2006年の投稿詩 第271作は 夕照亭 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-271

  聖夜詩        

銀花飾樹玉玲瓏   銀花 樹を飾る 玉玲瓏

耿耿星辰淑氣籠   耿耿たる星辰 淑気籠む

杳到東方三博士   杳かに到る 東方の三博士

荘厳光溢厩閑槞   荘厳の光は溢る 厩閑の槞(まど)

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

 街はクリスマスムード一色ですね。ということでクリスマスの詩を面白半分に作ってみました。
 起句はクリスマスツリーのイメージ、承句は「聖しこの夜 星は光り」です。
題はもちろん、あの詩のパロディ。
ふざけた詩で申し訳ありません。


<感想>

 夕照亭さんから、時季にふさわしい詩を送っていただきました。
 「パロディ」と言われましたが、こうした楽しみを作詩の時に持つことも大切ですね。クリスマスを語る言葉がちりばめられて、何となくウキウキとしてきます。

 欲を言えば、ということですが、前半で随分「明るさ」は出していますので、結句で更に「荘厳光」とするよりも、聖夜にふさわしい「聖母」をここに持ってくると良いかもしれません。

 楽しい詩をありがとうございました。私の住む愛知県は、今日はとても暖かい日です。
 メリークリスマス!!

2006.12.25                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第272作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-272

  通勤途上入香夢        

連日通勤坐電車,   連日の通勤 電車に坐れば,

眼前福禄見青娥。   眼前に福禄あり 青娥を見ゆ。

未知名字憶花貌,   いまだ名字めいじを知らずして 花貌をおぼえ,

欲寄情書案戀歌。   情書を寄せんと欲して 恋歌こいうたを案ず。

我有良妻無理性,   我に良妻あるも 理性なく,

君無美意有秋波。   君に美意なきも 秋波ありと。

小春睡覺到終点,   小春 睡覚すいかくして終点に到り,

老骨醒来別夢魔。   老骨 醒め来って 夢魔と別れり。

          (中華新韻「二波」の押韻)

<解説>

「福禄」:幸せ。
「名字」:名前。
「情書」:ラブレター。
「恋歌」:ここでは相聞の短歌つもり。
「美意」:好意。美人の眼差しはその気がなくても秋波に見えることがあります。
「睡覚」:眠る。


<感想>

 ふむふむ、何やらドキドキとする展開で、これは電車で通勤している方でなくては分からない気持ちですね。
 私も仕事に行く時には電車を使っていますが、乗っている時間が短く、「秋波」を感ずる余裕もないのが残念です。残念などと言うと世の女性陣からお叱りを受けるかもしれませんが・・・

 さて、そのドキドキ感も尾聯で一気に終息に向かうわけですが、ここで改めて詩題に戻り、「通勤途上」であるという現実が迫ってきますね。その循環が心地良い余韻を醸していますね。

 今年もあとわずか、皆さん、健康に気をつけてがんばりましょう。

2006.12.25                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第273作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-273

  通勤偶感        

男子通勤坐電車,   男子の通勤 電車に坐し,

十年一日夢中過。   十年一日 夢中に過ぐ。

醒来瞠目窗如鏡,   醒め来たって瞠目す 窓は鏡の如くにして,

看到髑髏白髪多。   看るに到れり 髑髏 白髪の多きを。

          (中華新韻「二波」の押韻)

<解説>

 この十年ですっかり老け込んでしまい、電車の窓に映った顔が、髑髏のように見えたという詩です。

 起句の「男子」は、詩語としては「凡士」の方が妥当かと思いますが、「男子たるもの云々」ということも思いながらの作です。
 結句は、旧韻でみれば●●●○●●◎で孤平です。したがって、「白髪」は「霜髪」とすればよいかとも思います。しかし、小生は新韻による作詩を志しています。新韻では、●●○○○●◎
 字義のうえでも「霜髪が多い」というのはいささか奇妙。「白髪が多い」は可。そこで、ここは新韻にこだわり「白」にしています。


<感想>

 こちらは同じ通勤でも、帰りの電車の方でしょうね。
 外が暗くなり、窓ガラスに車内の様子が映るようになると、どうしても自分の顔を見ざるを得ません。若い人は右から見たり左から見たり、それなりに自分を眺めることもあるようですが、年をとってくると、見たくない時もあります。
 場面としては特異な状況ではなく日常的なものですが、それを詩に高めているのは、結句の「骸骨」の比喩ですね。それが自分の顔だけではなく、窓ガラス一杯に映る多くの乗客の顔だと想像すると、これはもう、ムンクの世界のような印象でしょうね。
 久しぶりに鮟鱇さんの名調子を聞いた思いです。

