2008年の投稿詩 第91作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-91

  祝日山邊古道逍遥        

山邊古道玉花融   山辺の古道 玉花融け

今日無雲仰碧穹   今日雲無く 碧穹を仰ぐ

豪族權威現墳冢   豪族の権威 墳冢に現し

一家安泰禱神宮   一家の安泰 神宮に祷る

早梅點綴看含萼   早梅点綴 含萼を看て

群衆逍遥浴惠風   群衆逍遥 恵風に浴す

惜只閑人存足疾   惜しむらくは只閑人 足疾を存し

參加総是愛車中   参加は総て是れ 愛車の中

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

 大阪の毎日放送ラジオは、毎年2月11日の建国記念日には、“ラジオウオーク”と銘打って約10キロメートルの行程で、奈良県地方を散策するのが恒例となっています。
 今年は第27回目で“古墳ロード・山辺の道ラジオウオーク”でした。毎年3万人ほど参加いたします。
 わたくしも参加をいたしましたが、その状況は拙詩の通りです。

「玉花」: 雪の別名。2月9日は近畿地方にも積雪があった。
「墳冢」: ここでは古墳のこと。今回のコースでは、塚穴山古墳・西山古墳・東乗鞍古墳・西乗鞍古墳など数基あった。
「神宮」: 石上神宮
「含萼」: つぼみを含んでいるので春の到来を感じる
「愛車」: 古道は道が狭いため、コースには行けなかったが公道で群衆を見、放送を聴きながら、雰囲気を楽しんだ。

<感想>

 2月9日は名古屋でもひどい雪でしたが、二日後の11日は雪も融けて、よく晴れた一日だったようですね。ラジオの中継を聞きながらのウオークラリー、「足疾」ということですが、多くの方と一緒というのは格別の楽しさでしょうね。
 この詩は、はじめ七絶でいただいたものですが、表現し足りないということで律詩に直されたものです。

 第1句の「玉花」は、空から舞い落ちる雪を落花に見立てた言葉ですが、積もった雪に対しても用いるのは違和感があります。
 「今日は晴れた」と次の句が受けるわけですので、ここでは「(昨日は)雪が降った」というような記述の方が良いでしょうね。

 頸聯の対では、下句は「群衆」が主語で、「逍遥」と「浴」が述語という構成ですが、その構成を上句に当てはめると「看」の主語は「早梅」となります。しかし、「看」の主語は作者を含めた人間でしょうから、ここの対応が混乱しないでしょうか。

2008. 4.21                  by 桐山人


井古綆さんからお返事をいただきました。

 先生今日は。厳しいご指摘とご高批有難うございました。
 この厳しいご指摘によって上達するものと思います。

 首聯の「玉花」は安易に措辞しました。ご指摘のとおりここは「積雪」になります。
 また「山辺古道・・・」は既に詩題にありますので、詩中に是非とも入れる必要は無いと考え、推敲では抜きました。

 頸聯の「看」は迷った部分です。「点綴」と「含萼」は離れますが、流水対に作ったつもりでした。
 なぜ流水対に持っていったかと申し上げれば、「早梅」と群衆」は異質なもので本来は対句にならない、そこで流水対にすれば違和感を少しでも和らげることができるのではないかと愚考したからです。

 以下は推敲した詩です。首聯も対句になりました。

   推敲作
  残寒昨日銀花降  残寒 昨日 銀花降り
  驟暖今朝積雪融  驟暖 今朝 積雪融ける
  豪族権威現墳冢  豪族の権威 墳冢に現し
  一家安泰禱神宮  一家の安泰 神宮に祷る
  早梅点綴成含萼  早梅 点綴 含萼と成り
  群衆逍遥浴恵風  群衆 逍遥 恵風に浴す
  惜只閑人存足疾  惜しむらくは只 閑人足疾を存し
  参加総是愛車中  参加は総て是れ 愛車の中

2008. 4.23              by 井古綆






















 2008年の投稿詩 第92作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-92

  白頭擅空想         

白首多閑擅空想,    白首 閑多くして空想をほしいままにし,

金觴盈酒洗塵埃。    金觴 酒に盈ちて塵埃を洗う。

詩魔百孔流青血,    詩魔の百孔 青血を流し,

騷客千瘡生緑苔。    騷客の千瘡 緑苔を生ず。

月照雪原埋戰骨,    月は照らす 雪原の戦骨を埋めるを,

日臨江水繞春台。    日は臨む 江水の春台を繞るを。

東風吹處人揮筆,    東風吹くところ人は筆を揮い,

吟句賞花山野開。    句を吟じて花の山野に開くを賞す。

          (中華新韻「四開」の押韻)

<解説>

 百孔千瘡:百の孔と千の傷。欠点や瑕だらけのたとえ

 今年1月は久しぶりに多作に走りました。漢俳などの短詩が300首、詩詞が200首。律詩は七律が60首余りです。
 多作は、乱作の批判に耐えなければなりませんが、私にとっては新しい詩境探索のための習作です。
 そして、このところの私の習作の詩材は、四字成語。この作は、上掲「百孔千瘡」という言葉を材料に、頭に思い浮かぶことを書き連ねたものです。
 「詩魔百孔流青血,騷客千瘡生緑苔。」の二句は、戦後の現代詩や短歌・俳句がかちとった詩法を、漢詩にも応用することをわたしなりの狙いとしています。  


<感想>

 頷聯の指すことが色々と考えさせられ、これは何を言っているのかなぁ?と悩むのですが、それもどうやら「白首多閑擅空想」の部類かもしれませんね。
 「青血」「緑苔」が対で来てますので、「(青々とした)新鮮さ」と「(苔むすような)古くささ」で詩人を評しているのかとか。

 次の「雪原埋戦骨」もここまでなら想像できるのですが、それを「月」が「照らす」となると、「月」が何かを例えているとなり、またまた、あれこれと考えます。

 あれこれと考えさせることは別に悪くはないのですが、今回は暗喩の幅が広く、なかなか私は自分なりの解釈にまで辿り着けません。

2008. 4.21                  by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第93作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-93

  戊子花茨忌        

花茨夢幻落花頻   花茨(はな・いばら)夢幻(むげん) 落花 頻りなり

君去十年愁殺人   君去りて十年 愁ひ 人を殺(かなしま)す

無恙無聊空逝水   無恙 無聊(むやう・むれう) 空しく逝水

何時再見即相親   何れの時にか 再び見えて 即ち相親しまん

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 昨年、「寄花茨丁亥忌」《2007-126》を投稿しましたが、今年は節目の十回忌を迎えます。今年は広く同窓生に声を掛けて盛大な法要を開催すべく企画中です。その所為でしょうか、初夢に故人が現れたのには驚きました。
 起句と転句と二ケ所に使用した同字が気になります。固有名詞としての「花茨」と夢に見た「落花」とを詠み込む事、又「むやう・むれう・むなし」の繰り返し音が気に入っているのですが、如何でしょうか。

「恙無く、或いは無聊な十年の歳月を、逝く水の如く空しく過ごして来た。
何れの日か、近い内に(あの世で)再会し、旧交を温める事が出来るであろう。

 こんな意味です。

<感想>

 同句内の同字重出は、殆どの場合、句中対が働きますので、音声上の効果が生まれますので禁忌とはなりません。ただ、今回のように、それを二度もくり返すのは、ややくどいでしょう。
 「花」の繰り返しを生かすか、「無」を生かすか、どちらかに絞った方が効果的です。

 「無恙」「無聊」「空」の同音「む」の繰り返しについては、読み下し時でも響きを重視していますので、兼山さんが「気に入っている」と書かれているように、作者が読み下しで「良い」と感じた方向で原文を検討するのも、それも一つの選択基準です。
 ただ、「無聊」は一般には「ブリョウ」と発音しますので、今回の場合に適するかどうか、「ムリョウ」と読むことにまず違和感があるようでは、効果は強くはありませんね。

2008. 4.21                  by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 兼山雅兄今晩は、お久しぶりです。
 玉作を拝見いたしました。わたくしも雅兄と同じような失敗を犯しました。
 先ず拙作「祝日・・・・・」をご覧になってください。首聯を鈴木先生にご指摘を頂きました。先生のご指摘を受け推敲した方がすっきりまとまっているように感じます。
 すなわち、詩題を詩中に是非とも入れなくても差し支え有りません。詩題と同じ字句を取り去れば、それだけ詩意を多く表現することが出来ますから、起句の「花茨」は入れない方が良いと思います。
 承句の「愁殺人」は「人を愁殺す」と読んだほうが良いのではないでしょうか。
 転句は率直に申し上げれば、意味が分からなくなりました。
 結句はほとんどは意味が通じるように感じられます。

 雅兄の作をわたくしなりに、推敲して見ました。これが絶対に正しいとは申し上げられませんが、参考にしてください。

   試作 戌子花茨忌
  知音夢幻出頻頻   知音の夢幻 頻々と出で
  又遇芳時愁殺人   又芳時に遇へば 人を愁殺す
  空隔幽明過十載   空しく幽明を隔て 十載を過ぐ
  何年再見共相親   何れの年にか再び見(まみ)えて 共に相親しまん

「知音」: 亡くなったお方を存じないので知音としましたが、「雅朋」「佳朋」などその他考えられます。
「芳時」と「愁殺」に矛盾があるが、これが却って効果があるように私は思います。
承句に「時」を使用したため、結句を「何時」から「何年」としました。

※ 承句「又遇芳時愁殺人」を「彷彿タル温容愁殺人」としても良いと思いますが、わたくしとしては判断がつきません。

2008. 4.23              by 井古綆


兼山さんからお返事をいただきました。

 漢詩ホームページ主宰 鈴木淳次様
この度は拙作「戊子花茨忌」を漢詩HPへ掲載して戴き、有難う御座いました。
3月から約一ヶ月余のHP更新空白期があり、他事ながら心配致して居りました。
毎度丁寧な御指導を頂戴し、併せて井古綆さんの感想もいただき、恐縮です。
御両人の御意に適うか否か判りませんが、私なりの推敲案を御送付致します。

