作品番号 2024-331
造梅酒
仲夏清晨摘鵠~ 仲夏の清晨 緑梅を摘み
午天洗甕白雲開 午天甕を洗ぎて白雲開く
毎年醞醸一升酒 毎年醞醸(うんじょう)す一升の酒
幾夜沈沈秋氣來 幾夜沈沈たりて秋気来る
<解説>
梅酒を造りました。結句は、あと何日待てば秋になって梅酒ができるかなという気持ちを伝えたかったです……。
夏の朝、青梅をとり
午後に甕を洗うと晴れてきた
毎年一升の酒を造るが、
幾晩更けたら秋となる
<感想>
朝に梅を摘むのは分かりますが、「午天」に甕を洗うのは何か理由があるのでしょうか。
転句は「一升」ですと唐の時代は約0.6リットル、「三升」で現在の日本の「一升」くらい、単位は別にしても数字的には「一升よりも「二升」とすると、現実的な趣が出ますね。
後半は「年年」「夜夜」と対応させた方が良いです。
全体に時間の流れが慌ただしいですね。
また、「C晨」と来れば通常は「爽やかに晴れた朝」を思いますが、昼になって「白雲開」というのも午前中に何があったのか。となると、承句は「午天」も「白雲開」も削除して、更にどんな情報が入るかですね。
そうですね、青梅についてもう少し書いておくのが良いですかね。転句からの期待感に繋がるかなと思います。
「瓊珠帶露馥微回(瓊珠 露を帯び 馥り微かに回る)」、下三字を「甕新開」も考えられますね。
「どれくらい寝たら」と「毎晩毎晩楽しみだ」の違いですね。
「沈沈」は「惟須(惟だ須つ)」でどうかな。
作品番号 2024-332
仲春偶成
習習東風渡水田 東風 習習 水田を渡る
今宵群星是吾天 今宵 群星 是れ吾が天
春泉洗耳C閑足 春泉 耳を洗ひ 清閑足る
松籟瀟瀟物候姸 松籟 瀟瀟 物候妍
<解説>
心地よく春風が水田を渡り、天を仰ぐと星が夜空に一杯ちりばめられて、自分一人で楽しんでいる。
隣を流れる長尾川には清流が流れて清々しく、庭の松も風に吹かれて春を感じるな〜。
<感想>
もう一つは、「水田」は「水を張った田」ですが、「仲春」では早過ぎませんか。
承句の「是吾天」は空の星を独り占めした感覚でしょうかね。
後半はどちらの句も聴覚で揃えたということですね。
結句はやや疑問で、「瀟瀟」は「寂しげに吹く音」、これは秋の風情。
起句はこの句だけだと問題はありませんが、次の承句では夜の場面、となると風が水田を渡るのも夜の景色なわけですが、これですと昼だと思います。
「東風」を「晩風」「夜風」とし、承句の「今宵」は「滿目」が良いでしょうね。読み下しは「習習たる晩風」。
「風が水田を渡る」と言われると初夏のイメージが強くなりますよね。「水」をやめて「圃」としておくと季節は合うでしょう。
一気に広がりが感じられ、生き生きとした良い表現です。
「星」が平声ですので、語順を替えて「群星滿目是吾天」が良いでしょう。
これは解説に書かれた「隣を流れる長尾川」が分かるように「川聲」とした方が画面に合うでしょうね。
ここまでに視覚や聴覚も使っていますので他の風物を持ってくるのもちょっと難しく、「獨坐南軒」と全体をまとめるような形が良いですかね。
作品番号 2024-333
送春偶成
村徑徂春山翠鮮 村径 徂春 山翠鮮やかなり
依然勝景共爭姸 依然 勝景 共に妍を争ふ
耕人開拆当時顧 耕人 開拆 当時を顧みる
季到嫩秧又一年 季到り 嫩秧 又一年
<解説>
春の季に、昔の情景を思い出し、以前は家の周囲は一面田圃であったことなどを顧みて、又一年馬齢を重ねたなーと。
<感想>
承句は「然」が韻字ですので、「依依」とするか、別の言葉を探しても良いでしょう。
転句は「耕人」が「当時を顧みる」ように読めます。
結句の「季到」は説明文になりますので、「復看」と「今年もまた」という感じが良いでしょう。
起句はこれで問題はありませんが、「送春」の題で直後に「徂春」と来るのはちょっとしつこいですね。
「山徑」がどんな様子なのかを描くと、次の「勝景共爭姸」が具体的に目で分かるようになります。
また、承句で「依然」と「昔と変わらない」と言っていますので、「当時」のような言葉は違和感が出ます。「遊人懷昔惜春興」。
四字目の孤平を避けて「嫩秧」は「青苗」でしょうか。
作品番号 2024-334
枇杷
近邊果樹熟枝撓 近辺の果樹 熟して枝は撓む
欲認畫圖飛燕騒 画図を認めんと欲すれば 飛燕騒ぐ
黃黒`安多墨客 黄緑は描き安く 墨客多し
