2005年の投稿詩 第151作は寝屋川市にお住まいの 嗣朗 さん、「聯句のコーナー」ではもうおなじみの方ですが、漢詩に初めて挑戦されたという作品です。
 

作品番号 2005-151

  夏日偶成        

百事無成又一年   百事成す無し 又一年

乙酉三伏仰天辺   乙酉三伏 天辺を仰ぐ

光芒画得星河興   光芒画き得たり 星河の興

夏祭今宵感慨牽   夏祭りの今宵 感慨を牽く

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 初めての挑戦、定年後趣味の世界としたい。

さまざまな事が出来たり出来ない内に一年が過ぎた
05年の三伏の時節 天神祭りで天を仰ぎ見れば
光の放射す様(船渡と花火)は格別な趣である
台風が来ると謂われた今宵だが 又特別な感慨を牽く

<感想>

 掲載が遅れて申し訳ありませんでした。

 詩を拝見しましたが、お気持ちのよく伝わる内容だと思います。とりわけ、夏の夜空の星の輝きをすっぱりと言い切った転句は面白いと思います。
 その転句の味わいを結句の「夏祭今宵」と受けて、収束としては申し分ないのですが、最後の「感慨牽」はあまり良くないですね。
 起句や転句でもう「感慨」は十分に表されているわけですから、「感慨牽」では「屋上屋を重ねる」というところでしょうか。おとなしく収束しすぎている感じがします。ここは、思いや景色がぐっと広がるような表現を探してみるのはどうでしょう。

 承句の「乙酉」は、「酉」が仄声ですので、固有名詞ではありますが、平仄としては良くありません。ここも、推敲の対象にされるのが良いと思います。

2005.12. 2                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第152作は 謙岳 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-152

  吟詠研修會有感        

老若一心徒錬成   老若一心 ただに錬成

深玄究尽聖賢精   深玄究め尽くさん 聖賢のこころ

詩歌朗朗乾坤撼   詩歌朗々 乾坤うごかし

詠出古今風雅情   詠じ出だす 古今 風雅の情

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 [語釈]
 「徒」:ひたすらの意。
 「深玄」:奥深く幽玄。
 「精」:こころ。精神の意。
 「撼」:動かす。

<感想>

 研修会で皆さんが熱心に取り組んでおられる姿が窺われる詩ですね。

 ただ、四句全てが会の様子を描いているので、場面の変化が少なく、同じことを繰り返しているような重複感がややあります。
 この研修会が開催された季節の景を少し入れるなどすると、空間的な広がりも生まれますから、転句の「詩歌朗朗乾坤撼」という思いがより生きてくるように思います。

2005.12. 2                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第153作は サラリーマン金太郎 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-153

  秋社        

家家燈火夜来昌   家家の燈火 夜来昌んに

新調旗翻風早郷   新調の旗は翻る 風早の郷

鼓聲鳴響天方曉   鼓聲鳴り響きて 天 まさ

帯日神輿舞鳳凰   日を帯びて神輿の鳳凰舞ふ

          (下平声「七陽」の押韻)

<解説>

★秋社  =ここでは古代風早国(旧・北条市)総鎮守。
       国津比古命神社・櫛玉比売命神社の秋祭りを指す。
★家家燈火=氏子の玄関や門前に掲げる御神燈(提灯)
★新調旗 =昨年平成16年10月町内会で祭幟を新調しました。 ★転句  =午前6時御両社から4体の神輿が町内へ宮出しします。
       それを告げる神職が打つ神鼓によって、まさに夜も明けました。
★結句  =旭日」を背に神輿が元気よく町に繰り出していきました。
       鳳(オス)凰(メス)の瑞鳥。神輿のてっぺんの飾り