 主に起句の同字を排し、転句の下三を修正しました。
 宜しく、御願いします。

    戊子花茨忌
  人生夢幻歳華頻  人生は 夢か幻か 歳華 頻りなり
  君逝十年愁殺人  君逝いて十年 愁い 人を殺(かなしま)す
  無恙無聊加馬歯  無恙(むやう)無聊(ぶれう)馬歯(ばし)を加へ
  何時再見即相親  何れの時にか 再び見(まみ)えて 即ち相親しまん

 起句:聊か通俗的な詩句ですが、「人生如夢、光陰如矢」の意。
 承句:この十年の歳月が、人(私)を愁殺する。
 転句:恙無く、また無聊を託ちながらも、徒に「馬齢を重ね」
 結句:何れの日にか(近い将来)再見して、相親しまん。

 なお「意味が分からない」(井古綆さん)とありました転句(初案)の「空逝水」を、徒に「馬齢を重ねる」と致しましたが、この言葉は、和習であるかも知れません。
(生者は)徒に馬齢を重ね、(死者は)忌日を重ねて行くのであろうか。

2008. 4.30                by 兼山


 兼山さんから、修正作についての推敲をいただきました。

 修正案の起句の「人生夢幻歳華頻」を、「人」の字が同字重出・冒韻であるので、「今生夢幻歳華頻」としたいとのことです。
 一年間、ご自身の作品を何度も検討されている兼山さんの姿勢はご立派ですね。

2009. 4.20





















 2008年の投稿詩 第94作は 忍夫 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-94

  庭梅        

庭梅帯蕾告春生   庭梅蕾を帯びて春の生ずるを告ぐ。

坐待未聴黄鳥声   坐ろに待てど未だ黄鳥の声を聴かず。

暖気誘眠閑日昼   暖気眠を誘ふ閑日の昼。

南軒夢覚暮寒軽   南軒に夢覚めて暮寒軽し。

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 庭の梅の木に蕾がつけば、春が来たと感じる。
 のどかな一日、鶯が来て鳴かないかと待てば、
 暖気のせいで眠くなる。
 夢から覚めれば夕暮れ近く、寒さも和らいだと感じた。

<感想>

 忍夫さんの今回の詩は、取り立てて問題があるわけではなく、全体的にも破綻無くできていると思うのですが、何となく平仄が合っていて、何となく四句が続いていて、「だから何?」という感じでインパクトが弱いんですね。
 その原因はどこにあるのだろうかと考えてみるのですが、やはり内容が平凡すぎるのではないでしょうか。
 「庭の梅に蕾が出た」から「春が生じたことを教えている」、その通りですが、これでは「1+2は3になる」と言うのと同じで、「梅の蕾」を見れば誰でも春が来たことは分かるわけです。詩人としての発見、作者としての発見が語られていないので、読者もありきたりの共感しかできないわけです。
 「3になったぞ」と答を先に出して、その後に「1と2を足したから」と種明かしするような順番ならば読者も入りやすいでしょうし、「まだ寒い雪の日に蕾を見つけた」という感じで「雪中梅蕾告春生」と対比させるのも工夫です。

 変化に乏しいという点では、厳しい言い方になるかもしれませんが、「梅」の後に「鶯」しか来ないのも俗っぽく、観念的な印象です。「坐待」のだから「閑日」なのは分かりますし、「暖気」であるならば、「誘眠」も当然だし、結句の「暮寒軽」のも当然です。
 作者のこの詩を作った時の気持ち、感じたことをもう少し出してほしいですね。この時に、どんな夢を見ていたのでしょう、そうした具体性、現実性をどこかの句に入れると、随分変わってくると思います。

 あと、題名が「庭梅」ですが、梅の話が起句だけで終わっているのも、主題がぼやける原因でしょう。

2008. 4.22                  by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 忍夫雅兄初めまして、井古綆です。
 鈴木先生の感想文の後半 “「梅」の後に「鶯」しか来ないのも俗っぽく・・・” を拝見して筆を執りました。
 まさに先生のおっしゃるそのとおりです。

 承句句頭の「坐待」が問題ではないかと思います。これを「破例・例を破って」とすれば “例年ではもうこの時期には鶯が訪れていたが”、となって心の動きが表現できると思います。「破例」は熟語ではないかも知れませんが、NHKの「漢詩を読む」の放送で唐代の女流作家が使用していまして、わたくしも二三回使用しました。
「異例」は熟語ですが、心の動きが少し劣るような気がします。「違例」でも良いかもしれません。(貴人の病気に使用するのは和語)
 これらの語を使用することによって、起句の「告春生」を変更しなくてはならないでしょう。

 転句「暖気」は平凡すぎるような感じですので、「驟暖・急に暖かくなる」に変更すれば、起句の春の到来にも不自然なく句に動きが生まれます。

 このようなことは、作者本人ではなかなか気が付きにくく、相当な時間がたてば矛盾を発見できますが、一回や二回の推敲では発見できません。
 斯く言うわたくしも鈴木先生にお頼りしている次第でです。

2008. 4.24                by 井古綆





















 2008年の投稿詩 第95作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-95

  詩 魔         

天生骸骨穿靈肉,    天の生じたる骸骨 霊肉を穿ち,

人點華妝描畫皮。    人の点じたる華妝 画皮を描く。

春晝花間收衆目,    春昼 花間に衆目を収め,

秋宵月下露氷肌。    秋宵 月下に氷肌を露にす。

繆斯如此誑田叟,    繆斯ミューズ 此くの如くして田叟を誑さば,

禿筆走箋無馬蹄。    禿筆 箋を走るに馬蹄なし。

莫嘆酒郷多妄想,    嘆く莫かれ 酒郷に妄想の多きを,

古来詩境近神奇。    古来 詩境は神奇に近し。

          (中華新韻「十二齊」の押韻)

<解説>

「穿靈肉」:生きている肉を着る。
「画皮」:うわべを飾った顔。
「禿筆」:使い込んだ筆。
「箋」:詩箋。
「神奇」:霊妙で価値のあるもの。

 この作はシュールレアリズムが発明した自動速記の詩法を意識して作っています。ただし、七律には平仄・押韻・頸聯頷聯の対句という規律がありますから、シュールレアリズムの自動速記の詩法をそのまま使うことはできません。
 私にできたのは、作詩にあたって、私の心にあることを詠もうとするのではなく、頭に浮かぶ言葉そのものが七律の規律のなかで求める連想に、極力忠実であろう、とすることだけです。詩の言葉を、作者の思いを表現するための道具として用いるのではなく、詩の言葉が求めるものに私が奉仕する、そういうつもりでこの作を作りました。
 そうやってできた8句のなかで、いちばん気にいっているのが、第6句

  禿筆走箋無馬蹄。

 です。この句、繆斯(ミューズ)と田叟という言葉から禿筆が思い浮かび、筆から「走筆→筆走」が思い浮かび、押韻をしつつ「誑田叟」と対にしなければならないこと、「走」との縁語から、「無馬蹄」が頭に浮かびました。
 この結果、

   繆斯如此誑田叟,禿筆走箋無馬蹄。

 流水対でもあるし、羊角対でもある頷聯ができました。羊角対は、羊の角のように、根元はつながっているが先が離れていて、よくわからないが面白い、そういう対です。

 詩としての全体、ナンセンスとされる方、少なからずかもしれません。
   しかし、凡人の思いなどは、詩の発展にとっては価値がない、ということもあるのです。
 とすれば、詩の言葉に、凡人であるわれわれに奉仕してもらうのではなく、凡人が詩の言葉に奉仕する、そういう詩作りがあってもよい はずです。人が言葉を使うのか、言葉が人を使うのか、言葉が人を使うと考えた方が、私にはですが、自分というものの欲得を離れて、自身を客観的に見ることができるように思えます。
 


<感想>

 うーん、前作「白頭擅空想」のよく分からなかったところを補足して下さったような感じもしますね。私としては、こちらの詩の方が鮟鱇さんの言わんとするところがよく分かります。
 美しいものと人間との関わりを首聯から説き始め、美の神様か詩の神様か、何か分からないものに突き動かされて私たちは筆を動かす。それが更に新たな美を生み出していく、という、詩人の責務と言うか宿命、業を語っておられる(のじゃないかな?)と思いました。

2008. 4.22                 by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第96作は 博生 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-96

  春寒        

残寒難去雪餘天   残寒去り難く 雪餘の天

牆角魁春一朶妍   牆角春に魁て 一朶妍なり

孤雀飛来徊樹樹   孤雀飛び来たり 樹樹を徊る

陋居昼静把吟箋   陋居昼静かに 吟箋を把る

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 思い掛けない久々の降雪
 雪の残る庭の静けさ
 清楚感に詩心を誘われる

<感想>

 今年の早春の詩は、多くの方が雪を素材にしておられますが、やはり、今年の雪は記憶に残るような積雪だったのでしょうね。
 起句の「残寒難去」の語がまだ肌寒い早春を示していますね。下三字の「雪餘天」も前半とよく合います。
 承句はそれを受けて、「梅一輪 一輪ほどのあたたかさ」というところでしょうか。

 転句は「庭の静かさ」を出そうとされたのでしょうか。ただ目に見えた物を並べたという印象で、このままでは働きが弱く、何のために「孤雀」が登場したのかの意図がはっきり見えません。せっかくの前半の表現も一絡げの共倒れになってしまいます。
 「雀の声だけが聞こえた」、あるいは、「雀も声を出さずに」とすることで救われるでしょうから、その方向で推敲されると良いと思います。

2008. 4.25                  by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

博生雅兄始めまして、井古綆です。

玉作「春寒」を拝見いたしました。
 前半の起句承句は誠に素晴らしい句作りで感心いたしました。春寒の情が良く出ていると思います。

 久しぶりに詩語表を見ました。雅兄は適当にアレンジしていらっしゃいます。起承の二句が余りにも良いため、転結の力不足のように感じられました。若しかして雅兄は起句からお作りではないでしょうか。
 起句から作れば如何してもこのようになります。わたくしも転結の二句を思案して見ましたが、相当に苦労して時間もかかりました。
 些細なことですが、転句の「孤雀」は通常では木の枝には止らないで地面に降りるように思いますが、これはわたくしの浅見かも知れません。反して燕は営巣以外は地面には降りません。矛盾を避けるためには、強いて雀を出さなくても「鳥=候鳥」とすれば解決します。

