作品番号 2017-151
看花
麗日尋芳草色 麗日に芳を尋ぬれば草色堰iととの)ひ
東風剪剪落花頻 東風剪剪として落花頻りなり
千枝遠近一堤白 千枝の遠近 一堤白く
高鳥水禽同醉春 高鳥も水禽も同じく春に酔ふ
<感想>
起句で春の様子を出したいのだと思いますが、「尋芳」は香しい花を求めること、それを受ける言葉が「草色均」ですと、花を見に出かけたけど残念ながら草ばかりだったと、流れとしては逆接になります。
下三字を「野水瀕(津)」のようにして場所を表す形も考えられますが、中二字を「郊行」として、「草色」を残す方向でどうでしょうね。
転句は桜の花で考えると、もう一桁上げて「萬枝」で良いでしょう。
転句までの視線の位置は低く、ずっと地上を眺めています。結句の「高鳥」だけが上に目が向いて、「同」が現実感がありませんね。
「騒客」として、人間も水鳥も「同」となると統一感がでますね。
2017. 5.25 by 桐山人
作品番号 2017-152
殘櫻
過午徘徊淺水涯 過午に徘徊す浅水の涯
殘櫻一樹路三叉 残桜の一樹 路は三叉
雨聲淡罩春猶冷 雨声淡く罩(こ)めて春なお冷やか
煙景無情獨看花 煙景は無情 独り花を看る
<感想>
前半は良い流れですね。
承句の「路三叉」が現実感を浮き立てて、恐らくは昔の人が分かれ道の目印に桜を植えたのかもしれない、そんないかにも在りそうな画面が目に浮かびます。
右に行くか、左に行くか、そこで行き悩む作者を春の細い雨がしとしとと包み込み、まだ冷えを感じるという転句への伏線にもなっています。
実際に三斗さんがこの三叉路に立ったのかどうか、と言うことは問題ではなく、仮に詩語として見つけてきたものだとしても、この言葉によって作者は道に立つ自分の姿を思い浮かべており、詩情漂う世界を体験していることは間違いのないことです。
漢詩は、用いた詩語によって現実とは異なるイメージを抱くことができる、言葉による脳内体験ができることも大きな魅力のひとつです。
良い場面を構成することができたと言って良いでしょう。
転句も勢いで乗り切り、いよいよ最後の結句、「煙景」は「雨に煙る景色」、転句の上四字と同じ景を持ってきましたが、それが「無情」となると、どうして「煙景」が「無情」なのか難しい。
何とか理解して行けば、「無情」は「情けの心が無い」という意味で、私の気持ちを配慮してくれない、お構いなしということだろうと思います。
ただ、雨の景色に対しての思いは、転句で「春猶冷」と一旦述べていますので、大転換があるなら別ですが、同じような趣ならわざわざ繰り返すことはなく、それならば「煙景無人」と叙景の言葉にしておいた方が良いでしょう。
「獨」も感情が入りますので、「只」くらいで控えておく方が、句意としては逆に印象が強くなりますね。
2017. 5.26 by 桐山人
作品番号 2017-153
祝愛孫大學入學
櫻花艶艶一門親 桜花 艶艶 一門親しむ
習習香風賀宴巡 習習たる香風 賀宴巡る
無限前途齢十八 無限の前途 齢十八
最高學府是青春 最高 學府 是れ青春
<解説>
花見を兼ねた送別の宴
前途洋洋 孫娘は大学へと巣立っていきました。
「艶艶」: はでやか
「習習」: 春風
「香風」: 花を吹く風
<感想>
まずはご入学おめでとうございます。
送別の宴、巣立つという言葉から、お孫さんは遠くの大学で下宿生活を始められたのでしょうね。
「艶艶」や「習習」の言葉が、門出の華やかさとお孫さんの若々しい美しさを暗示していて、岳城さんの愛情の深さが感じられます。
まさに、「青春」の可能性は「無限」です。良いはなむけの詩になったと思います。
2017. 6. 5 by 桐山人
作品番号 2017-154
北三旅行偶成
麗堂花発艶姿紅 麗堂 花開き 艶姿紅なり
懐想夭夭学舎風 懐想す 夭夭たる学び舎の風
媼翁集亭年一度 媼翁 亭に集ふは 年一度
桃源郷在懇談中 桃源郷は懇談の中に在り
<感想>
同窓生との旅行ですね。
年に一度でも、気心のわかり合った仲間との懇談は楽しく、「桃源郷」に迷い込んだかのような気持ちになるのはよく分かります。
修学旅行の再現、というところでしょうか。さすがに「枕投げ」は無いでしょうが、布団に入ってからの夜話も楽しいことと思います。
題名の「北三」がよく分からないので、ここは注が欲しいところです。
もう一つは、「夭夭」たるは「学舍」に掛かるのか、「風」にかかるのか、どちらにしても「夭夭」とは合わないように感じます。
2017. 6. 5 by 桐山人
作品番号 2017-155
庭前草
光陰如幻忽生終 光陰 幻の如く 忽ち 生 終わる
苦楽功名畢返空 苦楽功名 畢に空しきに返る
任放今忙庭草薙 任放(いかにもあれ)今忙なり 庭の草薙
春周丘緑野花紅 春周れば 丘は緑 野の花は紅
<感想>
転句から先に見ていきますと、「任放」は「どうでもよい」という気持ちですが、これは下の語を目的語に取りますので、「今忙庭草薙」はどうなるかと言うと、「今忙しい庭の草取りなんかほったらかしにしよう どうせ春が来れば丘は緑の草、野は紅い花でいっぱいになるのだから」という意味になります。
その場合、前半の「光陰如幻」とか「苦楽功名畢返空」いう感懐はとつなげると「だから、何なのか?」という疑問が浮かびます。
結句の「季節はいつでも変わりなく巡り続けている」という記述をどう取るか、ということになりますが、「丘緑野花紅」という色彩感のある句から見れば、肯定的にここは受け止めて、前半の嘆きを一蹴したいところです。
そういう点では、「任放」は「只是」と逆接を明確にした方が全体が流れるでしょうね。
2017. 6.12 by 桐山人
作品番号 2017-156
半田亀崎 潮干祭
鼓笛流行満巷中 鼓笛流れ行き 巷中に満つ
旌旗緩緩靡潮風 旌旗 緩緩 潮風に靡く
祭車奔渚競華勇 祭車 渚を奔り 華勇を競う
群衆歓呼拡大空 群衆の歓呼 大空に拡がる
<感想>
酔竹さんは私と同じ愛知県の知多半島にお住まいで、半田市での「漢詩を愉しむ会」という勉強会に参加されてます。
こちらの詩は、この五月に半田市の亀崎地区で行われた「潮干祭」を詠ったものです。
