2017年の投稿詩 第181作は 岳城 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-181

  列座千部經法要        

浄土真宗法要臨   浄土真宗 法要に臨む

聲明合一梵鐘音   声明 合一 梵鐘の音

貪瞋痴毒凡夫意   貪 瞋 痴毒 凡夫の意

千部經文導虚心   千部経文 虚心に導く

          (下平声「十二侵」の押韻)



<解説>

「千部經法要」: 親鸞聖人が越後から関東に赴く途中、浄土三部経を千回読経しようとした故事に由来。
「声明」: 梵唄
「貪瞋痴毒」:貪欲 怒り 愚痴の三毒
「虚心」: 心にわだかまりが無い

<感想>

 「「貪瞋痴(癡)」は「とん・じん・ち」と読んで、人間の煩悩を表す言葉ですが、「愚痴」は私たちが使う「愚痴る・文句を言って嘆く」という意味ではなく、文字通りに「おろかさ」を言います。
 それは人間の悪の根源で「三毒」であるのですが、それを棄てきれないのがまた人間でもある、というところが、近代文学の出発点でもあったと私などは思います。

 濁世を去って「虚心」に一時でもなれたというのは、貴重な瞬間だったのでしょうね。
 ただ、「虚心」ですと平仄が合いませんので、どう直すか難しいですね。



2017. 7.23                 by 桐山人



岳城さんからお返事をいただきました。

 いつもお世話になっています。

 「虚心」を「素心」にしました。
 「信心」「仏心」なども考えましたが、「素心」を選びました。

 ご指導 よろしくお願いします。

 列座千部經法要(推敲作)
浄土真宗法要臨   浄土真宗 法要に臨む
聲明合一梵鐘音   声明 合一 梵鐘の音
貪瞋痴毒凡夫意   貪 瞋 痴毒 凡夫の意
千部經文導素心   千部経文 素心に導く
          (下平声十二侵韻)

「素心」: 飾り気のない清らかな心

2017. 7.26               by 岳城


 そうですね。
 初案の「虚心」に近い言葉としては、お考えになった三つの中では「素心」が一番合うかと私も思います。

 「信心」「仏心」ですと、転句の「煩悩の中に居る私」が「千部経文」のおかげで「信仰の世界に入れた」という流れになり、どうもストレートというか、商品の広告を聞いているような感じがしますから。(あくまでも表現の問題としてです)
 「導」にこだわらなければ、「拂俗心」とか、「愈洒心」なども考えられますね。
 例に出しました「愈洒心」でも、「愈」とか「洒」を別の字にすれば趣が違ってくると思いますので、ぴったりのものを探してみてはいかがでしょうか。


2017. 8. 9               by 桐山人























 2017年の投稿詩 第182作は 東山 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-182

  丁酉立春聞嬢子赤縄事作(1)        

歳歳逢春空送春   歳歳春に逢うて 空しく春を送り 

未歸恋恋恨年巡   未だ帰がず 恋恋として年の巡るを恨む

勃聞霹靂赤縄事   勃に聞く霹靂 赤縄の事

去患野翁佳節晨   患いを去る野翁 佳節の晨

          (上平声「十一真」の押韻)



<感想>

 東山さんのお嬢さんがご結婚とのこと、おめでとうございます。

 前半は、なかなかその手の話が聞けないで、心配をしていた日々を描いたものですね。
 親としてのお気持ちはよく分かります。
 詩としては、起句はややおおげさかなと思いますし、承句も「恨年巡」はくどいかなと思いますが、これは喜びの裏返しの表現だと解釈できます。

 転句の「赤縄事」は、「いつまでも切れない夫婦の契り」という故事で使いますが、これから夫婦になるということですから、「結婚」とした方がしっくり来ると思いました。



2017. 7.23                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第183作は 東山 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-183

  丁酉立春聞嬢子赤縄事作(2)        

長子遇還團欒時   長子遇還り 団欒の時

勃宣嬢子赤縄事   勃に宣う嬢子の 赤縄の事

正之霹靂阮S我   正に之れ霹靂 間(しばし)我を亡ふも

愉待君歸君幸姿   愉しみに待たん 君帰ぎ 君が幸いの姿を

          (上平声「四支」の押韻)



<感想>

 前の作品と同じ内容ですが、息子さんが帰ってこられて皆が揃った時にお嬢さんから結婚の発表があったという事情が書かれているのでしょう。
 この場合には「長子」は申し訳ないですが付帯事項みたいな存在ですから、わざわざ「子」の字を重複させると、息子さんの方も何かあるのかと思います。
 それはそれでめでたいことかもしれませんが、全体はお嬢さんの話として書かれていますので、起句は記録としては意味があっても詩としては浮いていますね。