   試作 春寒
  残寒料峭雪余天   残寒料峭 雪余の天
  牆角花魁一朶妍   牆角の花魁 一朶妍なり
  飢鳥何来又何去   飢鳥何づこより来たりて 又何づこにか去る
  遠望黛嶺帯春煙   遠く黛嶺を望めば 春煙を帯ぶ

「遠望」: 鳥の飛び去った方角

2008. 4.26              by 井古綆





















 2008年の投稿詩 第97作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-97

  詠言其四 擬陶淵明與林和靖        

謬作詩人守固窮   謬って詩人と作って固窮を守り

散材謝斧似癡聾   散材斧を謝して癡聾に似たり

九皐野鶴浮舟客   九皐の野鶴 舟を浮べし客

五柳柴門采菊翁   五柳の柴門 菊を采りし翁

偏愛尋梅放情潔   偏に愛す尋梅 情を放って潔く

方知飲酒詠懷崇   方に知る飲酒 懷を詠じて崇し

艶歌詞曲非攸好   艶歌詞曲は好むところに非ず

淫佚狭斜文雅空   淫佚狭斜 文雅空し

          (上平声「一東」の押韻)

●守固窮 困難な境遇におちいっても、その境遇を守る 「君子固窮(『論語』)」
●散材謝斧 役に立たない木は伐られない
●似癡聾 おろかで耳が聞こえない 
●九皐 奥深い沢
●浮舟客 逋必棹小船而帰 和靖先生のこと
●尋梅 和靖先生の山園小梅の詩を指す
●飲酒 五柳先生の飲酒の詩
●狭斜 色町

「野鶴」は「孤鶴」にしたかったのですが、「柴門」とは精対にならないので諦めました。

<感想>

 菊の陶潜、梅の林逋という双璧への敬慕の気持ちと、謝斧さんご自身の漢詩への思いを述べた詩ですね。
 頸聯までの沈着な叙述に比べると、尾聯では憂い(怒り?)が直線的で、気負いというか、この聯だけがやや浮いているように感じます。

 俗を排して雅を求める、これが古典詩文の伝統的な考え方でしたし、現在でも、漢詩や和歌を愛好する方達の多くはそうした雅に触れたいという気持ちをお持ちなのだと思います。
 私もそれで良いのだと思っています。ただ、心がけているのは、「俗」を狭く解釈し過ぎないように、ということです。

 誰もが鶴を相手に暮らしたり、職を中途で辞することができるわけではありません。ほとんどの人は「塵俗の世」で生活をしているわけで、現実の「俗」なるものと日々対峙しているからこそ「雅」なるものを求めるのだと思います。
 現実の社会を見つめる視点、実物大の自分を見つめる視点は、季節の自然を見つめる視点と同じでなくてはいけないのだと思います。それを、詩としてどう表現しているか、私が皆さんの詩を拝見する楽しみの一つはそこにあります。

2008. 4.26                  by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第98作は 貞華 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-98

  初春        

立春説暦苦寒天   立春と暦を説く 苦寒の天

終日縮肩爐火前   終日肩を縮して炉火の前

試訪籬垣老梅樹   試みに訪ふ 籬垣の老梅樹

數枝花發已香傳   数枝花発いて 已に香り伝ふ

          (下平声「一先」の押韻)

<感想>

 起句の「説暦」はニュースなどでよく使う言い方をすれば、「暦の上では」というところでしょうか。
 春とは言えまだ寒く、こたつに身をかがめるように手足を入れる、そんな姿が承句からは目に浮かびますね。

 転句からは率直な表現とも言えますが、詩としてはもう一工夫、アレンジの必要があるでしょう。
例えば、庭に出た理由としてお書きになっているのは「試訪」ですが、ここに先に香りを持ってきて「暗香籬辺」とか、香を予感させるように風を登場させるなどで、実景を表す言葉が良いでしょう。
 結句は「数枝」よりも「南枝」「一枝」の方が、「已香伝」という驚きを表すには適していると思います。

2008. 4.26                  by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 貞華さん、お久しぶりに玉作を拝見いたします。
 鈴木先生の懇切なご助言は貞華さんのみならず我々読者にも一々納得ができます。わたくしは他のお方への感想文でも、我が事として受け止めております。

 この度の玉作は、起承転結がほとんど整っているように感じられました。後は推敲を重ねることでは無いかと思います。
 この詩では鈴木先生の述べられているように、転句が非常に難しく作者が庭に出る理由を詠出しなくてはなりません。
 完全な詩を作ることは非常に難しく、斯く言うわたくしも人様の作品に妄批を申し上げるほど佳作は出来ませんが、以下のように試作してみました。その際に気が付いたことを述べてみます。



   試作  初春
  残寒料峭立春天  残寒 料峭たる 立春の天
  終日守炉居悄然  終日炉を守って 悄然と居す
  偶見新鴬訪梅樹  偶々見れば 新鴬 梅樹を訪ふ
  南枝破蕾暗香伝  南枝は破蕾して 暗香伝ふ

※ 「已」を入れようと思いましたが、「暗香」の熟語を優先しました。

 「起句」は語句を並べ変えてみました。これも大切なことです。
 「承句」は厳密に言えば玉作の「肩」が冒韻になっています。私見ですが、如何にしても冒韻を避けられない時には使用もやむを得ないと考えていますが、貞華さんがどうお考えなのか、とりあえず試作では除いてみました。

 問題の「転句」ですが「鴬」を挿入しました。嗅覚は梅樹が遠ければ矛盾と成るため、視覚を使用しました。

「結句」は実景では貞華さんの「数枝」のほうが正しいと思いますが、詩的表現では鈴木先生のお言葉のとおり、多くの先生が「一枝」としています。
 私見といたしましては、「南枝」として表現をぼかしたほうが良いように思いました。
 なお、これも私見ですが、漢詩では「残寒(ザンカン)」とか「料峭(リョウショウ)」、また「玲瓏(レイロウ)」「参差(シンシ)」などの語は発音上の美しさがあります。
 かつて鈴木先生が、「室内」より「室裡」の方が漢詩には正しい措辞の方法であると述べられていましたのは、やはり音声上の理由からではないかと思います。

2008. 4.28                by 井古綆


貞華さんからお手紙をいただきました。

 いつも御丁寧な御指摘ありがとうございます。
この御指摘と添削も楽しみのひとつです。
 それから冒韻を知りませんでした。

2008. 4.30           by 貞華





















 2008年の投稿詩 第99作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-99

  春寒        

節分東府雪霏霏   節分 東府 雪霏霏たり

行路朔風人払衣   朔風に行路の人は衣を払ふ。

料峭庭梅花未笑   料峭 庭梅 花未だ笑はず、

滑躓凍結怕寒威   凍結に滑り躓く 寒威を怕る。

          (上平声「五微」の押韻)

<解説>

 季節の変わり目節分の早朝から東京では二度目の積雪数センチと。
 道行く人の外套の裾を北風が払う。
 厳しい寒さで春一番に咲く花も未だ咲く気配がない。
 ただ恐れるのは路面が凍結して躓いたり滑るの恐れるのである。雪に弱い東京で。

<感想>

 今年は二月の雪のために、殊更に「春寒」を感じましたね。深渓さんのお住まいの東京でも雪が多かったようですね。

 今回の詩では、まず承句に問題があります。
 深渓さんの訳文を拝見すると、お気持ちとしては「朔風が行路人の衣を払う」ということですので、それですと語順としては「朔風払行路人衣」として「主語・述語・目的語」の順にしなくてはいけません。
 現在の語順でも読めないことはないのですが、「行路には朔風が吹き、人は衣を払う」と解釈しますので、私は衣服についた雪を払っているのかと思いました。
 また、前半は二字の名詞をボンボンと二つ並べた形で、これは起句と同じですので、変化に乏しくなっています。

 結句についても、「滑躓」という二字ワンセットの熟語があるのなら良いのですが、自分で動詞を二つ並べた形では「結」の字から「滑」に戻ることは相当苦しいですね。
 また、句の意図からみれば、「怕」「滑躓」の前に来た方が良いでしょう。
 私の印象としては、この結句の「滑りやすい躓く」という内容は起句を承けた承句に持っていった方が落ち着くのではないでしょうか。

2008. 4.28                  by 桐山人



深渓さんからお返事をいただきました。

 桐山堂先生

 冠省 「後期高齢者云々」に、傘寿叟は憤懣やる方ない今日この頃です。

 先に「春寒」と題しましたが、早や明日から五月の天となります。

 鄙稿の「春寒」にご感想ご指摘有難うございました。仰せのように滑り転ぶ(顛躓)を承句に推敲いたしました。

   春寒
  節分東府雪霏霏  節分 東府 雪霏霏 たり
  危怖顛躓人未帰  顛躓を危怖か  人未だ帰らず
  料峭庭梅花不笑  料峭 庭梅 花笑 わず
  朔風吹断凛寒威  朔風 吹断して 寒威凛たり

 この程度の推敲で菲才を恥じ入るばかりです。

2008. 4.30            by 深渓





















 2008年の投稿詩 第100作は 禿羊 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-100

  同窓会  
    中学同窓集琴陵、卒業以来実五十年也
    中学の同窓 琴陵に集ふ、卒業以来 実に五十年也

寒梅初綻一枝芳   寒梅 初めて綻んで 一枝芳たり

花下相看笑半霜   花下に相看て 半霜を笑ふ

窃探群中少女貌   窃かに群中に探る 少女の貌

五旬風雪夢茫茫   五旬の風雪 夢茫茫

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 昨年の二月のことですが、中学の同窓会が郷里の近くの琴平で初めて開催されました。なかなか詩にならずとうとう一年たちました。