<感想>

 この詩は、承句と転句の粘法が崩れた「失粘」の形ですね。本来ですと、「承句と起句は二四六字目の平仄が逆でなくてはいけない(粘法)」、別の見方で言えば、「前半の二句と後半の二句は平仄を逆に並べる」のが決まりです。
 失粘の詩は古典作品にも見られます。中唐の韋応物の詩を私の本では紹介しました。
 滁州西澗    
   独憐幽草澗辺生●○○●●○◎     独り憐れむ 幽草の澗辺に生ずるを
   上有黄鸝深樹鳴●●○○○●◎     上に黄鸝の深樹に鳴く有り
   春潮帯雨晩来急○○●●●○●     春潮 雨を帯びて 晩来急に
   野渡無人舟自横●●○○○●◎     野渡人無く 舟自ずから横たはる

          (下平声「八庚」の押韻)

 この詩では、承句の「調」の平仄は大丈夫でしょうか。また、転句の「方」は冒韻です。

 転句の描写は生き生きとしていて、祭りの躍動感がよく出ていますね。読んでいると、何となくワクワクしてきます。
 結句の読み下しは、「日を帯ぶる神輿 鳳凰を舞はす」とした方が勢いが表れるでしょうね。

2005.12. 2                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第154作は 深渓 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-154

  時事偶感        

釣魚竹島係争騒   釣魚 竹島 係争騒がしく

韓日中臺風浪高   韓 日 中 臺 風浪高し

領有主権千載恨   領有の主権 千載の恨み

是無對策欲何逃   是れ對策無く 何れにか逃れんと欲す

          (下平声「四豪」の押韻)

<解説>

 [語釈]
 「釣魚」:尖閣列島。
 「竹島」:島根県沖。
 「係争騒」:争いの的となっている。
 「韓日中臺」:韓国・日本・中国・台湾。
 「千載恨」:永遠の課題。

<感想>

 題名のように、こうした時事問題を扱った詩は表現が難しいですね。率直な感想が、相手に対してどう伝わるか、そうした吟味が必要になるからです。
 今回の詩では、転句の「千載恨」が問題でしょう。歴史的に見た時に、領土問題として「千載」と言っていいのか。あるいは、将来的に「永遠の」課題だとお互いに思っているのかどうか。
 また、承句の「韓日中台」の具体的な国名を出す必要があるのか、も検討事項でしょうね。
 「釣魚」「竹島」とあり、固有名詞ではあっても海を表す言葉が起句に二つ入っていますので、それを効果的に使えないでしょうか。承句の末部「風浪高」につながるのがベストだと思います。

2005.12. 2                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第155作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-155

  過寂光院     寂光院に過ぎる   

曾流紅涙赤間宮   曾て紅涙を流す 赤間宮

憑弔大原悲又同   大原に憑弔すれば 悲しみは又同じ

兵馬東来若豪雨   兵馬東来 豪雨の若く

竜舟西幸御長風   竜舟西幸 長風を御す

可憐幼帝崩壇浦   憐れむべし 幼帝壇浦に崩じ

平氏栄華朝露空   平氏の栄華 朝露空し

樗散無成蠹魚子   樗散蠹魚子と成る無かれ

軍書使我激胸中   軍書は我をして胸中を激せしむ

          (上平声「一東」の押韻)

<解説>

 ずっと以前に七言絶句で作ったものを、昨年律詩にまとめました。今年NHKが「義経」を放送しているのをみて、送りました。

<感想>

 大原寂光院が火事によって本堂を焼失したのは、もう五年程前になるでしょうか。建礼門院が余生を過ごした時代のままに残っていた建物は、私が十年以上も昔、まだ火災に遭う前に訪れた時には、静かな大原の山の情趣の中に溶け込むような姿でした。
 NHKの放送を私は最近見なくなりましたが、ドラマの方はもう壇ノ浦の合戦から義経の逃避行へと移って行ってるようですね。

 『平家物語』や謡曲でも知られる「大原御幸」の場面は誰もが涙するところですが、この詩でも「大原」が登場していますね。固有名詞ではありながら、「憑弔大原」の言葉は、自然の中での人の営みのはかなさを感じさせるものになっていますね。

 尾聯に用いられている「樗散」「無用の人物」のことですが、ここでは下句にある「我」を指します。「蠹魚」「本を食べるシミ」ですが、この場合は「読書にのみふける人」のことですから、ここは、自分自身に向かって「本の中に埋もれるな」と檄をふるっているのでしょう。

