2020年の投稿詩 第241作は芙蓉漢詩会の 柳村 さんからの作品です。
 静岡市での七月の漢詩教室でいただいた作品です。

作品番号 2020-241

  春夜聽雨        

小酌微吟醉草亭   小酌 微吟 草亭に酔ふ

瀟瀟春雨洒窗櫺   瀟瀟たる春雨 窓櫺に洒ぐ

餘寒徹骨淋鈴夜   余寒 骨に徹す 淋鈴の夜

奈此閑愁欹枕聽   此の閑愁を奈せん 枕を欹てて聴く

          (下平声「九青」の押韻)

<感想>

 前半で気持ち良く酔っている場面から、結句で「閑愁」へと向かう、この「閑愁」「何もすることがない状態での物憂さ」ですので、これは十分に酔っ払ってしまっては出てこない心情。それを導くために起句で「小酌微吟」と控えめに出しておいたのが生きてきますね。

 「淋鈴」「雨の降る音」で、これも結句を導くのに効果的です。

 起句の「草亭」は自分の家の謙称、「酌」「醉」が重なっている点だけが残念ですね。



2020. 7.26                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第242作は芙蓉漢詩会の 柳村 さんからの作品です。
 静岡市での七月の漢詩教室でいただいた作品です。

作品番号 2020-242

  偶成        

節入黄梅草木肥   節は黄梅に入りて 草木肥ゆ

雨餘庭際拷A圍   雨余の庭際 緑陰囲む

山梔花發幽香放   山梔の花発いて 幽香放ち

C晝無人燕子飛   清昼 人無く 燕子飛ぶ

          (上平声「五微」の押韻)

<感想>

 起句は、「黄梅の季節」とは言いますが、「季節は黄梅」とは言いにくいと思います。自然に「初夏梅天」のように表した方が良いでしょうね。

 承句も「緑陰」自体が場所を表す言葉で、「緑陰が囲む」というのは有りでしょうか。「緑樹囲む」なら良いですが。
 韻字を合わせて「緑陰幃」が良いかと思います。

 結句は「燕子飛」と結んでいますが、だから何を言いたいのか、上四字は結びらしいのですが、下三字で肩透かしのような印象。結びとしてはまとまりが無いですね。
 まだクチナシの花で終った方が良い感じがします。
 逆に「C晝」「無人」「燕子飛」という景色は転句に置いて、心情の句でなく叙景の句として流した方が良いと思います。
 起句と承句、転句と結句を入れ替えるようなことを考えてはどうでしょう。



2020. 7.26                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第243作も芙蓉漢詩会の 柳村 さんからの作品です。
 静岡市での七月の漢詩教室でいただいた作品です。

作品番号 2020-243

  冬夜歩月        

趁約詩朋設宴邀   約を趁ふ詩朋 宴を設けて邀ふ

C談不盡百憂消   清談尽きず 百憂消す

歸程風罷微吟滑   帰程 風罷み 微吟滑らかなり

一醉悠悠歩月宵   一酔 悠悠 月に歩む宵

          (下平声「二蕭」の押韻)

<感想>

 全体の構成も自然で、詩友との楽しい宴があって帰り道も心地よいという心情もよく伝わります。
 ただ、肝心の「冬夜」を表す表現が詩中のどこにも無いというのが気になります。
 詩だけを見ていると、春夏秋冬、オールシーズン通用する形で、そこが狙いかもしれませんが、詩としては臨場感が薄れます。

 例えば「歩月」「冷月」「凍月」「寒月」などとするだけでも季節は出るわけで、そうした配慮が欲しいですね。



2020. 7.26                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第244作も芙蓉漢詩会の 柳村 さんからの作品です。
 静岡市での七月の漢詩教室でいただいた作品です。

作品番号 2020-244

  春郊偶成        

啓蟄好時節   啓蟄の好時節

風暄芳草滋   風暄かく 芳草滋し

四方人不見   四方 人見えず

一路訪朋之   一路 朋を訪ね之く

花笑晴空下   花笑ふ 晴空の下

禽歌野水涯   禽歌ふ 野水の涯

仰看靈嶽雪   仰ぎ看る 霊嶽の雪

高唱我心夷   高唱すれば 我が心夷(たいらか)なり

          (上平声「四支」の押韻)

<感想>

 まずは対句から見ましょう。

 頷聯の上二字は対になっていますが、下は「芳草滋」で「主語(連体修飾語+名詞)+述語(形容詞)」、一方「人不見」は「主語(名詞)+述語(助動詞+動詞)」、文の構造が異なりますので対としては苦しいですね。
 律詩では頷聯・頸聯を対句にするのが基本ですが、対句にならない場合もあります。ただ、今回のように上二字が対に成っていると、「あ、これは対句だな」と読み始めて下に行くと異なるわけで、これですと「対句にし損ない」のように感じます。
 せっかくですので整えるか、上二字の対をやめるかした方が良いですね。

 例えば、三句目からを

    風暄春日煕
    四方芳草毯
    一路絳花帷
 (五句目の「花笑」は更に変更になりますが)

 頸聯は問題ないですが、「晴空」の対には「碧水」とした方が合いそうですね。

 尾聯は対句狙いですか。
 上二字は対になりますが、最後が「名詞」「形容詞」で合いませんので、末字を替える必要があります。
 ただ、ここは結びとして「我心夷」という心情を述べるのが良いかどうか、ここまでで十分に穏やかな気持ちになっていることはわかりますから、屋上屋の感はあります。
 また、「夷」も元々は「平らげる」という意味の字ですので、「平」とはニュアンスが異なります。
 「上平声四支」は韻字も多いことですので、景をまとめるような形で他の表現で検討してはいかがでしょうか。先ほどの例に出した「煕」などは終わりに適した字かなと思います。



2020. 7.26                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第245作も芙蓉漢詩会の 柳村 さんからの作品です。
 静岡市での七月の漢詩教室でいただいた作品です。

