第76作は 謝斧 さんからの作品です。

作品番号 2000-76

  楽天全        謝斧

平秧満目碧波連   平秧満目碧波連なる

昨雨收來草木鮮   昨雨收め來りて草木鮮なり

日暖林塘散楡莢   日は暖かく 林塘に楡莢を散じ

風軽水曲動荷銭   風は軽く 水曲に荷銭を動かす

駭魚高撥圓波起   駭魚高く撥て 圓波起し

帰燕仄飛茅屋穿   帰燕仄飛して 茅屋を穿つ

誰似匏瓜繋枝蔓   誰か似ん 匏瓜枝蔓に繋り

一身悟静楽天全   一身静を悟って 天の全きを楽しむ

波が同字重出の禁をおかしていますが作者自身は気にしていません。

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 [訳]
見渡すかぎり秧が育って碧波が連なっているようです
然も昨夜来の雨も止んで、草木が鮮やかです
日は暖かく 林堤を歩けばもう楡の花が散っています
風は軽く水曲を吹いて蓮の花を動かしています
私の姿に気づいてか、池の魚は驚いて跳ね円い波を起こします
燕は仄めに飛んで茅屋を穿ちます
誰が似るでしょうか 匏瓜が枝蔓に繋ってだれも収穫をしないのと
(それは私です)
我が身は静を愛して天命を楽しんでおります

<感想>

 「匏瓜繋枝蔓」は、『論語』の「陽貨」篇に載っている言葉ですね。
 孔子がある人物に招かれて出かけようとした時に、その人物は謀反を企てた人物であるとして、弟子の子路が、

「先生は以前
 『親於其身為不善者、君子不入也』
(自分から悪事を率先して行うような人物の所へは、君子は近づかないものである)

と仰ったではないですか」


 と、出かけるのに反対した場面でした。
 その子路に対して孔子が答えたのが、この言葉。

「吾豈匏瓜也哉、焉能繋而不食」
(わたしはどうして、あの匏瓜-にがうり・ひょうたん-のように、ぶらりとぶら下がるだけで、人から食われることもない、何の役にも立たぬものであってよかろうや)

 つまり、自分は有為の人間であるから、相手がどうであれ、必要とされる場所で働きたいのだ、と答えたわけです。
 孔子が最終的に出かけたのかどうか、そもそもこの話自体が、年代が不確かだし、内容的にも孔子の主張に他の章で見られるそれと矛盾があったりで、信憑性が薄いようです。
 しかし、子路に「一本取られた」ような、孔子がちょっと脂汗を流しながら弁解しているような姿が目に浮かぶ場面で、私は逆に孔子の人間臭さが好きな場面です。
 孔子は「匏瓜繋」の状態の自分を否定しようとしたのですが、謝斧さんは逆にその状態を静かに受け入れて、ゆったりと天命を楽しむ心境を初夏の爽やかな景の中に溶け込ませたようですね。

 
2000. 6. 8                 by junji





















 第77作は 真瑞庵 さんからの作品です。

作品番号 2000-77

  春余暮景        真瑞庵

田廬戸戸傍江霞   田廬戸戸 江ニ傍ヲテ霞ミ

草径青青接水斜   草径青青トシテ 水ニ接シテ斜ナリ

半浦松林投翠影   半浦ノ松林 翠影ヲ投ジ

一堤藤樹動幽花   一堤ノ藤樹 幽花ヲ動カス

更看落日残暉淡   更ニ看ル落日 残暉ノ淡キヲ

又聴晩鐘余韻遐   又聴ク晩鐘 余韻ノ遐カナルヲ

自笑有身塵俗外   自ラ笑ウ 身ハ塵俗ノ外ニ有ルモ

窓灯点処是我家   窓灯点ズル処 是我家ナルヲ

          (下平声「六麻」の押韻)

<解説>

 常々、俗縁を断ち、人煙を離れてひっそりと暮らしたいものだと思っていますが、なかなかそうはいかないのが凡人の性。況してや、全ての自然が新たに出発しようとしている時節には。

<感想>

 真瑞庵さんのホームページを拝見していますが、皆さんの詩を読むと、力を持った方が多いなぁと感動します。

 この詩では、「俗縁を断ち、人煙を離れてひっそりと暮らしたい」とのことですが、まだまだ人間、楽しいこと、愉快なこと、美しいもの、色々な感動を是非詩に綴って下さい。
 陶淵明ではありませんが、

    結廬在人境   而無車馬喧
    問君何能爾   心遠地自偏

 だそうですから、距離はこちらで都合しながら、良いところだけはしっかりと味わいたいもの、と私などは欲張っています。でも、そんな考えではそもそも「俗塵」から逃れていないのでしょうね。

2000. 6. 8                 by junji



 謝斧さんから感想とアドバイスをいただきました。

 真瑞庵さんの七律を読ませていただきました。
 田舎の趣がよくでて、読む者には、心が穏やかになります。殊に起聯の対句は佳句と思います。

 然し韻を踏むのはどうでしょうか。起聯を対句にした場合は、韻を踏んだ場合は偏格で、踏み落としが正格と聞き及んで居ます。
 また「傍江霞」の「」は熟さないように感じますが。
 他の対句もよく出来てますね。ただ最後の句は平凡に収斂して、面白くありません。
 身を塵俗外におくことを「自ラ笑ウ」ではあまりにも俗すぎるのではないでしょうか。(自分の拙のために身を塵俗外におくと理解しましたが。そのために自ラ笑ウ)

 読者には七、八句の意味のつながりがよくわかりません。

 よく議論するのですが『ある』は、それぞれ「 在・存・有 」があります。時としては、間違って使ったこともしばしばあります。
 今回の真瑞庵先生の場合の「有身塵俗外」は、普通は「在身塵俗外」か、或いは「存身塵俗外」の方が妥当と感じられますがどうでしょうか。
 正直いってよく分かりません。「」は「所有」で、「」は「存在」、「在」と「存」は平仄で使用しています。

