以上が私の感想です。

2000.10.13              by 謝斧



 ありがとうございました。
 転句につきましては、仰るとおりで、自分でも表現がそのまま何の芸もないなぁと思っていました。
 結句については、「夜烏」が安穏を知らせる声であるのに、自分は寂しい気持ちで病床にいるので、不釣り合いな、からかわれたような気がして、ますます寂しさが募るという気持ちを表したつもりです。

2000.11. 4              by 桐山人



 謝斧さんからの感想です。

 先生の説明で結句の意味はよく理解できました。弄幽情のは夜烏なのでしょう。
 そうすれば、詩も平凡ではなくなり、面白さが加わりますが、結句の叙述による表現だけでは、私の理解力が弱いせいもあって、よくわかりませんでした。もう少し工夫が必要ではないでしょうか。それではどう表現すればよいのかといえば、私もよく分りません。

2000.11.05              by 謝斧





















 第128作は名古屋市の 面城生 さんからの作品です。
 初めて投稿をいただきましたが、ご自身のホームページ 「面城亭」を開設して、がんばっていらっしゃる方です。
    

作品番号 2000-128

  秋声        

喬木払故枝   喬木、故枝を払い。

惟有悠久時   ただ有るは、悠久の時。

素衣不知愁   素衣、愁いを知らず。

獨立仏堂裏   独り仏堂の裏(内)に立つ。

朝看又暮過   朝に看て、又暮れに過ぎる。

供花願慈悲   花を供え、慈悲を願う。

低頭聞秋声   頭を低くして秋声を聞く。

得一片冰器   得たり、一片の冰器。

          

<解説>

  植木の産地、愛知県稲沢市南部、目比(ムクイ)の集落にイチイガシの大きな老木がある。
 この夏、地元の人により枝打ちが行われて、その老木は小サッパリとした枝振りに変身した。余分な枝葉が無くなり一部が大きく朽ち果てている木の幹に、老木が刻み続けた来た時間の長さを感じ取ることができる。
 老木が余分な「モノ」を取り除いて、必要最小限の枝葉を身に付けた時、「老木」だけが持ち得る「深み」や「味わい」を、より一層増した様に感じられた。
 わが身も壮年晩期、老いて後、この老木の様に必要最小限のモノだけを身に付けただけの生き方が出来るだろうか? ・・・との愁いが、日々募ってゆくのである。



 [訳]
  「秋声」
 イチイガシの大きな木が、枝を打ち払ってスッキリとした姿になった。
その老木の幹に刻まれた風雪のキズ跡のみが印象に残る。
素地のままの質素な装いにもかかわらず、世間の塵埃にめげる様子もなく、独り小さなお堂の裏に、楚々として 立っておられる。
 面城生は、その前を朝夕、ただ通り過ぎているだけの日々であったが老木は、そんな無神経な私を看過されていました。
 夏の終わりを告げる「地蔵盆」の時に、子供たちの健やかな成長を願って供えられたお堂の花々も枯れ果ててはいるが、慈悲深い地蔵菩薩への想いは十二分に残っている。
 水田の稲穂も収穫の時をむかえると、頭を垂れて吹き抜けて行く風の音を聞いている様ではないか!
 ・・・そう感じ取った時、はじめて・・・
 面城生も50歳を過ぎてようやく、澄みきった心を容れる玉壷を手に入れる事ができた。

<感想>

 面城生さんのホームページも拝見させていただきましたが、何と、私の住む半田市の町並みが掲載されていて、ビックリしました。お祖父様が漢詩を楽しまれ、奥様や息子さんも書画をよくされるご家族とのこと、素晴らしいですね。

 いただいた詩についての感想ですが、漢語へのご理解もあり、用語も無理は少なく、それぞれの句は分かりやすい句になっていると思います。ただ、詩としての体裁の点で漢詩と呼ばれるか疑問です。
 五言句の場合には、一句の字数が少ないので、通常は二句をひとまとまりにして内容を整えます。その上で、そのまとまりの最後の字を同じ韻にすることで詩としての体裁が生まれます。
 途中で韻の種類を変換したりする(「換韻」)場合もありますが、まずは偶数句末に同じ韻目の字を用いることで押韻が整います。漢詩という場合には、押韻までは最低限必要だと思います。
 規則に縛られることはないと思いますが、規則を無視しては伝統から離れてしまいます。その兼ね合いが難しいところだと思いますが、漢詩として一般に理解される形にするためにも、押韻を揃えるところまでは進められたらいかがでしょうか。