作品番号 2020-245

  初夏偶成        

薫風心氣爽   薫風 心気爽やかに

求句出人寰   句を求め 人寰を出づ

田野清涼裏   田野 清涼の裏

茶園淡靄   茶園 淡靄の間

白雲飛杳杳   白雲 飛ぶこと杳杳

溪水迸潺潺   渓水 迸ること潺潺

寂寂孤村路   寂寂たり 孤村の路

鶯啼萬境閑   鶯鳴いて 万境閑たり

          (上平声「十五刪」の押韻)

<感想>

 こちらも平仄、文法とも整っていますので、やはり対句の検討でしょうね。

 頷聯は「清涼」「形容詞+形容詞」の組み合わせ、対して「淡靄」「形容詞+名詞」ですので、やや不釣り合い。
 本来は上句の方は「清風」とすればぴったりですが、起句の「風」が取れれば良いですね。
 「裏」「閨vは合い過ぎのように感じますので、何か他の語があれば考えても良いでしょう。

 頸聯は五言で畳語が句末に並ぶと重く感じます。
 例えば、語を入れ替えて

    淙淙溪水落
    杳杳白雲還

 としますと、句の流れがすっきりしますね。

 尾聯が「寂寂」で始まりますが、三句続けて畳語使用は、位置が異なってもくどいですので、別の言葉にしたいですね。



2020. 7.26                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第246作も芙蓉漢詩会の 柳村 さんからの作品です。
 静岡市での七月の漢詩教室でいただいた作品です。

作品番号 2020-246

  梅天偶吟        

日午破窓下   日午 破窓の下

荒庭帶淡霞   荒庭 淡霞を帯ぶ

呢喃雙燕子   呢喃の双燕子

萬朶紫陽花   万朶の紫陽花

爽氣傷心減   爽気 傷心減じ

涼風詩興加   涼風 詩興加はる

梅天無客到   梅天 客の到る無し

寂寞獨煎茶   寂寞 独り茶を煎る

          (下平声「六麻」の押韻)

<感想>

 頷聯の対はしっかり対応させる形で「喃喃雙燕子」「朶朶紫陽花」と畳語を使ってはどうでしょうね。

 頸聯からの展開ですが、まず「傷心減」ですので、作者は元々は心を傷つけていたわけです。
 しかし、爽やかな風によって「詩興加」となって、心が救われた感じですね。
 ところが、「無客到」「寂寞」「獨」とまた落ち込むわけです。
「詩興が湧いた」けれど、「誰も来ないから寂しく茶を飲む」と読むこともできますが、そうなると、結局この詩としては楽しんでいるのか沈んでいるのか、主情がすっきりしないところが残念です。
 頸聯と尾聯の繋がりをどうするか、ですが、心情を出すのは尾聯にしておいて、頸聯は叙景で流しても良いと思います。
 ただし、前半と同じようなことを言っても変化が出ません。
 三句目に燕の鳴き声が出ていますが、これを頸聯に持ってきて、聴覚による描写、あるいは動物を使った叙景という形で転換させていく、逆に三句目には視覚的な叙景を入れるようにしてはどうでしょう。



2020. 7.26                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第247作は芙蓉漢詩会の K ・ K さんからの作品です。
 静岡市での七月の漢詩教室でいただいた作品です。

作品番号 2020-247

  待万花        

高峰雪景當天晴   高峰の雪景 當に天晴

樹影蕭条待草萌   樹影蕭条 草の萌えるを待つ

漫歩悠悠登坂路   漫歩悠々 坂路を登れば

砲聲殷殷亂鳥聲   砲声殷々として 鳥声を乱す

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 富士演習場に近い高原の森、ヒノキ林は黒黒としているが、雑木はみな葉を落として明るく陽と風を入れている。
 春を待ちかねていろんな鳥が鳴きだしているが、時折野砲の轟音が渡ってきて、一瞬鳴き止み、終わるとまた
 何事もなかったようにあちこちから聞こえてくる。


<感想>

 起句の「当」は平声ですので、「正」にしておきましょう。

 また、結句は六字目の「鳥」が仄声で、二六対の平仄が合いません。
 この句は二字目にも「声」があり、意図的に重ねたかもしれませんが、「砲声殷殷鳥声軽」というように文の構造が相似させるか、変更するかですね。
 「砲声」「鳥声」の関わりはポイントですので、そこを残して平仄を合わせるならば「突如野砲乱禽声」でしょうか。



2020. 7.27                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第248作は芙蓉漢詩会の 子方 さんからの作品です。
 静岡市での七月の漢詩教室でいただいた作品で、「ヒナゲシ」三部作です。

作品番号 2020-248

  虞美人草        

黄花舞踊玩芳辰   黄花 舞踊 芳辰を玩び

午節柔昭八十春   午節 柔らかに昭す 八十の春

可愛少年追悔涙   愛すべき少年 追悔の涙

僝文漱石對佳人   文を僝す 漱石 佳人に対す

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 我が家の庭の一隅。花菱草(ヒナゲシ)が毎年生えて、黄色い花がきれいに咲く。
 調べてみると、ケシの一首でカリホルニアポピーというらしい。
 虞美人草や麻薬のケシも仲間のようだ。それなら一緒にと同じものにして三首作ってみました。


<感想>

 前半は、虞美人草の開いている様子を描いていて、良い表現ですね。

 承句の「八十春」に次いで「可愛少年」と流れるところが面白いですが、すっと読むと、庭にお孫さんでも遊びに入ってきたのかと思ってしまいます。
 下の「追悔涙」を見ると、これは作者自身を回想した姿のことでしょうから、そういう点では、「追悔少年多感季」くらいで結句に流してはどうでしょうね。

 結句は漱石の「虞美人草」、職業作家としてのデビュー作ですが、題名の虞美人草が表れるのは主人公の藤尾が自殺した後、遺骸の脇に置かれた屏風に描かれていたのが虞美人草という話でした。
 虞美人草は元々、項羽の奥さんだった「虞」が死んだ後、そのお墓に咲いた花と言われます。
 「虞」も自決でしたので、漱石は「主人公の女性が自殺し、そこに虞美人草が咲いている」という設定(実際には屏風の絵でしたが)を最初から考えていたのですね。
 そういう点で行くと、結句の「對」は「配」が合うかと思います。  問題は、転句での「悔」が何を指しているのか、それが結句で分かると良いのですが。