亀崎の潮干祭は神社に集結した地区の山車が、社前の港に打ち出し、海岸から海の中に曵き込むという雄壮なクライマックスがあり、昨年、ユネスコの無形文化遺産に登録されました。
祭りの華やかで賑やかな様子が全体に描かれ、また、亀崎潮干祭ならではの「潮風」「奔渚」が効果的で、まとまった詩になっていると思います。
2017. 6.14 by 桐山人
作品番号 2017-157
過行河畔春
櫻花散盡鬧聲収 櫻花散り尽くして 閙(どう)声収まる
細柳搖搖掃繋舟 細柳 搖搖 繋舟を掃く
浴日水禽盤石上 浴日す 水禽盤石の上
稚魚群泳轉悠悠 稚魚 群れ泳ぎ 転(うたた)悠悠
<感想>
こちらも酔竹さんの作品ですが、題名を「河畔送春」とすればすっきりするでしょうね。
花見の喧騒も去り、「舟」「水禽」「稚魚」と川辺の素材を描いていますが、起句の何となく慌ただしい雰囲気と異なり、落ち着いた晩春の趣がよく出ていますね。
承句の「揺揺」は情景としては良いのですが、時間が止まったようなゆったりとした描写は結句の「悠悠」と似ており、その分、転句への発展が弱く感じます。
感覚を入れないようにして、ここを「河堤」と場所を表すようにしておくと、起句も川端の桜となり、前半がひとまとまりになります。
絶句としての構成で、参考意見としてお考え下さい。
2017. 6.14 by 桐山人
作品番号 2017-158
歌春盛今
枯庭為彩彩 枯れたる庭は彩彩たるを為し
耀日益煌煌 耀きたる日は煌煌たるを益す
芳気漂温気 芳気は温気を漂ひ
春今憶爽娘 春の今爽やかな娘を憶ふ
<解説>
「彩彩」: 美しいさま
「煌煌」: まばゆいさま
結句は、「春盛りの今は 爽やかな娘さんを思い浮かべる」=「爽やかな娘さんのようだ」の意。
<感想>
筑翁さんからは久しぶりにいただきました。
前回作品をいただいた時に、「五言の詩の方が作りやすいので、そちらで行く」というお言葉があり、つい私が「字数の多い七絶の方が情報が詳しく、詩作の練習ならば嫌がらずに七絶に取り組んだ方が良い」と余分なことをお返事に書いてしまし、せっかくの意欲に水を差してしまったのではないかと申し訳なく思っていました。
また、送って下さり、ホッとしているのが正直なところです。
ぜひ、頑張って下さいね。
さて、作品のほうですが、
起句は「(冬の間は)枯れていた庭も(春になって)色づきを増し」という意味でしょうが、二つの季節を五言の一句に入れるのは難しく、ちょっと言葉が足りませんね。
このままの句では「枯れた庭が彩られている」となり、どうも妙な印象です。
また、二句目以降を見ると、もう春爛漫という状況ですので、季節感として二つほど前になる「冬」を出すのも疑問です。
「昨日枯庭今彩彩」と句中対のようにできると良いですが、五言ならば「春庭為彩彩」と先に「春」を出して分かりやすくすることも必要でしょう。
転句は「芳気」と「温気」ということで、「かぐわしさ」と「あたたかさ」という二つのものを並べたのは、目新しい感覚ですね。
ここは、起句と逆に、五言の短縮形が効果的な句になっています。
ただ、「漂」は疑問で、「温気を漂はす」と訓じたとしても、二つの関係がわからず、イメージがすっきりしません。
「催」「携」などとし、結句へのつながりから言えば順番を逆にして、「温気催芳気」として、娘さんの華やかさにつなげたいですね。
結句は言葉がゴツゴツしていて、言いたいことを詰め込んだ印象です。
全体を考えて、「春今」の「春」を他に持って行き、「当今」「只今」「即今」など、現在を強調する言葉を入れるとすっきりするかと思います。
2017. 6.19 by 桐山人
作品番号 2017-159
初夏
紫藤翠柳白薔薇 紫藤 翠柳 白薔薇
萬鵠@潮庭院肥 万緑潮の如く庭院肥ゆ
風片一過鳩喚雨 風片一過 鳩が雨を喚び
輕寒有味恍忘歸 軽寒に味有り恍として帰るを忘る
<感想>
色を表す言葉が前半に四つ、もちろん作者は狙ったものですね。
起句の「しとう すいりゅう はくしょうび」が「三 四 五」音で調子が良いので、あまり重複感はありません。強いて言えば、「翠」と承句の「緑」でしょうが、起句の個別の素材に対して承句は「万緑」とまとめあげたことで、視野が変わって違った景色という印象のため、救われていると思います。
転句の「風片」は「雨絲風片」という形で使われますが、この語は「春の細い雨と微かな風」。三斗さんは「微風」という意味で使っていると思いますが、熟語のイメージとしては春を想像します。
同じ転句の「鳩喚雨」は、「鳩(斑鳩)は雨を喚ぶことができる」と中国で言われていることからの語です。確かにどんよりと曇った空には鳩のくぐもった鳴き声がよく合いそうです。
ここは初夏、前半の鮮やかな色彩から急転という狙いでしょうが、あまり激しいと、結句の「恍忘歸」が後半だけを受ける形になり、前半が忘れられてしまいます。
結句は「寒」まで行くと、初夏とは合いません。前半と後半がギャップがあり過ぎて、後半は春の詩のように感じます。
一字のことですが、季節の具体性が落ちると一度に詩がすっきりしなくなります。「涼」くらいが適当でしょうね。
2017. 6.22 by 桐山人
作品番号 2017-160
讀書
雨後陽光夏木繁 雨後の陽光 夏木繁り
南樅@漾忽。門 南薫漾漾として緑は門を囲む
唯當閉戸繙書卷 唯だ当に戸を閉じ書巻を繙けば
詩句如茶淨六根 詩句茶の如く六根を浄む
<感想>
こちらの詩は全体としてよくまとまっていると思います。
ただ、転句の「閉戸」が疑問で、「唯當」と前半の好景を受けて「丁度この今こそ」と来たら、「開戸」じゃないかと思うのですがどうでしょうか。
初夏の爽やかな季節に読書をすること自体は良いわけですが、この転句の「唯當閉戸」ですと、ひたすら部屋に閉じこもってストイックに学問に励むような印象です。
結句の穏やかな結末に繋げるのでしたら、「閑窓獨坐繙書巻」のような形で収めておくと良いでしょう。
2017. 6.22 by 桐山人
作品番号 2017-161
七律・醉扮風人交沈約
霜髮鬆鬆近墓穴, 霜髮 鬆鬆として墓穴に近くも,
詩翁法力未枯竭。 詩翁の法力いまだ枯竭せず。
杯觴滿酒浮天鏡, 杯觴 酒を満たして天鏡(月輪)を浮かべ,