2000. 6. 9                     by 謝斧




 以下は、真瑞庵さんと謝斧さんのお手紙ですが、みなさんの参考にもなりますように、要点を分かりやすく編集しました。詩についての意見交換をしてご覧下さい。
 なお、便宜上、
 この色は真瑞庵さんのご意見、
 この色は謝斧さんのご意見としました。



 謝斧先生、感想とアドバイス有難う御座います。
 起聯の押韻に就いてですが、確かに起聯に対句を用いた場合第1句は踏み落としても良いことは承知しています。只、踏み落としが正格で押韻が偏格であることは不勉強で知りませんでした。

 しかし、五絶、五律では平起こりが偏格で、七絶、七律では仄起こりが偏格との説が ありますが、小生は其のことを意識して作詩をすることは有りません。
 其の事と同様、今回のこの次第一句は川から立ち上る夕靄に篭められ、ボーと霞む江郭の家並みを表現できればとこの字を使いました。



 確かに先生の云われるように、平起こり/仄起こりはあまり気にしません。
 対句にした場合の韻の踏む踏まないは、声律の問題だけだとおもいます。

 私の意見ですが、七言は五言と違って末句と末句が離れてますので、五言のような十言二句のような感覚では作らないと思います。
 その為に起句に韻を踏ませると考えて居ます。対句にした場合は十四言で一つの意味を為すようになりますので、韻を踏ませると、韻律上のリズムと意味のリズムが齟齬するので、都合が悪いのではないかと考えて居ます。
 対句にして韻を踏んだ作品もあると思います。
 私は、なるべくなら、避けた方がよいと思います。押韻をしたが為に、句自体に無理を生じるときがあるからです。
(私の場合ですが七律を作った場合、12句が大体対句になれば無理して対句にしようとする悪い癖があります。出来た場合、折角韻を苦労して踏んだのだからそのままでないと勿体ないと云う気が起こり、そのままにすることがよくあります)

 また、「霞」の字についてですが、
 普通ボーと霞む場合は「依稀」とか「依依」とか、一字では「靄」を使うようにしています。霞の使い方ですが、「ボーと霞む」「ぼんやりして明らかではない」という表現の場合は、妥当なのかよく分かりません。
 よく言うことは、朝焼けや夕焼けで遠くが赤くなっている。たとえば桜なのであたりが赤くなった場合を「如霞」と表現するのではないかとおもいます。ボーと霞むのような表現は和臭になるのではないかと考えています。




 結聯に就いてですが、自笑のニ文字は第八句まで掛かります。
 体は美しい自然(塵俗外)に委ねているけれども、我が家の灯り(俗世、俗塵)が気に掛かる、そんな自分自身を笑うと言ったところです。




 真瑞庵先生の説明で再度吟味しましたが、読者の立場では、この句から、先生の意を汲むことは難しいと思います。もうすこし具体的な叙述が欲しいように感じます。



 「有」の文字に就いてのご意見有難う御座います。
 確かに「有」の字は所有を意味し、「存」「在」は其の場所に置く、あるいは存在すると言った意味に使われ、この詩の場合、「存」もしくは「在」が適当かもしれません。
 しかし,美しい自然の懐に抱かれてしまっているわが身と言った意味での「有」であるとしたらどうでしょうか?無理があるでしょうか。
 ご意見をお聞かせ下さい。



 「自笑有身塵俗外」で、仰るように「有」を「所有」の意味と理解しても、先生の意を汲み取るのは、無理かと思います。
 答えにはなってないかもわかりませんが、読者は詩の叙述だけにしか、作者の意とするところは理解出来ません。もし先生の意を知らしめすならば、前の句でそれらしきことを想像させ得るような句作りを行って、読者に先生の意をくみ取るように働きかけるようにします。言外の意を読者に伝えるようにします。なかなか難しいことだとおもいます。

 以上が私の勝手な意見です。何分門外漢でありますので間違っていることもありますので、その分は御寛恕のほどお願い致します。



 謝斧先生へ。
 大変貴重なご意見有難う御座いました。ずいぶん参考になりました。
 そこで、起聯第一句の押韻に就いてはさほど気にはしていません(唐詩,宋詩,清詩にも第一句押韻は多く見られます)が、「霞」の文字については大いに反省しています。

「霞」は朝焼け,夕焼けの美しい雲。「かすむ」の読みは和読み,いわゆる「和臭」、従いまして「靄」の文字を使うことが正しく、第一句は結果として踏み落としとなります。
 アドバイス有難う御座いました。

「有」についてですが,「有」は「無」に対するもので下は「物」、
「在」は「没」もしくは「去」に対する文字で下は「居処」、
「存」は「亡」に対する文字で「在」に近い。
 以上が小生が調べた結果です。

 結聯につきましては、いま少し推敲してみようと思っています。
 貴重な時間を割いていただき本当に有難う御座いました。

2000.6.19




 おふたりのこの意見交換を読まれて、河東さんからもご意見をいただきました。

 真瑞庵さんと謝斧さんのやりとりを拝見して、中国語の見地から意見を2.3述べさせていただきます。

1.先ず「自笑有身塵俗外」の「有」について、ここでは「有」を使うことができません。「在」を使うべきです。
 ただ、「在身」ではなくて、「身在」でなければなりません。「在身」だと、「体に在る」という意味になってしまいます。「在」の後に来るのは、存在する場所を表す言葉である必要があります。
 平仄を考えても、この順序を変えることができません。