2006.12.25                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第274作は 兼山 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-274

  賀米壽     米壽を賀す   

八十八齢龜鶴年   八十 八齢 龜鶴の年

高風清義有誰傳   高風 清義 誰有りてか傳ふ

晴耕雨讀不知老   晴耕 雨讀 老ひを知らず

競美菊花樽酒前   美を競ふ 菊花 樽酒の前

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 恩師(九州大学工学部名誉教授)の「米寿を祝う会」で「和歌(一首)並びに漢詩(一篇)」を献吟しました。
 大学を去られてからは故郷の山口に移られ、文字通り「晴耕雨讀」の余生を過ごされています。
菊花薫る文化の日に門弟約百人が集い、更なる長寿を祝いました。

   「和歌 よねのさか」:
  八十八(よね)の坂 登り来りし 此の日なれ
    九十九(つくも)の峰も 越えんとぞ思ふ


<感想>

 私の大学時代の恩師は、八十六歳のお年でしたが、つい先日亡くなられました。
 勉強をちっともせずにご迷惑ばかりをお掛けしましたので、ご存命中も申し訳なくてついつい無沙汰を繰り返しておりました。卒業後三十年を機会に数年前に同窓会を開きましたが、その折にはお元気な姿で、私の名前も覚えていてくださったことに感激しました。
 怠け者の私の方からは「記憶にも残らない学生だったのだろう」と思っていましたが、恩師というのはありがたいものだとしみじみと思いました。少しは胸を張ることができるような仕事をして恩返しをしたいと思いつつ、叶わぬままに訃報を聞くことになってしまいました。「親孝行」というのと一緒だなぁと切ない思いでした。

 兼山さんの先生はお元気でいらっしゃるとのこと、ますますのご健康をお祈りしています。「晴耕雨読」「菊花」「樽酒」の言葉が、先生のお人柄と門下の皆さんのお気持ちをよく伝えていると思いました。

2006.12.25                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第275作は 童心 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-275

  同窓会        

歳歳同窓集夕灯   歳々同窓夕灯に集し、

延延語尽共遊興   延延と語り尽くして遊興を共にす。

老師健在愉清宴   老師は健在にして清宴を愉しみ、

鬼籍友人和旧朋   鬼籍の友人は旧友に和す。

          (下平声「十蒸」の押韻)

<解説>

 毎年中学校の同窓会を行っていますが、ポツリポツリと歯が欠けるように亡くなっていきます。せめてもの慰めは老師の意気軒昂なことです。最近同窓会に出席すると懐かしさがひとしおですが、年を取った証拠かななどと考える今日この頃です。
 今回の作詞は割りとスムースに出来ましたが、転句と結句の対句が上手くいきません。良いアドバイスが頂ければと思います。

大変参考になり又、愉しませてもらっています。
漢詩をやれる人は未だ少ないので、仲間を増やして同好会を作れればと考えています。

<感想>

 童心さんの詩は、同窓生の集まりを詠ったものです。同窓会も若い頃は懐かしさだけで楽しいものでしたが、次第に参加者の数が減っていくのはつらいものがあるのでしょうね。
 私も五十代の半ばになりましたが、同窓生で集まると、どうしても話題は健康のこと、もっとはっきり言えば病気比べみたいな話が多くなります。
 でも、だからこそ同じ時代を生きてきたという同志のような連帯感もあり、それはそれで良いものです。

 恩師の先生もお元気とのこと、先生が求心力になるようなところはありますから、私も教え子たちのためにもうしばらくは元気でいなくてはと思っています。

 承句の末字「興」は、「勃興」などで「起こる」の時は平声ですが、「詩興」のように「面白み」の意味の時は仄声ですので、気をつけて下さい。
 対句のことでは、文の構造を同じようにすることを第一に考えましょう。例えば、分かりやすく書きますと、転句では「老師が健かに在る」に対して、結句は「鬼籍の友人」となっていて対応していません。転句を生かすならば結句は「故友(人)が」を頭に持ってきて、「どうしたのか」という説明を後に置くようにしなくてはいけません。

 同じように、起句と承句でも「歳歳」「延延」が重なっていても「同窓」「語尽」は対応しませんから、対句にはなりません。句全体の構成を揃えるように持っていくことがスタートですね。

2006.12.25                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第276作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-276