 「壇浦」「平氏」は、こうした歴史関係の詩ですと避けられないのですが、それでも固有名詞がやや気になるところです。先ほどの「大原」のように、句意と調和していれば問題ないのですが、日本の地名が唐突な印象を与えることもよくあります。固有名詞がどうしても必要かどうかを検討してから使うようにしたいところです。

2005.12. 2                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第156作は 井古綆 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-156

  腰越状        

負荊峻節既遭軽   負荊の峻節は既に軽んぜられ

書状空為骨肉争   書状は空しく骨肉の争ひと為る

悲満芳山静姫別   悲しみは満つ 芳山に静姫と別れ

衷通安宅判官行   衷は通ず 安宅に判官は行く

諸州鎮乱敷新政   諸州鎮乱して 新政を敷くも

累代鬩牆徒並塋   累代鬩牆げきしょう 並塋を徒にす

鎌府卅年源統絶   鎌府卅年 源統絶え

絶今誰注鶺鴒情   絶えて今誰に注がん 鶺鴒の情

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 詩嚢を探していたら、たまたまこの詩が見つかりました。源平に関する詩はいくつか作りました。時あたかもNHKが「義経」を放送しているので送ります。

<感想>

 源平の関係の詩を並べました。私たちがこの時代の出来事を知るのは、ドラマや演劇、本や謡曲など、さまざまな形からによるのですが、一貫した時間の流れを見るのではなく、場面場面を切り取るようなことが多いでしょう。
 「勧進帳」や「俊寛」を見たり、「大原御幸」や「鹿ヶ谷」を読んだり、そうして蓄積された知識を統合していくわけで、井古綆さんの今回の二作も同じ様な味わい方になりますね。

 頸聯の「鬩牆」「同じ垣根の中の争い」ということで、「兄弟喧嘩」を表しています。「徒並塋」は、「徒に塋を並ぶ」と読むべきでしょうが、対句の関係で書き下しのようにしました。ただ、ここは対句としては対応はどうでしょうか。

 最後の「鶺鴒情」は、「頼朝と義経の兄弟の心」ということですね。

2005.12. 2                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第157作は 鮟鱇 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-157

  莫忘塞班島        

“大和撫子”抱嬌嬰,   大和撫子 嬌嬰きょうえいを抱き,

濤洗懸崖投赤誠。   なみ洗ふ懸崖けんがい赤誠せきせいを投ず。

戰陣訓詞輕性命,   戰陣の訓詞は性命を軽んじ,

皇軍忠義紊人情。   皇軍の忠義は人情をみだす。

虜囚恥辱化凶器,   虜囚の恥辱 凶器と化し,

狷者狂槍穿血腥。   狷者けんじゃ狂槍きょうそう 血腥けつせい穿うがつ。

時有蕭娘猶豫處,   時に蕭娘しょうじょうの有りて猶予する處,

可憐被彈墜滄溟。   憐むべし 被彈して滄溟そうめいに墜つ。

          (下平声「八庚」「九青」、現代韻による押韻)

<解説>

 [語釈]
 「塞班島」:サイパン。
 「嬌嬰」:可愛らしい赤子。
 「懸崖」:断崖。
 「戰陣訓詞」:戦陣訓の言葉。
 「性命」:生命。
 「狷者」:かたく志を守るが偏屈な者。
 「狂槍」:槍は銃。
 「血腥」:血なまぐさいこと。
 「蕭娘」:娘
 「猶予」:ためらう。
 「滄溟」:青海原。


 サイパンの悲劇を扱ったNHKのドキュメンタリーを見て改めて戦陣訓を読み、書いた作です。現代韻で書いています。
 7月9日は、サイパン陥落の日です。漢詩ではありませんが、次の思いがあります。