2000.10. 9                 by junji





















 第129作は Y.T さんからの作品です。
 

作品番号 2000-129

  詠鷺草(改)        

素花寂寞生蕪壙   素花寂寞として 蕪壙に生う

草蔓花埋人不訪   草蔓こり花埋もれて 人は訪なわず

風媚妍姿弄翠裳   風は妍姿に媚びんと 翠裳を弄ぶ

白鷺驚飛緑波上   白鷺驚き飛ぶ 緑波の上

          (去声「二三漾」の押韻)

<解説>

 「詠鷺草」側体に改作しました。側体は多くが平仄を無視しています。
 「白鴎」であるべき所をあえて「白鷺」にしました。

 唐代の七絶で側体の詩を十三首調べてみましたが、近体の律に適った詩は一首だにありませんでした。四句総てが律に適った詩も僅か一首で、他は一句以上が律に適わず、更に孤平の句を持つものが4首、下三連の句を持つ詩が5首も有りました。
 唐代なら詩は志なりで、花は君子、草は小人、風は知音と言った寓意を持たせるのでしょうが、私のは、埋もれた花が風で美しい姿を現した、という単なるスケッチです。

<感想>

 私は此の作を読んで大変な感動を得ています。詩から先生のこの時の情味がよく伝わってきます。
 「生蕪壙」から「人不訪」が転結句を生かしていると感じています。大変な傑作だとおもいます。
 「翠裳」は技巧的ですが、嫌味はありません。「緑波」は草蔓と理解しました。景を以て情を言う、詩は志しとかが言われますが、私は此の詩の事とおもいます。

 側体詩に関して興味深く読ませていただきました、どうやら先生の考えと私の考えは同じだとおもいました。側体詩は内容的に難しい詩の形態になると思いますが、今回の先生の詩は古人の作にも遜色は無いとおもっています。

 これからも我々読者のために先生の詩を沢山紹介して下さい。

2000.10.15              by 謝斧



 側体につきましては、『三体詩』の村上哲見氏の解説を引用しておきます。

 側は仄と同じ。側体は仄声の韻を用いるものをいう。近体詩は平声の韻を用いるのを原則とし、仄声韻は破格である。従って平仄律も破格となるものが多い。拗体と同様に故意に規律を破るのでなく、興の発するまま偶然に奇健の句を成したものでなければならない。

 「奇健」とは、風変わりで力強いことと註がついていますが、古詩の風格を残しながらの詩と私は思っています。
 Y.Tさんの詩は、謝斧さんの仰るように、唐詩と見間違えるようなすばらしい作品と思います。

2000.10. 20                 by junji





















 第130作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-130

  和所作西川氏秋蚊詩        

耳裏忽聴何處之   耳裏忽ち聴く 何れの處にか之かん

秋来白鳥老偏羸   秋来白鳥 老いて偏に羸なり

可哀見汝不能抵   哀れむべし 汝を見ては抵つ能わず

随意営営鍼我肌   随意なり営営として我が肌を鍼すを

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 介山先生から送られた詩に同一の題で詩作しました。

<感想>

 「白鳥」はここでは「蚊」を指すとのことです。
 秋の蚊を素材にするとどうしても悲哀を訴える調子の詩になりますが、この詩は軽い口調で、楽しく読みました。
 秋まで生き残った蚊は最後のあがきか、血を吸うことに貪欲で、かつ動きが緩慢で、叩けばすぐにつぶせるのですが、時にふと同情というか共感というか、ふと優しい気持ちで見つめてしまうことがあります。血を吸われた後のかゆさは別に夏の蚊と変わりはないわけですから、後で悔やむことにはなりますが・・・・。

2000.10. 20                 by junji



 謝斧さんから追加の解説をいただきました。

 お世話になっています。
 謝斧ですが、拙詩の『秋蚊詩』で用いた白鳥の件ですが、説明不足でした。

 蚊の異名を白鳥といいます。
    蚊子 時珍曰 一名白鳥(本草)
    白鳥者謂蚊蚋也
 とあります。
 私も詳しくはしりませんが、西郷南州の詩にも例があります。





















 第131作は 佐竹丹鳳 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-131

  新秋即事        

一痕雨過澹秋光   一痕雨過ぎて 秋光澹し

扇抛來自有涼   扇抛ち来りて 自ら涼有り

已聽孤蛩知序節   已に孤蛩を聴いては 序節を知り

殘蜩哽咽惹愁長   殘蜩の哽咽 愁を惹いて長し

          (下平声「七陽」の押韻)