2020. 7.27                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第249作も芙蓉漢詩会の 子方 さんからの作品です。
 静岡市での七月の漢詩教室でいただいた「ヒナゲシ」三部作です。

作品番号 2020-249

  雛罌粟之花        

薫風窃吹雛罌粟   薫風 窃かに吹く 雛罌粟

燦燦陽光盡日嬉   燦燦 陽光 日を尽くして嬉しむ

可愛幺兒聲敝唱   愛すべき幼児 声敝(よわ)く唱ふ

之花弔戰有誰知   之の花の弔戦を誰か知る有りや

          (上平声「四支」の押韻)

<感想>

 起句は「窃」の字が働いていて良い字ですね。

 「吹」は動詞用法の時は平声になりますので、ここは「搖」で行きましょう。

 承句の「盡日」「一日中」ということですが、それで良かったですか。

 転句は、こちらの詩も回想の場面ですね。
 ヒナゲシは荒れ地にも良く育ち、ナポレオン戦争や第一次世界大戦で荒廃した戦場に、戦死者を弔うように真っ赤なヒナゲシが咲いたと言われます。そこから、戦死者を悼む、平和を願う象徴の花とされているわけです。
 そうなると、転句の「敝唱」も作者の終戦の頃の思い出ということでしょうか。
 どんな歌を歌ったのか、ご教示いただけると嬉しいです。



2020. 7.27                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第250作も芙蓉漢詩会の 子方 さんからの作品です。
 静岡市での七月の漢詩教室でいただいた「ヒナゲシ」三部作です。

作品番号 2020-250

  花菱草        

朝風穏往入芳園   朝風 穏やかに往き 芳園に入る

暖暖陽光隔世喧   暖暖 陽光 世喧を隔つ

急襲狂風花辨散   急襲 狂風 花弁散り

蕪原靜笑故郷村   蕪原 静かに笑く 故郷の村

          (上平声「十三元」の押韻)

<感想>

 こちらも前半の叙景は穏やかで良いですね。

 転句で突如、ということですが、「忽到」「忽起」でしょうね。
 ここで「風」が出てきますので、起句の方は「蝶」とか「鳥」を出しておくところでしょう。
「翩翩雙蝶入朝園」として対句に持って行くのも良いですね。

 結句は最初に出ていた「園」から転句までの画面から、急転して視界が拡がっています。
 「村」という広がりを出しても良いですが、そこを繋ぐ言葉を上に入れたいし、「静笑」も花が「狂風」で散った後ですので、何が「笑」なのか、もう一言欲しいところです。



2020. 7.27                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第251作は芙蓉漢詩会の 甫途 さんからの作品です。
 静岡市での七月の漢詩教室でいただいた作品です。

作品番号 2020-251

  落基山脈     ロッキー山脈   

隆隆岳岳大連峰   隆隆 岳岳 大連峰

廻次晨光如恐龍   晨光 次に廻り恐竜の如し

遠近寒光輝集眼   遠近の寒光 輝いて眼に集まり

蕭蕭黒白仰灰峰   蕭蕭として黒白の灰峰を仰ぐ

          (上平声「二冬」の押韻)

<解説>

   隆隆とした男性的な山岳が目の前にある。
   順番に指していく朝日は恐竜が動き出さんばかり。
   遠近を問わず山からキラキラと光が反射されてくる。
   深遠な白と黒の世界、灰色の峰峰を仰ぐ。


<感想>

 カナダのロッキー山脈の雄大な景が浮かびますね。

 承句は、山の峰峰から順に朝日が昇ってくるということですが、太陽がグルグル回るという感じでわかりにくいですね。
「廻出晨光」の方が良いですかね。「如恐龍」は直接作者が眺めた感想ですので、このまま行きましょう。

 転句は「光」が重複しています。「紅輪」「金烏」「日輝」など色々ありますので、ご検討ください。
 下三字は「私の目の中に差し込んでくる」ということかと思いますが、「集眼」では通じないですね。
「凝雙眼」と挟み平にしましょう。

 結句は語順としては「蕭蕭仰黒白灰峰」となるわけで、「蕭蕭」「仰」が離れていること、「白黒」「灰」では変化が無いです。
 最後の「峰」も重出ですので、「容」などを韻字にする形で検討しましょう。 「蕭蕭白黒聚山容」などでしょうか。



2020. 7.27                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第252作も芙蓉漢詩会の 甫途 さんからの作品です。
 静岡市での七月の漢詩教室でいただいた作品です。

作品番号 2020-252

  開蘭花        

窓内蘭盆春色魁   窓内 蘭盆 春色の魁

耐寒餞歳一花開   耐寒 餞歳 一花開く

守株棄損妻言植   棄損の株を守り 妻 植うるを言ふ

暖紙能因有一隈   暖紙 能因 一隈に有るを

          (上平声「十灰」の押韻)

  <解説>

  痛んで捨てる蘭の株を他所から妻が戴いて来る。
  ようやく楚々として咲いてくれた。
  暖房器具のない我が家では段ボールを窓において冬を凌ぐ。
  よくぞ段ボール一枚で咲いてくれたと妻は頻りに言う。

<感想>

 承句は「一」が重複ですので、蘭の色を考えてはどうでしょうね。

 転句は「株を守り棄損し」となりますので、語順が悪いです。
「妻言植」も単なる説明だけです。「やれやれ、困ったものだ」なのか「心やさしい妻だ」なのか、どちらにしても、奥様の姿が大切でしょう。
 「殘株愛育眞慈母」など。

 結句は「能因」で分かるかどうか、「能」は良いですので、具体的な動詞を考えた方が良いかと思います。





甫途さんからは再敲作もいただきました。

    開蘭花(再敲作)
  窓内蘭盆馥郁纔  窓内 蘭盆 馥郁纔か
  耐寒餞歳白花開  耐寒 餞歳 白花開く
  殘株愛育眞慈母  殘株 愛育して 眞に慈母
    効能紙囲春色魁  効能 紙囲ひ 春色の魁