2.それから、「存身」は文法的には問題ありません。或いは逆に「身存」でもニュアンスが多少違いますが、使えます。
 ただ「存」の場合、いやいやながらそこにいるという意味もあります。
「置身」という言葉がありますが、ご両人は如何お考えでしょうか。ただ、「置身」は、「暫留」、「暫来」、「暫停」のような暫時の意味ではなくて、もうちょっと長期的になります。

3.或いは、「自笑有身塵俗外」の「有身」は「有心」なら、文法的なことに限って言えば、問題なくなります。

4.真瑞庵さんのお描きになっている風景は素晴らしいと思います。このような意境が好きです。本当に美しい詩です。
 また、真瑞庵さんと謝斧さんの詩理論についての造詣の深さには脱帽です。


2000.7.14               by 河東






















 第78作は 木筆 さんからの作品です。

作品番号 2000-78

  山荘閑日        木筆

嫩竹扶疎蔽草堂   嫩竹 扶疎として 草堂を蔽い

庭柯翠緑送清涼   庭柯の 翠緑 清涼を送る

居然盡日甘羅雀   居然 盡日 羅雀に甘んじ

近什雌黄蓄錦嚢   近什 雌黄して 錦嚢に蓄う

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 山荘の地内の筍は、すっかり伸びきり、新しいみずみずしい竹の葉が茂り茅屋を蔽わんばかり。
 庭の木々もすっかり葉も茂り、将に緑滴らんばかりの涼しさを感じさせてくれる。
 訪れる人も無し、ままよ。一日、どっしりと腰を落ち着け、最近作った下手な詩を広げて、ああでもない、こうでもないと辛吟しきり。
 閑を持て余す老人の慢與。

<感想>

 結句の「雌黄」は硫黄と砒素の混合物、かつて字の誤りを直す時に使ったことから、「雌黄を加える」で「詩や文章を書き改める」意味になります。
 76作の謝斧さんの詩、77作の真瑞庵さんの詩、78作の木筆さんの詩と、晩春から初夏にかけての豊かな自然の景、爽やかな風の中でのゆったりと過ごす心境を詠まれた詩が丁度続きましたが、それぞれに趣があって、楽しく拝見しました。
 私などは、ただただ暑さに負けてしまって、なまこのような日々を早くも送っていますので、反省しきりです。

2000. 6. 8                 by junji





















 第79作は 介山 さんからの作品です。
 介山さんは、謝斧さんの「嘯嘯会」のお仲間、実は謝斧さんがご本人には内緒で、送ってこられたものです。(良いのかな??)
 謝斧さんのお手紙には、
    「転句結句が秀逸だと、感心しています」
 と書かれていましたので、掲載してしまいましょう。

作品番号 2000-79

  吉野懐古          西川介山

櫻花十里滿城春   櫻花十里 滿城の春

欲弔延元陵下賓   弔わんとす 延元陵下の賓を

唯有殘碑棘門朽   唯有り 殘碑の棘門に朽るを

至今恩怨説詩人   今に至るも恩怨 詩人に説かる

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 [訳]
 桜の花がそこかしこに咲いて吉野は春です。
 私は延元陵下に眠る後醍醐天皇を弔っています。
 往時を偲ぶ物は、ただ棘門の傍に立っている朽ち果てた碑だけです。
 この碑は今日まで、往時の恨みを、私たちに語っているようです。


<感想>

 謝斧さんの仰る通りで、転句が非常によくできていると思います。
「唯有」などの虚字は効果的に使うのが難しく、説明的になったり、単なる語調合わせになったりすることが多く、場面に適した言葉を選ぶのに苦労します。
 この転句の場合には、「唯有」と、まずこれだけで句全体を包括しており、桜花満開の下の寂寥感を描くのに十分な言葉となっているように思います。その上で、視点を「殘碑」に移し、更に「棘門朽」と続けるのは、「残っているだけだ何が?どんな風に?」という形で、一層の深みに読者を引き込んでいると思います。

 起句は、芳野山の春ですので、「十里」では遠慮しすぎの気がします。杜牧の『江南春』の「千里」とは言いませんが、もう少し広くても良いように思います。
 また、「」も「」の方が場所柄はつり合うでしょう。
 結句の「至今」は、転句で既に長い時の流れを言い得てますので、ここではくどくなりますね。せっかくの転句の良さが薄れるようです。

 吉野を詠った詩は、梁川星巌の「芳野懐古」・河野鉄兜の「芳野」・藤井竹外の「芳野」の、いわゆる「吉野三絶」が有名ですね。
 多くの人に詠唱された分だけ批判も多く出されました。
 梁川星巌の「芳野懐古」では、起句承句の「今来古往跡茫茫、石馬無声坏土荒。」について、「石馬」が現実には御陵の前に無いことから、「この詩は嘘を詠っている」と批判されました。
 河野鉄兜の「芳野」では、転結の「露臥延元陵下月、満身花影夢南朝」を指して、「鉄兜は乞食になったか?」とか、戦前では「御陵下で寝るとは不敬の極みだ」という意見まで、随分と言われたようです。
 藤井竹外の「芳野」では、設定が中唐の『行宮』という詩と同じだとして、「真似だ、盗んだ」などとひどい非難が続きました。

 批判を幾つも読んでいると、この「芳野三絶」に対しては、非常に感情的なものも多いようです。表現上の問題としての文学的な観点から、多くの人に愛されている良さを認めた上で、再度詩として検討されることを私は期待しています。