<感想>

 秋への季節の始まりを「澹秋光」・「孤蛩」・「殘蜩」などの言葉で描き、統一された景と情の詩だと思います。抑制された表現が、季節の移ろいの一瞬を感じさせ、心に残ります。
 結句の「惹愁長」は、「惹」である意図がよく分かりません。「引」や「曳」の意味の方が「哽咽」が「愁」を「ひく」には良いように思いますが、どうなのでしょうか。

2000.10. 20                 by junji





















 第132作は鎌倉市の 紫雲 さん、三十代の男性からの作品です。
 

作品番号 2000-132

  飲兵衛大夫        

終日転家内   終日 家の内で転がっていた

男呑酒百杯   男は酒を百杯呑む

妻呆壊徳利   妻 呆れ 徳利を壊す

吾頓首百篇   吾は 頓首 百篇す

<解説>

 気の弱い酒飲みです。
かあちゃんのご機嫌伺いながら、日夜飲酒をたしなんでおります。

漢詩は初めて作りました。以前から興味はありましたが、難しそうだったので敬遠していましたが、このHPを見て創ってみました。

<感想>

 楽しい詩ですね。また、実際のご家庭の暖かな雰囲気が伝わってきて、こうした戯画的な光景は古典文学の原典とも言えるものですね。
 詩だとか文学だとかと呼んでしまうと、つい真面目な、人生を額にしわ寄せながら考えるものと決めがちですが、もっともっと大らかな感覚で良いはずです。日本の場合、近世、江戸期に詩(漢詩も和歌も俳諧も)が重くなり過ぎた気がします。
 そう言っておいて形式的なことを言うのは矛盾した感想になるかもしれませんが、少しだけご勘弁を。次作への期待を込めて、とご理解下さい。
@偶数句末に韻を踏む。詩は韻文で、リズムが大切です。漢詩は最低限、押韻だけは守らないといけないと私は思っています。次は是非、挑戦してみて下さい。
A言葉の重複を避ける。限られた字数の中での自己表現ですので、省ける言葉は省いて、その分情報量を多くした方が漢詩は生きてきます。今回の作では、「男」「吾」が必要ない言葉ですので、どちらかを省いて何か別の言葉を入れてみると、それだけで随分詩が変わりますよ。

 お手紙にありました「このHPを見て創ってみました」というお言葉は、私にとっては何よりもの励ましの言葉、ありがとうございます。

2000.10. 20                 by junji





















 第133作は 西川介山 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-133

  耶律楚材        

中都陥落女眞危   中都 陥落 女眞危うし

塞外穹廬迎國師   塞外の穹廬に 国師迎へる

可汗将須晋卿策   可汗の 将に晋卿の策を須いるは

周王猶得子牙資   周王の 猶お子牙の資を得たるが如し

聲音朗々圧群吏   声音は 朗々として 群吏を圧し

風貌堂々誇美髭   風貌は 堂々として 美髭を誇る

起輦河畔馬蹄響   起輦河畔に 馬蹄響き

應知創業大元基   応に知るなるべし 業を創す大元の基

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 [語釈]
 「中都」:現在の北京。
 「女眞」:金朝、女眞族。
 「塞外」:カラコルム。
 「穹廬」:ドームのテント。
 「國師」:耶律楚材。
 「周王」:周の文王。
 「子牙」:太公望呂尚。
 「群吏」:多くの役人。
 「美髭」:美しい口ひげ。
 「起輦」:ケルレン川。

<感想>

 耶律楚材(晋卿)については、私は陳舜臣の小説で詳しく彼の人生を知りました。金の元好問(遺山)と同年の生まれであることもその時に知りました。
 金の尚書右丞の家柄に生まれながら侵略軍である蒙古のチンギスハンに仕えた彼の生涯は、それまであまり関心を持たなかった私にはとても新鮮な物語として心に残りました。混乱しがちな蒙古初期の汗位継承の仕組みもおかげでよくわかりましたので、読み得な、お薦めの小説ですね。
 介山さんの今回の詩は、元朝の初期の頃を舞台にした詩ですね。唐の太宗は「創業(国を築きあげること)」と「守成(国を維持発展させること)」とどちらも難しいことを言っていましたが、個性的な才能が求められるのはやはり創業の時だろうと思います。偉大な実力者が登場し、その脇を多彩な能力の持ち主が補佐して、そうして大事業が成し遂げられるわけですが、介山さんは「周の文王」「太公望呂尚」「チンギスハン」「耶律楚材」とを並べて、歴史的に広がりのある詩になっていると思います。
 耶律楚材の人柄についての言及が次作に求められるところでしょうね。