口吻生花吐夢蝶。 口吻 花を生じて夢蝶を吐く。
振翅辭林求蜜語, 翅を振るって辞林に蜜語を求め,
遊魂筆路擅音節。 魂を遊ばせて筆路に音節を擅(ほしいまま)にす。
偶聽仙樂得靈感, たまたま仙楽を聴けば霊感を得,
醉扮風人交沈約。 醉って風人に扮し沈約と交はる。
<解説>
末句の沈約(441年 - 513年)は中国南北朝時代の梁の学者で、声調を発見し詩の響きをよくするための声律を研究しました。
いわば「韻律」の始祖と言える人で、沈約がいなければ、そして、韻律(押韻と平仄に関する規律)がなければ、私たち日本人が漢詩を詠み続けることができたかどうか、だと思います。
その沈約を思ううちに頭に浮かんだのが、平水韻でいう入声を韻字とする作詩です。
入声は平水韻ではすべて仄声ですが、入声が消滅してしまっている普通話では、平声に組み入れられるものと仄声に組み入れられるものに二分されまています。
そこで、平声に組み入れられる旧入声で押韻すれば、古人が決して詠まなかった句を詠めることになります。
そういう未開拓の辞林での作詩を拙作は試みてみました。
沈約が今の時代に生きているとしたら、何をいうだろう、そんなことも考えた次第です。
<感想>
「現代中国語の普通話では入声が消滅してしまった」というのは、つい先日静岡の漢詩講座で話してきたことです。
唐代の平声が現代の一声と二声に、上声が三声、去声が四声ということで、では入声はというと一声から四声に分散してしまったわけですので、現代の平仄(一声と二声が平声、三声と四声が仄声)がそのまま平水韻の平仄に当てはまらないというところが悩ましいと言えば悩ましいところです。
入声が四声に分散するのに何か基準とかルールがあれば分かりやすいかもしれませんが、あまり聞いたことがないので、そういう意味でも鮟鱇さんの今回の押韻は興味深かったですね。
平水韻では韻目が違っているので押韻とは思えない字が、現代では共通韻として読まれているわけですが、これを日本人が作ったと聞けば「宋書倭国伝」を書いた沈約ですから、きっと喜んでくれたと思いますよ。
2017. 6.23 by 桐山人
作品番号 2017-162
七絶鶴頭格・起承轉合
起牀洗臉醒餘酲, 起牀し臉(かお)を洗って余酲を醒まし,
承受愛妻責備聲。 承受す 愛妻の責備(こごと)の声。
轉化工頭架橋後, 工頭(現場監督)に転化(変身)し架橋の後,
合龍祝賀坐旗亭。 合龍の祝賀 旗亭(飲み屋)に坐る。
<解説>
「合龍」は、橋梁や堤防の修築時に,最後の空隙の部分を接合することです。
拙作は、絶句を詠む場合は、「起承転結」ではなく「起承転合」を心がけた方がよさそうだ、と思いつつ詠んだものです。
起: 大阪本町 糸屋の娘
承: 姉は十六 妹が十四
転: 諸国大名は 弓矢で殺す
結: 糸屋の娘は 目で殺す
この俗謡は頼山陽が七言絶句を詠むコツとして弟子に示したものとして広く知られていますが、絶句の「起承転結」をとてもわかりやすく説いているように思います。
それはともかく、私が所属する葛飾吟社では、絶句の詩法としては「起承転結」は誤りで「起承転合」が正しい、としています。
それを最初に教えてくれたのは、中国の著名な詩人林岫先生で、中国では起承転結とはいわず、起承転合だ、というお話を聞きました。
また、国文学の研究者である詩友の調べでも、日本も、江戸時代の詩人たちは「起承転合」としていたが、それが、「起承転結」になったのは明治以降のことで、律詩の「結聯」との混同があったのではないか とのことです。
「結句」という言葉は、結びの句、ということで、とてもわかりやすいと思います。
しかし、「合句」となると、何と合うのか、何が合わさっているのか、それがよくわかりません。
そこで合句という呼び方は廃れ、結句と呼ぶのが広まったように思います。
しかし、頼山陽が弟子に示したとされる上記の例をみると
起句に「糸屋の娘」とあり、結句にも「糸屋の娘」とあります。
つまり、合句は、起句と合わさっています。
起句は話題を提起し、
承句は起句を承けるが、
転句は話を転じて起句・承句とは別のことをいい、
合句は、転句で述べられたことと起句・承句とを合体させています。
なるほど です。
この合体の発想に照らせば、「起承転結」は、「起承転合」と呼んだ方がよいし、
頼山陽の頭のなかにあったのは、結論を述べる結句の発想ではなく、起句へ歸る合句の発想であったように思いえます。
<感想>
「結句」と「合句」、単なる呼び方の問題ではなく、どう詩を作るかに繋がることですね。
「結句」という呼び方は、確かに「わかりやすい」面を持っています。
賛否は別にして、漢詩教室などでよく言われる「絶句は結句から作り始めよ」という教え方も、「結びの句」と思うから納得しやすいわけで、「合句から作り始めよ」と言われると合わせるべきものが無いうちに作らなくてはならず、かえって分かりにくくなるでしょうね。
ただ、だから「結句だ!」というのは本末転倒で、「結びの句」というイメージが強くなり過ぎると、結句だけが孤立して、起句承句が単なる導入になってしまう悪弊もあります。
「第四句は全体をまとめる句」という、詩の構成を意識するという点では、「合句」と呼んだ方が適当かもしれませんが、本来は「結ぶ」も何かと何かをきっちりと結ぶこと。「終り」とか「最後」という意味に特化させないようにしなくてはいけませんね。
鮟鱇さんの今回の詩は、その「起承転合」を狙いとしたもの、起句の「餘酲」が合句の「祝賀の旗亭」でのものだと因果関係を説いているのですが、話としては昨日の飲み会「旗亭」(合句)から今朝の二日酔い「餘酲」(起句)へ、そしてまた今日も飲み会「旗亭」(合句)、明日の朝の二日酔い「餘酲」(起句)へ戻るという、まあ言わば飲んべえの酒飲み連鎖で、この詩はコピーすればどこまででも続けられるエンドレスになっているのがミソでしょうね。
2017. 6.24 by 桐山人
作品番号 2017-163
春日
曾堤曲逕踏花叢 曾堤の曲逕 花叢を踏んで
三月尋芳西又東 三月 芳を尋ねて 西又東
半日拈句更加興 半日句を拈り 更に興加ふ
鶯声睍v聴春風 鶯声 睍vとして春風に聴く
<解説>