2000. 6.18                 by junji





















 第80作は 鮟鱇 さんからの作品です。

作品番号 2000-80

  死者面型(デスマスク)        鮟鱇

借問鏡中君是誰?   借問す、鏡中の君は誰ぞ

濃粧巧笑艶姿疲。   濃粧して巧笑するも艶姿に疲れあり

能不鋳造吾胸像?   よく鋳造せんやいなや、わが胸像

易老花容当久遺。   老いやすき花容、まさに久しく遺すべし

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 [訳]
    デスマスク

 鏡の中の君はだれ?
 上手にお化粧して笑っているけれど疲れているわ。
 わたしの銅像を作れないかしら?
 歳には勝てない花容、ずっと残すべきよ。

 昔読んだオスカーワイルドの「ドリアングレイの肖像」、あるいは、ちょっと題名を思い出せないのですがフランソワーズサガンの小説を思いだしながら作りました。
 書き下し文では少々雰囲気が出ませんので、訳をつけさせていただきました。

 同じ着想の宋詞、あわせてご覧いただければ幸いです。

    望海潮:彫君像

鏡中花貌,明眸皓歯,何如能耐風霜?
勤抹口紅,巧画娥眉,艶施紅粉濃粧,巻髪散清香。
我欲彫君像,永放輝光。善抗時流,依然却老競驕陽。

佳人盡美愁長,恨嬌容易褪,難識彭殤。
花喜歳寒,春来再発,満庭愉楽安康,不敢嘆無常。
木偶虚心黙,當似空王。但願塵胸,旧懐楚楚捨悲傷。

 (訳)

 鏡のなかの花のごとき顔、明眸皓歯、いかによく風霜に耐えん?
 勤しんで口紅をぬり、巧みに美しい眉をひき、艶やかに紅粉を施す厚化粧、
 巻きあげた髪は清らかな香を散ず。
 わたしは君の像を彫りたい、永く光を放つように。
 よく時流に抗い、依然として老いを退け、驕る太陽と競うように。

 佳人、美を尽くせば愁いは長く、恨むは嬌容の褪せやすく
 彭殤(長生きと短命)は識りがたきこと。
 花は歳寒を喜び、春来たれば再び発(ひら)き、
 庭を満たして安らかに無事を楽しんで、無常は敢えて嘆かず。
 木偶(モクグウ:木の人形)心をむなしくして黙せば、
 まさに空王(仏)に似るべし。
 ただ願うは塵胸に、懐かしい思いの鮮やかにして悲傷を捨つるを。


<感想>

 うーん、この詩も詞も、オスカーワイルドの「ドリアングレイの肖像」を読まないとよく分からないのでしょうかね。
 このようなテーマの詩を作ろうとした意図が分からないので、初めの一歩でつかえています。詩・詞だけで主題を理解するのは、今回はなかなかつらいものがあります。ごめんなさい。

2000. 6.28                 by junji





















 第81作は 生水 さんからの作品です。
 

作品番号 2000-81

  烏鷺争          生水

尋盟棋友会談筵   盟をあたたむ棋友 談筵に会す

一服銘茶対局前   一服の銘茶 対局の前

白鷺窺天誇四壁   白鷺天を窺い 四壁を誇り

黒烏擁地位三連   黒烏地を擁し 三連に位す

千思妙手救大石   千思の妙手 大石を救い

万考奇謀捨小辺   万考の奇謀 小辺を捨つ

互讃倶称攻守技   互いに讃じ倶に称す 攻守の技

童顔鶴髪見盤先   童顔の鶴髪 盤先に見る

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 作詩がスランプでさっぱり出来ませんでした。
 偶々旧友が尋ねてきてくれましたので、早速一盤手合わせをいたしました。しばらく逢わなかった彼の童顔も、何時か白髪に変わっていました。
 自分の顔はわかりませんが、彼も私が歳をとったと想っていたと想います。

<感想>

 碁の対局の様子が見えるようですね。対句も整っていて、とてもスランプとは思えません。
 五句目の六字目、「大」の字ですが、ここは平字が必要な所です。「大石」という言葉を生かしたい気もしますが、このままですと下五字が全て仄声になっていますので、直すべきでしょう。
 また、同じく五句目ですが、一字目「千」は韻字ですので、出来れば避けたいところです。
 内容的には、八句目、「童顔鶴髪」は面白い表現と思いますが、「見盤先」が熟していないように思います。七句目と併せて、まとまりがあるように構成し直してみるとよいでしょう。
 私も囲碁は数年前に夢中になりました。同じくらいの碁力の人が職場にいて、暇を見つけては石を並べたものですが、転勤してからはさっぱり、となってしまい、買い集めた囲碁の本も今では本棚の隅で埃を被っているだけです。久しぶりに石を握りたいと思いますので、近々誰かを電話で誘ってみましょう。

2000. 6.28                 by junji





















 第82作は 金先生 さんからの作品です。
 少し遅れましたが、「母の日」にちなんだ作品です。

作品番号 2000-82

  母之日所感           金先生

只管思阿母   ひたすら阿母を思えども

仏前全是空   仏前 全てこれ空し。

落涙染成血   落涙 染まりて血となり

花色益鮮紅   花の色は ますます紅鮮やかなり。

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

 これもまた中野逍遙風になってしまいました。 世間は母の日で盛り上がっていますが、仏になってしまった母には何もしてあげられません・・・。

 [訳]
    母の日の思い
 ひたすら 母のことを思っても
 仏壇の中の母となっては 全ての思いが今となっては空しい限り
 ながす涙は いつしか血となってしまい
 カーネーションの花の色が ますます赤くなってしまった。

<感想>

 平仄の点から見ますと、起句の「阿母」の「阿」の字は接頭語として用いる時(今回のような場合ですね)には、仄声となります。そうしますと、起句は二字目と四字目がどちらも仄声となり、「二四不同」の原則に外れます。
 もう一点は、転句の二字目と四字目の関係が「仄・平」となっていますが、この詩は「仄起」の五言絶句ですから、転句の平仄は二字目四字目が「平・仄」と逆にならなければなりません。
 近体詩として絶句の形式をなすのでしたら、以上の二点は改善するべきでしょう。