 結句の「君」の重複は呼びかける気持ちが出ていて良いと思います。

 「帰」は「とつぐ」の意味で良いのですが、個人的な感懷としては、「帰る」と訓読しがちなので、出来れば他の言葉にしておいた方が詩では良いと思います。



2017. 7.23                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第184作は 芳園 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-184

  消夏雑詩        

炎威七月海邊樓   炎威七月 海辺の楼

帆影模糊伴白鷗   帆影模糊として白鴎を伴ふ

浴後涼風無限好   浴後の涼風 無限に好し

慿欄觀月火雲収   欄に憑りて月を観れば 火雲収まる

          (下平声「十一尤」の押韻)



<解説>

  激しい暑さの、七月海の見える楼には
  遠くぼんやりとした帆船に、白鴎が伴うように
  入浴の後、涼しい風に、限りない喜びを
  欄によりかかり月を見れば、赤く燃えるような雲が収まっている




<感想>

 前半の遥かな遠景は昼の景色、結句で「観月」と来るともう夜のイメージですね。
 実際に見た景色は、昇ったばかりの夕方の月かもしれませんが、それは句だけでは伝わりません。
 「東天新(清)月」と少し丁寧に描写しないと、読者が混乱します。

 転句は「風呂上がりの風が最高!」という感じで、多少俗っぽい「無限好」の言葉も生き生きとしています。



2017. 7.23                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第185作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-185

  懷亡友(故新谷勲君)        

博釜時宜富賑津   博釜 時宜 富賑の津

少年渡滿以文親   少年 渡満 文を以て親しむ

戰前戰後無人識   戦前 戦後 人の識る無し

唯聽訃音離別晨   唯聴く 訃音 離別の晨

          (上平声「十一真」の押韻)



<解説>

 新谷君は小学校時代の学友、戦時中に博釜連絡船で、博多港から満蒙(張家港口)に渡った。
 以後、戦中戦後を通じ文通。    雁が音や満蒙の春初便り


<感想>

 兼山さんは今年に入ってからお身体の調子が悪かったとのことです。
 入院中は退屈だからと一日一首を心がけたそうで、創作意欲が旺盛ならば大丈夫と安心しています。
 一昨日は卒寿を迎えられた深渓さんにお会いしてお話を伺いましたが、まさに矍鑠。桐山堂の長老の皆さん、まだまだしっかりと後輩をにらんでいて下さいよ。

 さて、今回は悼詩を四首送っていただきました。
 友人や先輩などが亡くなる、ということについて、兼山さんは「ひとり取り残される我が身に感謝する」とお手紙に書かれていました。
 そうした感覚は、恐らく、戦中戦後を生きて来られた方々、大きな災害に遭って親しい人を失った方々の気持ちにも通じるもので、「残された者の悲しみ」を背負いながら、嘆きよりも感謝という心なのだと思いました。
 詩題にお名前が書かれていますので、いつもですとこうした個人名はイニシャルに直しもするのですが、今回は哀悼のお気持ちを考えてそのまま載せました。

 今回の詩は小学校時代のご友人、七十年以上もの長いお付き合いだったのですね。
 転句の「今ではもう戦前戦後のことを知っている者も居なくなった」というお言葉は、単なる時代変化のことではなく、ご友人との長い星霜を思い返してのものでしょうね。



2017. 7.24                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第186作も 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-186

  懷亡師(故松藤大観師)        

野芥百墳魂魄眠   野芥 百墳 魂魄眠り

明王神佛護縁邊   明王 神仏 縁辺を護る

善男善女瀧修行   善男 善女 滝修行

宗主中興已九泉   中興の宗主 已に九泉

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

 裏山(西油山)のウオーキングコースにある晃恩寺の住職、石鎚神社大観遥拝所代表。
 霊峰石鎚山登山では、下山する人にも「お上りさん」と掛け声を掛け合う。

   石鎚や山下る時「お上りさん」

<感想>

 こちらの詩は結句がやや問題で、「宗主中興」は「宗主中興す」と読む形です。
 そうすると、下三字への流れとしては、「宗主中興するも 已に九泉」と逆接でつなぐのでしょう。

 起句の「野芥」は晃恩寺のある地名だったのですね。「のけ」と読むそうですが、山地をイメージさせる言葉ですね。
 「善男善女瀧修行」は、それだけお寺が人気があるということの言い換えで、結句の「中興」を暗示したものでしょう。



2017. 7.27                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第187作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-187

  懷亡阿兄(故閑納重義大兄)        