一宮市北の位置に、木曽川が流れ昔から堤防にそって有名な桜並木があります。
138メートルタワーもあり、娘一家と花見をしました。
<感想>
春の木曽川沿いの道を歩いての詩ですね。
起句で「踏花叢」ですが、承句でも「尋芳」とあります。
桜並木を訪れたということですが、桜は花の姿のイメージが強く、「芳」は香り、つい梅を連想しがちです。
起句を「芳叢」、承句を「櫻花」と持って行くと、流れが良くなるでしょう。
転句の「更加興」は、結句の「鶯声」を受けているとも読めますが、ここは「半日句を拈る」ことが「更に興を増す」という形で、詩人ならではの愉しみと理解したいですね。
ただ、「句」は仄字ですので、ここが残念。
結句は無難に出来ていますので、転句と結句を独立させた方が互いに生きてくるでしょうから、ここは「拈句微吟興無盡」とするところでしょうか。
なお、題名は「春日」ですが、せっかくですので「曾水春日」とか「曾堤觀櫻」と少し加えると良いと思います。
2017. 6.26 by 桐山人
作品番号 2017-164
芝増上寺観桜
村翁学友談笑同 村翁の学友 談笑同にす
万朶桜花仰碧穹 万朶の桜花 碧穹を仰ぎ
背景高楼香雪漲 背景の高楼 香雪漲る
清遊鐘韻寺門中 清遊の鐘韻は 寺門の中
<解説>
「村翁」: 田舎爺・作者
「背景高楼」: 東京タワー
「香雪漲」: 香と雪のごとき櫻花
丁酉春、学友6名で都内屈指の桜スポット鑑賞バスツアーに参加、解散後一献とまいれり。
<感想>
深渓さんのご学友ということですと、皆さん八十代でしょうね。お元気でいらっしゃるのが何よりですね。
私も昨年、大学時代の研究室の同窓会を初めて開きました。男性組は毎年会っていましたが、女性陣とは四十年ぶりという方も居て、懐かしい話や意外な話が沢山、盛り上がりました。
参加者の意向で、今後は毎年開くことになりましたが、元気なうちは楽しく過ごしたい思いは変わらないですね。
せっかくのバスツアーですので、起句は「車中学友」とした方が雰囲気が出ますね。
転句の「香雪漲」は承句の「万朶桜花」を表現を変えて述べたもの、この二つの句が起句と承句ならば良いのですが、承句と転句ですと変化が弱くなります。
「高楼」も高層ビルのことかと思いましたので、ここは「尖塔高衢晩霞景」でしょうか。
結句は出来れば最後の「一献」にまで進んでおきたいですね。「寺鐘已聴酒旗中」では軽すぎますかね。
2017. 6.26 by 桐山人
作品番号 2017-165
觀櫻
輕絲誘引一鶯鳴 軽糸 誘引 一鶯鳴く
獨占千紅百慮忘 独り占む千紅 百慮忘る
幾許殘生經七十 幾許か残生 経に七十
宿留心奧滿開櫻 心奧に宿留せん滿開の桜
<解説>
「軽糸」: 枝垂桜の枝
「千紅」: 桜の花
「宿留」: 留める
平日の花見 人は少なく満開の桜を鶯と楽しみました。
古稀を過ぎ あと何回この桜を観ることができるかと心に焼き付けました。
<感想>
岳城さんからも桜の詩をいただきました。
古稀を迎えて、「あと何回・・・・」と仰ってますが、前に掲載した深渓さんの作品を拝見すると、まだまだ少なくとも20回くらいは行かなくちゃ、と思いませんか。
私は古稀までまだしばらくありますが、その頃には(ひょっとしたら今でも)「古稀」ではなく「不(非)稀」となっているかもしれませんね。
詩の方は、転句の「七十」を意識してでしょう、数詞を折り込み工夫されていますね。どこも違和感なく読めます。
承句の「獨占千紅」の主語は最初「鶯」かと思いましたが、どうやら作者自身が独り占めしたということですね。「平日の花見」で人が少なかったという条件だからでしょうが、そのことがどこかで表せるとすっきりするでしょうね。
転句は「殘生」が「經七十」ではおかしいので「人生」で良いと思います。
2017. 6.26 by 桐山人
作品番号 2017-166
觀藤作詩
紫藤萬朶散清香 紫藤の万朶 清香 散じ
寺院中庭賞曾場 寺院の中庭 賞会の場
雅友和顏歡再見 雅友 和顔 再見を歓び
詩歌披講玉英傍 詩歌の披講 玉英の傍
<解説>
「紫藤」: ふじの花
「賞曾」: 寄り集まって楽しむ
「披講」: ここは漢詩を吟ずる
「玉英」: 美しい花房
藤の花咲く候 旧知の漢詩仲間が
再会を喜び作詩 吟詠を楽しみました。
<感想>
春の花から次第に初夏の花へと移っていきますが、岳城さんの今回の詩は藤ですね。
藤は花の美しさを詠うことが多いので、「藤の花の香り?」と疑問を持つ方も居るかもしれませんが、岳城さんが書かれた「清香」がぴったりかもしれませんね。
承句の「曾」は「會」の間違いですね。似ていますが、よく見ると違いが分かりますね。
ここで「会」を用いるのが良いか、転句の「再見」を「再会」にする方が良いか、ここらが詩としての悩み所ですね。
バランスとしては、結句の「玉英傍」は起句の下三字の方が、また承句の下三字は結句に持ってきた方が収まりが良くなると思います。
2017. 7. 3 by 桐山人
觀藤作詩 (推敲作)
紫藤萬朶玉英粧 紫藤の万朶 玉英 粧ひ
寺院中庭象外場 寺院の中庭 象外の場
雅友和顔歡再會 雅友 和顔 再会を歓び
詩歌披講醉清香 詩歌の披講 清香に酔ふ
(下平声七陽韻)
「紫藤」: ふじの花
「玉英」: 美しい花房
「象外」: この世のほか
「披講」: ここは漢詩を吟ずる
2017. 7. 6 by 岳城
作品番号 2017-167
雨中看花
春雨絲絲花含羞 春雨糸糸として 花羞を含み
閑人亦恥濫凝眸 閑人亦た恥づ 濫りに眸を凝らせしを
梢間雀躍何輕薄 梢間の雀躍 何ぞ軽薄
獨戲粉葩不暫休 独り粉葩に戯れて暫くも休まず
<解説>
糸の細さの春雨に 花もはじらうかのようで
わたくしもまたジロジロと 見てた無礼が恥ずかしい
それにひきかえ雀ッ子 おまえの軽薄さときたら
散るはなびらに戯れて 少しも休むことがない
おおむね天気の悪い日は気分もふさぎがちなものですが、何となく、むしろ詩にはなり易いような気がします。
そんな春の雨の日の一首です。
<感想>
前半の、羞じらうように見える雨中の花、そしてジロジロと眺める無遠慮を恥じる作者の取り合わせは秀逸で、何気ない光景の中に恋人同士がデートしているような趣で、詩情が凝縮されているようですね。