 起句の「馥郁」はそもそも「香りが一杯に満ちた」という程度を表す言葉ですので、「纔」とまた程度を表す言葉を使っては妙なことになります。
 「香馥」で何とか良いでしょう。

 結句は「能」「できる」の場合は平声ですので、二字目には置けません。
 初案のようにして「暖紙能為」とするなら、下三字とも合いそうに思いますね。



2020. 8. 3                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第253作は芙蓉漢詩会の M ・ O さんからの作品です。
 静岡市での七月の漢詩教室でいただいた作品です。

作品番号 2020-253

  祈念        

四月妖痾累卵危   四月 妖痾 累卵の危

依然蔓衍使人悲   依然 蔓衍 人をして悲しましむ

自肅街巷交遊盡   自粛の街巷 交遊尽き

疾疫滅亡祈念時   疾疫滅亡 祈念の時

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 起句は「累卵危」では強すぎるでしょうか。「幾度吹」をまず考えましたが、「吹」は風のみのことと思い、止めました。
 題名をどうするかも迷いました。

<感想>

 起句の「累卵危」は十分の表現だと思います。

 転句の「肅」は仄声ですので、これを中二字に持ってくる形になりますね。
「萬ク自肅出遊盡」としましょう。

 結句は分かりやすい表現になっていると思います。
 「滅亡」ではなく、やっつけるという形にするならば、「根絶病魔祈念滋」なども考えられます。



2020. 8. 3                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第254作も芙蓉漢詩会の M ・ O さんからの作品です。
 静岡市での七月の漢詩教室でいただいた作品です。

作品番号 2020-254

  夏日即事        

六月尋涼獨歩林   六月 涼を尋ね 独り林を歩く

蒼苔一路到更深   蒼苔 一路 更に深きに到る

閑花樹影C如水   閑花 樹影 清水の如し

葉戰陰濃野色侵   葉戦(そよ)ぎ 陰濃やかにして 野色の侵

          (下平声「十二侵」の押韻)

<感想>

 起句は「尋涼」と来れば「獨歩」は要るでしょうか。
「林」を形容する言葉を入れて説明を深くした方が情報が詳しくなって良いでしょう。
「穠漉ム」など。

 承句の「更」は「さらに」の意味では仄声ですので、使うならば「更求深」というところでしょうが、「碧苔深」と結んだ方が収まりますね。
 そうなると「一路」の上に「澗溪」ですかね。

 後半は、転句も結句もあまり変化が無く、繰り返しという印象です。
 爽やかな風くらいを吹かせるとか、何か音を出すとか、もう一工夫でしょうね。



2020. 8. 3                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第255作は 地球人 さんからの作品です。
 

作品番号 2020-255

  夏山登山        

崎嶇樵径更茫然   崎嶇な 樵径 更だ茫然

揮汗披襟三伏天   揮ふ汗 襟を披く 三伏の天

漸看飛泉忘酷暑   漸く看ゆる 飛泉 酷暑を忘る

隆隆流水玉虹懸   隆隆たる 流水 玉虹懸る

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 結句で、滝の水が勢いよく流れ水しぶきが充満している状態を表現したくて、「隆隆」の単語を使用しました。
 筋肉隆隆と言ったイメージで水の流れには適切ではない気がします。
 「轟轟」の単語を使いたかったのですが、詩語表になく、止む得なく「隆隆」としました。

<感想>

 起句は「更」は「はなはだ」と訓じているのでしょうか、「転」あたりが読みやすいと思います。
 上四字の読み下しは「崎嶇たる樵径」です。
 ただ、険しい「樵径」がですので、それほど広々とした感じはしないので、「茫然」が良いかどうか、疑問です。
 山の様子をもう少し描く形で、「巓」「連」などの韻字で探してはどうでしょうね。

 承句も読み下しは「汗を揮ひ 襟を披く」が良いでしょうね。

 転句は「だんだんと見えてきた」ということで、滝は音で存在が分かりますので、少しずつ近づいたということでしょう、実感のある言葉ですね。

 結句ですが、「轟轟」の語は車が行き来することからの会意文字で、「やかましい大きな音」の形容として多く使われます。
 この場合も、水の音が激しかったということなら「轟轟」を用いても良いでしょう。
 韓愈の詩に「懸流轟轟射水府 一瀉百里翻雲濤」という句があります。

 あと、題名ですが、「山」が重なりますので、「夏登山」「登夏山」が良いでしょうね。



2020. 8. 4                  by 桐山人



地球人さんからお返事をいただきました。

愛知県も教室が中断とのことで大変なようですね。

 こちらもテレワークががなかなか全面解除にならず、不規則な出勤状態なため、時々曜日を間違えることがあります。
バス通勤ですが、緊急事態宣言前は満員で乗れないことがしばしばありました。座ることなど夢のまた夢。
最近は、あちこちの会社でもテレワークを実施しているためか以前と比べて空いています。
楽々座れるようになりました。(笑)

 さて、掲載とご講評有難うございました。
起句について韻字見直した結果報告いたします。


  夏登山
 崎嶇樵径著崖巓
 揮汗披襟三伏天
 漸看飛泉忘酷暑
 轟轟流水玉虹懸

コロナ騒動は今しばらく続きそうですが、何卒お身体をお大事に。

2020. 8. 6                by 地球人























 2020年の投稿詩 第256作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2020-256

  古郷岩国        

岩州錦橋古城辺   岩州 錦橋 古城の辺り

扶杖老翁高閣前   扶杖の老翁 高閣の前

如今吊籠升瞬刻   如今 吊籠で 瞬刻に升る

山河仰俯素心伝   山河 仰俯 素心を伝へん

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

「吊籠」: ケーブルカー。
「山河俯仰」: 山を仰ぎ川を俯してみる。

<感想>

 故郷の岩国への思いが結句に表れていますね。

 起句は「橋」が平字なので、「錦帯」が良いかと思います。

 転句も平仄が違いますが、用語としても、ケーブルカーを表すのに「吊籠」は、「如今」と条件を加えている分古めかし過ぎませんか。
 現代表記の「索道」を頭に持ってきて、「揺揺」でも「如今」でも良いかと思います。