 五十年の我が身に降りかかった風雪は、少年時代の淡い想いを遙かな夢の中のものとしてしまいました。

<感想>

 五十年ぶりの幼なじみとの再会ということですが、確かに紅顔の少年少女だった頃のイメージと現在を比べれば、まずはお互いの変化を眺め合うことから始まるのでしょうね。
 でも、どれだけ年数を経ても同窓の友はすぐに以前と同じように親しく話せるもの、そんな雰囲気が承句によく表れていますね。
 転句は「窃探」が味わいのある表現ですね。憧れの君はいつまでも憧れの君、そんな思いが「窃」の一字に籠められていると言えるでしょう。
 ただ、詩全体として考えた時に、この表現はまだ推敲ができるように思います。「この言い方が良いか」「あの字が最適か」とあれこれ考えるのが、同窓会の思い出を深めることにもなるでしょうね。

2008. 4.28                  by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第101作は 鴻辺治郎 さんからの作品です。
 鴻辺治郎さんは、以前に「鴻洞楼」のお名前で投稿されていましたが、心機一転、ということで変更されました。

作品番号 2008-101

  懐六郷満山地        

滄海茫茫通四方   滄海ハ茫茫トシテ四方ニ通ジ

翠山寂寂添香堂   翠山ハ寂寂トシテ香堂ニ添フ

戦塵来復猶悠遠   戦塵ハ来復スルモ猶悠遠ナリ

浮客京華懐旧郷   浮客ハ京華デ旧郷ヲ懐フ

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 私の郷里である大分県の国東半島のことを思って作成してみました。

 この地は古くより「六郷満山(ろくごうまんざん)」と呼ばれる仏教の盛んな地です。「ほとけの里」などとも呼ばれ、国宝である富貴寺も古い趣きがあります。
 しかし古代、中世と兵乱も多く、その哀しみもたたえる地です。
 都会に出てきてはいますが、兵火に経てなお静かさを保つこの地のことを最近は特に想うことが多くなりました。

そのような心情を汲み取っていただければ幸いです。

 漢詩創作からは長らく離れておりましたが、このHPがますます盛況でとても嬉しく感じております。相変わらず拙い作品ですが、御批評を賜れれば幸いです。


<感想>

 お久しぶりですね。お元気でいらっしゃったようで、旧友に再会したような嬉しさです。また、よろしくお願いします。

 前半の対句で、故郷の風景を一気に描いたのは、故郷から遠く離れていらっしゃるからこそのもの、心の中のイメージが描き出されていて良いと思います。
 ただ、承句の「添香堂」は起句の「通四方」に対するには大きさのバランスが悪いでしょう。
 読者の視点を、大きなものから次第にズームインして小さなものへ焦点を合わせていく手法もありますが、その場合には、焦点を当てた「香堂」が次へつながる形、つまり「香堂に戦塵が来た」=「香堂が戦禍を被った」と解釈を促すことになりますので、作者の意図以上に読まれてしまうかもしれません。
 また、この「添香堂」は三字とも平字で「下三平」になっていますから、直されるのがよいでしょう。

 転句の末は「悠遠」ということですと、句の意味が「戦火が(何度も)戻ってきたが、それははるか遠くのこと(もしくは、はるか昔のこと)」となります。お書きになった説明とは異なると思います。「悠然」が平仄から使えなかったのでしょうか。「幽」の字を用いた熟語の方が合うと思います。

 この転句の内容を七字で表すのは難しく、通常ですと転句で「戦禍を受けたこと」、結句で「それでもなお静かで落ち着いた地」とすると思います。
 結句は作者の状況の説明ですが、こうした記述は題名に入れるという形もよく取られます。「懐旧郷」は、これまでの叙景で十分に表されているとも言え、あえて強調のために入れる場合がほとんどです。
 こうした点をお考えになって推敲されると良いでしょう。

2008. 4.28                  by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第102作は 海鵬 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-102

  賀寄恩師寿筵     恩師の寿筵に賀して寄す   

杏壇執教五旬霜   杏壇に教を執ること五旬霜

幾万門生誇鶴翔   幾万の門生、鶴翔を誇る

成蹊共勤連理侶   成蹊に共に勤むる連理の侶

満枝桃李満園香   満枝の桃李、満園の香

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 高校の恩師の傘寿の宴席が予定され、祝意を自詩に籠めて贈りました。
「鶴翔」は母校OB会の名前です。
 恩師のご自宅を訪ねると何時も奥様が側に依り添い、一緒に教え子の名前や思い出を話され、仲の良いご夫婦なのです。

<感想>

 恩師へのお祝いの気持ちをどう表すかは、思いが深いほどに作詩では心を悩ませますね。海鵬さんも、転句で随分苦しまれたようです。
 前半は業績紹介のような形でやや硬いのですが、それも尊敬の気持ちの表れでしょう。
 転句に恩師のお人柄を出すことで、硬さをほぐす狙いがあります。ここは、解説にお書きになったように、奥さまをどうしてもご一緒にご登場願いたいというお考えで、初案では「夫唱婦随」とされていました。教え子の立場からの言葉としてはどうか、と私が申し上げましたので、色々と推敲されたのでしょう。最終的に「成蹊」とされたのは、勿論、「桃李不言、下自成蹊」から持って来られたもの。「径」に替えれば平仄は合いますが、故事からの引用ですのでそのままお使いになったのでしょう。

 結句は寿筵(宴)にふさわしい華やかな収束かと思います。

2008. 4.30                  by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第103作は東京都中野区の 雨晴 さん、七十代の男性からの作品です。
 

作品番号 2008-103

  春雨        

春宵未霽暮煙横   春宵未だ霽れず 暮煙横ふ

糸雨蕭蕭庭草萌   糸雨蕭蕭 庭草は萌ゆ

獨坐書窓親筆硯   獨り書窓に坐し、筆硯に親しむ

詩思漸熟已三更   詩思 漸く熟せば 已に三更

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 初めて投稿します。
 桐山先生の忌憚の無いご批評を頂きたく思います。
 初心者故、詩題を十分に詠みきれていないと反省しています。
以後、宜しくご指導ください。

<感想>

 初めまして、新しい仲間が加わること、とても嬉しく思っています。
今後ともよろしくお願いします。

 春雨という詩題ですので、雨に降られて室内から外を眺める、という構図になると思いますが、そこにどれだけ季節感を出せるかが大切ですね。春の雨そのものを「糸雨」としたのも、「暮煙横」もそういう意味で良いと思います。
 ただ、「蕭蕭」という寂しげな形容と「庭草萌」という明るさが気になります。無関係なものが並んでいるような印象です。下三字は「草不萌」の方が合うように思いますがどうでしょう。

 結句の「詩思」の「思」は名詩用法ですので、この場合は仄声になります。賈島の「慈恩の文郁上人に酬ゆ」の詩に「無端詩思忽然生(端無くも詩思忽然と生ず)」とありますが、仄声の例です。
 その他は雰囲気がよく出ていて、バランスの取れた言葉が選ばれていると思います。
次作も楽しみにしています。

2008. 4.30                  by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第104作は ニャース さんからの作品です。
 

作品番号 2008-104

  春節        

万戸怱忙接暦新   万戸 怱忙と暦の新たなるに接し

愁心征客強迎春   愁心の征客 強いて春を迎ふ

煙花制夜驚天界   煙花は夜を制して 天界を驚かせ

爆竹圧朝醒地神   爆竹は朝を圧して 地神を醒ます

故里夢帰思子女   故里 帰るを夢み 子女を思ふ

他郷漂泊嘆孤身   他郷 漂泊すれば孤身を嘆く

乾杯自酔無尋処   乾杯 自ら酔へども尋ぬる処無く

佳節誰知独過人   佳節 誰か知らん 独り過ごす人を

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 人々は慌しく新年を迎え、旅人である私も寂しいながらも春を強いて迎える。
 花火は夜を制して、天界を驚かせ、爆竹の音は朝に響き、地の神の目を醒ますかのようである。
 故郷に帰ることを夢見れば、子供のことを思い、異国の地にいる自分を嘆かざるを得ない。
 杯を干し、自ら酔っても、どこにも行くところがない。
 このような佳き春節に誰が独りで過ごしている人が居るなど考えようか。

 鈴木先生、ご無沙汰しています。ニャースです。
 一時帰国で大連から戻っています。
 相変わらずパソコン音痴で、向こうで先生のHPが開けなくなりました。
久しぶりに拝見させていただいたHP、以前にも増して 皆さんが漢詩談義に花を咲かせているのをみて、うれしいです。

 春節は大連で日を送り、漢詩を作成いたしました。久しぶりに投稿させていただきます。

 最近は京劇にこっており、大連京劇団の公演に足しげく通っています。価格は席により異なりますが、B席 50元(750日本円)を愛用しています。100人くらいの小劇場ですが臨場感が素晴らしく、しかもこの価格!!
 これぞ駐在ライフだと自分で悦に入っております。

<感想>

 お久しぶりです。大連ではなかなかメールも届きにくいようで、寂しく思っていました。
 春節を他郷で迎えた寂しさを、春節の華やかさと対比して描き、お気持ちがよく伝わってきます。「駐在ライフ!!」と大見得をきっても、寂しさは消しきれませんよね。
 尾聯の「乾杯自酔無尋処」の句が、アクセントが利いていますね。
 他の句を見てみると、全て上の二字は「修飾語+名詞」という構造になっていますので、全体にリズムが単調になっています。この句だけが「述語+目的語」の構造ですので、しっかり目立ちます。
 ということならば、読み下しも「乾杯」ではなく、「杯を乾せども」とした方が良いでしょうね。
 ただし、できれば、前のどこかの聯でも、リズムに変化をつけて欲しいところです。

 頷聯は良いですが、頸聯は語の対応にやや難がありますが、ま、帰国してからのお楽しみということにしておきましょう。
 お身体に気をつけて、お元気で頑張ってください。

2008. 4.30                  by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第105作は 翠葩 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-105

  尋梅        

軽暖尋梅古渡頭   軽暖 梅を尋ぬ 古渡のほとり

氷葩映水送香幽   氷葩 水に映じ 香を送りて幽なり

恍臨清客吟情旺   恍として臨む 清客 吟情さか

景趣賞来詩可酬   景趣 賞し来りて 詩酬ゆべし

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

 今年も懸命に梅がいた。
 上手くはないが、感謝の念を詩にして酬いようか

<感想>

 少し暖かくなった頃に梅を尋ねて出かけたという書き出しは穏やかな日常を感じさせますね。
 承句の「氷葩」は、「氷肌」「氷姿」「雪葩」などと同じく、「氷や雪のように白い梅の花」を表す言葉です。ですので、「氷」とか「雪」は比喩であって実態はないわけですが、それでも「氷」という字が目に入ると起句の「暖」の字との関わりが出てきます。
 釣り合いを取るという点では「瓊葩」くらいの方が良いかな、という気がします。