そうなると三枚目役が登場になるわけで、「軽薄な雀」というのも、配役としては申し分ないですね。
ただ、その雀の説明で結句丸ごと使うのは疑問で、前半のはんなりとしたムードが戻らないまま、道化役者の雀が主役で終ってしまう恐れがあります。
雀君には適当なところで退場いただいて、見つめ合った二人の運命がどうなるのか、読者としてはそちらに眼を向けたいところです。
2017. 7. 3 by 桐山人
作品番号 2017-168
緑陰
春雪欲吟已薫風 春雪 吟せんと欲して 已に薫風
逝者行行老却窮 逝者は行行として 老却窮まる
若日何成唯粤悔 若き日 何をか成せし ただ粤(ここに)悔いるのみ
庭花繚乱緑陰中 庭花繚乱 緑陰の中
<感想>
今回の詩は内容的には、老いの感懷を中にして叙景で挟むというサンドイッチ構造、「実虚虚実」という構成です。
構成は分かりますが、結句の「庭花繚乱緑陰中」という景が、前の感懷と繋がりにくいのが難点です。
無為に過ごした若い頃への悔いは、花が緑陰の中で満開だというところに何か象徴されているのか、と言うとそうではなく、どうもここは「繚乱の花」と「若日」が繋がっただけのようですね。
それならば、初夏の緑陰でなくても、春の「百花繚乱」の時期の方が余程納得できます。
繰り返しになりますが、「緑陰の中」の花という位置づけをはっきりさせないと、せっかくの「緑陰」の題が生きてきませんね。
起句の平仄が乱れていますから、「欲吟春雪」と語順を直しておくと良いですね。
2017. 7. 3 by 桐山人
作品番号 2017-169
初夏
南薫雨後洗春愁 南薫 雨後 春愁を洗ふ
繙書閑座昼自幽 書を繙き 閑座し 昼自ら幽なり
煎茗甘香心気爽 茗を煎り 甘香 心気爽なり
園中新竹緑陰稠 園中 新竹 緑陰稠し
<解説>
新緑で爽快になった様子を描いてみました。
<感想>
初夏の爽やかさを感じさせる素材を拾い出して、うまくまとまっていますね。
少し欲張りすぎたのは起句で、「洗春愁」のは「風」なのか「雨」なのか、どちらかで十分です。「南薫一颯払春愁」というような単純な感じが良いでしょう。
承句は平仄が合わないですが、「閑座繙書」と順番を替えておけば大丈夫です。
ただ、四句とも頭の字が平字(平頭)で、これを禁忌とするところは少ないですが、単調さを避けるということでどこかに仄字を入れておくと良いと思います。
2017. 7. 3 by 桐山人
作品番号 2017-170
過室津
水天一碧白雲浮 水天一碧 白雲浮かぶ
昔帝開津地勢尤 昔(いにしえ)に帝開きし津(みなと) 地勢尤なり
人馬客船千舎驛 人馬 客船 千舎の駅
星移世易但漁舟 星移り 世易り 但漁舟
<解説>
先日兵庫県たつ野市「室津」に行きました。
室津は四方を山に囲まれた入り江で、風を避け舟を泊めるに優れた地形です。
神武天皇が開き、行基が修築し、江戸時代は参勤交代の西国の諸大名がここまで海路、ここより陸路で往来したので「室津千軒」といわれるように賑わったそうですが、今は漁業の町です。
<感想>
私の掲載が遅れている間に、春空さんは推敲をされ、掲載した作品は二敲目のものです。
初案では起句で「二三鴎」と鳥を飛ばしておられましたが、推敲作では「白雲」とし、色彩を強調しましたね。真っ青な空と海、その間に浮かぶ白い雲、これはこれで雄大な画面なのですが、承句の「地勢尤」を言うならば鴎が何羽も飛び交っていた方が「港町」らしくてしっくり来ますね。
恐らく、結句の「但漁舟」が意識されて、起句ではあまり港らしくしたくなかったのでしょうが、絶句の限られた字数の中ですので、分かりやすくすることも大切です。
承句は神武天皇、行基という歴史を描きたいのももっともですが、作者としての主眼はどこなのかを考えると、やはり転句の「室津千軒」の発展した時代と現代との対比にあるわけで、ここで千年以上も昔の話を出す必要があるか疑問です。
それぞれを表すならば「上帝高僧」として記述もできますが、ここは転句のためにも「此湊古来形勢尤」と過去をひとまとめにしておいて、結句は迷っておられた「千舍賑」が良いでしょうね。
2017. 7. 5 by 桐山人
作品番号 2017-171
春好日
古寺和琴瑟 古寺、琴瑟に和し
晴光照万人 晴光、万人を照らす
嘉辰勝会憶 嘉辰に勝会を憶ひ
年年更清新 年年、更に清新なり
<解説>
いつも訪れる寺に琴が鳴り響き気持ちが和らぐ。
晴れた日に、日の光がたくさんの寺を訪れた人を照らしている。
今日のめでたい日に、お寺の祭りが盛大になることをおもい、
年ごとに、更にそれ以上清らかですがすがしく感じる。
<感想>
新しい漢詩の仲間を迎えることができ、とても嬉しく思います。
作詩経験3年ほどとのお話ですが、お若い方々が積極的に詩作に取り組んでくださるり、本当に心強く思います。
この詩は五言絶句、前半はポンポンとスムーズに流れて行きますが、後半になるとややイメージがぼやけてきますね。
「嘉辰」と来ますが、事前に説明が無いので、何が「めでたい」のかがよく分かりません。ただ、何か行事がお寺で行われる日なのかな、と想像するくらいなので、できれば題名で何の日なのかが伝わるようにしたいですね。
転句の下三字は皆仄字になっています(下三仄)ので、直したいところです。
「憶」ですと、過去の盛会だったことを思い出す、という意味になります。それですと結句の「更」がおかしくなりますので、ここは「逢勝会」「留勝会」としてはどうでしょう。
結句は平仄違い。「年年」では駄目で、「歳歳」とするおつもりだったのではないでしょうか。
2017. 7. 5 by 桐山人
作品番号 2017-172
梅林
寒色蕭然山水同 寒色、蕭然として山水に同じ
千枝萌動起春風 千枝、萌動し春風起こる
梅花欲発朝留景 梅花、発かんと欲し、朝景を留む
経雨雪消涓映紅 雨を経て雪消え涓(しずく)は紅に映ず
<解説>
冬の寒そうな景色は物寂しく、山水画と同じ。
多くの枝は、芽をふき、春一番がきた。
梅の花が咲こうとし、朝の景色を留める
雨が降り、雪がとけて、しずくは紅にうつりかがやく
<感想>