何言休歇眼中高 何ぞ休歇を言はん 眼中 高し
起句の「近邊」は「近園」とした方が「果樹」には合いそうです。
承句は「認」は何をするのか、次に「描」があるので同字を避けたのですかね。「作」の方が分かりやすいかな。
転句は「枇杷は描きやすいので絵画によく使われている」ということですかね。これを七文字で言うのは難しいですね。
<感想>
枇杷に白い覆いをする季節ですね。
「撓」は「不撓不屈」の四字熟語や、「撓曲(どうきょく)」「撓屈(どうくつ)」などで使いますが、平仄が微妙で、沢山の韻を持っているのですが、「たわむ」の場合は仄声のようですね。
「南庭樹果垂枝熟」。
ここで「飛燕騒」ですが、飛びながら燕が鳴くというのも疑問ですが、作者の絵を描こうとする行為とどう関係するのか。
これですと、燕が「やめろ、やめろ」と言っているようですが、何か燕に悪いことをしましたか。
こちらに「高」を持ってくれば、顔を上げたら飛燕が見えたということで収まりますが。
ここは「墨客」など無視して、先ずは枇杷の姿をもっと描くべきですね。
その上で、結句で「古來墨客筆箋操」とか、下三字は「喜詩曹」でも良いですね。
作品番号 2024-335
姥捨棚田
六月棚田昼亦涼 六月 棚田 昼亦涼し
蒼茫塵外水雲ク 蒼茫 塵外 水雲の郷
如鱗斜面寫生圃 斜面 鱗の如し 写生の圃
百里歸程時足忘 百里 帰程 時 忘るるに足る
起句は「昼亦涼」でも良いですが、「風亦涼」も広がりが出て良いかなと思います。
結句は「時正忘」が良いですね。
<感想>
「姥」は「姨」が地名としての表記のようですね。
千曲市の姨捨棚田、六月は水が田に満ちて美しく見えるとのこと。
棚田は「梯田」と中国では表記します。
こちらの詩も、「寫生圃」では弱いので「棚田」の様子をもう少し描いて欲しいですね。
作品番号 2024-336
春思
東窗旭染好風吹 東窓に旭染まりて 好風吹く
啼鳥花悲落地時 啼鳥 花は悲しむ 地に落つる時
何處歸春三月半 何れの処にか春は帰る 三月の半ば
年年亦遇囀黃鸝 年年 亦遇ふ 囀る黄鸝に
<解説>
花落つる頃、春は去り、淋しさ、でも毎年ウグイスの囀りを耳にする頃、また、春に出会える
<感想>
承句は「啼鳥」が必要かどうか、逆に結句で「囀黃鸝」と来ますので、最後を印象深くするには承句で「鳥」は出さない方が良いですね。
転句は逆に「春歸」の語順で、主語述語をはっきりさせましょう。
結句は「亦」を「復」(どちらも読みは「また」)とすれば、「もう一度」という意味が強くなります。
起句は「(東窓が)旭に染まり」と訓じた方が分かりやすいですが、「旭日」だけでも問題無いと思います。
「獨看(独り看る)」と少し寂しげな雰囲気が良いでしょうね。
中二字は「花悲」ですと「花が悲しみ、地に落ちる」と述語が並びますが、「悲花」と逆にしてこちらを主語にした方が好いです。
作品番号 2024-337
思節句
祝童端午酌芳樽 童を祝ふ端午 芳樽を酌む
萬古屈原弔沒魂 万古 屈原の没魂を弔ふ
喜慣悲生人靜坐 喜びの慣(ならわ)し 生の悲しみ 人静かに坐す
徒迷節句直臣冤 徒らに迷ふ 節句 直臣の冤
<解説>
端午の節句は今まで子供の成長を祝うの喜びの行事と思っていました。
楚の王族であった屈原が讒言により汨羅の淵に身を投じたのは知っていましたが、今回、この死を弔うことが節句の始まりだと知りました。
今までの喜びの節句と悲しみが一緒になり、迷ってしまいました。
<感想>
承句は「四字目の孤平」になっているのと、「屈原の没魂」と続けるには「弔」が邪魔というか、「屈原没魂」と続けないといけません。
転句の「喜慣」はあまり目にしない言葉、造語ですかね、「遥想」とか「此日」。
結句は「惻然」という「憐れみ悼む気持ち」を表す言葉がありますので、それを頭に使うと良いかと思います。
清廉な屈原を悼むための祭が始まりですが、それから二千年以上も過ぎましたから、内容が節句のお祝いになっても問題無いですよ。
屈原ご本人も、暗く辛い思いで居るよりも、健やかに育つ男の子、という役割の方が嬉しいかもしれません。
ただ、時には屈原への哀悼を思い出すことも大切で、この詩もそうした意義があるでしょうね。
「萬古」では長すぎるようにも思いますので、ここは「獨弔屈原孤憤魂(独り弔ふ 屈原の孤憤の魂)」が良いでしょうね。