  俳人閑話長        

天碧楓紅酒緑芳,   天はあおく楓はあかく酒は緑にして芳しく,

小春探勝伴秋娘。   小春の探勝、秋娘を伴ふ。

善哉才女佳吟短,   善き哉 才女の佳吟短く,

應自俳人閑話長。   まさに自ずから俳人の閑話長かるべし。

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 「秋娘」は美人のことです。
 高名な俳人が多数列席する宴会の末席を暖める機会がありました。
 俳句は世界最短の詩ということがよく言われますが、着物姿のご婦人が多かったせいか、乾杯の音頭をとった俳人の挨拶がとても長かったので拙作の想を得ました。

 同じ詩題で、漢俳も作りました。

  春野伴秋娘。善哉勝景佳吟短,俳人閑話長。
  春の野に秋娘を伴ふ。善きかな、勝景に佳吟は短かく、俳人 閑話して長し。

 二作を較べると、七絶は、秋娘と才女のダブリが気になりますので、どちらを採るかでは、漢俳を採るべきかとも思っています。


<感想>

 挨拶の長いのはどこの場所でも望まれないものですが、とりわけ「乾杯の音頭」の時は、持ったグラスのビールの泡がすっかり消えるまで待たされることも多く、「行くゾー」という気持ちが萎えてしまいますね。
 ここでは皮肉たっぷりな詩になっていますが、切れ味ということで考えると、結句は言わない方が良いように思います。「ダブり」と書かれましたが、「秋娘」(美女)と「才女」を重ねることで裏に皮肉なニュアンスを感じさせますので、こちらを生かした方が粋なように私は思います。
 もっとも、鮟鱇さんの最も言いたいところが「俳人閑話長」だとすると、省くわけにはいきませんが。

2006.12.25                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第277作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-277

  香川県立東山魁夷瀬戸内美術館        

春潮灝灝海流悠   春潮灝灝こうこう 海流悠かに

備讃大橋望綺樓   備讃大橋 綺楼より望む

逸品展観三百点   逸品展観す 三百点

雅懐幽寂秀千秋   雅懐 幽寂 千秋に秀ず

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

 世界最長の鉄道・道路併用橋として、本州・四国間を直結する瀬戸大橋は,岡山県倉敷市児島と香川県坂出市を結ぶ(海峡部9.4km)、昭和63年4月10日開通して以来18年目になる。
 往時ここで開かれた博覧会も大勢の人でにぎわったものだが、今は公園として整備され、ゴールデンウィークのこの日も家族連れや恋人たちで混雑していた。はるか塩飽諸島に眼を転ずれば、春のうしおがゆったりと流れている。
 中ほどの備讃大橋も晴れていて視界良好!美術館の展望デッキからよく見えた。
 遺族寄進の画伯の作品群を鑑賞して回る。すばらしい‥
 さすが皇居宮殿、東宮御所をはじめ唐招提寺の障壁画などに大作を残す文化勲章作家の絵画は秀逸で、千年の後もその功績を称えられるであろう。

☆作詩の背景‥黄金週間に瀬戸大橋の袂の瀬戸大橋博覧会記念公園(坂出市)一角に先年オープンした美術館にも行ってきました。

  同美術館HPより抜粋:

 香川県では、東山魁夷画伯の祖父が坂出市櫃石島の出身で、本県とゆかりが深いことから、ご遺族より版画作品270点余の寄贈を受け、これら作品を広く鑑賞していただくため、香川県立東山魁夷せとうち美術館を整備しました。
 東山画伯提案のライトグレー色の瀬戸大橋が眼前に広がり、万葉のロマン漂う歴史的遺産や、瀬戸内海の美しい自然に囲まれ、心の癒しや憩いの場となる美術館です。
 美術館では、画伯と本県とのゆかりを紹介し、様々なテーマで所蔵作品を展示するとともに、他の美術館との連携を図り、画伯や画伯ゆかりの日本画家の作品を展示するなど、東山画伯に関連する多種多様な交流を積極的に推進してまいります。

<感想>

 掲載が遅れてすみませんでした。

 東山魁夷画伯の美術館は長野の善光寺にもありましたね。こちらの「せとうち美術館」は版画作品を収蔵しているようですね。風光明媚な場所に作られていますから、香川県に行く機会があれば、是非見学したいものです。
 そう言えば、来年の四国漢詩大会は香川県で開催でしたね。