閑人臥病忘交流   閑人 病に臥し 交流を忘る

未納札翰心事悠   未納の札翰 心事悠なり

非礼重言何日報   非礼 重言 何れの日にか報いん

阿兄喩義隔明幽   阿兄 義を喩り 明幽を隔せり

          (下平声「十一尤」の押韻)



<解説>

 元勤務先「K建設」の先輩・上司。
 日本オープン出場のゴルファーであった。

 名前の音感の類似から「天皇」と呼ばわった。
b  詩中に個人の氏名を読み込んだ。

   筆を擱(お)く閑納天皇一代記



<感想>

 結句の「明幽」は「この世とあの世」。
 兼山さんがご病気の間に他界なさったという内容ですが、承句の「悠」は「愁」とか「留」の方がつながりが良いと思いますが、どうなんでしょうか。

 兼山さんの先輩・上司ということですが、きっと「天皇」と呼ばれるだけのお人柄だったのでしょう、吟句に兼山さんの敬慕のお気持ちがよく出ていますね。



2017. 7.27                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第188作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-188

  懷亡友(故白石悌三君)        

逝者不歸何處之   逝く者は 帰らず 何処へ之きしや

乾坤無極有誰知   乾坤 無極 誰有りてか知らん

巡來四季再逢爾   四季 巡り来りて 再び爾に逢ふ

七月花茨忌日時   七月 花茨 忌日の時

          (上平声「四支」の押韻)



<解説>

 高校時代の学友。命日を「花茨忌」と称す。
 今年(七月四日)は、十九回忌「丁酉花茨忌」

   又ひとつ回を重ねて花いばら

 独吟歌仙「花茨」(第十七の巻)

  (発句) 又ひとつ回忌重ねて花いばら
  ( 脇 ) 二〇二〇年東京五輪
  (第三) 米の坂越さんとぞ思ふ気概以て
  ( 四 ) 夢一夜邯鄲の夢物語
  (月座) ときめきて一夜の月下美人待つ
  (挙句) 秋風ぞ吹く老々介護

<感想>

 兼山さんは今年八十四歳におなりでしたね。
 歌仙にありますように、「米の坂越さん」の気概で頑張って下さい。

 「花茨忌」の詩も毎年いただいています。今年も墓前で吟じられたのでしょうか。
 毎年思い出してくれる友が居る、あるいは、思い出させてくれる友が居たというのは、幸せなことだと思いますね。

 転句の読み下しは「巡り来たる四季」ですね。逆にしたければ「春秋忽過」、時期から行くと「秋春来去」なども考えられますね。



2017. 7.28                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第189作は 酔竹 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-189

  山間春宵        

空谷黄昏白水行   空谷 黄昏 白水行く

野猿度樹鹿麛鳴   野猿樹を度り 鹿麛鳴く

余暉忽盡春温減   余暉忽ち尽き 春温減ず

風定沈沈但澗聲   風定りて沈沈 但澗声

          (下平声「八庚」の押韻)



<解説>

 川湯温泉(和歌山)の露天風呂で体験した情景です。

 初案は次の形でした。

  山館窗前白水行
  鹿麛飲谷野猿鳴
  余暉欲盡春温減
  風定沈沈但澗聲

<感想>

 前半に山間の鄙びた風景がよく表れています。
 「野猿」「鹿麛」(「麛」は子鹿)は現代の私たちには馴染みが少ないですが、酔竹さんによると実景だとのこと、旅行気分満喫ですね。

 転句で時間経過を入れて、結句に持っていきたい意図でしょう。
 「余暉忽盡」は山の中の描写、地平線ではなく山に夕陽が沈むので、「忽」は実感でしょうね。
 ただ、「盡」は時間経過を含むニュアンスがありますので、「忽」よりも「漸」が釣り合いがよく、ここならば「忽落」とスパッと言い切った方が良いでしょう。

 「春温減」は「暖気が消えた」ということで、「春」と入れて季節を表したかったのだと思います。他の句に季節感が薄いですからね。
 しかし、わざとらしく入れなくても題名に入っていますし、そもそもが春の遅い山奥でしょうから、かえって唐突で違和感があります。
 逆に言えば、「温泉の露天風呂」という情景が何も書かれていないことの方が寂しいですね。「暗くて湯船が見えない」とか「湯客の姿が分からない」とか、そんな方向で考えてはどうでしょうね。



2017. 8. 5                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第190作は 国士 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-190