 結句は無難と言えば無難なのですが、何となく優等生の答案みたいで、転句からの発展が弱く、全体の締めくくりとしてはやや物足りない感じです。「賞来」が単なる間つなぎのようです。もう少し働きのある言葉、例えば「方知(まさニしル)」「但令(たダ・・しム)」などを入れて、句のリズムを崩すような力強さが欲しいところです。

2008. 4.30                  by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第106作は 青眼居士 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-106

  早春逍遙        

石澗潺潺残雪霽   石澗 潺潺 残雪霽れ

竹陰訥訥早鶯鳴   竹陰 訥訥と 早鶯鳴く。

山茶搖漾淺清水   山茶 搖漾す 浅清の水、

發艶落猶明媚爭   發けば艶 落ちて猶 明媚争ふ。

          (下平声「八庚」の押韻・起句踏み落とし)

<解説>

 山茶(椿)は一輪まるごと落ちる(散る)ので、水に落ちた姿を想像したものです。

<感想>

 起句と承句を対句にして書かれたものですが、中央で使われた畳語の関わりが異なっていますね。
 起句の「潺潺」は水の流れる音を表しますので、ここでは「石澗」の述語部分になります。また、承句の「訥訥」は口べたなことですが、次の「早鶯鳴」を修飾する役割です。
 句の構造で言えば、起句は「石澗潺潺 残雪霽」として主語が二つある複文です。
 承句は、「竹陰」は主語ではなく、鶯が鳴く場所を表しただけ、実際の主語は「早鶯」だけの単文(述語が「鳴」)です。 文法構造が異なりますので、対句になりません。直すためには、「潺潺」「残雪霽」を修飾する語にするか、承句の「訥訥」「竹陰」を形容する言葉にするか、どちらかですね。
 全体的のバランスで見ると、転句に「水」を持ってきていますので、できれば起句は水を避けた方が良いと思います。また、承句は「鶯」が冒韻になりますから、あまり好ましくないですね。

 結句は「發艶」「花が開いている時も美しい」ということかと思いますが、そうは読んではもらえないでしょう。「艶を発く」と読んで、「きれいに咲いた」と解釈するくらいでしょう。
 「落ちても美しい」するならば「發艶」は不要で、「今の美しさ」を表した方が良いでしょう。発想としては、「きれいな水に落ちたから、一層美しい」とした方が情景としては勝るように思いますが、どうでしょう。

2008. 4.30                  by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 青眼居士雅兄、お早うございます。
 初めて文を差し上げます。と申しますのは、起句と承句を対句にされていることに、心を動かされましたからです。このことは将来律詩を作る際に大変に役立ちますので、他のお方も大いに挑戦していただきたいと思い、執筆いたしました。

 詩の感想につきましては、鈴木先生のお言葉の通りですので、わたくしが付け加えることはありませんので、起句の下三字を変更してみました。

「石澗潺潺流水響」としたならば完全な対句となるように思いますが。
この場合、「水」の字が転句にも出ていますが、これは変更できると思います。

 なお「鴬」の冒韻のことですが、この位置にあるのは良いと思いますが、先生のお立場上厳しくされると思います。「オウメイ」の熟語には「嚶鳴」もあります。その他「水連天」など畳韻の音声上の美しさがあるように感じますが。

2008. 5. 2             by 井古綆





















 2008年の投稿詩 第107作は 柳田 周 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-107

  立春小遊行        

立春和気小遊行   春立ち 気和らげば 小遊行す

昨雪消催野草萌   昨の雪消えて 野草の萌ゆるを催す

三月絶無愉漫歩   三月 漫歩を愉しむこと絶えて無かりしに

澄空輝水亦心晴   空澄み 水輝いて 心も亦晴る

          (下平声「八庚」の押韻)

<感想>

 柳田周さんの七言絶句は久しぶりのような気がしますね。
 春の陽気とともに、お身体の方も少しずつ体力を取り戻したのですね、戸外へお出かけになられたようで、うれしく思います。体力と気力、どちらも大切ですよね。

 承句は読みにくく、「雪が消えて、かつ催している」と動詞を並べることで何か効果を狙ったのでしょうか。それとも、つい律詩の二句分を一句に入れたのでしょうか?
 「作雪」も苦しいのですが、まずは「催」を削って、「昨雪留痕野草萌」あたり、感じとしては宮内卿の「薄く濃き野辺の緑の若草に跡まで見ゆる雪のむら消え」と似た発想でしょうか。

 結句はこの語順でしたら、「澄みし空 輝く水」と読むか、熟語として音読みするかでしょう。お示しのように返っては読めません。

2008. 4.30                  by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第108作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-108

  春櫻花底樂和平         

往時日本尚忠魂,    往時の日本は忠魂をたっとび,

一命報國思想存。    一命報国の思想り。

此到平成絶戰禍,    ここに平成に到り戦禍絶え,

天無彈雨有櫻雲。    天に弾雨無くして桜雲有り。


景光堪賞酒延壽,    景光 賞するに堪へて酒は壽を延ばし,

花底游民多醉叟。    花底の遊民に酔叟多し。

仰看風中香雪舞,    風中に香雪の舞ふを仰ぎ看て,

消憂鼓腹交紅友。    憂ひを消し腹を鼓して紅友と交わる。


白頭習氣傲高才,    白頭の習気 高才に傲り,

覓句忽成披坦懷。    覓句 忽ちに成って坦懐を披く。

誇耀樽前俳句好,    樽前に俳句の好きを誇耀ほこれば,

詩魔翻袖抱琴来。    詩魔 袖を翻し琴を抱きて来たる。


莫嘲樗散餐霞癖,    嘲る莫かれ 樗散の餐霞の癖,

不入官軍久翕翼。    官軍に入らずして久しく翼をおさむるを。

鴻志圖南迷韻事,    鴻志の図南 韻事に迷へば,

蓬壺佳勝催揮筆。    蓬壺の佳勝 筆を揮ふを催す。


鶯啼尽日領山河,    鴬は啼いて尽日 山河を領し,

人醉偸生枕銹戈。    人は醉って生を偸みさびたる戈に枕す。

春晝花間秋月下,    春昼の花間 秋月の下,

冬天猶唱墓穴歌。    冬天 猶ほ唱す 墓穴の歌。

          (中華新韻の押韻)

<解説>

 紅友:酒。
 習氣:悪い癖。
 餐霞癖:自然を愛し、旅行を好む癖。
 翕翼:翼をたたむ。
 鴻志圖南:ここでは、大志をいだくくらいの意。
 銹戈:錆びた戈、ここでは、使い物にならない武器。

 七言古詩換韻体の詩ですが、中華新韻で押韻(順に九文平,七尤仄,四開平,十二斉仄,二波平)しています。古詩は平仄を調えることは求められていませんが、拙作は、中華新韻の平仄では合致しています。
 勇ましい心を持たず、ただ老いさらばえる、それで何が悪いか、という私の開き直りを詩にしたものです。
 これからも日本は、美しい日本であったり、立派な日本であったり、ではなく、他国に迷惑をかけない国であってほしいと思います。
 そのためには、日本人の多くが、山河を愛でることのできる風流人士であるのがよい、と願っています。


<感想>

 平和であることを謳歌する詩ですが、その平和を自覚する根底には戦争の記憶と歴史への認識が不可欠でしょう。
鮟鱇さんのこの詩を読んでいく程に、「開き直」った胸の中にそこはかとない寂寥がこみあがってくるのを抑えられません。それは鮟鱇さんが用語に典故を生かしながら工夫されているところが大きいのでしょう。
 重みのある内容と古詩の趣がよく調和していると思います。

2008. 5. 2                 by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第109作は岐阜県の 如風 さん、四十代の男性からの作品です。
 

作品番号 2008-109

  雨水探梅        

空林天花尺餘時   空林に天花 尺餘の時

人跡一径任所之   人跡 一径 之く所を任す

俯仰探梅春二月   俯仰して 梅を探す 春二月

襲衣歩歩問花期   襲衣して 歩々 花期を問ふ

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 漢詩の約束事が大変詳しく解説されており、充実した内容に驚いています。自画自賛の自作の漢詩、初めて投稿しました。是非ご指導をお願い申し上げます。

 [訳]
   雨水の日に梅を探す
 木の葉のすっかり落ちた林には雪が一尺も積もっている
 その中に人の踏み跡がひとすじどこへ行くのか
 俯仰して梅を探しに出かけてきた今は雨水の頃春二月
 重ね着をして 一歩一歩 いつ咲くのか訪ね歩いていることよ

<感想>

 漢詩を作る楽しみをまた、新しい仲間と味わえることをとても嬉しく思います。今後ともよろしくお願いします。

 詩を拝見しますと、用語や句の構成に破綻がなく、漢詩をよく読まれていらっしゃるのかと思います。平仄については今回の場合では、起句と承句の平仄が整っていません。

 内容や表現の点で言いますと、起句は「天花」が気になります。雪を表す言葉ではありますが、降る雪と積もった雪は異なります。「天花」と言われれば、読者は必ず空を見上げる図を想像します。
 ところが、下三字は地上の話ですので、視線が上から下へと慌ただしく動き過ぎます。他の所で「雪」の字を使っているならば駄目ですが、そうでないならば、比喩としての「天花」よりも、まずは「雪」の字を用いるようにした方がいいでしょう。「空林積雪尺餘時」、これで目の動きと平仄は落ち着きますね。
 後半は整った句になっていると思いますが、結句の「花」は起句にも使われていますので、同字重出です。というよりも、「天尺餘の時」期を問ふ」というのはそもそも変で、字遊びにもならないと思います。