 サラリーマン金太郎さんが結句で「雅懐幽寂」と書かれていますが、画伯の絵の特徴をよく表していると思います。
 承句の「望綺樓」「綺樓より望む」よりも「綺樓を望む」と読む方が多いでしょう。そうして読めば、起句も承句も大橋から眺めた景となりますが、臨場感としてはそちらの方が勝るかもしれません。

 解説の文章も詩情があふれていて、次に来る漢詩とのバランスがとても良いですね。

2006.12.28                 by 桐山人



井古綆さんから感想をいただきました。
 こんにちは
 サラリーマン金太郎さんの多くの玉作をいつも拝見しています。
 以下、気が付いた点を記します。

 詩題の「東山魁夷せとうち美術館」であれば、起句はあえて冒韻にしなくても、韻字の「流」で充分作れると思います。
 起句承句と美術館には直接関係のない、風景を詠じています。律詩ならば詩句に余裕がありますが、絶句の場合その余裕がありません。あくまで私見ですが、起句は美術館の有る場所を詠じ、承句は魁夷画伯の功績なりを賞賛するようにしなければ、あの大画伯を絶句にまとめる事は難しいと思います。

 転句は「展観」を変えればよく、美術館であれば「展」は必要なく、もっと心が動く詩句を用いれば読者に感動が伝わります。結句はこの収束で良いと思います。

 不肖私も方々に赴いて作詩してきましたが、そうした時には眼前に写る景を詩中に入れるべきかを常に迷います。また、逆に現地に行かずに書斎で作ったため、実際の風景と異なる場合もあります。
 かつて石川忠久先生も中国のある土地で詩と現地の風景に、矛盾があることを仰っていました。また、かの有名な「吉野三絶」の「石馬声無く」も恐らくは当地に赴いていないと思います。
 話がそれましたが、魁夷画伯を詠じれば起承転結の四行を使用しても足りないほどでしょうから、そういう意味では「取捨」の重要性を強く感じました。

2006.12.29                  by 井古綆




















 2006年の投稿詩 第278作は 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-278

  捧恩師        

遺影温容憶往時   遺影温容 往時を憶ふ

九旬歳月哲人姿   九旬の歳月 哲人の姿

薫陶不朽尚如在   薫陶朽ちず なほ在するが如し

寂寞何堪無限悲   寂寞 何ぞ堪へん 無限の悲しみに

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 先月、高校の恩師が92歳でなくなり、その追悼の詩です。

<感想>

 九十歳を越えられても「恩師」と慕われ続けていらっしゃったとのこと、そのお人柄が思い浮かばれるようです。とりわけ、「薫陶不朽尚如在」は仲泉さんの素直なお気持ちが出ているのではないでしょうか。

 結句に「寂寞」「何堪」「無限悲」と畳みかけるように感情が書かれています。一般的には、こうした同趣の言葉で一句を構成してしまうと、感情に流れすぎると言われるかもしれません。しかし、ここでは作者の悲しみの強さを強調するということで理解できる表現だと思います。

2006.12.28                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第279作は 謝斧 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-279

  論詩        

爛班華藻性霊全   爛班たる華藻 性霊全ったし

唐宋風流千古傳   唐宋の風流 千古傳ふ

下涕登台客安在   涕下って台に登る 客 安くにか在りや

停杯問月獨空憐   杯を停め 月に問へば 獨り空しく憐れむ

平生遣悶東坡罵   平生 遣悶を遣る 読むに厭く 東坡の罵

今日淫詩賈島肩   今日詩に淫す 賈島の肩

豈学虫魚矜爪嘴   学ぶ勿れ虫魚の爪嘴に矜り

徒嘗糟粕口流涎   徒に糟粕を嘗ては口流涎す

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 旧作です。詩意は晦渋かも知れませんが、敢えて投稿しました。
自ら省みた詩です

●「下涕登台」:前不見古人 後不見来者 念天地之悠悠 獨愴然而涕下 (「登幽州臺歌」 陳子昂)
●「停杯問月」:今人不見古時月 今月曽經照古人 古人今人如流水 共看明月皆如此 (「酒把問月」 李白)
●「虫 魚」:虫魚学考証学、 正しい証拠によって古典の文章を正し、文字の意味を究める学問
●「東坡罵」:東坡の文章は天下に妙なれども其の短処は罵を好むに在り 慎みて其の軌を襲うなかれ 政治風刺社会風刺 山谷洪駒父に答える書
●「嘗糟粕」:古の人は、其の伝ふ可からざるや、死せり。然らば則ち君の読むところの者は、古人の糟魄(糟粕と同じ)已なる夫 (「荘子」 天道篇)