こちらの七絶、平仄も丁寧に見ていらっしゃるので漢詩として整っていますが、さて、この詩で描いている景色は何だろうか、ということになると途端にモヤモヤしてきます。
どの辺が原因かと言いますと、一つ一つの句では良くても二つの句を並べると微妙な齟齬があり、それが重なると全体として何が言いたいのかが分かりにくくなるからです。
これは、作詩した後ある程度の時間を置いてから、再度読み返して見ると随分解消されます。
さて、少しずつ見ていきましょう。
起句の「山水同」は、解説に書かれたような「山水画と同じ」と読むのは無理強いで、「山も川(水)も」と読むのが自然です。
冬の景をここで出す効果は別にして、順番を替えて「山水蕭然寒色中」とか、「画」に持って行くならば「寒色蕭然如古画」と踏み落とすか、という感じでしょうか。
承句はもう春の様子になるのですが、「多くの木の枝が芽吹く」ことと「春風が吹く」のは順番が逆ですね。
「春風」が先か「木々の芽吹き」が先かという問題ですが、ここは「千枝」ですから多くの木々の枝が芽を出すとなると、早春よりももう少し経ってからの時期。
そうなると、この句は上四字と下三字の間に「ようやく」とか「やっと」という気持ちが入ることになってしまいます。
「千枝」とつい数字を大きくしたのが良くないので、「一枝萌動」とすれば早春になり、「春風」と調和する筈です。
転句は「梅花欲発」自体は良いのですが、承句の「千枝萌動」と同じことを言っているわけで、二句続くと重複感が出てしまいます。
下三字は読み下しだとつい見のがします。語順としては「朝 景を留む」と読む筈ですが、どうも「朝景を留め」というお気持ちのようですね。
それでしたら「留朝景」と目的語を後にしなくてはいけません。
これは文法的なことですのでそんなに大きなことではありませんが、この下三字が上四字からどう繋がってくるのか、そちらが重要ですね。
上四字を残すか、下三字を残すか、どちらにせよ現在の組み合わせは見直すべきでしょう。
結句は、上四字がつまらないですね。冬から春への季節の推移を描くのは、もう承句や転句で十分です。
下三字の「涓映紅」が先に浮かんだのでしょうか、「雨」も「雪」もその「涓」を出すためだけに置かれた印象ですね。
この「紅」も梅の花の「紅」なのか、朝の光の「紅」なのかがはっきりしないのと、それでもまあ鮮やかな色彩だとして、起句との違いが大きすぎて、一つの詩としては違和感が残ります。
私の気持ちとしては、起句の方を変更して、もう過ぎた冬のことは書かずに、春の「山水」を描いた方が良いかと思います。
作者の様々なイメージが七言絶句の中に収まりきれない、という感じでしょうか。
実際に「梅林」に立った時に、どんな感動があったのか、その感動がはっきり出るような結句になると良いでしょうね。
少し厳しめに書かせていただきましたが、今後の推敲の参考にしていただければ幸いです。
なお、前の詩もそうですが、読み下し文の句中に読点を入れるのは却って読みにくく、一マス分のスペースの方が適当です。
2017. 7. 5 by 桐山人
作品番号 2017-173
初春偶成
雪解山容日影移 雪解け山容 日影移る
門庭柳眼暗香吹 門庭柳眼 暗香吹く
光彩燦燦花堤注 光彩 燦燦 花堤注ぐ
風伯悠悠草野怡 風伯 悠悠 草野怡しむ
曲径新樹鶯語湿 曲径 新樹 鶯語湿す
幽居小韻興無涯 幽居 小韻 興涯り無し
行人美景傷心慰 行人 美景 傷心慰む
坐見落紅知不知 坐して見ん落紅 知るや知らずや
<感想>
律詩に取り組んでいらっしゃる仲泉さんの今回の作品は、初春の風景を描かれたものですね。
初めの首聯、風景を丁寧に読み取ろうという意図は伝わります。
「雪解山容」は山国にお住まいならではの景だと思いますので、下三字の「日影移」、これは時間が経過したことを表す言葉ですが、ここは文字通りで「太陽が山を照らして動く」ということでしょう、せっかくですので「山容」を「連山」とした方が良いかと思います。
この上句(第一句)の広がりのある描写から下句の「柳眼」へと流れるのは、遠景から極近景で、読者には辛いですね。
ここは次の「花堤」とか「草野」あたりを置いても良いと思いますが、とりあえず「柳樹」くらいが無難です。
「暗香」は「柳眼」が香りを出しているように読みますし、ここで出さないで、後に持ってきた方が良いでしょうね。
第三句は平仄が違います。また、「雪解」から「花堤」は飛び過ぎに感じますので、「水堤」などで。
そこを直せば、対句の形にはなっています。
頸聯は、「曲径」にしろ「幽居」にしろ、どちらも作者の家だと読まなくてはいけません。
仲泉さんは頷聯から続けて、ここも郊外の景色の一つと描いているかもしれませんが、それではダラダラと続くだけで、緊張感がありません。
この聯は律詩の構成から見ても、作者の生活と心情を語った形にすべきです。
ただ、対句としては下三字が乱れていること、また「興無涯」は内容的に収まりが良すぎて、ここで詩が完結しても十分という印象になります。
尾聯は「行人」や「傷心慰」は前と矛盾していますし、「落紅」も季節外れ、この尾聯は用語が混乱していますし、どうも最後の二句は取って付けたような印象で良くないですね。
この聯は再度作り直して、ストーリーがつながるようにする必要があると思います。
2017. 7.10 by 桐山人
作品番号 2017-174
聴組曲割胡桃人形且作詩 組曲胡桃割人形を聴き且詩を作る
再生旧楽曲 再生す旧楽曲、
居室満春枝 居室 春枝に満。
傾聴心乗節 傾聴すれば 心は節に乗る、
創稿筆走机 創稿すれば 筆は机に走る。
花揺三拍子 花は揺れる 三拍子、
夢展五言詩 夢は展ぶる 五言詩。
妖精為輪舞 妖精 輪を為すの舞、
調風楚楚吹 風を調え楚楚と吹く。
<感想>
第一句の「再生」は、ついビデオやらCDの「再生」が日常化していますので「和語?、現代語?」と気になるところですが、凌雲さんは「旧」と入れていますので、「蘇らせた」という意味も意識しつつ、現代語とブレンドしたところでしょう。
若々しさが感じられる表現ですね。
第二句は季節を出したかったのでしょうし、ひょっとしたら梅の枝くらいが部屋に生けてあったかもしれませんが、これは表現としては無理で、春だろうが何だろうが、部屋に枝が満ちるという状態は通常では想像できません。