2008. 5. 2                  by 桐山人



如風さんからお手紙をいただきました。

 鈴木先生
「雨水探梅」を投稿した如風でございます。

 初めての投稿でも御丁寧なご指摘を受け感激しています。
 一首出来上がって、それだけで自身舞い上がってしまい、推敲もそこそこに投稿してしまったことなど、同字重出の初歩的なミスを冒し、反省することしきりです。

 空から降ってくる"雪”と.積もっている.”雪”との表現の仕方の違いなど、目から鱗の思いです。

 推敲の大切さ、何度も読み返し全体の雅趣を整えることの大切さを知りました。
 今後とも御指導方よろしくお願いいたします。ありがとうございました。

2008. 5. 6             by 如風





















 2008年の投稿詩 第110作は 芳原 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-110

  野翁詩        

十歳帰林白鬢端   十歳 帰林 鬢端を白くし

不須明鏡惜余歓   明鏡もて 余歓惜しむに須ひず

朝耕一畝夕三盞   朝に一畝を耕し 夕べに三盞

草枕醒然春尚寒   草枕醒然 春尚ほ寒し

          (上平声「十四寒」の押韻)

<解説>

 田舎に帰って十年 両鬢も白くなった
 華やかな日々の名残は今さら鏡を見るまでもなかろう
 日が出れば耕し日が暮れれば安酒で息う
 粗末な夜具に酔いが醒めると春の寒さはまだまだ



<感想>

 芳原さんののどかな生活がしみじみと伝わってくる詩ですね。用語、構成など、詩意との調和が取れていて、芳原さんのお勉強の程がよく分かります。

 起句は「田舎に帰って十年」ということで、芳原さんも表現に悩まれていたところですが、ここは「十年の田舎暮らし」という形に変えて、「十歳園居」とするのが良いでしょう。

 結句の「草枕」は和語ではないかと思います。「茅屋」などでいかがでしょうか。

 承句は読み下しを私の方で少し直させていただきました。

2008. 5. 3                 by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第111作は 玄齋 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-111

  寒夜催雪        

書室終無夜雪聲   書室 終に夜雪の声無し

未眠臨案伴寒檠   未だ眠らず 案に臨みて 寒檠を伴ふ

借光偏愛孫康志   光を借りて 偏に愛す 孫康の志

遙想銀峰心更C   遙かに銀峰を想へば 心更に清し

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 孫康は「蛍雪之功」の故事に登場する人物です。
 晉の孫康は貧しくて明りのための油を買えなかったので、雪明りで勉強をしていました。

<感想>

 3月に投稿していただいたもので、まだまだ寒さの厳しかった頃にお作りになった詩ですね。
 承句の「臨案」「机に向かう」ということですが、「臨」よりも「倚」の方が寒夜に合うでしょう。

 転句の「偏愛」はまだ良いのですが、結句の「遥想」は邪魔ですね。わざわざ「心の中で想い描いた」と断る理由が分かりません。実際に見えていないから正直に書いたということかもしれませんが、ここは、心の目であろうが実際の目であろうが、「見えた」という事実を全面に出さないと、じゃあ何故「銀峰」を心に浮かべるのだ?という疑問を呼び、非常に作為的な展開に感じます。
 「遥看」「遥望」などを入れて、違いを感じてください。
 転句ではもう一つ、結びの「心更清」は、詩の要を出していて、賛同できません。特にこの詩では、直前の「孫康志」のインパクトを薄めて、マイナス効果が大きいと思います。

2008. 5. 3                 by 桐山人



玄齋さんからお返事をいただきました。

 鈴木先生、ご指導ありがとうございます。

 結句は非常に迷いました。「遙看」と「遙想」は、夜の光景なので見えない方が自然かなと思っていましたが、やはり「見る」と言いきった方がよいのですね。分かりました。
「孫康志」のインパクトを生かせるように、結句は夜明けの光景に改めてみました。

今回は以下のように改めました。

  書室終無夜雪聲    書室 終に夜雪の声無し
  未眠倚案伴寒檠    未だ眠らず 案に倚りて 寒檠を伴う
  借光偏愛孫康志    光を借りて 偏に愛す 孫康の志
  遙看銀峰曉色明    遥かに銀峰を看れば 暁色明かなり

いつもありがとうございます。
よろしくお願いいたします。

2008. 5.18               by 玄齋


 まとまりのある詩になったと思います。
 欲を言えば、承句の「未眠」はここより後を読めば自然に分かることですので、省くことができます。この二文字分に何を入れるか、という観点で前半を推敲するのも面白いでしょう。

2008. 5.19               by 桐山人





















 2008年の投稿詩 第112作は 玄齋 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-112

  春日閑居        

既知書室暖初生   既に知る 書室 暖初めて生ずるを

病苦纔堪情亦C   病苦纔かに堪へて 情亦た清し

遺却舊題空擲筆   旧題を遺却して 空しく筆を擲ち

惟望枝上聽遷鶯   惟だ枝上を望みて遷鶯を聴くのみ

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 暖かくなって体も少し楽になる、そんな季節が早く来て欲しいと思います。

<感想>

 玄齋さんの詩を続けて掲載させていただくのは、前作の結句で書かれた「心更C」とこの詩の承句の「情亦清」を見比べていただくためです。
 同じような表現で、作者の感情を形容したものなのですが、こちらは問題有りません。どこが違うか、ということですが、それは主題との関係です。
 前作は「寒い夜の書斎での自分の気持ち」を描くのが詩のテーマで、「心更清」はまさに主題そのもの。眠れぬ冬夜、孫康の故事を思い出しては自分の心も清くなっていく、その清浄感を読者に共感してもらうために、起句から場面設定をしてきているわけです。結論を言いいさえすれば良いのなら、そうした工夫は不要でしょう。
 さて、こちらはどうか、というと、「情亦清」はこの承句の中だけのもの、「病気がようやく快復してきた」という喜びの気持ちを補足しているのであり、詩全体の主題に関わっては来ないという相違点があります。
 もっと言えば、この「清い情」は後半になると否定され、外に出られないもどかしさへと変化するための素材に過ぎないことが分かってきます。こうした使い方ならば、感情形容語も効果があるわけで、主題との関わりを意識してほしいと思います。

 あと、結句については、「望」が視覚、「聴」が聴覚で、バランスが悪いでしょう。「惟望」は要らないと思いますが、どうでしょう。

2008. 5. 3                 by 桐山人



玄齋さんからお返事をいただきました。

 鈴木先生、ご指導ありがとうございます。

 前作の「寒夜催雪」と並べてみると、情景の使い方について、どのようにするかを考えさせられました。
ありがとうございます。
 感情を主題に関わらせないことについて、次回から気をつけていきます。
 結句は動詞が二つあってまぎらわしいので、以下のように改めてみました。

  既知書室暖初生    既に知る 書室 暖初めて生ずるを
  病苦纔堪情亦C    病苦纔に堪へて 情亦た清し
  遺却舊題空擲筆    旧題を遺却して空しく筆を擲ち
  帶烟枝上聽遷鶯    烟を帯ぶる枝上 遷鶯を聴く

2008. 5.18                 by 玄齋





















 2008年の投稿詩 第113作は 観水 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-113

  探梅        

暫逐流鶯往   暫く流鶯を逐って往き

時逢落日歸   時に落日に逢って帰る

不知風伯戲   知らず 風伯の戯れに

香雪入吾衣   香雪 吾が衣に入るを

          (上平声「五微」の押韻)

<解説>

 これまで、五絶で作ろう、と思って試作に取り掛かっても、結局は五律になったり、七絶になったりで、なかなか20字にまとまらないことが多かったように思います。今回は割合うまくまとまったような気がするので、投稿してみました。

<感想>

 五絶二十字の中に景と情を詠い込もうとすると、どうしても説明を加えたくなったり、言葉を削る勇気が出なかったりで、私も結局七言の方が安心できます。
 この詩は観水さんが「うまくまとまった」とおっしゃる通り、春日郊行の趣を一句の中にまとめ上げていますね。特に、帰ってきて袖の中に梅の花を見つけたとしたドラマ仕立ての転句結句は、「春の喜び」を「驚き」の感覚と融合させ、余韻深い詩になっていると思います。

 この後半を生かすために、前半は対句に仕立てて、リズムの効果を出そうとされたのでしょう。その分、内容的には承句のインパクトが弱く、時間経過を述べて後半への導入という役割に終わっているように思います。
 それはそれで一つの方向ですが、例えば、「落日」「春日」に替えてみる、二句ともに春を明確に示すことで、結句への働きが変わり、詩全体が明るくなります。
 それならもっと早春らしい景を承句に入れてみるとどうなるか、という形で検討が進むわけですが、一字の変更、一語の交換で句のみならず詩全体が劇的な変化をする、それが五言絶句の面白さであり、難しさですね。

2008. 5.12                  by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第114作は 観水 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-114

  讀家書     家書を読む   

時得里書京兆巷   時に里書を得たる 京兆の巷

便呈佳品兩三行   便ち佳品を呈ずと 両三行

與兒盛饌宜多食   児に与ふるに 盛饌 多食に宜しく

讓婦輕裘好淡粧   婦に譲るに 軽裘 淡粧に好し

遊子當知上毛野   遊子 当に 上毛野の

老親更念馬津郷   老親 更に 馬津郷を念ずるを知るべし

秋愁冷雨冬飄雪   秋は冷雨を愁い 冬は飄雪を

春怕殘寒夏亢陽   春は残寒を怕れ 夏は亢陽をならん

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 実家から届いた手紙(と荷物)をきっかけに、故郷の親の、都会の息子一家に寄せる思いを知る――という筋書きです。

「上毛野」は現在の群馬県。私の出身地です。
一方の「馬津郷」は千葉県松戸市の地名の由来とされています。こちらが現在の居住地。

 慣れない七律で、しばらく投稿を躊躇していたのですが、一部の詩句についてご相談申し上げた井古綆さんに背中を押していただきました。どうもありがとうございました。

<感想>

 観水さんのこちらの詩は、七律ならではの詩ですね。
 親からの便りに添えられた品物を見ながら、親の思いを感じるという内容ですが、首聯からすっきりとした句作りで、俳句のような簡潔なリズムが魅力的ですね。
 「京兆」は首都、みやこを表します。漢代以降、長安一帯を「京兆尹」が治める地として「京兆」と呼ばれていました。