      短歌・サイパン 十首

  和歌あらば生まるる前の戦争も千代に八千代に歌ひつぐべし
  わが魂はいかなる女の転生か夢に崖あり青き海原
  戦ひは負けとわかれば止むべきに女らサイパンの崖に飛ぶ
  崖に飛ぶ影は鳥にはあらずして赤子抱きたる大和撫子
  波洗ふ崖に飛び降る女をり飛べぬ女を撃つ兵士をり
  泣く子あり虜囚の恥を受けぬため殺す母あり殺さすは兵
  東条は戦陣訓に自決説き婦女らは飛べりバンザイクリフ
  生き恥をさらすは真に恥なりや東条生きて婦女ら自決す
  敷島の櫻が望むはずはなし婦女ら飛び散るバンザイクリフ
  鎮魂はそれで終りか窮むべし責むべきとがの風化すまじを

<感想>

 崖の上から、小道を小走りに来た婦人がそのまま海へと墜ちてゆく・・・・
 サイパンでの戦争記録フィルムの映像は、それを見た瞬間から、人の脳裏から消えることはないでしょう。何が、誰が彼女たちに自決の道を選ばせたのか、幾度となく繰り返されてきた問を、改めて思います。
 高校生に「バンザイクリフ」の話をすると、サイパン島の悲劇をほとんど知らない彼らは、初めは驚き、やがては切なく哀しい目をします。その目を失わないことだけでも、現代の若者を信頼したいという気持ちになります。

 首聯の“ ”付きの「大和撫子」の言葉が、この詩の主眼。“ ”がついた理由が以後に解かれていくという、論文で言えば「頭括式」の展開ですが、句を重ねるにつれ、漢語の力強さが胸の中に罪の重さを訴えてくるような思いがします。
 添えて下さった短歌十首を併せて読むと、漢詩と短歌の表現の違いがよく分かります。五首目の
   波洗ふ崖に飛び降る女をり飛べぬ女を撃つ兵士をり
 は、印象深い歌ですね。

2005.12. 4                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第158作は 登龍 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-158

  江村暮景        

夕陽漸没火雲收   夕陽漸く没し 火雲收まり

重畳清漣散積憂   重畳清漣 積憂を散じ

満袖好風涼氣足   袖に満つ好風 涼氣足り

傾杯望月棹輕舟   杯を傾け月を望み 輕舟に棹さす

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

 夕日がだんだんと沈んで日照りの雲が収まり
 幾重にも重なった清らかな漣は積もった憂さを晴らす
 袖に満ちた好風は涼気が足り
 杯を傾け月を眺め輕舟に棹さして進む


<感想>

 承句は良い句ですね。昼の熱気が静かに去っていくのが、手に取るように分かります。それを受ける転句も力があって整っています。「涼気足」が起句の「火雲収」との対応で、変化が弱いように思います。

 結句は、蘇軾の「赤壁賦」を髣髴とさせるような余韻がありますが、やや素材が欲張りすぎたかもしれませんね。

2005.12. 5                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第159作は 柳田 周 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-159

  暇日出遊     暇日の出遊   

近時暇日出遊稀   近時暇日に出遊すること稀なり

百歩経寛喘汗衣   百歩すで喘汗ぜんかんの衣をゆるくす

此態豈惟因到老   此の態豈に惟だ老いに到るにるのみならんや

朝雲去忽夏炎威   朝雲けば忽ち夏の炎威

          (上平声「五微」の押韻)

<解説>

 (語注)
「暇日」:休日
「喘汗」:喘いで汗をかく
「夏炎威」:「夏炎=夏の暑さ」も「炎威=烈しい暑さ」も共にあるので、ここでは「夏の炎威」と訓じました。「夏炎、威なり」と訓んでもよいかも知れません。


<感想>

 前の登龍さんの詩の裏バージョンのようで、夏の朝の暑さがじわーと感じさせられる詩ですね。
 とりわけ、起句の「近時暇日出遊稀」は、「もう暑くて出歩くのも億劫だ」という炎暑の感慨がそのまま描かれていて、実感を伴う句です。