 内容としては、転句の表現が強すぎると思います。「起承」と抑制してきましたので、ここで跳ねたいところですが、「血涙」ではあまりに大袈裟で、読者が入り込めなくなります。
 金先生のお母様を思う気持ちはよく理解できますし、きっとお母様もこの詩を読まれれば喜ばれると思います。しかし、詩として共感を得るには、転句の「涙」をもう少しやわらげた方が良いと思います。

2000. 7. 2                 by junji





















 第83作は 三耕 さんからの作品です。

作品番号 2000-83

  如電          三耕

宿昔少年日   

謳歌星満天   

陽花青亦赤   

如電雨晴鮮   

          (下平声「一先」の押韻・但し「年」字冒韻)

<解説>

 [語釈]
「少年」:
  朱子「偶成」より
      少年易老学難成、一寸光陰不可軽。
      未覚池塘春草夢、階前梧葉已秋声。
「陽花」:アジサイの意。土壌によって花の色が変わる。
「如電」:物事のようすの変化が早いことの喩え。
  金剛経より。
      一切有為法、如夢幻泡影。
      如露亦如電、応作如是観。

<感想>

 転句の「陽花青亦赤」の表現が五言の短詩形とよく合っていて、印象に残る句に仕上がっていると思います。色使いも「青」「赤」とシンプルな言葉を使っているところが、素朴な感じを出していると思います。
 起句と承句のつながりが唐突です。「宿昔」と「少年日」がニュアンスとして同じようなものを出していますが、これは許容範囲と思います。
 「謳歌星満天」は、少年の日の思い出なのでしょうか。三耕さんの個人的な過去のある日の出来事であるならば、もう少し説明が必要でしょう。万人が少年の日に「謳歌星満天」の思い出があるわけではありません。あるいは典拠があるならば、それを伝える語が欲しいと思います。「謳歌」も「星満天」も、一般的な言葉です。

2000. 7. 2                 by junji




 謝斧さんからも感想をいただきました。
 紫陽花を陽花と表現する例はあるのでしょうか。あったら教えて下さい。紫陽花はご存じの通り、白楽天が名付けた花です。
 誰が言い始めたのか分かりませんが、通例では、あじさいは、「紫陽」では意味をなさないで、詩語では「紫陽花」でないといけないと言います。根拠はよくわかりません。
 私も無難に、「紫陽」では作らずに、「紫陽花重委黄泥」か「与君名作紫陽花」のようにしか作りません。(どちらも私の句ではありません)

 また、熟語等を略す時は、(呂山草堂詩話だと記憶していますが)前半の句を略すことは無いと言っています。多くは後の句を略すと言っています。例として、「紅於二月花」から紅葉のことを「紅於」と言うと説明しています。

 なお、これは余計なことですが、後半の意味を考えれば、「宿昔少年日」は「想昔少年日」ではないでしょうか。

2000. 7. 3                 by 謝斧



 三耕さんから、お返事です。
 「陽花青亦赤」の略し方については、本作では色彩感覚上「紫陽」とはできませんでした。「紫陽青亦赤」では「青亦赤」のコントラストがぼやけてしまいますし、それよりも色過剰となってしまいます。
 また、生まれながらの素質はそれとして、育つ環境によって全く違った色になるアジサイの有り様を「少年」の成長と掛け合わせて構成しておりますので、「青亦赤」は外せません。
 さらに又、「陽」字の裏にはその対となる「陰」が連想されまして、変易する様の象徴として「陽花」はピッタリです。
 従いまして、自注をつけてでも「陽花」と略しました次第です。

 「宿昔少年日」はご指摘の通りですね。「宿昔少年志」ならば、用法としてはよろしいのでしょうか。ただ、Junji様が書かれておられますが、『「宿昔」と「少年日」がニュアンスとして同じようなものを出しています』というのは尤もな感想で、「少年日」自体に「過去を思う」イメージがあります。「想昔」ですと一層その重複感が増してしまうような気がします。  下三字が他のものであれば、迷いなく、これまで多用してまいりました「憶昔」を使っていたと思います。

 ついでに、「謳歌星満天」はあくまで個人的な体験です。子どもの頃、松山に暫く住んでおりまして、時々道後温泉に家族で出掛けることがあり、その帰り道、夜空を見上げながら「上を向いて歩こうよ」と歌ったものでした。ただ、「謳歌」には「(子供の頃の無邪気に)人生を謳歌する」の意も籠めておりますし、「星満天」は「昔の田舎の夜空は美しかった」という一般的な叙景も合わせております。

 厳しい日差しが続いておりますが、どうぞご自愛ください。

 追伸:
 「桃李歌壇」様方でフリーのメーリングリストを活用した投稿・意見交換の場を設けられました。管理の手間も省けて、頂いた感想の有無も直ぐに分かりますし、さらに検索機能もついており、至れり尽くせりだと思います。こちらでも如何でしょう。ご参考まで。

2000. 7.30               by 三耕


 メーリングリストのご提案、ありがとうございます。
 現在はまだ入院中で、ご紹介の「桃李歌壇」さんのホームページを覗くこともできませんので、退院したらじっくりと見させていただきます。
 ただ、「掲示板」にしろ、メーリングリストにしろ、まだ暫くは私自身は導入は考えていません。感想や意見の掲載が遅れがちでご迷惑を掛けていることは重々反省していますが、私自身の物理的・心情的な理由で、もう少し、時間が必要かと思っています。
 「平仄討論会」でのNO.21 T.Yさんのご意見の折に、私の回答として載せておきましたので、ご覧下さい。