2020. 8. 4                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第257作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2020-257

  避暑偶作        

七月東都調布町   七月 東都 調布の町

孤筇浄境一旗亭   孤筇 浄境 一旗亭

閑人山寺忘長夏   閑人 山寺で 長夏を忘れ

歩歩黄昏酒易醒   歩歩 黄昏 酒醒め易し

          (下平声「九青」の押韻)

<解説>

「東都」: 東京都。
「調布町」: 調布市の町。
「浄境」: 深大寺。
「一旗亭」: 一軒の飲み屋。


<感想>

 調布の古寺、静かな山を歩いた場面ですね。

 一軒の飲み屋はわかりますが、転句の「忘長夏」となるのにはやや説明不足、「山風涼気」などの言葉が入るとすっきりすると思います。




2020. 8. 4                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第258作は 凌雲 さんからの作品です。
 

作品番号 2020-258

  結婚式        

晴晴好日待新郎   晴晴たる好日 新郎を待たせ、

誓約神前透画光   神前に誓約すれば 透画光る。

高響結婚行進曲   高らかに響く結婚行進曲、

前途航海幸洋洋   前途の航海 幸 洋洋たれ。

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 久しぶりに七言絶句に挑戦しました。自分でも何でこんな詩を書いたか不思議でならないのです。

 「透画」・・・・ステンドグラスを意味する新造語。

 葬儀は仏教。結婚式はキリスト教。願掛けは神道。外国人からすれば、ここら辺が理解し辛いところでしょうね。
 でも、日本人の感覚からすればぜんぜん自然です。
 八百万の神なんでしょうかね〜

 神様が多い方が世の中が明るくなりそうでいいじゃないですか?

<感想>

 うーん、何と言えば良いのか、久し振りの七言絶句で、言いたいことがうまく整理できませんでしたかね。
 どなたかお知り合いの結婚式に参列しての詩だと思うと、何とか理解できます。
 ただ、場所も季節も曖昧で、新郎新婦の姿も無く、具体的な記述が何もありませんから、お祝いの詩としても使いづらいでしょうね。

 一般的な「結婚式のイメージ」をまとめたということで落ち着いてしまい、式場のパンフレットみたいな感じで、これは読者も「(凌雲さんが)何でこの詩を書いたか」と悩みます。





2020. 8.30                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第259作は 石華 さんからの作品です。
 

作品番号 2020-259

  新涼閑坐        

已見冰輪書牖半   已に見る 氷輪 書牖の半

纔聞一蛬小庭中   纔に聞く 一蛬 小庭の中

無言背壁自傾盞   無言背壁 自(おのずか)ら盞を傾く

不用C泠簷鐵風   用ひず 清泠簷鉄の風

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

  月は、もう出ている。
  初こおろぎも、やっと鳴き始めた。
  黙って壁によりかかり、手はおのずから盃に。
  もう、風鈴も要らないな。


<感想>

 起句の「書牖半」は月が書斎の窓の半ばくらいの所に架かっているということですね。
 対句で持ってきたのは面白いですが、月やこおろぎが来れば「見」「聞」は当たり前、「已」は時刻を暗示するとしても「纔」「一蛬」ならば必要の無い言葉、どうも対にするためだけの字が並んでいるように感じます。
 虫の鳴き声がどのようであるのか、その情報がありませんので、上二字にそれを持ってくるとよりリアリティが出るでしょう。

 季節は「新涼」ですので、「冰輪」が良いかも疑問ですね。

 結句は「C泠」まで書いてあると、快適な気持ちになりますから、「不用」が分からなくなります。
 肯定的な表現で、風を楽しむ方が自然な印象になると思います。



2020. 8.31                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第260作は 石華 さんからの作品です。
 

作品番号 2020-260

  愁秋        

菊花楓葉倚風愁   菊花楓葉 風に倚りて愁ひ

老蛬殘蟬待月謳   老蛬残蝉 月を待ちて謳ふ

萬事痾源蔓延裏   万事 痾源蔓延の裏

空聞籬外幾時収   空しく籬外に聞く 幾時収まらんと

          (下平声「十一尤」の押韻)

「倚風」: 風に身を預けるように、吹くままに揺れること。
「痾源」: 新型ウイルス。

<感想>

 こちらも前半を対句にして作ったもの、「菊花」「楓葉」「老蛬」「殘蟬」で季節が微妙に合わないですが、長い秋を表したということで理解しましょう。

 そのしみじみとした秋にコロナウイルスが蔓延して、いよいよ心が沈むわけですが、それが「空聞籬外」で分かるかどうか、「但祈孤客」のような表現が落ち着くと思いますが、いかがでしょうか。



2020. 8.31                  by 桐山人



石華さんから再敲作をいただきました。

    秋夜踏月
  春光緑陰歩東丘   春光 緑陰 東丘に歩み
  野菊乱蛩早作秋   野菊 乱蛩 早や秋を作す
  萬事痾源蔓延裏   万事 痾源蔓延の裏
  停筇問月幾時収   筇を停め 月に問ふ 幾時収まらん

2020. 9. 9                   by 石華



 主題を保持しつつ、全面的に直したという形ですね。

 後半は「問月」で秋の夜を感じさせますし、問う対象が明確になって良くなったと思います。

 前半は、歳月の流れをどう表すかですね。
 春から夏、すっと散歩したということでしょうが、「春の温かい日射しと涼しい緑陰」では分かりにくいですね。「陰」も平仄が合いません。
 率直に「芳春炎夏」と季節を出すとか、「春宵夏曉」と対比させるのが良いでしょうね。