 転句の「此態豈惟因到老」は、全体の中での句意として実質的には何も言っていないのに等しいのですが、モヤモヤとした句に「やれやれ、まったく、いやになるよ」というぼやきが言葉に表れているような感じがして、面白いですね。
 そのつながりで言えば、結句の「去忽」はすっきりと、熟語で描きたいところでしょう。

2005.12. 5                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第160作は 真瑞庵 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-160

  六十三翁書懐 その二        

両鬢繁霜満面皴   両鬢の繁霜 満面のしわ

逸居三歳繋匏身   逸居三歳 匏身ほうしんを繋ぐ

硯海筆芒凝墨滓   硯海 筆芒 墨滓ぼくしを凝し

案机書篋積黴塵   案机 書篋しょきょう 黴塵ばいじんを積む

朝来欲雨忽田事   朝来 雨ならんと欲して田事を忽にし

盡日自斟酖醪醇   盡日 自ら斟んで醪醇に酖ける

酔裡微吟陶潜賦   酔裡 微吟 陶潜の賦

胸中悾偬老愁頻   胸中 悾偬として 老愁頻りなり

          (上平声「十一真」の押韻)

<感想>

 「晴耕雨読」ならぬ「晴耕雨酔」という感じでしょうか。最後の句の「老愁」は、どうも実感がわきませんね。こういう生活が送れるのなら、老も悪くないかな、などと思ってしまいますよ。
 こうした生活には「陶潜」がふさわしいのですが、ただ、あまりにも付きすぎる感もあります。他の句で十分に真瑞庵さんの世界を描き切っていますから、ここで「陶潜」の名を借りなければならない理由は無いでしょう。逆に言えば、「陶潜賦」によって、一般的でお約束のような収束になっているのではないでしょうか。

 第四句と第六句は、平仄に乱れがあると思いますので、ご確認ください。

2005.12. 5                 by 桐山人


真瑞庵さんからお返事をいただきました。

 いつもお世話に為ります。
 小生の拙詩「六十三翁書懐其の二」の平仄の誤謬、まことにお恥ずかしい限りです。注意力散漫に為るほどの老いとは思ってはいないのですが。

「案机」「机筳」
「醪」「醸」 と訂正させていただきます。

 陶潜の賦は常套句に過ぎるとのご指摘、又老愁の語句についてのご感想。有難うございます。
 陶潜の賦の語句を用いましたのは、彼が官職を退き、田舎に隠棲後も貧に直面しながらも、家族を養うため日々農作業に精を出し、ある種の生きがいのある生活を営んでいたのではと思ったのです。
 それに引き換え、小生は何をするのにも投げやりで、日々無為に過ぎ、役立たずの老人になっていく(匏身)、そんな気持ちを「老愁」と表現したのですが、小生の詩の拙さの故か小生の思いが十分表現出来なかったのだと反省しています。更なる推敲を試みます。
 今後ともご指導のほどお願いいたします。

2005.12.16                 by 真瑞庵





















 2005年の投稿詩 第161作は 欣獅 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-161

  登薊岳     薊岳に登る   

孟夏入山荷壓肩   孟夏、山に入りて荷は肩を壓す

巍巍翠嶂路通天   巍巍たる翠嶂、路は天に通ず

跨根攀石終窮頂   根をまたぎ、石をじ、ついに頂を窮む

恍惚暫眺雲岫邊   恍惚として、暫し眺む、雲岫の邊

          (下平声「一先」の押韻)

<解説>

 今年の夏は、奈良と三重の境にある薊(あざみ)岳に登ってきました。
 知命を越えてℓのザックは荷が重すぎ、肩に食い込みました。頂上付近は、急な岩場が多く、承句・転句のような情況でした。
 しかし、苦労して登りつめると筆舌に表わし難い喜びがあるのは、いつもながらに不可思議な山の持つ力だと感動します。結句でその辺を表現しようとしたのですが、うまくいったかどうか。
 ご批評を頂けましたら幸いです。