季節を入れるならば第一句の方が適当ですし、この流れならば音楽を出しておくべきでしょう。
第三句は「節」よりも「調」が良く、結句の「調」と調整してほしいですね。
頷聯と頸聯は、上句と下句が直接関係ないように感じますが、聯と聯が対になっている形で、「傾聴心乗節 花揺三拍子」「創稿筆走机 夢展五言詩」となっているものですね。
工夫されていますし、この二つの聯だけを見れば面白く書かれていますが、音楽と詩作がそれぞれ自分の存在を主張しているようで分離している印象もあります。
そういう意味では、最後の聯は音楽だけに戻るのではなく、詩のことにも言葉を進めると、作者の心の中の二つの調和がうまく伝わると思います。
2017. 7.11 by 桐山人
作品番号 2017-175
祖父十七回忌祖母三回忌法要香語
黄花紅葉満秋空 黄花 紅葉 秋空に満ち
医王山中百味豊 医王山中 百味豊かなり
四衆参来等合掌 四衆参じ来りて 等しく合掌すれば
師翁説法起宗風 師翁の説法 宗風を起こす
<感想>
定山さんは臨済宗の僧侶をなさっておられ、お作りになった香語について、漢詩として読んだ時の感想をお求めになっての投稿です。
率直に言いますと、お祖父様の十七回忌とお祖母様の三回忌ということで、お亡くなりになってからある程度の時が過ぎましたので当然かもしれませんが、祭られるお二人のことが全く書かれていません。
そういうことですと、誰の法要だろうと定山さんのお寺で秋に行われるならば通用するわけで、作者個人としての亡くなった方へのお気持ちというものはあまり感じられません。
逆に言えば、結句の「師翁説法」に重きが置かれた詩であり、僧侶としての感慨が出された詩だと言えます。
勿論、そういう形で、目的を持って作る漢詩もあるわけですから、これでも十分な漢詩と言えます。
ただ、一般に言う「詩情」という点では、弱いと私は思いました。
型式のことで見ると、まず、題名はこの法要の場以外では、「秋日法要」というくらいにして、具体的な「○○回忌」などの表現は削った方が良いですね。
承句の「王」は微妙ですが、名詞用法では平声です。固有名詞だから、として平仄の乱れも許容される場合も有りますが、それはその固有名詞の詩の中における必要性が重要で、何でもかんでも固有名詞なら許されるということではありません。
平仄を破ってまで「医王山」を入れなくてはならない、とまでは、この詩では思われませんので、ここは検討されると良いでしょう。
また、転句の下三字は全て仄声の「下三仄」になっています。これも許容されるという考えはありますので、定山さんの香語をご指導なさった方の教え次第ですが、漢詩として出した場合に瑕疵と指摘されることが多いと思います。
「等」を「斉」に換えるなどの手立てで落ち着くと思います。
まだ作詩の数は多くないとのことですが、さすがに措辞、文法、よく勉強なさっていらっしゃいますので、是非、また作品を拝見させて下さい。
2017. 7.12 by 桐山人
定山さんからお返事をいただきました。
ご添削ありがとうございました。
一つ、質問がございます。
「黄花紅葉」と出してからの、「秋空」の表現は少しくどいでしょうか?
「黄花」も「紅葉」も秋の言葉なので、わざわざ「秋空」という言葉があるほうがいいのか、ないほうがいいのか、率直な御意見をうかがいたいです。
よろしくお願い致します。
2017. 7.20 by 定山
「黄花紅葉満秋空」の起句につきまして、私はそれほど「くどい」とは感じません。
「黄花」は確かに菊の花を表しますが、春に使えば菜の花になります。ここを菊だと断定するために「秋」を補ったと考えれば説明はつきます。
逆に、「黄花」を直接「菊花」としたら、「秋空」は言わずもがなになります。
他に「晴空」「高空」「青空」などの語を使えば、それだけ情報を多く含ませることができるわけですので、「秋空」で駄目ということではありませんが、繰り返しの印象は出ますね。
一句の中、七文字にどれだけの情報を入れられるか、その時の情報の優先度を考えるのが、作「詩」のポイントです。
韻字の関係で「空」は決まってくるのだとしたら、その上の一文字で自分の感じたもの、見たものを描ききる気持ちで選択することになりますね。
2017. 8. 9 by 桐山人
作品番号 2017-176
梅雨即事
遠靄擁山碧 遠靄 山を擁し碧く、
花薫処処開 花は薫り 処処開く。
南風呼雨去 南風 雨を呼んで去り、
日照共虹来 日照 虹と共に来たり。
<感想>
今年の梅雨は雨が少ないと思っていましたが、ここ数日は豪雨の被害があちこちで起きているようです。
降り出すと際限が無いような降り方で、昨日でしたか、テレビで「気候の変化への危機感は世界的に共有されている」と言っていましたが、日本でも明らかに以前とは違う気候現象が起きているように思いますね。
さて、凌雲さんの今回の詩は、「仕事の合間に作った」と書かれていましたが、職場で外の景色に目をやったか、ふと心を別世界に遊ばせたのか、爽やかさの残る詩ですね。
起句は「翠靄」を言っているのでしょうか、初夏の芽吹いた木々の緑に山が青く色づいた時に使いますが、ここは構成から行くと雨が降っている景でなくてはいけませんので、「垂れ込めた靄が山の緑に映えている」というところでしょうか。
「碧」は「靄」に使うよりも「山」の形容にした方が句がすっきりするでしょうから、私なら「遠靄連山碧」でしょうか。
承句は春のような印象ですので、具体的な花の名前が出た方が良いですね。
転句は「呼」が良いか、「携」が良いか悩みました。
結句は「日照」ですと単なる「お日様」というだけですので字数がもったいない、「夕照」などのように少し条件を加えると、時間経過やそれを眺めている作者の気持ちもにじみ出てくると思います。
2017. 7.14 by 桐山人
作品番号 2017-177
告天
告天歌碧落 告天 碧落に歌い
鶯囀竹園陰 鶯 竹園の陰に囀る
春穏生不楽 春 穏かなれど 生 楽まず
長途傷客心 長途 客心を傷ましむ
<感想>
今回の詩は、「告天」(ひばり)という題名ですが、それは起句だけのことで、後半は作者の気持ちですね。