 承句は「四字目の孤平」ですので、下三字を「知早秋」でしょうかね。


2020. 9.25                   by 桐山人





















 2020年の投稿詩 第261作は 紫峰 さんからの作品です。
 

作品番号 2020-261

  臘月夜雪中独行        

凛冽玄冬晩   凛冽たる玄冬の晩

連青女向家   青女を連れ、家へ向かふ

上天成漆黒   上天は漆黒を成し

街路咲銀花   街路は銀花が咲く

昔有童愉積   昔 童有り 積もるを愉しむ。

今更壮悩遮   今 壮に更はる 遮らるるを悩む。

幼情消已歎   幼き情 已に消ゆるを歎き

恨歩草廬遐   恨めしく歩く、遐く草廬へ

          (下平声「六麻」の押韻)

<感想>

 こちらは紫峰さんの第三作目の作品とのことです。

 まず題名ですが、「いつ、どこで、誰が、何を」という場面設定を試みたわけですね。古典詩でも、長い題名が時々ありますが、記録としての要素が強いもの、毎日幾首も作っているならともかく、現代の私たちでしたら、詩題は印象に残るコンパクトなものが望ましいですね。
 この題では「中」とか「独行」が余分で、「臘月夜雪」だけでも通用します。ただ、それでは部屋の中から見ているような印象になりますので、つい「独行」と入れたくなりますが、詩を読めば外に居ることはすぐに分かりますし、何よりも詩として「独」であることが本当に必要か、というと、昔と今の気持ちの違いが分かれば良いわけで、「独」であることはこの場合には関係無いわけです。
 情報を増やして「帰途遭雪」ならば、必要なことは入ると思います。「臘月が入ってない」と思われるかもしれませんが、第一句で「いつ」という設定が出ていますので、わざわざ入れる必要はないでしょう。どうしても入れたければ「凛烈」を「臘月」としておけば良いですね。

 第二句ですが、ここは作者が実際に女性を連れていて、その女性のことを雪の夜だから関わりのある「青女」という言葉で比喩表現したというのならまだ分かります。
 しかし、題名以外にはまだ「雪」のことは出ていない状況で、「連青女」「雪の中を」という意味だと分からせるのは困難でしょう。そうなると、句の切れ目が壊れている分、「青を連ねて女は家に向かう」と読まれてしまいます。
 「青女」を使いたいということですと、第三句で「上天青女舞」とすれば、雪と判断されやすくなるでしょう。

 頷聯が対句としては多少甘いところがありますが、第三作としては十分の形だと思います。
 「漆黒」を「黒漆」として「銀花」に対させる(「黒色の漆」と「銀色の花」)方が良い点、また、「上天」という修飾語+名詞に対して「街路」という名詞+名詞の構成ならば「上天」を「天空」と名詞+名詞にした方が良いとかいう辺りのことで、熟語の構成に関わります。

 また、第四句の「咲」は漢詩の習い始めに、多くの人が「和習」の例として教わることです。漢和辞典の引き方の練習にも使われます。「咲」は「口を開いて笑う」という意味が辞書には載っています。
 ただ、花が開いた姿を比喩する形、つまり「花が笑って(咲いて)いる」という書き方も無いわけではなく、俳句で「山笑う」という季語が使われますが、山の草木が萌える頃を表します。「笑う」には「開く」という連想があるのでしょう。
 ですから、「花咲」を「花咲(わら)ふ」と読んで、「花が開いた」ことの比喩として使うことも可能ではあります。
 しかし、わざわざそんな比喩を用いなくても、平声なら「花開」、仄声なら「花発」という定番語彙があるわけで、誤解の可能性の高い「咲」を使う必要は無いでしょう。
 第三句を先ほどお示しした「上天青女舞」とするなら、第四句は「街巷玉銀花」と対せます。
 「青」と「銀」の色彩対比になりましたが、お書きになったように「黒」と「銀」にしたいということでしたら、推敲案で良いと思います。ただし、「青女」はあきらめることになりますね。

 頸聯は句の切れ目が悪いため意味が取れない形ですね。
 過去と現在という対比でなく、子どもと大人という比較にもって行けば良く、「兒」と「壯」を使うことになります。
 例えば、

  兒喜操橇戲(兒は喜ぶ 操橇の戯れ)
  壯危歸路遮(壮は危ぶむ 帰路の遮り)

という対で、昔と今にはなりませんが、言いたいことは出ていると思います。

 尾聯は若干文法的なミスがありますが、推敲案もいただき、既にご理解済みのようですね。
 推敲案は次のものでした。

 奈何惟樂意  奈何せん 惟れを樂しく意ふには
 擬雪素衣娃  雪を擬せん 素衣の娃に

 「惟」は通常は「ただ」、「これ」と読む場合は口調を整える役割ですので、目的語(代名詞)として「これ」という使い方はしません。この場合には、読み下しは「奈何せん 惟だ意を楽しません」で、こう読む分には文法的には無理はありません。
 語として問題は「樂」ですね、二句前に「愉」と同意の語があることを見落としていませんか。
 ここは「奈何沈鬱雪(奈何せん 沈鬱たる雪)」で、意味としては「どうしたことか、心が沈んでいく」となります。「鬱鬱」の原因は示していませんが、これまでの句で理解できると思います。

 最後は「雪」は要りませんので、「惟擬素衣娃(惟だ擬せん 素衣の娃)」でしょうか。

 以上をまとめておきましょう。


    歸途遭雪
  凛冽玄冬晩  凛冽たり 玄冬の晩
  蕭然獨向家 蕭然 独り家に向かふ
  天空青女舞  天空 青女の舞
  街巷玉銀花  街巷 玉銀の花
  兒喜操橇戲  児は喜ぶ 操橇の戯れ
  壯危歸路遮  壮は危ぶむ 帰路の遮り
  奈何沈鬱雪  奈何せん 沈鬱の雪
  惟擬素衣娃  惟だ擬せん 素衣の娃に




2020. 8.31                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第262作は 于義石 さんからの作品です。
 

作品番号 2020-262

  西湖春        

春風染透西湖岸、   春風 西湖の岸を染め透かし、

半是銀波半翠山。   半ばは是れ銀波 半ばは翠山。

画景何須呉道子、   景を画くは何ぞ呉道子を須(ま)たんや、

丹青自在水雲間。   丹青 自ら水雲の間に在り。

          (上平声「十五刪」の押韻)