<感想>

 中国では、華やかであった唐詩、宋詩の時代を過ぎると、やがて明代以降、詩に関しての色々な考え方、運動が起こりました。
 「文は秦漢 詩は盛唐」と主張した「古文辞派」が、明代中期に復古主義的な方向を唱えました。中唐以降の文学を全て否定しようとするものでした。
 やがて、古典の模倣に走る「古文辞派」の窮屈なあり方に反発が起き、自由な表現を求めた「公安派」「竟陵派」が明の末に広がります。
 しかし、この流れも清代になると次第に、新奇をもとめる傾向が強くなりすぎ、格調が失われていくことを憂慮されることになります。沈徳沈の「格調説」は、「古文辞派」の主張も認めつつ、狭量に陥らないために教養の必要性を主張しました。
 そして、その「格調説」に対したのが袁枚の「性霊説」です。束縛されない自由な情感を表現しようとするものでした。

 古典を範として詩を詠うにしても、盛唐の昂揚した調べを求めるのか、晩唐の日常を凝視するような詩風を求めるのかにも議論や好みが別れるところです。

 それぞれの良いところを全て組み入れて、というのは口で言うのは易しいですが、実際には困難を窮めます。謝斧さんが「自ら省みた」を書かれたのも、そこを見据えてのお言葉でしょうね。

2006.12.28                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第280作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-280

  偉人平田靫負公        

曾水築堤苛令臻   曾水の築堤に苛令臻る

雄藩宿命舐酸辛   雄藩の宿命は酸辛を舐めたり

乖違尚武捐双剣   尚武に乖違して双剣を捐て

忖度洪災救衆民   洪災を忖度して衆民を救う

共挑奔流投礎石   共に奔流に挑み礎石を投じ

終栽郷樹了吾身   終に郷樹を栽えて吾身を了す

人生有限名無限   人生限り有り 名は限り無し

永受尊崇治水神   永えに尊崇される治水の神

          (上平声「十一真」の押韻)

<解説>

 パソコンを検索していましたら、治水神社が載っていて、家老「平田靱負(ゆきえ)」の功績に大変感動しました。
 あとで真瑞庵さんの詩にこれに対する詩句を発見しました。
なにしろ無学の為、この史実を知りませんでした。
 歴史を賦することは大変難しいと思いました。


「苛令」=幕府の抜牙懐柔策 
「雄藩」=薩摩藩 
「郷樹」=日向松

同字重出、冒韻を払拭できませんでした。

<感想>

 真瑞庵さんは木曽川の地元の方ですので、思いも深いものがおありでしょうね。作品は「水祠頭春景」でしたか。

 木曽川の近辺に出かけた時などには、私も地元愛知県の人間ですので、この工事について社会科の授業で勉強したことを思い出します。
 政治的な背景をおさえつつ、水害に苦しむ人々とそれを救った薩摩藩の人々、様々な要素が入っていますので、歴史を描く時にどこに作者が視点を置くかが悩ましいところです。この詩では、薩摩藩家老である平田靱負を中心に据えた点で、柱ができあがったのでしょう。

2006.12.30                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第281作は 一人土也 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-281

  秋夜偶成        

微雲点点意悠然,   微雲点点 意悠然、

冷気蒼茫自那辺。   冷気蒼茫たり 那辺自すや。

秋夜草堂風喞喞,   秋夜の草堂 風喞喞、

峭涼鎌月玖璇天。   峭涼の鎌月 玖璇の天。

          (下平声「一先」の押韻)

<感想>

 承句の「自」は何と読むのでしょう?「どこからか」という意味での「ヨリす」でしょうか。
 結句は「峭涼」は意味がよく分かりません。用例を知りませんが、「峭寒」で厳しい寒さというのは分かりますが、「厳しい涼しさ?」は意味が矛盾して変ですし、「厳しい寂しさ」も月にかかるには変ですね。
 「玖璇天」は「宝石のように美しい空」ということで、秋の澄んだ星空と考えればよいでしょう。

2006.12.31                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第282作は 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-282

  秋日山行        

畳峰遥靄尚天涯   畳峰 遥靄 尚天の涯

枯草木凋寒迫肌   枯草 木凋 寒は肌に迫る

短日西風吹孑立   短日 西風 孑立を吹く

傷心欲問有誰支   傷心 問はんと欲す 誰有りてか支ふと

          (上平声「四支」の押韻)