 頷聯は対句にするのに苦労されたのではないかと思いますが、送られてきた細々とした「佳品」を説明されたところ、この具体的な記述があるから以下の「親の思い」がよく見えます。大切な聯です。

 頸聯は流水対で、自分と親とを対比的に描いていますね。固有名詞の対については、私が関東の地名に疎いだけかもしれませんが、正直、あまりピンときません。「上毛野」「馬津郷」の語感(字感)による都会と故郷の対比でしょうか、どちらがどちらか、読者には分からないわけで、これは作者のみのお楽しみということになってしまいます。
 既に「京兆」という形で地名を用いていますので、尚更に、気になります。
 地名はそのままで、ということでしたら、上句の「當知」「當思」とし、流水対(「遊子が上毛野の老親の心を思う」)とも連鎖法(「遊子は上毛野を思い、その上毛野に居る老親は馬津郷を思う」)とも取れるような形にしてはどうでしょう。

 尾聯は、詩の結びとしては、対句である分だけ煩わしさを感じ、余韻というよりもせっかくの思いが拡散していくような印象です。
 また、例えば、「秋」「冷雨」「冬」「飄雪」という組み合わせは、類型的といえばその通りなんですね。
 ただ、親が子どもを思う気持ちというのは、まさに、そうした毎日の生活に根付いたもので、祭りとかイベントとは異なる日常的なものです。それを伝えるために、対句(類句法)でそれぞれの季節を示されたのでしょうし、敢えて類型的な表現をされたのかもしれません。
 それでしたら、全体的な構成を組み直し、この二句を頷聯か頸聯に持って行った方が効果的だと思います。

2008. 5.12                  by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 以前に観水雅兄から頸聯についてご相談を受けました折に作品を拝見しましたが、観水雅兄の最初の律詩であるにも関わらず、全対格にされている点を高く評価いたしました。
 即ち、第一句の「京兆」の句は鈴木先生のご指摘のとおり地名になっておりますが、同時に数字対にもなっております。「京」は「億」の1万倍若しくは10倍と聞き及んでおります。
 古来言われております杜甫作に「尋常」と「七十」が対になっているように、「京兆」と「両三」が数字対になっていて、観水雅兄の並々ならぬ努力を感じました。

 頸聯でわたくしが推敲いたしました「慈母は遙かに上毛野を思うも、蕩児何ぞ想わん馬津郷を」は、観水雅兄の故郷と現住所を間違えていました。失礼しました。
 改めて推敲申し上げるならば、以下のようではいかがかと思います。

  蕩子長忘上毛野    蕩子は長く上毛野を忘るるも、
  慈親毎想馬津郷    慈親は毎(つね)に馬津郷を想う。

 ※「蕩子」は「遊子」でもよいと思いますが、長く上毛野(故郷)を忘れるという詩句にしたため、あえて蕩子としました。次句の「毎(つね)」も尾聯の「秋は・・・」に繋げるため「更」よりは「毎」のほうがよいように思います。

 その後全文を通して読みましたが、尾聯の対句にも違和感が感じれられませんでした。むしろ四季を通じて親子の情愛纏綿とした立派な全対格の律詩であると思った次第でです。

2008. 5.14             by 井古綆


観水さんからお返事をいただきました。

 掲載ありがとうございました。

 頸聯の固有名詞の対については、鈴木先生のおっしゃるとおりで、たしかに「馬津郷」 というのは、都会っぽくないですね。
 地名を入れるのは自分の好みもあってのことなのですが、それにしても、別の語の選択の余地もあったかもしれません(固有名詞にこだわらなければ、さらに選択の幅も広がることもわかってはいますが……)。

 練習のつもりもあって、全対格を試みたり、流水対にしてみたりとしたのですが、その辺はこだわらない方がかえって良かったかもしれないと反省しているところです。

 まだまだ精進が必要ですね。
どうもありがとうございました。

2008. 5.25            by 観水





















 2008年の投稿詩 第115作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-115

  賞櫻花吟句         

雨散天晴風入衫,    雨散じ天晴れて 風 さんに入り,

荊妻遊目笑容添。    荊妻 遊目すれば笑容添ふ。

櫻雲盛涌飛香雪,    桜雲 盛んに涌いて香雪を飛ばし,

湖水清盈泛錦帆。    湖水 清らかにちて錦帆をうかぶ。

養病二年身快癒,    病ひを養ひて二年 身は快癒し,

穿林一路氣森嚴。    林を穿ちて一路 気は森厳たり。

尋花韻事競求句,    花を尋ねる韻事 競って句を求め,

春晝題詩坐碧巖。    春昼の題詩 碧岩に坐す。

          (中華新韻「八寒」の押韻)


<解説>

「衫」:ひとえの上衣。
「錦帆」:美しい帆、船。
「森厳」:静まり返っておごそかなさま

 中華新韻「八寒」の押韻ですが、旧韻の詩としてみれば、「進退韻」の押韻詩です。

 「進退韻」は、私の漢詩の師、中山逍雀によれば、「律詩に於ける押韵法の一つ」で、律詩の第二句の韻を「甲韻」とすれば、第六句にも甲韻を用い、残りの第四句と第八句には、甲韻と通韻できる乙の韻を用います。(中山逍雀漢詩詞創作講座 http://www.741.jp/kouza03/kou-03C18.htm)

 拙作の韻字は、第一句が「下平十五咸」、以下「下平十四塩」、「十五咸」、「十四塩」、「十五咸」。つまり、咸と塩とを規則正しく交互に用いています。
これが、「進退韻」です。

 拙作の韻字は、中華新韻でみればいずれも「八寒」。そこで、「進退韻」が意味があるのは、旧韻による詩作りの場合です。旧韻で詩を作りつつも、時にはより自由な押韻を、と思う方のご参考までに紹介させていただきます。


<感想>

 通韻で、隔句交差形というようなものですね。
 以前の常春さんの「蝉聯体」の詩もありましたが、押韻や平仄に更に条件を加えることになりますので、鮟鱇さんの仰るような「自由な押韻を」という楽しみ方に到るには時間がかかるでしょうが、詩作りの練習や押韻の勉強としては効果があるでしょうね。

 内容面では、頸聯の対句の意図が伝わらないと思います。「養病」「穿林」「身快癒」「氣森嚴」は、意味としてのつながりが見つかりませんので、読者は結果的には「養病二年身快癒」の上句を無視するような読み方になるでしょう。

2008. 5.12                 by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第116作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-116

  山櫻花底游春夢         

人賞櫻雲悦目芳,    人 桜雲の目を悦ばして芳しきを賞しおれば,

有声回看馬頭娘。    声あり 回看するに馬頭の娘おり。

不期而遇詩魔笑,    期せずして遇ふに詩魔 笑みて,

廉賣雲箋帶酒香。    雲箋の酒香を帯びたるを 廉売す。

欲醉將吟仙境好,    酔はんと欲し将に吟ぜんとするに仙境 よろしく,

頻傾玉盞擅春光。    玉盞の春光をほしいままにするを 頻りに傾く。

山中磨墨描黄鳥,    山中に墨を磨いて描くに 黄鳥,

振羽清鳴隣夕陽。    羽を振い清らかに鳴いて 夕陽に隣る。

          (中華新韻「十唐」の押韻)

<解説>

 隔句対の律詩です。隔句対は、二句を一章とし、章と章を対とするもので、拙作は、頷聯と頸聯を次のとおり、対句にしています。

  頷聯:不期而遇詩魔笑,廉賣雲箋帶酒香。
  頸聯:欲醉將吟仙境好,頻傾玉盞擅春光。

 隔句対の作法について詳しくは、私の師である中山逍雀の漢詩詞創作講座(隔句対 http://www.741.jp/kouza02/kou-02C06.htm)をご覧ください。
 隔句対による作詩は、わが国ではあまり行われていないかも知れませんが、私は、律詩作りを豊かにしてくれる詩法のひとつだと思っています。


<感想>

 隔句対は、文章での修辞法として覚えた方も多いでしょうね。
 例えば、『論語』の次の文、

(子曰、)「学而不思、則罔。思而不学、則殆。」(為政篇)は、「(子曰はく、)学びて思はざれば、則ち罔(くら)し。思ひて学ばざれば、則ち殆(あやう)し」の訓読でも対句だと分かりますが、「学而不思」「思而不学」「則罔」「則殆」が対句になっています。
 これは、「学而不思、則罔」「思而不学、則殆」をそれぞれひとまとまりと考えれば、対の構造もも分かりやすいでしょう。
 あるいは、『孟子』でも、
 「王何必曰利。亦有仁義而已矣。王曰何以利吾国、大夫曰何以利吾家、士庶人曰何以利吾身、上下交征利而国危矣。万乗之国、弑其君者、必千乗之家。千乗之国、弑其君者、必百乗之家。万取千焉、千取百焉、不為不多矣。苟為後義而先利、不奪不饜。未有仁而遺其親者也。未有義而後其君者也。王亦曰仁義而已矣。何必曰利。」

  読み下し
「王何ぞ必しも利と曰はん。亦た仁義有るのみ。王は何を以て吾国を利せんと曰ひ、大夫は何を以て吾家を利せんと曰ひ、士庶人は何を以て吾身を利せんと曰はば、上下交ごも利を征りて国危し。万乗の国、其の君を弑する者は、必ず千乗の家なり。千乗の国、其の君を弑する者は、必ず百乗の家なり。万に千を取り、千に百を取るは、多からずと為さず。苟くも義を後にして利を先にするを為さば、奪はずんば饜かず。未だ仁にして其の親を遺つる者有らざるなり。未だ義にして其君を後にする者有らざるなり。王も亦た仁義を曰ふのみ。何ぞ必ずしも利と曰はん。」

 青の字の部分は、類句法による対句です。緑の部分が漸層法による隔句対、赤の部分も対句です。
 孟子が梁の恵王と会見した時のこと、真っ先に自国の利益のことを口にした恵王に対して、孟子がぴしゃりと言った言葉です。こうした弁論の手法として、畳みかけるような対句などの修辞術がよく見られますね。