2000. 8.12               by junji






















 第84作は 金先生 さんからの作品です。
 朝鮮半島での南北首脳会談を受けての詩です。

作品番号 2000-84

  半島融雪      半島雪解け  金先生

臨江清水向南流   臨江の水清く 南に向かいて流れるが、

鉄路難行望北憂   鉄路行くに難く 北を望みて憂う。

平壌市街春風吹   平壌市街に春風吹けば、

待融憎報板門楼   憎しみ融けるの報を待つ 板門の楼。

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

 2000年6月13日の朝鮮半島の南北首脳の始めての出合いを漢詩にしてみました。

 [語釈]
 「臨江」
    臨津江(イムジンガン) 軍事境界線の北朝鮮側から
    南流して、ソウル市内を流れる漢江(ハンガン)に合流する川。
    この起句は 三十数年前に日本で歌われていた歌からとりました。
 「鉄路難行望北憂」
    かつてソウルから平壌を通って中国までつながっていた鉄道が
    38度線の手前で分断されている悲しみを表現しました。
    実際に分断点では「汽車は走りたい!」という看板も立っている
    とのこと
「平壌」:ピョンヤン
「板門」:38度線にある板門店(パンムンジョム)のこと

 [訳]
    半島の雪解け
 臨津江(イムジンガン)の清き水は南に向かって流れるが、
 鉄道は分断されており 北へは向かえない。
 今日 平壌に南からの春風が吹いたので、
 お互いの憎しみが融けたという知らせを
 板門店(パンモンジョム)でも待ちわびているだろう。

<感想>

 金先生も書かれているように、この詩を読んで、まず頭に浮かんだのは、昔のフォークソングです。
 今は精神科(だったと思いますが)のお医者さんの北山修さんや、加藤和彦さん、端田宣彦さんのフォーククルセイダーズが歌った「イムジン河」という曲ですね。確か、当時は発売禁止になっていて、私はラジオで流れた曲をオープンのテープレコーダーに録音して、一生懸命友達と聞いたものでした。
 今回の首脳会談は、二〇世紀の末をどうしめくくり、21世紀の方向を見つける意味での大きな役割を果たす会談だったと思います。金主席の政治的パフォーマンスがあれこれ言われてもいますが、両首脳が肩を抱き合う画像を見ながら、感無量の人も多かったことでしょう。平和・融和を心から期待している多くの人々に、是非これから応えていってほしいと思います。

 平仄の関係では、転句に問題があります。
 「吹」の字は、動詞の用法の場合には平声(名詞用法は仄声)ですので、このままでは、四句とも平声となりますので、これは是非直して下さい。同様に、転句は下四字が全て平声になってますので、六字目と七字目を仄声にすると良いでしょう。

2000. 7. 2                 by junji





















 第85作は 深渓 さんからの作品です。

作品番号 2000-85

  野川散策          深渓

會遊幾度野川眉   會て幾度か野川の眉(び)に遊ぶも、

雨後復來吟歩遅   雨後復た来たりて 吟歩遅し。

櫻樹夭夭新緑好   櫻樹夭夭(ようよう)の 新緑好し、

長堤一路勝花時   長堤一路 花時にも勝れり。

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 [語釈]
「會」 :以前に、これまでに。
「眉」 :辺、畔。
「吟歩」:詩をつくりながら歩く。
「夭夭」:若くて美しいさま。

 地元の野川の辺を散策して。初心者で恥をしのんでの投稿です。
ご叱正を乞う。

<感想>

 承句「雨後復来」とありますが、起句「會遊」と関わらせて読みますので、「復」の働きが分かりにくいですね。このままですと、「かつて何度か遊んだ」のも「雨の日」で、今日も「復た」雨の後に遊んだ、という意味になります。そこまで言っているわけではないと思いますので、「雨後」を生かすなら起句を直した方が良いでしょう。
 転句は「夭夭」と「新緑」が意味が重複していますね。「櫻樹」と「新緑」を入れ替えて、「新緑夭夭」とすれば良くなります。
 また、お考え下さい。

2000. 7. 2                 by junji



 謝斧さんからも感想をいただきました。

「眉」は「」の間違いだと思いますが。
 桃などに「夭夭」という詩語は良いのですが、櫻樹に「夭夭」はどんなものですか。例があったら教えて下さい。「夭夭」は『詩経』の言葉ですね。
 もし、櫻樹に「夭夭」と表現した場合には、どういった状態なのでしょうか。説明するに、少し難しいかもしれませんね。

2000. 7. 3                 by 謝斧






















 第86作は 真瑞庵 さんからの作品です。

作品番号 2000-86

  江村暮景          真瑞庵

日落西山岬   日ハ西山岬ニ落チ

晩烟深水村   晩烟水村ニ深シ

度頭漁舸静   度頭漁舸静カニ

祠下月華媛   祠下月華媛カナリ

紅藕揺鐘韻   紅藕鐘韻ニ揺レ

青銭留雨痕   青銭雨痕ヲ留ム

今将幽興極   今将ニ幽興極ラントシ

都是誘吟魂   都ベテ是レ吟魂ヲ誘ウ

          (上平声「十三元」の押韻)

<解説>

 初めて五言律詩を作りました。
 以前,五言絶句を作った事が有りますが,其の時の言葉選びの難しさに嫌気がさし、其れ以来避けて来ました。五字と七字。其の差わずか二字ですが,今回も其の難しさを思い知りました。七字ですら思いを十分に表現できない私にとって況や五字においておやです。
 出来ました詩は、相変わらず私のすむ木曽川べりの夕暮れです。この時期、蓮田では蓮の葉を大きく広げ、その中所々に咲く蓮花は可憐で,特に夕日を浴びた時の美しさは、一際のものがあります。(この詩では其の美しさを十分表現できていませんが。
 今回,作詩教室で<魂>の字を与えられ,其れに拠って作りました。