<解説>

[作者からの現代語訳]

 春風が西湖の岸を染め透かしたように、
 眼の中の杭州は半分が銀色の湖の波で、半分が緑山である。
 その景色を画く呉道子に頼むに及ばず、
 水と雲の間に既に美しい絵が存在している。

注:呉道子とは唐代の有名な画家です。

<感想>

 以前掲載させていただいてから、随分経ってしまいました。
 お待たせして済みません。

 こちらの詩は丁寧にお作りになっていると思います。
 すっきりした景が目に浮かびますね。



2020. 9. 3                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第263作は 于義石 さんからの作品です。
 

作品番号 2020-263

  春遊        

総角童児遊緑苑、   総角の童児 緑苑に遊び、

枝条竹馬戯春風。   枝の条(むち) 竹の馬 春風に戯る。

花冠又折新桃続、   花冠 又新桃を折りて続き、

笑逐池辺柳径中。   笑ひ逐ふ 池辺 柳径の中。

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

 総角童児とは昔漢人の子供が成年まで髪の毛を両側に角のように梳いていました。
 子供の意味です。

[作者からの現代語訳]

  総角を梳いた子供が緑の園に入り、
  柳の枝を鞭と、竹を馬として春風をざれるよう遊んでいる。
  新しい桃の枝を折り、花の冠につけて、
  池のほとりにある柳道に笑って追いあう。


 子供達の無邪気な様子を見て喜びを感じていました。


<感想>

 「総角」は「あげまき」と呼んでいますね。
 「拷早vから「池辺」「柳径中」と場所を表す言葉が続きますが、微妙に視界を狭くして画面をズームしていくような感覚がありますね。
 承句と転句に具体的な素材を配置して、サンドイッチ構造が話のテンポを生んでいると思います。



2020. 9. 3                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第264作は 于義石 さんからの作品です。
 

作品番号 2020-264

  寒夜        

青娥玉粉化寒煙、   青娥の玉粉 寒煙に化し、

夜落軽霜月冷天。   夜に落つ 軽霜 月は天に冷やかなり。

欲上層雲窺麗色、   層雲に上り 麗色を窺はんと欲するも、

三更夢醒薄窗前。   三更 夢は醒む 薄窓の前。

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

[作者からの現代語訳]

  青娥とは冬の女神で、彼女の顔に施す粉が煙になる。
  夜霜が軽く落ち、月光が天を冷やすように見える。
  私が重ねた雲に上がり、彼女の美しい顔を見たいが、
  三更の時 窓が薄くて寒過ぎて夢から目が醒めた。


<感想>

 転句の「欲」の訳し方が心配とのことでした。
 読み下しも于義石さんが書かれたものは「層雲に上り麗色を窺い欲すが、」となっていましたので、「〜んと欲す」という日本語的な読み方に直すだけの問題だと思います。
 この「欲」の意味は日本語で言うと、「〜したいと思う」という心情ではなく、「今にも〜しそうだ」という状態を表す言葉でしょう。
 それを当てはめれば、訳は「層雲に上り、麗しい顔を見ようとしたその時」となりますね。
 この転句のことが夢の中だったとなると、「上層雲」も納得できる表現になってきます。



2020. 9. 4                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第265作は 于義石 さんからの作品です。
 

作品番号 2020-265

  紫燕        

少女懐春綰鬢斜、   少女は春を思ひ 鬢を綰(たが)ぬること斜め、

凝看紫燕入郎家。   凝看す 紫燕の郎家に入るを。

東風似可知娘意、   東風 娘の意を知るべきが似(ごと)く、

尽向君開二月花。   尽(ことごと)く君に向かひて二月の花を開かしむ。

          (下平声「六麻」の押韻)

<解説>

 昔、漢人の少女結婚するまで髪の毛両鬢に丸く環状にたがねました。
だから、「斜めに綰(たが)ねる」という表現をしました。
 紫燕とは中国の江南地区による見るツバメで、色が紫に近いため、紫燕と言われます。

[作者からの現代語訳]

 未だ結婚していない春を懐う少女が恋人を思い、
 ツバメが彼氏の家に入るのを眺めていた。
 東風である春風が、娘の心を知るように、
 あの人の庭に二月(旧暦の二月で実は今の三月ごろ)の花を咲かせまくる。

江南の少女達の恋の歌です。

<感想>

 転句の「似」は意味としては「〜のようだ」「みたいだ」という比況の言葉で、ここでは「可」と繋がって、「できるようだ」「(知り)得るみたい」という訳になります。
 ただ、「可」がある分、「べきがごとし」と読み下しはややこしくなりますね。

 結句は、転句の「東風」が主語として残っていると考えましたので、最後を使役形で読みました。



2020. 9. 4                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第266作は 于義石 さんからの作品です。
 

作品番号 2020-266

  庚子二月悼人        

二月風凝緑未新、   二月 風凝し 緑未だ新たならず、

江前酔憶不帰人。   江前に酔ひて憶ふ 帰らざるの人を。

七分濁酒三分涙、   七分の濁酒 三分の涙、

寂看桃花再度春。   寂しく看る 桃花 再度の春。

          (上平声「十一真」の押韻)


<解説>

 コロナ禍の中、多くの人が亡くなった報告が武漢から上海に届き、驚きと恐れ、身に染みる哀しみを感じました。
その時の気持ちを描く詩です。



 今年二月の風が遅く、緑があまりなくて、
 長江の前に酒を飲み、帰らぬ人を思った。
 濁る酒に涙が入り、桃の花が咲いても寂しく見える。

<感想>

 日本ではコロナウイルス感染流行の第二波が続いていて、日常生活は随分落ち着いたものの、まだまだ警戒を緩めるわけにはいかない状況です。

 武漢に近い上海には、私の友人も在住していまして、春の頃は随分心配しました。

 承句は于義石さんの読み下しでは「江の前 酔って帰らぬ人を憶い」となっていましたが、「酔」なのは「憶」の人、つまり作者でなくてはいけませんが、「酔って帰らぬ人」と解釈してしまいそうですので、誤解を防ぐために倒置法で読んだ方が良いでしょう。