<感想>

 欣獅さんからの投稿は一年ぶりにいただきましたが、掲載が遅れてすみませんでした。

 結句に工夫をしたとのことですが、苦労して上り詰めた感慨がよく表れているのではないでしょうか。「暫」は行為を表すには弱いので、ここは「惟」あたりの言葉で強調しても良いでしょう。

 起句の「孟夏入山」は、やや説明的な印象ですね。書かなくても「孟夏」だと感じられるような記述を狙う方がいいでしょう。
 平仄の点では、起句の「荷」は、「荷物」の意味ならば仄声ですので(「はす」ならば平声)、「四字目の孤平」になっていて禁忌です。
 また、結句の「眺」は仄声ですので「二四不同」の原則が崩れています。「望」に換えるべきでしょうね。

2005.12. 5                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第162作は横浜市にお住まいの 高橋 子仲 さん、七十代の方からの投稿作品です。
 

作品番号 2005-162

  電影 "希特勒 最后的十二天"     映画 ヒトラー最後の十二日間   

総統秘書終局知   総統の秘書 終局を知り

腹心離反混迷帷   腹心は離反す 混迷の帷

結婚自決挽歌没   結婚 自決 挽歌は没し

唯一殉名"乎別吹"   唯一の殉ずる名は"乎別吹"

          (上平声「四支」の押韻)

<解説>

 最近先生の著書を拝見し、大変参考になりました、私は漢詩は数年親しまないと初歩の段階を越せないと思います。
 なお、中国の方と接しますと、現代の中国漢詩は、平仄なり固有名詞の使い方が日本と異なり、伝統的な日本漢詩は中国との乖離があるとのことでなるべく中国の方と接したいとも思います。
 添削なりご批判いただければ幸です。今後とも宜しくお願いします。

 ヒトラーの終局はタブーであったが、秘書は真実を語り映画になった。
あくまで徹底抗戦を主張し、自決の総統。歴史的にも興味あり、映画鑑賞した印象(真実)を書きました。

 これは、漢詩の題材にはなりにくいと思いますが、ご批判下さい。
 なお、固有名詞には ""を付ける "希特勒"Adolf Hitler、 "乎別吹"Joseph Gebbels このように中国人から言われました。  [大意]
 総統の秘書は終局を知る (彼女のみ終局の真実を知る)
 腹心は離反し混迷の軍営
 エバとの結婚そして自決、挽歌は無く
 唯一人ナチ総統に殉じたのはゲッペルス

<感想>

 初めまして。よろしくお願いします。
また、私の本も読んでいただき、ありがとうございました。

 送っていただいた詩は、確かに漢詩にはなりにくい題材だと思いますが、それは古典詩の中で見た時の違和感であり、このサイトで見る限りでは、大丈夫ですよ。

 漢詩が何を描くのか、については、皆さんそれぞれに色々な思いがあるでしょうが、このサイトでは出来るだけ幅は広く、敷居は低くありたいと思っています。ベテランの方から初心者の方まで、風雅を求める詩も現代の時事を扱う詩も、誰もが漢詩を楽しみ、味わえる場であることが、私の一番の希望ですので、遠慮なくご投稿ください。

 さて、詩の内容としての私の感想ですが、結句の記述にやや疑問を持ちました。転句までがヒトラーを描くという姿勢ですので、結句も出来れば彼の感慨を述べる形が望ましいでしょう。「唯一ゲッペルスが殉じた」と歴史家のような記述が来ると、「だから、ヒトラーはどうなの?」という気持ちが起きます。つまり、作者はこの詩で人物について描きたいのか、歴史を語りたいのか、その辺りがモヤモヤっとしてくるわけです。
 勿論、歴史事実をそのまま描くという詩もあるわけですが、この場合、映画を御覧になっての感懐ということなわけですから、登場人物の内面にもっと迫るような展開を期待したいですね。
 あと、転句は、「結婚」「自決」「挽歌」と並んだ言葉を関連づけて理解するのは、三題噺のようで難しいですね。「結婚」を削る形で整理されると良いのではないでしょうか。

2005.12. 8                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第163作は 枳亭 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-163