承句に「鶯」が登場しますが、これも悪い表現で、「告天」と「鶯」が同列で並んでいるため、逆に言えば主役であるべき「告天」が脇役になってしまっています。
そして極めつけは、転句からの感懐です。これが「告天」の気持ちを描いたというならまだ良いのですが、「客心」とあっても「告天」は旅をする鳥でもないわけで、これは作者の気持ちとしか読み取れません。
そうなると、最初に書きましたように、詩の主眼は作者ですので、これは題名を「春日感懷」とでもすべきで、「告天」という題名では全く詩にそぐわない、「告天」が可哀想です。
転句は四字目の「不」が平仄違いですので、直す必要があります。
2017. 7.14 by 桐山人
作品番号 2017-178
遊子吟 回ク偶書
山上白衣觀世音 山上 白衣の観世音
眼前烏水解ク心 眼前の烏水 郷心を解く
驚風時止波瀾靜 驚風 時に止んで 波瀾静かに
歸燕緩飛嵐翠深 帰燕 緩やかに飛んで 嵐翠深し
負笈紅顏廿年老 笈を負ひし紅顔 廿年老い
倚門華髮幾回尋 門に倚るの華髪 幾回か尋ねし
卑官久背鳳兒聞 卑官 久しく鳳児の聞えに背くも
下筆自誇遊子吟 筆を下して自ら誇る 遊子吟
<解説>
山上白衣の大観音 眼下にあるは烏川
遠くふるさと思ってた 気持ち解きほぐしてくれる
はげしい風もときに止み 波も静かに水流れ
ツバメゆっくり飛びまわり 山のみどりの気は深い
大学行くため十八で 家を離れて二十年
その間何回帰省して 親に姿を見せたろう
小さなころの評判に 背く身の程ではあるが
こうして筆をはしらせて ものす自慢の遊子吟
首聯の「白衣観世音」は、所謂「高崎観音」。利根川の支流・烏川の右岸、観音山丘陵の山頂に立つ観音像。群馬県高崎市のシンボルです。高さ約40m、重さ約6千t。どれくらいの大きさかと言えば、「ウルトラマン」が同じく身長40mで何と体重3万5千t!
という設定が参考になるかと思います。
はじめ叙景の七絶を作るつもりで第一句から書き出し、続けて「眼前烏水」とまで出来たところで、実は対句に仕立てられそうなことに気付き、どうせならと全対格の七律にまとめました。
律詩を作るときは、まだ対句の練習の気分が強いです。
<感想>
故郷を離れて二十年、ということは客居の方がもう長い年数なのでしょうが、十八歳までの年数は成人してからの年数よりも充実度が違いますから、心の中ではまだまだ故郷での年月の方が重いかもしれませんね。
私などはもう、この十年くらいがとても短く感じられ、最近では(退職したからかもしれませんが)一週間があっという間に過ぎていきますね。
詩とは別に(そこに来るか!と突っ込まれそうですが、きっと観水さんも予想してたと思います)、高崎観音とウルトラマンが同じ背丈というのは、円谷プロも分かりやすく持ってきたのかもしれませんね。
ただ、そもそもtの単位になるとトラックの積載重量5tくらいしか現実的には感じられず、もはや3万5千tなどは想像もつかない重さですね。
ウルトラマンが健康診断を受けると、BMPの数値などはどうなるのでしょうね。
さて、詩の方ですが、全対格でというのはリズム感が積み重なっていく感じで、尾聯の収束に向かって盛り上がっていく印象ですね。
首聯は、「白衣観世音」と「烏水」が故郷を思う心を解きほぐすということで、流水対と言えるでしょうか。
ぴったり合わせるなら下句の下三字を「望郷心」とするのでしょうが、そうすると、ここで郷心が湧いたとなってしましますから、あらかじめ抱いていた心が慰められたという詩意と逆になるので避けたのでしょうね。
頸聯からの展開も素直で良いですが、ちょっと前半と後半が分離している感も残ります。
最後の句で眼前の景を入れるとまとまりますし、対句を崩すことで結びの印象を強める方法もあるでしょう。
2017. 7.15 by 桐山人
作品番号 2017-179
讀書(二)
小齋靜坐晝蕭然 小斎に静坐し昼は蕭然
至樂還應在眼前 至楽の還た応に眼前に在り
窓外蒼蒼風弄影 窓外は蒼蒼 風は影を弄し
讀來數卷入新篇 読み来る数巻 新篇に入る
<感想>
それぞれの句に大きな齟齬は無いのですが、どうも今一つ、印象が薄い感じがします。
どうしてかなぁと考えてみますと、どうやら原因は句の並べ方にありそうです。
起句と承句、転句と結句の関係が、どちらも前句で景を述べて後句で読書の話という展開で相似していますね。
せっかく承句で「え、何のことかな?」と興味を抱いた読者に、また戻って「窓外」の景を語るのは「おあづけ!」をしているような感じで、感覚が元に戻ってしまいます。
ひょっとして作者はそのあたりを狙ったのかもしれませんが、起句と転句で前半、承句を転句か結句にもってくる構成にしてみると、その方が詩意がはっきりしてくると思いますがいかがでしょう。
2017. 7.18 by 桐山人
作品番号 2017-180
閑居
街中矮屋是吾居 街中の矮屋 是れ吾が居なり
活計低迷塵事疎 活計は低迷 塵事に疎し
倚机堆書閑作句 机に倚り書を堆ね 閑には句を作し
厭時畢竟入華胥 厭く時は畢竟華胥に入る
<感想>
閑居へのあこがれか、ある時の心境を語ったのか、そこはわかりませんが、結句の「作詩に飽きたら一眠り」という感懐は、「華胥」に含まれる「理想郷」のイメージで、詩が力強くまとまっていると思います。
部分的に直した方が良いところはありますが、全体としては収まりが良いですね。
承句は「塵事」ですと、世の中のことは「塵」だと見て避けたい、という意識が出て来ます。
親しむつもりもないのに「疎」ですと言葉の繋がりが不安定ですので、「世事」と気持ちを入れない言葉にした方が良いでしょう。
転句の「閑作句」は「閑かに句を作す」と読まなくてはいけません。
それは文法的なことではなく、結句の「厭時畢竟」がどちらも時間に関する言葉であることとの関係で、転句でも「閑には」と時間的な内容で読んでしまうと「閑な時→厭きた時→最後には」と条件を積み重なるような印象で、そもそもの「閑適」にそぐわないですね。
(書に親しみ)心静かに作詩に取り組む、疲れた時はいつでも休める、という態度の方が共感を呼ぶでしょう。
2017. 7.18 by 桐山人