  行田題園林     行田の園林に題す   

薫風吹入梅   薫風吹き、入梅し

一見満園花   一見す満園の花

双蝶飛清景   双蝶飛び清景なり

君嬋娟足誇   君の嬋娟、誇るに足る

衆芳開毎歳   衆芳、毎歳に開き

名利競生涯   名利、生涯を競ふ

時復情人楽   時に復た情人と楽しみ

年年愛惜華   年年、華を愛惜す

          (下平声「六麻」の押韻)



<解説>

 富山県滑川市の行田公園で彼女と作ったものです。
 対句になっていなかったら指摘お願いします、今のところ自信がありません。習作です。

  行田公園の題について詠ふ

 おだやかな初夏の風が吹き、梅雨に入った。
 ひとたび見ると花が庭園にいっぱい。
 二匹の蝶が飛び、清らかな景色である。
 君の姿のあでやかな様子も誇りに足りる。
 多くの香しい花が毎年咲き開き。
 人間の名誉と利益は一生涯競われるが。
 時にはまた愛する人と花を楽しみ。
 毎年花を深く愛して大切にする。

<感想>

 まずは妙な感想ですが、解説にお書きになった「彼女」というところ、お二人で漢詩を相談しながら作った、ということかしらと感激してしまいました。
 そうではなくて、彼女一緒に居た時に作った、ということかもしれませんが、私は「漢詩でデート」しているカップルを想像して、勝手に盛り上がっています。

 さて、詩の方の感想に行きましょう。
 習作とおっしゃっていますが、チャレンジが大切、二人で挑戦すれば(しつこいかな?)大丈夫です。

 対句のことで見ますと、五言律詩の場合には第三句と第四句(頷聯)と第五句と第六句(頸聯)を対句にするのが一般的です。
 頷聯は句の構造も語の対応もしていませんので、最初から対句にするつもりは無かったようですね。

 「双蝶飛清景」は「双蝶飛び 清景なり」と訓じていますが、読みとしては「双蝶 清景を飛ぶ」とした方が自然ですし、五言の「二字+三字」のリズムを守った方が読みやすいです。
 国士さんの訓ですと、「蝶が飛んだ」情景を「清景」とするわけですが、満園の花の「清景」の中を蝶が飛ぶことになり、切り方で意味が変わります。

 「君嬋娟足誇」も「二字+三字」のリズムが崩れているため、ギクシャクした印象です。
 「君」の語を入れたのは二人で居ることを表しているのでしょう。語順としては「君の嬋娟」ではなく「嬋娟たる君」とした方が良いですね。
 「嬋娟」が誰のことを言ってるのか、前の句の「双蝶」「清景」と誤解されないように「君」を句頭に持ってきたのかもしれませんが、逆に不自然になったように感じます。

 頸聯は形としては対句になっていますので、こんな感じで沢山作ると良いでしょう。
 「花は毎年開くのに、人はいつでも名利を追うばかり」とまとめて、尾聯の「時には」へと流れていきますね。
 より良い対応にするために、ということで言いますと、「衆芳」は上の語が下の語を修飾する構成、「名利」は並列の構成、熟語の構造を上句下句で整えるともっとすっきりします。

 対句以外で気の付いた点は、
 題名の「行田題園林」は「行田の園林」と読むならば「題行田園林」と並べるべきで、ここは「行田にて園林に題す」と読むしかありません。
 「題」は本来は詩を壁に書き付けることで動詞として「詠」と同じように用いますので、解説に書かれた「題について詠ふ」というのはおかしい言葉です。

 第二句の「一見」は「ちらりと見る」ということで、「満園」にはそぐわない、ここは「一望」が良いでしょう。

 その「満園花」もそうですし、「衆芳開毎歳」もそうですが、そのままですと季節として春を表す言葉です。この詩は「薫風」「入梅」などからは初夏のようですので、季節感がちぐはぐして読者は混乱します。
 例えばバラならその名前をどこかで述べる、「衆芳」を「薔薇」と具体的に記述するような形で、作者は実際に見ているのでいちいち名前を言わなくても分かっていますが、読者は詩から想像するしかありませんので、配慮が必要です。

 あと、細かいことで言えば、「毎歳」「年年」は同じ意味ですので、漢字を替えても意味としては重複感が残ります。
 また、上の「時復」とも違和感がありますので、この「年年」は他の言葉を入れるようにしましょう。



2017. 8. 8                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第191作は 凌雲・羽沢典子 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-191

  再会桜        

東風歓喜漫桜開   東風 歓喜し 漫に桜開く、

旧友芳園酒宴催   旧友 芳園 酒宴催す。

驟雨惜花人集処   驟雨 花を惜しむ 人の集ふ処、

再期此地待春来   此の地に再び期し春来を待つ。

          (上平声「十灰」の押韻)



<解説>

 女房との合作です。
 手取り足取り教えたつもりですが、漢詩はやはり馴染めないようで、マニアックな専門的なジャンルなのだと痛感しました。
 慣れてしまえば慣れてしまうものだと思うのですが。

 羽沢典子は本人のたっての希望のペンネームです。よろしく


<感想>

 前の国士さんの作品で「彼女と」の解説に敏感に反応しましたが、凌雲さんのこちらの詩は何と「合作」!!!