<感想>

 秋の日のハイキングというと爽やかな山歩きを想像しますが、仲泉さんのこの詩では、冬間近の季節感を出して寂しさを描き出していますね。

 転句の「孑立」「ひとりぼっち(の私)」ということです。したがって、前半は単なる自然描写に終わらず、心象風景の投影と見た方が良いでしょう。その点では、とてもバランスの取れた表現になっていると思います。
 その勢いが結句まで来るとエネルギー切れでしょうか、やや雑になっているように思います。
 転句の「孤立している私」の気持ちを描いたのが結句になるわけですが、まず「傷心」が邪魔です。せっかく前半で遠回りに遠回りに描いてきたものをこんなはっきりと出しては逆効果です。どうしてもこの言葉が大切だというのなら、その前の「孑立」を省くべきです。
 また、下三字の配置も落ち着きませんので、この結句は推敲されるのが良いと思います。

2006.12.31                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第283作は 謙岳 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-283

  中川冬景        

江頭凋落四隣黄   江頭 凋落して 四隣黄なり

凛冽寒風衰柳塘   凛冽たる寒風 衰柳の塘

好景空移惟寂寞   好景 空しく移りて 惟だ寂寞

昏鴉歸去水滄滄   昏鴉 帰り去って 水滄滄

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

 中川=東京葛飾区を流れる川。

中川の川辺を、散歩したときの感懐を詠んだものです。

<感想>

 最後まで神経が細かく配ってある詩ですね。
 難を言えば、転句が物足りないところでしょうか。他の句に比べると見劣りがするのは、他の句がそれだけ秀句だということなのでしょう。
 で、どうして物足りないのかを考えてみますと、「空」「寂寞」が重なるからでしょうか。どちらかを削ってもいいのではないかと思います。

2006.12.31                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第284作は 常春 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-284

  看一遍上人木像有感 於寳嚴寺        

眼光炯炯額龍犀   眼光炯々 額(ひたい)龍犀たり

念仏遊行全土斉   念仏遊行 全土に斉し

捨聖由縁寳嚴寺   捨聖由縁の寳嚴寺

恩情道後撫孩提   道後に恩情して孩提を撫(いつく)しむ

          (上平声「八斉」の押韻)

<解説>

 四国松山での漢詩大会二日目のの吟行、柏梁体として「犀」の字を頂きました。子規博物館に写真があった、一遍上人木像の広いおでこを思い出し、当日「眼光炯炯額龍犀」と提出しました。
 これを起句にして一首作ってみました。
 一遍上人は河野一族、道後の生まれで、道後温泉近くの寳嚴寺に木像が安置されています。「色里や十歩はなれて秋の風 子規」の句碑が境内にある、「ネオン坂歓楽街」から道一つ隔てたところに山門がありました。木像を拝観し和尚さんのお話にしばらくの安悦の時を過ごしました。

「捨聖」=一遍上人の呼称。
「孩提」=乳飲み子、ですが、仏から見れば私も乳飲み子と。道後の町の人、遊客すべて、との意です。


<感想>

 全国漢詩大会で表彰を受けられた常春さんと、私は松山で前日にお会いしました。常春さんは、私よりも一日早く着いておられました。
 昼食前にホテルで待ち合わせでしたが、お会いしたその場で常春さんと漢詩についての話が深まってしまい、食事に出るのが随分遅くなってしまうような状態でした。「常春さんは、いつも漢詩のことを頭の中で考えておられるのだなぁ」と私は感心をしました。

 私はこの木像を見ることはできませんでしたが、常春さんはご自身の目で見てこられたわけですが、おでこをまず思い浮かべたというところが面白いですね。
 この詩に井古綆さんが依韻の詩を作られましたので、それもご覧ください。

2006.12.31                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第285作は 井古綆 さんからの作品です。
 一つ前の掲載作品である常春さんの詩に依韻しての作品です。

作品番号 2006-285

  依韻常春雅兄玉作「看一遍上人木像有感 於寶厳寺」        

鈴門桃李自成蹊   鈴門の桃李は自ずから蹊を成し

長幼青衿共仰撕   長幼の青衿は共に撕を仰ぐ

網上賡酬姿未見   網上の賡酬は姿未だ見えざるも

非才不計得霊犀   非才は計らずも霊犀を得たり

          (上平声「八斉」の押韻)

<解説>

 常春さんの玉作に依韻して一詩を賦しました。


 [語釈]