<感想>

 律詩をお得意の真瑞庵さんが、五言律詩は初めて、と聞き、ビックリです。
 五言律詩は、形式だけでもすでに古詩の雰囲気を持ったものですから、流れるような美しさよりも、ゴツゴツしながらでも伝えたいことを確実に伝える、という形式だと私は思っています。そして、真瑞庵さんの仰るように、字数が少なければ少ないほどに表現を練ることが必要となり、難しくなりますね。
 頂いた詩は、実は同題で二作目、と言うか推敲を重ねたもの、頷聯「度頭漁舸静/祠下月華媛」が前作では「蓮花渟露揺/渚鳥抱雛蹲」となっていました。
 私の感想としては、第1作の方が視点が近くて現実的に感じられますので、二作目の頸聯に「蓮花渟露揺/渚鳥抱雛蹲」をもってきて、遠近感を強調すると面白いと思いますが、どうでしょうか。

2000. 7. 3                 by junji



 謝斧さんからの感想をいただきました。

 前作と同様、対句が巧みですね。感心して読ませていただきました。
 「媛カナリ」は、仄用ではないでしょうか?
 また、席題の拘攣を受けてか、やや収束に不満があります。平板すぎるのではないでしょうか。

2000. 7. 6                 by 謝斧






















 第87作は 謝斧 さんからの作品です。

作品番号 2000-87

  山亭夏日          謝斧

榴花荷葉野風青   榴花荷葉 野風青く

初夏閑行多所經   初夏に閑行すれば 經る所多し

朝下直鉤溪水坐   朝に直鉤を下して 溪水に坐し

暮擔濁酒石泉聴   暮に濁酒を擔っては 石泉を聴く

心如坦路縱情思   心は坦路の如く 情思を縱いままにし

身似游魚適性霊   身は游魚に似て 性霊に適なう

偏愛棲山須成酔   偏(ひとへ)に愛す 山に棲みて須(すべ)からく酔を成し

誰憐落井不知醒   誰か憐れまん 井に落ちては 醒るを知らざるを

          (下平声「九青」の押韻)

<解説>

 [語釈]
「榴花」:ざくろの花
「荷葉」:ハス
「直鉤」:魚を釣る釣り針で、わざと釣れないように針を曲げていない
「坦路」:平らかな道
「情思」:こころもち おもい
「游魚」:自由におよぐ魚
「性霊」:こころ 精神
「棲山」:問余何意棲碧山 我酔欲眠君且去
「落井」:眼花落井水底眠

 [訳]
 ざくろの花やハスの花が咲き 
     風は野の香りを含んでもうすっかりと初夏です。
 此の季節は散策によくあちらこちらと、
     ゆくところが多くてあきません。
 朝は渓流の水に望んでは、釣りのまねをします。
     別に魚を取るためではありません。
 暮れには濁酒を携えて、
     泉の音を聞きながら酒を呑みます。
 その時の心持ちは、まつ平らな路のように、
     なにも阻むものがなく気ままに自由に思いふけります。
 身は水に泳ぐ魚のように、
     私の心に適っています。
 彼の李白のように山に棲むには
     酒に酔うのが一番で
 此の楽しみがあるかぎりかの賀監が井戸に落ちて
     水底に眠る楽しみを羨む必要はありません

<感想>

 今月のお薦め漢詩、高駢の作と同じ題名「山亭夏日」の詩を頂きました。
 謝斧さんの今回の詩は、山に棲む楽しみを詠った、六朝以来の伝統的な感興が描かれていますが、本当に夏の俗界の暑さから逃れて山に入った時の爽やかな心境は、全身が洗われるような解脱感がありますね。

2000. 7. 3                 by junji





















 第88作は鎌倉にお住まいの、 ニャース さん、三十代の方からの初の投稿作品です。

作品番号 2000-88

  送小西君去独国      小西君の独国に去るを送る  

銀座送君佳酒芳   銀座にて君を送る 佳酒芳し

挙杯前路正洋洋   杯を挙げよ 前路正に洋洋

莫愁明日無知己   愁う莫かれ 明日知己の無きを

自古独国在舞娘   古より独国 舞娘在り

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 小西という大学の友人がドイツに駐在する前の送別会に際し、詠みました。
 独身です。舞姫が見つかるとよいのですが・・・・。

<感想>

 友人との別れに際して詩を送る、古来は当然の習慣だったようですが、昨今では殆ど見られなくなりましたね。
 私自身も、卒業生が外国に赴任したりする時には「詩で送ってあげよう」などと思いつつ、苦吟している間に出発の日が来てしまった、なんてことが多くあります。
 私は勿論、小西さんを存じ上げませんが、送別会の雰囲気も感じられるような詩ですね。ご活躍をお祈りしています。

 詩につきましては、ご存じかもしれませんが、結句が頭から六文字仄字が続き、平仄を崩しています。この表現に強い意図があるならば別ですが、基本的には避けて、平仄を守る(平仄のバランスを取る)方が良いでしょう。この場合、「独国由来在舞娘」と若干の入れ替えをすれば落ち着くように思いますが、いかがでしょう。

 ところで、ドイツ留学と言えば 森外が思い出されます。彼が留学中に作った漢詩を二首程、紹介しましょう。
 西洋の女性についての感懐です。『無題』と題された詩ですが、マルセーユに向かう舟の中での作。

   冰肌金髪紺青瞳   冰肌金髪紺青の瞳
   巾幗翻看心更雄   巾幗翻って看れば心更に雄なり
   不怕萍飄蓬転険   萍飄蓬転の険を怕(おそ)れず
   月明歌舞在舟中   月明らかにして歌舞舟中に在り

     氷のような白い肌、金色の髪、ブルーアイ。
     きれいな女性を振り返って見ると心は元気になる。
     私はさまよう旅人だけど、そんなことは気にしない。
     この舟の中はステージさ。