 せっかく苦労して作った漢詩を妻は見向きもしてくれない、という嘆きは沢山聞きますが、「合作」したというのは珍しいです。
 お二人の写真も添えていただきましたが、これは公表は控えましょう。

 慣れるまでは誰でも「馴染めない」もの、また「合作」や「競作」という言葉を聞かせていただきたいですね。

 詩は、承句まではサラサラと書けたのではと感じます。内容が場面や情況の説明になりますので、多くの情報の中から必要なものを選び出して配置するという、ある意味確認作業のような面もあるからです。
 転句からの心情を表す部分になると、今度は形の無いものを言葉で表すということで、ここから表現が難しくなってきます。

 「驟雨惜花人集処」は、それぞれの言葉のつながりがよく分からないのですが、「急に雨が降ってきた、でも花が散るのを残念に思い、寄り集まって雨宿りした」ということでしょうね。
 分かりにくい理由は、「驟雨」がどうしたのかが無くて投げ捨てであること、そのため「惜花」の主語かのように感じます。
 「驟雨令人惜花処」という感じで複文化して、「驟雨」がどうしたのかを示すと分かりやすくなるかと思います。

 結句は読み下しを「再び期す 此の地 春の来たるを待たんと」とした方が良いですね。



2017. 8.10                 by 桐山人
























 2017年の投稿詩 第192作は 凌雲 さんからの作品です。
 

作品番号 2017-192

  誰警笛     誰かの警笛   

楼台深暮彩   楼台 暮彩を深め、

俯瞰感時遷   俯瞰すれば時の遷ろふを感じる。

原色交差点   原色の交差点、

群青都市伝   群青の都市伝。

持愁人倘歩   愁ひを持し 人 倘歩す、

潤睫影幢然   睫を潤はし 影 幢然たり。

返響誰警笛   返響する 誰かの警笛、

街灯語夢鮮   街灯 夢を語って鮮やか。

          (下平声「一先」の押韻)



<解説>

 尾崎豊のアルバムの『壊れた扉から』の中に「誰かのクラクション」と言う楽曲がアルバムの最後の曲としてあるのですが・・・・

 久し振りにレンタルビデオ店に行き借りて帰って聞いてみました。尾崎豊といえば知らない人はいないと思いますが・・・・
 私の若い頃はそれこそ全盛で、今振り返ってみると大人に逆らう、社会に牙をむく、少年受けするような内容ばかりで、我ながらよくこんなものを聞いていたものだ・・・・・
 若気の至りだとつくづく思うのですが。
 「誰かのクラクション」だけはちょっとフィーリングが違いまして・・・・・・・

 さて、何をか主題にしているかと聞かれたら、現代人の孤独と安らぎとでも言いましょうか。
 はっきり言葉には表現しづらいムードのようなものが、何とも優しい印象が残りますね。

 私は詩人ですから言葉を使ってこの曲のムードを伝えたいと思うのですが・・・・・・
 おひまでしたらこの曲も一緒に楽しんでみてはいかがですか。

 余談ですが、じっくり詩に向き合う時間があるだけ幸福なのかもと思うようになりました。

<感想>

 尾崎豊は私の住んでいる半田にも縁があって、新美南吉が通ったという昔からの喫茶店と親戚関係だったかと思います。
 凌雲さんの世代が彼の歌と丁度重なるのでしょうね。

 曲は私は分からないので、今度探してみますが、内容は「現代人の孤独と安らぎ」とのこと、凌雲さんの詩を拝見すると「都会の憂愁」といったところでしょうか。
 最後に「街灯語夢鮮」と付け足したような感じが「安らぎ」を表したのかな?

 分からない言葉が「都市伝」、次の「倘歩」は「倘佯」(フラフラとさまよう)の片割れですが、「歩」とつなげて「街をさまよい歩く」というお気持ちでしょうが、この一字だけでは意味が通じません。
 「徜」の方がまだ良いかも知れませんが、これも「徜徉」の熟語で使うべき言葉です。
 あまり気持ちに適さないかもしれませんが、「独歩」あたりで収めるべきでしょうね。

 



2017. 8.10                 by 桐山人