「鈴門」=鈴木先生のこのHPを指す
「青衿」=学生(作者は先生より馬齢は上ですが師と仰ぐ)
「 撕 」=提撕(テイセイ)教導する
「賡」酬=詩文の贈答

<感想>

 このサイトでは、投稿された方同士で直接、メールのやり取りをしていません。投稿された皆さんのお名前やメールアドレスは他の方に教えることをしていないからです。インターネット上のマナーが確立していない時から始めたということもありますが、いまだに私には不安があります。掲示板も載せていません。
 井古綆さんが仰るように、唱酬の詩が少ないというのは、そうした直接のやりとりがないことが原因の一つでもあると思います。
 今回井古綆さんが取り組んでいただいたことで、皆さんの意欲が盛り上がればうれしいですね。

 なお、メールなどについての私の考えは、以前、「平仄討論会」の中でで申し上げましたので、ご覧いただければ幸いです。

2006.12.31                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第286作は 一人土也 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-286

  除夕思新年        

百八鐘声報歳終,   百八の鐘声 歳終を報じ、

暗香漂蕩願春風。   暗香 漂蕩 春風を願ふ。

明朝已近人多感,   明朝 已に近く 人多感、

一点梅花月色中。   一点の梅花 月色の中。

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

百八回の鐘の音が歳の終わりを報じ、
仄かな香りがただよって春風が吹くのを願う。
明朝はすでに近く、人はたくさんの思いを抱え、
一点の梅の花は月の色の中。


<感想>

 大晦日の夜は紅白を見終わってから近所の神社にお参りに行くことを以前はよくしていました。最近は、年々酔っぱらって寝てしまうことが多くなり、しかもその時刻が早くなっているのですが・・・・
 除夜は「古い年のものを取り除く」ということから呼ばれる言葉ですが、何かが一つ去っていくというのは人の心を寂しくさせます。その寂しさを慰めてくれるのが、新しいものが来るという期待です。
 除夜の持つ喪失感・寂寥感と期待感を一つの詩の中でどう表すかに工夫がいるのですが、土也さんの詩でもそうした感じがよく出ていますね。

 承句の「暗香」と結句の「梅花」が同じもの(嗅覚と視覚の違いはありますが)ですから、全体としてのまとまりが弱くなっているようです。承句と転句を入れ替えてみるとその辺りがわかりやすいかもしれません。
 ただ、モヤモヤとした不安定な感覚を表したいという意図でしたら、重複を生かすということでこのままの方が良いでしょうね。

2007. 1. 2                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第287作は 登龍 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-287

  歳暮雑感        

當年倏忽歳將終   

啜茗爐邊感慨中   

隠隠鐘聲詩可賦   

専心刻意待春風   

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

 起句 一年が忽ち過ぎていまにもおわろうとしており、
 承句 炉辺で茶を啜り深く感じて奮い立ったり歎いたりしている。
 轉句 遠くまで響く鐘の音を詩にしたくなり、
 結句 一途な自分の心を厳しく押さえて春風に任す。

<感想>

 落ち着いたお気持ちで年末を迎えられた様子がよく伝わる詩ですね。
 結句の「待春風」がその前の表現から見ると、やや唐突な印象ですが、「焦らないでのんびりと詩句が浮かんでくるのを待ってるんだ」という悠然とした境地を表したのだと理解しました。

2007. 1. 2                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第288作は 仲泉 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-288

  遊白川郷        

幽趣清閑合掌家   幽趣 清閑 合掌の家

山陬暮色舞天花   山陬さんすう 暮色 天花舞う

客懐小径徘徊久   客懐の小径 徘徊するや久し

頃刻囲炉語楽茶   頃刻 炉を囲み 語りて茶を楽しむ

          (下平声「六麻」の押韻)

<感想>

 白川郷は岐阜県にある茅葺きの合掌造りで知られる地です。春夏秋冬、多くの観光客が訪れます。仲泉さんが行かれたのは冬ですね。例年ですと雪が深いはずですが、それほどでもないようですね。暖冬の影響でしょう。
 転句の「客懐」「客意」と同じで、「旅の心」「旅情」になるのですが、これがどこにつながるのかが不明確ですね。書き下しの「客懐の小径」というのも私には何のことか分かりません。何となく言いっ放しの単語の羅列の印象です。
 転句は「客懐」を削って、心情を入れない方がいいでしょうね。

 結句については、「囲」「語」「楽」と動作を表す語が続きますが、「語」を捨てて二つに絞った方が、かえって情報が深くなるものです。

2007. 1. 2                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第289作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-289