2000.11. 3                 by junji





















 第134作は 金先生 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-134

  提琴之声        

提琴声粛粛   提琴 声粛粛

懐古奏弾人   奏弾せし人を懐古す。

欲語尋消息   語らんと欲し消息を尋ねれば

遅知変鬼神   鬼神に変ぜしを知るは遅し。

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 高校時代(20年ほど前)、山根先生(当時48ぐらい)といって、アリス(谷村しんじがいたグループ)や、さだまさしが好きな、国語の先生がおられました。
 生徒とバンドを組んで、文化祭の音楽コンクールへ2年続けてバイオリンをひっさげて登場、さだまさしの曲「飛梅」や「まほろば」のなかでバイオリンを弾いておられました。生徒たちは大喝采!!でした。
 押入の中から当時の録音テープが出てきたので久しぶりに聞き、山根先生はどうしておられるかと、友人たちに尋ねたところ、3年ほどまえになくなられたとのこと。
 国語の先生だっただけに、今ならいろんな話ができように・・と涙が出てきました。

 [語釈]
 「提 琴」:バイオリンのこと
 「変鬼神」:人間でなくなる。変じて、死んでしまうこと。
 [訳]
 バイオリンの音色は静かに染みわたり、
 弾いている人を思い起こさせてくれる。
 久しぶりに話がしたいと消息を尋ねれば、
 もうすでに亡くなっておられることを今になって知った。

<感想>

 アリスやさだまさしの名前も最近では懐かしいですね。ニューミュージック全盛の頃、私も文化祭ではよく歌ったり聞いたりしましたが、20年前といえば昭和50年代、その頃に48歳頃という年輩の方がそうした音楽に積極的に参加していたという記憶はありません。相当に進歩的な、精神的に若々しい先生だったのでしょうね。
 私自身も丁度40代後半の年齢になりましたが、聴く音楽、演奏する音楽は、どうしても若かった頃の曲がほとんど、今流行の曲などはまず対象外です。たまに良いなぁと思う曲があっても、サザンだの吉田拓郎だの昔からの名前の人ばかり。現代を生きることはむつかしいわけで、山根先生という方はすごいと思います。
 解説に書かれた「国語の先生だっただけに、今ならいろんな話ができように・・と涙が出てきました」は実感が本当にこもった言葉だと思います。こうした気持ちを是非詩に表現したいところですね。
 結句の「遅知変鬼神」は分かりにくい表現ですから、先に書きましたような金先生の実感を結句には織り込んでみたらどうでしょうか。

2000.11. 3                 by junji





















 第135作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-135

  陽関曲・秋 愁        

蛩声切切訴情人,   蛩声、切切と情人に訴え、

酔客喃喃對絳唇。   酔客、喃喃と絳唇に対す。

菊花一朶眠棚上,   菊花一朶、棚の上に眠り、

夢裡含愁迎月輪。   夢裡に愁いを含んで月輪を迎えん。

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 題にある「陽関曲」は「詞牌」の名のつもりです。
 「陽関曲」は、私の持っています漢和辞典には、王維の送別の詩「送元二使安西」をさす、とあります。
 しかし、このたび中国で買い求めてきた「詞譜」という本では、「詞牌」として扱われ、「七言絶句体、ただし二、三句は不粘」と説明されております。そして作例として上記の王維のほか、蘇軾ともうひとりの「詞」があげられています。
 近体詩以降の絶句では、二、三句は必ず粘法に従わなければならないきまりがあるように思ってきましたが、「詞」の世界では粘法を用いない「絶句」が作られていたことに、少なからず驚いた次第。頭から句を並べていってうまく粘法にはまらず反法になるときは、あえて「詩」といわずに「詞」だといえばよいことになります。
 また、近体詩106韻での通韻は起句に限られますが、「詞韻」は19に分類され、平仄を入れて計33韻、106韻の東韻と冬韻は同韻の扱い、以下、支・微・斉・灰(一部)、真・文・元(一部)、元・寒・刪・先、蕭・肴・豪、庚・青・蒸、覃・塩・咸が同韻であるなどなど、現代中国語のピンインを知っていれば106韻にくらべずっと納得しやすい構成です。これは便利。

 さて、拙作。秋の夜のものうい様子を表現したいと思って作りました。また、近体詩の絶句ではなく、絶句体の詞を作ってみたいと意識して作りました。つまり無理に「不粘」にしました。
 「不粘」は初めてですので、読みながら多少違和感がありますが、慣れの問題だと思います。
 なお、「情人」は恋人、「絳唇」は紅い唇の美人のことです。