  八十歳感懐        

昔蒙戦禍惨悲盈   昔 戦禍を蒙りて 惨悲盈ち

今飽平和汚濁呈   今 平和に飽きて 汚濁あらはる

仍欲長生忍塵世   仍長生し 塵世を忍ばんと欲せば

須從天則篤人情   須く天則に従ひ 人情に篤かるべし

          (下平声「八庚」の押韻)

<解説>

 八月に八十歳を迎え、過去、現在そして短い将来に思いを馳せた。
 軍隊にも行き、生と死の間をさまよい、飢餓と窮乏に耐えて生き抜いた。今、平和呆けしたのか、私利私欲に走り、心を失い、殺人は日常茶飯事、大変な世の中になった。これからの残生は、ゆったりと自然に合わせ、人情豊に生きなくてはならんな。と考えた次第。

<感想>

 傘寿をお迎えになられたのですね。おめでとうございます。

 現代を考えた時に、仰るとおりに、必要なのは「人としての心」だと思います。
 「思いやり」という言葉は、本来は「思ひ」を「遣る」、つまり、自分の心を相手に送るわけで、相手の立場や気持ちになって物事を考えることがその意味です。体力的、社会的に弱い立場の人を見たら「思いやり」の心を持って行動する、それは当然のことであり、最低限守るべきものだという共通認識がかつてはあったと思います。現代の社会に対する私たちの不安は、その共通認識が崩壊することへの恐れなのかもしれません。
 誰が、どのような形で守っていくのか、と言えば、今を生きている私たちみんなの責務なのでしょう。枳亭さんの仰るように、生き方や心の在りようを自らが実践すること、そこから一歩が始まるのだと思います。

2005.12. 8                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第164作は 琢石 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-164

  金比羅宮蹴鞠        

蝉吟七夕衆囲庭   蝉吟 七夕 衆 庭を囲み

蹴鞠掛声相和馨   鞠を蹴る掛声 相和してかんば

冠帯蛾眉千古誘   冠帯の蛾眉 千古に誘なひ

賽人騒擾夢中聴   賽人 騒擾 夢中に聴く

          (下平声「九青」の押韻)

<解説>

 年四回催すうち7月7日の七夕蹴鞠にいき、巫女の古式ゆかしい装束で鹿皮の鞠を蹴る儀式に、暫し千古に浸りました。

<感想>

 「七夕蹴鞠」という名称を聞くだけでも、優雅な雰囲気が漂いますね。転句の「千古誘」も、なるほどと納得できる詩ですね。

 部分的には、承句の「馨」は、香りを表す言葉です。「声が馨し」ということですので、「香りが遠くまで漂うように、声も遠くまで響く」という意味でしょうね。ただ、その使い方が読者に伝わるかどうかですね。
 結句の「夢中」は、漢詩では字の通り、「夢の中」ということですから、ここでは「夢を見ているような気持ちで聴いた」となります。「熱中して」という意味ですと、日本語用法になります。

2005.12. 9                 by 桐山人





















 2005年の投稿詩 第165作は 知秀 さんからの作品です。
 

作品番号 2005-165

  対月有感        

玲瓏月白入新秋   玲瓏月白く  新秋に入る

淡淡天河露自稠   淡々天河 露自づからしげ

寂寂吟辺懐君切   寂々吟辺 君をおもふ切なり

依稀相思更何尤   依稀たり相思 更に何をかとがめん

          (下平声「十一尤」の押韻)

<解説>

  月白く 新しき秋

  天の川 露を降らしむ

  寂しさに 君を思へば

  恋に似る さなり とがめじ


<感想>

 前半の二句は透き通る風が感じられるような趣がありますね。特に、承句は「淡淡」の言葉が生きていて、秋に向かいつつある夜空の星のほのめきが感じられ、味わい深い句です。

 転句の「君」は誰を指すのでしょうか。後半の二句は、思わずため息が出てしまうほどのつややかさで、このあたりは知秀さんのまさに狙いどころでしょう。
 転句は、言葉が自然に口に浮かんでくる好い句ですね。

2005.12. 9                 by 桐山人