 内容的には、私は二句目の「馬頭娘」でもう分からなくなったのですが、これはまさに「春夢」を描いたのでしょうか。
 あとは、何となく分かるのですが、頷聯に「帶酒香」を入れたのは、頸聯の「欲醉」「頻傾玉盞」にかぶりますので、筆が走ったというところでしょうか。

2008. 5.12                 by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第117作は 鴻辺治郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-117

  懐西蔵     西蔵を懐ふ   

銃声俄忽響山河   銃声は俄忽として山河に響き

権柄弄兵為惨苛   権柄は兵を弄して惨苛を為す

銀嶺民徒何有罪   銀嶺の民徒に何の罪有らんや

憤然而冀仏邦和   憤然、而して仏邦の和を冀ふ

          (下平声「五歌」の押韻)

<解説>

 ここ最近のチベットについて思うところを賦してみました。
学生時代にチベットの遊牧民族と暮らし、調査したことがあります。
そのころのことが思い起こされ、哀しい気持ちになりました。
平和が訪れることを心より祈ります。

<感想>

 詩をいただいたのが三月下旬でしたが、このチベットの問題が長野での聖火リレーにまで及んで、心を痛めていましたが、その間に、ミャンマーでのサイクロン被害、中国四川省の大地震が起き、死傷者の数も私たちの日常の感覚からはかけ離れた多さで、毎晩テレビニュースを見ながら、アジアの人々の被った災害に辛く悲しい気持ちでいっぱいになっています。

 鴻辺治郎さんはチベットで暮らしたご経験がおありだとのことですから、尚更、「憤然」たる思いが強いことでしょう。

 結句の「而」の接続詞は、詩では一般に避けることが多いのですが、ここでは「憤然」「冀」の間の、心の動きに一呼吸入れるような趣で、働きをもっていますね。
 「仏邦」「仏教の国」ということで、チベットを表していますね。

2008. 5.16                  by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第118作は 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-118

  春影        

梅花馥郁送余馨   梅花 馥郁 余馨を送る

出谷鶯吟欹枕聴   谷を出づるの鶯 吟枕を欹てて聴く

来訪絶無身漸老   来訪絶えて無く 身漸く老いたり

春陽鮮麗ト空庭   春陽鮮麗 空庭にやわら

          (下平声「九青」の押韻)

<解説>

 叙景詩を中心に、場面をイメージした作品を作ってきました。実体験ではないので迫力がありませんが、当面は抒情を追ってみようと考えています。
 (取材として歴史上の人物の生涯だとか、生活体験をモチーフにするとか考えられますが)
 今後ともよろしくご指導ください。

<感想>

 実体験ではないとのことですが、全体に景が鮮明で、嗅覚、聴覚、視覚のバランスが配慮されていると思います。
 承句は、お書きになったような読み下しは苦しく、「谷を出づる鶯吟 枕を欹て聴く」とした方が自然です。

 転句は、「来訪」「絶無」ですので、好みの問題になるかもしれませんが、「漸」では弱いように思います。
 因果関係を明確にして、「更」とか「忽」あたりの方が、句の勢いが出てくると思います。

2008. 5.16                  by 桐山人






















 2008年の投稿詩 第119作は 道佳 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-119

  飛騨路        

昔年旅客往還京   昔年 旅客 京に往還す

田野白山残雪清   田野 白山 残雪清し

織史与天春信路   史と天を織りなす春信路

朋儕語語響人生   朋儕 語語 人生を響かさん

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 気の置けない仲間で飛騨路を旅しました。

 往時から京への行き来した姫街道とも言われる中山道五一番太田宿に入り、偶然そば道場で昼食。三大名湯下呂で宿泊。帰路は宮川沿いの飛騨古川の白壁壕、お越し太鼓など大和朝廷時からの「飛騨の匠」の伝統と祭りに心を奪われました。残雪残る田野から遠くの白山は清く美しいものでした。
 こうして、歴史と自然が織り成す飛騨路の行き来、また宿舎での語らいは、共に歩んできた人生の一言一言で心に通じ、響きあうものがありました。

 いつも有難うございます。私などまだまだ拙い漢詩の添削も大変なご苦労をおかけしていると思い誠に恐縮いたしております。
 しかし、本当に勉強になっています。有難うございます。

<感想>

 飛騨路の春、という趣で、解説を拝見しながら、楽しい旅だっただろうなぁと思いました。その楽しさを漢詩としてどう書き残すか、それが今回の鍵ですね。

 承句の「田野白山残雪清」は、「田野も白山も残雪が清らか」とはなるでしょうが、「田野」とペアの「白山」が固有名詞なのが気になります。いやいや、これは「白」で色も表しているんだということかもしれませんが、ここに「白」が来ると、最後の「残雪清」が薄れてしまいます。「阡陌遠山」という感じでしょうか。
 ただ、今のままですと起句を読んだ後にどうしてこの風景描写が来るのかわかりません。作者の意図としては、転句の「史」に当たるのが起句、「天」に当たるのが承句ということでしょうが、脈絡はつけられません。せめて、「かつての旅人も同じような早春の景色を眺めただろうなぁ」というくらいのつながりをつけないと、あまりにも作者の言いっ放しで終わってます。

 転句は、「歴史と自然が織りなす飛騨路」と日本語で聞けば作者の言いたいことの雰囲気だけは分かりますが、それをそのまま「織史与天」と書き換えると、何が言いたのか理解しにくいですね。

 句の構成から見直すならば、起句と承句は同じ内容(歴史で揃えるか、現在の風景で揃えるか)にすることがまず一歩です。また、この詩の主題については、「飛騨路」の風景を描くことなのか、友人と旅をした楽しさを描くことなのかがはっきりせず、全部を二十八字の中に詰め込もうとしている感じがしますから、作詩の動機を明確にし、欲張りすぎないことが必要でしょう。

2008. 5.19                  by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。

 道佳雅兄今日は。玉作を拝見いたしました。
 鈴木先生の「全部を二十八字に詰め込もうとしている・・・」とのご感想に、かつてわたくしもそのようにして居たことを振り返ってこの文を書いています。
 以前に道佳雅兄に「花を二つ以上詠じたならば焦点がボヤける」と言うようなことを申し上げたと覚えていますが、わたくしを含めて初学の者には非常に悩むところです。
 この玉作にも取捨選択には苦労していらっしゃることがよく理解できます。

 旅行と言えばやはり気のあった友と旅館に留まって、飲食を共にする楽しみが最高だと思います。わたくしは団体旅行で下呂温泉に宿泊したことがあります。
 そこで、道佳雅兄の旅行の感想にはかけ離れているかも知れませんが、旅館の投宿に焦点を当てて試作して見ました。

    試作
  朋曹連袂試遊行   朋曹 連袂 遊行を試む
  遠望山陰残雪清   山陰を遠望すれば 残雪清し
  下呂香湯与樽俎   下呂の香湯と 樽俎と
  霊犀共語到深更   霊犀 共に語れば 深更に到る

「朋曹」: ホウソウ、ゴロが良いので
「連袂」: たもとを連ねる
「山陰」: 山の北側 
「香湯」: 日本語でいう名湯、香湯は畳韻語
「樽俎」: ソンソ双声語、樽は酒、俎はまないた=料理
「霊犀」: ここでは気の合った友人

※ 転句はこれで下呂温泉に宿泊したことが理解できると思います。
 また詩題の「飛騨路」に合致しない場合には「投宿下呂温泉」にすれば「飛騨路」を遊行したことが詩中に表現されているように思います。

2008. 5.24              by 井古綆





















 2008年の投稿詩 第120作は 柳田 周 さんからの作品です。
 

作品番号 2008-120

  与春銀信来     春と与に銀信来たる   

好雨穀風天気和   好雨穀風 天気和らぎ

諸生生意動弥多   諸生の生意動くこと弥々多し

少年卒業唯矜自   少年卒業すれ唯だ自らを矜(たの)み

老歳遊居却仗他   老歳遊居して却って他に仗(よ)る

余技嘉娯嫺作曲   余技の嘉娯 作曲を嫺(なら)ひ

専家褒励援痊痾   専家の褒励 痊痾を援(たす)く

可憐合唱奏吾楽   憐むべし合唱の吾が楽を奏すれば

百薬不如之一歌   百薬も之の一歌に如かず

          (下平声「五歌」の押韻)

<解説>

 余技として作曲のまね事をして来ましたので、親しい専門家に見て貰うべく、楽譜の幾つかを預けておりました。図らずもその内3曲の女声合唱曲が演奏会のステージに上る予定となり、既に合唱団が練習に入っていると連絡を受けました。

語註)
「銀信」:よい便り
「穀風」:東風
「生意動」:清の査慎行の五律「元旦大雪」の中に「庭梅生意動」の句がある
「百薬云々」:格言「百聞不如一見」

<感想>

 三月の末にいただいた詩ですので、もう演奏会をお迎えになったのでしょうか。演奏の録音などがお有りでしたら、是非聞かせて頂きたいですね。
 「余技」と書かれていますが、三曲も選ばれて、合唱団が歌ってくださるということは本当に嬉しいことだと思います。お書きになっていらっしゃるように、治療に専念なさっておられる柳田さんには、どんな薬よりも効き目があることでしょう。素晴らしいことですね。おめでとうございます。

 題名の「与春銀信来」は、「与」の助詞が散文的で、詩の気品を下げているように思います。「春雨銀信来」「春風銀信来」とするなどでどうでしょう。

 今回の詩の印象としては、前半と後半をつながりが弱いと感じました。つなぐのは第四句の「老歳遊居却仗他」で、年老いて謙虚になったということでしょうか。
 しかし、アマチュアが専門外のことを行った時に専門家にアドバイスを貰うのはむしろ当然のことだと私は思いますし、それは「老歳」とは全く関係のないことでしょう。

 後半の四句で、柳田 周さんの喜びの気持ちは十分に表れています。ただ、「曲」「楽」「歌」については、例えば全てを「曲」と書き換えても無理がありません。ということは、同じ意味の言葉を三句にまたがって使用しているわけで、こちらも散文的な傾向が出ています。

2008. 5.19                  by 桐山人








































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