<感想>

 王維の「送元二使安西」は別れを詠った詩の中でも傑作と言われている詩です。

  渭城朝雨軽塵   渭城の朝雨 軽塵をおし
  客舎青青柳色新   客舎青青 柳色新なり
  勤君更尽一杯酒   君に勤む 更に尽くせ一杯の酒
  西出陽関無故人   西のかた陽関を出づれば 故人無からん

 唐代を通じて送別の宴席では必ず歌われた詩だと言われます。特に結句の「西出陽関無故人」は三度繰り返して歌われることで、「陽関三畳」とも言われています。
 この王維の詩は鮟鱇さんのおっしゃる通りで、承句と転句のところで粘法を破っており、拗体の句になっています。これが詞牌として扱われるのは、特にこの詩が送別の詩として多くの人に愛され、曲として残されたからなのでしょうね。

 さて、鮟鱇さんの詩についてですが、各句とも言葉も分かりやすく出来上がっていると思いますが、全体として見た時のまとまりの点で、作者の意図が掴みにくいかなと思います。
 「情人」「絳唇」は同じ人物を指すのでしょうか。同じとした場合、「蛩声」「酔客」(これは作者自身でしょうね)の組み合わせは何を意味するのでしょうか。何か考えすぎてしまいます。
 前半と後半のつながりも、前半の意図が不明な分、はっきりしません。「秋の夜のものうい様子を表現したい」とありますが、何となくバラバラと並んでいるような感じがします。(すみません、どうも読解力が不足のようです)
 また追加の解説をお願いします。

2000.11. 3                 by junji



鮟鱇さんから解説をいただきました。

鮟鱇です。
 拙作について説明させてください。
 鈴木先生のご質問、「情人」と「絳唇」が同じ人物かどうかですが、「情人」はコオロギの「恋人」のつもりです。「絳唇」は、酒飲みの相手をしている美人。コオロギのメスを「情人」と擬人化し、「絳唇」と照応はさせたつもりですが、同じ人物をさすつもりはありません。私の失策かもしれません。失礼しました。

 次に全体がバラバラことについて。「秋のものういさま」というのは少々言葉足らずでした。作者としては、お互いに我関せずのそれぞれの秋、そういう「ものういさま」を書こうと思ったのですが。

「蛩声切切訴情人」
 コオロギのオスはメスのことで頭が一杯です。その声を聞く人間のことなど眼中にありません。切切と恋人に訴えるということで、作者としては、メスはしかし、あまりそのオスに関心がないということが暗示できればと考えました。

「酔客喃喃對絳唇」
 酒飲みは目の前の美人に語りかけるのが楽しく、コオロギの声など耳に入りません。また、喃喃、つまりペチャクチャと話す相手の美人の心情がどうであるかなど、考えてはいません。
 なお、切切と訴えようが、喃喃と語ろうが、恋人の心はまったく別のところにある、という状況は、私の基本的な人生観のひとつです。

「菊花一朶眠棚上」
 喃喃と美人に対する酒飲みはまた、棚の上に飾られている菊の花のことなど、おそらくは眼中にありません。菊の花が「眠る」というのもまた擬人化ですが、もし、その菊の花が酒飲み相手の美人の眼に止まることがあるとすれば、おそらく美人の眼に、菊の花は「眠たそう」に映ったと思います。もし、美人の眼に止まることもないとすれば、菊の花は酒飲みからも美人からも忘れられて、ただ、眠っています。
 ここは、菊の花が美人の心中と照応しているように読まれても、また、菊の花はあくまでも菊の花と読まれても、どちらでもよいというつもりで作っています。

「梦裡含愁迎月輪」
 だれの夢であるのかが問題になると思います。作者としては、擬人化した菊の花の見る夢です。誰からも顧みられない菊の花の見る夢。
 また、菊の花に、酒飲みの相手をしている美人の心が託されていると読んでいただくのであれば、酒飲みの相手に疲れて半ば夢のような状態で、明るい月を心に描く、ということになります。

 いずれにしても、作者としては、それぞれがそれぞれにそっぽを向いて過ごす秋、そっぽを向かれていることに気付かずに過ごすこともまた、結果としては、相手の気持ちに対しそっぽを向くのに等しいのですが、そういうそれぞれの秋のさびしさ、ものうい様子を表現したいと考えたものです。

2000.11. 5                 by 鮟鱇