2020. 9. 8                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第267作は 恕水 さんからの作品です。
 

作品番号 2020-267

  再興闘志        

桃紅李白擅春風   桃は紅 李は白 春風を擅にす

乳燕鳴鳩犢背童   乳燕 鳴鳩 犢背の童

挫折憂愁間坐久   挫折 憂愁 間坐すること久し

胸懐闘志立岡東   胸に闘志を懐きて 岡の東に立つ

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

  闘志が再び燃えあがる
 桃は紅に、李は白に色づき、春風を存分に味わっている。
 燕にはヒナが生まれ、鳩は鳴き、子牛の背にまたがった子どもが揺られていく。
 挫折し、悩み苦しみ、特に何をするともなく過ごす日々が続いた。
 今、春風の訪れとともに、私の胸に闘志が再び湧いてきて、岡の上に立っている。

<感想>

 高浜虚子の名句「春風や闘志いだきて丘に立つ」を下地にした詩ですね。
 前半の穏やかな農村風景も、かつての日本の風景としても考えられますね。

 転句からが主題になりますが、どんな人物がどんな気持ちで「挫折憂愁」なのかは書かれていません。
 そうした事情とは関係無く、闘志を抱いたということで詩をまとめようというのは、やや強引でしょうね。
 虚子の句を前提にしたとしても、それにもたれかかるのは、読者に不親切です。
 ただ、季節のイメージとして、春を迎えた時に心が奮い立つというのは分かりますので、結句に春を持ってくる必要があります。
 「丘に立つ」で終りたいところでしょうが、こちらに「對春風」と置き、起句は別の素材を入れると、詩としても前半と結句が繋がり、転句の曖昧さが救われると思います。



2020. 9. 8                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第268作は 恕水 さんからの作品です。
 

作品番号 2020-268

  帰化城過青冢        

荒涼朔北雁飛低   荒涼たる朔北 雁飛ぶこと低し

白草離離馬不嘶   白草 離離 馬嘶かず

落日風刀含雪意   落日 風刀 雪意を含む

香魂尚遶客心迷   香魂 尚ほ遶り 客心迷ふ

          (上平声「八斉」の押韻)

<解説>

  フフホトで王昭君の墓に寄る
 荒涼とした朔北の地、雁が低く飛んでいる。
 白草が一面の大地に、馬は嘶かずに草を食んでいる。
 日は落ち、身を切るような冷たい風が吹いてきた。どうやら雪が降ってきそうな気配だ。
 ここに眠るはずの美人の魂が、今もなお宙をさまよっている。
 時勢の波に呑まれた悲運の美女、王昭君の魂を、どう慰めたらいいものか。

<感想>

 中国三大(四大)美人の一人とされる王昭君、悲劇の女性として多くの詩が書かれ、日本でも平安期に詩題として定着していた存在です。
 そういう伝統的な見方は、実際に墓(青冢)を訪れれば一層強くなるものなのかもしれません。

 王昭君を扱った詩としては十分な内容だと思いますが、文字の上だけで考えた平安の詩人と異なり、現地を訪れたからこその恕水さんの感慨が欲しいところ。
 「上手な詩」以上をつい求めてしまいます。





2020. 9. 8                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第269作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2020-269

  懐古 一        

広島長崎被爆時   廣嶼 長崎 被爆の時

滄桑一夢尚堪為   滄桑 一夢 尚為すに堪へたり

劫余辛苦非容易   劫余の辛苦 容易に非ず

満目荒涼知者誰   満目 荒涼 知るは誰ぞ

          (上平声「四支」の押韻)

<感想>

 終戦から既に75年、深渓さんは歴史の語り部として、毎年夏にはご自身の体験に基づく思いを漢詩で語ってくれます。
 今年も四首、いただきましたので、ご紹介しましょう。

 承句の「滄桑」「滄海変じて桑田に為る」の言葉ですね。この場合ですと、同じ意味で劉希夷の『代悲白頭翁』に出てきた「桑田變成海」でしょうか。
 「尚堪為」は、「それでも頑張って(復興を)しなくてはいけない」というお気持ちでしょう。

 転句の「劫余」「戦争が終わった後」ということ、ここは本来は「辛苦」「容易」ではない、というのはおかしく、「非尋常」が適します。
 あるいは、「非容易」に対するなら「辛苦」でなく「復興」でしょうが、どちらも平仄が合いませんし、まあ、「非容易」も勢いはありますね。

 結句の「知者誰」には、「あの戦争や戦後を知っている人も少なくなってしまった」という深渓さんの痛切なお気持ちが滲み出ていますね。



2020. 9.10                  by 桐山人
























 2020年の投稿詩 第270作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2020-270

  懐古 二        

七十五年迎季時   七十五年 季を迎ふる時

興亡決既感懐滋   興亡 既に決し 感懐滋し

干戈惨憺風雲斂   干戈の惨憺 風雲斂まり

人逝平和知者誰   人は逝く 平和 知るは誰ぞ

          (上平声「四支」の押韻)

<感想>

 こちらの詩も、終戦の時を思い出しての詩です。

 起句の下三字、「迎季時」「また、終戦を思う季節を迎えた」という現在のことか、あるいは「七十五年前の夏を迎えたあの時」という過去のことか、ちょっと判断が付きにくいですね。
 下三字を「懷往時」として「七十五年間、ずっとあの時のことを思ってきた」として、承句をもう少し具体的な記述にしてはどうでしょう。
 全体的に、気持ちが強く出ていて、抽象的な言葉が続いていますので、どこかに画面が鮮明に浮かぶ所を作りたいです。

 承句の「決既」「既決」の語順です。

 転句の下三字は時が流れたことを示すわけですが、「風雲」「斂」ですと、ややあっさりという感じ、もう少し検討しても良いかと思います。

 結句は「懷古 一」と同じ形ですね。こちらも深渓さんのお気持ちが出ていますね。



2020. 9.10                  by 桐山人