  除夜        

光陰如水志将空   光陰は水の如く 志将に空しからんや、

百八鐘声告歳終   百八の鐘声 歳終を告ぐ。

欲祭無詩慙島佛   祭らんと欲す 詩無く 島佛に慙ず、

擁炉斟酒待春風   炉を擁し 酒を斟みて 春風を待たん

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

 今年も島佛に祭る詩もなく歳が終わろうとしている。

 今年一年有難うございました。

<感想>

 深渓さんからも大晦日の詩をいただきました。お二人とも同じようなお気持ちで除夜をお迎えになっていらっしゃるのがよくわかります。
 私などは、忘年会の合間に掃除・部屋の片づけ・ホームページと慌ただしく、なかなか静謐な歳末にはなりませんね。

 転句の「島佛」は中唐の賈島のことを指します。
「推敲」の故事で知られる賈島は苦吟で知られていますが、大晦日にはいつも、一年間にできた詩に酒と肉を供えて祭り、自分の苦心をいたわったそうです。

 大晦日に自作の詩を振り返り、ちょっと自分を誉めてあげるくらいは私にもできるかもしれません。

2007. 1. 2                 by 桐山人






















 2006年の投稿詩 第290作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2006-290

  歳暮一吟        

我有殘杯堪散心,   我に残杯あって散心するに堪え,

歳除頻念去来今。   歳除 頻に念ず 去来今。

笑乘酒興呵禿筆,   笑って酒興に乗じて禿筆を呵し,

醉放吟魂飛故林。   醉って吟魂を放って故林に飛ぶ。

下界雪花生玉樹,   下界 雪花は玉樹を生じ,

前途星漢有琴音。   前途 星漢に琴音あり。

峰巓仙女彈通夜,   峰巓の仙女 夜を通じて弾じ,

霜滿寒天幽趣深。   霜は寒天に満ちて幽趣 深し。

          (中華新韵「九文」の押韻)

<解説>

 冬の星空を思いながらの空想の作です。
 拙作、現代韻による作詩です。ただ、韻字については、いずれも古典韻下平十二侵の韻字です。
 そこで、どこが現代韻の作詩かということになりますが、第2句の「禿筆」の入声字「禿」が現代韻では第一声で平声、だから、現代韻の作詩だということになります。なお、入声字「玉」「雪」は現代韻でも仄声。

 日本人は漢字教育のなかで、旧韻の入声字(クフツキ)をしっかり学んでおり、旧韻の作詩においては中国人以上にきちんと、声病のない詩が作れるということがしばしば説かれています。しかし、この有利とされている点は、現代中国人に読んでもらうことを考えれば不利。
 そこで、かりに旧韻で作る場合も入声字が現代韻ではどうなるのかということは、中国語辞典のみならず漢和辞典にも載っているピンインで、きちんと調べるべきだと私は思っています。
 拙作は、そのあたりを意識し、「禿筆」を用いましたが、旧韻の詩にするなら、「詩筆」にすればよいでしょう。

 さて、私が韻字とした中華新韻「九文」は、旧韻の上平十一真、十二文、十三元(一部)、下平十二侵を包含し、韻字がとても多く作りやすい韻目です。今回の作はおとなしく旧韻の押韻としても通じるようにしていますが、もっと大胆に現代韻に踏み込めば、旧韻では許されない韻字の選択のなかで、新しい詩境が開けるはずだと私は思っています。
 「吟(ギン。yin2)」は旧仮名では「ギム」しかし、新仮名では「ギン」です。「銀(ギン)」と同じ表記・発音になっています。同じことが旧韻と中国普通話韻の間でも起きていて、「吟」と「銀」はともにyin2です。 新仮名世代のわたしには、現代韻の方がなじみやすいので、これからは現代韻で作詩をすることにしています。

<感想>

 2006年度の投稿詩は、一般投稿で二百九十首、世界漢詩同好会の参加詩も合わせますと四百首近くを読ませていただきました。
 掲載が遅れて、随分以前に投稿した作品だから忘れていたというお叱りもうけましたが、何とか積み残しはほとんで無いところまで持って来ることができました。しかし、一人土也さん、サラリーマン金太郎さん、井古綆さんを始め何人かの方々には(季節の関係もありましたが)、一年越しの掲載となった場合もあり、ご迷惑をおかけしました。
 新しい方の参加も得て、投稿詩は名実ともに充実していたと思います。本当にありがとうございました。

 鮟鱇さんのこの作品を本年度最後の掲載作品とさせていただきます。
 次年度は恒例の新年漢詩からスタートします。是非、新年のお気持ちを漢詩に託して、こちらまでご投稿ください。

2007. 1. 2                 by 桐山人