 もう一首、ミュンヘン(僧都)からベルリン(落羽)に向かった時の作品です。

   万里離家一笈軽   万里家を離れて一笈軽し
   郷人相遇若為情   郷人相遇うて若為(いかん)の情
   今朝告別僧都酒   今朝僧都酒に別れを告げ
   泣向春風落羽城   泣いて向かう春風の落羽城

     遠い異国のこの土地で
     故人に会えたはうれしいことよ
     ミュンヘンビールで別れを惜しみ
     春のベルリン 涙で向かう

 読み下しは、『森外の漢詩』(陳 生保著・明治書院)より。口語訳は私が試みましたが、外のイメージとちょっと違ったかもしれません。でも、ヨーロッパでの気分の高まる青春時代、多少は許されるでしょう。


2000. 7.23                 by junji





















 第89作は 謝斧 さんからの排律の作品です。

作品番号 2000-89

  懐 旧        謝斧

人生過五十   人生五十を過ぎ

親故半帰泉   親故半ば泉に帰す

孰与傷今夕   孰と与に今夕を傷まん

誰同説往年   誰と同にか往年を説かん

酔来空惹恨   酔い来っては空しく恨を惹き

老去益堪憐   老い去っては益々憐れむに堪えり

開口怡顔少   口を開いては 顔を怡ばすこと少(ま)れに

回頭屈首専   頭を回らせば 首を屈すること専らなり

已知風土改   已に知る 風土改まり

因分歳時遷   因って分かる 歳時遷るを

惻惻眉難展   惻惻として 眉を展ること難く

紛紛愁易牽   紛紛として 愁を牽くこと易からん

佳期何再在   佳期 何んぞ再びは在らん

故意独依然   故意 独り依然たり

懐旧長嘆息   旧を憶えば 長に嘆息し

傾杯対逝川   杯を傾けては 逝川に対す

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

   孰与傷今夕
   誰同説往年

 両方共に、同じ意味です。
 孰と与に/誰と同に(だれとともに)と訓読して下さい。同じ言葉を使うことにより、今の私の心緒を鮮明に、読者に伝えようとしました。
 内容は、最近詩の仲間(嘯嘯会)が少なくなって、昔の事を思い出すにつけて寂しさを感じています。

<感想>

 律詩以上に緊密な構成で積み上げていく排律は、詩人の力量として、感性語彙力古典知識と更に豊かな構成力が求められますね。
 読ませていただきながら、私も謝斧さんに少しでも近づけるように勉強しよう、と決意しました。(こうした決意はこれまでにも何度もして来ましたが、今回は今までのとはチョット違うぞ!と確信しています。が、その確信もこれまでに何度も・・・・、でも、頑張ります)
 感想としては、『懐旧』という詩題からでしょう、具体的な物が少なく、抽象的な言葉(心情語)が多く感じました。
 どの聯を取り出しても言葉の対応も面白く、「なるほど」と感心、対句の面白さと共に、懐旧という情の様々な表現があることを実感します。しかし、「懐旧」の情は万人が心に持つもの、謝斧さんという一人の人が、どのようなことを、どのように、「懐旧」しているのか、それが掴み難いと思います。
 勿論そうした意図の下に描かれているのでしょうが、具象が少ないのは全体の展開がそれだけ緩やかなわけで、率直に言えば、「排律」という長詩形式では読者としてはなかなか辛いものがあります。
 解説に書かれたように、「詩の仲間が少なくなって・・・・」という寂しさからの詩ならば、そうしたことを関連して想起させるような聯が欲しいと思いました。
 
2000. 7.26                 by junji



 謝斧さんから、お返事をいただきました。

 鈴木先生のご教示の通り、詩句に具体的な叙述が無いため、隔靴掻痒の感があるのは否めません。対句も真瑞庵先生のような詩情に富んだものとは程遠いものになりました。今の私には、排律は荷が重いかもしれませんが、努力して鑑賞に堪えるよう、これからも投稿してゆきたいと思いますので、ご批正をお願い致します。

2000. 7.30                 by 謝斧






















 第90作は 介山 さん、今回はご本人の承諾の下のようですね。

作品番号 2000-90

  詠枇杷      枇杷を詠む  介山

初夏萋萋豊朶垂   初夏 萋萋 豊朶垂れ

果皮金色覆珠肌   果皮金色にして 珠肌を覆う

微瑕艶態黒斑惨   微瑕 艶態 黒斑惨しく

一把柔姿指跡遺   一把 柔姿 指跡遺こす

実帯凱風甘旨滋   実は凱風を帯びて 甘旨滋く

葉経霖雨薬湯宜   葉は霖雨を経て 薬湯に宜し

世間飽食能當口   世間 食に飽きるも 能く口に當たり

今日余饒豈易卑   今日 余饒なるも 豈に卑に易からんや

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 最後の句の意味は、
 世間の、贅沢にも食に飽きている人の口にも、味は満足させています。
 今夏、あり余るほど収穫されていますが、決して粗末にしてはいけません。

<感想>

 私は枇杷という果物が大好きなのですが、なぜ好きなのかと言うと、食べた時の味も勿論ですが、一番は果皮なんですね。
 ざわざわとした手触り、派手でない色、手頃な大きさ、むきやすく溢れる果汁、指先を通して様々なメッセージを確認することが食べる前の儀式です。
 だから、今回の介山さんの詩は、もう読みはじめから感激しました。先ず果皮に筆が進むのは、「ムム、お主やるな!」という感じでした。後はもう、一気に最後まで読み終えて、うーん、美味しい枇杷を堪能したような思いです。
 詠物体の詩ですから、どうしても説明的な表現になるのは仕方ないのでしょうが、尾聯の「能當口」「豈易卑」が他の部分に比べて言葉が固い印象ですね。

2000. 7.26                 by junji